入院八日目、手術当日。昨夜21時から引き続き飲食は止められている。しかし昨夜仙道のおかげでたっぷりと食べたせいか、起床しても腹は減っていなかった。
朝食もないと洗面以外はすることがない。栄養点滴が始まるまで暇つぶしに小説を読むなど、昨日より忙しさはなかった。
手間取ったのは着替えだ。管で繋がれているせいでただでさえ着替えが辛いのに、紙パンツを着用してから医療用の締め付けが強い弾性ストッキングを履くのだ。膝下用とはいえ流石に骨が折れた。エコノミー症候群予防のためとはいえ、手術着の裾からのぞく、白ストッキングの下で脛毛が渦巻く筋肉質な足は正視に耐えがたい。とてもじゃないが仲間には見せられない姿だ。これは仙道にも黙っておこうと、牧は首筋に伝う汗をタオルで拭きながら決めた。
それ以外は特にすることがなく。母の富江が到着して少し経ったのち、看護師に案内されながら手術室へ徒歩で向かった。
数部屋あるうちの一室に通され、促されるまま手術台に乗る。横たわり見上げた天井には映画の手術場面で見たライトが設置されていた。ベッド周りに立つ数名の医師や看護師が所属科と名前を早口で述べてくれたが、一人として覚えられないまま「宜しくお願いします」と一言挨拶をする。
麻酔の針が入ってから麻酔医に「はい、大きく深呼吸して〜」と言われて、しっかり麻酔効いてくれよと思いながら一度深呼吸をしたら。
「牧くーん、牧紳一くーん、聞こえてますかー?」と誰かの声が聞こえてきた。
なかなか開かない瞼を無理やり片方開くのに成功すると、「手術終わりましたよー。ここ、ICUだからね。まだ寝てていいですよー」と。ぼんやり焦点が合わない視界に看護師の笑顔があった。
タイムワープしたような感覚に戸惑った次の瞬間、喉の痛みに辟易させられる。手術前に説明は受けていたが、本当に片肺だけ人工呼吸が行われて口から気管内に管を通されていた。強い違和感に咳をすればかなり傷口が痛む。そのため呼吸も細くゆっくりせねばならず。難儀さに眉間を寄せていると看護師が「意識戻ったから呼吸器取りますねー」と、返事をする間も与えず引っこ抜いた。
手早さに驚いたが、呼吸が楽になり助かった。しかし今度は股間の違和感が気になりはじめる。看護師がいない間にそろりと手をやれば、尿道カテーテルがつけられていた。他にも体には様々なチューブが繋がれ、横を見れば二種類の点滴と心電図や血中濃度などを計る機械が。
まさに病人という言葉がふさわしい己の現状を牧が把握し終えた頃。何か誰かに聞かれた気がしたが瞼は開かず、牧は再び眠りに落ちていた。
* * * * * * * * * *
ICUでは脈拍・熱・出血している血液量などの計測が二時間おきにある以外は、なにもすることがなかった。通常であれば暇過ぎてまいってしまいそうなものだが、熱も出て様々な機器に繋がれている体は眠りを欲したため、ほぼ寝てばかりであった。
安静が良かったのか、もともとの体力のおかげか。数値も昼頃には安定したため、牧の希望をうけて手術の翌日の夕方には病室に戻ることができた。
病室に戻ってみると向かいのベッドが空いていた。たった二日にも満たない不在ながら変化はあるものだな……と。正直言えばもうあの吐きそうな嗚咽を頻繁に聞かされなくてすむことに口元が少々緩んでしまった。
体験した全部を仙道に教えてやりたくて、忘れないうちにメモを取ろうとしたけれど。以前より静かな病室は快適で、瞼を閉じたら寝てしまった。
夕食のコールで目が覚めた牧に「あら起きたの?」と富江が声をかけてきた。
「来てたんだ……」
「そうよぉ。一時間くらい前から。でもあんたよく寝てたから。どう、具合は?」
眠れ過ぎる自分に驚きつつ、牧はゆるく頷く。
「痛み止めが効いてるから……。母さん、飲み物くれ。冷たかったらなんでもいい」
「飲み物だけでいいの? バナナと桃買ってきたけど。桃むいてあげようか? また少し冷たいよ」
「うん」
向けてきた富江の表情だけで、心配してくれているのが伝わってくる。
