水面に映る虹よりも  vol.08


狭い部屋に二人の人間がいるとは思えない静けさがいたたまれない。そう感じているのは俺だけかと、牧は先ほどから何度も同じことを思っていた。
一台の車の排気音が通り過ぎるのが聞こえたことをきっかけに、牧はまたこりずに話しかけた。
「今の車、親かと思ったが違ったみたいだ。今夜は泊ってくるのかもしれない……もう遅いもんな」
下の布団の中で木偶のように動かない仙道は、やっぱり返事をよこさない。仙道がベッドへ入るのを止めてから、牧はたわいない話をふったりしたが、全て無視され続けていた。無視というと語弊があるかもしれない。牧の言葉は一切仙道に届いていないようだったから、耳に入っていなければ返事もできまいと腹立ちはおきなかった。ただ、放心しているのか、はたまた深く考え込んでしまったのかは分からないが、口を全く開かなくなってしまった仙道に戸惑う牧は定期的に話しかけ続けていた。

─── せっかく二人でいるのに。ずっと楽しかったのに。
急に淋しさに襲われる。カーテン上部から微かに射す月明かりが照らす見慣れた天上の小さなシミすら、何故か淋しく感じられてしまうほどに。
こんな気分のままで寝るのは悲しい。どうせなら楽しい話をしよう。独り言みたいになってもいい。明日、仙道に俺がずっと一人でべらべら喋っていておかしかったといわれてもいいから。

牧は昨年、高砂と宮益と一緒に出かけた際、奇遇にも藤真・花形・仙道と湘南海岸の近くで会った日のことをふと思い出した。
「覚えてるか? 去年さ、すごい偶然会った面子で3on3をしたのを。あの時、藤真と花形はロードワーク中で、高砂と宮益と俺は買物の帰りで。お前は……何だったかな、練習の帰りかなにかだったか? やたら面白かったよな。何かいきなりゲームすることになって……ジャンケンでチーム決めて。近場の公園で、お前の持っていたボールでさぁ。全員が声を揃えて、“なんでお前らこんなにバスケバカなんだ”って言いながら……」
暦は秋のはじめなのに酷い夏日だった。『こんな面子が偶然会うなんて最初で最後かもしれねぇぞ? おい仙道、そのバッグん中、ボールだろ? 出せよ。この近くにコートあんだよ』階段にひな壇のように並んでダベってたらただひからびるだけだぞ、と藤真が笑った。買ってまだ数日だというボールは綺麗でまだ硬すぎるくらいだったのに、日が暮れる頃にはボールに印字されてる文字が部分的に掠れてしまっていた。砂利もところどころに散っている小汚い野外コート。タオルも藤真と花形が首に下げていたやつしかなく、それを全員が使ったせいでやたら臭くなって。そのタオルを藤真が絞って、『次の回で負けた方が、この強烈な男汁を飲むって罰ゲームはどうだ?』と恐ろしい提案をしたもんだから、さらに闘いは熾烈になって全員本気過ぎてとんでもないことになったような。

懐かしい、気持ちよく楽しかった一日を牧は一人で話した。
そのうち、ぽつぽつと仙道が「あれは、絶対ファウルとられないのはおかしかったのにさ」とか「高砂さんのブロックで吹っ飛んだ藤真さんのジャージのケツが擦れて真白になって怒ってたよね」と加わりだした。
そのうち二人は記憶をつなぎ合わせることに夢中になった。微に入り際に入り、思い出せる限りの小さなこと欠片を出し合っては、ダメだしをしたり並べ替えては笑った。

