水面に映る虹よりも  vol.09


あの夜、疲れて部屋に戻るなり布団にもぐった牧へ仙道は何も言わなかった。話を聞けといっていたくせに。
翌日帰宅した親に起こされた時には、仙道はもう帰ってしまっていた。母は仙道と玄関で会ったようで、朝練があるから自分は帰るけれど、夜更かしをしたのでもう少し寝かせてあげて下さいと言っていたと教えてくれた。仙道はどんな様子だったかと聞きたい気がしたが、何か思うところがあったとしても他人に気取られるような顔を見せはしないだろうと、やめた。

結局、藤真や周囲に漏らすなと言いそびれたままだ。でもあいつならそんなことはしない確信がある。そういう奴じゃないことなんて、当に知ってる。かえって口止めを頼めば……なんとなく傷つけてしまいそうな気もした。
今はとてつもなく狼狽した手前、気まずくて連絡も取れない。会いたいとも思えないけれど。それでも仙道との関係があんなもんで消えるとは思えなかった。きっと仙道はこうなったとしてももう俺達の関係は崩れないと踏んだ上で持ち出したのだろう。知らないふりを続けないことがあいつにとっての誠実だったのかもしれない。

誰にも言えない俺の破れた恋をずっと前から知っていたなんて。全く気付かせないほど普通だったあいつには、同性を恋愛対象とすることはそれほど問題にしていなかったのか。ひた隠す辛さを軽減させてやろうとでも考えて……話したのかな。多分、藤真をダメだとあんなに言っていたのは、奴には花形がいることを教えて望みのない恋を終わらせ楽にしたいとか思っていたのかもしれない。だから同性を恋愛対象にするのは間違っているとかおかしいだとか、そういう話をしなかったのだろう。
藤真には花形がいる。とっくに知ってあきらめていると言えば、あんな醜態をさらさずにあっさり話は終わったのかもしれない……。

色々考えても、もう終わったこと。かえって思いがけず自分を分かってくれる友が出来た。そう考えれば、恥を差っ引いても結果オーライじゃないか。
……そう思えるようになったのは、情けなくもあの夜から二週間以上過ぎてからであったが。


*  *  *  *  *


関東大学リーグ戦が始まってしまえばこの先二ヶ月は軽く会えない。もう夏も終わりそうだってのに、何をやっているのだと頭を抱えた。仙道にだけは気軽に電話をかけることができるようになっていたのに。数ヶ月連絡を取り合わなかっただけで、もう電話が苦手な自分に戻っているなんて。
ベッドに転がったまま窓から広がるくすんだオレンジの空を眺めては、また溜息。溜息をつくと幸せが逃げると聞いたことがある。ではこの数週間で俺はどれほどの幸せを逃したのだろう。今日、部活でシュートを三連続で外したのは溜息をつき過ぎたせいだろうか。
「……このままあいつと連絡を取り合わなくなったら、俺はこの先、不幸になるとかいうのか?」
呟いた独り言にぞっとしないぞと顔をしかめて力なく寝がえりをうった。

玄関のチャイムが鳴った。母が玄関へ向かう声が小さく聞こえる。
数分ののち、子供の足音らしきドタドタとした音が響きだした。そういえば今晩は大輝達と一緒に庭で焼肉をするだかなんだか言っていた。
大輝をかまってやるのが億劫で、無駄と知りつつ居留守を決め込む。しかし案の定、五分と経たずに階下から、「紳一〜、大輝君が遊びに来たわよ〜」と声がかかった。
牧は渋々起き上がり、「今降りるー」と、声だけ聞けば憂鬱な顔は悟られない調子で返事をした。大声を出した反動でまた溜息が出た。
「……俺の幸せの残りゲージってどのくらいあるんだろう」
零せばなお一層肩が落ちた。牧はだるそうに階段を降りた。

