Valuable memory. <前編>





 十年に一度、大規模で華やかな吸血鬼の集会兼晩餐会が四日間連続で開催される。
 集会の一ヵ月前、招待状が届くなりアキラは封も開けず捨てようとした。しかし丁度、届け物に来ておりその場に居合わせていた同種族のアヤコから、出席することがいかに重要か。今まで出席してこなかったことでどれだけアキラが不利益を被ってきているか等を滔々と説明された。それを隣で聞いていた、吸血鬼の世情など全く知らないアキラの伴侶である人狼のシンイチが、翌日アキラに黙って出席に印をした封書を使い魔に届けさせてしまった。
 もちろん出席のためのフォーマル一式と装飾品はシンイチがアヤコに見立てを頼み新調しておいたのでぬかりはない。礼はアキラがアヤコを四日間エスコートすることに、アキラ本人の同意を得ないまま決めてしまってもいた。こうしておけばアキラは途中で抜け出して帰ってこれない上に、アヤコの夫である人狼のタケノリにしても大事な妻に変な虫や万が一の危険予防になり喜ばしいのだ。そして口にはしないが、それはシンイチにとっても同じ思いであった。
 集会当日の夕刻。フォーマルを一部の隙もなく着こなしたアキラが出がけに、「皆して勝手に決めて。俺はシンイチを連れていけないところになんて行きたくないのに。あーあ……俺って可哀想。畜生、飲んだくれてやる」としきりにぼやいていた。不貞腐れた様子を装いつつも目が雄弁にシンイチと離れるのを淋しがっているめ哀れを誘う。だがこれも全てはアキラのためだと、シンイチは無理やり笑顔をつくって送り出した。
 こうしてアキラはほぼ強制的的に出席となり、四日間居城をあけることとなった。

 アキラが不在のうち最初の二日間は親友のミヤマスとタケノリが牛や酒を持って遊びに来たため、両日とも議論や酒で盛り上がった。
 残りの二日間は「ぜひ泊まりがけで遊びにきて下さい」とジンとノブナガに招待されていた。結婚を機に家を出てからもよく招き招かれて食事を共にしてはいたが、泊まる習慣がない人狼同士なので宿泊を含めて招待されたのは初めてだった。内心少々戸惑いもしたが、昔は一緒に暮らしてもいた、義理とはいえ可愛い息子たちに誘われては断る理由もない。シンイチは面映ゆく感じながらも呼ばれることにした。

 ジンが好むリンゴとノブナガが好む鹿一頭を手土産に現れたシンイチを、二人は「狩りから帰ってきたみたいだ……。一緒に暮らしていた頃のようですね」と昔を懐かしみながら歓待した。
 ジンの作った料理に舌鼓を打ちながら会話は弾んだ。食事後居間へ場を移し酒を飲み交わしながら和やかに過ごしていると、シンイチまでも三人家族として暮らしていた日々に戻ったような錯覚を覚えた。

 昔のようにシンイチの足元に座り、首を落とし既に眠りに落ちているように静かだったノブナガが、ふいにシンイチを見上げてきた。
「ずっと聞けなかったんすけど……マキさんとセンドーさんはどこで知り合って。その……どんないきさつで、だったんすか?」
「あ。ノブ。聞いちゃうんだ、それ」
 暗に自分も知りたかったことをジンも匂わせた。アキラを毛嫌いしている男がねぇ……とシンイチは面白そうジンを見やった。

 吸血鬼のアキラからいわせれば、人狼は堅物でシャイな一族だそうだ。確かに慣習や儀式的なものは遠回りな表現を用いるものが多い。だがそれらはアキラの見立てとは逆で、ほぼ抑制のためだ。血の気が多くスキンシップを好む人狼が、儀礼や距離感を保つことで仲間内での無駄な争いを減らすため定められたものなのだ。
 シンイチが義理の親となり育てたジンやノブナガは節度を重んじた教育をうけてきた。血気盛んながらも堅物な義父に色恋に繋がる話を聞かせてと乞うのは、相当勇気がいることだろうと容易くシンイチにも理解できる。
「いつか聞かれるかな、くらいは思っていたが。今夜俺を泊まらせた魂胆はそれか?」
「そーいうつもりだったんじゃないす。宿泊はセンドーさん不在って聞いたからで」
「だってマキさん、この十年くらいで……今夜だってさ、泊まってくれるっていうし。その、えっと」
「融通がきくようになったとでも言いたいのか?」
 うんうんと義理の息子達は同じリズムで頷く。
 昔のシンイチであれば眉間に皺を寄せるだけで逃げられた質問だ。しかしアキラとの生活により、照れくさくとも話すことで相手との距離や関係が良くなることを学んでいる。
 使い魔からワインを受け取ったシンイチがちらりと二人へ視線を送る。
「……もう随分昔のことだし、そんな面白い話ではないぞ?」
「いいんです、そんなの。今でこそヴァンパイアとの異種婚も少しは増えましたけど。昔、しかもマキさんがヴァンパイアと婚姻するほどの縁がどうやってできたのか知りたいんです」
「そーなんすよ! 堅物人狼一直線のマキさんが、別種族の、しかも気まぐれで気位の高い吸血鬼……わわわ」
 一緒に暮らしていた頃のシンイチは昔から人を悪く言うことに対しては露骨に嫌そうな顔をした。当時は親になった責任感から、教育としてそういう態度をとっていたのだが、そんな意図などノブナガ達は未だ知らない。
 他人でさえ悪く言っては機嫌を損ねるのに、伴侶を悪く言われたとあれば……。先ほどまでのいい感じは全て水の泡かと、己の失言にノブナガは青ざめる。
「あーあー、いいって。あいつが気まぐれなのは当たってるしな」
 鷹揚に返すシンイチにノブナガは目を瞠った。ジンへ視線をむけると、ジンは良かったねというように軽く微笑みを返した。それを見た途端、安堵したノブナガはアルコールではなくコーヒーを使い魔に三人分注文する。
「別にもったいぶるような話でもないが……」と。
そう前置いたシンイチは遠い記憶を辿るように話し始めた。


