今月は満月前に吸血が済んでいたため、シンイチは人狼が満月の夜に行う集会へ久しぶりに顔を出した。
そこでタケノリとミヤマスたちにつかまり、酒を酌み交わしながらこれからの人狼社会について大いに語り合った。夜が明けて集いがお開きになってもなお話し足りないタケノリは、逃げそびれたシンイチを強引に己の邸宅まで引っ張っていった。
朝食室で二人それぞれにチーズや生ハムをパンに挟んで食べていると、カジュアルなドレスをまとったアヤコが姿を表した。この夫婦も人狼の生活時間帯に吸血鬼が合わせているようだ。
「おはようございます、お久しぶりですねシンイチさん。こんなとこじゃなくてダイニングルームでうちのシェフの手料理を食べて下さったらいいのに。タケノリさんったら気が利かない」
ウェーブが美しい長い黒髪とはっきりした面立ちの美女の登場に場が一気に明るくなる。吸血鬼は見目麗しい者が多いが、欲目抜きにしてもアキラやアヤコは格段に華がある。
シンイチはナプキンで口元をぬぐい、立ち上がってアヤコの手の甲へ挨拶のキスを落とす。
「おはようございます、お邪魔して勝手にいただいてました。朝食は俺が軽くていいと言ったからなんで、気にしないで下さい」
「しかもこいつ、朝飯食い終わったら帰るとかそっけないこと言ってんだぞ。引き止めてくれ」
「それはいけないわ〜。とーっても久しぶりにいらして下さったのに。そんなにアキラさんに早く会いたいのかしら」
「そういうわけでは。それに今帰ったところであいつは寝てますよ」
「じゃああいつが起きる頃までは俺達と飲めるってことだな。おい、場所変えるぞ」
「はーい。先月もらった美味しいワインを開けましょ。ゆっくりしていって下さいね」
綺麗にカールされた睫毛が放つウィンクに、シンイチは苦笑を返すしかなかった。
歓談の場は彼女が選んだ沢山の絵画が飾られているドローイングルームに移された。話の端々で仲睦まじさを感じさせるアカギ夫妻の様子に、何度かアキラの顔が浮かんでいたシンイチは、いつかアキラ以外の吸血鬼に問える機会があればと考えていたことを思い出した。
「唐突だがきいていいだろうか。不躾な質問だったらすまないが」
「あら私になんて珍しい。何かしら」
「吸血鬼のみが行える魔法……のような特殊な契約について。俺はよく知らないので、教えていただきたい」
アヤコの表情が怪訝そうなものから腑に落ちたものへとゆっくりと変化する。
「シンイチさんはアキラさんが契約を行ったのを見たことがあるのね」
身に覚えがあり、コリンとも交わしたことをアキラ本人からも聞いているシンイチは頷いた。
タケノリが太い眉根を寄せてアヤコへ尋ねる。
「そんなもの自体が初耳なんだが。それは普通の書面によるものとどう違うんだ?」
「契約内容自体は書面で交わすもの同様に様々よ。違いは、契約を行うことがまずとても難しいこと。そして契約を破った側は肉体的に直接ダメージがくることね。書面は破られても属する種族の法で裁かれるだけでしょ。でも吸血鬼が魔術で行う契約に法は関係なくて、破った者の心臓や体に何らかの支障が出るの」
「随分と物騒だな。心臓では不死者であれど普通には暮らせまい」
夫の呟きに彼女が頷き返すのを見てから、シンイチは更に質問を重ねる。
「もし片方の不可抗力や事故で契約が不履行になった場合は?」
「理由じゃないから。不履行にした側が問答無用で即、どこにいようと無事じゃいられないわ」
げんなりした顔でタケノリは背もたれへ深く沈んで、呆れた声を上げた。
「そんな物騒な契約をわざわざする奴などおらんだろ」
「そうね。それにまず契約を結ぶのにお互いの能力が同程度で、なおかつ高いレベルで必要というだけでも無理な話だもの。そうそう誰でも行えるものじゃないのよ」
「……でも絶対に契約を破らせないためなら、書面より確実ではある」
シンイチの呟きにアカギ夫妻は目を見合わせた。
「まあ……利点があるから、大変で物騒でも使われているのだろうな」
