薔薇の下
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作者:鉄線さん 挿絵:きづたさん&梅園 | |
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宮益家の長男義範様の御結婚が決まった時、近所では騒然とした。 宮益家といえば、世が世ならばお殿様と謳われるほどの名家。 義範様はその宮益家の一人息子であり、幼少の頃から乳母日傘で育てられた。 成長した義範様は聡明で優しく、使用人達にも慕われていた。 ここまではいい。ただ一つの問題は、義範様が非常に体が弱かったことだ。 幼い頃には、二十歳まで生きられないかもしれないと診断された。 そのため遺産に興味津々の親戚連中や華族の方々が、早くお世継を残さねばと、 自分の娘や息のかかった女を次々に差し出してきた。 しかしどの縁談も上手くいかないまま、義範様は年を重ねていった。 このまま嫁を娶る間もなく、儚くなってしまうのだろうか。 お可哀そうな若旦那と、近所でも噂されていた。 その義範様の御結婚が決まったと言う。 相手は宮益家ほどではないが、由緒ある華族のお嬢様だと言う。 それも義範様自らが是非にと望んでいるお方だと。 数えで十八歳。花も綻ぶような美人に違いない。 良かった、これで宮益家も安泰だ。近所の者達も胸を撫で下ろした。 婚礼の日は花嫁を一目見んとして、もの凄い数の野次馬が集まった。 うちの母親もその一人で、朝も早くからいそいそと出かけて行った。 帰ってきたら花嫁が綺麗だったこと、衣装や嫁入り道具が立派だったことを、 嬉々として語るに違いない。それを考えると、うんざりした。 だが帰ってきた母は、朝の勢いは見る影もなく意気消沈していた。 「人が多くて見られなかったの?」 「違うわよ。ただ……」 母は複雑そうな表情を浮かべると、いろいろと予想外だったのだと言った。 母の想像では、籠に乗った花嫁は大勢の従者を従え、桐の箪笥や鏡台といった 花嫁道具と共に嫁いで来るはずだった。 ところが待っても待っても、花嫁行列など来なかった。 結局野次馬たちが見たのは、お使い帰りらしい女中だけだった。 さっきの女中が花嫁だと気づいたのは、ずいぶん経ってからだった。 「だって、全然そう見えなかったのよ」 そう言うと、母は大きな溜息をついた。 「地味な着物で飾りも櫛しか刺してないし、荷物も風呂敷一つだけだし、 てっきりお使いに出された女中さんだと思ってたの」 「華族のお嬢様じゃなかったの」 「それなのよ。噂ってあてにならないわね。それとも名前だけの貧乏華族かしら」 「ずいぶん不似合いだね。そのお嬢様よっぽど美人なの」 「私もそう思ってたわ。義範様が是非にと望んだ方だもの。 でもあの人ほど、器量望みって言葉が似合わない人はないわ」 その人は身長が高く、骨太でがっしりしていた。 男のように短く赤い髪、そして驚くほど色が黒かった。 美人の条件である緑の黒髪や小柄で華奢な体つき、そして白い肌とは まったくの無縁であった。 顔の造りは色が黒すぎて分からなかったと言うが、かなりの醜女と考えて間違いない。 「何か弱みでも握られてるのかな」 「まさか。あのお優しい旦那様や奥様に限って…」 そう言いながら、母は眉を顰めた。 うちの家は代々宮益家で庭師をしている。 母は祖父の仕事のため、宮益家の旦那様や奥さまにも何度か会っている。 二人とも気取った所がなくて凄く優しい方と言うのが、母の意見だ。 それは婿養子に入った父も同様で、二人とも義範様の御結婚を我が子のように喜んでいた。 それが予想外の展開で、混乱しているようだ。 「人は自分に無い物を求めると言うし、病弱な義範様は丈夫な方が好みなのかも しれないわね。それにあの体つきは安産型だし、若奥様としてはいいんじゃない」 少々苦しいが、母の中ではそう結論づけられたようだ。 俺はそうだねと頷きながら、まだ見ぬ若奥様を想像しようとしたが上手くいかなかった。 あれから三年経った。 初登場からインパクトがあった宮益家の若奥様は、未だに噂に事欠かなかった。 与えれた豪奢な着物には見向きもせず、嫁入り時に持ってきた数枚の着物を着回している。 それもどうということもない安物ばかり。あまりの質素な格好に、来客に使用人と間違われた。 しかもそれを訂正もせず、へらへらとお茶を出していた。 他にも、使用人が目を離すと自分で洗濯や掃除をしようとする。 園芸と称して庭で泥にまみれていた等、噂を挙げていけばきりがない。 