感謝の気持ちをここで言えれば、外見に見合った男になれるのだろう。しかしどうにも気恥ずかしさに勝てず、牧は黙ってペットボトルを呷るしかなかった。
富江が運んでくれた夕食のトレイには見慣れたおかず入りタッパーも並んでいた。
「一応持ってきたけど、無理して食べなくていいわよ」
「いや、食べるよ」
まだ食事はむせないように気を付けないといけないため、時間がかかる。食欲もそれほどないため、どうせ残すなら病院食の方にしようと牧は母の煮物を優先的に口にする。
ゆっくりと租借する息子の隣で、富江は一人で喋っている。
「ICUにあんたが運ばれてから、十分間だけ面会していいですよって言われて入ったらね。あんたくたびれた顔して目を閉じたまま、看護師さんの説明に『はい……』『はあ』って生返事してるんだもん。あんまり眠そうなんで、私は話しないで帰ったのよ。あんた私がいたの知らないでしょ?」
問われて牧は素直に頷く。
「そんなにくたびれてたか?」
「目の下まーっ黒で血の気ないし、髪の毛は汗で額に貼りついてるしで。土座衛門みたいだったわ」
そこまで聞いて牧は食べる手を止めた。髪を触ると確かにベタついている。
「食べ終わったらドライシャンプーしてくれよ。あと背中も拭いて欲しい」
「拭くのはいいけど、頭なんて別にいいじゃない。あとは寝るだけなんだし」
「頭痒くて寝れそうにないから。頼むよ」
味が薄い漬物を口に放り込んだ息子へ、富江は「あ。……そっか、寝るだけじゃなかったわね」とにまにました顔を寄越したけれど。牧は相手にせず黙々と食べすすめた。
富江が帰ってから牧は洗顔をして髭を剃った。一応ICUでも洗顔だけはしたが雑だったし、髭を剃るとこざっぱりした。鏡に映る顔は血色も戻っている。
(……うん。これなら仙道に心配をかけなくてすむだろう)
髪を撫でつけているとくしゃみが出た。心なしか寒い。ドライシャンプーをしたせいか、頭がスースーして頭から風邪をひきそうだ。
今夜はディールームではなく病室にさせてもらおうか。でもそう提案すると仙道は心配しそうだし、落ち着かなくて早々に帰ってしまう気がする。ただでさえ今日は何か一緒に食うことも出来ないのに。どうしたらあいつが病室でゆっくりしていくだろう……。
寒くてベッドで布団にくるまっているうちに、いい案も浮かばないまま、また寝てしまっていたようだ。
そろそろ仙道が来る頃か……と寝返りをうてば、棚の横の壁に仙道が背を預け立っていて牧は瞠目する。慌てて上半身を起こしかけたが、仙道の長い両腕がすぐに止めに入った。
「ダメすよ、そんな急いで起きたら。また痛くなりますよ」
「痛み止めが効いてるから大丈夫だ。それよりすまん、いつから来てた?」
「少し前かな。いいから横になってて」
肩を抑える優しく弱い力に逆らえず、牧は再び枕に後頭部を沈める。
「……そこにあるパイプ椅子、持ってきて座ってくれ」
「声、聞けたし。今日はこれで失礼するんで、いらないっす」
「まだバスの時間までけっこうあるだろ」
「今夜は雨降ってて暑くないし、次のバス停まで歩いてもいーんで」
牧は仙道へ片腕を伸ばした。去ろうとする腕を掴んで止めたいのに届かない。掴めないまま、パタリと腕が虚しく落ちる。
「じゃあ、また明日。お大事に」
「待て。帰るなよ」
「いや、だってあんた……寝た方がいいすよ」
「帰るな、俺は。……俺はドライシャンプーもしたんだぞ」
「…………ドライシャンプーすか」
眉毛を八の字にした仙道がぽそりと復唱する。
引き留めたくて必死に出した言葉のお粗末さが、牧の頬にほんのりと血色を呼ぶ。
「顔色、少し良くなりましたね。……このパイプ椅子、借ります」
はにかんだような仙道の笑みを直視できず、牧は目線を逸らして「おう」と呟いた。
仙道はカーテンを全部閉めて漸く、椅子に腰を降ろした。牧もベッドヘッドに枕をたてかけてクッション代わりにして座る。
「手術お疲れ様でした。具合はどっすか?」
