熱き血潮に
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作者:鉄線さん | |
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『私は、夫を亡くして三年になる未亡人です』 その相談は、その一文から始まっていた。 俺と同じだな。夫だった宮益が亡くなって、もう三年になる。 牧は相談主に親近感を抱いた。 あまり本を読まない牧が、その雑誌を手に取ったのは偶然だった。 応接室のソファの上に置かれていた雑誌。 おそらくメイドの三井あたりが、置き忘れたのだろう。 三井、また休憩にここを使ったんだな。 主を主とも思ってない天真爛漫な笑顔が目に浮かぶ。 だが牧はそんな三井のことが嫌いではなかった。 三井は確かに口が悪いし、牧に対してもずけずけものを言う。 でもそれは、牧のことを心配してだと分かっている。 そして何より、夫が死んで我先にと出て行った使用人達を怒って、 牧のために泣き、最後まで残ってくれた数少ない使用人の一人だ。 その三井だが、メイド長という喧しい上司がいなくなってからは、 すっかり開放的になっている。 夜中に突然パジャマパーティーしようぜと押しかけてきたり、 応接間を休憩室代わりに使ったり、わりと好き放題にしている。 三井の夫で車の運転手をしている宮城には、びしっと叱って下さい、 奥様が甘やかすと、どんどん増長しますよと言われているが、黙認している。 夫も亡くなった今、寂れた屋敷に訪ねてくる客人もそうそういない。 無駄に古くて広いから余っている部屋も多いし、好きにしてくれと思っている。 牧としては、日々の食事とふかふかの寝室、そして気のいい人々がいれば十分だ。 「しかし、三井は何を読んでるんだろ…」 表紙には『微熱』というタイトルと共に、でかでかと祝五周年、 特別綴じ込付録、豪華ピンナップも満載と書かれていた。 祝五周年か。それだけ続くっていうことは、人気がある雑誌なんだろうな。 パラパラとめくっていたら、その悩み相談が目に止まった。 読者からのお悩みに、ドクトル千恵子なる人物が答えてくれるコーナーのようだ。 『亡くなった夫との間には子供もおらず、寂しい日々を過ごしています。 特に一人寝の夜は辛く、眠れないことも多々あります。 』 子供がいないという所も同じだ。 政略結婚とはいえ、夫婦仲は良かった。 男女の愛情こそなかったが、尊敬する大事な人だった。 優しい人で病身の床にありながら、最後まで俺のことを心配していた。 でも幸いにも、寂しい思いをしたことはあまりない。 夫の残してくれた屋敷のあちこちに、彼の思い出は残っている。 今でも、夫が見守ってくれているように感じる。 それに残ってくれた使用人達も、数こそ少ないが頼りになる良い人だ。 最近新しい仲間も増えて、さらに賑やかになった。 こう考えてみると、俺は恵まれているな。 相談者のM夫人に、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 そう思いながら、続きを追った。 『私は下宿屋を営んでおり、現在二人の学生を預かっております』 下宿屋か。女の細腕で苦労されたんだろうな。 『二人ともT大学に籍を置く才媛ですが、気取ったところがなく親しみやすい若者です。 特に今年入居してきたSは、私を実の母のように慕ってくれ、私もあれこれと世話を 焼いていました。その時は、まさかこんなことになるとは思わなかったのです…… 』 こんなことってなんだ? もしかして可愛がってたSが悪い奴で、お金をだまし取られたのか。 牧はドキドキしながら、次のページをめくった。 『その夜は蒸し暑く、私は寝苦しさから目が覚めました。水でも飲もうと思って台所へ行くと、 すでに先客がおりました。それがSでした。今考えると寝間着姿で男性の前に出るなんて、 はしたなく軽率だったと思います。親子ほど年齢の違うSに、すっかり油断していたのです。 気がつけば、Sの目はギラギラと異様な光を湛えていました。次の瞬間、私は床に押し倒されて いました。あまりにも突然の出来事で、抵抗する暇もありませんでした。Sは熱に浮かされたように、 奥さん好きだと言うと、荒々しくのしかかってきました。そして私の胸元に手を差し入れ…(以下略)』 「……凄かった」 すべてを読み終わった時、牧は思わずソファに突っ伏した。 それだけ刺激的な内容だった。 まさか貞淑な未亡人が、下宿の学生と男女の関係になってしまうなんて。 しかも彼によって、初めて女の喜びを知りましたって…… 最後の方は伏字だらけだった。全部は理解できなかったが、かなり卑猥な言葉に違いない。 こうなると、『一人寝の夜は辛く、眠れない』という言葉も、違う意味をもってくる。 一人寝が辛いっていうのは、欲求不満で熟れた体を持て余してるってことか。 「うわちゃぁ…」 そこまで考えて、溜息が出た。 こういうのって、小説とか映画の中だけの話だと思ってた。 本当にあるんだな。しかも相手は玄人でなく、普通の奥さんだ。 確かに、女は灰になるまでとか言うけど。でもそうか…大変なんだな。 