口さがない者には、宮益家の若奥様は山育ちの猿嫁だと言われていた。 でも若奥様が皆の前に姿を現したのは、あの婚礼の日だけだった。 嫁いで以来、屋敷の外へ出たことは一度もなかった。 それなのにどうして噂が流れるんだろう。 不思議に思っていたが、父が母へ話しているのを聞いて納得した。 屋敷の使用人達が、田舎育ちの若奥様を馬鹿にしていること。 若奥様のいる前でも、平気でひどい事が言えること。 それでも優しい若奥様は、本当のことだからと笑って許していること。 それで噂の大半を流しているのは、屋敷の使用人達だと分かった。 俺は父や母のように、宮益家の人達に尊敬の念は抱いていない。 若奥様のことも同様だ。華族の御姫様なんて、ちょっとしたことで大騒ぎして失神したり、 すぐべそべそ泣きそうで鬱陶しいイメージしかない。 でも父の話を聞いて、俺の中で若奥様に対する評価が変わった。 屋敷の使用人達に嫌われて悪口言われても、笑って流してる。 内心ではどう思っているかしらないけど、べそべそ泣いたり、 旦那の権力を笠に着て威張るよりずっといい。かっこいいと思ったのだ。 この時から俺は、いつか若奥様に会ってみたいと思うようになった。 チャンスは突然やって来た。 夏休みに入ってすぐのある日、俺は母にお使いを頼まれた。 用件は、父が忘れていった弁当を届けるというもの。 この時俺の頭に浮かんだのは、もしかしたら若奥様に会えるかもという期待だった。 勿論俺だって、若奥様と話ができるとまでは思ってなかった。 田舎育ちだとか貧乏臭いとか言われても、宮益家の若奥様に変わりはない。 父から若奥様は優しい人だと聞いてたけど、使用人の息子を相手にしてくれるとは思わない。 だから一目でも見ることができれば、御の字だ。 噂の若奥様を見たということで、友達にも自慢できる。そう思っていた。 わくわくしながら出かけたお使いだが、現実は予想以上に厳しかった。 お屋敷の前まで来てベルを鳴らすと、大奥総取締って感じのおばさんが出てきた。 父に届け物を持ってきましたと言うと、では私から渡しておきますと、 有無を言わさず荷物を取られた。 お駄賃ですと飴玉を渡されるやいなや、あっけなくドアは閉められた。 俺は憮然として、立ち尽くした。 こんなのってない。炎天下の中はるばる来たのに、飴玉一つで帰されるなんて。 だいたい飴玉って…俺は来年中学生だぞ。 そう考えていたら、ふつふつと怒りが込み上げてきた。 このままじゃ帰らない。帰ってなるもんか。入れてくれないんだったら、入るまでだ。 玄関から入るのは無理でも、庭から行ったらどこかから入れるかも。 もし見つかったら、父に会いに来て迷いましたって言えばいい。 子供扱いされるのは嫌いだけど、こういう時はとことん有効活用してやる。 こうして俺は、お屋敷への侵入を試みたのだった。 庭への侵入は案外簡単だった。 見張りでもいるかと警戒したが、そんなことはなく拍子抜けした。 鬱蒼と生い茂った木々が、姿を隠すのにも最適だった。 こんなことなら、もっと早くこうすれば良かった。 それにしても行っても行っても木ばかり。いいかげん見飽きるな。 そう思った時、突然鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。 赤、白、ピンク、オレンジに黄色、絵具箱をひっくり返したみたいな色の洪水。 そこに広がっていたのは、満開の薔薇園だった。 そういえば父から聞いたことがある。 若奥様の唯一の趣味が園芸で、特に薔薇が好きであること。 薔薇園を作ると張り切って、庭師である父を先生と称し教えを請うてきたこと。 でもまさか、こんな規模だとは思わなかった ぐるりと見渡すだけでも、幾重にも重なる大輪から一重のシンプルなものまで、 何十種類あるか分からない。 宮益家の庭師は父だけだから、父と若奥様二人でこれを作ったということか。 若奥様は思った以上に、よい生徒だったみたいだ。 感心していたその時、がさりと音がした。 まずいと思った時は、もう遅かった。 誰かいるのという声と共に、足音が近づいてきた。 ここまでか…覚悟を決めて後ろを振り返った時、全身に電撃が走った。 満開の薔薇園の中で、その人は紺色の着物に白っぽい帯を締め、立っていた。 その人が誰であるかは、すぐに分かった。 噂で聞いた通りの褐色の肌と、色素の薄い瞳、そして短く切られた髪。 俺の会いたかった若奥様が、そこにいた。 噂通りの姿形。でも唯一違っていたのは、若奥様が綺麗だったことだ。 