「いいよ。息苦しさも咳もない。ただ、あったかいICUの室温に慣れたせいか、戻ってきたら少し寒くてさ。今夜はここでいいか?」
「もちろん」
にっこりと頷く仙道に、牧は最初からこう言えば良かったのかと内心苦笑しつつ微笑んだ。
「外もね、今日はちょっと寒いくらいなんすよ。雨降ってるし。あ、給湯室から熱いお茶持ってきましょうか」
腰を浮かせた仙道に牧は急いで返す。
「いらん。そうだ、冷蔵庫に飲み物が色々あるから飲めよ。俺はそこに番茶がある。だからいいんだ」
棚の上のマグカップを手渡してくれようとした仙道が片眉を上げる。
「これ、冷めてますよ。レンジであっためてきます」
「いいから、ここにいろって!」
ほとんど声量のない会話をしていたのに、つい普通の声量になってしまった自分に驚く。仙道もびっくりしたのか、パチパチと長い睫毛を瞬かせる。
「……すまん」
「いえ、全然。……あ、全身麻酔はどうでした? ワン・ツー・スリーで寝れました?」
「そうそう、全身麻酔な。それがさ、」
思いもよらず強く引き留めてしまったばつの悪さから、牧は音を消した声で。それはもう後から自分で思い出して恥ずかしくなるほど、詳細に手術前夜からICUを出るまでについて語りつくしてしまった。
音にしていないとはいえ、二日ぶりに沢山喋って疲れた牧は深い溜息を吐いた。
「すまんが冷蔵庫から緑茶とってくれ。喋ったら熱くなった。お前も飲めそうなのあったら、もっと飲んでくれよ」
「はい。あ、俺、CCレモンもらいますね。はい、お茶」
「サンキュ。ん? 目が充血してるぞ、どうした?」
手渡すため間近にきた仙道の目は、薄暗がりでもはっきりとわかるほどに赤い。眼のふちに長い下睫毛が涙で貼りついているように見える。……泣いていた、のか?
「え? あれ? なんすかね? あはは…………寝不足だったせいかな」
仙道は俯いて目を擦ると、ペットボトルを開けて一気に半分ほど呷った。
あくびを噛み殺していた……とも思えない。とても興味深そうに聞いていたし、色々聞いてきもしてたから。
まさかとは思うが、安心して泣けた? ……なんてことは流石にないよな。
たかが二時間の胸腔鏡下手術だぞ? 開胸手術に比べて傷は小さく、術後の痛みも開胸より少ないそうだと手術前にもお前に話していたよな?
そうは思っても、仙道が「炭酸が目にしみるっす」と、まだ真っ赤な目尻をしきりと擦るから。その声が少し鼻声っぽく聞こえてしまったものだから。
「…………俺は、お前を全国で見たいと思った」
「……は?」
突然の全く脈絡のない告白に、目を擦っていた仙道の手が止まる。
「県大会での陵南と湘北の試合が終わった時だ」
逸らされていた仙道の濡れた視線が牧に注がれる。
「来年のインハイで俺に見せてくれ。全国の奴等と対峙するお前を」
伝えるつもりのなかった、けれど心からの思い。
そんなものを何故今、俺は本人に伝えてしまったのだろう。全く脈絡もなければ、海南の元主将である自分が陵南の現主将に。
仙道の眼差しに力がこもり、射貫くように牧を見据えてくる。試合でしか見たことのない、美しくも猛々しい眼光は牧の背筋にぞくぞくとした歓喜を呼び起こす。
「……わかりました。今年のウィンターカップでお見せします」
「この冬は無理だな。冬にも俺は出る」
「知ってますよ。勝ち逃げはさせません」
「俺は夏準優勝で終えた雪辱を冬の優勝で果たして卒業する。邪魔はさせんさ」
不敵な笑みを交わし合った後で。
もしいつか誰かに愛の告白というものをしたならば。今この時のような胸の高鳴りを覚えるのだろう。
牧は掌に浮いた汗を奇妙な予感ごと隠すように握り拳を固めた。
「回復早めるためにも、沢山寝て下さいね。んじゃ、また明日来ますわ」
勢いよく立ち上がった仙道をもう牧は止めなかった。
カーテンから出る直前で振り返った仙道は、眉尻を下げ。
「あんたに何も問題なく済んで、本当に良かったっす」
会話中何度か言っていたことを、また改めて噛み締めるように伝えてから「おやすみなさい」とカーテンを閉めた。
