Believe it or not. vol.11


朝、仙道が目覚めた時には隣にも、部屋にすらも牧の姿はなかった。寝起きの様子や腕の中でまどろむ彼を見れることを期待していたけれど、そこまで現実は甘くなかったようだ。せめてと牧が使っていた枕へ顔を埋めて香りだけでも楽しもうと手を伸ばした。ひんやりした枕はもう牧のぬくもりの名残もない。
「ちぇ…。おはようのチューくらいしたかったのに」
枕を撫でて呟いた途端にドアが開いた。
「仙道、そろそろ起きろ。飯食ってくだろ?」
ベッドの上で海老のように跳ねた仙道は「ひゃあ?」と素っ頓狂な声をあげた。邪ま丸出しの台詞を聞かれたかと焦ったが、そんなことはなかったようで、牧は普通におはようと笑いながら部屋へ入ってきた。
「起きてたんだな。眠れたようだが、寒くなかったか?」
「は、はい。牧さんはいつから起きてたの?」
「一時間前に目覚ましで起きちまって。止めてから30分くらいうだうだしてたかな。洗面所空いてるから使っていいぞ」
「何でそんな早くにセット……? つか俺も起こしてくれたらいーのに…。前のログハウスん時も朝、ちょっとだけいなかったよねそういえば」
「朝は軽く走ってから飯にしてるんだ。その方が美味いだろ。家に人が泊まった朝は走らないんだけど、昨日はセット解除し忘れててさ。時計が鳴った時はお前まで起こしてしまったんじゃないかと焦った」
はにかんだ笑顔を朝日が照らしている。その眩しさに目を細めて魅入っていると、「お前が寝汚くてよかったよ」と、今度はいたずらっぽく笑われた。


仙道が洗顔中に、これぞ和の朝食をいったものが用意されていた。食卓につくと食事がすんでいた牧の母親もお茶を手に席についた。優しくおっとりとした喋り方ではあるが、食事中にずっとあれこれと楽しそうに話されてしまい、仙道が律儀に返事や相槌をうっている間に牧はほとんど食べ終わってしまった。
「母さん喋り過ぎ。仙道が飯食えなくて困ってるだろ。もう向こうに行って父さんの相手でもしてこいよ」
「あら。これはこれは、ごめんなさいねぇ〜紳一の大好きな仙道君を独占しちゃいまして」
「煩いよ。ほら、行った行った」
犬猫を追い払うようにシッシと手を払った牧へ母親は笑いながら「ゆっくり食べてってね」と仙道へ言い残して庭にいる父親のところへと出ていった。
「すまんな。最近は話し相手が不足してたみたいで」
「いえ、全然。面白い話が沢山聞けて楽しかったですよ」
「面白い? 面白い話なんてあったか……?」
分からないといった顔で牧がお茶を入れる横で仙道は嬉しそうに残っていた出汁巻き卵を口に入れた。
家族だけが知っている彼のこと。煎茶は濃い目、目玉焼きは半熟より少し焼けた方が好きで、芋の味噌汁が苦手だとか。そして、家族にも自分の事を気に入りの後輩として紹介してくれているようなことなども。また、家族と接することで、どういう雰囲気の家で彼が育ってきたかも伝わってきた。それらは全て、とてもささいなことではあるけれど、仙道にとっては楽しくて貴重な情報ばかりだった。