縁側のある庭側で、夏恒例の焼肉。大輝はあまり食べもせず、母親と牧を拠点に走り回ってはしゃいでいる。天真爛漫、悩みなど全くない、世界は自分を中心に回っていると信じ切っている様子に微笑ましさと羨ましさを感じた。俺だってああいう時代があったのにと。
炭で焼けば安い肉でも焼肉屋で食べるのと大差がない。下手をすればそこらの焼肉屋よりもタレが好みな分、美味いかもしれない。タレは市販品にリンゴや玉ねぎのすりおろしを加えているらしく、家庭の味でなじんでいるせいかもしれないが、美味い。
「仙道にも食わせてやりたいな……」
小さな呟きをいつの間にか隣に来ていた大輝に聞かれてしまったようだ。
「せんどーくん、よべば? デンワ、ぼくがしてあげようか?」
前回遊びに来た時も大輝は仙道に会いたがった。しかし仙道は旅行で不在だと嘘をついて電話もしなかった。今度は自分が電話をすると大輝は張り切って鼻の穴を膨らましている。
「いや、いいんだ。今日は用事があるっていってたから」
「え〜!? またどっかいってるの? ぼく、ちゃんとせんどーくんとしたやくそくまもってるのに……」
「……仙道は忙しいからなかなか来れないんだよ」
二度目の嘘にバツが悪くなった牧は皿の中の野菜を全て口に突っ込んだ。

大輝はしばらく膨れっ面をしていたが、隣に座っると足をぶらぶらさせながら喋りだした。
「あんねー、ようちゃんのばあちゃんねー、どっかいってばっかりだったんだって。ようちゃんのじいちゃんはばあちゃんはいそがしいからかえってこれないっていってばかりだったのね。ようちゃんねー、ばあちゃんにあいたいのがまんしてシンケンジャーもひとりでみてたの。いいこにしてたらカブトオリガミもくれるかもしれないってようちゃんのママがいってたから。そんでぇ、」
黙々と咀嚼する牧の隣で、相槌がないことなど全く気にせずに大輝は喋る。少し話し方が上手くなっているけれど、何を言っているのか今一つかみきれない。が、とりあえず仙道のことから話がそれたのでよしとした。

「だからね、うそかもしれないよ」
服の裾を引っ張り真剣な顔を向けてくる大輝を、牧は皿を膝に置いて見やった。延々と続く話を途中から真面目に聞いていなかったため、“だからね”の前にあたる話が分からない。バレないように戸惑いを隠して尋ねる。
「何が嘘なんだ?」
「いそがしいのが。うそなのにまってばっかりいたら、ずっとあえないままになっちゃうかもよ?」
「……そうなのか?」
「うん。ようちゃんねぇ、ほんとうにあえなくなるまえに、がんばってあいにいけばよかったって。バスにひとりでのるのもこわいし、まいごになったらどうしようってよわむしなせいでねぇ。まっててばっかりいたからばあちゃんにあえなくなったって泣いてた。ようちゃんかわいそうだった」
「待っててばかりいたせいで……」
「しんちゃん、せんどーくんにやきにくもってこーよ。ようちゃんのばあちゃんみたいに、ずっともうあえなくなるの、ぼくはやだ。しんちゃんはいいの?」


*  *  *  *  *


二日前、部室で陵南高校出身の池上が、母校の練習試合スケジュールを話しているのを耳にした。当然、現主将である仙道はその試合に出場するしないにかかわらず行っているだろう。待っていれば試合が終わってからなら少しは話しかける時間もとれるかもしれないと足を運ぶことにした。

─── 否。運ぼうとしたのだが。

「……ここ、どこだよ。五条四丁目と分かったところでどっちの方角に進めば体育館に、」
そこまで呟いて、もう練習試合などとっくに終わっているため行っても無駄と思い至る。こんなことならもっとしっかり下調べをしておけばよかったと今頃悔やんでももう遅い。
ならば駅へ戻ろうと見上げた信号機の下には六条一丁目の表示……。さっきまで五条を歩いていたはずなのにいつ変わったと頭を抱えたくなる。大体、世の住所表示は統一がされていなさ過ぎる。子供や老人のためにももっと統一的にすべきじゃないだろうか。大輝の友達のようちゃんが迷子になるのを怖がるのも無理はない。大学生の俺ですら少々戸惑うんだ。彼らならば東京砂漠でなくとも迷って事故に巻き込まれても無理はない。
「事故に巻き込まれて……か」

