ホームルームも終わり、カバンを肩にかけたところで牧は宮益が隣に立つと口を開いた。
「あ、そっか。部活か牧は」
牧が返事をする前に宮益は一人頷いた。昨日は始業式と何かの会があってメイン体育館はもちろん、バスケ部とバレー部用の体育館も使えなかった。だから昨日は宮益と一緒に帰れて沢山話しもできが、今日から牧は放課後毎日が部活中心の生活に戻る。日曜とて試合のある日は部活になる。もう宮益と一緒に帰れる日はほぼないと言っても過言ではないだろう。
「昔は毎日一緒に帰れたのにな……」
誰かと一緒に帰りたいなど牧は特別考えたことがなかった、宮益と出会うまでは。そして宮益が転校してからは覚えてしまった物淋しさを紛らわすように、入ったミニバスの奴らと帰るようになった。中学は部活の奴らと、一緒に帰りたいというより自然の流れで一緒に帰るようになっていた。それを特別どうこう感じたことはないが、宮益がいるのに一緒に帰れないのは、
「……残念だ」
なるべく重くならないように、顔だけは軽い苦笑いを作った。そんな牧を見て宮益はキュッと口元を引き締めた。
「もう行かないと」
気持ちを切り替えて廊下へ出ようとした牧の背に宮益の少し高目の声が遠慮がちに触れた。
「あのさ、バスケ部って……初心者が入っちゃ駄目かな?」
「え…?」
「海南バスケ部って強いの?」
細い首を傾げて尋ねてくる顔は昔と変わらず表情が読めない。牧は少々うろたえながら答えた。
「ずっと連続インハイ出場してて、“神奈川の王者”と呼ばれる強豪だが……初心者入部を認めないとはきいてない…」
「この学校って文武両道が校訓だったね。特別な理由なしに帰宅部しちゃうと色々風当たりが厳しいらしいって噂、牧は知ってた?」
「知ってるけど……文系の部活も確か少しはあったと思うぞ?」
「将棋部と文芸部と、あと三つくらいだったっけ」
「多分。詳しくは知らないが……」
ふぅん、と相槌を打った宮益は牧の後をついてきた。
─── まさかだろ? 冗談だよな?
牧は喉元から何度も言葉として出そうになる度に、無理やり飲み込んだ。バスケ部とバレー部専用体育館へ通じる、その隣に位置するバスケ部部室へと向かう。一本道の廊下に来ても、まだ宮益は何も言わずについてくる。その横顔は相変わらずの漂々としたもので、窓の景色をもの珍しげに眺めながら歩いていた。
「おう、牧。遅かったな」
つい宮益の方ばかりチラチラと目で追っていた牧は、前方からの声に顔をむけた。
「おー。高砂はどうした?」
「あいつ先に先輩につかまって、なんか知らんけど道具取りに付き合わされてるみてーよ? な、それよか。隣の……?」
武藤に“こいつ、何の用でこんなとこ来てんの?”という雄弁な顔をされる。さも当然の反応だが、牧は宮益をどう紹介すればいいのか迷ってしまった。すると助け舟を出すようなタイミングで宮益が返した。
「僕は一年三組の宮益。牧とは小学校で二年間同じ学校だった。君もバスケ部?」
「お、おう。俺は牧と中学ん時から一緒の、四組の武藤」
「宜しく」
「よろし、く……?」
あからさまに戸惑い顔の武藤が牧へ視線をよこす。しかし牧も同じようにどういう意味で宮益が『宜しく』と言ったのか量れなかった。だから返事のしようがなくて、黙ってまた部室へと足を向けた。
部室のドアを開けるなり、二年の先輩の怒鳴り声に迎えられた。
「おっせーぞ、武藤、牧! さっさと着替えて体育館へ行って先輩達手伝え!」
「「はいっ!」」
「挨拶なかったぞ!?」
「「すんませんっしたっ!!」」
挨拶をする間も与えずに命令を下した二年へほぼ同時に返事をし頭を下げた武藤と牧は、一年のロッカーへとダッシュして大急ぎで着替える。一分もせずに着替えてドアへと走る二人は、まだ同じ場所へ突っ立っている宮益へチラリと視線を送りはしたが、声をかける余裕もないため慌ただしく部室を後にした。
