ディールームでいつものように宿題をしていた牧はテーブルの上に紙袋を置かれて顔を上げた。
「高頭監督!?」
急いで牧は椅子から腰を浮かせたが、高頭は手の仕草で座るように指示する。高頭は向かいの席に座ると、胸ポケットから牧が知るところ二代目の扇子を出して仰ぎだした。額から伝わる汗が外の暑さを物語っている。
「どうしたんですか。部活で何かあったんですか?」
「何もありゃせん、お前の顔を見に来たんだ。どうだ、調子は?」
入院してからはほぼ一日おきに高頭からメールで様子を聞かれており、返信も即日している。それだけにわざわざ出向き尋ねられ、牧は恐縮しつつ答える。
「昨日のメールでも書きましたが、肺さえ膨らめばすぐに退院出来るんですが。すみません」
「体調じゃない。お前のメンタル面の調子を聞きにきたんだ。まったく、お前はいつも簡潔過ぎる報告のみで、さっぱり読めん。俺がそれとなく振っても、全て『問題ありません。』の一点張り。埒があかないから、顔からメンタル見抜いてやりにきたんだ」
青髭の濃い大きな顔面をずいっと正面から近付けられて、牧は苦笑を零す。
「本当に問題ないですから」
「ほんとか〜?」
高頭は暫くの間、眼鏡越しに疑いの眼差しを浴びせていたが、暫くして大きな鼻の孔からフンッと息を吐いて背もたれに体を預けた。
「本当に大丈夫そうだな。そろそろバスケがしたくて苛立ちが頂点に達してる頃だろうと思っていたのに。つまらん」
「すみませんね、ご期待に沿えなくて」
「まったくだ。面白みのない奴め」
実際は昨日腐りきって仙道に零していたのだが、そのおかげで今日はそれほど辛くはない。高頭の来訪が一日遅くて助かったと、牧は涼しい顔の下で胸をなでおろした。
高頭はおもむろに紙袋からノートと菓子折りを出して牧へと滑らせる。
「菓子は親御さんとでも食べろ。これはお前にだ」
牧はやけに分厚くなっているノートを開くと目を瞠った。片面につき六枚の正方形の付箋が全ページに並べて貼ってある。四色ある付箋には部の皆から牧へのメッセージが綴られている。日付が最初の方は“入院頑張って下さい”等の言葉が多く、中間は部活であったことの報告が増え。後半は“まだ退院しねーのか、居心地いいのかよ!”等々、退院を待つ声が目立った。書き記した者の名前を見なくても、内容を読めば半分ほどは誰が書いたか見当がつきそうな。メッセージというよりはメモのようなラフな文面で溢れていた。
「ページがいっぱいになったから届けて欲しいと神に渡された。俺は中を見てないが、大体何が書かれているか神から聞かされている。……いい仲間に恵まれてるな」
付箋に書かれている日付と時間から、練習開始前と長めの休憩時間と練習終了後というのがわかる。書きたい奴が用意された付箋に好きに書いて貼りつけていくことで一冊に溜まったのだろう。これなら書く順番待ちもいらないし良いアイデアだと感心する。
部員数が多いせいもあって、毎日話をする奴らは限られている。しかしノートには普段話をしない奴等までもちょこちょこと何度も書いている。まさかこんなに多くの奴等が……学年もポジションも関係なく俺を気にかけ、俺と話したいと思っていたなんて。全く想像もしていなかっただけに、言葉が出なかった。
ノートを食い入るように見ている牧へ高頭はあたたかい眼差しで話しかける。
「手術も終わったし、そろそろ説教してもいい頃合いだと思ったのも、来た理由のひとつだ。なあ、牧よ。弱っている姿を元主将として見せたくない気持ちはわかる。でもな、見舞いを全面シャットアウトってのは……。そうだなぁ、例えば今回とは逆で部の奴らが入院してたら。お前はどう思う?」
牧が手にしているノートを高頭は指でトントンと叩く。
「ぬけがけ見舞い厳禁として、一日おきに二人程度を十分間ほど見舞いに行かせるとか。もちろんお前の体調や気分によって面会謝絶日もあっていいだろう。な? お前の体に負担をかけない程度の見舞い方法はいくらでもあるだろ?」