「でも普通に暮らしていれば書面で十分よ。実際、私の周囲で行った人の話はもう長いこと聞いたことはないわ」
綺麗に塗られた赤紫色の唇を少し尖らせながらグラスにワインをそそぐ妻に、夫が意地悪そうに笑う。
「その口ぶりだとお前はその契約を行ったことは一度もないわけだ」
「そーよ。なによ、私の能力が低いと思ってるんでしょ! 私は普通より少し高い方ですからね。味覚だってあるでしょ」
「違う違う。そんなのを交わすことなく平和に暮らせてなによりだと言っとるんだ」
「嘘ばっかり! 大体ねえ、契約を行えるほどの高い能力者なんて」
テーブルに両手をついて言い募ろうとするアヤコへシンイチが静かに片手を挙げる。
「もう少しいいだろうか」
取り乱したバツの悪さか、彼女は乱れていない髪を手櫛で少し整えると、鮮やかな唇で「どうぞ」と笑みを作った。
「今の話を聞くに、契約を交わす相手の牙が両方失われていて、自分も片方しかない場合でも成立するのは珍しいケースなのかな。それだと契約を結ぶ者同士の能力は拮抗してるとは思えないから」
アヤコの長い睫毛が音を立てそうなほどに何度も瞬きを繰り返す。
「……それってまさか、片方の牙の方がアキラさんで、両方牙のない誰かとの話……?」
声を潜めて口にするアヤコの目が不安そうに揺れている。
「……やはりそれらは通常では考え難いものなんだな」
己の体を両腕で抱いたアヤコはぶるりと大きく身震いをした。
「聞いたことがないわ……そんなに能力差があるのに契約を結べるなんて。それってアキラさんが相手の不足分までも自分で補って強引に結びつけたってことよ……。そんなこと始祖エウノーイ以外にできる者なんて……。しかも片方の牙しかない状態ということはエウノーイより……」
ほぼ独り言のように言葉を紡いだアヤコは唇をきつく閉ざした。
首をすくめて自分の両手で両腕を寒そうにさする妻にタケノリは己の上着をかけた。ビクリと大きく肩を震わせた彼女は夫の目を見つめてから、その広い胸板へ乱暴に飛び込んだ。気心の知れた客の前といえど、彼女らしからぬ行動に男たちは僅かに目を瞠った。
「すまんが、この話は今日はもう終わりにさせてもらおう。続きはまた別の機会にでも」
「だ、大丈夫よ私は」
答えるアヤコの怯えきった瞳はシンイチに向けられてはいるが、その姿を通してアキラを見ていることは明らかだった。
「いや、こちらこそあれこれ聞いてすまなかった。もう契約についての話しは聞かない」
「待って、なんだって答えるわ。私が知っていることは全て! 隠したり誤魔化したりなんて絶対しない……私は貴方たちに歯向かう気持ちなど全くありませんから!」
「アヤコ……落ち着け、大丈夫だ。ここにはお前以外の吸血鬼はいない」
逞しいタケノリの腕にすがる細いアヤコの指は震え、爪が食い込まんばかりに力がこめられている。その痛々しいまでの恐怖心を鎮めるべく、彼は彼女の頭部を人目から隠すようにすっぽりと抱きくるむ。
「怖い思いをさせて本当に申し訳なかった……。もう二度とこの話はしない。もちろん、俺もアキラも貴方たち夫妻に今後も一切害をなさないことも約束する。今日はこれで失礼させてもらう。またいつか改めてお詫びに伺わせて」
「詫びなどいらん。そんなに気にせんでいいからな。また寄ってくれよ」
シンイチの言葉を遮ったタケノリと腕の中で震える人へ深く黙礼をして、シンイチは足早にドローイングルームをあとにした。
閉じた扉の向こうから聞こえる子供のような泣き声から逃げるように。
視界は木々の枝葉によって遮られ、日差しが届く場所は限られている。まだ日は沈んでいないのに薄暗い森の中を、口に衣類を咥えた金色の狼は速度を落とすことなく走り続ける。彼の伴侶が待つ城─── 二人の家へと。
危険な物でも、それが危険だという知識がなければただの物だ。そういえばアキラは出会ってから暫くはよく、『俺が怖くないの?』と聞いてきていた。