海南大は附属中学・高校があるエスカレーター式だ。中学三年の終わりに高校も同じ部活を選ぶと決定している者は、高校入学前の3月中旬から高校の部活に半日参加させるところが多かった。バスケ部も御多分に洩れず、牧・武藤・高砂と他十名ほどが参加していた。そういう者達は必然的に春先の入部希望者の相手に忙しい先輩の補助へ回される。よって、今ずらりと数列にわたり並んでいる入部希望者とは別の場所に並んでいた。
「……なぁ、俺らきっとさ、先輩と思われてんじゃね?」
武藤が両隣の牧と高砂にのみ聞こえる小声で話しかけた。確かに何も知らない入部希望者から見ればそう見えるかもしれない立ち位置だ。
「…牧なら三年に見られてそうだがな」
「高砂に言われたくないぞ」
「いーじゃねーか三年に見られたって。ナメられるよかずっといいぜ」
気分良さ気な武藤の言葉に牧は自然、眉を寄せた。視線はつい、入部希望者の列にいる宮益ばかり追ってしまう。
「……ナメられるよりは、か」
牧の呟きに武藤が敏く反応する。
「そうだ。ハッタリがきく見かけってだけでも違う」
声がワントーン低くなっているのが牧の不安を読みとったことを伝えている。牧はそれ以上何も言えず奥歯を噛みしめた。
* * * * *
最初の一週間は“ふるい(にかける)期間”だ。一年全員が、二年ですら少しキツイほどの執拗なまでのストレッチと基礎練習を一日いっぱいやらされる。ボールにも一切触れさせてはもらえない。ここではこの練習に一年全員がついてこれるとは当然二年も三年も監督も考えてはおらず、素質はもちろん、やる気や根性をみるのが目的だった。練習中に倒れても嘔吐してもそれは当然の光景であり、ある意味風物詩のようなもの。気楽な上級生の一部などは、「今日は何人倒れて、明日は何人来なくなるかな〜」と楽しそうですらあった。
往復ダッシュ中にまた誰かが走れなくなったようで、やっと終わったばかりの武藤に先輩からヤカンの水を持って走れと指令が下される。この期間の上級生は全く別メニューの練習を行っているため、一年のヘルプは一年の中で余力のある者がやることになっていた。
「誰だよ…チクショウ、こんなに早く倒れんなっつの。はぁ……やっと休めると思ったのに。先輩も俺より先に終わってる牧を走ら……」
悪態をついた視線の先に牧の背が見えた。既に牧もヤカン部隊になっているのを知り、そりゃそうかと武藤の溜飲が下がる。
「宮、宮! しっかりしろ。おい、大丈夫かっ!?」
中学で一緒になった牧とは三年間同じ部活だった。しかしこれほど心配そうで必死な牧の声を聞いたのは初めてで、武藤は「足痛ぇ……もうムリ」とギブアップ宣言をして床につっぷしている同じクラスの沢渡にヤカンを渡し水を飲ませながら耳をそばだてた。しかし宮益の声は聞こえてこない。
─── また今日もマジ倒れするまで無理しやがったのか…ほどほどで倒れとけっつの…。
武藤はチッと舌打ちをすると、「沢渡、あっちで休んでろ、皆の邪魔んなってる」と言い残し立ち上がった。先輩のいる方向へ顔を向けると先輩が大きく頷いた。頷き返して武藤は宮益と牧の傍へ走る。
「おい、牧。今日も運べ。OKが出た」
「そうか、すまん」
牧が宮益に背を向けるようにしゃがむ。その広い背へ武藤は宮益をそっと乗せた。力を失っている宮益の両腕を牧の肩へ下げさせる。
意識はあるようで、宮益が「悪い…」と小声ともいえない掠れた呟きを荒い息の合間に挟んだ。
「よし、OK」
「行ってくる。後、頼んだ」
「おーよ。そろそろ高砂も終わるだろ。行け」