*  *  *  *  *


 仕事から疲れて帰宅したものの食料が切れていた。そのため狩りに出たはいいが、全く獲物の気配がない。シンイチは空腹に唸った。
「ここらに鹿の群れがいたはずなんだがなぁ……」
 このところ鹿や小動物が激減している。二十年前から終わらない、人狼と隣山のオークとの闘争のせいとは考え難い。それよりは数年前からこの山裾に広がる人間の居住地帯で戦争が続いている影響だろう。草食動物は臆病だ。恐れて群れを移動させたのかもしれない。

 不死者同士の闘争は化学兵器や重火器などは使わない。自然を汚せば最終的に自分達が困ることを理解しているからだ。人間はたかだか百年程度しか生存しないから、自然を汚したツケを汚した本人達が負うことは少ないせいだろう。次の世代やその次を考えもせずやりたい放題だ。頭がいい振りだけが上手い、短命で哀れな種族。そう思わなければ、傍若無人な人間の存在を無視することは苦し過ぎる。
 人間の自然破壊や生物の乱獲を看過できないオーク種族の主張は、全ての不死者が結託して人類を絶滅させようというものだ。そして不死者が平野に降りて昔のように自然主体で暮らしていこうと。
「……人間は圧倒的に数が多いし、追い詰めると後先考えずに化学兵器を持ち出して自然をも破壊するからなぁ」
 空腹を紛らわせようと声にだしてみたが、当然返事はどこからもない。シンイチはさらに森の奥へと進んでいくしかなかった。

 人間全てが自然破壊に疑問がないわけでもなさそうで、焼け石に水程度ではあるが植林や水質改善、生物の飼育などをしている極々少数もいる。それと人間の作り出すもの─── 衣食住と多岐にわたる様々な物を不死者も少なからず利用している。必要最低限程度は不死者全てが手を組めば自力で賄えなくはないが、今ほどの自由と快適な生活は難しくなるだろう。
 人狼集落主将のウトカタ氏が言うように、害は多くても益も馬鹿にできない種族なのだから、もうしばらく静観しても良い気がする。絶滅させるか、それとも1/50ほどに減らして不死者の管理下で生産だけさせるかなども議論してもいいのではないか。
 なによりまず不死者全種族の結託の方が非現実的な話だ。人狼とオークの二種族間だけですら、話し合いで決着がつかずに闘争─── 期間を決めて行う原始的な肉弾戦で主義を通そうとする情けなさなのだ。気位が高過ぎて(残念ながら気位に値するほど能力も高いが)他種族の話など聞く耳すら傾けない吸血鬼が、愚鈍なトロールや臆病者のエルフ、能力が低く卑劣なボブゴブリンどもと同じテーブルに着くはずもないのに。

 考えることに意識を集中していたが、腹が鳴る音で耳から嫌でもを空腹を突き付けられる。けっこう歩いたというのに、相変わらず動物の気配は皆無だ。
「それほど主張を通したいなら俺達相手ではなく、まず吸血鬼の一人とでも話をつけてからこいってんだ。ったく、オークは筋肉バカばっかりだ」
 空腹による苛立ちが三日前に終わった戦士としての仕事を思い起こさせてしまい、余計にささくれだって一人声を荒げた次の瞬間。その声に反応するように細く消え入りそうな周波数を感じ、警戒にシンイチの腕の毛が逆立つ。
「誰だ。三つ数える間に姿を見せろ。見せない場合は敵とみなす」
 より耳や鼻が利く狼の体型で索敵しようと変化しかけたが、弱々しい声の返答にシンイチは人狼形体のまま声の方へ体を向けた。
「…襲う気…ない。……でも、そこ…は行け…い」
 消え入るような弱い声の位置から相手が思いのほか近い距離にいることがわかる。それなのにこれほど弱い周波数なのはおかしい。言葉を操っているから人間か、人間の形体を保ったまま瀕死状態の不死者のどちらかだろう。
 シンイチは身構えながらも声がした雑木林へと足を踏み入れた。

 鬱蒼と茂った林の中ほど。生い茂る葉が重い影を落とす大樹の根元、その裂け目の更に奥に続く洞穴に人間の男のような者が足を投げ出して座っているのを見つけた。
 不意の攻撃を避けるのに十分な距離からシンイチは様子をうかがう。
「お前……不死者だろ。どこの者だ。俺は」
「あんたは人狼だろ。……俺はこのまま、冬が来て葉がすべて落ちるのを待っているだけの者さ。放っておいてくれ」
 陽光を気にし、陽光を浴びて消滅する種族は吸血鬼しかいない。シンイチは驚きに目を瞠った。こんな人里近いような山中に。人狼を─── いや、吸血鬼以外のすべてを見下している孤高の種族が何故こんなところで。何故これほど弱って座り込んでいるのか。
 低く掠れた声に力はない。周波数もこれほど近付けば意図的に気配を消すために落としているわけではないこともわかる。この吸血鬼はいったいいつからずっとこうしているのか……。
(吸血鬼は出鱈目に能力が高いと聞くが、今の状態なら人狼の俺一人でも殺れる)
 そう確信しはするものの。自分は一部の人狼達と違い、吸血鬼に深いコンプレックスも恨みもない。戦士ではあるが無益な殺生を好まない性質だ。