俺には想像もつかない。そもそも、宮との夫婦生活自体ほとんどなかった。 …って、何思い出してるんだ。下品だぞ。 「何、百面相してるんだ?」 「ひぎっ!?」 いきなり後ろから声をかけられ、心臓が止まりそうになった。 「また色気のない悲鳴だな。そんなんじゃそそられないぞ」 振り返ると、にやにや顔の三井が立っていた。 「ほっとけ。この年で色気も何もない」 三井はやれやれという様に、肩をすくめた。 「年ったって、俺と同い年だろ。まだまだ一花も二花も咲かせる年齢だぞ。 そんなこと言ってると、かぴかぴに干からびちまうぞ」 「三井自称二十歳じゃなかったのか。どれだけサバよんでるんだ」 「レディは、二十歳からは年を取らないんだ」 堂々と言い放つ三井に、呆れるより感心した。 「友達として心配してるんだぞ。俺には宮城がいるからいいけどさ。 お前がこのまま女の喜びも知らずに死んだらと思うと、かわいそうで泣ける」 女の喜びという言葉に、さっきの記事を思い出してドキッとした。 「勝手なこと言うな。何だよ女の喜びって…」 「俺の口から言わす気か」 三井はにやりと不敵な笑みを浮かべた。 どんな下世話な妄想をしているか、分かったものではない。 「結構だ」 きっぱりと断ると、なぜか残念そうな顔をされた。 「とにかく余計なお世話だ。俺は今の穏やかな生活に満足してるから、 これ以上何もいらない。三井は宮城に愛想尽かされないかだけ心配してろ」 「ほんと可愛くねぇな」 「可愛くなくて結構」 「ったく頑固なんだから。あいつも苦労するぞ。ほんと、どうしてコレがいいんだろ」 そう言うと三井は、じろりと不躾な視線で牧を見た。 その視線がある一点で止まったかと思うと、再び不敵な笑みを浮かべた。 「あらら?その膝の上の雑誌、どうしたの」 「……っ、三井が忘れていったんだろ」 「うん、そうだな。でもどうしてページが開いてるのかな。もしかして風? そうだよな。潔癖な奥さまが、こんな低俗な雑誌に興味もつわけないもんな」 「うう…」 牧はがくりと肩を落とした。 「三井の根性悪…」 「お前が素直じゃないから悪いんだぞ。それで読んだのか」 「読んだよ…」 そう言うと、三井は嬉しそうに顔を綻ばせた。 「そうか。牧もようやく性に目覚めたか。色を知る年だな」 「待て、変な誤解をするな」 慌てて否定したが、三井が納得するはずもない。 「めでたいな。今日は赤飯だ」 「だから三井、違う…」 「あっ、これ俺のお薦めな。自分と似てる設定の方が萌えるだろ」 結局上機嫌な三井に、『チャタレイ夫人の恋人』という本を押し付けられてしまった。 「じゃあな、読んだら感想教えろよ」 「感想って…」 牧は困った顔で、手の中の本を見つめた。 「う〜ん」 大きく伸びをしながら、首をこきこき鳴らした。 「疲れた。目がしぱしぱする」 三井に急かされて読み始めたものの、性描写が生々しくて、なかなか先へ進めなかった。 読み終わった今は、ぐったりと疲れていた。 人妻と庭番の男の不倫を書いた小説のどこが、自分と似た設定なのか不明だが、 わりとおもしろかった。でもやっぱり不倫はまずいよな。 読んだからには三井に感想を言わないと。本当にめんどくさいな。 とりあえず、メモ用紙の真ん中に不倫は駄目と書いてみた。 「これでいいだろ」 「何がいいんです?」 「うわっ」 横から不意に覗きこまれ、隠す暇もなかった。 「不倫は駄目と」 読み上げられ、顔から火が出るかと思った。 「牧さんて字もきれいですね」 「頼むから忘れてくれ…」 牧の心からの懇願に、仙道はにこりと微笑んだ。 「分かってますよ。どうせ三井さんが絡んでるんでしょ」 「ああ、まあな」 物分かりのいい仙道に、ほっとした。 「三井が、『チャタレイ夫人の恋人』を読んで感想を聞かせろと煩くてな」 「その感想がこれですか。牧さんらしいな」 仙道はくすくすと笑った。 「俺も読んだけど、濡れ場しか印象に残ってませんよ。 牧さんには、刺激が強すぎたんじゃないですか」 「確かにかなり刺激的だった。三井は俺と設定が似てるって言ってたけど、 まったく被っている気がしない。不倫とか愛欲とは全然無関係だしな」 同意を求めるつもりで言ったのだが、なぜか仙道は顔を曇らせた。 「そうですか。三井さんがそんなことを…」 あれ?何かまずいことを言っただろうか。牧は首を傾げた。 だがそれも一瞬。すぐ笑顔に切り替わった。 「このヒロインより、牧さんの方がずっと魅力的なのに」 「おばさんをからかうなよ。褒めても何も出ないぞ」 「お世辞じゃありません。牧さんはきれいですよ」 ふわりとした笑みと優しい声。 仙道に言われると、本当のことのように思えてくる。 凄いな。これが色男の本領ってやつか。 「ありがとう。不覚にも少しときめいた」 「少しか。残念。牧さんをときめかすため、もっと精進しないとな」 「いやいや、枯れた俺でこれだぞ。若い女の子なら十分だろ」 そう言うと、牧さんは分かってないなと言われた。 「若い女の子も可愛いけど、俺は年上の方が好きです」 「年上って言っても一つとか二つだろ。たいして変わらん」 「いえ、十歳上で着物が似合う短髪の人が好きです」 「またモノ好きだな。