返事のかわりに立ちあがった牧は宮益の重さなど感じていないようなしっかりした足取りで医務室へ向う。広い背におぶさる子供のように細く小さい宮益。まるで親子のようにも見える、ある意味おかしなこの光景も五日も続けば見慣れたものだった。
二人を見送っていた武藤に御木本がぼやいた。
「あいつさっさとやめりゃーいいのに」
御木本は○□中学のエースで、武藤も何度か対戦してはいい勝負をしている奴だ。高砂よりも早くダッシュを終えたのが、振り向いた御木本の手にヤカンがあることで分かる。
「思わね?」
振り向いてしまったせいで同意を促されてしまった。武藤は曖昧に汗で額にはりついたくせ毛を額へ押しやるように汗をぬぐった。
「まー…。まだ残り二日あるし。牧が面倒みてっし、いんじゃね?」
「毎度毎度、一番早く練習上がれるのが牧で、一番早く倒れんのがあいつだからそーなってるだけだろ。牧がかわいそーじゃんよ。だってあいつ医務室へ連れ行ってから戻ってきたら、牧だけ練習一つ遅れてスタートだろ」
「牧は……まぁ、順番待ち時間の間に追いついちまうバケモノだから」
「そーだけどよ、順番待ちに休めないのもキチーじゃん」
おら、起きて飲めやと御木本が大の字に横たわってのびている仲間の介助を始めたのを見て、武藤はまた先輩に呼ばれないようそそくさと体育館のすみへ逃げた。
牧達と入れ違いになる形で校医はバトミントン部で複数倒れた知らせを聞き走っていった。牧はベッドへ宮益を横たわらせると、勝手知ったるという迷いのなさで医務室の戸棚から先ほど校医から預かった鍵を使い必要な物を取りだした。医務室には経口補水液や酸素スプレー缶や消毒液や湿布が常備されている。運動部にとっては宝庫的な医務室の戸棚の鍵は通常はこれほど簡単に生徒には預けられない。しかし春休みから使い走りで通い、今では毎日宮益を背負ってくる牧を校医は信頼してくれていた。
スプレー缶に貼ってある紙には『無断持出厳禁』とデカデカと書かれている。
「宮、ほら。口に当てろ。落ち着いたら次こっち」
まだ呼吸の整わない宮益が震える指で缶を受け取り、ゆっくりと吸う。不自然過ぎた呼吸がいくらか整いだし顔色が戻ったのを見て牧はホッと息をついた。もういいと、宮益の口が動いたのを見計らって座らせるよう手を貸す。ぐったりしているが自力で座り姿勢を保てるようになると、手に持っていたぬるいペットボトルの経口補水液をキャップを開けて渡した。
「急いで飲むなよ。またむせるぞ」
だるそうに頷いて飲み始めた宮益の膝からは血が出ている。今日もブラックアウトして倒れた時に床に打ちつけたのだろう。昨日貼った同じ箇所の絆創膏は、練習の最初の方で倒れた時にささやかなクッションの役割を果たしたようで消えていた。昨日の完全に塞がりきっていない傷と、それを広げながらついた新しい傷のせいで、今日はもう大判の絆創膏でもサイズが足りない。牧は持ち出した消毒液で傷口を洗浄しガーゼをのせ、器用に包帯を巻いた。
細く開けられた窓から春の夕風が所々黄ばんでいるカーテンを揺らす。遠くで野球部の練習の声。体育館では熱気や練習の音や声に紛れて聞こえなかったカラスの鳴き声が大きく聞こえる。
牧はいつものように手近にあった健康雑誌を団扇がわりに使って宮益へ風を送っていた。指の震えは治まってはいないものの、さきほどより格段にしっかりした声で宮益は言った。
「ありがとう。もう牧は戻って。僕もあと少ししたら戻って続きやるから」
いつもなら、しっかり休んでからにしろよと言い残して去るのだが、牧は腰を上げられなかった。不思議そうにゆっくりと宮益が首を傾げる。
「酷いことを訊いて……いいか?」
「うん?」
「宮さ……なんでバスケにしたんだ?」
「“バスケやってる時が一番楽しい”って、牧が言ってただろ?」