 相手が攻撃してくる様子もないことから、シンイチは好奇心に負けて吸血鬼に近付き観察してみることにした。もし攻撃してきたら殺せばいい。
 逆立てている黒髪。人間の耳をつまんで尖らせたような耳。石膏のように白い顔。薄紫色の唇。閉じた瞼の付近は青紫の粉を塗ったように落ち窪んで見える。これが人間なら死後二日ほどと判断しそうだ。
 吸血鬼が全く動かないのでもう1m近付いて目を凝らしよくよく覗き見れば、精悍で細い面立ちは恐ろしいほど整っており、人間というより石膏で作られた人形のようだ。身なりは黒のロングコート……の下はよく見えないが、コートからはみだしている長い足はチャコールグレーの上質そうなスラックス。高価そうな革靴などから、相当の金持ちで高身長なのが見て取れる。
 観察されることに飽きたのか、吸血鬼の薄い唇が開かれる。
「……なにさ、吸血鬼が珍しい? それともセックスしたいの?」
「なっ……!?」
 長い睫毛を重そうに持ち上げた瞼から漆黒の瞳が覗く。
 驚きに声を失ったシンイチを見返して、再び唇が動きをみせる。
「身ぐるみ剥ぎたいだけならお断りするよ。冬まで素っ裸はみっともないからね」
 どうでもよさげに美貌の男が吐き捨てる。洞の中でぼんやりと白く浮かぶ頬の前で紫色の長い爪がひらひらと蝶のように閃き、力を失ったようにパタリと地に落ちた。
 その動かぬ指先に信じられないものを見つける。
「……お前の指先のそれ、なんだ? さかむけじゃあないよな?」
 面倒そうに視線を己の手に落とした吸血鬼は、もっと面倒くさそうに口を開く。
「さかむけだよ。もう随分と飯食ってないから、栄養不足なんでしょ」
 あまりの驚きに警戒心も忘れてシンイチは穴の中に上半身だけ入った。吸血鬼の冷たい手を取り、さかむけのひとつをつまんでピーッと引っ張る。
「痛い痛い痛い痛いっ!! なにすんだっ、殺されてぇのかよ!!」
 手を叩き払われたシンイチは呆然と呟いた。
「……すまん。でも出血したら治癒するだろ?」
「治るけどっ。痛いだけ損じゃん、こんなのあったって別にかまわないのに。さかむけ引っ張る方が銃で撃たれるよりなんとなく嫌な痛みなんだよもう〜…あ、治った」

 話しかけたら返事をする吸血鬼。さかむけを作ってる吸血鬼。さかむけがあっても気にしない吸血鬼。見ず知らずの(しかも吸血鬼よりは下級種族の)者に触られ、しかも痛い思いをされても襲い掛かろうともしない吸血鬼……。
 話に聞く高慢で傲慢、美貌で高能力な孤高の種族とは全く重ならない。
「お前、本当に吸血鬼なのか?」
「失礼だねぇ。まあ? こんだけボロボロでこんなとこにいちゃあわからなくもないけど」
 男らしく少し太目の眉が柔らかに歪められ、薄めに整った形の良い唇が皮肉気に笑みをかたち作る。その隙間から牙がちらりと艶めかしく光った。
 同性を初めて美しいと認識した途端、何故か咽頭がごくりと上下した。……確かに美貌だけは噂で聞く吸血鬼そのものだと考えを改めざるを得ない。透き通るほど白い肌。くっきりとした二重に長い睫毛。通った鼻筋。少し甘めながら端正に整っている美貌。痛みのせいか潤んだ二瞼は漆黒の夜の湖のようで、引き込まれるほどに妖艶だ。女子供のもつ可愛さや美しさとは違う分、頭が混乱する。表現し難い悪魔的な魅力に少々空怖しさを感じるほどだ。
(このパサパサに乾いている唇が潤いを取り戻したら、どれほど美しいだろう。落ち窪み力を失っている瞳が生気を取り戻したら、満月を浮かべた湖のように眩しいのだろうか……)

「……腹が減っていると言ったな。吸血鬼は人間の女を好むと聞くが」
「飯持ってきてくれんの? 何と引き換えたくて? ……でも無理だよ」
「何が無理なんだ?」
「俺は美食家でね。女といっても、2月29日生まれの処女の血以外は飲んだら吐いちまうんだ」
「2月29日生まれの処女かどうか判断するコツはあるのか?」
 だるそうに半開きだった吸血鬼の瞼が開かれ、長い睫毛が音を立てそうな瞬きをする。
「……あんた、本気?」
 こくりとシンイチが首肯する。
「こんな弱ってるくせに、わけわかんねぇ選り好みしてる場合かよとか、ふざけんなとか、ないの?」
「ふざけてるようには見えない。それほど衰弱しているのにこだわるということは、他の人間だと嘔吐だけでは収まらなくて栄養にならんのだろ。違うか?」
「………何と引き換え? つっても俺は」
 話に耳を貸さずシンイチは自分の手首を牙で噛んだ。狭い洞の中に血の匂いがぶわりと広がる。紅く染まった牙と唇で人狼は己の話を続ける。
「その生誕日の女を探すのは時間がかかりそうだ。少しでも体力温存のために飲んでおけ。味は不味いかもしれんが腹は壊さんだろ。人間よりは血が近いはずだから」
 手首から腕へ滴る紅を逆手で押さえながら吸血鬼へ差し出す。
「噛まずに吸え。俺はお前と情交する気も時間もない」
「……施し、ってやつ? それほど落ちぶれてはいないつもりだけど?」
 溜息交じりの馬鹿にした口ぶりを裏切るように、黒い瞳が爛々と真紅に変化してゆく。欲求がわかりやすくて、いい。
「問答をする時間が惜しい。人間より栄養はある。少量でも取らないよりましなはずだ。吸え」
 背けた白い頬に無理やり血濡れの手首を押し付ければ、嫌々を装いつつも唇を寄せて血を口に少量含んだ。テイスティングのように舌で転がしたのち、紅を刷いたように艶めかしい唇が小さく、秘密を打ち明けるように囁く。
「仕方ないから、飲んでやってもいいよ」
 そんな欲望丸出しの顔をしておきながら、言うことはそれか。こいつが吸血鬼でなければ拳骨を落としてやるところだと、シンイチは腹の奥で笑った。
 きっと別種族に何かを強要されることがなかったのだろう。それに飲みたくもない下級種の血を押し付けたのは俺なのだから、折れるのは自分でかまわない。
「あぁ、飲んでやってくれ。俺の腕の傷が塞がるまでの間でいいから」
 相手に下出に出られてバツが悪かったのか、吸血鬼は困ったように眉尻を下げた。
「……アキラ。あんたの血を口にする者の名前だよ。あんたは?」
「シンイチだ」
「ふぅん……変な名前。じゃ、いただきます……」
 手首にアキラの唇がぴったりと押し当てられる。柔らかく、少し冷たい唇が蠢くくすぐったさにシンイチは背中を震わせた。