コリンのような変わり者にとってはアキラの能力の高さは崇拝すべきものであり、利用したい危険な兵器のようなものなのだろう。しかしアヤコのように一般的な吸血鬼にはただただ恐怖を与える危険なものでしかないのだと、今更ながら理解した。
(アキラの能力について無知過ぎる俺の落ち度だ……)
アヤコはもうアキラには怖くて近づけないかもしれない。どちらにも申し訳ないことをしてしまった。こんなことになるなら、アキラ本人に直接聞けば良かった。
(いや、聞けなかったから他の吸血鬼に聞こうとしたんだ)
アキラと付き合って最初の頃は吸血鬼であれば契約はごく簡単にできるものだと思っていた。なんでもないことのように契約を行っているように見えたから。しかし長く一緒に暮らすようになって初めて、僅かだが他の吸血鬼の言動を見聞きする機会が増え、契約を行うには能力や体力が必要なのではないかと考えるようになった。そのせいでますます、直接聞けなくなったのだった。
アキラが己の能力を説明する時もなくはないが、それは俺を納得させる必要に迫られた場合のみで、極力話したがらない。
言いたくないことを無理に言わせたくはない。誰もが言わずにいられるなら言いたくないことのひとつやふたつあるものだから。
(そう思っていたならば、知らないままでいれば良かったものを)
後悔したところで、もうどうにも出来ない。彼とって数少ない同族の友達を俺が失わせてしまったと思えば、申し訳なさに走る足が止まりそうになる。
気が重い。怒ってくれれば何百回でも謝れるが、きっとアキラはけろりとした顔で『まあ知っちゃったら普通そうだよね。アヤコさんから会いにくるまで、俺からは近づかないでおくよ』とでも言いそうだから。
「タケノリにも悪いことをしたな。……己の無知と怠惰から、皆を傷つけてしまった」
灰色の雲が空を覆い、ますます陰鬱に染まりゆく森の中で、衣類を咥えたまま呟いたくぐもった声音もまた、すぐにかき消されていった。
* * * * * *
帰宅したシンイチを一番に出迎えたのは使い魔ではなくアキラだった。
「お帰り〜。てっきりタケノリさんかミヤマスさんにつかまって今日は帰れないかと思ってた」
帰ってきてくれて嬉しいよとシンイチの頬へキスまでしてきた。
この上機嫌を損ねるのは惜しいが、それよりも言い出しにくくなる前にとシンイチはアキラに向かって直角に腰を折る。
「すまん! 俺が無知なせいで、お前の能力の高さをアカギ夫妻に話すことになってしまい、アヤコさんを怯えさせてしまったんだ」
がばりと上体を起こし、呆気にとられているアキラの目をしっかりと見据えてから、再び深く頭を下げる。
「あの怯え方では、もう暫くは会いに来なくなるだろう。お前の数少ない友を失わせて本当にすまない。このとおりだ」
「あらまあ。アヤコさん可哀想に。あ、今晩は熊肉のシチューにしない? 先月仕掛けた罠に熊がかかったって、パリルとリミカが報告してきたんだ」
シンイチの頭を上げさせながら、アキラは少し浮かれた感じで使い魔の名をリズミカルにつげた。
「……くま?」
「うん。大きくてあいつらじゃ運べないみたいだから、一緒に今から捕りにいこ?」
とどめも刺さないといけないよね、と続けるアキラをシンイチがまじまじと見つめる。
「お前から友人を失わせた俺への処罰は……?」
「は? アヤコさんはあんたの友達の妻でしょ。俺には友達なんていないよ?」
全く曇りも陰りもない瞳で首を傾げられ、人狼は一瞬目眩を感じた。
「…………そうきたか」
「どうきたのさ。それより俺の話聞いてた? 熊だよ、熊。久しぶりだよね」
味わう楽しみをすっかり覚えたアキラの声は弾んでいる。数年前に俺が仲間から熊肉をわけてもらってから、その濃厚さを殊のほか気に入ったのだ。臭みを消す調理をしても苦手な者もいる食材を好むなんて、実にこいつらしいと内心納得したものだ。
「そうだな、久しぶりだ」
「これで暫くは熊肉料理が楽しめるね〜。もう陽も沈んだし。さ、早く行こ」