妙に具体的だし…もしかして実在の人か」 「はい。俺の片思いです」 その言葉に驚いた。色男には不似合いな片思い。 それほど魅力的な女性ということか。 「しかし十歳も上だといろいろあるだろ。それは実らない恋じゃないのか」 「そうですね。アプローチしてるんですが、本気にしてくれないし」 「まあ、そうだろうな」 仙道みたいな年下の色男に口説かれても、社交辞令としか思えないだろう。 それが十歳も離れていたら、魂胆を疑ってしまう。 「それは…あきらめられないのか」 聞いてしまって後悔した。 仙道は何も言わなかったが、その笑みが答えを示していた。 「悪い。無神経だった」 「気にしてませんよ。確かに難攻不落な人だけど、待つのは慣れてますから。 もうずっと待ってるんです……」 仙道はそう言うと、何かを思い出すような目をした。 「本気なんだな」 「はい、本気です」 「そうか頑張れよ」 この時はまだ他人事だった。 仙道の秘められた恋も、M夫人のお悩み相談も、『チャタレイ夫人の恋人』も、 すべて別世界の出来事だったのだ。 その日は、朝から雨が降っていた。 牧にとっては久しぶりの外出だった。 あまり屋敷から出ることのない牧だが、唯一の趣味である園芸用の花苗や種は、 自ら出向いて購入していた。 馴染みの店から新種の薔薇を入荷したと電話があり、楽しみにしていた外出だった。 いつもなら運転手の宮城に送ってもらうのだが、宮城が風邪気味だったため、 急きょ代理運転手として仙道を立てた。 仙道の運転はなかなか大したもので、目的地にもスムーズに着いた。 目当ての薔薇も手に入れ、牧は上機嫌だった。 「仙道、庭仕事より運転手の方が向いてるんじゃないか」 「牧さんが望むならそれもいいな。でもそれだと宮城失業しますね」 「ああ、それはまずいな」 「そうでしょう。そんなことになったら、俺三井さんに殺されますよ」 「否定できないな」 二人で笑いあいながら、真面目な宮城だとこうはいかないなと思った。 窓の外を見ると、ちょうど稲妻が走った所だった。 ぱらぱらだった雨は激しさを増し、帰る頃にはどしゃ降りへと変わっていた。 「今光ったぞ。近かった」 「嫌ですね。落ちないといいけど」 そう言う間も、雨はますます激しさを増していった。 ワイパーをフル稼働しても、前を見るのが困難になってきた。 「このままだと危ないな。少し雨宿りしてもいいですか」 「そうだな。別に急いでないし、おさまるまで待とう」 結局近くの林に車を乗り入れ、雨宿りをすることにした。 林の中は欝蒼と茂り、激しい雨音と相成って深い海の中にいるような気がした。 「まるで海の中みたいですね」 仙道が自分と同じことを考えていると分かり、嬉しくなった。 「ここだけ世界に取り残されたみたいだな」 「牧さんと二人なら本望です」 「またそんなこと言って。仙道は上手いな」 本気ですよと言う仙道を、笑って流した。 「しかし暇だな」 ラジオをつけてみたが、電波が悪いのか雑音が聞こえるだけだ。 「仙道もこっちに来たらどうだ」 隣座席をぽんぽん叩いて、催促する。 「えっ、でも運転が…」 「雨が止むまでだよ。それまで話相手になってくれ。どうせ話すなら隣の方がいいだろ」 「それでは失礼します」 仙道は大きい体を折り曲げるようにして、後部座席に移動した。 「また身長伸びたか?今何センチあるんだ」 「190あります」 「もっとあるだろ。2メートルぐらいあるんじゃないか」 「髪のせいだと思いますよ」 「そうか?」 つんつんに立てた髪を押さえつけると、一気にボリュームが減った。 「ほんとだ。こうするとよく分かる。しかし意外と柔らかいんだな。 こういう癖なのかと思ってたけど、本当はサラサラなのか?」 「いくらなんでも、こんな癖はありませんよ」 「でも初めて会った時からこの髪型だろ。他の髪形なんて想像つかないぞ」 そう言うと、仙道は少しくすぐったそうな顔をした。 「嬉しいな。覚えてくれてたんですね」 「それは覚えてるよ。あの時の仙道は可愛かったな。 それがこんなに立派な若者になって……感慨深いな」 昔のように頭を撫でようとしたら、するりとかわされた。 「子供扱いしないで下さい」 「悪い。つい昔のこと思い出して」 髪に触わるのはいいけど、撫でるのはだめなのか。 難しいな年頃の男は。 思っていたことが顔に出たのか、仙道に軽く睨まれた。 「牧さんにとって、俺は子供のままなんですね」 そう言うと、切なそうに溜息をついた。 「そんなことない。仙道は一人前の庭師じゃないか。 仕事も真面目だし、技術もあるし、俺は尊敬している」 世辞ではなく心からの言葉だったが、仙道は少しも嬉しそうでなかった。 「そんな言葉が欲しいんじゃない……… 俺のことを、男として意識して欲しいんです」 真剣な目で詰め寄られ、一瞬言葉に詰まった。 「知ってるよ。仙道は男だろ」 笑ってごまかそうとしたが、だめだった。 「そう言って、俺の気持ちをジョークにするんですね」 強い力で手を握られ、ぎょっとした。 「牧さんは分かってない。少しも分かってない」 絶望したような表情。その目には暗い炎が宿っていた。 その時になって、鈍い牧もやっと気がついた。 