水面に映る虹よりも  vol.05


「ママ〜! ママをがえじでよ〜!!」
居間いっぱいに幼児の甲高い叫び声が反響してハウリングを起こしそうな勢いだ。
牧の母親の妹であり、今号泣している大輝のママこと珠子がこの場から去ってから、軽く30分は経っている。その間、ずっとこうして大輝は泣きっぱなしだ。
「だから、ママは大輝のパパと明日の昼には帰ってくるから。泣きやんでご飯を…あっ」
食べさせておいてねと珠子と牧の母親の博美が用意していったお子様味の甘いカレーが宙を飛んだ。大輝が癇癪を起してプラスチックの皿ごとぶっとばしたのだ。
咄嗟に両手でキャッチした皿は、その先にある花瓶を壊さずに済んだけれど。牧の顔とトレーナーには派手にカレーのシャワーが叩きつけられた。顔のカレーを手で即座にぬぐいながら叱る。
「大輝っ! 食べ物を粗末にするんじゃないっ!」
「じらないっ! カレーがかってににとんだってんでもん!」
「嘘をつくな! うわっ、待て、くっついてくるな!」
しんちゃんなんかキライと言いながらも涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、牧に体当たりでしがみついてくる。片手に皿、片手で大輝を受け止める。コントかよとツッコミを入れてくれる者もおらず、自分の胸元で大輝の顔がカレーと涙まみれになっていくのを牧は呆然と見ていた。

小さく切った人参のかけらが大輝の鼻の穴に入って、盛大なくしゃみをされた。カレーと涙に加えて今度はヨダレと鼻水まで加わって、牧の胸元にトレーナーを透過してじわじわと嫌なぬくもりが広がる。
「大輝〜…。どうしちゃったんだよ。何でいきなりそんなわからず屋になっちまったんだよ」
「しんちゃんがママをがぐじだがらカレーがとんだってんの〜!」
「隠してないって。ママは出張先でパパが事故ったから迎えに行ったんだと言ってるだろ」
「うそ! ボクのまえにしんちゃんがきて、そっからママがぎえだのみだ!」
40分ほど前。珠子と一緒に行くと靴を履いていた博美が、「今晩は珠子が持ってきてくれたカレー食べて。もし明日も遅いようならこれで店屋物でもとってね」と札を出してきた。それを受け取るべく牧が大輝の前へ進み出たのだ。その隙に珠子と博美は牧に隠れるよう、素早く玄関を出て行ったのだ。それを大輝は牧が自分の前に立つことで母親を隠したと思い込んでしまったのだ。
幼い大輝は先日漸く重い風邪が治ったばかりで、体重も落ちたままである。そんな病み上がりの幼児をインフルエンザ患者が大勢いそうなこの時期に、群馬県という遠方の病院へ連れていきたくないのは分かる。分かるが、しかし。
「……いくら時間がないからって、納得するまで理由を説明してから行って欲しかった」
ワーワーと泣きながら、とうとう顔どころか全身をこすりつけてくる大輝の小さな頭を片手で撫でつつ。牧も一緒になって声を上げて泣いてしまいたくなった。

鍋にカレーはまだあるけれど、よそってやる気にもなれずに、ぐずる大輝を抱いて呆けていると電話が鳴った。
「ママだ! ママだからでて!」
電話に届かない大輝が牧へ命令しながら走りだす。よっこいせと置きあがって受話器をとった。
「はい、牧です」
『あ、ど、どうも。……あれ? えっと……』
「ママーっママーっ、はやくデンワちょーだいしんちゃん!」
二人分の声が重なって、何を言われているのかよく分からないが、声の感じから相手が仙道と分かった。
「うん? すまん、もうちょっと大きい声で。仙道だろ? 痛いって、こら、大輝!」
『牧さん? すんません忙しいのに邪魔して。また改めて電話します』
慌てて切ろうとした仙道に俺も慌てた。
「待て、待ってくれ仙道! ちょっと待ってくれ、な?」
本当は今日、珠子さんと大輝が遊びに来なければ、仙道へ連絡をしようと思っていたのだ。丁度、前に会ってから一週間が経つ今日こそはとも。
受話器を横に置いて大輝に言い聞かせる。
「電話はママじゃない。大坂のジージからだぞ。出るか?」
大輝は怯えた顔をすると、イヤイヤと首を振りながら後ずさりをした。この“大坂のジージ”という人物は大輝の爺様で、会えば必ず大輝はゲンコツを落とされるそうだ。もちろんそれは大輝がやってはいけないことや危ないことをした時に限ってなのだが。そのせいで、大輝は電話にも出たがらないと珠子が博美に零していたのを聞き覚えていたのが功を奏した。
「いいか、大輝。俺は今からジージと話をするから、お前はソファに座るんだ。そうしないと電話からジージが出てくるぞ」
「ウソー!! デンワから!?」
「電話から。ジージは特殊能力を持っているんだ。ほら、急げ!」
ギャーッと泣き叫んで大輝はソファへ走って飛び乗ると、クッションを頭にかぶって隠れてしまった。あのクッションはもう洗わないと使えないな……と思いながら受話器を再び取った。
『しんちゃん、特殊能力って……』と笑いを噛み殺した声が聞こえてきた。