 味わってでもいるのか、伏せられている睫毛が時折震える。白い喉が何度も嚥下で上下するたびに、何故か淫らがましい気分になってしまい見ていられなくなる。
「……どうしたの、シンイチ。痛い?」
 低く艶のある声で初めて名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
「痛くない。…おい、なにもそこまで」
 シンイチを深紅の瞳で見上げながら、腕に伝っていた血の跡を舌でたどるアキラの艶麗さに狼狽える。舐め、唇を吸いつける様子がひどくいやらしく映り、体が熱くなる。
「汚い食い方は嫌いなんだよ。……シンイチは純血の人狼じゃないんだね。魔女か人間の血が混ざってるような」
 突然血統を言い当てられ、熱を帯びていた体が急激に冷めていく。
 低級種族の魔法使いである母親の血が自分の血の味にも表れているなど知らなかった。
 きっとこの美しい吸血鬼は人狼以下─── 下賤の血を口にしたことを深く後悔して…
「だからかな。美味しかった。ごちそうさま」
 続く満足げな言葉がシンイチの暗い思考を断ち切る。
「…おいし……かった………」
「うん。純血の人狼は獣臭くてね。煩いくらいパワーばかり主張してくる味で、すぐ飽きる。あんたのは獣臭さはそう気にならないし、パワーの中に複雑な甘味が溶け込んでいて癖になる。気に入った」
 信じられない言葉を繰り返したら、すぐに肯定を返されてシンイチは困惑する。
 パワーの味がどんなものかは知らないし、血の味など褒められても何もならない。それでも胸の奥から温かい、歓喜にも似た思いがわきあがり満たしていく……。

「シンイチ?」
「あ。……あぁ。それは……良かったよ」
「うん。だからもっとしっかり飲みたい。あんな味見程度じゃなくて。きちんと牙を沈めたいな」
 俯いていた項から鎖骨まで、ゾロリと冷たい指に撫でられてシンイチは飛び去るように後退った。
「だっ…駄目だ! お前らは牙に毒があるんだろ。その毒は不死者には強烈な媚薬だそうじゃないか。そんな毒をまわされるなど、まっぴら御免だっ」
「えー? すっげぇ気持ちよく昇天できちゃうのに? それが目的で吸血してくれって、女も男も俺に首を差し出してくるのにさぁ。あんたはなんで嫌がるの? 俺が牙もコッチもあんたに埋めて満足させてあげるよ?」
 小首を傾げながら、紫の長い爪でアキラは自分の股間を指さして見せた。
「なっ…! 何で俺がお前に身体を開かなきゃならないんだっ。逆ならまだしも……っ!?」
 転び出た己の言に驚き、口を塞いだシンイチへアキラは愉悦の笑みを浮かべる。
「逆ならいいんだ? なんだぁ、けっこう俺のこと気に入ったんじゃん。まあね? 快楽目的以外でも、なんでか俺を抱きたがる男の不死者もいっぱいいたよ?」
「だから、俺は違う……」
 アキラがしなだれかかるように身を寄せて、人狼の人型の耳へ囁く。
「……でもね。吸血されるのは俺じゃあない」
 楽しさの中に確かな冷酷を含んだ声音にシンイチの全身が総毛立つ。
「毒が回る側が結局は泣いて欲しがる。牙だけじゃなく俺のこいつもぶち込んでくれってね。……もちろん、そうなっても俺は約束通り手は出さなかったけど?」
 くすくすと思い出し笑いをするアキラに、毒が体内から消えるまで一人で悶え苦しむ他種族の男達の姿が容易に想像できた。

 シンイチは眉間に深い皺を刻んで立ち上がった。
「二人もいれば足りるんだろ?」
「? あぁ、人間の2月29日生まれの処女? 今は酷く腹が減ってるから、三人は欲しいとこかな」
「わかった。狩ってくる」
 洞から出ようと踵を返したシンイチの手首をアキラが掴んで止める。
「飯が見つかるまで俺は放置? 飯はいつ届くの? 何ヶ月先の話? 飯を探す良い算段でもあんの?」
 言い募るように質問され、シンイチはたじろぎながらも律義に答える。
「やみくもに捕らえても無駄そうだから、まずは生年月日が載っている」
 名簿みたいなものを持つ人間を探してと言いかけたシンイチを手のひらで制し、アキラが身を寄せてくる。そんな少々乱暴な所作のひとつひとつまでも優雅さを感じさせる。
「待ってられない。人間の女なんていらないから、あんたを食わせてくれよ」
 漆黒に戻っていたアキラの瞳の奥でチロチロと鬼火のような紅が見え隠れしはじめる。
 欲望を直接むけられて悪い気がしていない自分がいて、シンイチは奥歯を噛み締めた。もしこいつに毒がなく、俺が抱く側になれるのならば。今ここで抱いてやるものをとすら……思ってしまうほどに、自分は既にこの男に惹かれてしまったのだと悟る。
「……さっきのようになら飲ませてやれるが、牙での吸血は断る」
「シンイチは俺を助けて何を得たい?」
 掴まれている手首に痛みが走った。アキラの紅い爪が答えろとばかりに食い込んでいる。
 ……言えるわけがない。力が満ち足りて潤ったお前が微笑む姿が見たいだなどと。そんな、あっけなく恋に落ちたことを教えてしまうような愚かなことなど。