説教と前置いておきながら、牧へ向ける高頭の目も声も優しい。それがより牧を心苦しくさせる。
「……軽率で自分本位でした。すみません」
「俺に頭を下げんでいい。部活に出れた時にでも、あいつらにノートの礼のついでに言ってやれ」
「はい」
機嫌良く鷹揚に頷いていた高頭が一転してばつの悪い顔をしてみせたため、牧は小首を傾げる。
「さっきまでのは教師からの話。こっからは監督としてだ。俺はお前に詫びなけりゃならん」
「詫び、ですか?」
「お前の親御さんから元気ではあるが本人の希望で面会は断りたいと伝えられた時に、教師としての俺なら今お前に言ったような案も一応伝えて然るべきなんだ。だが、咄嗟に監督としての俺がそうはさせなかった。もし教師として伝えていたら、さっきのお前への説教はなかった。だから、すまん」
小さく会釈をされて牧はぎょっとした。
「そんな。俺が浅はかだっただけの話じゃないですか」
「お前はまだ高三だぞ、その程度でいいんだ。病気でいっぱいいっぱいの状況でそこまで周囲に気をまわせていたら、ますます年齢を疑われていたぞ?」
がっはっはと笑い飛ばされた牧が口をへの字に曲げたため、高頭は楽し気に扇子を仰ぐ。
「お前はバスケ部にとって稀に見る立派な主柱だ。それゆえ失うとなるとこれまたデカいし痛い。実際今の海南はお前が元主将の座を退いていても、部活に出てるだけで皆の精神的な主柱であり過ぎてなぁ」
「俺はもう、あいつらに指導も注意もしてません」
「知っとる。お前のせいじゃあないんだ。あいつらのせいでもない。お前が頼りになり過ぎたもんで、つい俺が楽をしちまったところが大きいんだ。それでな、これはいい機会だと乗っちまったんだよ」
「いい機会」
理解していない顔でおうむ返す牧に高頭は大きく頷く。
「お前が完全に抜けたあとの新体制への切り替えにかかる期間を例年程度ですませるためにも、使わん手はない、とな。無意識にお前に甘え、頼りにし過ぎていたことをあいつらに身をもって思い知らせてやれる。頼れる者は自分と今いる面子だけと、骨身に早く意識させたいんだ。四月から新戦力が加わる予定もあるが、そいつがすぐになじめて使えるようになるかだってわからんのだし」
頷きながらも僅かに滲んだ牧の不満を高頭は見逃さない。
「わかっとる。冬の選抜にお前が出ることに支障など出んわ。そこまで効きゃーせん。あと、今までの三年が冬後に抜ける場合とは、お前が考えてるよりも違いは大きいんだ。そこは今理解しろとは言わん。社会人になる頃には自然に納得できてるだろうよ」
「……随分と先ですね」
高頭は「四年半くらいが随分と先、か。俺も年とったなぁ」と苦笑いで顎髭をじょりじょりと擦る。
「若い頃なんて自分を客観視できないものなんだ。他の奴等よりは大人びているお前であっても、例外じゃあない」
立ち上がり、分厚い掌を牧の頭頂部にボンッと乗せる。いつでも強い安心感と軽い緊張を与える、重くて熱い男の掌。
「それでいいんだ。そこを補い支える大人がいるんだから。俺はな、今回お前が年相応のわがままを言えたことが嬉しかった。だから叶えてもやりたかった……ってのは、後付けだな。さて、余計な邪魔も入らんのだから、引き続き自分の体のことだけに専念しろよ」
「はい。ありがとうございました!」
「おい、やめろ。外で90度のお辞儀はするなと言っとるだろ」
お前らはデカイから余計目立つんだからと普段から嫌がる高頭へ、体を起こした牧はにやりと口角を上げる。わざとかこの野郎、と高頭は牧の頭を小突いてから帰って行った。
* * * * *
病室でじっと待つのがもどかしく、牧はエレベーターホールまで出てきて壁際の長椅子に座った。今日は台風一過のように朝から快晴だったから、夜の気配を含んだ濃紺の空になっても澄んだまま美しい。牧はガラス越しの景色を眺めながらも、エレベーターの到着音が鳴るたびに降りる人の中から仙道を目で探していた。