予想よりも早く仙道はやって来た。チャイムの音に牧が止めるより早く大輝が走り出したため、二人で出迎える。ドアを開けて入ってきた大男に大輝が顔をこわばらせて固まった。
「すまんな、せっかくの土曜の夜に。でも助かったよ。ここまで迷わなかったか?」
尋ねると、照れくさそうに仙道が眉尻を少し下げた。
「実は一回だけ迷いました。でも人に聞いたらすぐでしたよ。大きい家ですね。あ、タイキ君、こんばんは。初めまして、仙道です」
「…………」
大輝は仙道がしゃがんで挨拶をすると、怯えて牧の脚に隠れてしまった。
「人見知りするようになったんだ……知らなかった。すまん、仙道。これが井原大輝。大きく輝くで大輝。三……いや、四歳だ。まぁ、あがってくれ」
お邪魔しますと敲きへ足を上げた仙道を怖がり、大輝は牧のジーンズの尻ポケットをぐいぐいと引っ張って居間へ向かった。

カレーの匂いが満ちる、あちこちにティッシュ屑や破いたチラシが散乱する居間に足を踏み入れた仙道は、「あっら〜…」と振り返った。今頃牧のトレーナーにも変な色の巨大なシミがあるのに気付いたのか、慈愛に満ちた眼差しを向けてきた。その哀れみの瞳に柄にもなく牧は泣きたくなってしまった。かろうじて大輝だけは持参してきた宿泊用のパジャマに着換えさせたが、自分までは手が回らなかったのだ。
牧が黙って頷くと、仙道もまた深く頷き返した。それだけで牧は大輝と二人きりで過ごした一時間半の苦労を全て汲んでもえたような気がした。

「ソファの一部はカレーが付着しているから、気をつけて座ってくれ」
「うん。あ、牧さん着替えてきたらいいっすよ。それじゃ冷たいでしょ?」
「そりゃ着替えたいが…大輝が……」
二階の自室へ大輝を抱っこして連れていくのは可能だ。しかし着替えをクロゼットから出す間に部屋のあちこちを勝手にいじられ壊されたり、誤って部屋から出て階段から落ちてはと顔が曇る。
「大丈夫。俺が大輝君を見てますよ。そのために来たんだから。それに大輝君用の秘密兵器持ってきたんです」
「秘密兵器? そういや、何だその袋?」
まだ牧の脚の後ろに隠れている大輝だが、仙道に興味はあるようで、目元だけはしっかり覗かせている。
「た・い・き・く〜ん。これ、なーんだ?」
袋の中から橙色の丸い物をちらりと見せると、またさっと袋へ戻してしまった。よく見えなくて牧も大輝もソファの横のラグへ直座りした仙道へ近寄る。今度は更に素早くちらりと部分だけを見せてはまた隠した。大輝は焦れて牧の脚から半身をのりだした。
「はやいとみれないよ。ぜんぶだして!」
「大輝。人にお願いする時の言い方忘れてるぞ」
ハッとした顔で牧を見上げてきた大輝は、慌てて牧の脚の後ろへ戻った。それでも小声で続ける。
「……ゆんぐりみしてちょーだい。おねあいします?」
「おしい。ゆっくり見せて下さい、だったらもっと良かったな。だがお願いしますはよく言えたぞ、大輝」
牧がしゃがんで大輝の頭を撫でると、とても得意げに笑った。自信がついたようで、今度は仙道に向かって大きな声ではっきりと伝える。
「ゆっくりみせてください! おねあいします!」
「やるじゃん、大輝君! よーし。ご褒美にこれはあげるよ」
二人に褒められいよいよ嬉しくなったのか、大輝は牧から離れて仙道へ近寄って手を伸ばした。小さな手の上に楕円形の柔らかそうな布製の物が置かれる。大輝の目が輝いた。
「アンパンマン!」
大輝の手の中の物をまじまじと覗き込んでから、牧はこそっと仙道の耳元へ呟いた。
「……違うよな?」
どう見ても顔が違う。確かに似た顔が描かれているが、明らかに素人の手描きだ。それなのに仙道はにっこり笑うと、大輝へ自信たっぷりに返す。
「そうだよ、よく分かったね。これはアンパンマン。ほら、ここ開けてみな」
ひっくり返すとファスナーがついている。大輝は思いのほか器用にファスナーを開けて手を突っ込んだ。
「なにかはいってる! あ、オレンジいろの……イクラのパパ? いっぱいだ!」
中からオレンジ色のピンポン玉がコロコロと数個零れ出た。大輝は夢中で部屋のあちこちへばらけたピンポン玉を追いはじめた。その背を見ながら仙道が牧へそっと告げる。
「今のうち、着替えてきて下さい」