アキラは「俺はもう用意はしてあるんだよ」と、凝った装飾が施されたコモードの上のタオルとチョコボンボンと赤ワインのボトルを指差した。森へピクニックにでも行くつもりかと普段なら突っ込んでいるところだが。
「……着替えてから縄と斧と台車を用意してくる。もう少し待ってろ。あと、お前ももっと汚れていい動きやすい服に着替えろよ」
「これ汚れても別にいいんだけど……了解。あ、ナツメグとオレガノの残りはどのくらいあったかな」
軽い足取りでキッチンへと向かう背中からは、同族にすらも恐怖と畏怖の対象となる者特有の威圧感的なものは微塵も感じられなかった。そして数少ない友を失ったことへの悲しみも。
(力が抜けた……。熊肉の解体は力仕事だし臭み取りは大変だが、今夜は格別上手い熊肉料理を作ってやらねば)
シンイチは苦笑いを零すと、玄関ロビーから二階へ続く螺旋階段に足をかけた。
* * * * * *
アキラに絶賛をうけながら熊肉のシチューを食べている間は薄れていた後悔が、やることがなくなって一息つくと一気にまた襲ってきた。
アヤコとアキラは確かに友というには微妙かもしれない。でも俺は知っている。人と縁を築くのを頑なに拒んできた男だが、成り行きでも結ばれてしまった縁は大事にする奴だと。自分を嫌っているジンをも『好いてないのはお互い様だし?』と気にせず、ノブナガと同様別け隔てなく家族として大切にしている。自分や伴侶に害を与えたコリンすらも昔のよしみか、なんだかんだいって見捨てていない。だからきっと今だってアヤコに何かあれば、シンイチの親友の嫁だからと当然のように助けに駆けつけるに決まってるのだ。
考えようによっては大変情け深い男なだけに、その貴重な縁をひとつ失わせたかと思うと、やはり心が激しく痛む。このままでは寝ても夢の中で懺悔して疲労が抜けないのは確実だ。
難しい本でも読めば内容に集中して読書の間だけでも楽になれるかと、シンイチは地下の図書室の扉を開いた。
サイドテーブルに本を積んだまま、長椅子で項垂れているシンイチの耳に笑っているような吐息が届いた。
のろのろと頭を上げて隣を見れば、目が笑っているアキラが肘掛けにもたれてこちらを見ている。
「……なにか面白いものでもあったか?」
「うん。そんなにわかりやすく落ち込んでるの久々だから、見てて面白い」
人狼はハッと投げやりな息を吐くと、長い足を放り出し背もたれへ深く沈んだ。今度は声をあげて笑われてしまう。
「そんな落ち込まないでよ。悪いのは俺なんだから」
「能力が高いのはなにも悪いことじゃない」
「いや、そっちの話しじゃなくて。悪いのは、あんたに直接質問させないような空気を作ってきた俺だって話。あんたは優しいから、聞かれるのを嫌がってると知りながら聞き出しはしないからさ」
「それこそ話が違う。全ては俺の無知と怠惰が招いた失敗だ。自分でもっと調べてさえいれば、相手を選ばず質問していいことかどうかくらい判断がついたものを」
お前は何も悪くないと呟いて所在なげにロックグラスをまわす人狼を、吸血鬼は愛しげに見つめる。
「契約のことを聞いたんでしょ?」
「……そうだ。本当にすまなかった」
「いいってば。そうじゃなくてね……聞けなかったでしょ、ホントに知りたかったことは」
手の中で遊ばせていたグラスを止め、氷とウイスキーだけがゆうらりと回るのを見つめたまま、人狼は口を閉ざしてしまった。吸血鬼はゆっくりと足を組み替えてから再び尋ねる。
「契約を行うことによって俺の体や能力にどういった影響が出るかを知りたかったんでしょ? 多分アヤコさんはやったこともないだろうから詳しくは知らなかったんじゃないかな」
違う? と瞳を覗き込まれて、シンイチは思わず驚きのままに頷いてしまった。
「あんたは本当に優しいよね……。俺の体を心配してたんでしょ。何度か相手が請け負う分も俺が担ったりしたから」
「……やっぱり……かなり体に負荷がかかってたんだな」
アキラは軽く肩をすくめて、なんでもないことのように言う。