仙道の実らない恋。昔からの想い人。 それが、まさか自分のことだったとは… 触れるほどの距離に顔が近づいたと思ったら、唇に熱いものが触れてきた。 気づいたら、仙道の背中ごしの天井を見ていた。 「ごめんなさい…軽蔑されるのは覚悟してます。でも好きなんです。 初めて会った時からずっと、好きでした」 熱に浮かされたような声と熱い唇が、耳をくすぐる。 ごめんなさいと何度も繰り返す声は、まるで泣いているように聞こえた。 馬鹿だな。謝るぐらいならしなければいいのに。 今だったらまだ間に合う。死に物狂いで抵抗したら、仙道だって退くだろう。 若い時に年上の人に惹かれるのは、通過儀礼だ。麻疹みたいなもんだ。 そう言って諭すことが、正しいのかもしれない。 だが不思議と抵抗する気はおきなかった。 追いつめたのは自分だという、罪の意識があったのだろうか。 ただ手を伸ばして、涙をぬぐってやりたいと思った。 でも押さえつけられた体は、上手く動かせない。 せめて目は逸らさないようにした。 「牧さん…」 切り裂かれるような痛みと共に、仙道が押し入ってきた。 意識があったのはそこまでで、続いての激しい衝撃に気が遠くなった。 どのぐらい気を失っていたのかは、定かではない。 目が覚めて一番最初に見たものは、見覚えのある天井だった。 一瞬、あれもみな夢だったんじゃないかと期待した。 だが起き上がろうとした時に感じた、下腹部の痛みとだるさが、 夢ではないこと物語っていた。 よく見れば、着物も外出時のままだった。 どこをどうやって戻って来たのだろう。 首を傾げていると、ドアがノックされた。 まさか仙道?どうしよう。一体何を話せばいいんだ。 思わず身構えた。だが入ってきたのは、三井と宮城だった。 「おお、やっとお目覚めか。このまま永遠の眠りにつくのかと思ったぞ」 「ちょっと、あんたはまた何言ってるの!!」 宮城に殴られ、三井は拗ねたように口を尖らせた。 「だって丸一日寝てるんだもん。毎日判で押したように六時に起きるあの牧が。 ただでさえ年寄りは眠りが浅いって言うし、心配しない方がおかしいって」 「だから牧じゃなくて奥様。せめて牧さんだろうが。 それに何回注意しても礼儀を覚えないのはこの口か」 口端をぎりぎりと抓られ、三井は痛い痛いと大騒ぎしている。 「宮城それぐらいにしてやってくれ」 「でもこのアホ、すぐに調子に乗るから」 「いいんだ。俺は気にしてないから」 「奥様は三井さんに甘すぎますよ」 宮城は溜息をつきながら、三井から手を離した。 「そういえば宮城、もう体の調子はいいのか」 「はい。もともと三井さんが騒いでただけで、大したことないんです。 それよりも、奥さまこそ大丈夫なんですか」 もちろん、宮城があのことを知っているはずはない。 それでも牧の鼓動は激しく高鳴った。 「まだ疲れてるのに、煩くしてすいません」 黙っていたら、疲れて無口になっていると思われたようだ。 「それでは俺達は退散しますね。御用があったら呼んで下さい。行くよ三井さん」 「へいへい」 「あっ、ちょっと待ってくれ」 出て行こうとした宮城と三井を呼び止める。 「…仙道はどうしてる?」 知るのが怖くてたまらないと同時に、今一番知りたいこと。 やっと言えたその質問に、三井が答えた。 「仙道なら、帰ってからずっと部屋にこもってる」 「帰ってからずっと?」 「おう、昨日は仙道が牧を抱えて帰って来たから、驚いたぞ。 牧さんが気分悪くなって倒れたって、かなり動揺してたな」 「そうか…」 「しかし頑丈なのが取り柄のお前が、一体何があったんだ」 「それは…」 「それは?」 「昼に入った寿司屋が美味しくて、つい食べ過ぎたんだ。 それに久しぶりの外出だったから、車に酔ったんだと思う…」 「なんだ。そういう理由だったのか。牧らしい」 牧の苦しい言い訳に、三井は納得したように頷いた。 「牧はいやしんぼだからな。しかし気が利かないな。 そんなに旨いなら、土産ぐらい買ってこいよ」 「ああ、今度な」 「おう、絶対だぞ」 そう言った後、三井は何かを思い出したように、くすくす笑った。 「仙道が部屋にこもってるのって、腰痛めたからじゃねえの。 演出は素敵だけど、相手役が重量級の牧じゃロマンチックは無理だな」 「三井さん、全然懲りてないみたいだね」 般若顔の宮城に睨まれ、三井は必死で首を振った。 「嘘です。奥さまはグラマーな艶女で、ジャスミンの香りがします」 「白々しいわ!!どうしてそう極端なんだよ」 「なんだよ。じゃあどうしろって言うんだよ」 「あっ…ちょっと疲れてきたな」 ギャーギャー騒ぎだした二人を、この一言で黙らせる。 「すいません。また迷惑かけてしまって」 「悪かったな」 「こちらこそ手間を取らせて悪かったな。もう行ってくれていいよ」 そう言うと、二人は神妙な面持ちで出て行った。 「さて、どうしよう」 一人きりになった牧は、ふっと溜息をついた。 そういえば、昨日から着替えてなかった。 帯を解くと、衣紋掛けに着物と襦袢をかけた。 ほとんど抵抗しなかったためか、目立った傷や綻びはなかった。 それでも、何もなかったことにはできない。 