炭のように真っ黒だと言われていた肌はすべすべで、俺の大好きな 牛乳を入れた紅茶にそっくりな色をしていた。 短い髪もきりっとした顔立ちによく似合ってる。 意志の強そうな琥珀色の瞳とふっくらした唇が魅力的だ。 何が醜女だよ。ほんと噂ってあてにならない。 「もしかして彰君?」 若奥様は立ち往生している俺に、にっこりと笑いかけた。 「はい!?」 まさか美しい人の口から俺の名前が出るなんて。 まったくの初対面なのに、どうして俺の名前知ってるの? 驚きのあまり、声が裏返ってしまった。 「仙道さんの息子さんだろ。お父さんからよく君の話聞いてたんだ。 聞いてた通り、将来が楽しみな男前だな」 そう言うと若奥様は目を細めた。 「あっ、挨拶が遅れてたね。俺は牧と言います。 いつもお父さんにはお世話になってます。以後よろしく」 ぺこんと頭を下げられ、ぎょっとした。 「そんなことしないで下さい」 そう言うと、若奥様はきょとんとした顔で首を傾げた。 「どうして?」 「どうしてって…」 雇い先の若奥様が使用人の息子、しかもこんな子供に頭下げるなんて。 冗談だとしてもありえない。 「君のお父さんは俺の園芸の先生だから。お世話になってる人の御家族に 挨拶するのは当然だろ」 普通ならね。でも…… 「でも宮益家の若奥様だから?」 そう言いながら、若奥様はいたずらっぽい笑みを笑みを浮かべた。 「馬鹿だな。子供がそんなこと気にしなくていいの。そもそも俺は、 若奥様って柄じゃないんだよ。令嬢なんて名ばかりの貧乏華族だもん。 この言葉遣いでお里が知れるだろ。彰君の方がよっぽど上品だって」 くしゃりと頭を撫でられた拍子に、ふわりと良い香りがした。 「だから俺のことは牧でいいよ。仲良くしよう彰君」 頭を撫でられるのは、子供扱いされてるようで嫌いだったけど、この時だけは違った。 触れてくる手の優しさが、その言葉が若奥様の本心であることを伝えていて、 とても心地良かった。 俺が今までに知ってる大人に、こんな人はいなかった。 「はい、牧さん…」 躊躇いながらも口にした名前。若奥様は満足そうに微笑んだ。 この時から若奥様は牧さんになった。 「あの蕾がマリア・カラス。この濃いオレンジ色がウィンナ・チャーム。 花びらの裏側が淡い黄色でコントラストが綺麗」 一緒に薔薇園を歩きながら、牧さんは一つ一つ花の説明をしてくれた。 薔薇の中に立つその姿は、花の精とはこういうものかと思わせられた。 「綺麗だな」 思わず漏らしてしまった言葉に、牧さんは嬉しそうに目を細めた。 「お父さんの監督がいいから。ここまでにするの苦労したんだよ」 綺麗なのは薔薇じゃなくあなたですと言いたかったが、お上手だなと 笑われてしまいそうだったので、止めた。 こういう時、子供である自分が嫌になる。 早く、こういうこと言っても様になる大人の男になりたい。 「彰君はどの花が好き?」 そう聞かれ、咄嗟に目の前にあった薔薇を指差した。 「スーパースターか。俺も好きだよ」 鮮やかな緋色の薔薇。咄嗟に指差したものだったけど、 その花はどこか牧さんに似ていた。 「それじゃあ、お近づきの印に」 牧さんは、三分開きの花を切り取って差し出してくれた。 「棘があるから気をつけて」 「ありがとうございます」 花に触れた人の残り香か、それともかの人が薔薇の香をまとっているのか。 受け取った花は、牧さんと同じ甘い香りがした。 帰ったら母さんに頼んで、ドライフラワーにしてもらおう。 大切そうに薔薇を握りしめていると、くすくすと笑われた。 「あんまり強く握ると、怪我するぞ」 「わっ、すいません」 「いやいや、気に入ってくれたみたいで嬉しいよ。よっぽど好きなんだね」 「はい。大好きです」 思わず即答してしてしまった。 その後、急激に恥ずかしさが込み上げてきた。 牧さんに似た花を好きだと言ってしまったこと。 まるで告白みたいじゃないか。頬に熱が集まる。 「どうかしたの。なんだか顔が赤いよ」 「なんでもないです。それより、牧さんはどの花が好きですか」 動揺を悟られないように、慌てて尋ねた。 「俺?俺はこの花かな」 そう言うと牧さんは、傍らにあった花を指差した。 「へえ……」 正直意外な感じがした。 濃いピンク色の花は綺麗だった。 でも他の華やかな花に比べると、一重咲きのそれは地味な印象を受けた。 「ハマナスっていうんだ。名前の通り海辺の砂浜に咲く花」 その言葉に納得した。 確かにこの花は、庭園よりも野に置いた方がしっくりくる。 でもなんで、そんな花がここにあるんだろう。 