「契約成立時に、契約内容に見合う能力と体力を代償にもってかれるんだ。片方に不足がでた分は、不足がない方から奪われる。相手の不足量によっては危険だから、行わない奴が多いね」
でも契約なんかよりもっとヤバい禁忌術なんかもあるんだよ〜そんなのは流石に俺も使ったことはないけど。などと呑気に続けるアキラの目の前で、シンイチの顔から血の気が失われていく。
シンイチが知る限りでもアキラより相手の能力がかなり低いか、全く契約能力のない吸血鬼以外の種族相手(人狼やオーク)しか契約を行っていないからだ。
「お……お前は……ポンコツボディのくせに何度…………ポンコツのお前が……」
唇を戦慄かせながら指までさしてくるシンイチへ、アキラはポンコツって二回言ったでしょ、酷いなあとカラリと笑った。
「だーいじょうぶだって。俺の能力半端ないから相手の分なんて必要ないんだ。体力が少ない時でも能力だけで補って余りある。それにあんたの血のおかげでもう体力に不安もないからね。命まで削るようなことにはならないよ」
同族にも恐れられるほどの俺だもん、ほとんどの契約はやり放題! と少し誇らしげな様子に、シンイチの額に血管が浮き出る。
「何言ってんだこの馬鹿! 指にささくれができなくなっただけの体力なしのポンコツが!」
「いや、いつの話してんのさ。それにね、あんたほど体力ある吸血鬼はいないから。人狼やオークやボブゴブリンの体力基準がおかしいから」
「そういう話じゃねえ! 自分を過信し過ぎだって言ってんだ!」
窓ガラスがビリビリと鳴るほどの怒鳴り声をくらい、目を点にした吸血鬼だったが。一拍おいたのち「うわ、怖。あんたが一番怖ぇわ」と楽しげに笑った。
珍しく激昂するシンイチを面白がっていたアキラだったが、急に真顔になって座り直した。
「あのさ。……なんか今なら言えそうだから、言っていい?」
尋ねられたシンイチは嫌な内容に違いないと感じつつも、聞かないよりはと頷いた。
「二年前かな。俺がコリンを訪問した帰りに、あんたが完全に金狼になったって話ししたよね」
覚えてる? と付け加えられてシンイチは再び首を縦に振った。
「あの時あいつはあんたを女性と一瞬間違えてた。俺も出会った時から人狼にしては随分といい匂いだと思ってたけど。結婚してから更に洗練されていって、とうとうコリンにすらも美しく香しいと……戦った当時のあんたの匂いの片鱗も感じ取れないほどに。見目だけでなく体臭までも大きく変化してしまったんだよ」
何かアキラ自身に関する重大な話かと身構えたが、自分の変化を挙げられたシンイチは拍子抜けする一方で不愉快さを隠せなかった。
「……その話を蒸し返すのを躊躇うのは当然だな。俺が喜ばない話題だ」
「違うって。もー。普通は見目麗しく良い香りになったと言われたら喜ぶもんなの。まあそれはいいや。そーじゃなくてね」
憮然としてしまった伴侶に苦笑いをむけると、アキラは少し眉尻を下げた。
「その変化はさ、俺に血を長年吸い取られて、なおかつ俺の毒を体内に入れられてきたせいだと思うんだ。人狼の血が薄まって、蓄積されていく毒を解毒しきれなくて、あんたの体が作り変えられていったんじゃないか……って」
身に覚えがあるのではと、黒い瞳が金の瞳を真っ直ぐに見つめることで問うている。シンイチは苦い顔のまま腕を組み黙することで認め、話を促す。
「それとね……それより数年前くらいから、自分でも内蔵や骨とかの回復力が落ちたって感じてない? 逆に皮膚や髪や体毛、爪なんかがやたらに伸びたりツヤがでたり、回復が早くなった気がしたりとか」
ますますシンイチの眉間の皺が深く刻まれていくが、アキラは困り顔ながらなおも続ける。
「年をとったのが理由なら、皮膚等の体表組織のみ活性化してることや体臭が良い方向へ変化してんのはおかしいよね。健康になったという理由も、内蔵や骨は弱って回復力が落ちているから当てはまらない」
「……さっきから何が言いたい。何故そんなに俺の体内の変化までわかるんだ? 俺はそういった話をしたことはないだろ」