七回目の到着音にまた首を捩れば、親子連れが出てきた後に待ち人が俯きがちに降りてくる。
「よう」
名前も呼んでいないのに、仙道は弾かれるように面を上げる。そのまま即、牧を見つけると満面の笑みを向けてきた。
ディールームの椅子に座るなり、仙道は小さく指先だけで拍手をした。
「おめでとうございます。肺、膨らんでたんですね」
話す前から言い当てられる。それだけ喜びが顔に出ていたかと思うと照れ臭い。しかし昨日愚痴を零したせいだろうか、素直に頷けてしまう。
「今朝はレントゲンが混んでて夕方になったんだ。その時しっかり膨らんでいた。でもまだ様子見だからドレーンはこのままで、不自由には変わりないんだが」
いい加減風呂に入りたいよと牧が続けてぼやけば、仙道は眉根を下げる。
「まあまあ、いっぺんに全部自由にゃならんすよ。それよか、まじ良かったすね〜!」
「ああ。明日の朝萎んでなかったら、早ければ夕飯前に管抜いて退院出来るそうだ」
「やったじゃないすか。じゃあ今日は前祝といきましょう! 俺、ちょっと売店行ってきます」
「俺も行く。会計は俺に任せろ」
病衣のポケットに入れた財布を上からパンパンと叩けば、仙道は「それじゃ祝いにならんでしょ」と返しつつも牧同様に白い歯を覗かせた。
外来が終わっているこの時間帯の売店は、人も少なければ品数も少なかった。けれど袋菓子やアイスや飲み物を買い込んで、ディールームのテーブルの上に広げればそれなりに賑やかしい。
「牧さん買い過ぎですよ〜。面会時間あと30分しかねーのに」
残っても冷蔵庫に入んないんじゃね? と呟く仙道へ牧はアイスを押し付ける。
「残ったら全部お前に持たせる。あっても退院の荷物になるからな。ほら、食え食え。溶けるぞ」
「アイスだけで四個って多過ぎ……。あ、美味いやコレ。高級な味〜」
「こんな小さいのなんて二個で一個分だ。菓子もどんどん食えよ。まあ、お前には世話になったからこんなもんで済ます気はないけどさ」
「何も俺、してねーすよ?」
「毎日顔出してくれただろ。ドライシャンプーとか色々としてもくれたじゃないか」
仙道の食べる手が止まる。
「……んなの、全然。あ、でも何してくれんのかは、ちょっと気になるかも?」
「何でもしてやるよ。リクエストしてくれ」
「えー。そこは牧さんが考えて欲しいなぁ」
「同じ学校だったらA定食の食券一週間分だが、お前は違うからなぁ……」
「借りを返す時はたいてい食券なんだ?」
頷きながら牧は掌に収まる二個目のアイスを開け、蓋をまじまじと見る。……チョコレートソルベ。ソルベとシャーベットは違うのか?
「そうだな……お前には本当に世話になったから、焼き肉奢ってやるよ。食い放題じゃないやつ」
「そいつは豪気すね! 約束ですよ〜。楽しみだなあ!」
「おう。美味い肉たっぷり食おうぜ」
己にとって最上級の提案に、喜色満面で拳を握ってみせる仙道が可愛くて、牧は今すぐ焼き肉屋へ連れて行きたくなる。
「あ〜。もう今すぐ退院したい。軽いランニングやパス回しでいいから、したい。動きてぇ〜」
両手をテーブルについて天井に向かい、牧は欲求の一部を口にする。
「水差すけど、しばらくは我慢しといた方がブナンな気ぃしますよ? 再発怖いじゃねっすか」
「う…………」
自然気胸についてネットで調べたと言っていただけはあり、仙道の言は的を得ており、ぐうの音も出ない。
「ここまで我慢したんですから、焦んねーでいきましょーや。調べてみたけど、鍛えた筋肉は一ヶ月くらい落ちねーって。一週間や十日程度じゃ全然変わんないみてーすよ?」
「いや、俺は筋肉がどうこうじゃなくて、単純に体が動かせなくてストレスたまってんだよ。あとボールに触れないのがこう……手がイライラするんだ」