気に入りの泥大島だが、見ているとあの情事を思い出し平穏ではいられない。 残念だけど、もう着れないな。 その時、襦袢の裾に付いた僅かなシミに気がついた。 「何だこれ…こんなシミあったっけ?」 卸し立ての真っ白な襦袢の裾が、数ヶ所滲んだようになっている。 雨が降っていたし、泥水が跳ねたのか。 でもそれなら、着物にも付いてないとおかしい。 「でもそれなら……って、まさか!?」 しばらくして思い当ったことに、顔が熱くなった。 「うわぁ、もう嫌だ…」 これは洗濯には出せない。 三井達に気づかれたら、どう言い訳すればいいんだ。 物を粗末にすることは心苦しいが、細かく切り刻んでゴミに出すことにした。 情事の跡を始末し新しい着物に着替えると、やっと落ち着いた。 仙道に会いに行こう。 落ち着くと、自然とそう思った。 もちろん会うのは怖いし、会っても何を言えばいいのか分からない。 仙道がやったことは、世間的には犯罪だ。 だが罵ることも説教することも、違うと思う。 とにかく仙道の話が聞きたかった。 今まで思っていたことを、すべて教えてほしい。 どれぐらいかかってもいい。仙道の本音が知りたい。 覚悟を決めて、仙道の部屋の前に立った。 「仙道、俺だ。入るぞ」 ドアをノックしたが、返事がない。 仕方なくそのまま突入した。 だがそこに、仙道の姿はなかった。 「仙道?」 布団の中も覗いてみたが、もぬけの殻だった。 トイレにでも行ったんだろうか。 首を傾げていた時、ふと机の上のメモに目が止まった。 「ん?なんだこれ」 よほど急いで書いたのか、字が乱れている。 『いろいろと、ご迷惑おかけして申し訳ございません。 頭を冷やすために旅に出ます。捜さないで下さい。 仙道』 読み終わってしばらくは、呆然としていた。 だが時間が経つにつれ、徐々に怒りが増してきた。 なんだこの手紙は。これだけ? あんなことをしておいて、こんな短い手紙で終わるのか。 こっちは覚悟決めて来たのに、敵前逃亡しやがった。 やり逃げという言葉が頭を過ぎった。いやいや、やり逃げなんて下品だぞ。 三井に感化されてきたな。これは乗り逃げだろ。 「って、どっちも同じだろ」 うっかり一人突っ込みにも熱が入る。 「したことに責任とれないんなら、最初からするんじゃねえ!!」 何が捜さないで下さいだ!?誰が捜すか!! 俺の中で仙道彰は今日死んだ。 「仙道の馬鹿野郎…」 そう呟くと、メモを一気に引き裂いた。 仙道が姿を消して、数週間経った。 突然の失踪に屋敷の者達は皆驚いた。 特に三井は好き勝手な憶測をして騒いでいた。 仙道と何かあったのかと聞かれたが、牧は頑として口を割らなかった。 あまりにしつこかったので、一度ぴしゃりと叱りつけた。 それ以来は、表向きには仙道の話題は口にしていない。 もちろん牧のいない所では、分かったものではないが。 「今日の朝食は、プレーンオムレツとホットサンドだぞ」 口の端に食べかすをつけた三井が、トレイを運んできた。 皿の上に綺麗に並べられたホットサンドだが、妙に数が少ない。 つまみ食いしたのが、ばればれだ。 「はい、どうぞ。コーヒーは砂糖一個だよな」 「ああ、ありがとう」 そう言ったら、もの凄く微妙な表情をされた。 「なんでそこで、ありがとうなんだ」 「はぁ?」 「以前の牧だったら、まず先につまみ食いを怒ったはずだ。 牧は食べ物からむと、せこいからな」 「なんだ。そんなことか」 「そんなことって」 「別にいいよ。あまり食欲ないし…もう一個どうだ?」 「それがおかしいって言うんだよ。前は牛ほど食ってたくせに。 最近変だぞ。薔薇の世話もほったらかしで、部屋に籠って……」 「最近紫外線が強いからな。美容に気を遣ってるんだ」 「いまさら美容って…お前シミとか関係ないぐらい真っ黒じゃん」 「真実だけど、三井って本当に容赦ないな」 「いまさらだろ」 三井は怒った顔で溜息をついた。 「あんなに丹精こめて育ててたのに。飽きちゃったのか」 「俺も年だからな。一人で管理するのは無理だ」 「じゃあ、新しい庭師を雇えばいいだろ」 「それはだめだ!!」 思わず強い声が出てしまった。 三井がびくりと肩を震わせる。 「悪い。心配してくれてるのに」 俺は何をしてるんだろう。溜息が出る。 三井はぶんぶんと首を振った。 「いや、俺も口が滑った」 今や屋敷では、仙道の名前は勿論、仙道を連想する話題を出すこともタブーとなっている。 だが牧が過剰反応したのは、三井が禁止用語を口にしたことではない。 他の庭師を雇うなんて、考えたこともなかった。 働き始めて一年ほどの若造なのに、仙道はこの屋敷に馴染んでいた。 それは先代の庭師だった父親とは、対照的だった。 先代は人格者で俺にも優しく接してくれたが、最後までどこか他人行儀だったように思う。 主従関係としては、しょうがないことかもしれない。だが寂しかった。 だから牧さん牧さんと俺を慕ってくる仙道に、ずいぶん癒された。 傍にいるのが当然で、生活の一部になっていた。 愚かにも、それがずっと続くと思っていたのだ。 あんな仕打ちを受けたのに、俺は仙道が戻ってくると思っていたのか。 分っていたはずだ。去って行った人達には、もう二度と会えない。 