自分の体に異変を感じだしたのは、アキラが言うように数年くらい前からだ。毒の影響もあるだろうが、老化だろうと思っていた。不死といっても死なず老いずなわけではなく、ただ人間の何倍も老化が遅く長生きなだけなのだから。
ただ体毛の伸びや色の変化など、老化で説明のつかない己の体のアンバランスさは気味悪くも感じていた。しかし確証が持てない話でアキラを不安にさせたくなかった。知ることで吸血や毒を控えられるのが嫌で、一度も話してはいなかったのだ。それなのに……。
「ごめんね……って、謝ってすむ話じゃないのはわかってる」
そう言いながら、アキラは静かに頭を下げた。
「どうした突然」
「俺がシンイチの厚意に甘え、愛し続けたせいだから。せめて数年前にあんたの外見が変わり始めた時点で吸血をやめていれば、少しは……」
再びうつむいていくアキラの手をつかんで、シンイチは顔を寄せた。
「それでか。それで数年前にお前、流石に違う味を飲みたくなったとか言って、何度も2月下旬生まれの人間を狩っては腹下してたのか。この馬鹿が」
「……その度に回復薬だっつって、無理やり俺に大量吸血させてくれるから。それじゃ意味ないからやめたんだよ……」
腹壊して弱ってる時にシンイチの美味しい血を差し出されたら、そんなん理性きかねーしと薄い唇を尖らせる。
「思い出したぞ……その頃だったか? いきなりふざけた別れ話をもちかけてきて、俺がこっぴどく叱ったのは。あれも今の話が原因か? この大馬鹿野郎が」
「…………だって物理的に離れないと自制できないから」
「お前は相当な馬鹿だが頭はいいからわかってたんだろ。お前が俺を吸血するようになってから数百年。身体的変化が起きたのはここ5〜10年。仮に毒の影響がなくたって人狼の平均寿命まで俺はあと50年もない。見かけはさておき、中身は相当なジジイだ。気付いた10年前から吸血されなくたって、何にもなりゃしないって」
「あはは。中身は確かにジジイだね。出会った頃は老け顔を気にしていたのに数百年前から逆転したよねぇ。そういや先月『これ着たら老けてみえるかな……』ってわざと爺くさい服着て会合に出かけてたっけ。似合ってなくて笑えたけど、あれ、人狼の皆さんの反応はどうだったの?」
シンイチの鉄拳がアキラの頭上に直撃し、痛みでアキラは声も出せずに頭を抱えてソファへ沈んだ。
「お前もわかってるから、ああいった馬鹿なことで気休めしてたんだろうが」
「す……数十年ぶりに拳骨くらった……痛ってぇ! 人狼ってホント野蛮。すぐ手が出る」
「すぐ手が出るとわかってて怒らせるな、ふざけた別居を告げられた時の俺にもう一度謝れ!」
「あれだって俺はかなり本気だったんですけど……。そりゃ焼け石に水ってわかってたけど。でも原因に気付いた以上は極力吸血や毒を減らせたら少しはって……思いたかったんだ」
わかりやすく呆れたため息を長く吐いた人狼は、拳骨を落とした頭部をいたわるように撫でた。
「本当に馬鹿だなお前は……。長寿もいいもんだと考えを変えられたのは、お前と出会えてからなんだぞ? 終わりが見えなかったオークとの戦いをお前が終わらせたことも、結婚も……あ」
「あ?」
一度口を閉じたシンイチがニヤリと笑う。
「礼を言わせたかったんだろ。お前のおかげで予想外に楽しく長生きできたし、アンバランスとはいえ若々しい見かけのまま人生を終えるのも案外面白そうだってな」
「はあ?」
「そんな遠回しに言わなくたって、俺は感謝は素直に口に出来る男だぞ」
「それは知ってるけど、遠回しって何? え? 急に話変わってない? 俺があんたに依存しきらなければ、こんな取り返しのつかない」
シンイチの唇がアキラの口を止めるように軽く重ねられ、また離れる。
「冗談だ、バカ。……照れ屋の俺にこれほど語らせておいて、お前が俺と結婚したことを今になって悔いてるなど聞かせるな。金狼になったことも内蔵や骨の衰えで寿命が早まることも、俺達が長く愛し合った結果ならば、自然の成り行きでしかない」