始業式の日の帰り道、宮益は牧を質問攻めにした。返す牧も、『宮はどうだったんだ?』と必ず付け加えたため、お互い合わなかった数年間の大まかなことは把握できていた。質疑応答にもにた性急な会話の一部をあげられて、牧は俺の話をしてるのではないと首を大きく振った。
宮益から視線を逸らすように項垂れた牧は質問を続けた。
「宮はずっと帰宅部だったって言ってたじゃないか……」
「うん。だから基礎体力なくて毎度倒れて、牧には迷惑ばっかかけて悪いと思ってる。ごめん」
「そんなこと聞いてんじゃない! はぐらかさないでくれ!」
僅かに大きくなった声音に宮益は目を細めた。心なしか口角が少し上がって微笑んでいるような表情は、俯いている牧には見えてはいない。
「……明日で根性試しの一週間が終わるね。明日の帰りに話すよ。それじゃダメかい?」
戻りが遅いと牧が叱責を受けると宮益が気をまわししているのが分かるだけに、牧は渋々頷いた。
「明日の帰り、必ずだぞ」
「ああ。でもそんな面白い話じゃないから期待しないでくれよ」
おどけて笑う白い顔をした宮益へ、牧は結局はいつものように「……しっかり休んでから来いよ」としか言えずに保健室を後にした。
ふるい期間が終了した翌日。新入部員は一週間で上級生の予想通り、1/3まで減っていた。これも早くて半年、遅くとも一年間で半分以下になっているだろう。それでも上級生はやっと正式に加わる新入生が改めて自己紹介を行っている姿を喜ばしい気持ちで見ていた。
二度目となる自己紹介は最初の名前と出身校のみの紹介より詳しい内容を言わされる。主に過去の部活動についてであり、大会出場経歴がある者はそれについても全て言わなければならない。部活経歴書的な紹介により、厳しい練習に耐え残った半分は中学でもバスケ部でスタメンになったことがある者で、残り2/3が他運動部でエースだった者。さらにその残りの1/3が他運動部の主戦力者、もしくはベンチ要員だが熱意のある者であることが全員に伝わる。経歴が多い牧・御木本・武藤の長い自己紹介の時などは上級生から期待の声があがってもいた。
そんな中。
「一年一組、宮益義範です! 千葉県の□□中学出身です、宜しくお願いします!」
誰よりも短い自己紹介は一分とかからなかった。
「宮益君はバスケット以外に運動部経験はないんだね?」
水を打ったような静けさの中で高頭監督の穏やかな声が、大きくもないのにやけに響いた。宮益は直立不動のまま、大きな声で答える。
「はい! ありません! 足を引っ張るかと思いますが精一杯死ぬ気で頑張ります!」
高頭の頷きを合図に紹介は次の者に移った。
「……今年はとんでもないのが残ったな」
「あのドシロート、どーすんのよ」
「どーするったって、残っちまったんだから……」
「残った奴は仲間だ。仲間になったからには育ててやるのがお約束」
違うか? とケロリと言い切った三年のバスケ部主将の言に、周りは複雑な顔でとりあえず頷いていた。
そんな上級生達の言葉も、体中湿布や包帯や絆創膏だらけな上に全ての指にテーピングを巻いた満身創痍の姿の宮益には聞こえてはいなかった。
一週間も経つと部活帰りには自然と家が同じ方向で気の合う者が集って帰るようになっていた。宮益は牧・武藤・高砂と、たまに入れ替わる常葉や木島という面子と帰っていた。しかし今日は部活の最中に牧から「今日は聞かせてくれるんだよな」と言われていたので、二人だけでいつもとは違う道を選んだ。どこで話をするか、どこへ向かうのか牧は何も言わなかったが、宮益には行き先は昔よく待ち合わせていた小さな公園だろうと不思議と感付いていた。
家とは反対の道であり、通った小学校と高校とは離れている。初めての道な上に夜の暗さが全く知らない土地を強く感じさせる。それなのに行く先だけが分かっている不思議。そして隣を歩く大きな男の安心感に宮益は我知らず笑みを浮かべていたようだ。