朝食を終えて牧の自室へ戻って30分もしないうちに仙道は帰ると立ち上がった。
「そんなに急がなくても間に合うだろ。もう少しゆっくりしてけよ」
「ありがたいけど、やっぱもう行く。あんまりいると本気で帰りたくなくなっちまいそうだから」
牧さんの傍は居心地良すぎて長くいると危険だよ、と苦笑いして玄関に向かう自分より少し高い身長の男の背を、牧は淋しさを含んだ苦い表情で見つめていた。
靴を履き終えた仙道が振り向かないまま小さく呟いた。
「……俺、さ。今は、あんたのものだよね。でも今日……寺澤がすんなり奈美と別れさせてくれても、ちょっとの間は、あんたの傍に俺、いてもいいんだよね?」
弱々しい声に無性に苛つかされて、牧は腕を組んだまま居丈高に口にした。
「何度言わせる。いいか、俺はな、自分の大事なものが傷つけられるのはハラワタが煮えくり返るほど嫌いなんだ」
心なしか少し驚いた顔でそろりと振り向いた男の腕を強く掴んで自分に向き合わせる。牧は空いている腕を伸ばし、仙道の胸に拳をあてた。
「だから、傷つけられてくんな。そこんとこ自覚してしっかり頭使って自分を守ってこい。俺を怒らせんようにな」
整った仙道の眉が八の字にゆがむ。泣き出す子供のように瞳を揺らがせたが、ぎこちなく、へへへと笑った。
「うん。牧さんに嫌われたくないから、頑張ってきます。じゃ、行ってくるね。お邪魔しました。沢山ごちそうさまでした」
仙道の胸にあてていた牧の拳が冷たい掌に包まれてそっと離される。
玄関のノブを握った背へ牧から「あまり気負うなよ。何かあったらすぐ連絡寄こせよ」と声がかった。仙道は頷きながらも振り向かず出て行った。

「……目を離した場所で傷つけられんのは、所有者の管理不届きのせいもある。自衛してもなお傷つけられたってんなら、俺が責任もって修復してやる。俺が自分のものだと決めた奴をそうそう簡単に嫌えるわけないだろ、バカが」
誰もいない、朝日と朝の冷たい空気だけが残る玄関で、小さな舌打ちを残して牧は部屋へと戻った。

ほんの数秒触れられた。それだけなのに何故か牧の右手は、まだ冷たい指でそっと包まれた感覚が消えなかった。


* * * * * 



午前中に牧からメールが二件入っていた。どれも件名は『大丈夫だったか?』。寺澤に呼ばれているのは部活の後。部活が終わるのは夜7時なので、この調子だと返事をしなければずっと心配させ続けてしまうだろう。
「あんまウソつきたくねーんだけどね……」
昼食の菓子パンを食べ終え、仙道は仕方なく返信を打つ。まだ呼び出されていないため、詳細を書けば何か変更があった時が大変なので、無難な言葉を選ぶ。『大丈夫。心配かけてすいませんでした。これからちょっと用事できたので、夜電話しますね(^_-)-☆』