「シンイチ…………」
「それに俺がお前に吸血されるのも、毒をまわされて抱かれるのも好きだと、お前が一番知ってんだろうが。やめられたら俺だってつまらん」
「人狼って照れる場所がちょっと違うよね。セックスに関してはけっこう照れないのに、プロポーズとかすんごい遠回しだし。最近でこそ、甘い言葉も時折くれるようになったけどさぁ」
「肉体的な結びつきと精神的な結びつきは別だからな。セックスは愛情を与えあったり快楽を得る手段のひとつなだけだろ。ってそれより、」
「もうそろそろ寝る? 話し込んじゃったね〜」
話を露骨に切り上げたがるアキラに気付きながらも、シンイチは左右に頭を振る。
「俺のことはもういい。それよりいい加減、自分のことを話せ。俺の体のことをそこまでわかっていたんだ、お前自身の体のことをわからないはずがないだろ。隠すな。お前だって俺ほど顕著な変化ではないが、老けてないのは気付いてるぞ。それは吸血鬼の特性というわけじゃないんだろ」
「昔と変わらず美丈夫だなんて、照れるねぇ」
「茶化すな。俺の奢った考えではな、お前は人狼の血を飲むことで健康体になり、老化がストップした。寿命が伸びたのが申し訳なくて言えない、というんじゃないのか? そうであるなら俺は心配事が減って万々歳なだけだから、言ってくれ」
強くせまられ、流石に話をそらせないと悟ったアキラは「うーんと……」と唸ったあと、暫く黙ってしまった。
シンイチが先程出した本を本棚へ戻してから再び長椅子に座るとアキラは重い口を開いた。
「本来吸血鬼は人間の血が主食なのに、俺はあんたの血だけでしょ」
アキラは一緒に料理を食べるが、味覚を楽しむ行為なだけで全く栄養にはなっていないのは知っているため、シンイチは頷く。
「人間より人狼の血の方が不死者同士で親和性があると思うんだ。栄養も豊富だし。実際、人間の血よりパワーが出るというか、飲んでて興奮もするからハズレてないと思う」
「興奮は関係ないだろ。俺が毒で盛るから、あてられてるだけだろが」
「いやいやいや、そりゃあんたの色気にはいつだってあてられてるけどもね。そーじゃなくて……なんだろ。よくノブナガ君はたっぷりの肉を食ったあとに『漲る』とか『血の気が増えた』みたいなこと言ってるよね。俺は食べ物でそういう感覚は得られないから想像だけど、そんな感じな気がするんだよ」
「……なんとなく納得した。栄養豊富で体に馴染みやすいなら、いいことだらけじゃないか」
「うん。短期間ならね」
シンイチはサイドテーブルへロックグラスを手荒に置いた。瓶の中のウィスキーまでも激しく揺れる。
「お前……。何が俺の血で健康な美青白の美肌になっただよ。俺が吸血鬼のことを知らないからって担いでやがったな」
「違う違う、顔怖い牙むかないで! 実際アヤコさんに羨ましがられてたの、あんたも知ってるじゃん!」
「じゃあ長期間だとどういうことが起きてるってんだ」
アキラは苦笑いを零すと、腕を伸ばして褐色の頬を愛しげにひと撫でした。しかし人狼はその手を払うと冷たい金色の瞳で睨めつける。
「いいから続けろ。ふざけて話をそらせると思うなよ」
吸血鬼は「怖いねぇ」と肩をすくめてから、磨かれた己の靴先へと視線を移した。
「……美青白になる少し前から体調もすこぶる良くなったよ。体力もかなり戻った。でも見かけだけ元に戻った方の牙が吸血できるようになった頃からかな。あんたと同じように空気に触れる部分はやたら活性化しはじめた反面、内臓や骨は損傷したらなかなか回復しないと感じるようになった」
紫色の爪先がグラスを求めるように伸ばされたので、シンイチは継ぎ足さぬまま手渡してやった。ウィスキーを味わうよりも、『これもあんたの色だ』といって、氷が溶け切るまで愛でるのを好む酔狂な奴だから。
案の定アキラは飲むでもなく目の前にかざして、壁の燭台の灯と重ねて見つめている。