あれはやはり涙だったのだと認識すると同時に、告げるつもりのなかったことを。涙に狼狽え本人に自白してしまった己の青臭さに気付かされ、牧はひとり頬と耳を焦がして頭を抱えた。
* * * * * * * * * *
入院がまさかこんなに長くなるとは。なのに宿題も終わっていない。何もかも予定通りにいかないことに加えて、昼前から勢いを増し嵐のように荒れた天気が気分を滅入らせる。
否、苛ついている本当の理由は他にある。
手術の翌々日からは機械を止めて肺が膨らんだ状態を維持できるか様子をみている。しかし今朝のレントゲンでも芳しくなかった。明日のレントゲンでも膨らんでいないようなら、またドレナージが再開されて入院が更に延びてしまう。それでも駄目なら再手術だなんて。
「なにやってんだよ……」
自分の胸に手を置いて、牧はその奥にある肺に呼びかけてしまう。
治療も手術もした。なのに何故膨らまない。お前は俺の一部だってのに、俺をバスケットからどれだけ遠ざければ気が済むのだ。
肺以外の俺の臓器全てがボールに触りたい。バスケがしたいと叫んでいる。バスケがしたい。バスケをさせろよ俺に。
バスケが無理でもせめて走らせろ。全速力じゃなくていい、流し走りもしないでこんなに長い間過ごしたことなどないからストレスが増大するんだ。せめてリハビリなど自力で回復に向かえる手立てがあれば、励むことで気も紛れるのに。肺では何もしようがなくて歯痒さが増すばかりだ。
息を大きく吸って、吐いて、繰り返し繰り返し、足を力強く蹴り出して風を切ってぐんぐんと走りたい。額から伝う汗を拭いながら、喉の奥が血の味を覚えるまで走らせてほしい……。
同じ自然気胸で二度三度と再発をしては入退院を繰り返している人のブログを入院前に何件か見た。入院してたった十一日しか経っていないのにこれほど狂おしくなっている俺は、そんなことになったらいったいどうなってしまうのか。
「たら、れば、なんて暇な奴の考えることだ」
誰もいないディールームで蛍光灯を浴びているしかない俺は、『再発したら』『このままバスケがやれなくなったら』とくだらない想像に潰されそうになっている、まさに暇人そのものだ。
大きなガラスが並ぶ窓の向こうは灰色だけで塗りつぶされている。激しい雨が複雑な模様を描いては全てを叩き流し、時折真っ黒な雲から稲光が走る。
これほど自分を持て余すよりは、体と機械をつなぐこの忌々しいチューブを引き抜いて、嵐の中で疾走して稲妻に打たれ燃え尽きてしまいたい。
そんな捨て鉢な夢想すら簡単に振り払えず。牧は指の関節がミシミシと音を立てるほど強くこぶしを握り、暗い瞳を瞼で隠した。
* * * * *
「失礼しまーす……。あ。寝てる、かな?」
仙道の控え目な声音に牧は驚いて布団を腕で跳ねのけた。
新たに入った患者の機械音で仙道の足音が聞こえなかったのもあるが、今日は来ないものだと決め込んでいたのだ。
「お前、なんで来たんだ?」
急な動きで傷口が痛み、牧は手でかばいながら仙道を見上げて尋ねた。
「え、なんでって。明日も来るって昨日言いましたよね、俺」
「いや聞いたけど……台風並みに酷い天気だろうが」
見れば仙道のジーンズは太腿から下がすっかり色を変えている。傘もあまり役に立たなかったのだろう、Tシャツも髪もかなり水を吸っている。
「そーでもないすよ。それよか牧さん、昨日より元気そうすね。ディールーム行けそう?」
「あ、あぁ。昼間行ってた」
「そうなんだ。んじゃ話はあっちで」
仙道は差し出されたタオルを「あざす」と受け取るなり、すぐ廊下へ出てしまった。
僅かに食後の残り香が漂うディールームは珍しく無人だった。窓ガラスの向こうは黒雲と豪雨で暗過ぎるため、音声が消されているテレビの画面と蛍光灯の眩しさが寒々しいほどに際立つ。こんな陰鬱さ漂うところにいるよりはベッドにいる方がましなのだろう、毎日いつ来ても居座っている爺さんすらいなかった。