葬式にも出られなかった父母、厳しいけど優しかった義母、そして宮益。 皆俺を置いて、去って行ったじゃないか。 仙道がそうでないと、どうして言えるんだ。 今まではショックと怒りが先立っていた。 それが初めて冷静になったといえる。 よく考えれば、あの手紙には帰るとは一言も書かれてなかった。 最初から去るのを覚悟で、あんな行動に出たのか。 それぐらい必死だったっていうことか。 それなのに俺は…… いつも後悔するのは、すべて終わってからだ。 宮が死んだ時も、仙道が去ってからも。 どうして、もっと早く気づかなかったんだろう。 後悔してもすべては後の祭りだ。 仙道には二度と会えない。そう悟った。 突然無言になった牧を前に、三井はおろおろした。 「何何?俺もしかして地雷踏んだ?」 三井を安心させるために、牧は重い口を開いた。 「違う。三井のせいじゃない」 「だってお前…」 「三井の言う通りだ。新しい庭師を募集しないとな。 いつまでも放置していたら、庭木がかわいそうだ」 「それでいいのか」 「ああ、帰ってこない奴を待ってても無駄だ」 「俺は嫌だ」 驚いたことに、三井は嫌々するように首を振った。 「絶対嫌だ。牧の嘘つき。全然そんなこと思ってないくせに」 「三井…」 「俺は仙道なんてどうでもいい。宮城さえいればいい。 でも牧の庭師はあいつじゃないと、だめなんだろ?」 「そんなこと…」 「言えよ。牧が望むなら、草の根分けても捜し出してやるから」 「その気がない奴を連れ戻しても、無駄だろ」 「そんなことねぇよ。仙道だって絶対後悔してるって。 突発的に飛び出してはみたものの、案外近くをうろついてたりして」 「三井、もういいんだ」 「何がいいんだよ。この馬鹿牧」 三井は興奮した面持ちで、迫ってきた。 「三井落ち着け」 「これが落ち着けるか。あ〜っ、もう我慢できない。何このしみったれた空気。 お通夜かよ。牧は悲劇のヒロイン気取りだし…誰かこの空気を変えてくれ!!」 その時三井の叫びに答えるように、ドアが開いた。 「お早うございます…って、三井さん何やってんの」 「宮城…」 「朝から奥様を困らせんな。まったくTPOを弁えないんだから」 「何も聞かずに俺に非があると?」 「だって悪いのは三井さんでしょ」 何の迷いもなく言い切る宮城に、思わず牧も三井に同情しそうになった。 「最初から決めつけるなよ」 「他に何があるって言うの」 「愛が…愛が足りない。あっ、でも今ので空気が変わった。 空気読まない宮城が、空気を変えた。宮城やっぱり愛してるぞ」 「ああ、はいはい」 宮城も慣れたもので、三井の妙な言動をさらっと受け流している。 「俺への愛はいいから仕事しな。まずこれからね」 そう言うと、手に持っていた花を渡した。 「なんだこれ、俺へのプレゼント?」 「違えよ。門の前に落ちてたの」 「もしかして、俺を見染めた誰かの仕業?困ったな俺には宮城が」 宮城は三井を無視すると、牧の方へ向き直った。 「最近毎朝なんですよ。無造作に置かれている割にきれいだし、 もったいないから、武藤さんに活けてもらってたんです」 言われて初めて気づいた。 テーブルの上や部屋の隅、そして棚の上にも大輪の花が飾られていた。 赤やピンク、白、クリーム色。鮮やかな色彩が自己主張している。 これに気づかなかった自分に、溜息が出る。 思ってた以上に、落ち込んでたんだな。 「『ごんぎつね』みたいだな。牧は心当たりないのか。 小動物助けてやったとか、地蔵に笠をやったとかさ」 「いや…」 その時、ふとあるものが目に止まった。 「すまん。少しその花を見せてくれないか」 「はい。棘があるものもあるから、気をつけて下さい」 それは大輪の薔薇や百合に、隠れるように混じっていた。 派手さはないが、ふわりとしたピンクの花びらが可憐だ。 花屋の店先で主役になるよりも、野に咲いているのが似合う花。 ハマナス。俺の一番好きな花だ。 「ありがとう。もういい」 宮城に花を返すと、テーブルの上の花瓶に目をやった。 そこには、牧の予想通りハマナスが混じっていた。 部屋の隅や棚の上に活けられた花も、同様だった。 すべてを確認し終わった時、確信した。 嫁いで以来、身近でこの花を見たことはない。 ハマナスの花は可憐だが、野生の花だ。 牧の故郷でこそ多く見かけたが、それは海辺に群生しているものであり、 花屋で買ったり、庭に植えて愛でるような花ではなかった。 宮益家に嫁いでから見ることはできず、寂しい思いをしたものだ。 後に珍しく我が儘を言って、宮益に取り寄せてもらった。 だからこの近隣でハマナスが見れるのは、この屋敷だけと言ってもいい。 その花が、どうしてここにあるのだろう。 その時、ふとある事実に思い当った。 「あっ!」 そういえば、一度だけ株分けしたことがあった。 あれは…… 『これ、牧さんが一番好きな花ですよね』 『よく覚えてたな』 『覚えてますよ。俺と牧さんが初めて会った時だもの』 『あの時の仙道は可愛かったな。大きくなったら、ずっと牧さんに お仕えしますって、感動したよ。この子は絶対いい男になると思った』 『ご期待に添えましたか?』 『予想以上に。先代には悪いけど、鳶が鷹を産んだな』 『ひどいなぁ。