あの一日が二人分の記憶で辿れる範囲でほぼ完成したような頃。
仙道が頬杖をついた格好で、少し微妙な感じの声音を牧に向けた。
「牧さんはさ、ギアがまだあるのに入れないよね」
「何のことだ? 俺があのゲームで手を抜いていたとでもいうのか?」
薄い仙道の笑みに、何故か牧は一瞬ひやりとさせられた。薄暗がりのせいだろうか。しかし悟られないように間をあけず上手く返せた……はずだ。
牧はとぼけたように肩を軽くあげてみせた。
「いいえ。70%の力で勝てると思うと無意識で70しか出せなくなる人もいるし、出せるけどあえて70しか出さない人もいるからね。俺は70しか出さない方。……あとさ、70%で勝てるのにあえて100%で叩き潰す人もいるよね?」
暗にあんたは100%でねじ伏せるタイプだろと言われた気がした。……それは実際その通りなのだが。もちろんクズみたいな相手に100%出しはしないが、大概は自分が気持ちよくなりたくて全力を出す。全力で叩き潰す快感は相手が強いほどあるけれど、ほどほどの相手であっても100で勝つのと70で勝つのとでは爽快感も違うからだ。
「……確かに色々な奴がいるよな」
はぐらかした返答に気分を害するでもなく、軽くおどけるように目で笑った仙道はくるりと背をむけた。牧は知らず緊張していた肩から力が抜ける気がした。背をむけたまま仙道は続けた。
「俺なら100%出させられるよ。いや……違うか。引っ張り出してやるけどな、どんなゲームでだって、あんた自身も知らない120%を。きっとすげぇ気持ちいいよ」
まるで100出す自分の理由を見抜いたような発言に牧は僅かに目を見張りつつ、違うことを話した。
「大層な自信家だな。まぁ、お前のバスケセンスを考えればビッグマウスとまでは思わないけど」
「……藤真さんは、あんたにはダメだよ」
ライバルとしては力量不足という意味あいだろうが、言い回しや声音が微妙だったため、再び心臓がひやりとする。
牧はあくまでバスケの話に徹しようと気を引き締めて、普通に返した。
「それはどうかな。あいつだって監督の重責がない一選手として一試合ずっと動けたなら、かなりなものかもしれんぞ」
振り向いた仙道の眉間が曇っている。負の感情をあからさまに出す男ではないだけに、今の返答のどこがそれほど気に障ったのかが分からない。いや、話をはぐらかされと感じたせいかもしれない。
数秒の嫌な沈黙の後、今度は心臓に氷を突っ込まれるような。恐れていた意味合いの台詞を突き付けられた。
「藤真さんは牧さんの恋人にはダメだって言ったんです」
言いなおされた言葉には迷いも気遣いもなにもなく。冷たさだけがあった。
最近では自分の中で薄れ淡くなった、ただひた隠しにしてきた自分だけの痛みを伴う片恋が。終わってしまった片恋が、何故こいつにバレていたのだろう。周囲に悟らせるほどのヘマをうった覚えもない。なにもない。なにもできないまま終わった恋を、何故お前が知っている?

自分の性癖よりももっと知られたくない秘密に気付かれていたことに血の気が一気に下りる。背中にどっと冷や汗が噴き出して指先が震えた。
「……何を言ってるのか分からんな。当たり前だろう、男同士で恋人もクソもあるか」
俺は色黒だからあまり顔色は読まれない。加えて今は夜だ、血の気がないのは見破られないはず。大丈夫だ、今も普通な声音だったと自分に言い聞かせながら、わざとらしくため息をついてみせた。バカバカしい話をするなという風に肩もすくめた。
しかし仙道は真顔のまま。それどころかますます険しい表情で上半身を起こして詰め寄ってきた。
「今更隠さないでいいよ。俺はあんたが藤真さんを想ってたのは、ずっと前から知ってる」
「誰がそんなホラ吹いてまわってんだ。んなくだらねぇ噂、鵜呑みにするなよ」
ずっと前からという部分で体が震え出す。それでも声が震えないように抑えた。
悪い冗談に気分を害した様子で背を向けようと寝返りをうちかけたが、肩を痛いほど掴まれて戻された。このまま会話を続ければ、ひた隠しにしていた藤真への恋心全てを暴露させられそうで、軽い恐怖に捕らわれる。
「噂なんてないよ。多分、俺と花形さんしか気付いてないと思う」
何故、花形が。お前だけじゃないのかと、閉ざした唇が絶望に震えた。花形がまさか藤真に俺が横恋慕をしているなど言うわけがない。ないと思うのに、二人でバカな俺を笑っていたらと思うと、悲しさと恥ずかしさとわけが分からない感情が混ざり混ざって胃液を押し上げてくる。気持ちが悪い。どこかへ逃げ出したい。
「藤真さんは、ダメなんです」
「煩い! もういいって。そんなの分かってる!」
会話を終わらせたくて、開き直りで怒鳴った。しかし同じ音量で怒鳴り返される。
「いいや、分かってない! あんたが考えてるダメだしの内容は間違ってる!」
「そんなことどうしてお前に分かるんだ! 勝手に知ったふうな口をきかれるのは心外だ」
「藤真さんはあんたを包めないって言ってんだよ」
「包んでもらいたいなど思ったことはない」
「そこがもう間違ってるとこなんだって。ダメなんだよ、そうじゃないんだ。あんたにこそ、抱きしめる腕が必要なんだ」
「バカか。お前は何見て言ってんだよ。俺のどこが女子供のように庇護されなきゃいけない弱い男に見えるってんだ」
「ほら。そんなことを真顔で言えるほど、あんたは自分を分かってない。誰が女子供に感じる弱さがあんたにあるなんて言ったのさ。そんなんだから」
「出てけよ!! 帰れ!! 出てかないなら俺が出て行く、どけろ!!」