昨日仙道に弱音めいた愚痴を零したせいか、するすると正直な思いが口から出てしまう。後輩はもちろん、同期ですら弱音など宮益以外には滅多に零さないのに。バスケではライバルと位置づけられてもいる相手だというのに、すっかり気を許してしまっている。
「じゃあ、軽いパス回しとドリブルから始めたらどうすかね。それなら呼吸が荒くなることもないし。あ、でも上半身を多く使うと傷口に響くかな。……なんすか?」
「いや、別に。仙道先生の教えに従おうと思ってさ」
「こんな威圧感のある生徒に指導なんて、俺には荷が重過ぎますよ」
「大人しく素直な良い生徒だろうが」
「いーえ、なにナマこいてんだコイツ絞めるぞオーラがスゲーすよ。そのチューブ外れたら猛獣復活・本領発揮ってなもんで、俺なんてひと飲みにされちまうんでしょ。ふう、こえーこえー」
仙道の『猛獣』の一言で、今日は高頭監督が来たことを思い出す。
牧は高頭の来訪(ノートのことは照れ臭いので伏せた)を話すと、仙道は田岡監督の笑い話をいくつも披露した。つられて牧も高頭の鉄板ネタを教えたりと。二人で笑い声を抑えつつ喋りながら、牧は自分だけではなく仙道も相当浮かれているのが伝わってきて嬉しかった。
(入院して良いことなどないのが一般的だろう。しかし意外な人物との距離が縮まったり、己の忍耐力の弱さと向き合ったりと、俺の場合はそう悪くもなかったな)
菓子を頬張る仙道に目を細めながら、牧は上機嫌でそんなことまで考えていた。
* * * * * * * * * *
「まあまあ、そんなに落ち込まないで。ほら、食って下さいって」
昨夜とは逆に、今は牧が仙道に菓子をすすめられている。しかも菓子屋の生ケーキを。
今日の夕飯前には退院できるだろうと昨日言ったせいで、仙道はわざわざ部活を早退して日暮れ前に来てくれている。
「退院祝いに買ってきてくれたケーキを、退院しないのにか……」
「だーかーらあ、退院が決定したらまた買ってきますって。これはただ単にお見舞いの品。それでもういーじゃないすかぁ」
「お前が開口一番に言ったんだろ、『退院祝いのケーキです!』って。あーあー、なんで縮んでんだよ俺の肺はあ!」
昨夜、仙道が帰ってからガーゼを取り換える時に回診に来た先生が経過が良いからとドレーンを抜いてくれた。おかげで久々に自由に寝返りをうてて快眠できた、まではいいのだが。今朝のレントゲンでまた肺が萎んでしまっていて、今日の退院は泡と消えたのだった。
「ほんの少しなんでしょ? 先生が言ってたみてーにチューブ抜いた時に入った空気のせいだとしたら、今夜中に血液に吸収されてまた膨らみ戻るかもしんねーすよ?」
牧の僅かな説明を的確に理解した仙道がもっともな理論でなぐさめてくる。もっと適当な感じで流したっていいのに、いい奴だ。
テーブルに両肘をついて項垂れている牧の頭を、「よしよし。泣かない泣かない」などとふざけながら仙道は優しく撫でる。
「髪の毛サラサラすね。風呂入れたんでしょ?」
慣れないことをされている気恥ずかしさに顔を上げれない牧は、黙って小さく頷いた。
髪を何度も梳いていた優しい指先がそろりと離れたことで、牧はやっと上体を起こせた。
「チューブ外れてよく寝れて、風呂にも入れて。いーこともあったじゃないすか。焦らない焦らない」と、仙道がなだめながら紙皿に乗せたケーキを押しつけてくる。
年下に甘やかされている自分を恥じる気持ちもあるけれど、仙道には今更かと牧は照れくささを溜息に混ぜて吐いた。
「……お前ってなぐさめんの上手いのな。意外だよ」
仙道はチーズケーキを三つに切ったうちの一つをパクリと頬張る。
「うーん。光栄すけど、んなこと言われんの初めてなんで、ピンとこないっす」
また二切れ目を大口で食べたのを見て、牧は残りの一切れへ自分のフォークを刺す。
「くれよ」
「どーぞ」