続ける言葉に迷う者へ時間を与えるために、人狼は自分用にグラスを取りに行った。
戻ってくるとアキラは手にしていた本を閉じた。タイトルの文字は見たこともない言語だ。この図書室にある蔵書は元城主の人間のコレクションが大半のようだが、不死者が揃えたとしか思えないものもある。今アキラが読んでいたのもその中の一冊だろう。
「何かいい解決策でも載ってそうか?」
「ないね。あるわけがない。だって俺たちみたいなのは前例がないから。今でこそ吸血鬼と他種族の婚姻もほんの数組はあるけど、それだって俺たちみたいに偏った食生活を長年続けてるわけじゃないだろうから。何も参考にはならないよ」
これはあんたを待ってる間の暇つぶしといって本を放ると、アキラは氷のとけきったウィスキーを煽った。
「俺は失血と毒。お前は俺の血の過剰摂取。理由は違うのに同じような症状で崩壊していくなんて不思議だな……」
「短い年数……二百年やそこらなら、お互い体に良かったんだよ。でもさ、Too much of a good thing……いや、Too much can be as bad as too little.かな」
この場に不釣り合いなほど、ふわりとした柔らかな笑みでアキラは幸せそうに続ける。
「シンイチの体に悪影響を与えたことは申し訳ないと思ってる。けど……あんたの血が俺の体を作り変えたことは、悪くないと思えてるんだ」
その慈しみ深いまでの眼差しを哀しい瞳で受け止める人狼へ、吸血鬼はとっておきの秘密を告げるように囁きかける。
「……食べたものが血肉になると言ってたよね。俺にはその感覚はずっとわからなかったけど、今はわかるんだ。あんたが俺の血肉となってる……シンイチが俺の血肉の一部になってるって」
─── 心だけじゃない、体の組織レベルで俺たちは結ばれてるんだよ。
純血に混じりが生じたと憂うでもなく、体内から崩壊していくのを悲しむでもない。それどころか他種族で、しかも混血の血が混ざったことを喜ぶなんて。
長生きに飽きて自ら命を絶つ不死者は少なくないが、もし俺以外の誰かが、アキラが己の死を恐れない理由を聞けば、頭がいかれてると笑うだろう。
それなのに……その哀れさが。深すぎる愛情が、俺の判断力を奪って愛しさ一色に染め上げるのだから始末に負えない。
「何を泣くの? 大丈夫だよ、俺の雑な計算では悲観的にみてもあんたはあと20年は生きられるから。俺は元がポンコツだから7年……いや、10年はもつかな? あ。もしかして何かこれから俺と50年くらいかけてやりたいことでもあったの?」
あと30年くらい一緒にいれたら一番いいけど、誰もなし得なかった肉体レベルでの融合まで経験できちゃったのは凄いことなわけだから─── などと的はずれなことを焦ってまくしたてるアキラへ、濡れた頬のままシンイチは笑みを向けた。涙を拭おうと伸ばされた手を取り、己の胸へきつく抱き寄せる。
「お前のいかれっぷりが可笑しくて泣けたんだよ。俺はな、今お前と消えたっていいくらいなんだ。もう十分お前と生きたから」
「俺もだよ。でもあんたが俺へ最期に聞かせるカッコイイセリフが決まってるとは思えないけど」
「そんなこともそういや言ったな。明日から本気だして考えるか」
「やっぱり忘れてた。大体、ムリがあるって。そーいうのはごくごくたまーに、自然に出てくるから効果があるもんなんだよ」
「そのとおりだ」
「だから考えなくていいよ。その代わり、俺を置いていくのだけはよしてね」
「お前は昔からそればっかだな」
「あんたを嫁さんにもらえたから、望むものなんてそれくらいしかないもん」
「だから嫁さん呼ばわりすんな」
猫のようにアキラが涙のあとを舌でなぞる。シンイチは顔を傾けてその舌を口に含んだ。
舌が絡められる瞬間に感じた薄い塩みはすぐに消えた。それなのに、口付けが深くなるほどに喉が乾くようで、いつまでも唇を解けなかった。
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