番犬がわりの小規模結界が破られる感覚にアキラは本を閉じて立ち上がった。
「……誰か来たみたい」
壁にかかっている鏡の前に立ち、紫色の長い爪先を押し当てる。水面が波打つように鏡はゆらぎ、それが収まると門扉の前で馬から降りた二人連れが写し出された。
「誰だろ。敷地に入れてるってことは不死者だろうけど……シンイチの知り合い?」
ちょうど隣に並んだシンイチは映っている人物を見て僅かに驚きの顔を見せた。
「跳ね橋をおろしてくれ。俺の仲間だ。門番がいなくて困っているみたいだ」
アキラは頷くと空中に指で文字らしきものを書いた。その指先で小さな光が二つほど弾けたのを見届けると、シンイチは足早に部屋を出た。
「よく来たな、入ってくれ」
シンイチはいつもの鷹揚な笑みで出迎えたが、来訪したムトウとタカサゴは強張った顔のまま、ぎくしゃくと腰を深く折った。
「夜分おそ、あ、お邪魔致します」
「夜分に突然の訪問というご無礼を」
緊張した二人は同時に喋りだし、顔を見合わせて気まずそうに口をつぐんだ。
「なんでお前ら今夜に限ってそんなに仰々しいんだ? ムトウなんて慣れない敬語でぐだぐだじゃねぇか」
「だっ、おま」
シンイチに笑いながら突っ込まれたムトウは一瞬、素で返事をしかけたが、隣のタカサゴからの肘鉄に慌てて口を閉じる。
「俺達は先日の感謝の品を届けにきただけで、お邪魔してご迷惑をかけるつもりはないんだ」
困り顔で話すタカサゴと、恨めしそうに睨んでくる隣の天然パーマの男の様子にシンイチがまた笑う。
「すまん。だってなあ、そのかしこまった格好だけでも似合ってないのに」
「本日は首相仕事で来たんだから、仕方ないだろ」
「あ、違うぞ。タカサゴは似合ってるよ。大変だな、首相に就任して間もないってのに」
「おい、似合ってないのは俺だけって言ったろ、今」
玄関ホールからいつまでたっても動き出さない人狼たちに、シンイチの数歩後ろに立っていたアキラがニコリと笑みを向けてくる。
「足元が悪い中、ようこそ。お礼の品って、シンイチが何かしたの? ここが気に入ったならワインを運ばせるから、詳しく聞かせてほしいな」
「お前らが中に入らないと、アキラも玄関で立ち話に参加するってよ。どうする?」
「「失礼しましたっ。お邪魔致しますっ」」
まるで軍人のようにムトウとタカサゴは背筋を正して声をはると、直角にお辞儀をした。
またしても笑いそうになるシンイチの背中を、ムトウが「早く案内して下さいよ」と荒々しくどついた。
先週の満月の会合へシンイチは『たまには参加しろ!』とムトウにしつこく誘われ、顔を出すことにした。
山の中腹にある東屋でムトウとおち合い、高台の会合場所に続く河川沿いの細道で突然の豪雨にみまわれた。更についていないことに、ムトウが暗くて滑る足場で転倒し足首を捻ってしまった。
雨だけでもやり過ごそうとシンイチが肩を貸して移動する間にも、川の推移はみるみる上昇していく。氾濫はもう時間の問題だった。川下には人狼の村がある。早く知らせに行って避難を促さねばならないが、対岸へ渡るための橋は今にも冠水しそうな状況だった。
迂回して知らせに行っても間に合わないと唸るムトウの隣で、シンイチは狼形態に変化した。無理だと止めるムトウに『時間が惜しい』『お前はゆっくりでいいから会合場所へ向かえ。そこにいる奴らを村へ救助に向かわせろ』と言い残してシンイチは駆け出していった。
あと数cmで冠水しそうな橋を猛スピードで走り抜け、急斜面を速度も落とさず下りきり、川下の村に駆けつけたシンイチは遠吠えで危険が迫っていることを伝えた。家から出てきた者たちに避難を勧め、川沿いの家の子供や老人を優先的に背に二人ずつのせて、川から離れた高地へ運ぶことを繰り返した。
半分ほどの村人が避難したところで、会合に出むいていた男たちが駆けつけてきた。なんとか全員が高地に揃ったところで川は氾濫して広範囲が水没したが、犠牲者はでなかった。
「それで、適切な対処と救助や復旧作業への貢献を讃え、感謝の品を我々が届けにきたのです」
補佐のムトウが何も知らないアキラへ、嬉々として話し終えた。その横でまたタカサゴが何度も頷く。