それでも大輝に不在を気付かれて騒がれては面倒だと、牧は部屋から大急ぎでパーカーをひっつかんで居間へ降りた。まだ大輝は最後の一個を追いかけているところだった。
「着替えてきても大丈夫なのに」
「いや、ここで着替える」
大輝に目が届くところで着替えた方が落ち着くからと告げ、カレー諸々で汚れたトレーナーを脱ぐ。案の定、胸や腹まで濡れてベタベタしており、心なしか臭い。大輝を見れば仙道の隣に座って、仙道持参のビニール袋の中を覗き込んでいる。
「体拭いてきていいか? 汚れが体にうつってるようで臭うんだ」
確かにこちらを仙道は見ている。なのに返事がない。
「仙道?」
「……へ? あ、はぁ?」
とんでもなく素っ頓狂な声をあげたかと思うと、いきなり赤くなって目を泳がせだした。
「俺、ちょっと体拭いてくるけど、大輝頼んでいいか?」
「ももももちろん! なぁ、大輝君!」
「ももももろんち?」
どもったところを大輝に指摘されて仙道の頬は更に赤味を増した。
「も、モロチンってそんな大輝君。きわどいツッコミ入れないでよ」
牧は仙道の聞き間違いに吹き出しそうになった。わかっていない大輝はなおも仙道に詰め寄る。
「うっこみ? うんこみいれるの? うんこみ うんこみ〜 もろちんうんこみ〜」
「それ、マジ違うから!!」

何が気に入ったか知らないが、何度も飛び跳ねながら連呼しはじめた。がっくりと力なく項垂れる仙道に大輝が楽しそうに笑う。二人の様子が牧の頬を緩ませた。この様子なら席を外しても問題ないだろう。
「すまんが、ちょっと頼むな。すぐ戻ってくる」
その場を離れようとした牧の左脚へ突然大輝がしがみついてきた。
「しんちゃん、どこいくの? ママのとこ? ボクもいくよ!」
「……捕まった」
また脚にしがみついて半ベソ顔の大輝へ条件反射で手を伸ばす。が、即座に引っ込めた。せっかく苦労して大輝を拭いたのに、また縋りつかれては綺麗にした大輝を汚してしまいかねない。
しかし中途半端に手を出したのが悪かったのか、大輝は背伸びをしながら腕を伸ばす。
「だっこは? たかいたかいは? ねぇ、ボクもつれてって?」
「大輝君。俺ねぇ、“しんちゃん”より背が高いんだぜ?」
仙道は立ち上がりざま大輝を両手で抱えると、一気に腕を高く上げた。突然、大輝の真っ黒な瞳が牧の褐色の瞳と同じ高さになる。あっという間だったため牧まで面食らった。
「もっと高い方がいいかい?」
我に返った大輝が自分の現状をやっと理解する。キョロキョロと視線を巡らせて、突然叫んだ。
「シンケンダイオー!! シシカエンコー!! ダイシンケンっ」
意味不明の言葉を叫んで、うっきゃーと手足をばたつかせだした。
「ダイシンケン……シシカエンコーってなんだ? シシカバブーなら分かるが」
「食い物じゃなくて乗り物系じゃないっすかね。遊園地とかにある、こう、高低を楽しむような」
大輝を上下に勢いよく振り回すさまに牧は青くなった。
「おい、そんなぶんぶんとぶん回したら危ないんじゃないのか?」
「へーきへーき。子供はこんくらいが喜ぶもんなんすよ。ほらね。それよか牧さん、今度こそ今のうち」
そうだったと、またも呈された助け舟へ牧はそっと手刀をきると大輝の笑い声に背を向けダッシュした。
後ろでひっそりとつかれた仙道の吐息は牧の耳へは届かなかった。

