HOME SWEET HOME 1

横殴りの雨が窓を激しく叩いている。
牧は片手でノットを緩めながら窓の方に目をやった。
(今日は疲れたな・・・)
いつにない疲労感にため息をつくと、ソファーに深くもたれかかり、ゆっくりと目を瞑る。
本当は夕方には帰れるような簡単な日帰り出張のはずだった。それが相手先のトラブルで予定外に時間を食ってしまい、なんとか仕事を片付け、ようやく自宅マンションへたどり着いたのは既に夜半を過ぎようとする頃だった。
仕事のハプニングに、帰りしなに降られた冷たい雨。
休む間もないほど忙しく働いているのは自分が望んでの事だが、時折そのつけがこんな形で牧の心と体を痛めつける。
どれ位、目を閉じていただろう。
ゆっくりと瞼を開けると、飾り気のない白い壁が間接照明で淡く彩られているのが見えた。その温かく柔らかな光は、固く張り詰めていた牧の神経を少しずつ解きほぐしていく。
明日も仕事がある。今日はとっとと寝てしまおう。
「よし、やるか」
そう自分自身に気合を入れて、傍らにおいておいたスーツの上着を取り上げる。
ばさり・・・音を立てて何かが床に落ちていく。見れば、そのスーツの上に置いておいた新聞やチラシが床一面に散らばっていた。帰り際にポストから取ってきて、一緒に放って置いたのをすっかり忘れていたものだ。
(とっとと捨てておけばよかったな)
気だるそうに手を伸ばして、ぐしゃりと掴んでは取り上げる。その時だ。色とりどりの華やかなチラシに混じって、一枚の封筒があることに気がついた。
(・・・?)
何の気なしにその封筒だけをチラシの中から取り上げる。薄いブルーのシンプルな封筒。そこには、「AIRMAIL」のスタンプと共に、手書きでここの住所が書かれていた。
その見覚えのある字が、牧の心を引っ張った。
(この字は・・・)
慌ててリターンアドレスを確認する。そこに書かれている名は、忘れようにも忘れられない男の名前。
残りのチラシをまとめて近くのゴミ箱へ捨てると、姿勢を正してソファーに座り直す。慎重に封を切って、三つ折りにされた手紙をゆっくりと引き出した。
『牧さん、久しぶり』
書き出しに踊る自分の名前。懐かしい―――あの仙道の声色が耳を通り過ぎた。


『牧さん、久しぶり。元気にしていますか?これを読んでいるって事は、約束通りあの部屋にまだ住んでるって事だよね。
そうであることを祈って今、この手紙を書いています。
俺が日本を離れて4年の月日が流れました。
俺の方はと言うと、渡米して最初の一年は周りのレベルの高さについていくのが精一杯でさすがに大変だったけれど、何とか今年も開幕ロースターに入ることが出来ました。なんて、こんな事多分日本でも報道されているだろうから、俺がどんな風にこちらで過ごしているかは、牧さんも知ってるよね。
でもさ、牧さんはどうしている?牧さんとの約束を守って全然連絡を入れなかったから俺には今の牧さんが分かりません。
俺の中では、牧さんはあの別れた日・・・成田で見た後姿で止まっています。』

仙道らしい、さらりとした語り口に牧は小さく微笑んだ。簡単そうに書いているが、仙道がアメリカでこうやって活躍するまでにどれだけ苦労して頑張っていたかは想像に難くない。そしてそんな事を微塵にも感じさせない相変わらずの仙道の姿が脳裏に蘇る。
長い手足、鼻筋の通った横顔、温和な瞳。
別れたあの日からもう4年だ。
決して短くはないその年月を経ても、何故だろう・・・つい昨日のように思えて仕方が無い。
出会った日も、共に過ごした日も、そして別れたあの日の事も。
懐かしさと共に残った胸の痛みまでもが、色鮮やかに蘇った。