 下唇を噛んだまま答えない人狼へ吸血鬼は首を傾げた。
「シンイチ? 慈善の施しだなんてつまらないことを言わないでよ?」
 返答を伸ばすほど想いを見透かされてしまいそうで、シンイチは苦し紛れて嘘に逃げる。
「……二十年前から人狼とオークの間ではくだらん闘争が続いている。吸血鬼のお前に俺達の側にたってもらえれば……と考えていた」
「いいよ」
「しかし吸血鬼が他種族同士の揉め事に介入するなどあり得ん話なのは分かっている。だから俺はお前を説得しなくてはならない。そのためにはまずお前の体力回復と俺への心証を」
「だから、いいよって」
「そう。いいよと許諾を得るために………え?」
 面食らうシンイチの両頬をアキラの冷たく大きな手のひらが包む。顎に残る血の跡を舌で舐めとられる。そんな程度のことで強靭で感覚が鈍いはずの人狼の肌が容易く粟立つ。
「あんたの願いを叶えると契約する。そのかわりあんたはこの先、毎月最低でも一度は俺に血を与え、抱かれるんだ。そうだね……満月の夜にしようか」
「……そんな……」
「生きる理由が出来た。月一度の吸血の代償に、俺はあんたが命じることなら何でもしよう。さあ、教えてフルネームを。あ、ミドルネームは音に出さないで、俺の唇の上で唇の動きで伝えて。俺もそうするから」
 誰かにミドルネームを知られて、妙な面倒事になるのは嫌だからね。
 楽しそうに続けられ、シンイチは狼狽える。
「アキラ、それは。ミドルネームまで使う契約は……」
 何かで聞いたことがある。ミドルネームまで含めたフルネームで交わす異なる種族同士での契約は、どちらかが誓いを破れば互いの心臓を罰の矢が貫くと。実際には罰の矢など存在しないため心不全みたいなものだろう。それですぐ死ぬわけではないが、それほど重い誓いのはずだ。近年ではその契約を交わした者の話など耳にしていない。
「シンイチ。俺ね、あんたの血を飲んで色が識別できる程度に視力は回復したんだ。だからあんたがとびきり綺麗な褐色の肌なのも。月や星よりも綺麗な黄金の瞳を持っているのももう知ってる。それにさ、あんたの魂はその肌や瞳よりも更に深く美しいことも血の味でわかっちゃってたんだよ。末永く、よろしくね」
 微笑む冷たい唇がすぐさまシンイチの唇に重ねられる。アキラがフルネームを唇に刻み込むように伝えてくるから、シンイチもまた同じように伝えてしまう。
 吸血鬼が刻む契約のが放つ白い光が洞穴のを眩しいほどに照らしだす。
 空中を舞う塵が白光で煌星のように光踊る中で、己の両手を見つめて唱えているアキラは荘厳なほどに美しい。能力も美貌も高過ぎるがゆえに性質が悪い吸血鬼は、神よりは悪魔に近いと評されている。しかしシンイチの目にアキラは神の使徒のように眩しく焼き付けられた。

 美しさに圧倒される中、シンイチは忘れてしまっていた昔の出来事―― 成人の儀式の前夜に森の奥で偶然見てしまった、一人の吸血鬼が吸血をしている様子を何故か唐突に思い出していた。


*  *  *  *  *


 契約の印を結び終えた後。家へ来たがるアキラを説得して、シンイチは宿屋に連れて行った。人間の居住地から外れた山裾に建つ宿屋の女将は代々不死者と人間のハーフだ。利用者はもっぱら不死者で、宿屋とは名ばかりの性行為専用の宿泊施設だが、物品と人間の貨幣を交換するなど手広くやっている。
 女の人狼と利用して以来だから二年ぶりか……とシンイチはダブルベッドが中央に配置された室内で天井を見上げる。
 こいつを仲間に見られるわけにはいかないし、かといって家になど絶対泊めさせられない。こんなところへ連れ込んでしまったのはこいつと性行為をするためじゃない……。
 
 何度も自分に言い訳を繰り返しつつも。シンイチは唸って頭を抱えてしまう。どう楽観視しても自分がこの吸血鬼に求愛行為をしているようで気が重い。
「……なんでこんなことに」
 一人掛けの椅子に沈み込んで、もう何度目かの言葉が溜息とともに零れる。
「運命に理由はないんじゃない?」
 部屋に備え付けの風呂を使用し、棚に並べられた赤ワインを全て飲み干しておいて、それでもアキラの頬は白いままだ。
 向かいの椅子に座りあっけらかんと返す身体からは、安い石鹸と安いワインの香りが仄かに漂っている。何もかもが高貴な美貌の種族にそぐわない。言い換えれば、この空間でアキラだけが浮いている。それがまた申し訳ない気持ちを沸き立たせ、更に溜息を増やさせてもいた。
 椅子の肘掛についた片手で己を頭を支えながら、人狼はグルルルル……と唸った。
「運命だと何故わかる」
「だって俺、長いこと生きてきて2月29日生まれの人間の処女以外で美味いと感じたことなんて初めてだもん。しかもあんた自身も俺好みときてる。これはもう運命でしょ」
「百歩譲ってそれが冗談じゃないとして。それはお前の事情だろ。俺にとって運命かどうかなどわからんじゃないか」
「まあそーだね。けどオークとの闘争で人狼側が勝利したらそう思うんじゃない?」
 後々あんたにとっても有益なことは増えるだろうし? などと己の存在をケロリと全肯定されてしまい、その自信と軽さに呆れ果てる。吸血鬼とは皆、能力や種族階級の力で何事もどうとでも出来ると楽観思考なのだろうか。
 ここまで悪びれもせず言い切られるとおかしなもので、小気味よさすら感じてしまう。シンイチは苦笑混じりに返す。
「闘争の勝利と終結が俺の運命とは関係……なくもないか。闘争が続けばいつかは俺も命を落とすかもしれんしな」
「なにそれ。その闘争ってのは口論じゃなくて実力行使なわけ? あんたが闘いに駆り出される可能性もあるってこと?」
「俺は人狼で最高位の戦士のひとりだ。闘いに出ない時はない。基本は代表同士の二対二だ。どちらかの一人が仮死状態になるか死ぬまで戦う。むろん俺はこの二十年出場し続けて負け知らずだからここにいる」
 混血であっても闘いでなら純血の人狼にも負けはしないとの自負から、シンイチは心持ち胸を張り答えた。
 