ようちゃんの祖母と仙道を同じに考えるには無理があり過ぎる。若く元気な仙道が突然病気で入院し逝去するわけがない。
でも、事故は。年齢等無関係に突然の合う可能性は誰にでもある。合わない確立の方が断然高いけれど。もし。例えば、昨日の俺が事故で逝ったとしたら。
今の俺が一番深く後悔しそうなことといったら、多分あんなくだらない形のままあいつと会わなくなったことだと思うのだ。向かいもしなかった自分をずっと許せないだろうとも。

ちょっと乗るバスを間違えて途中下車して歩いているだけなのに、額から汗がまた頬をつたって落ちた。今度の汗は『もし・たら・れば』というくだらない仮想をしたせいか、少し気持ちが悪い。
さっぱりしたくて周囲を見回せば自販機を遠方に発見した。汗を振り切るようにダッシュする。
冷たいミネラルウォーターのおかげで、かなり鬱屈していた気が払拭された。
変な時期の強烈な夏日のため外に出る人も少ないのか、人影は自販機の横で空のペットボトルを持っている自分だけだった。今の気温は何度くらいだろう。やけに静かで、珍しくも急に人の声を聞きたい気分に駆られる。

少し遠くに見えるコンビニの看板を目指して歩き出せば、ほどなく路面から立つ熱気に揺らぐコンビニの建物が見えた。
ゴミを捨てたら仙道に電話をかけよう。忙しいかもしれないけれど、でもかけよう。電話に出てくれなかったら……迷惑を承知で出向こう。住所は知らないが海が近いと聞いてるし、なんとかなるだろう。

頭の中には仙道に会いたいということしかなくなった。ただシンプルにそれだけを思って足は動いた。
流れる汗も隣を通り過ぎるトラックの残す熱風にも何も感じない。
青信号を渡ればコンビニ。ゴミを捨てたら公衆電話からかけれる。
それだけを考えていた俺は、後ろから「何をそんなに急いでるんすかぁ。走っちゃったよ……」と息を切らした仙道に腕を掴まれて心底。それこそ心臓が口から飛び出るくらい驚いた。


*  *  *  *  *


茂る大樹。緑の屋根。少し離れた場所から届く子供の水遊びによる水音。広い公園の小さなベンチに座って牧は大きく伸びをした。
「…あ〜、本当に良かった」
隣に座っている仙道がまた笑った。
「牧さん、それ何度目? まぁ、あんだけの距離をこの炎天下むやみに歩きまわってりゃ分からんでもないけど。砂漠でオアシス見つけた人みたいな顔して驚いてたもんねぇ」
「……しつこいぞ、お前こそ何回も」

練習試合へ出向いたあとは学校と監督の都合によりミーティングだけで陵南バスケ部は現地解散。仲間と学校近くのいつものファミレスへ向かう途中で仙道は牧の後姿を見つけた。それで一人後を追いかけてきたのだった。
二度目の偶然に感謝をした牧は、奢るからどこか涼しいところへ連れて行ってくれと頼んだ。最初は近場のファーストフード店へ行ったが、突然の暑さのせいか店は人で混雑していた。他の店を少し覗いたが同じようなもので、結果この公園の木陰に流れ着いた。木陰のせいか、それとも少し日が陰ってきているせいか風も出てきてやけに気持ちが良かった。
自販機で買った飲み物は冷たく、隣には会いたかった男の笑顔。先日の醜態などなかったかのように自然で変わらない態度に会話。
全てに牧は来て良かったと何度も何度も。同じことを心から繰り返し思い、なににでもなく感謝した。







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幼児に諭される大学生は己が迷子だと素直になれてません(笑) 男の人でも地図を見るのが
下手な人もいますよね。今回の牧は一人では仙道の家へ絶対辿りつけないと思ます。


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