さして食べたいわけでもないのに奪ってみれば、噛むまでもなくしゅわしゅわと口の中で溶けて消えた。非常に物足りなくて、用意してくれたショートケーキに手をのばす。
「どっちが美味いすか?」
こっちの方がスポンジがある分だけ食べた気がするから、まし。とは流石に言えず。牧は残りを二つに分断して、一切れをフォークに刺して差し出す。
「食ってみろ」
「え、まじすか」
「俺もお前の食ったからな」
仙道は上半身を倒すようにし、長い首を伸ばしてフォークの先に食いついた。
「お……お前……」
「ん?」
フォークごと渡そうとしたのに、意図せず食べさせる形になってしまった。
思わず牧は周囲を伺うと、少し離れた席に座っているお婆さんと目が合った。お婆さんは細い目を糸のようにして微笑む。牧は笑み返すことに失敗し引きつった顔で首を右へ傾げてから、急いで視線を仙道へ戻す。
「ショートケーキの方が美味いすね。ここのチーズケーキは甘過ぎだと思いません?」
「…………そうだな」
変に意識したのは自分とあのお婆さんだけだったようで、牧は残りの一切れを複雑な気持ちと共に口の中に突っ込んで飲み下した。
「さっきの話に戻りますけど。もし明日膨らんでたら、明日中に退院になるんすか?」
「……明日膨らんでても今回の件もあるから様子見で、退院はその翌日までお預けなんだと」
「はあ……慎重なんすね。でも体の中のことだし、そのくらいの方が安心すよ」
うんうん、と自分の言葉にニコニコ頷いている仙道を見ていると、なんだか諸々のことがどうでもよく思えてくる。
皿の端によけておいた苺を手持無沙汰でフォークで転がしていると、再び仙道の視線を感じた。
「苺好きならやるぞ。俺は生クリームとフルーツを一緒に食うのは好かんから。カスタードとなら平気なんだが」
「そうなんだ。じゃ、遠慮なく」
生クリームのついた苺を食べた仙道は指先を舐めてから、ふいに微妙な照れ顔になった。
「あ……間接キスしちゃいましたね俺達」
そんなことより食べさせたことの方がよっぽど恥ずかしかったと思いつつ。ちらりと老婆を窺えば、まだこちらを見ていたのかまた目が合ってしまった。
牧は老婆から即座に視線を逸らして、「アホか」と軽く吐き捨てた。仙道はただニコニコとテーブルの上を片付けていた。
* * * * *
真夜中ふと目が覚めた牧は寝返りを打っているうちに他人のいびきが気になりだして、すっかり目が冴えてしまった。
こういう時は一旦寝るのをあきらめて、小さいボリュームで音楽でも聴きながら楽しいことを考えるに限る。
牧はウォークマンを取り出しイヤフォンを装着して再び瞼を閉じた。
楽しいこと、なんて入院中の自分には即座に浮かばない。そう思った次の瞬間には、脳裏に仙道の姿が浮かんでいた。意識していなかったが、仙道との会話やあいつが見せる表情などは、どれも自分にとって大きな楽しみになっていたようだ。
(仙道があんなにいい奴だったなんて知らなかったな……)
退院したらもう毎日のように会えなくなる。このまま元のバスケのみの間柄に戻ってしまえば、学年も違うから会うことはそうないだろう。そうなれば以前の関係に戻ってしまうのは火を見るより明らかだ。それはとても残念で、惜し過ぎる話だ。
もともと俺はまめでも器用でもない。だから今まで来るもの拒まず去るもの追わずでやってきており、環境や状況が変わっても変わらぬ関係を維持する術を知らない。
だからといって今までのように何もしないまま、この良好な……先輩後輩とも少し違うが友達でもない、けれどとても気の置けない不思議な関係をみすみす失うのは。どう楽観的に考えても、自分的に大ダメージだ。
上手いことは言えなくても、一言二言でも頻繁に言葉を交わせられれば、この関係は会えなくなっても継続可能だろうか。やったことがないので上手くいくかはわからないが、何もしないままでは諦めがつかない。
(? ……そこまで思うほど、俺はあいつとの今の関係性を保ちたいのか?)