 シンイチは強さへの賞賛を期待したが、アキラは盛大に嫌な顔をしてみせた。
「野蛮だなぁ。不死者同士が死ぬまでやりあうなんて、どんだけ時間かかんだよ。見てる方も疲れんじゃないの? つか、ただでさえ不死者の数は少ないのに。いくら人狼やオークが不死者の中では繁殖率がマシな方だってもねぇ。筋肉バカ種族はこれだから」
 期待に反し罵られ、しかも人狼とオークを同列の筋肉バカと称され流石に憤慨する。
 しかしアキラは渋面のシンイチにお構いなしに喋り続ける。
「来月の新月が闘争日だって言ってたよね。もうあんたを闘わせないためには、その前にオークの主将に降参させないといけないってことか……」
「はあ? いくらお前が吸血鬼だからって、一人で何が出来る。自惚れにもほどがあるだろ。そりゃお前が言えばオークの主将も会議の席を設けるくらいはするだろうが」
「会議なんてまだるっこしいこと、俺が嫌だよ。面倒だから、主将の部屋に忍び込んで直接話をつけてくる。降参しないようなら洗脳する。オークの一人くらい楽勝だよ」
「忍び込めるものか。オークのラヒネカ主将はうちのウトカタ主将よりは若いが頭はなかなかに切れる。そして慎重なのか小心者なのかは知らんが、常に警備は万全と聞いているぞ。寝室にすらゴーレムを数体配備しているらしい」
「あんな巨大さと怪力だけの泥人形、何体あったって別に?」
「甘く見るな。数がいるとけっこうやっかいだぞ。それに侵入経路の確保だって、」
「忍び込めるよ。こうやって、空からいく」
 言葉を被せたアキラがポフンと煙をたて、みるみる小さくなっていく。体長10cmくらいから毛や羽が生え、最後には手のひらサイズの蝙蝠になった。
「能力が高いと質量まで変化させられるのか……凄いな。もう変化ではなく魔法の領域だ」
 吸血鬼は蝙蝠に変化すると知ってはいたが、まさか本物の蝙蝠と同サイズになれるとは。変化能力は基本的に質量が同等程度の個体にしか変化できない。変化できる形体は血に混じる動物のDNAによって違う。人狼は狼に変化できるが人狼時と同程度のサイズにしかならない。他の不死者の種族も似たようなものだ。だから吸血鬼が蝙蝠になれたとしても、そうとう大きなサイズになると思っていたのに。吸血鬼の能力の高さに改めて舌を巻く。

 シンイチの掌の上で羽を伸ばした蝙蝠は、再び先ほど座っていた場所─── もぬけの殻状態のバスローブの上にとまると煙をたてながら素早く吸血鬼の形体に戻ってみせた。
「蝙蝠の姿では洗脳はできないから、どうしても素っ裸の間抜けな姿でやるしかないんだけど。まあ、俺の醜態の記憶は消すから問題ないけどさ。……シンイチ?」
 白い体は細身ながらも美しい筋肉をまとっている。その体の中央、黒々とした茂みの間に鎮座する立派な男性器を長い手足は隠そうともしていない。シンイチは目のやり場に困って立ち上がり背を向けるしかなかった。
(同じ男の裸体に、何故こうも煽られるんだ。俺は同性愛の気はないはずなのに、自分で自分が理解できん……)
「……腹が減ったから売店に何かないか見てくる」
「売店閉まってたじゃん。あんたは帰りしな兎を一匹食っただろ。それより人の話を聞きなよ。俺の方が腹減ってるのに、わざわざ変化までして見せてやったんだぜ?」
 冷たい指で腕を掴まれ、シンイチはベッドへと座らされた。
 隣に腰かけてきたアキラは“こちらを見ろ”とばかりにシンイチの顎を掴んで首を捻じ曲げさせる。血の気が多いせいだと昂ぶる自分を無理やり説得しているところを邪魔されて、至近距離にある美貌を直視したシンイチの心臓が跳ね上がる。
 一糸まとわぬ美丈夫は手のひらを人狼の頬に密着させたまま、うっとりした吐息を漏らした。
「……シンイチって体温高いよね」
「人狼は皆、こんなもんだ」
「そうかなぁ? でもシンイチの体温は格別に気持ちいいよ」
 顎からするりと紫の爪先が襟の奥へと侵入してくる。
「……ここに流れている血液は外気に触れていない分、もっと熱い。シンイチの体の奥の温度も同じ……いや、もっと熱いんだろ。そこで俺も溶かされたいな」
「だから俺は、お前とする気はないと言っただろ」
「試してみようよ。嫌だったらやめたらいい。それにさ、俺はあんたと違ってすっげー空腹なんだ。こんなに腹が減ってちゃいい仕事なんてできっこないぜ?」
 裸身を寄せられて手を握られる。アキラの硬い黒曜石の瞳が溶け、赤葡萄酒のように妖しく揺らめく。禍々しいまでの美しさに魅せられ、その手を跳ねのけられない。
「そんなにバックバージン奪われんのが嫌なら、後ろは使わないって印を結んでもいいよ?」
「……それだと今までのお前の恋人達のように、毒が消えるまで一人で苦しみ続けるんだろ」
「恋人なんて。全部一夜限りの商談相手みたいなもんさ。give & take。俺は血を、相手は快楽をもらう。俺は毒という快楽を与えてるから、挿入はあくまでサービス。望まれないならしないよ面倒臭い。まあ、そんな関係?」
 シンイチの手をアキラは己の太腿に導いた。指先に少しひんやりと、そしてさらりとした肌と筋肉の質感が伝わってくる。……抱けばこの筋肉も少しは熱を生み、滑らかな白い肌に汗が浮かびもするのだろうか。
「でもね。シンイチは別だよ。契約しただろ。もう一夜限りの相手じゃない。だから大事にする。後ろを使わなくても介抱してあげる。ほらもう何も問題ないだろ?」
 悪魔の囁き。いや、悪魔のような吸血鬼の甘い囁きに好奇心と欲望が抑えられなくなる。
(いくらか仲間内では理性的な方だと言われていたって。所詮俺も単純で血気盛んな人狼にかわりないってことだ)
 つい先ほどまで宿屋に連れ込んだことを後悔していたというのに。引きずり出された好奇心や欲望は笑えるほどに呆気なく理性も後悔も押し流してしまったようだ。
 クッとシンイチは喉の奥で己を笑った。
「……お前の“大事にする”というのは、一人で辛くはさせないということか?」
「そう。味わったことのない快楽を楽しんだらいい。で、コレは入れないって印は結んどく?」
「いらねぇ。毒を食らわば皿までだ」
 牙をちらつかせる獰猛な人狼の笑みに、吸血鬼は楽しそうに口角を上向ける。
「……いいね。そうだよ、そんな印なんて無粋でしかない。さあ、たっぷり楽しもうか」
 紫の長い爪がシャツの襟を割る。既にうっすらと汗をかいている褐色の肌が外気に触れて、シンイチはふるりと体を震わせた。
「やっぱ怖い?」
「別に。死にはしないんだろ。だがまあ、飲んだ分くらいは大事にしてほしいかな」
「了解。あんたの初めてを頂くんだ。うんと大事にしてあげるよ……」
 急激に伸ばされた牙が真珠のように光る。褐色の首筋にあてられた長い牙は音もなく沈められていった。