アキラは隣に座るシンイチをしげしげと見たのち、小さくため息をついた。
「……先週からずっと昼間に出かけては『運動してきた』って言ってたのは、鍛錬でも狩りでもなかったんだ?」
「鍛錬や狩りなど俺は言ってないぞ? 泥の撤去や簡易橋作りはいい運動になった。おかげで飯が美味くてなぁ。そうだ、その復旧現場横の仮設飯屋の生姜焼きが」
「なんで橋が冠水しそうになってるのを見て、俺に連絡しなかったわけ? 俺飛べるんだよ?」
「一瞬考えはしたが橋はギリギリもちそうだったし、お前を呼びに行くより早いと思ったんだ。実際かなり早く着いた。逆に呼びに行ってたら間に合ってなかったな。足場も悪かったから」
「使い魔で俺を呼んでから向かえばよかったじゃん」
「連れてない」
「あー……人狼は使い魔を呼び出せないんだっけ。忘れてた。不便だねぇ」
「呼び出せる種族の方が少ないぞ。吸血鬼以外で使い魔を呼び出せるのは、エルフの上位者ぐらいだろ?」
二人の会話をタカサゴとムトウが目を丸くして聞いているので、シンイチはどうしたと促した。ムトウが「日頃からサラッとアキラさんにスルーくらってんだなお前……会話に動揺がねえ」とぼそりと呟いたが、タカサゴはムトウの脇腹に肘鉄を入れてから少し声を大きくする。
「どうもセンドー様は人狼を助けたいお気持ちがあるように思えて、少々驚かされました」
「あんたたちさっきからセンドー様って呼んでるけど、アキラでいいよ。敬語もいらない。あんたらシンイチの仲間で同期なんでしょ」
「それとこれとは。センドー様は吸血鬼属でもあらせられるのに」
とんでもないとばかりに驚愕に身を固くするタカサゴへ、アキラは手のひらでぞんざいに流して続ける。
「俺はね。結婚して俺の種族に属してもまだ、あんたらを助けないと気がすまないシンイチの助けになりたいだけ。あまり畏まられると、俺が疲れるから。やめてね?」
「そ、それでも……アキラさんとは流石に呼ぶのは辛いのでお許し願いたい。ですが敬語は改めるよう極力努めますので……」
コクコクと頭を上下にしたムトウが、困りきってしまったタカサゴの代弁をかって出る。
「俺たちは人狼を間接的にでも助けようと、センドーさんが思って下さることに驚きが隠せないんす」
タカサゴはまだ緊張の残る笑みで、「ありがとうございます。大変光栄であり、心強いばかりです」と深く頭を垂れたため、ムトウも同様に頭を下げた。
「いいって、俺今回は何もしてないんだから。それよりシンイチだよ。話戻るけど、せめてこういうことがあったって教えてくれてもいいじゃん。なんで隠してたのさ」
「報告したぞ。人助けしてきたって。お前は『へー、偉いね』って返事してたぞ?」
今度はアキラも含めた三人が目を丸くした。
アキラがシンイチを指差しながら、ムトウとタカサゴへ「……これで報告のうちにはいるの、人狼にとっては?」と聞くと、二人はブンブンと首を左右に振った。
とうとうムトウが「ありえねーすわ!」と吹き出し、シンイチ以外の三人は苦笑を交わした。
「他にもこの人、人助けとかやってたりするの?」とアキラが聞いたため、ムトウとタカサゴは知りうる限りのシンイチの善行を語りはじめた。
最初は「もう過ぎたことだ」「そんなこともあったかな」「よく覚えているなあ、忘れていた」と面映ゆそうに話に付き合っていたシンイチだったが。話が長くなるにつれ、照れくささが勝りだしたようで、何度も話を話題を変えようとしてくるシンイチにムトウが声を荒げた。
「お前ねえ、人の話の邪魔すんなよ。こっからがいいとこなんだぞ!」
「なにがいいとこだ。お前らは大げさに語りすぎだ。俺はそんな大したことはしてない。額面通り受け取るなよ、アキラ」
アキラへ耳打ちするのを聞きつけたムトウが椅子から身を乗り出してシンイチを指差し言い放つ。
「伴侶様に報告してなかった薄情なお前に発言権はない! 黙って聞いてやがれ!」
タカサゴとアキラは頷きながら拍手をし、ムトウはフンと鼻息荒く顎を上げた。