毎日といっても二週間には満たない程度。会ってる時間など長くて一時間くらいなのに。何故こうも執着するのか。
(吊り橋効果とは違うが、特殊な環境下で唯一の楽しみになっているせい……だけではないような……)
瞼の裏に映る薄ぼんやりとした仙道に問いかけるように、牧の思考はループする。それがいつの間にか彼の輪郭をよりくっきりと浮かび上がらせることに作業はすり替わる。
バスケの時とは違いよく笑いわかりやすく感情を顔に出す、少し甘めに整った美貌から、耳に心地よい低い声。自分と同じように硬いのに、とても優しい力加減で触れてくる指先まで。どれも不思議と傍においておきたくなる良さがあること。もちろんバスケで戦う時は最高に楽しい、文句なしの好敵手でぞくぞくする相手であることも合わせて。気付けば自分の中にしっかりとした仙道の姿と居場所が確立されていた。
(今日が退院じゃなくて良かった。明日、あいつの連絡先を聞こう。退院したって今度は俺からあいつに連絡したり会いにいこう)
不器用ではあるが自分が動けば、会えなくたってこの関係はきっと続けられる。
そこまで思い至れば急に安堵感が眠気を連れてきた。音楽を止めて肩まで薄い上掛けを引き寄せる。
それからは起床の館内放送が入るまで。牧は一度も目覚めることなく、深く安心して眠った。
* * * * * * * * * *
昨日はまあまあ肺は膨らんでくれていたものの、術後一週間が過ぎようというのにまだ様子見で、牧は日中何度もひとり溜息をついてしまっていた。
それなのに夕方いつものように現れた仙道が『膨らんでて良かったすねえ! このまま維持できれば明日はいよいよ退院日が確定するかも?』と。差し入れの稲荷ずしを自分もつまみつつ、明るく嬉しそうに言うものだから。段々とその気にさせられて、比較的前向きな気分で就寝できた。
しかし朝になるとレントゲン検査が待ち切れずイライラ。検査をすれば結果が出るまで不安でイライラ。今日の自分はイライラ虫で己の扱いに手を焼かされる。予想外に延びに延びている入院に自分の堪忍袋の緒はすっかりすり減ってしまったようだ。表面上だけでも常と変わらぬよう言動に殊更気を付けねばならないなんて。たった二週間の入院で忍耐力がここまで落ちてしまうとは、我ながら情けなく嘆かわしい。
このまま長引けば、俺は性格が変わってしまうのではないかと牧が本気で考え出した午後一時半過ぎ。スピーカーから漸く呼び出しが入った。
医師と看護師に礼を述べ、病室に戻るなりスマホを手に牧は足早にディールームへと向かう。今日の三時に退院が決まった旨をまず母親へ連絡する。次に仙道へ連絡をしようとして、仙道の電話番号を聞き忘れていたのを思い出し、小さく舌打ちをする。あれほど親しくなっていながら、もっと早くにしておけばいいものを。
しかし今はぐだぐだと考えてる暇はない。病院や入院生活に不満はないが、退院してもいいとなったら一分一秒でも早く帰りたい。医師には「もう一泊していったらいいよ。今日は疲れただろうし、手続きも色々あるから忙しいでしょう」と薦められたけれど、その場で即丁重に断っていた。
牧は部活の仲間や監督への連絡は帰宅後に回すことにして、タイミング良くディールーム前の廊下に現れた昼食配布ワゴンから己のトレイを取ると再び病室へ引き返した。
急いで昼食をかきこみ、荷詰めや諸々の手続きをほぼ終えて、あとは会計だけとなった頃。本日来院二度目の富江登場。
「来たわよ〜。こんなことなら朝におかず届ける必要なかった〜、ほぼとんぼ返りだもん。あら、もうほとんど済んじゃったの? よっぽど早く帰りたいのねぇ」
開口一番で息子の気持ちを言い当てた富江は「そりゃそっか」と返事もないのにカラカラ笑う。
「会計の前に母さんに頼みたいことがあるんだ」
「あら珍しい。なあに? 今夜は焼肉に連れていけって?」
「違う。あのさ……婦人科のナースステーションに行って、『仙道』という名字の女性の病室番号を聞いてきて欲しいんだ」
「なによ、あんたまさか入院中にそのセンドウって女性と……」
「なにもないってわかってるくせに、そういう小芝居はいいから。仙人のセンに道路のドウで仙道。下の名前は知らない。その人の息子のアラキ……アキト? そいつと入院中親しくなったんだが、連絡先を聞き忘れてしまったんだ。教えてもらえないまでも、俺が今日退院になったと伝えてもらいたいんだよ」