*  *  *  *  *



 牙が身に沈むのと同時に血液にウォッカを流し込まれたような、熱過ぎる淫らな快感がシンイチの身を内側から焼いた。普段は隠している獣耳も尻尾も瞬時に露出し、感じたことのない恐ろしいまでの快楽に咆哮を上げさせられた。
 はっきりとした意識はそこまでしかない。あとは断片的な記憶が少々残っているだけだ。けれど全身に深く残る、オークと一戦交えた後のような疲労感と倦怠感。そして今のこの惨状─── 乱れきったベッド。ひっくり返っている椅子とテーブル。ベッドや床に散乱している空のグラスとワイン瓶……。物言わぬそれらに自分は昨夜、常軌を逸するような情事を交え終えたのだと諭される。

 まだ眩暈が残る中、裸のままうつ伏せていた体にふわりと柔らかな物がかけられる。首を捩り見上げれば、もう既に着衣済みのアキラがいた。
「あ。起きたんだ。流石人狼。タフだなぁ」
 どれくらい気を失っていたのだろう。手を伸ばして床に落ちている時計を拾い見れば深い溜息が出た。
「……すまなかった。お前を放ったらかしたまま、ほぼまる一日半も寝て」
「初めてで毒の免疫がない割には回復早いよ。パワーのない種なら三日くらいもザラだし?」
 なんの種族だったか忘れたけど、とアキラが首を傾げる。
 体を繋いだとは思えない、何も変わらないアキラの態度に安堵する。シンイチとしてもアキラに特別と思えるほどの深い恋愛感情はまだない。抱かれた形跡はこの惨状と肉体の状態から理解は出来るものの、切れ切れの短い記憶しかないのだ。せめて繋がりによる情を抱けというのも無理な話だろう。

 かけられたひざ掛けを腰に巻きつけてノロノロと立ち上がる。痛みを感じたことのない場所に鈍痛を覚え、最中に自分は変なことを口走ったりしてやしないかと不安になる。しかし下手に聞いて薮蛇は御免なため、黙って着替えを拾い集める。
 腰をかばうように歩く背に、アキラは天気の話をするようにあっさりと告げた。
「暇だったから、オークの主将の城を潰してきといたから」
「…………は?」
 驚きに足を止めた数秒後。腰をかばうのも忘れ勢いよく振り返ったシンイチをアキラはつまらなさそうな顔で見返している。
「オークの集落がある場所は知ってたから偵察に行ってみたんだ。そしたらまあ、バカみたいにデカイ城があるじゃない。しかもゴーレムうようよ飼ってる悪趣味なさぁ。だからその辺に歩いてたオーク捕まえて聞いてみたの。そしたらラヒネカの城だって言うから」
 俄かには信じられない。流石に冗談としか思えないため、シンイチは小さく失笑した。
「確かにオークの村にある、一番大きな城はラヒネカ主将のものだ。だが」
 ドアをノックする音に話を中断させられた。
 シンイチが扉の前へ歩み寄ると、『あの、人狼のウトカタ主将がシンイチ・マキという人狼に緊急召集をかけていると連絡が入りまして』と女将の震える小声が扉の向こうから聞こえてきた。

 急ぎ自宅へ戻る合間、シンイチを探していた仲間たちから、ラヒネカの城が深夜何者かによって落とされたこと。オーク達が人狼と和平調停をすべく、数時間後に主将ウトカタの城へ来るという情報を伝えられた。
 家で着替えを口に銜えたシンイチは狼の形体になると、玄関先で興奮状態で待っている仲間たちを引き連れて、ウトカタ主将の待つ居城へと文字通りすっ飛んでいった。



*  *  *  *  *



 シンイチは己の心情やアキラを宿屋へ連れ込んだこと等を大幅に省いて簡略に説明を終えた。簡略とはいえそれでもけっこう話通しだったため、残り僅かとなっていた三杯目の珈琲を飲み干す。
「……まあ、それ以来の付き合いってことになるな」
 元来シンイチは己の過去を話さない。隠しているわけではなく、聞かれない限り話す必要性を感じない性質なのだ。そのため、ジンもノブナガもこんなに順を追って語って聞かせてくれたことに感動を覚え、暫くは話の余韻に浸るように静かだった。

 森で出会って血を分け与え、数時間のうちにフルネームで契約の印を交わした相手が、出会った翌日には敵対する大将の城を落としてくるなんて。まるで夢物語のようで、ノブナガはぼんやりと呟いた。
「そんなすげぇことが、俺達が引き取られる前に……。しかも俺達の方がセンドーさんよりマキさんとの付き合いは浅かったなんて」
「そうなるな。だが月に一度、数時間逢うだけの関係より、一緒に暮らしていたお前達の方が……同種族というのもあるが俺には近しかったよ」
 家族だしな、と優しく笑う義父へノブナガは少々甘えが混じる声音で返す。
「俺、大人になってマキさんからセンドーさんの存在を教えてもらうまで、全く気付かなかったすよぉ」
「まさかあいつの系譜に入るようになるとは思ってなかったから、隠していたんだ。だがジンに気付かれちまってな。下手をしたもんだ」