「我儘言って、取り寄せてもらったんだ」 俺の疑問を見透かしたように、牧さんが言った。 「俺の実家は海の近くでね。毎年夏の初めから秋にかけて、浜辺が濃いピンクに染まってた。 鑑賞用だけじゃなく食用にもなるんだ。実を採って帰って、ジャムとか酒とか作ったな」 言われてみると、牧さんが海育ちというのは納得だ。 褐色の肌やしなやかな肢体に、青い海と眩しい太陽はぴったりだ。 「昔はなんとも思わなかったのに、こっちに来てから懐かしくて。 砂地に咲く花だから育つか心配だったけど、この通り。野生だから丈夫なんだ」 俺と一緒。そう言いながら笑った。 「浜っ子だから、山猿じゃなくて海猿ってとこかな」 その言葉にどきっとした。 父から聞いたことが思い出された。 使用人達にひどいことを言われても、本当のことだからと牧さんが笑って許していること。 ふざけた様に言っていたけど、きっと今の言葉も本当に言われたことだ。 笑っているからと言って、傷ついていない訳がない。 むしろ何を言われても笑えるほど、言われ慣れてるっていうことじゃないか。 あの時怒っていた父のように、俺もむかむかしてきた。 「牧さんは猿なんかじゃありません!!」 思わず大声を出してしまった。 「牧さんは…牧さんは…」 興奮して言葉が上手く続かない。 「ありがとう、彰君はいい子だね」 そんな俺の頭を、牧さんは優しく撫でてくれた。 「彰君みたいな子がいたら、毎日楽しいだろうな」 その言葉に俺は泣きたくなった。 子供扱いされたのが嫌だったからじゃない。 更に牧さんの辛い境遇が伝わってきたからだ。 どうして気づかなかったんだろう。牧さんが宮益家に嫁いできて丸三年。 懐妊の気配はまるでない。義範様の体が弱いことも関係あると思うが、 子無きは三年で去ると言う御時世では、責められるのは奥方の牧さんだ。 特に、体が弱い義範様はいつ儚くなってしまうか分からない。 だからこそ、早い内に跡取りをと望むのが普通だろう。 変わり者でウマズメな奥方が、どんな扱いを受けているか想像に難くない。 俺にはまるで何も見えてなかった。 子供扱いを嫌がっていたけど、てんで子供じゃないか。 この時ほど自分が大人じゃないことを、悔しいと思ったことはない。 俺が頼りがいのある大人の男だったら…… 守ってあげたかった。牧さんを、辛いことや悲しいことすべてから守ってあげたかった。 できるならば抱き締めたかった。そして大丈夫です。俺がついてますと言いたかった。 でも悲しいことに、俺は無力な子供だ。 代わりにこう宣言した。 「俺大人になったら父の跡を継ぎます。それで牧さんにずっとお仕えします」 そしてずっとずっと守ってあげる。 牧さんは一瞬驚いたように、目を瞬かせた。 子供の戯言だと思わないで欲しい。真剣なんです。 必死に目で訴えかけた。 しばらく俺の顔をじっと見つめた後、牧さんはにこりと頷いた。 「分かった。待ってる」 約束だね。そう言って差し出された手の温もりを忘れない。 あれから必死で勉強した。 厳しい修業も、牧さんの手の温もりを思い出して耐えた。 あの時以来、牧さんには会っていない。 一人前になるまでは、会えないと誓ったから。 俺に分かっていることは、数年前義範様が亡くなり、未亡人となった牧さんが 屋敷の主となったことだ。 義範様の遺言で、主な財産は親戚筋で分配し、 牧さんには屋敷と贅沢しなければ一生暮らせるぐらいの小金が残された。 たとえ牧さんに全財産残しても、人の良い牧さんが親戚達に言い包められ、 すべて奪われてしまうだろうことを予測したのだろう。 今では数人だけ残った使用人と、質素に暮らしているようだ。 でも牧さんのことだから、贅沢したい放題だった時よりも、 今の暮らしの方が性に合っているに違いない。 「こんにちは、今日からお世話になります。仙道彰です」 人の良さそうなおばさんは、俺の顔を見て仙道さんの息子さんねと目を細めた。 「奥様が庭でお待ちしてますよ。早く行ってあげて」 木々の間を進んで行くと、目の前にあの日と同じ景色が現われた。 見渡す限りの色の洪水。 そしてずっと焦がれていた人がそこにいた。 久し振りという風に、牧さんは微笑んだ。俺も頷いた。 「薔薇に水をやってたの。手伝ってくれます?」 「はい、喜んで」 俺は迷わず牧さんに向かった。 牧さんの笑顔が胸を温かくする。 ようやく戻ってきた。今日からここが俺の居場所だ。 大きな安堵が俺を包み込んでいた。
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