こざっぱりして居間へ戻れば、すっかり大輝は仙道に懐いて楽しそうに遊んでもらっている。
ピンポン玉を器用にお手玉のようにしたり、クッションの後ろやオレンジの袋へ隠したりして上手く大輝を翻弄。もとい。遊ばせているのを見て牧は感心した。
「上手いもんだな。年の離れた弟や妹でもいるのか?」
オレンジジュースが入ったコップをテーブルの中央へ置いて、手で仙道へすすめる。牧はプラスチックのマグカップに入れたジュースを半分飲みながら尋ねた。すぐに大輝がそれに気付いて牧の足をよじ登りソファへあがってくる。
「姉に三歳の女の子がいるんです。実家に帰ると毎度お相手させられてるからかな。でもやっぱ女の子と男の子は全然反応が違いますね。性格の違いかもしれないけど」
「そんなに違うもんか?」
大輝がジュースを両手で飲むのをそっと片手で支えてやる。零されて明日の大輝の着替えがなくなるのは避けたかった。
「違う違う。うちの、美羽っていうんだけど。美しい羽でミウね。すっげー喋るんすよ。しかも言うことがこまっしゃくれてて、たった三歳でオムツもまだ完全には外せてないくせに自分をレディーだって言い張るんだから。もっとレディーを大事に扱ってよとか平気で言うもん」
「レディーかよ!」
「れでーかよ!」
意味も分からないくせに大輝が牧の言葉を真似して仙道を見た。
「うわ、完璧親子みてー!」
「そんなわけあるか。やめてくれよ。母の妹の子だぞ大輝は。あ、そうだ。何で今預かってるか言ってなかったな」
牧は改めて仙道にろくな説明もせずに助けを求めた自分に気付いて、少々ばつが悪い思いを抱いた。
泣き喚く幼児にパニックになっていたのかもしれないが、それにしてもどうしてそれほど親しいわけでもない仙道に……。
とりあえず考えるのは後だと、牧は大輝を預るまでの経緯と今後の予定を話はじめた。


端的な説明をうけた仙道は頷きながら考え込んだ。どうしたと尋ねれば、言いにくそうに口を開いた。
「じゃあ……今夜、牧さんは大輝君と二人だけなんだよね。それって…大変じゃないすか? や、二人が仲が良いのは分かるけど、牧さん幼児の扱いに馴れてないようだし、二人きりじゃ疲れ溜まんじゃないかなーと」
「そりゃそうだが……。でもお前が来てくれたから着替えもできて随分助かったし、後はなんとかするさ。俺は体力だけはあるから一晩くらい徹夜しても問題はない」
ジュースのおかわりをねだる大輝へちょっぴりだけ追加してやる。沢山飲ませて腹がふくれてしまえば、ますます晩飯に手を付けなくなりそうなため、本当は喜ぶ大輝が可愛くてたっぷり追加してやりたいのを我慢する。
「やー! もっとちょうだい! しんちゃんのケチ!」
「カレーを食べたらもっと沢山やるよ。カレー、食うか?」
「カレーはとんだってんでなぐなっちゃったからいーの。カレーは。カレー…ママのカレー…」
「あ、ヤベ」
うわあああと声をあげて再び大輝が泣きだした。母親が作ったカレーを思い出すことで、母が不在なことに思い至ってしまったようだ。
大輝を抱っこして背中をさする。ママがいないと泣き叫ぶ声が耳に直接響いてガンガンするけれど、しがみつく熱い小さな柔らかい体が哀れで手放せない。カレーがNGワードであれば、今夜は何を食べさせたらいいのだろう。もうそろそろいい加減に晩飯を食べさせて寝かせないといけないのにと、時計を見上げてから気付く。
「スマン、仙道。もうこんな時間か。ありがとう、助かったよ。今度この礼は必ずするから」
急ぎ仙道を振り返ると、真剣な眼差しにかち合った。
「初めてお邪魔しといて図々しいけど。今夜泊まらせて下さい。寝んのはこのソファでも、床でも構わないんで、お願いします」
頭を下げられ、牧は慌てて大輝を抱きながら仙道に近づいて顔を上げさせた。
「駄目だろ、朝練どうすんだよ。その気持ちで十分だから。今日だって突然来させて悪かったと思ってんのに」
「日曜は午前10時からなんで、それまでに戻ればなんともありません」
「でも……早くに起きないといけなくなるぞ。せっかく寝坊できる日なのに」
「牧さんは朝は強い方っすか?」
「え? あ、あぁ。うん。目覚めはいい方だと思うが」
「なら問題ないっす。牧さんが朝、少し早目に起こしてくれれば。じゃ、決まり」
「決まりってお前……」