口先を尖らせた富江は「なによぅ、ノリ悪い子ねぇ」と悪態をついたが、真顔のままの息子へ肩をすくめた。
「仲良くなった子の名前もうろ覚えって、どんくさいわねぇ。まったく、あんたがそんなに気を遣うってことは、よっぽどお世話になったんでしょ。会ってたのは二回や三回じゃないんでしょうに。連絡先を聞き忘れるとか、本当にどんくさいったらないわ。お父さんそっくりね、そういうとこも」
二回もどんくさいと評されても尤もなだけに、腹も立たない。牧は「頼むよ」と再び告げる。
富江はベッドから腰を上げると、息子の肩をポンと軽く叩いた。
「わかったわかった。お世話になった御礼も言って、聞いてきてあげるから。コレ持ってね」
「なんだよそれ」
「同室の皆さんにと思って買ってきたの。でもベッド二つ空いてるから余るでしょ」
「今時そういうのはしないみたいだぞ?」
「まあいいじゃないの、そんな高級菓子でなし。さ、あんたは部屋の人にこれ配ってご挨拶したら、荷物全部持ってロビーで待ってなさい」
薄い菓子箱を三つ押し付けられた牧は母親へ軽く頭を下げた。こういうところは全くかなわない。
「……サンキュ」
小さな呟きに富江は息で笑うと病室を出て行った。
牧がロビーに腰を落ち着けてからそれほど経たないうちに富江が現れた。
「がっかりさせて悪いけど、連絡先どころか仙道さんにすら会えなかったわ。そういう名前の人はここ数日の入退院者にもいないって。かなり食い下がって聞いたんだけどねぇ。珍しい苗字だからこそ断言されちゃった。婦人科で間違いないんでしょ?」
「あぁ……。俺より先に入院してたはず……」
言いながら、仙道の母親がいつ頃から入院しているか話題に上らなかったことに気付いた牧は視線を落とした。
富江は肩を落としている息子の姿に顔を曇らせる。
「苗字以外にその子に関して知ってることは他にないの?」
「あ、ああ、いや。そいつもバスケやってて、高校は知ってるんだ。下の名前も帰ればすぐわかる」
「なぁんだ〜。心配して損した。その子の連絡先だって、あんたの部活の子に聞けばなんとかなるんじゃない?」
確かにその通りだが、部活の連中に聞く気はなかった。仲間の来訪を断っておきながら他校の主将とは会っていたなど、絶対に気を悪くさせてしまう。あいつらと仙道とはスタートが違っただけとは説明できても、何度も会い、しかも連絡先まで知りたがってるとなれば、敏い宮益や神、甘ったれの後輩はどんな顔をすることか……。
「うん、まあ……。ただ、見舞いに寄ってくれても今夜は俺、いないから」
知らず項垂れていた頭をパコンと叩かれて、牧は顔をあげた。
「そんなに意気消沈しなさんな。いなかったら退院したってわかるでしょ。それにその子だってあんたの連絡先を聞いてないんなら、どんくさいのはお互い様でしょ」
「……うん」
「その子が婦人科に自分の母親が入院してるって嘘ついたのも悪いんだから。あんたがそんなに落ち込まなくても」
「あいつを悪く言わないでくれ」
硬い声で話を遮られた富江は目を丸くした。
「っ……ごめん。いや、悪いのもどんくさいのも俺だけなんだ。あいつは本当に良くしてくれてさ。最初は婦人科だったんだろうが、途中で別の科に移ったのかもしれないし」
気を遣ってくれている母親にキツイ調子で遮ってしまった罪悪感に口数が増えた息子を、富江は目を細めて見つめる。滅多に見せない熱量に少々揶揄いたくもなったが、自分の息子は良くも悪くも真面目な性格なのを理解しているため、富江はさっぱりとした調子で立ち上がる。
「私もよく知らないのに悪かったわ。さ、帰ろ? 会計すませてきたから」
明るく微笑んだ富江の後ろで牧は小さく。でも先ほどよりもはっきりと「ありがとう」と感謝を口にした。
帰宅して荷物を片付けたり食事や風呂をすませてしまうと疲れにどっと襲われた。
自分のベッドに久しぶりに横たわって、バスケットボールを腹に乗せた途端に頭が働かなくなる。まだ監督以外には誰にも連絡をいれていないというのに。
「……絶対明日……あいつらに怒鳴られ…………宮にも……叱られ……のに……」
牧はスマホを枕元に置いたまま、半ば気絶に近い勢いで寝落ちしてしまった。
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