「……嬉しそうだな。ま、確かにこれから練習内容変わるしボールに触れるから、俺も楽しみではあるけど」
牧の見当違いな推測を正すことなく宮益は「そうだね」と相槌を打った。
「牧が聞きにくそうだから、先に言う。僕がバスケ部を選んだのは、牧と一緒に帰りたかったからだよ」
前を向いていた牧が不審そうな顔を宮益へ向けた。
「そんなくだらない理由なわけないだろ。今日は誤魔化さず聞かせてくれるんじゃなかったのか」
「誤魔化しなんかじゃない。理由は沢山あるさ。けど、一番重要な理由は昨夜しっかり考えてみたけど、それなんだ」
牧の眉間の皺が深くなる。苛立たしさが伝わってくるが、宮益の調子は変わらない。
「僕は大学は東大……まぁ、ダメでも京大へ行く。医療の研究に携わりたいんだ。最先端医療の世界で生きていきたい。僕の勝手な推測だけど、牧は東大も京大も選ばないだろ、どっちもバスケあんまり強くないとこだから。そうなるとさ、一緒に帰れるのは高校だけだよね。このせっかくの偶然を大事にしたいんだ」
あ、公園に繋がる道だ。だよね? と宮益が続けるも、牧は上の空のようで頷きもしなかった。
懐かしい、昔のままに見える小さな公園で椅子がわりにブランコへ腰かける。公園の柵によしかかっている牧だけが大き過ぎて、小さな公園と小さな遊具から浮いている。黙したままだった牧がひっそりと呟いた。
「確かに同じ学校になるのはこれが最後だろう」
宮益は「だろ?」と頷いて牧を見たが、なんだか様子がおかしい。どうしたのと首を傾げると、牧がとても言い難そうに唇を数度開いたり閉じたりしてやっと言葉を声にした。
「……お前も、その…俺と同じとは全く気付かなかった」
「そうなの? びっくりした。牧も同じように思っていてくれてたなんて嬉しいよ」
口の両端をあげた宮益へ牧は痛そうな表情で首を振った。
「全く同じ気持ちじゃない。俺はただ単に、お前と帰れるのは嬉しいし楽しいというだけだ」
宮益はまたにこりと微笑んだ。牧にとっては昔馴染みとまた帰れるのが嬉しいだけなのは当然だから。
しかし宮益にとっては重さが違う。初めて自分が友達と認めた唯一の相手。損得なしに一緒にいられる存在など宮益には牧以外いないままだった。再会できただけで奇跡なのに。同じクラスとなり傍にいるだけで自分はこの一週間、信じられないほど息がしやすい学生生活を過ごせている。牧が宮益へ話しかけ、時に頼る姿を見たクラスメイトは皆、宮益のことを自然にクラスの一員として認めた。厳しいことで有名なバスケ部に所属していることでも一目置かれるまでにもなっている。宮益がやっかいそうだと判断した連中ですら、バスケ部の牧が認めているからと宮益へ手を出す気を失っていた。牧を敵に回すのはバスケ部を敵に回すのと同じだ。学校の中で大きな力を持つバスケ部・野球部・陸上部に所属する者は、練習の厳しさもさることながら、部の団結力も強く有名で力を持つと、宮益は肌で感じていた。
空気でもなく便利な人なだけでもない、普通にクラスの一人として認められて気軽に挨拶を交わし合う楽しさ、幸せ。─── 全て牧にとっては当たり前過ぎて感じることのないものだろう。
「そりゃ全部同じなわけないだろ。いいんだよ、牧は気にしなくて」
「知ってしまったら……気になるよ。あの、ええとな」
「うん?」
「お前がいい奴なのは十分知ってる…けど……悪いけど、俺はまだバスケしか頭になくて恋愛は…まだまだ考えられないんだ」
全く予想外なカウンターをくらった衝撃に宮益はブランコから立ち上がり牧を凝視した。目線を逸らせる牧の頬や耳元は暗がりだからよく分からないけれど心なしか赤……い?