気分を害したシンイチが口先を尖らせて「……つまらんから飯でも作ってる」と席を立ったため、慌ててタカサゴが「手伝う」とあとをついていった。
「ムトウは話が上手いね。臨場感があって活劇みたいで楽しいよ。聴衆者が俺だけになっちゃったけど、良かったら続きを聞かせてくれないかな」
微笑むアキラにねだられたムトウはさらに調子づき、若い頃にシンイチと一緒にやらかした失敗談までも、身振り手振りを交えて面白おかしく語った。
来客が去ってもまだ賑やかしい夕食の余韻が残る明るいシンイチの頬へ、アキラは小さくキスをした。
「ムトウって面白い人だね。弁舌上手くて聞き入っちゃった」
「調子がいい口達者野郎だから、あいつの言うことは話半分でおさえておいたらいい」
「タカサゴは思慮深そうで、人のよさが言葉の端々ににじみ出てたね。でも首相には不向きなんじゃない? 人のよさを利用されそう」
「大丈夫だ。あいつは本気になったら喋れなくないし、俺が負けるほど頑固で真面目なんだ。知略では人狼一の頭脳のミヤマスがサポートしてるしな」
「あんた以上真面目とか、タカサゴやばくない?」
「だからムトウを補佐につけたんだろうな。ってお前、なにげに俺を下げやがったな」
口の端で笑うシンイチへ「報告不足への仕返し?」と笑い返すアキラもまた、とても楽しげだ。自称人嫌いのアキラだが今日のことからも、アキラが嫌いなのは同族だけではないだろうかと疑問が湧く。少なくとも人狼に対しては嫌悪感はなさそうに思える。
「あいつらが気に入ったか? 今度は俺が誘って城に招こうか。またミヤマスやタケノリなんかも」
「そうだね」
予想以上の素直な返答に驚きを隠せなかったシンイチへ、アキラは片眉を上げる。
「あんたの同期たちを気に入ったとかじゃないよ? 彼らといる時のあんたはいつもと少し違う感じで楽しそうだからさ。ノブナガくん達の前のような親らしさがなくて、なんていうのかな……若い……新鮮?」
「あー……まあなあ。そう意識はしてないが」
「あとね、シンイチが俺の知らないとこで色々やってるのを聞けるのが、楽しい」
「別に隠してきたつもりはないからな。俺から聞いた話もあったろ」
「まあそうだね。それよりさ、良かったじゃん」
ソファの肘掛けにもたれていた腕をひらりと上げて、アキラがニコリと笑みを投げてきたので、シンイチは何のことかと首を傾げた。
「かなり前、言ってたじゃん。自分は英雄じゃないから金狼の姿はふさわしくないとか、申し訳ないとかなんとか。でも今日聞いた限りじゃ、あんたは十分に英雄だよ。姿負けしてなくて良かったね」
「はあ? 英雄と数回人助けした奴と一緒にするなよ」
「いやいやいや。十分だよ。実際、ムトウも『マキは俺らの誇りなんす。俺らの下の代なんかは英雄視してる。憧れてんすよね』ってしみじみと言ってたよ?」
「あいつは……まったく調子ばかり良くて困るな。言ったろ、話半分で聞けって」
「でも本人にすぐ真偽をきける俺に、切れ者参謀の彼が話を盛るとは思えないけど」
「頭の回転は早い方だろうが、切れ者は褒めすぎだろうよ。ボブゴブリンと戦をしていた時は参謀を何度か任されてはいたが、大昔の話だ」
「それ」
いきなりアキラに人差し指でさされ、シンイチは僅かに顎を引いて片眉を上げた。
「昔は戦で大勝した大将とかが英雄と呼ばれたよね。でも今の時代ってさ、昔と違ってそうそう大きな戦いがないでしょ。だから村の危機を救ったり、他部族に誘拐された子供たちを救出したり。人助けの積み重ねをやってきた奴が、今は英雄と呼ばれんじゃない?」
「えぇ〜…………まあ…………」
「ね。シンイチは現代版の英雄に当てはまってるでしょ」
「でも俺のなんてなぁ…………」
他に英雄の所業と呼べそうなものはないかと、人狼は腕組みをして難しい顔で唸る。
「それとさ、英雄なんて人が勝手に評価して呼ぶもんだから。難しく考えなくていーんじゃないの」
「それはそうだ」
アキラがくすっと笑う。
「おかしな人だよねあんたも。普通は姿負けしてなくて安心するとこなのにさ。かえって難しい顔になっちゃうのは、理想が高いせいかな」
「それだ」
