|
|
||||
腹の辺りがどうにも熱くて、眠りから無理やり引きはがされるような気分で重たい瞼を渋々と開いた。 途端、長いまつ毛に縁取られた瞼が真っ先に視界に入り、驚いて反射的に体を引こうとした。しかし腹部が重くて動くことはかなわなかった。急ぎ目線を下げれば、腹にがっちりと大輝が巻きついていた。 漸く寝ぼけた頭が働き出す。昨夜は大輝と二人きりになる俺を心配して仙道が泊まってくれた。だからこの見慣れない美男は髪が降りた寝顔の仙道なのだと認識する。 目覚ましもならない、まだまだ弱い朝日がカーテンを透かし入ってこれないような時間。一人しっかりと目が覚めてしまった牧は溜息をひとつ零した。 少し肌寒いのに布団をほぼ腰から下にしかかけていない。しかもこんな寝苦しい状態なのに深く眠れたのは、はり付く子供の体温が高いから。それか、よっぽど疲れていたか。……理由は後者だな。 などと考えつつも、至近距離にある仙道の寝顔を凝視することに集中してしまっている。 薄闇の中に浮かび上がる男の表情はとても静かで穏やかだ。ただ眠りを甘受するだけでどこにも力が入っておらず、まるで彫像のようだ。光源不足のせいか色彩も黒と薄い灰色と白しかないから、殊更そう感じるのだろうか。濃く茂る睫毛と細高い鼻梁、薄めの唇とすっきりした顔のラインは、あまりに整い過ぎて冷たく美しく映る。 「こんな奴だったか、お前?」 自分が知っている仙道は、もっともっと。当たり前だが表情豊かで、血がしっかり通った…… 「ん……う……」 声にもならないような呟きに仙道が目を閉じたままでぎゅっと顔をしかめた。 「ワリ、起こしちまったか?」 先ほどよりはいくらか声として聞こえるよう意識した小声で牧は謝った。しかし仙道はそれに応えることなく、寝がえりをうって完全に仰向けの姿勢で止まった。どうやら眠りは途切れなかったようだった。 整った横顔をしばらく息を殺して見守っていた牧は、またも溜息をついてしまった。 いっそ起きてくれれば良かった。そうであれば……湧き上がってしまった、石膏像のように滑らかなカーブを描く頬に触れてみたいという欲求を抑えることができたのに。 そろりと指を白い頬に這わせた。ほんのりとした温もりに驚く。暗がりのせいで勝手に石膏のような冷たさを想像していたようだ。 血が通っている感覚に胸が甘やかにざわめく。こんな不思議な感覚は藤真にすら抱いたことはない……のは、頬に触ったことなどないせいかと思い至る。 頬から顎先へと指先を滑らせれば、ざらりとした髭の感触に慌てて手を引っ込めた。涼しげで優しい作りをした彫像のイメージは崩れ、知った体温と髭の感触に同じ生身の男であることを強く意識し─── そんな当り前のことで心臓はやけに早鐘を打った。 目を覚まさなかったのをいいことに、二度同じように指先を滑らせた。 三度目は瞼を閉じたままの仙道が口を開いたことで、触れるぎりぎりのところで慌てて引っ込めた。 「さ、触ってすまん。その、……髪の毛がついてたんだがうまく取れなくて」 ゆっくりと長い睫毛が瞬いてこちらを向いてきた。漆黒の瞳がぼんやりと。しかしまっすぐに牧だけを見つめてくる。 用意しておいた言い訳には何の反応もない。もしかしたら触ったことも気づかれてはいなかったのかもと思えば、余計なことを言ったかと少々悔やまれた。せめて焦りを顔に出さないようにと無表情で見つめ返していると、仙道の手がのばされた。 「……牧さんも、ほっぺたに睫毛ついてる」 くすぐるような仙道の指先がむずがゆくて眉間が寄る。(さっさと取ってくれりゃいいのに何をもぞもぞと)と、思いはしても言い出せない。自分もうまく取れなかったことにしたのだから、不器用な仙道に文句をつけられない。 「……別に取れなくても顔を洗えば落ちるから」 やんわりとした断りでは寝ぼけている仙道には通じないのか、まだ指先は頬を離れない。何度も撫でるように動き続けて意味もなく恥ずかしくなる。 「ほんとに、もういいよ睫毛くらい」 「さっき取れた」 「! ならやめろよくすぐったい」 「牧さんのこのホクロって、常々思ってたけどホント良い位置にあるよ……。頬に手を添える時、ちょうど人差し指の先にあって。こう、撫でおろしたら」 言葉どおりに仙道の右の掌が牧の頬に添えられたかと思うと、するりと撫でおろされて顎をとらえる。くっと仙道の中指から小指までが握りこまれるにあわせて牧の顎は自然と上げられた。 驚きに牧の目が瞠られる。満足げに仙道の目は細められた。 「ほら、いい印のおかげで、いい流れで丁度いい角度になる」 何の角度か分かりきっている距離。牧の腹部には大輝が貼りついているから動けない。 ゆっくりと仙道の顔が近づいてくる。吐息が触れ合いそうな距離で囁きが唇から漏らされた。 「……逃げない、の?」 「……逃げなきゃならんようなことを、するのか?」 面食らったように仙道が数回瞬きを繰り返した。