 ※ ※ ※
 
牧が見つけた時、仙道は一人ぼんやりと座っていた。
ここは成田国際空港の一角にあるファーストクラス専用ラウンジ。夏が終わりかけているとは言え、まだまだ暑い外とは違い冷房が程よく効いて静かな音楽が流れている。僅かにいる人々も出国審査を終え、これから向う旅先に思いを馳せてくつろいでいる。そんな中、仙道は窓際のソファーに一人座りサングラス越しに滑走路を眺めていた。
毛足の長い絨毯に足音が吸い込まれる。牧は辺りに誰もいないのを確認すると、仙道の横のソファーに座り込んだ。仙道が気配に気がついて振り返る。サングラスを外すと、どういう顔をして良いか分からないと言ったように眉を顰めた。
「おかしいなぁ。ここ、乗客以外は入れないんだけれど?」
その問いかけに、牧は肩を竦める。
「・・・人脈とこねのなせる業・・・とでも思ってくれ」
その返事に仙道はなるほど・・・と感心すると、小さく小首を傾げた。
「でも、よく起きられたね。体・・・大丈夫?」
「全然大丈夫・・・って言いたい所だけどな。残念ながら立つのがやっとだ。お前、やりすぎだ」
眉をぎゅっと顰めて、抗議の声をあげてみる。が、当の仙道は片手でサングラスを弄びながらしれっと答えた。
「そりゃそうでしょ。だって、俺わざと痛くしたんですから」
そう言うと、仙道の手が牧のシャツの襟元にのびる。指をひっかけて襟元を広げると、現れた鎖骨の下にまだ色鮮やかなうっ血した痕が見えた。
昨日の夜、仙道が牧の体に激しく残した口痕だ。
「こんな風にいくら痕つけたって、体の痛みだってすぐに抜けちゃうからな・・・牧さん、嫌になるほどタフだし」
指を外した仙道の腕が円を描き、そのまま目の前のテーブルの上に置かれていたチケットを取り上げた。11時30分成田発ロサンゼルス行きの片道チケット・・・本当は夕方便出発の予定だったのを、直前になって仙道が内緒で早めていたのを牧だけは知っていた。
見送られるのが嫌だったのかもしれない。
チームメイトにも、そして俺にも。
仙道は手にしたチケットをひらひらっと顔の前で振っていた。
「これ、破っちゃおうかな」
「バカだな。今更そんな事したってしょうがねぇだろ?」
「―――そうだね」
静かにそういうと、チケットを再び机に戻す。
「牧さんは、いつだって正しいよ」
その呟きに、胸がちりっと痛んだ。
(本当に・・・そうなのだろうか?)
自分自身に何度も繰り返す問いかけが再び頭の中を過ぎる。が、答えはいつも闇の中だ。
牧は黙り込んだ仙道の横顔を瞬きもせずにじっと見つめていた。
一晩中仙道に喘がされた喉の奥がひりひりする。全身を揺さぶられた痛みに体の芯が悲鳴を上げている。
でも、それ以上に心が痛みに震えている。
仙道は、今日旅立つ。牧の元を離れて一人―――アメリカへ


牧と仙道は、初めて出会った高校も、そして大学もすべて違う学校を選んできた。互いをライバルと認め、戦う事を優先した結果だったが、同じチームメイトになることが嫌だったわけでもなく・・・結果的に実業団になって初めて同じチームに所属して一緒にバスケットをするようになっていた。
言葉にすれば簡単だが、牧はとても幸せだった。
大学を卒業して5年。バスケットのプレーヤーとしては、全日本にも選ばれオリンピックでも稀に見る好成績を残す事が出来た。所属しているチームは、常にリーグ優勝争いに絡むだけの力を有し、充実した選手生活を過ごす事が出来ていた。
そして、何よりも仙道の存在が大きかった。恋人として既に長い月日を過ごしていた相手だったが、なんと言っても人には言いがたい秘密の関係だ。会いたいからと言ってすぐに会えるわけでもなく、ただでさえ目立つ二人は常に人目を気にしながら陰でこっそりと会うという日々を長い事重ねていた。
でも、チームメイトであればそれほど人目を避けて会う必要も無い。そうして四六時中一緒にいても何の不思議もない関係を手にしてからというものの、それまでの飢えた思いを満たすべく24時間のほとんどを共にすごすようになっていた。
自分たちの関係が永遠に続くなんて微塵にも信じていなかった。それでも何故だろう。あの仙道の屈託のない笑顔を見て、手の届く所にこうしているのが当たり前となっていくにつれて、牧は何処かで信じるようになっていた。この穏やかな日がずっと続くのではないかと。
あの日、コーチに呼び出されるまでは。