今度はシンイチがアキラへ人差し指を向けてきたので、「え?」とアキラが僅かに目を瞠る。
「俺の思うところの英雄ってのはこんな小物じゃねーんだ。もっともっと凄い奴でなきゃ納得できん。俺の中での英雄像に程遠過ぎる」
「じゃあ例えば? 誰なら不特定多数に英雄と呼ばれても納得できるの?」
「例えば………例えばか……うーん、難しい。そうだなぁ………………お前かな」
「疑問形で本人に言うとか失礼くさいねえ」
けっこう真剣に考えたため冗談ととられたことが癪に障り、シンイチは少し強めに繰り返す。
「お前だよ。実際、おとぎ話になるほどのこともしてきただろ」
「そりゃまた随分小物なことで。全然理想高くないじゃん」
アキラは鼻で笑うと、この話に興味を失った顔で部屋を出ていった。
ひとり残されたシンイチは長椅子に背を深く預け、使い魔に運ばせたウォッカを瓶ごとあおると天井へため息を放った。
静けさの中で、ふいにアキラに夕刻に聞かれた『なんで俺に連絡しなかったわけ?』の一声が耳に蘇る。
あの日、避難所が落ち着いて一人帰る道すがら、俺は奇妙な興奮を感じている自分に疑問を感じた。そして気付いた。何かあればアキラを自然に頼る思考になってしまっている自分に、俺自身が無意識下で失望していたのだと。だから自力で上々の結果を得られたことに、これほどまでも喜びを覚えて昂ぶっているに違いないと。
出会う前は当然だが、出来得る限り自力で何事も解決しようとしていた。
頼るのも同胞だけで、それも最小限だったはずだ。それでなんとかやれていたし、そんな自分は混血でも負けていないと誇りにも思えていた。
だがアキラと長く暮らすうちに、すっかりアキラに頼り、甘える癖がついてしまったのではないか。あいつに長いこと血を褒められ必要とされることで、混血に対するコンプレックスはすっかり薄れた。俺が危ないことをするのを嫌うアキラのためだとか、あいつに長く血を提供してやりたいからと、危険に率先して飛び込まなくなったのはいったいいつ頃からだろうか。
「内臓より、心の老化の方が問題なんじゃないのか俺は……」
人と一緒に取り組めば多くのことを成せるのはわかる。それぞれの得意を発揮することで効率よく達成できるし、人間関係も良くなる。
だが時間はかかっても一人で成し得ることも大切だ。努力の結果達成できた喜びは自己肯定感を高める。それがあればこそ、公平さを保ちやすく他者へも優しくなれもする。例え失敗してもその努力は無駄にはならず、経験という財産になったり、人の失敗に寛容になれたりもする。失敗の積み重ねは強さや忍耐力も培われる。
わかっていながら何もかも中途半端な俺ごときが英雄だなど笑わせる。
格好悪すぎて誰にも言えない本音が酒を苦くする。グラスに継ぎ足そうとボトルへ手を伸ばしたところ、頭にズキズキと痛みが走りだした。
(やめた。酒も不味くなっちまったしな)
もともとが鬱々と暗い思考を続けるのは苦手な方だ。大体、反省は得るものがあるが、後悔は度が過ぎれば自責の楽さに酔うような性質の悪さが潜んでいて癖になるものだ。変えられない過去をあーしとけばこーしとけばとぐだぐだ考えるよりも、これからの自分を己に恥じない行動をしていくしかないのだから。
久しぶりに悪酔いをしてしまったため、外にでて夜風で酔いを醒まそうと思ったが、窓ガラスを叩く雨音が強さを増してきたため城内を歩くことにした。
長い廊下や階段を歩いてロングギャラリーを過ぎ、ドローイングルームに入ったところで美しい音色が聞こえてきた。滅多に無いが、アキラは機嫌がいいとプライベートチャペルの小型パイプオルガンを弾く。チャペルといってもアキラが『嫌いなんだよね、デザインがさ』という十字架の類は取り払われているため、高い天井と湾曲した壁が高い音響効果を得られる音楽演奏室になっている。
重厚な木の扉に背を預けて、目を閉じ華やかで美しい音楽に人狼は耳を傾けた。
俺と出会うよりもっと昔、アキラは暇つぶしに様々な楽器を嗜んだ時期があるらしい。しかしなんでも少し本気になれば完璧に習得してしまうため、ほぼ目ぼしい楽器は習得し終えて飽きてしまったそうだ。芸術に縁のない俺なんかからすれば非常にもったいない話だ。
