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こんなふうに日が傾きかけた空の下で初めて藤真と出会った。 まだ神奈川に越してきたばかりだった俺は、街へ出て一つ目の用事をすませたはいいが、次の目的地へのバス乗り場が分からずに全バス路線図の看板を見上げていた。昼と夕暮れが入れ替わる狭間のような、やけに全てが白っぽく映る見慣れない景色の中で。 後ろ隣に人の気配を感じて首だけを捻るように視線を向けると、白く滑らかなカーブを描く輪郭に色素の薄い大きな瞳が視界に飛び込んできた。小振りで形の良い唇や綺麗なカーブを描く眉。さらさらと風でそよぐ薄茶の髪の美しい男が路線図を見上げている。少年から青年へ変わる手前なのか、年齢を読めない感じの彼は、少し褪せた写真の中で微笑む父の若い頃の姿ととてもよく似ていた。 すらりとした美しい立ち姿に目を奪われ、不躾なまでに見つめていたのだろう俺へ怪訝そうに眉を顰めて見返してきた。 「何か?」 突然視線を合わせられて俺は一歩後ずさった。とっさのことに頭どころか口も上手く働かなかった。 「あ……ええと。いえ、……すいません」 「……場所は?」 「え?」 「知りたい場所。バスでどこまで行きたいんですか?」 俺の目的地は彼もよく知る場所だったようで、それほどかからず乗り場と降車所名を教えてくれた。頭を下げ礼を述べれば、軽い会釈を返して藤真は何事もなかったようにそこから去ってしまった。 建物の隙間から射す、先ほどまで白けていた光は淡いオレンジの光に変わっていた。人混みは一様に柔らかくあたたかみのある光に照らされていた。色味は柔らかくとも冷たい春の傾いた風を背に受けて歩く細い後ろ姿は微かにぶれており、セピアめいた写真の姿と重なるようで。俺は時間が逆行したような錯覚がぬぐえないままに、彼が人混みに紛れるまでただ立ち尽くし見つめていた。 そんなささいな出会いなど、数か月後に地区予選という場で互いに一プレイヤーとして再開した藤真の中には全く残ってはいなかった。 しかし牧にとっては再開できた時の高揚感はとても大きかった。多分、初めて出会ったあの時に恋に落ちていたせいだろう。 しかし当時は自分の浮つく気持ちの理由が分からず、気になるから見てしまうという行動を繰り返していただけだった。それがいつしか、『海南大付属のバスケ部一年の牧が翔陽バスケ部一年の藤真をライバル視している』と噂がたち─── 噂を耳にしたのか、藤真までもが俺をライバルと見るようになっていった気がする。本人に確認したわけではないが、体育館内とはいえ個人的に藤真に、『よぉ。俺らが神奈川の双璧って呼ばれてるらしいけど、知ってっか?』と声をかけられたのはそのぐらいの頃だったから。 好きな相手にライバルと認識されるのはとても複雑な気分だった。それでも関心を持たれないよりはずっといい。 強くなればなるだけ、藤真は俺を追い、話をする機会も増えた。それが嬉しくて、俺はがむしゃらに強さを追い求めた。練習を重ねるほどに、強くなればなるだけ、バスケットの魅力にものめり込んでいった。 ─── 結果。俺を追っていたはずの藤真は、大学ではバスケとは別の道を選択しており。俺を見ていたと思っていたあの瞳は傍らで彼を支える者へと向いていた。 否。もともと藤真が見つめていた対象は花形であったのかもしれない。その視線がチームメイトから恋人へ向けるものへ変化していたことに俺が気付くのが遅かっただけな気もする。 何れにせよ、俺は最初から。立ち位置からして間違えていたのだ。自分の不器用さを考えれば、ライバルと認識された己を恋人へと変化させるような器用さなど持ち合わせてなどいないくせに。いつかそのうち、バスケでもっともっと高みへ近づけた頃にはきっと……などと悠長なことを考えていた甘さが、告白すら出来ない惨めな形で初めての恋を終わらせたのだ。 何も始まらなかった。ただそんなことを確認するためだけに今日、こうして神奈川県高校篭球部合同練習試合会場へやってきたようなものだった。名称は長ったらしいけれど、実際は各校が三年が引退しスタメン入れ替えが大々的に行われた形で力をぶつけ合う、ほとんど春に新入部員が入る前の軽い力試し的な催しだ。 もちろんそうはいっても試合は試合。本気で相手を倒そうとするのに変わりはない。だから見ていて面白かった。