立とうとした仙道を押しやるように、俺は狭い部屋を飛び出した。すぐに仙道が「待ってよ!」と追ってくる。階段が二人のたてる荒々しい足音に悲鳴をあげる。玄関を出ても仙道はぴったりと追ってきた。
「お前は家にいたらいいだろ!! てか、いろよ。追いかけてくんな」
「追いかけるに決まってんじゃん!! つか、あんたの家になんで俺が一人でいるのさ。落ち着いてよ、話聞いてくれよ」
「聞きたかねえ! 戻れ、誰か家にいないと物騒だろ」
「じゃあ鍵かけてよ」
「鍵持って出る余裕なんてここに来るまでどこにあったよ!」
あるわけねぇだろが……と続けてから、自分がいかに支離滅裂なことを述べ、冷静さからほど遠い行動をしていたかに気付く。このあまりにあまりな発言と行動から、図星をさされてテンパってるのは俺だけだとガキにでも分かる。途端に羞恥で頭が沸騰した。
仙道が腕を掴んできたが、振りほどこうと躍起になって腕をぶん回そうとした。だが同じくらい強い力で仙道は離さない。
「痛い! 離せ! お前が戻らねぇなら俺が戻る! テメェのくだらん話なんぞ誰が聞くかっ」
「逃げないでよ! くだんなくなんてねぇから! 聞いてくれよ!」
「うっせえ!! 離せっ。痛ぇって言ってんだろ! 殺されてぇか!」
掴まれていない左手で仙道を殴ろうと身を捩ったが、利き手ではないのとリーチのせいでかわされる。ならば膝蹴りでもくらわせてやろうかと一瞬思ったが、かろうじて残っている理性がそれを押しとどめた。

自棄になったり強く否定するほど、ドツボにはまって自殺行為という。もう既にその状況に陥ってしまった。墓穴を凄い勢いで掘って飛び込んだ自分は、どうしたって何を言ったって無駄なのだ。取り乱すことで藤真に想いを寄せていたことをこれ以上ないほどに教えてしまった……。
牧は掴まれていた腕の力を抜いて力なく項垂れた。
アスファルトに伸びる二つの影は、警官と捕まえられた罪人のようだ。
あきらめて力が抜けきったら、もう一歩だって動けないほどのダルさに襲われた。
「……戻ろっか。泥棒入ってたら、二人でやっつけよう?」
しっかりと掴んでいる指の力とは全く違う、心細そうな仙道の声に牧は返事ができなかった。
それでも小さく頷けば、熱くなった目頭からは二滴の水が落ちた。


重たい足を引きずるように動かして引き返す。仙道も黙って同じ速度で隣を歩いていたが玄関が見えてきた頃、口を開いた。
「俺、牧さんがテンパったの初めて見た」
牧は恥ずかしさで益々深く項垂れたが、仙道はかまわず尋ねてきた。
「あんな可愛いトコを他の奴には見せてきてたのかと思ったら……悔しい」
仙道の発言の意味が分からないこともあって牧は黙ったままでいると、いきなり仙道が手を握ってきた。驚いて牧が顔をあげると、本当に悔しそうな顔と目があった。
「なるべくでいいから、俺以外の前ではテンパらないで。俺の前でだけ沢山テンパって下さい」
益々もって意味不明な発言に牧は狼狽したが、とりあえず事実だけをかろうじて口にした。
「……こんな恥ずかしい思いは今までしたことがない」
「良かった」
「何がいいもんか。俺は今すぐお前を追い出したいんだ。でもまだ始発も出てないから……」
「うん。傍にいるから、俺」
「いないでくれと言ってるのが分からんのか?」
「うん。良かったよ、俺が最初で、今が真夜中でさ」
「……話にならん」
「大丈夫。話はまた今度にしよう。牧さん疲れて眠そうな顔になってる。帰ったら寝よう?」
「寝る」


パニックになって醜態を曝し、落ち着いてみれば自己嫌悪で落ち込んで。感情のジェットコースター状態に疲弊しきったとこで、握ってくる手の優しさと意味不明な発言に何故か少しだけ救われて。けだるい疲れに眠気を感じてあくびがでた。ついでに涙も少しだけ。
目元を空いてる手でこすっていると、仙道が「泣き虫で可愛い」と笑った。「あくびだ、バカヤロウが」と握られた手を振りほどいて靴を脱ぐ。
玄関のコンクリート部分にまた先ほどと同じ二滴の水が落ちたが、牧はそれを靴の先で消してから家にあがった。








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図星だったり取り乱して饒舌になった自分に後から気付いたバツの悪さったらもう☆
 あと似たようなのに思春期の頃を振り返るというのも。どっちも凄くいたたまれないよね!!



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