聴きだしてから三曲が終わってしばらくしても次の曲が弾かれる気配がないため、シンイチは扉をノックして中へ入った。
アキラはテーブルに肘を付きながら己の爪を長く戻しているところだった。
「『トッカータ ヘ長調』が特に素晴らしかった」
「いつから聴いてたの? 入ってきたらよかったのに」
「邪魔したくなかったんだ。それに廊下で聴くのも意外にいいもんだったから」
「面白い人だね。何かリクエストがあるなら弾いてもいいよ」
爪の長さを戻す手を止め、特製の爪切りが置いてあるコンソールテーブルへアキラは顔をむけた。
「いや、十分堪能した。また別の機会に聴かせてくれ」
ほころんだアキラは自分の向かい側の布張り椅子を優雅な仕草ですすめてきた。
最近ブランデーの味を覚えたアキラは、たまにだが一杯だけ嗜むようになった。
今も美しいカットグラスの中で丸い氷をゆるりと泳がせては唇を湿らせている。そんなどうということのない様すら優美で、こんなに長いこと一緒に暮らしているというのに毎度目を奪われてしまう。
「美味いか?」
「ひとくちいかが?」
芳醇な液体を喉へ滑らせる俺をアキラはやけに見つめてくる。グラスを戻すと陶然と漆黒の瞳を細めた。
「ブランデーはあんたの瞳を口に含んでるみたいで楽しいんだ……。ほんのり感じる甘味はあんたの血を思わせもする」
グラスをシャンデリアの灯りにかざす横顔が愉しげで、勝手に唇が動く。
「……片目くらいなら、やってもいい」
ついらしくないことを口にしてしまったのは酔いが過ぎているせいだ。俺らしからぬ発言にアキラは驚いたようで、数度瞬きをしてからとろけるように微笑む。
「いらないよ。再生するまで長いこと片目でしか視線を絡め合えないのはつまらない」
「そうか。……ミリア、いるか? いたらすまんが俺に水をくれないか」
「ミリア。俺にはワインを。昨日開けたやつでいいから」
二人に名前を呼ばれて姿を表した使い魔は、喜びで顔をくしゃくしゃにして一礼すると、再び消えた。
いくらもたたないうちにテーブルへ希望の品が並べられる。シンイチから直接チョコボンボンを受け取ったミリアはピョコンと跳ねるようなお辞儀をして、また姿を消した。
「飲まないんだね」
「今夜はもうやめとく。酔い醒ましに廊下で聴いていたが、それでもまだ抜けてないようだから」
「ふぅん。珍しいね、あんたが飲みすぎるなんて」
何か嫌なことでもあったのかと目で尋ねはしても、アキラはよほどのことがない限りは相手が自発的に話すまで直接は聞いてこない。答えたくない今のような場合はとても助かっている。
返事がないことに気を悪くもせず、いつものように美しくグラスのステムを長い指で持ち、アキラは香りを味わっている。ゆらめくワインがシャンデリアの灯に煌めく。
「灯にかざした赤ワインの色はお前の瞳の色だな」
「欲望丸出しの時のでしょ。下品な色で俺にはぴったりだよね」
フッと鼻で自嘲するアキラの通常の瞳は、例えるなら硬質な黒曜石だ。そちらももちろん美しいが、己の艶美な情熱の赤い瞳を嫌っていたと知らなかったため、シンイチは少なからず驚かされた。
「……星が煌めく夜空のような漆黒の瞳も、見つめるだけで酔わされる情欲が灯された極上の赤ワインの瞳も。どちらも俺好みだ」
普段口にできない本音を酔いのせいにして恥ずかしげもなく晒して、アキラの手からワイングラスを奪い口の中で転がす。
飲みきらずに口付けて舌を差し入れれば、意図を組んだアキラの舌が味わうように絡められた。
ワインの香りが僅かでも残るもの全てを丹念に追うようなキスに、自分が飲まれていくような錯覚を覚える。たった一口のワインで……と思った矢先、痛みが唇に走った。
「っ……?」
己の薄い唇に滴る血を目を細めて舐めとってから、吸血鬼は小さくため息を吐いた。
「ごめん。ちょっと悔しくて」
もう傷がふさがり、僅かな血が残る自分の唇を舐めたシンイチへ、アキラは眉を下げ寂しそうな笑みをむけた。
「あんたの武勇伝を聞けて楽しかったのは本当。でも知らないことが多くて……。伴侶になっても頼ってもらえてなかったんだって気付かされたっていうか」