「ちっが!! 違うから、僕は牧のことが好きだけど、好きとかじゃないよ!!」
牧が視線だけを訝しそうに宮益へ向ける。宮益は焦りに両手の拳をぶんぶんと上下に振りまわした。
「僕はっ牧を恋愛対象として見たことなんて一度だってない!! どうしてそんな考えになるんだよ〜」
「え、だ、だって、あんなシゴキみたいな一週間にお前、ボロ雑巾になりながら乗り切って。その理由が俺と一緒に帰るためだって」
パニックになっているのか、立ち上がった牧が見たことのない顔色で頭を両手で抱えて唸る。焦っていた宮益だが、自分より動揺する牧を見て気持ちが落ち着いてくる。深い深い溜息をつくと両拳から力が抜けた。
「落ち着いて考えてみなよ〜。牧にとっては一緒に下校=恋人特権なの? そりゃあまりに純情過ぎない? それにだよ、牧が昔みたいに美少年のまま成長してたならまだしも、こんなにゴッツイ男になんて」
あはははと陽気に笑ったのは宮益だけだった。頭にあった両手をだらりと下げた牧は先ほどとは違う…どこか放心しているような感じだった。先ほどまでの頬の色は抜け、薄く開いている口元が弱々しく何かを呟いているようだが声にもなっていない。
「牧…? どうかした? 何か僕、悪いこと言った?」
驚かせないよう恐る恐る尋ねると、悪い夢から覚めたかのように牧が瞬きを数回繰り返す。
「あ、わ…るいことなんて。ああ、そうだ、俺のガキん頃の話は黒歴史だから他の奴らに喋ったり写真見せたりしないでくれよ。小学校が同じだったほとんどの奴には口止めしてるんだ」
途中からいつもの落ち着きが戻って、少しふざけたように牧はにやりと笑った。
「なんで? 可愛くて悪いことなんてないじゃない」
「茂木って覚えてるか? 中二の時だけど、あいつなんて俺の小三の写真と中一の写真を並べてさ、“これが牧の変態証拠写真!”って言ったんだぜ。変身ならまだしも変態って、俺は虫かよ。もうさぁそれから暫く酷かったんだ周囲の悪ふざけが。体をはった詐欺だのイリュージョン牧だのと散々からかわれた」
その様子が目に浮かんで宮益は爆笑した。「変態とは酷い表現だね〜、そりゃ誤解も招くよ」と笑う宮益へ牧は肩をすくめると「俺の鉄板黒歴史ネタだよ全く」と大仰な溜息をついた。その様子がまたあまりに外人のようでさらに宮益を笑わせた。
ひとしきり笑って空気も元に戻った。牧が「腹も減ったし帰ろうか」とスポーツバッグを肩へ担ぎ直す。
宮益は一瞬、このまま帰る展開を選ぼうとした。先ほどの話しでは牧はきっと納得などしていない。恋心ではないならば、何故そこまでと思っているはずだ。それでも今はこれ以上追及しようとしない牧の優しさと思いやりに甘えようと考えた。けれど。
「牧。僕はまだ牧に全部の理由を教える勇気が足りない。だけど、今言えるもう一つの理由を聞いてくれる? 歩きながらでいいから」
「無理して話さなくていいよ。勇気がいるってんなら尚更、今聞きださなきゃならない理由も俺にはないんだし」
こんなにも優しい友に最初から甘え切って、今後も隣にいようとする自分ことこそが恥ずかしいと、宮益は胸の内で苦く笑った。もちろん表情になど出しはしないが。
「今言える分だからホント大したことじゃない。どっちかというと恥ずかしいくらいの話さ。ま、いいからコンビニ行こうよ。僕もお腹減った」
自分の情けなさを語るのは勇気がいる。下手に喋って同情をかうのは避けたい。
それでも決心が鈍らないうちにと宮益は公園を出てすぐ話し始めた。
「僕は今までずっと、体を使うことで無茶をしたことがないんだ」
長男で未熟児だった宮益は幼い頃、短期間だが小児喘息を患っていた。家族に無理や無茶はしないようにと大事に育てられ、幼稚園の運動会や遠足もほとんど参加しなかった。小学校へあがった頃には喘息もしなくなっていたけれど、その頃には無理をしないスタンスがしっかり根付いてしまっていた。幸い頭だけは良かったので、体育や運動会の穴は勉強で埋めてきた。