目元だけは分かるのだが、困っているとも笑っているとも、距離が近すぎて視界はぼやけ判断がつかない。 「それは自分で決めて……」 唇に柔らかなものが触れた。まさか本当にされるとは。驚愕に瞼を閉じることも忘れた牧の視界は、影ってぼやけた仙道の漆黒の瞳で塞がれる。 先ほど指で触れた時と同じ温度と、淡い感触は一度消えたが、再び戻ってくる。 柔らかいのに少しかさついた男の唇が。男の。男の俺の唇に、何故重ねられている ──? 「あ。チュウしてる」 大輝の寝ぼけ声で牧は我に返った。慌てて顔を仙道からそむける。仙道もすぐに身を離した。 大輝はもそもそと這い上がってくるなり、「ぼくも!」と牧の唇に己の小さな口先を尖らせて吸いついてきた。 「〜〜〜!!! たっ、大輝っ、やめっ。んんん〜〜!! いひゃい、やへろ、いはひっ!!」 「わあ! 大輝君、齧っちゃダメだ! やめなって! ちょ、大輝君きけって!」 牧の下唇へ齧りついた大輝はまるでスッポンのようで、仙道が慌てて大輝の身体を引っ張るが、顔だけが離れない。痛みで涙目になった牧は大輝の小さな鼻を強くつまんだ。痛みと呼吸困難に大輝がやっと離れる。 「いたい〜! なんでいじわるすんの! チュウしただけなのに!」 「俺の唇ちぎる気か! 痛いのはこっちだバカ!」 「うわ、血ぃ出てる……すげ痛そう」 仙道の憐れみの視線をうけつつ、牧は唇をこすった。大輝のヨダレと血の赤が手の甲を汚した。涙を拭いたティッシュで手の甲も強くぬぐう。唇が痛くて三度目になる溜息は零すこともできなかった。 「……すまんが、いっ、……先に顔洗ってきていいか」 「あ、どうぞ。大輝君は俺がみてますから」 「頼む」 「やー! もっかいチュウ!」 また吸いついてこようとした大輝を無視して牧は立ち上がった。仙道の長い腕に捕まえられた大輝が文句を叫んでいたが、牧は構わず逃げるように洗面所へ向かった。 子供の手加減をしらない噛みつきに牧はすっかり恐怖心を植え付けられた。腕や足ならまだしも、唇という皮膚の薄い半粘膜的な部分を血が出るほど噛まれては無理もない。牧の唇の内側に残された小さな歯型からは、何かを口にするとまだ時折血が滲み出てくる。 三人でトーストと焼いたハムと牛乳だけの簡素な朝食を終えても、仙道が帰る時ですらも。抱っこをせがむ大輝を牧は抱き上げることができなかった。大輝の顔が近いと噛まれるような気がして、無意識に顔が逃げてしまうのだ。 靴を履く仙道が心配そうに牧へ振り返る。 「本当に大丈夫っすか、二人だけで。さっきも言ったけど俺、今日練習休んだっていいんだよ?」 「いや、それはダメだ。お前の気持ちはありがたいが、これ以上借りを作るのは俺が辛いから、いいんだ」 「借りだなんて……」 牧の手にぶら下がるようにして仙道を見上げる大輝が、「いーんだ」と意味も分からず牧の先ほどの言葉じりを真似た。仙道は苦笑すると大輝の頭にポンと大きな掌を乗せた。 「じゃあまたね、大輝君」 「うん! またあそぼうね! やくそくね!」 「約束……約束かぁ。大輝君がひとつ俺からのお願いをきいてくれるなら、約束するよ」 「いいよ! なぁに? シンケンダイオーもってくる?」 「もってこなくていいよ。あのね、お願いはね。牧さんの口にもうチュウはしないでほしいんだ。牧さんの唇は怪我をしちゃってるんだよ」 牧は驚きつつも力強く何度も頷いた。(ナイスだ仙道、ありがとう仙道!)と、胸の内で感謝を述べる。 「えーと……しんちゃんにチュウをしなかったら、またさんにんであそべるの?」 「そうだ。よく理解できたな大輝。偉いぞ」 牧に褒められ、仙道に大きく頷かれた大輝は満面の笑顔で、「ぼく、やくそくする!」と元気な返事をした。 「そういうわけなんで。牧さん、大輝君が遊びに来たらまた呼んで下さいね」 「おう。ありがとうな。借りは色つけて返してやるから楽しみにしといていいぞ」 「貸しなんかじゃないすよ、これは男と男の約束なんだから。な、大輝君」 「ゆびきりしたからやくそく〜」 「そう、約束だからね」 まだ寝足りなかったのか舟をこぎだした大輝を布団へ連れて行った。大輝は横になるとコテッと電池が切れるように寝てしまった。 レースのカーテンから淡い日差しを受けて眠る姿は確かに可愛いばかりだ。あれほど困らされた者と同一人物とは思えない。子供は天使とは寝ている時のことを指しているのだろうな……。 ぼんやり見つめているうちに、ほんのりと甘いような子供の少し湿った香りに包まれた牧もまた、いつの間にか眠りについていた。 初めて他人の唇の感触を、ほんの数時間前に二つも知ったことなど思い返すこともなく──
|
|||||
|
|||||
子供の相手を二時間ほどすると私はヘロッヘロに疲労して速攻で寝てしまう。体力のある牧でも
一日半ならばそうなるかなぁと。オリキャラで幼児は初書き。幼児らしく書けてるといいなぁ。 |