澱んでいるような空気も気にならないのか、仙道は軽い足取りで当たり前のようにいつもの窓辺の席に座る。
昼間より嵐が強さを増している様子に牧は眉間の皺を深めた。
「こんなのもう台風じゃねぇか……よく出て来たな」
牧の声音の暗さにとは対照的に、仙道は明るい表情で微笑む。
「昨日母に着替え持って来てって頼まれてたんです。不便すると機嫌悪くなって八つ当たりされるから、運んだ方が楽なんすよ」
こんな悪天候でも息子を呼ぶのに気後れしないとは。仙道が言うようにけっこう我がままな母親なのかなと思ったが、牧は苦笑するにとどめる。
「それはご苦労だったな。まあこれでも食えよ。母さんが今朝持ってきたやつだが」
二個入るサイズの小箱に一個しか入っていないシュークリームを見て、仙道が呟く。
「……これ、牧さんの分じゃねーの? あんた食ってないでしょ」
確かに一個は富江が『朝からデザート〜』と言って食べていった。
「俺は夕飯食って腹いっぱいだから気にするな。ほら食え。こんな天気の中で来たお前へ労いだ」
仙道は躊躇しているのか少々黙していたが、「俺、ちょっと顔と手ぇ洗ってきますわ」と席を離れた。
一人残されて手持無沙汰になり、給湯器から二人分の水を汲んでくると仙道が戻ってきていた。
「俺、洗ってる間にいーこと思いついたんすよ。さっき母さんが見舞いにもらったけど飽きたからって、一個持たされててね」
まだ水滴が沢山ついたままのデイバックから仙道は大きなプリンとビニールに包まれた透明のスプーンを取り出した。
シュークリームを真ん中からパカリと割り、スプーンでクリームを均等に分けて乗せる。
「これにね、プリンを乗せるんです…………っと、よし、出来た。牧さんはこっち」
生クリームの上に半分のプリンを乗せたシューの下半分を箱に戻して牧へと寄越す。
「ちょっと見かけは悪いけど、これなら半分コでも食った気しますよね。いただきます」
仙道は左手で持っていた上半分のシューを大口を開けてがぶりといった。
「ふ、む。……ん。美味いっす」
頬張る姿があまりに美味そうで、牧も「いただきます……」と習って口を開けた。
甘味の少ない生クリームと甘いプリンがいい具合に口の中で合わさる。
「……プリンがカスタードクリームみたいになって、ダブルシューみたいだ。美味い」
「このシュークリームの皮? いい具合にしっとりしてますね。俺、パリパリよかしっとりしてる方が好きなんすよ。プリンと一緒、美味ぇ〜。カラメルは余計かもだけど」
「いや、いいアクセントになってる。これ、売れるんじゃないか?」
「もう商品化されてますよ。プリンシューって名前だったかな?」
「あー、だよなぁ」
本当に今日は朝から食欲がなかった。だからシュークリームに手を付ける気にもならなかったのだ。
なのにこんなくどくて甘いものを。仙道の食いっぷりに釣られてぺろりとたいらげてしまった自分に、牧はなんだかおかしくなってしまい、「腹減ってなかったんだけどな」と笑ってしまった。
心のメモに『仙道はしっとりした皮のシュークリームが好き』と記しながら。
「今日は調子どっすか?」
「うん、まあ……思ったほど膨らんでない。でもまだ機械は止めたまま様子見。微熱も昼には下がったし、体は昨日よりは楽になった。痛み止めも効いてる。この通り、元気なもんだよ」
「そっすか…………キツいすね」
痛ましい顔をする仙道に牧は首を傾げる。
「いや? 本当に体は楽になったんだ。傷口の痛みも減って動きやすいし。ただこう入院が長くなると元気な分、暇でなぁ」
軽く笑ってみせたが、仙道の沈痛な表情は変わらない。
「痛みや高熱とか。不謹慎を承知で言いますけど、はっきりした辛い症状がある方がまだ、気が紛れるっつーか……あきらめがつくじゃないすか。けど、体が元気になってくるとさ……じっとしてんの増々辛くなるでしょ。余計なこと考えちまう……」
向かいに座る男が思案気に顎に手をやる仕草を牧は思わず凝視してしまう。
見抜かれるほど俺はこいつの前で酷い面を晒しているのだろうか。