 二人が話しているのを黙って聞いていたジンが神妙な面持ちをシンイチへ向ける。
「……ちょっといいですか」
「なんだ?」
「今の話……『ボブゴブリンの無血開城』っていう絵本の話とかなりかぶってるんですけど……」
「え〜? ジンさん、それはムリがありますよ〜。お話のキーア・ラドンセは3メートル近い大男で700歳の吸血鬼すよ? それに彼を連れてきた人狼は絶世の美女のチキマで、彼女はキーアの内縁の妻でしょ。大体、ボブゴブリンとオークは全くの別種族じゃないすかぁ。主将たちの名前だって。なにもかぶってないすよ」
 ノブナガの明るい突っ込みには返事をせず、ジンはシンイチを見つめたままだ。
「ジン、さん……? え、マキさん、あの……?」
 不安そうに二人を交互に見やるノブナガへ、シンイチは含み笑いを浮かべるだけだ。
「え、え。なんすか? え……ジ、ジンさん何か言って下さいよ」
 ノブナガに両肩を掴んで揺さぶられたジンは忌々しそうに口を開いた。
「……バカみたい。どうせならもっとバレない偽名を使えば良かったのに。第一、なんで最初からマキさんがあいつの籍に入った名前にされてたんですか」
「俺の血をもらったから闘えたとかなんとか言ってたな。ふざけた偽名も女にしたのも、全部あいつのその場の思い付きだ。まともに取り合う方がバカらしいぞ」
「え。……へ? あ? ああ!? え、でもチキマって? チはどこから?」
「シンイチのチなんでしょ。くっだらない」
「確かにくだらんな。ま、寝るまでの時間つぶしにはなったから、いいだろ」
 使い魔に運ばせた新しいワインを機嫌良さげに飲むシンイチを、ノブナガは愕然とした顔で凝視していた。



*  *  *  *  *



翌々日、日が落ちて半時もたたぬうちにアキラがシンイチを迎えに来た。
「早過ぎる。抜け出して帰ってきたんじゃないだろうな」
 シンイチは自分が居城でアキラを出迎えたかったという不満を疑いの眼差しで隠して尋ねた。
「まっさか〜。んなことしたらアヤコさんに半殺しにされてますよ」
 予定よりかなり早く閉会したことやアヤコをタケノリの元へ先に送り届けたことを。褒めてと言わんばかりに嬉々として報告するアキラの姿は、ジンだけではなくノブナガから見ても、御伽話として残るほどの恐ろしい吸血鬼というよりは、ただただシンイチにべた惚れの忠犬にしか見えなかった。

 ジンは出来るだけにこやかに顔を作ってアキラを夕食に誘った。しかし誘われている本人より先に、「こいつかなり疲れてるようだから、また誘ってくれ。すまない」とシンイチから丁重に断られた。アキラも手刀を切りながら「せっかくなのにごめんね」と微苦笑する。
 こっそりとノブナガが「手刀する人、マキさん以外で初めて見た。考えてみりゃアキラさんの方がジジイだもんね」と、ジンの後ろでイヒヒと笑った。その笑い声にアキラが視線をむけると、ノブナガは慌ててジンの背に隠れ身を竦める。
「……これが普通の反応かもね。てことは、俺はもう麻痺しちゃったってことか」
「何のこと?」
 小首を傾げるアキラへジンは片眉を上げ小さく溜息をついただけだった。

 ノブナガとシンイチが立ち話をしているのを、ソファに座って見ていたアキラにジンは小声で尋ねた。
「キーア・ラドンセはどうして人狼達の前に現れなかったの? もし名乗り出て少しの間でも留まっていれば、御伽話なんかじゃなく人狼の英雄として、ヴァンパイアへの従属と」
「吸血鬼が他種族に興味を持つとは思えない。まして自分達より下級種族のために動くわけがない。御伽話は夢で出来てるっていうけど、ホントそうだよね」
 ジンの話を遮ったアキラの言葉も声音もあくまで他人事といった様子だ。けれど人狼の間にのみ存在する大昔に描かれた絵本の話を。それこそ他種族に興味のない吸血鬼が知っているのはおかしな話で。
「……他のヴァンパイアにあの御伽話を聞かせたら、どうなると思う?」
「歯牙にもかけないんじゃない? つか、人狼の御伽話に耳を傾けてくれる吸血鬼がいればの話だけど」
「けど、あんたは知ってる」
「シンイチから聞かされたんだよ」
「…………そういうことにしとく」
「うん。しといて」
 アキラの表情は後ろに立っているジンからは見えない。それでもきっとまた、自分を苛つかせる飄々とした顔をしているのだろうと容易く想像ができた。

 使い魔に馬車を用意させると言うジンとノブナガに断りと別れの挨拶を済ませ、シンイチとアキラは夜の散歩がてらに歩き出した。
 かつて自分が住んでいた家が林に紛れて見えなくなり月が雲に隠れると、辺りは急にもの淋しさを増した。晩秋の夜風が思いの外、冷たく二人の間をすり抜ける。
「散歩には少し冷えてきたね。そろそろ迎えでも寄越す?」 
 シンイチは繋いでいた手を離した。どうしたのと問うように見返してくるアキラへゆるい笑みを向ける。
「疲れてんだろ。俺の背に乗せてやる。迎えの馬車を待つより早い」
 長い睫毛を数回瞬かせると、アキラは手を差し出して笑った。
「そういや、また俺、ノブナガ君に嫌われちゃったみたいだね。昔話でもしたんでしょ」
「嫌ったんじゃない。ちょっとビビっちまっただけだろ」
「あの頃ほどの能力なんて、今の俺には全くないのにな〜」
 もう平均以下じゃねーかな? などと明るく自嘲を漏らすアキラへ、シンイチは脱いだ衣類を放った。素早く狼へ変化した伴侶の背中にアキラが長い足で跨る。
「あんたの背にこうして乗るの、懐かしい。案外乗り心地悪いのを思い出したよ」
「贅沢言うな。しっかり足で体を固定しとけよ。少し飛ばすぞ」
「はぁい」
 視線を交わし合うのを合図に、狼は秋の闇夜を滑るように駆けた。沢山の使い魔たちが二人の帰りを待っている、温かな光が灯る居城を目指して。












* next …







嘘っぱちファンタジーの同人誌『Vampires and werewolves』の続きのお話です。
どうしてジン達の家に使い魔がいるかというと、ノブナガが羨ましがったので、アキラが数匹あげたからです。
吸血鬼のみが使い魔を召喚して使役できるけど、一般的な吸血鬼は使い魔は醜いので家の中では飼いません。

ゴリを何の種族にするかすっごい悩みました。本当はフランケン・シュタインの怪物に
したかったんだけど、種族名長いんだもん。適当なのが思いついたら変更するかも。
タイトル訳は「(価値ある)大切な思い出」という意味です。

※背景素材はNEO HIMEISM様からお借りしてリピート用に描き足し加工しました。