早くも次の夏を少々予測させるものがあり、自分はその時にその場にいないくせに真剣に観戦してしまう。昨年は特に湘北はベンチが薄かっただけに、三年が完全に抜けた今はまだあちこちで危うい形が目立った。四月からかなり力のある一年が入らない限りインハイへは進めないだろうと考えさせられる。バスケは五人でやるものだから、いくら流川が抜きんでようとも、桜木がフルタイムで出れるようになったとしてもだ。反対にベンチの厚い湘陽や陵南は現段階でかなり先を期待させるいい形が組まれている。特に陵南は仙道を中心に福田と越野を上手い形で使えているようで見応えがあった。それらを換算しても、総合的且つ客観的に判断してもやはり今年も海南が一番だろうという手応えを改めて感じ、先輩の身としては気分も良かった。 それでも、試合が終わってわざわざ藤真達が俺を見つけて話をしに来てくれると、自校の勝利で高揚していた気持ちは静かに冷め。ひたひたと胸に寄せる空しさを顔に出さぬよう気を張るはめに陥ってしまうのだ。 案外、藤真がバスケを離れてくれるのは俺にとってはありがたいことなのかもしれない。知った時はかなりショックを受けたものだが、コート以外で会えばこうして意気消沈する情けない自分を嫌になることも減るのだから。 いっそ告白して振られた方がよっぽどスッパリ忘れられるかと自棄になって考えたこともある。けれど自分がスッキリしたいからと藤真を無意味に混乱させるのは、それこそお門違いだという程度の頭はあるのだ、俺にだって。 顔を合わせない時間が増えて、そのうち時間に漂白される日がくるまで。俺はもう、こうして藤真の前に出てくることはしないと決めた。今日が最後と決めてきたんだ。 楽しそうに口角をきゅっと上げた藤真が俺を見上げてきた。 「魚住と池上、赤木と木暮も誘ってあるんだ、これから三年の元キャプと元副キャプだけで飯食って帰ろうぜ」 「悪い。俺はこれから用事があるんだ。また今度誘ってくれ」 手刀をきると、断られるなど考えてもいなかったのだろう藤真の瞳が大きく見開かれた。 「なんだよそれ。その用事ってのは俺の誘いよりも優先させなきゃなんねーもんなのか?」 「藤真。そんな言い方をしたら牧が困るだろう」 ひっそりと窘める後方に立つ花形を藤真は黙ってろとばかりに睨みつけると、また俺へ向き直った。 「こんだけメンツ集めるのに丁度いい機会なんてな、これから先早々あるもんじゃねぇよ? なぁ。行こうぜ?」 熱心に誘う藤真の気持ちは分かる。バスケから足を洗う藤真を含めた面々と一緒に騒げるのは、下手すれば今日を逃せばないかもしれないのだ。同校でもない、友というには微妙な関係はバスケがなければもう繋がる線はほとんどないようなものだから。 それでも。今日ここへ来たことが自分にとっての精一杯の、お前へ向ける誠意。大学の先輩達に拝み倒して今日の休みをもらったこと、花形と二人で並ぶお前を前に最後の虚勢をはること。それ以上を期待されてももう俺には無理なんだ。 「すまん。もう相手を待たせてあるんだ。そろそろ行かないといけない」 わざとらしく腕時計を見る仕草をしてみせた。待たせている相手などいないくせに。 「……途中で抜けてこれないのか?」 「悪いな。赤木達に宜しく言っておいてくれ。藤真、花形。元気でな。海南大に寄ったら声かけてくれ」 じゃあ、と片手を軽く上げる俺は、多分とても自然に笑っているはず。藤真達が海南大に寄ることなど絶対にないと分かっていて告げた。それでもこれっきり会う気はないなど絶対に顔に出してはいないと確信できる。その証拠に、藤真も仕方がねぇなぁとちょっと不満げに。でも少しふざけた様子で口先を尖らせてみせたから。 ああ言った手前、俺は急いで体育館の正面ロビーを他の誰にもつかまらないようにそそくさと退出した。 幸いすっかり日は暮れており、外へ出て街灯の少ないところへ行ってしまえば見つからずに帰れそうだった。 しかし階段を駆け降りる途中で名前を呼ばれた。内心舌打ちをしてしまう。 足を止めたところで駆け寄ってきたのは意外なことに仙道だった。 「すんません、何か急ぎだったんすか?」 「ん…、まぁ、そう……でもないが」 咄嗟に上手い嘘が出なくて煮え切らないおかしな返事をしてしまった。仙道はパチパチと音がしそうな長い睫毛を数回瞬かせていたが追及はしてこなかった。 「良かったら、途中まで一緒に帰っていっすか?」 