「……らしいじゃないすか。いえね、俺んとこに福田っているでしょ。PFの福田吉兆。こーんな顔した奴」
仙道は眉間をぐっと狭めると両指で自分の両目の端を横に引っ張り、唇を突き出してムニッとアヒル口をして見せたため、牧はブフッと吹き出してしまった。
「んなことしなくても覚えてるよ。お前それ、福田の前でやったら怒られるぞ?」
「あー、あいつ繊細だからなぁ。怒るよりスネるかな? そいつね、けっこう前に練習試合中に田岡監督に『ホワチャア』くらわして無期限部活動停止くらったことがあるんですよ」
仙道は『ホワチャア』と変な叫びと妙なチョップを連打してみせたため、牧は笑いを堪えるのが辛くて口元が歪む。
そんな牧の反応に仙道は白い歯を見せる。
「監督は早く復帰出来るように教頭先生とか? よくわかんねーけどアチコチに頭下げてたみたいなんすけど、なかなか……で。やっと復帰できた時にそいつが言ってたんです。『怪我でもしたんならまだマシだった』って」
ここに来てようやく、自分の表情や態度がどうこうではなく、仙道が状況から慮ったことを知る。
「ボール触れねー走れねーとか、十日以上もなんて地獄でしょ。なのに牧さん、ちっともそういうの顔に出さねーで耐えてんだもん。流石すよ。俺ならもうとっくにキレて病院から脱走してますよ」
水を飲み干す仙道の喉仏を見ているうちに、口が勝手に喋り出す。
「……ちっとも流石じゃねえよ。今日なんていよいよ腐っちまってさ。この大雨ん中に飛び出したくなったぜ」
入院して初めて、子供じみた愚痴を零していた。
そんな自分に牧自身は内心驚いていたのに、仙道は『わかる』とばかりに頭を上下させる。
「そのデケー機械にさえ繋がれてなきゃ、脱走手伝うんだけどな〜。その機械、少しくらいなら濡れても平気なんじゃないすかね?」
突如しゃがみこみ、機械を見分しだした仙道の横顔は至って大真面目だ。
「……少々の水濡れも厳禁だからシャワーも禁止なんじゃないか? それに外に出して転倒させて故障でもしたら弁償金が怖い」
「転倒しないように俺が支えるから、それは大丈夫。でも水濡れは……あ、ゴミ袋に包んだらどうだろ?」
「台車の部分はどうすんだよ。そこまでするくらいなら、チューブ切って機械は置いていこうぜ。チューブだけなら弁償代も安いし、何より身動き取りやすい」
「いいすね! となると必要なのは、あんたの傷口を濡らしたり体冷やさないように……傘は役立たねーから長靴と雨合羽?」
「長靴は走れないから嫌だ。俺は走りたいんだ……って、もうダメだ。バカ過ぎだろ。なんでこんな与太話を真剣にやってんだ俺らは」
耐え切れず牧が先に笑えば、すぐに仙道も笑いだす。
誰もいないディールームで声を殺して笑っているのも可笑しくて、二人は長いこと肩を震わせ続けた。
エレベーターホールの窓ガラスに叩きつける雨飛沫を見つめながら仙道が呟く。
「……せめて外庭くらい出れたらいーのに」
「いいんだ。明日になったら肺が膨らんでるかもしれないし」
さっぱりとした牧の声を受けて仙道も少し明るい声で返す。
「そっすね。安静一番!」
牧はひとつ頷くと後頭部を意味もなくかいた。
「えーと……お前さ、明日も母親の見舞いに来るんだろ? 帰り、寄ってけよ。待ってるからさ」
弾かれたように仙道が牧へと首を捻る。
「……はい。また明日も、必ず」
「今夜は天気が特別悪いからいつもの倍、気を付けて帰れ。帰ったら熱い風呂にでも入っとけ。夏風邪ひくなよ」
「はい。牧さんも風邪ひかないように。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
仙道がひらりと身をひるがえし手を軽く上げてエレベーターに乗り込んだ。
俺なんかに見せていいのかよ、と。こっちが気恥ずかしくなるような眩しい笑顔は、すぐに扉に隠されて見えなくなった。
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