「小・中学校全て帰宅部。高校もそのつもりだった。けどさ、牧にまた会えたろ。しかも牧はすっごく昔と、それこそ変態したって言われるくらい成長してた。僕より小さかった牧がだよ? いくら僕が未熟児で両親も背が低いからって……なんか悔しかった。聞けば、牧は小五からミニバスやりだして急成長したらしいじゃないか。サーフィンも同時期だっけ? きっと毎日ぶっ倒れるくらい体使ってきたんだろ?」
急に話をふられて牧は戸惑った顔で頷いた。
「そりゃそうだが、無茶といっても当時の体力に合わせた範囲でコーチがメニュー組んでいただろうし、サーフィンはミニバスのない土日の天気がいい日だけで。急成長ったって、同じことやったからって身長が伸びるかなんてそれこそ」
宮益はひらひらと右手を振って、そんなことは分かっているというふうに牧の口を止めた。
「人生には転機が数回あるって沢山の本にあった。僕にとって最初のそれは就職だろうと思っていた」
牧は宮益の話が突然飛んだように感じたが、なにを言うこともなく黙って聞いている。
「けど、違った。本命だった千葉の高校受験当日に高熱だして半分くらい白紙に近い解答をした僕は、当然落ちた。結果、父の転勤が神奈川って決まった時に親に頼まれて受けた滑り止めのここへ来た。これ、プチ転機ね」
「…大きな転機に入ると思うが、そうだったのか。考えもしなかったよ」
東大目指してる宮が来るには、確かに海南はあまり適さないよな…と牧は呟き頷いた。
「最大の転機は牧に会えたこと。さっきも言ったけど幼い頃から、僕は運動が出来ないことも身長が低いのも僕の個性と受け止めていた。他人と自分を比較して優劣つける奴が愚かなんだ、ってね。それなのに、初めて本気で他人を羨ましいと感じたんだ。ショックだったよ」
カラリと笑った宮益に牧は驚いた顔をした。宮益は悪戯をするような顔で話を続ける。
「世界は違うものが集って出来ている、人も物も何もかもが。それは間違いではないけれど、異なるものでも同列で比べることや、優劣だろうがなんだろうが比較し切磋琢磨することで磨かれるもの、生まれるもの、より良くなるものが沢山ある。僕は子供で競い合う必要性を認めたくなくて目を逸らし気付かないふりをしてきた、それが一番楽だから」
「……すまん、間を端折られてるせいなのか、よく分からなくなってきた」
牧が困ったように頭をかく。宮益は「ごめん、ちょっと恥ずかし過ぎて、話しているうちに興奮して脱線したかな?」と照れた。
見えてきたコンビニの灯りをじっと見つめながら宮益にしては低い声で呟いた。
「僕は成長するために必要な“無茶”から理屈を捏ねまわして逃げ回ってきた。でももう逃げられない。変わることを羨ましいと認めてしまったんだ。長年認めるのを拒んでいた分、そう思っちゃったらもう重症さ。僕は変わりたい。やったことのない無茶をしてでも。もしそれでも変われなかったとしても、しないで後悔するよりずっと自分に納得がいくと思うんだ」
「そうか……」
宮益の言葉を頭の中で深く反芻しているようで、牧は重々しく頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。
コンビニのドアを開けると唐揚げの匂いが強烈に胃袋を刺激する。二人はまずは空腹をどうにかしようと店内を歩き回った。
店の横の駐車場は広く、二人は駐車場の隅へ移動しガードレールへ腰かけて腹ごなしをした。その間、どちらもただ黙々と買った食料を租借し飲物を流し込んでいた。
静かな夜の中で煌々と光る隣のコンビニの灯りや、通り過ぎる車のライトを見るとはなしに見ていた宮益の肩へ牧がふいに大きな掌を乗せた。
「本気には、本気で応援させてもらう。本当は俺はお前に海南バスケ部はキツ過ぎるから辞めてもらいたかった。いつか故障するというよりも今日にもどこか壊すと思って、見ていて毎日怖かった」