牧が戸惑いながらも頷くと同時に、仙道は早い足取りで階段を降りはじめた。今度は牧が追う形となった。 体育館前にある寒々しい公園を過ぎて漸く、仙道はゆっくりとした歩調に戻した。 「お前こそ急ぎの用事でもあるんじゃないのか?」 「いえ、全然。牧さんは? あ、どこか寄る用事とかありました?」 「ない。……そうだ、もし今から暇なら、こないだの礼と詫びに飯でも奢るが付き合わないか?」 目を丸くした仙道の顔は、すぐにとてつもないラッキーに遭遇したようなものへと変わった。 「おい。違うぞ、お前の想像してるような豪華な飯なんて無理だからな」 ブンブンと首を振られ、ツンツンと逆立ててある髪の毛が揺れる。 「ぜんっぜん。百円バーガーだってなんだって」 今度は縦に首を大きく何度も動かす。それでも崩れない髪型が不思議で、つい触ってみたくなって牧は手を伸ばしてしまった。 ……思ったより痛くない。針なわけでもないし、そりゃそうかと納得がいく。細く束になっているのか、根元はどうなっているのか。暗がりであまりよく分からないので、そっと指を差しこんでみると、前髪の根元はがっちりと固められているようで地肌まで指が通らない。もっと角度を変えて地肌付近へ指を入れたいのに……。 「あの……。俺の髪、なんか変すか?」 「ああいや、変なんじゃなく不思議で……。あ、すまん!」 視線を髪から顔へ移動させた途端、自分がおかしなことをしてしまっていたことに気付いた。左手で仙道の後頭部を固定し、右手で前髪を弄っていたのだ。そんなおかしなことをされて腹立たしいのか恥ずかしいのか、仙道は長い首まで赤くしている。慌ててもう一度謝ると、仙道は真っ赤な顔で眉尻をへにょりと下げながら笑った。 「やだなぁ、謝らんで下さいよ。別に。……別に、髪の毛触ったくらいで」 「お、おお。そうだよな。ほら、俺は整髪料とかあまり使わないから、硬そうだなと思って」 「あぁ。そっすね、牧さんの髪型なら」 仙道の両手が先ほどの俺と全く同じ動きをした。自分より数cm高い身長の男に僅かに背を丸めて近寄ってこられ。後頭部を片手で支えられているせいだろうか。……経験はないが。ないけれども。これはその……ええと。 「柔らかいんですね。色も薄くて綺麗だ……。もしかして、少し癖っ毛?」 まるでそっと囁くように訊ねられ、何故か心臓が跳ねる。 「そっ……そう。そうなんだ。だからセットいらずでこの髪型は楽なんだ。前は少しは整髪料も使ったんだが」 「あぁ。前髪を後ろに流してた時もカッコ良かったけど、俺はこの下ろした髪型のほうが」 動けない俺に仙道は更に近づいて、それこそ耳に吐息がかかる位置で。 「好きですよ」 ……と、感想を述べた。 変なとこで区切って、やけに艶っぽく呟かれたために心臓はさらに早く脈動した。返事をしなければと思うのに、軽いパニックに襲われて適当な返事が浮かばない。 狼狽が顔に出ていたのだろうか。唐突に離れた仙道は軽く笑った。 「牧さんったら、なんて顔してるんすか。けっこう言われてんでしょ? 前の髪型よりも今の方が若く見えるって」 「……っ! 煩ぇよ」 「あ、怒った。何でそこで怒るんすか〜」 背を向けてずんずんと先を歩きだした牧を、今度は仙道が、「褒めてんのにー」と楽しそうに後を追った。 今まで色々な奴らから同じようなことを言われてきているし、今さら自分の老け顔のことを茶化されようとどうということはない。……そりゃちょっとは凹む時もあるけれど。先ほどのような好意的な言われ方では腹など立たない。 それでも、やたらに耳に残るゆっくりと区切るように囁かれた6文字足らずの言葉に、俺は調子を狂わされてしまったようで、変に歩く足に力が籠ってガニ股くさい歩き方を暫くしてしまっていたらしい。そのせいで店に着くまでの間にまた仙道に笑われてしまった。 笑われて怒ったふりで妙な気恥ずかしさを飛ばして。そんなおかしな繰り返しをしている間に、すっかり牧の頭からは、好きだった者へ嘘をついて逃げた罪悪感や胸苦しさなどは消えていた。 *next : 04
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牧が仙道の髪を探るというのが好きなので、ついまたやってしまいました(苦笑)
叶わぬ恋にいつまでもうじうじやってちゃダメだ! と、今回は牧なりに藤真と決別宣言でした(笑) |