予想外な言葉を紡ぎだすアキラの唇を、シンイチはぽかんと口を開けたまま見つめる。
「やっぱり種族が違うせいかなとかさ」
「待て。違う。違うだろ、何いってんだよ」
「だって何でも一人で片付けちゃってんじゃん。それか人狼仲間と。そりゃ俺は日中は役立たずだけど、自分で言うのもなんだけど豪雨の日や夜はけっこう使える奴なのに」
アキラの口調はすっかり拗ねた子供のようになっており、シンイチは己の額に手をやった。
「……何言ってんだよ。お前が何でも出来る奴なくらい知ってる。俺はさっき、そんなお前に頼り過ぎな自分を反省してたんだぞ?」
「あんたこそ何言ってんのさ。仲間にしか頼らないくせに。俺はぜんっぜん頼られてなかったって今日思い知らされたよ。俺は伴侶なのに。確かにあんたの仲間よりは体力はないし太陽もダメだけど、有用な能力が」
「おい……まさか、あいつらに妬いてんのか?」
図星だったのだろう。口を挟まれたアキラは歯をきつく食いしばると、不愉快な顔でそっぽを向いてしまった。
これが何百年と生きてきて、しかも不死者最強種族の中でも恐れられるほどの能力者とは到底思えない……。今にも地団駄を踏みそうなガキに見えて、シンイチは我が目を疑いかけた。
穴があったら入りたい心境なのが、力のこもった両肩から伝わってくる。
「アキラ。……アキラ?」
「…………」
返事を寄こさない伴侶を強引に引き寄せ、頭を胸に抱きしめて先端の尖った耳へささやく。
「なあアキラ。本当はわかってるだろ? 俺がどれほどお前を頼りにして、お前にだけ甘えているかを」
「……わかってないから怒ってるんだけど」
「あいつらが束になったって、お前ほどの能力者にかなうはずがないだろ?」
「さあね。俺は呼ばれてないからわからない」
「お前の手をわずらわせるほどのことじゃなかったり、日中の作業だから呼ばなかっただけだ。俺は自分でも情けないくらい、気持ちの面ではいつもお前に頼って、助けられているよ。頼れる伴侶がいるってのは、なによりも心の強い支えだ。お前だってそう思ってくれてるだろ?」
「シンイチはずるい。俺が助けを求めるようなこと自体が、そうそうないって知ってるくせに」
「血だけじゃなくて、俺という存在をお前は常に心の支えにしてくれてると、俺は知ってる。ありがとうな」
「……今夜のあんたはムトウより調子いいと自分でも思わない?」
「そんなつれないことを言うなよ」
拗ねた顔をしながらも、漆黒の瞳だけは信じたがっているのを隠しきれていない。こんなに可愛いこいつがみれるのなら、妬かれるのもいいものだと思ってしまうほどに、たまらなく可愛い。
愛しさが抑えきれず乱暴に顎を掴んで上向かせて、また唇を噛まれるかもしれないというのに深く口付けてしまった。しかし甘えるように舌を擦り寄せてくるものだから、シンイチの胸は愛おしさに焦がされてしまい。アキラが苦しそうに喉を鳴らして漸く、名残惜しげに身を離した。
「……頼った時は、助けてくれな」
「俺はもっと気軽に頼れって言ってんの! あんたに何かあんのが俺は一番嫌なんだから!」
口調はきついけれど、向けてきたアキラの笑みは満月のように明るくシンイチの心までをも照らした。
もう少しここでじゃれあっていたかったけれど、足元から忍び寄る晩秋の夜気は二人を胴震いさせた。
「この部屋は寒い。暖炉にあたりにいこう」
立ち上がる人狼を切なげに見上げた吸血鬼が小さな囁きをため息とともに零す。
「……両目ともあげたいけど、多分取り出したら黒一色になるだろうし、一晩で灰になるだろうから意味ないんだよなぁ」
硬いアキラの黒髪を褐色の長い指がわしゃわしゃと撫でかきまわす。
「俺を見つめ返さない瞳など、何色であろうと価値はない。くれてもいらん」
「いつもそれくらいわかりやすく叱ってくれたらいいのに」
軽く笑み零したアキラは長い腕をシンイチの逞しい首へと回して、その首筋をそっと甘噛みした。
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