憂鬱な気持ちで部活を終えた仙道は、寺澤に指定された体育館の用具室へノロノロと足を運んだ。寺澤は何人くらい連れてくるのだろうか。最初の、妹と付き合えと命令した時のように寺澤一人というわけはないだろう。重い溜息が零れる。
照明が消えた体育館は寒々しい月が磨かれた床へ映されていた。冷え切った空気は冴え渡り、怖いくらいに静かだった。扉を閉めれば自分の足音だけが重たげについてきた。
「……すんません、遅れました」
細い光が漏れていた用具室へ入る。暗がりに慣れた目にはたった一つしかない照明でも眩しく感じて仙道は目を細めた。
「よ〜お。ビビって来ないかと思ったぜ。ったく、重役出勤得意だよなテメェはよ」
ザラザラした声に仙道は緩慢に振り向いた。二箇所ある出入り口のもう一箇所のところへ寺澤は野球ボールを弄びながら立っていた。意外にも一人らしい。てっきり数人で痛めつけられると思っていただけに、少し警戒心が緩む。さっさと終わらせたくて仙道が先に口火を切った。
「話って……奈美さんのことですよね」
「あったりまえじゃねぇか。このクソホモ野郎」
吐き捨てた寺澤の言葉に仙道は驚き眼を見張った。寺澤はニヤリと下卑た笑いを口元に作る。
「へっ。ホモ野郎だなんて知ってたら、テメーになんざ奈美を近づけなかったのによぉ。上手く隠してやがるもんなぁあ? お相手は海南大の副主将の牧だってな。おっどろいたぜぇえ? 奴もテメーも女と付き合ってカモフラージュしてんだもんよぉ、しっかり騙されたぜ」
寺澤がぺッと唾を仙道の足元へ吐き捨てた。
「……俺はそうですけど、牧さんは違いますよ。関係ありません」
静かな仙道の返答の直後、寺澤は渾身の力でボールを仙道の腹へ投げてきた。咄嗟に一球目は手で受け止めたが、続いた三球は腹と太腿を直撃した。仙道が痛みに顔をしかめる。
「まぁだウソつくんかテメーは〜バレてんだっつーの。もう騙されるわきゃねーだろ」
「嘘じゃないです」
また飛んできた球を仙道が避けると、「避けんなよ!」と寺澤は忌々しげに尖った声をあげた。
「テメーの携帯、牧からのメールだらけだろうが。大事に消さないで全部とっておいてんだってなぁ? 『牧さんの都合に合わせるよ。少しでもいいから顔見せてほしいんだ』とか、どんな面でテメーも返信打ってんだっての。お〜キモッ! キモいわキザだわ、言ってて鳥肌たっちまったぜ」
つい最近の自分の返信を寺澤がいかにもなオカマ口調で語ったことで仙道の頬が怒りで引きつる。
「いつ、俺の携帯ん中見たんすか。ロッカー、鍵かかってますよね」
「ケッ。誰がテメーなんぞの汚ぇロッカー探るかよ。ホモがうつったらどーするんだっつの、バァ〜カ」
「……奈美さんが見たんですね」
「可哀相になぁ、冷たい恋人の心を何とかしたいって乙女心が傷つけられたんだぞ。奈美が泣いて帰ってきた時、俺ぁテメーをブッコロしてやるって言ったのによ、『やめてお兄ちゃん』ってあの可愛い眼に涙いっぱいためて止めんだもんよ。我が妹ながらいい女だとしみじみ思ったね。悪いホモ男に引っかかっちまって最悪に哀れだぜ」

携帯を盗み見たことをこれっぽっちも悪いと思っていない兄妹。これ以上それについて申し立てても無駄だし、携帯の中を全部見られているとなれば、もう牧を無関係とすることは出来なくなった。仙道が唇を噛み締めて怒りに耐えていると、突然寺澤が近づいてきた。
「つーわけで、奈美はお前に金輪際近づけねぇから。それと、奈美をもて遊んで傷つけた慰謝料は、これからゆ〜っくり払っていってもらうから、そんつもりでヨロシク」
「俺は奈美さんを紹介された時に断った。それを寺澤さんが、生意気言うなって無理やり、痛っ」
仙道は最後まで喋ることも出来ずに腹を抱えて蹲った。寺澤の膝蹴りが決まったため、僅かな胃の中身が逆流する。
「オメーさぁ、キショイくれーに牧にベタ惚れらしいなぁ? 選ばせてやろーか? 牧がホモでお前とできちゃってるって、だから二人のジャマはしねーでやろうぜって皆に親切な俺が教えてあげるのと〜。それと、お前が奈美に慰謝料を払っていくのとを」
「牧さんはホモじゃない。俺が勝手に惚れてるだけだから、そんなデマ吹いたら、あんたが海南大の奴等に睨まれますよ」
屈んだ状態で横っ腹を蹴られた仙道は思わず両手を床についた。「主将をあんたって偉そうに呼ぶな、クソホモ」とその背を寺澤の足がぐいぐいと押すように踏みつける。
「ったく口の減らねぇ野郎だぜ。そのスカした喋り方も俺はハナから気に食わなかったんだよ。まあ? 牧は関係ねぇって言い張りてーなら、テメーが慰謝料払えばいー話だろ」
「金なんてないのあんたも知ってんだろ」
「だから、誰に向かって口きいてんだよっゲロ野郎! 誰も金なんて言ってないだろ。貧乏人のテメーと違って金に不自由なんてしたこたねぇんだよ。そーいうこたぁしねぇの。俺は頭がいいから、金なんかよりもっと…っと、」
寺澤の皮ジャンのポケットから着メロが流れた。チッと舌打ちをして寺澤が応じる。
「どーしたよ? ……うんうん。いいよ、買って帰ってやるよ。他にはいいのか? そうか。元気出すんだぞ、今帰るから。……うん、じゃあな」
起き上がっていた仙道へ寺澤は電話が終わるなり再び蹴りを食らわせた。仙道はまた腹を抱えたが、それでも倒れずに跳び箱へよしかかった。気持ち悪いほど優しい声で出た電話の相手は、おそらく奈美だろう。優しい声で応えたのは、この状況ではかなりマヌケだったため寺澤はそれを打ち消すようにことさらドスをきかせてきた。
「俺はテメーと違って忙しいし、長く二人でいたらホモがうつると怖いからよ〜、今日のところはこの辺にしといてやる。慰謝料は何にすっかはこれから決める。楽しみにしてやがれ」
かがんだ状態から見上げていた仙道が、帰ろうとした寺澤の腕を掴んだ。
「いってぇ! テメ、」
文句を言いかけた寺澤の口は仙道の顔を見て動きを止めた。
「……デマ吹いたら、マジ殺すよ。退部になろうが務所に入れられようがかまわねぇから、俺は」
毒をはらんだ呪詛のような呟き。狂気を滲ませた笑みが整った仙道の顔に冥い影を落としている。寺澤は震えだした自分を悟られないよう、急いで掴まれた腕を振り解きくと戸も閉めずに足早に出て行った。