父が拗ねますよ』 『先代には内緒だぞ』 『はい。でも少しスーッとした。俺ずっと父が羨ましかったから』 『コンプレックスでもあったのか』 『いいえ。牧さんの傍にお仕えしてるのが、羨ましかったんです。 俺も早く大きくなって、牧さんにお仕えしたいと思ってたから』 『じゃあ、本願叶ったな』 『はい。不束者ですが、末長くよろしくお願いします』 『こちらこそよろしく』 二人で、顔を見合せて笑った。 『そうだ。就職祝いをあげないとな』 『そんな。気を使わないで下さい』 『若い者が遠慮するなよ。くれる物はもらっとけ。何がいい?』 『それなら…』 しばらく考えた後、仙道はこう言った。 『この花を株分けしてもらえますか』 『構わないけど、そんなのでいいのか』 『これがいいんです。牧さんの好きな花を、再会の記念樹にしたいから』 『そうか。じゃあ可愛がってやってくれ』 『はい、大事に育てます』 株分けしたハマナスは、仙道の家の庭へ植えられた。 最初は通いだった仙道だが、いつのまにか私物を増やし、 気がつけば住み込みになっていた。 だからその後の花の詳細は知らない。 もう枯れてしまっているかもしれない。 花が置かれ始めたのは最近のようだし、仙道の出奔時期を考えると計算は合わない。 ハマナスが混じっていたからといって、仙道と結びつけるのも短絡的だ。 それでも確信があった。こんなことをするのは、仙道彰しかいない。 そういえば三井も言ってた。 『突発的に飛び出してはみたものの、案外近くをうろついてたりして』 そうだ。家出した子供は、たいがい押入れとか身近に隠れてるもんだ。 周りの心配なんか知りもしないで… 「あのくそガキ」 もう二度と会えないと思っていた男。 一体何やってるんだ。 こんな花の一つや二つで、俺の心が癒されると思ったのか。 どうして直接会いに来ない?出て行く時だってメモ一枚残しただけ。 そんなに俺に会うのが怖いのか。 沸々と怒りが込み上げてきた。 それと同時に、強い空腹感に襲われた。 さっきまで食欲なんてなかったのに…いや、これが本来の俺か。 「いただきます」 手を合わし、ホットサンドにかぶり付いた。 すべての皿の上が空になるのに、数分もかからなかった。 「どうしたんだよ。食欲ないんじゃなかったのか」 突然の牧の変化に、三井と宮城は戸惑った顔を見せた。 「三井、お代わりを頼む。今度はご飯がいい。これでは食べた気がしない」 「えっ…おぉ分かった。量はどれぐらい」 「丼大盛り」 「いつもの牧だ。ほんとどうしたんだ?いやこれが普通なんだけど…」 三井は首を傾げながら、台所へ戻って行った。 とにかく今は腹ごしらえだ。腹がすいたままでは、言いたいことも言えない。 仙道、俺から逃げられると思ったら大間違いだぞ。 俺は分かっていて見逃すほど、優しくないんだ。 俺にした仕打ちを、死ぬほど後悔させてやる。 決戦は明日の朝だ。首洗って待ってろや。 「奥様……?」 後に宮城は語る。 いつものぼけ…じゃなく柔和な奥さまじゃなかった。 俺は修羅を見たと。 翌朝未明。新聞配達や牛乳屋の姿もまだない頃、宮益家の前に佇む一人の男がいた。 すらりとした長身に甘いマスク、手には色鮮やかな花。 若い婦女子に騒がれそうな色男だが、早朝には不似合いだ。 素早く周りを確認し、誰もいないことを確かめると、門の前に花を置いた。 そのまま立ち去ろうとした男だが、突然後ろからはがい絞めにされた。 あまりにも突然の出来事で、抵抗する暇もなかった。 近くの茂みに引きずりこまれた所で、やっと恐怖が湧いてきた。 そのまま顔を地面に押しつけられ、背中に馬乗りされた。 相手の顔は見えないが、屈強な人物であることは分かった。 ホモの強姦魔に犯される。浮かんだのはその言葉だった。 「いや〜っ!!合意はいいけど強姦はだめぇ」 「ちょっと黙れ」 どすの効いた声で言われたが、こんな状況で大人しくできるはずがない。 「頼むから見逃して!!俺には心に決めた人が」 必死の懇願にも関わらず、押さえつける力はぴくりとも緩まらなかった。 抵抗しようにも、がっつり押さえつけられ、身動きがとれない。 絶望感が仙道を襲った。だめだ…俺の後ろの貞操終わった。 こうなったら、せめて言葉で萎えさせてやる。 「らめぇ。そんなことされたら、赤ちゃんできちゃう」 途端に背中が軽くなった。 助かった?ほっとした仙道に、呆れたような声がかけられた。 「一体何を勘違いしてるんだ…馬鹿」 その声に聞き覚えがあった。 「牧さん!?」 急いで体を起こすと、後ろを振り返った。 そこにずっと会いたかった人、夢にまで見た人が立っていた。 「やっと気づいたか」 牧はふんと鼻を鳴らした。 「すぐに分からないなんて、お前の愛情もたいしたことないな」 あの状況で分かる方が、おかしいです。 いろいろと突っ込みたいことはあったけど、今は眼前の牧さんだ。 「牧さ〜んvv」 思わず抱きつこうとした仙道だが、渾身の力で突き飛ばされた。 「痛た…」 「きやすく触るな」 冷たい目で睨まれ、はっとした。 そうだ。俺は軽蔑されても仕方がないことをした。 なんて馬鹿なんだろう。いくら優しい牧さんでも、受け入れてくれるはずがない。 