毎日文字通り“ぶっ倒れる”宮益のもとへ一番に飛んでくるのはいつも牧だった。それは上級生に指示されての行動であったが、牧は一番に行くことを不自然に周囲に感じさせないために、どれほど自分がキツくても誰よりも早く練習メニューを終えるように必死だった。細くて小さくて運動経験が極端にないから心配というのもあるが、宮益にとって牧が特別だったように、牧にとっても宮益は特別だからだ。
「だけど、俺に言える理由と言えない理由がそれほど沢山あって、そこまで本気だと知ったら俺も腹を括る」
「牧……」
「応援する。もう俺も余計な心配はしない。宮がやりたくてやってることを俺が止める理由はもとからないしな」
「…迷惑ばっかかけてごめん。なるべく倒れないように頑張るから。倒れなくなっても足は引っ張るだろうけど…」
「迷惑と感じたことは一度もない。宮こそ変な気はまわすな。いいか、無茶も限度があるんだ。どこまでやったら倒れないか、どうすれば怪我しないかも全部コツがある。少しずつ教えてやるけど、宮も自分なりに探していけ。長く続けるには気持ちだけじゃ無理なんだ」
少し色素の薄い強い瞳にしっかりと見据えられて、宮益の胸に言葉にならない熱いものが湧きあがった。
この一週間、部の者はもちろん両親も宮益がバスケ部を続けることを誰も望まなかった。応援されたくて始めたことではないからそれでいいと思っていたし、自分でも辞めることを薦める者の気持ちは良く分かっていた。それでもやってみたいと思った自分を我儘だとも感じていた。
“応援する。”という牧の言葉が頭の中でコダマする。練習で根こそぎ奪われた体力は家に帰るまで歩くのがやっとだというのに、今すぐにでも体育館まで走り出せるような。大声で何かを叫びたいような気分だ。初めて感じる感情だから説明はつかないけれど、こんな感情を知ることが出来たことも牧のおかげであり、自分のどこかが変化していることがわかる。
「牧。ありがとう」
今言える言葉はこんなにも短い。熱くなった瞳はきっと赤くなっているだろう。暗がりの逆光で良かった。
「おう。……よし、帰るか」
頷いて一拍おくと急に恥ずかしさを我慢するようなむず痒そうな顔をして牧は立ちあがった。
彼の生真面目で優しくて照れ屋なところは昔から変わっていない。けれど同じ年月を経てはきても、その間に学んできたことも経験もまるで違う。どれほど人としての格で差が開いたのだろう、考えるのも今は怖い。僕が彼より勝っているものは、少々多い知識や雑学程度のものでしかない。バスケをすることだけで彼が形成されてるわけじゃないことも知ってるけれど、バスケをしたからって自分がどうなるものでもないとか、もう後ろ向きな正当性をぐだぐだ考えるのには飽き飽きしたんだ。僕は、変わるんだ。
「負けないよ、僕は」
「俺も。絶対スタメン三年間取り続ける。出る試合は全部勝つ。“常勝海南”だからな」
やっぱりどこか通じてない牧がとても好きだと、宮益は口にはせずにただ口の両端を左右へ大きく引いて頷いた。
一人になった帰り路。なにもない場所に躓いて宮益は前へつんのめった。やはり先ほどの体育館まで走って戻り往復ダッシュ30本をまた出来ると思ったのは当然ながら気のせいだった。掴んだ自分の左膝はぶるぶると軽く震えて疲労を訴えている。
それでも、劣等感を根拠のないプライドで見ぬふりをしていた時の自分とは違う。この根拠のない誇らしさはどこから来るのかも、この先この気持ちがどうなっていくのかも知らない。
「知らなくていいんだ」
先を全部知ってしまったら生きている意味なんてないじゃんって、始業式前の自分に言ってやりたい。
牧になりたいわけじゃない。牧を目指していくわけでもない。僕は僕に恥じない今を生きたいんだ。
「……なんかちょっと、カッコイイ?」
口の中でふざけて呟けば、照れくさいけれど良い気分が増した。いいじゃん、青臭く泥くさく。時にはセコくやってくさ。
宮益はふけもしない音がスカスカの口笛をふきながら、またよろよろと歩きだした。
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