よろけた体でマットレスと跳び箱の隙間に仙道は腰かけて呻いた。
「キ○ガイシスコン野郎め……イテテ。あー…でも今回は吐かないですんだな。っと、早く帰って牧さんに連絡しなきゃ」
軽く言ってはみたものの、体はやはり痛みを訴えて立ち上がろうとするのを拒んだ。冷たいリノリウムのはげかけた床からはしんしんと寒さが這い上がってくる。さっさと帰りたいのに、腰に根が生えたように動けない。
「まいったなぁ……あ?」
ポケットの中でメール着信の小さな音がして携帯を取り出す。メールは思った通りの人からで、『日に何度もすまん』という彼らしい件名だった。
『どうなったのか知りたいのもあるが、本当にお前が無事なのか声が聞きたい。なるべく早く電話くれ』
何度も何度も何度も短い文面を読み返す。読み返すたびに涙が目にたまって、とうとう読み返すことも出来なくなってしまった。

こんなに優しい人だなんて知らなかった。こんなに心配症だとも。知れば知るほどに好きにならずにいられない人。助けてもらってばかりなこの人のもとへ、今すぐ愛していると伝えに走っていきたい。あの硬くてあたたかな体を、今度は強く抱きしめたい。
「牧さん……牧さん……俺もあんたの声、早く聞きたいよ」
まだ涙声なため電話は無理だとあきらめる。せめてとメールを打とうとしたけれど、指がかじかんで上手く打てない。それでも立ち上がれるだけの力は今、彼がくれた。
「タイミング計れないなんて嘘じゃん。いつだってバッチリだよ。イテ」
軽く笑うだけで腹に痛みが走り前のめりになる。
それでも仙道は携帯を握り締めると、両足に力を入れて立ち上がり、痛みに顔を歪めながらも用具室の電気を消した。

体育館の窓から覗く月は柔らかい雲にくるまれて、先ほどよりほんの少しだけ優しく見えた。








*Next:12




イジメもリンチも絶対駄目なことなのに、そのうえ逆恨みとは最悪最低ですな!!ガッデーム!!
仙道はあえて反撃してませんが、その気になったらけっこう強いと思います。


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