牧の胸にしがみつく大輝を仙道の長い腕がそっと引きはがして胸に収める。
「大輝君。俺ねぇ、ここに来る途中で大輝君のお母さんに会ったんだよ。大急ぎで遠くの町にいるお父さんがお財布忘れたから届けに行くって言ってたよ。大輝君のお父さんはお金がなくてご飯も食べれないでいるからね。大輝君が泣かないでお母さんとの約束を守って待っていたら、すぐに帰ってくるって。でも泣いてばかりいて牧さんを困らせていたら、二人でディズニーランドに行こうかなとも言ってたねぇ」
「うそだ! ボクがいないのに、ママとパパはディズニーランドにいかない!」
「泣き虫を連れていくとミッキーが一緒に遊んでくれないから、内緒で二人で行っちゃうんじゃない? でもいいじゃん、別に。大輝君が泣いてても、ここにはアンパンマンがあるしさ」
大輝が力いっぱい短い腕を突っ張って仙道を押し返す。仙道はアンパンマンを指さしてにこにこと笑っている。
かなり出鱈目な嘘なのに大輝はすっかり信じてしまったようで、力なく項垂れた。
「……しんちゃん、ほんと?」
牧へ真偽を問うため振り向いた大輝は、ぎゅっと小さい拳を握って驚くほどしっかりした顔つきをしていた。いつもポヤポヤとして柔らかく頼りない生き物としか認識していなかった牧は突然の変化に目を瞠った。
「しんちゃん。せんどーくん、うそついた?」
「……いや、本当だよ。大輝がご飯も食べないで泣いてばかりいたら、俺は大輝のママへ電話をして報告する約束をしている」
今まさに大輝は青天の霹靂という顔でペタンと床に尻もちをつくように座った。その顔は白く、子供であっても大人と同じようにショックを受けるということに牧まで緊張した。
「どうして……しんちゃんはないしょしてたの?」
咄嗟にいい訳が出てこないとこへ仙道が助け船を出す。
「まさかこんなに夜遅くまで大輝君が泣いてごはんを食べないとは思わなかったからさ。牧さんはね、大輝君はそんなにワガママばかり言う子じゃないと信じているからね。……でもあと10分泣いてたら、大輝君に事情を話してから電話をかけようと思ってたんでしょ?」
話をふられて牧は頷くと、ゆっくりと大輝の小さな頭をなでた。
「あと10分以内に泣きやんでくれ。俺も電話はしたくないんだ。……電話をするのは本当に苦手なんだよ」
嘘の中に真実を混ぜているせいか、大輝はその言葉をしっかり信じて鼻をすすりながら立ち上がった。
「もうなかない。カレーたべる。しんちゃんもせんどーくんもたべよう?」

泣くのを我慢してカレーを食べる姿が切なくて、牧は視線を大輝へあまり向けられなかった。
そんな牧の様子に胸が痛んだ仙道は、「最後の手段と思ってたんだけど」と、三枚のDVDを袋から取り出してまきへ手渡した。
「テレビを見ながらの食事は行儀が悪いのかもしれないけど今日は特別、な」
牧が渡された子供向けDVDをセットすると大輝はすぐに目を輝かせた。DVDを見ながらでは大輝の食べる手も止まりがちになる。しかし仙道が手早くスプーンにカレーを盛って差し出すと、雛鳥のように大輝は口を開けた。
完食した後もDVDのおかげで大輝はぐずることもなく、軽快な音楽に合わせて踊ったり跳ねたりと元気いっぱいであった。
そのうち眠気に襲われたのか、三枚目の昔話のDVDの途中で舟をこぎだした。
仙道が大輝を洗面所へ連れて行っている間に牧は居間に続く和室の客間へ客布団を二つ並べた。少し考えたが、布団をぴったりくっつけて、間にタオルケットを畳んだものを敷く。男二人の間に子供を挟む川の字は変な気もしたが、子供は寝相が悪いかもしれない。両側に防波堤がある方が安全だろうと。
大輝を連れて戻ってきた仙道は僅かに口元をほころばせただけで、布団の配置を見ても何も言わなかった。ほとんど閉じかけた瞼の大輝を真ん中のタオルケットの布団に横にならせると、自然にその隣に寄りそうように横たわった。
「牧さんも洗面所使ってきていーすよ」
「おう」