アジア選手権を終えて次のリーグ戦まで、つかの間の休日を楽しんでいたあの時、牧の携帯に直接ヘッドコーチから連絡が入った。
相談があるから、誰にも言わずすぐにミーティングルームまで来るようにと・・・滅多に無い事に、牧はちょっとした疑問を抱きながらも急いで会社へ向った。ドアの前で足を止めてノックをすると、入れと声がかかる。
「失礼します」
ミーティングルームへ足を踏み入れると、窓際にあるコーチ専用のスペースで、ヘッドコーチが一人パソコンに向かっていた。他のスタッフやメンバーは誰一人もいない。
(一体・・・何だ?)
いつにない雰囲気に背筋が伸びる。牧はコーチの元へ近づいた。
「牧です。遅くなりました」
「あぁ、休みの日に悪いな。そこ、座ってくれ」
椅子をくるりと回して牧の方を振り返ると、近くにある丸椅子をペンで指し示す。牧が座るのを待って、コーチが突然切り出した。
「牧、お前・・・仙道と結構親しいよな」
「・・・はい・・・」
同じ神奈川出身でもあり、レギュラーでもある仙道と牧が親しいと言うのは、チーム内では当然と言う雰囲気が既に出来ている。特にそれ以上の何かを言われた訳でもないのに、あえて休日に呼び出され、意味ありげにそう問いかけられた事で牧の背中に緊張が走る。
しかし、コーチはそんな牧の様子を気に留める様子も無く「そうか・・・」と小さく呟くとそのまま何かを考え込むように黙り込んだ。
その横顔に妙な胸騒ぎがした。
「仙道が、どうかしたんですか?」
牧の問いかけに、その口が重たげに開いた。
「お前・・・仙道から何か聞いていないか?」
「何かって・・・?」
その返事に牧にも何も話していないという事が分かったのだろう。コーチはくるりと椅子を回し机に向うと、再び口を閉ざした。
コーチの眉間に、縦皺が刻まれている。どうしてそんな顔をするのか牧には見当もつかないが、さっきまでの胸騒ぎがはっきりと意志を持ったように膨れ上がっていくのを感じた。
「仙道に何かあったんですか?」
語気が荒くなりそうなのを何とかこらえて問いただすが、返事は来ない。それでも牧はただじっと黙って答えを待った。
静かな部屋に大きなため息が響き渡る。
「・・・牧、そう睨むな・・・」
その声にはっと緊張を解く。よほどすごい形相で睨みつけていたらしい。
「・・・すみません」
小さく謝るその声に、コーチはふっと頬を緩めた。
「何もお前の事じゃないのに、えらく肩入れするんだな・・・だからあの仙道もお前の言う事だけは聞くのかもしれないな」
そう呟くと、机の片隅に積んである書類の上から一枚の紙を抜き出し牧に手渡した。メールをプリントアウトした奴らしいが、全文英語で書かれている。
「読んでみろ。お前ならそれくらい大丈夫だろ?」
言われるがまま受け取って目を通し始める。が、数行読んだ所で、牧の目が大きく見開いた。興奮のあまり声が震えそうになるのを、ごくりとつばを飲んでやり過ごす。
「これ・・・もしかして・・・」
「そうだ。仙道にNBAからオファーが来ている」
牧が言いよどんだ言葉をコーチが補足する。
仙道がNBAへ―――突然の話に驚きはした。が、牧は随分前から薄々気がついていた。
仙道のバスケットに対する才能は天性のもの。牧たちのように、より恵まれた資質の上に練習を積み重ねて作り上げた物とは根本的に違う、絶対的な強さがそこにはあった。それは望んだからと言って手に出来るものではない。牧でさえ、時に妬ましいと思うほどの圧倒的な力だ。
その才能が果たして今の日本で思う存分発揮する事が出来るのか?
それは小さな違和感から気がついた。一緒のチームになって試合に出るようになってから―――牧が仙道と対戦する度感じていた触れれば切れてしまいそうなほどのモチベーションが何故か仙道から感じられなくなっていた事からだった。
最初は気のせいなのかと思ったが、暫くしてその原因が見えてきた。