歯を磨いている時にふと鏡に映った、かなりふぬけた自分の顔に驚いた。
食事もすませられ、やっと大輝が寝てくれそうなこと。仙道が泊まってくれること。安堵と心の底からの感謝が顔に出ている。
(こんな情けない顔を俺は仙道へ見せていたのか……)
こんな顔を見て。おまけに布団の並びを見てもなお、仙道が零した柔らかい微笑み。
思い返してしまえば目頭がジンと熱くなった。……許されたように感じたからじゃない。そんな都合のいい解釈が許されるはずもない。

もっと色々と言われそうな気がして、本当は少し身構えていた。
変な話、俺は男を好きになるような奴だから、仙道と布団をくっつけて寝ても気持ち悪くなど感じない。でも普通の男なら嫌がりそうな気がして、説明が必要だろうと思っていた。
こんな風にかまえる自分が嫌だけれど、藤真を好きになってからは必要以上に同性との接触に緊張するようになってしまっていた。
叶いもしない恋のせいで周囲に自分の性癖がばれるのは避けたい。部活やクラスでこれ以上浮きたくない。ただでさえ恋愛や下ネタな会話から無難に逃げを打つ俺は、面と向かっては言われないが堅い奴とか面白みのないバスケバカと思われていると思う。……まぁ実際面白みはないのだが。それらに加えて今度はゲイだとばれてしまえば浮くどころの話じゃなくなる。バスケは個人競技じゃない。万が一、パスすらまわってこなくなって……恋どころかバスケも出来なくなったら。

獲らぬ狸の皮算用。馬鹿馬鹿しいと自分でも思う。悪い方に考え過ぎかもしれないと。
でももし想像以上に自体が悪く転がったとしたらという怯えが消せない。消せるだけの自信が自分にはないのだ。
こんな意気地のない俺は藤真へ告白なんて出来ないと、年月が経つにつれ自分を諭すところがあった。そのくせ、知らない間に花形と藤真が恋人同士という関係になっていたことに気付いて傷つく。傷つく資格なんてどこにもないというのに。我ながら傲慢なことだ。


思考が散漫になり、ぼんやりしていた。顔を拭い終わったタオルを握る指がやけに冷たい。何分くらい俺はこうして洗面所で立ち尽くしていたのだろう。
慌ててタオルハンガーにタオルをかけている時にふと鏡へ目をやった。
先ほどまではあんなに安心してふぬけた顔をしてたくせに、なんて面してやがる。
指と同じくらいいつの間にか冷えていた胸にキリで突かれるような痛みを感じた。反射的にぎゅっと目を閉じると瞼の裏に仙道の頬笑む横顔が突然現れた。

(間違えるな。あれは同性を恋愛対象とする俺を許すためにつくられた頬笑みじゃない)

何度も胸の中で履き違えるな浅ましいと己を詰った。
それでも、冷えて痛みを覚えていた胸が、浮かんだ微笑みに弛緩していくのを止める術がみつけられない……。

すまない、仙道。お前の頬笑みを誤解しているわけじゃないのに、勝手に自分の都合の良い薬にしてしまって。
詫びにもならないが、次は絶対に俺から電話をするから。今日のお礼に何かお前の役に立つことを絶対にしてみせるから。
だから……大輝の泣きっ面とそっくりなこの面が完全にひっこむまでのあと少しだけ。お前の頬笑みを誤解したままでいさせてくれ。






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これを書いてから、子供に少し興味を持ち『よつばと!』や『うさぎドロップ』を読みました。
書いた時は観た事ないのに『スリーメン&ベビー』のようなのをやりたかったんだけど。


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