周りのレベルに合わせて無意識のうちに自分のプレーを抑えこんでいる仙道の姿。それこそが牧の感じた違和感そのものだったのだと。
逆を言えば周りが強ければ強いほど、時に敵味方が驚くようなプレーをさらっとやりのけてしまう。ムラのあるプレーと評された仙道のプレースタイルはある意味、全力でぶち当たる相手を無意識のうちに選別している結果だったのだ。
それは牧にしてみれば歯がゆい現実だった。牧の見続けてきたあの仙道のプレーが、奇しくも同じチームになったが故に見れなくなったのだ。
それだけじゃない。チームの全員が本気を出した仙道のプレーについていけるかどうかと言われれば、うちのチームであったとしても確かに難しいものがあった。
ならば、もっとレベルの高い世界でやれば、今以上の実力をあいつは出す事が出来るんじゃないか?
もっとのびのびと自由にプレーする事が出来るのではないか?
それら全てを解決するビックチャンスがついに現れたのだ。
そんな思いに激しく心が揺さぶられた。
「ところがだ」
言葉を失ったままメールを読み続ける牧の方を振り返ったコーチは、衝撃的な一言を告げた。
「肝心の仙道は行かないと言っているんだ」
「――― え?」
その言葉に思わず顔を振り上げる。
(行かない―――だって?)
バスケをしているものなら誰もが憧れて止まないあのステージに立つチャンスを手にしていると言うのに、それを捨てると仙道は言ってるのか?
呆然としている牧を認めてコーチは深いため息を漏らした。
「ただな、いまいち理由がはっきりしないんだ。『NBAなんて興味ありません。ここのチームにいるのが好きなんです』って言うばかりでな」
ここのチームで・・・その言葉に、頭の奥底で警鐘が鳴り始める。
敢えてそう仙道が限定する理由。それはもしかしたら・・・。
どろりと湧き上がる疑念を後押しするようにコーチが続けた。
「それにな、どうも以前も仙道はスカウトを断った節があるみたいでな」
「・・・どういう・・・」
「仙道が、大学の最後の一年は交換留学生でアメリカに行っているのは牧も知っているだろう?」
その問いかけに頷く。仙道は4年の時、通っていた大学の選手強化プログラムの一環として設立された制度の一期生として、一年間アメリカに留学している。
「その時も、東洋人でトリッキーなプレーをするって結構話題になっていたらしくてな。帰国間際まで結構声をかけられていたらしいんだよ。たまたまその時にもいたスカウトが今回もまた声をかけてきたって感じなんだけどな」
コーチは理解出来ない仙道の言動に対する苛立ちをぶつけるかのように、カチカチとボールペンのノックを忙しなく動かしている。
牧はただ黙っていた。
何もかも初めて聞く話で、答えようにも何も答える事が出来なかった。
あの頃、アメリカにいた仙道から牧は何度も電話をもらっていた。が、今どんな事を話していたかを思い出しても、思い出すのは他愛の無い話ばかりだ。
―――こっちの生活も楽しいけれどね。早く牧さんに会いたいよ。
電話の先で睦言ばかり喋る仙道に、呆れていた自分。
(まさかそんな事があったとは・・・)
そう、肝心な事は、何一つ話してはくれていなかった。
膝に乗せていた手が、見えない何かを握りつぶす。
あの後。留学から帰ってきて同じ会社に所属した仙道は、初めて牧とチームメイトになった。
―――やっと一緒になれましたね
練習を始めた直後にそう嬉しそうに耳元で囁かれた。
今ならはっきり分かる。仙道がこの一言を言う為にどれだけ大きな物を捨ててきたのかが。
理由も無く共にいる事が不自然だ・・・といっては、仙道の差し伸べる手を照れながらも跳ねつけていた自分。
そんな牧の一番側にいる方法を、仙道なりに考えた結果が今の状況なのだろう。
「・・・コーチ」
「なんだ」
「お願いがあります」
握り締めた掌に爪が深くつきささる。
痛みは何故か感じなかった。
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