「あんなメモ一つ残して出奔しておいて、よくのこのこと顔が出せたな」 「すいません…」 「すいませんじゃない。今までどうしてたのか説明しろ」 「はい。最初は友達の所に泊まってたんですけど、向こうも割と忙しいし、 長く付き合わせてるの悪いから、実家に帰ってました」 「ご両親は何も言わなかったのか」 「盆も正月も帰ってなかったから、牧さんが長期休暇をくれたって言いました」 「なるほどな」 確かに宮益家の住み込みになってから、仙道は一度も実家に帰ってなかった。 親戚の子供が来て騒ぐから疲れるとか、お節介な親戚に見合いを勧められるから 煩わしいと言っていたが、本当の理由は牧の傍を離れたくなかったからだ。 だから今回の出奔も非常に辛かった。 無論そんなこと口に出せるはずもない。悪いのは自分だと自覚している。 俺はただ、裁きが下されるのを待つだけだ。 「だから、花の中にハマナスが入ってたのか」 「気づいてくれたんですね」 「それは…お前以外に思いつかなかったからな。 屋敷の皆は園芸に興味ないし、俺の好きな花を知ってるのはお前だけだ」 「牧さんの好きな物は忘れません」 最初から、受け入れてもらえるとは思ってなかった。 小さい頃の俺は早く大人になりたかった。 牧さんと釣り合いがとれる、大人の男になりたかった。 大人になれば、すべて上手くいくと信じていた。 でも父の跡を継いで、牧さんにお仕えするようになって分かった。 牧さんが俺を見る目は慈愛には満ちていた。 でもそれは、年の離れた弟を見るような目つきだ。 昔と何一つ変わらない。 牧さんの中では、俺は小さかった仙道のままなのだ。 それでも、傍に居られるならいいと思った。 今の状況で告白しても、牧さんを困らせるだけだ。 決して諦めたわけじゃない。 ゆっくり時間をかけて、いつか牧さんを振り向かせる。 そう思っていたのに…… 二人きりになった途端に、理性がぶち飛んだ。 結局俺は、意志薄弱で頭の悪い若造なんだ。 牧さんのことを傷つけて、もう二度と会ってはいけないと思った。 それでもずっと会いたくて、遠くにも行けなかった。 「こんなことして、俺が喜ぶと思ったのか」 「いいえ…俺の自己満足です」 傍には居られないなら、せめて牧さんの好きな花を贈ろうと思った。 不審に思うだろうけど、優しい牧さんは捨てたりはしないだろう。 俺の送った花が、牧さんの傍に置かれる。それだけで救われる気がした。 自己満足でしかないのは分かっていた。それでも止められなかった。 「そうだな。自分に酔ってるとしか思えない」 「はい…」 「格好つけすぎだ。ロマンス小説の読みすぎじゃないか」 「はい…」 その通りなので、頷くことしかできない。 「はいはいって、それしか言えないのか」 「すいません」 「謝るなよ、偽善者」 「すいません」 「だから謝るなって、言ってるだろ」 次の瞬間振り上げられた拳を、仙道は避けなかった。 殴られた頬はずきずきと痛み、熱を持っている。 こんなもの牧さんの感じた痛みとは、比べものにもならない。 牧さんの気が済むまで、殴ってほしい。 そう思ったが、なかなか二度目の衝撃は来なかった。 「馬鹿…なんで避けないんだよ」 代わりに頬に触れたのは、優しい手だった。 「ひどいな。これは痣になるぞ」 「もっと殴ってくれて良かったのに」 「もうしない。殴っても喜ばすだけだろ」 「俺はマゾじゃないですよ」 「でも俺に対する罪悪感が薄まって、楽だろ」 「……」 「だから楽になんかさせない。俺への罪悪感に苦しめばいい。 一生飼い殺しにしてやるから、覚悟しろよ」 その言葉に仙道は目を丸くした。 「傍にいてもいいんですか」 「勘違いするなよ。一生飼い殺しって言っただろ。 先に約束を破ったのは、そっちだからな。反論は許さない」 「構いません。一生お傍に置いて下さい」 「次に約束破ったら、殺すからな」 「はい」 「まったく、返事だけはいいんだから」 牧は呆れたように苦笑いした。 「泣いて懇願するまで絞めてやろうと思ってたのに、 お前の顔を見たら、そんな気持ちも吹き飛んだ」 男前だからですかと言ったら、調子にのるなと小突かれた。 「あんな目に遭ったのに、憎み切れない。 認めるのは癪だけど、また会えて嬉しかった」 「俺も嬉しかったです」 牧は満足そうに頷いた。 「仙道、俺のことを好きか?」 突然真顔で聞かれ驚いたが、しっかり目を見て答えた。 「好きです。初めて会った時から変わりません」 「見かけによらず執念深いんだな」 「すいません…」 「俺は鈍いから全然気づかなかった。 あんなことがなかったら、たぶん一生気づかなかった」 「……」 「正直に答えろよ。今も俺に欲情するのか」 「はい、すいません」 男の性だな。牧さんを傷つけて死ぬほど後悔したのに、 今もこの人を目の前にして、抱きしめてキスしたいと思ってしまう。 「若いな。それだけストレートだと怒る気もしない」 「はぁ」 「好きとか君が欲しいとか、みんな小説とか映画の中だけの話だと思ってた。 宮益は優しかったけど、そんな風に強く俺を求めることはなかった。 全力でぶつかって来たのは、お前だけだよ。まあ少しやり過ぎたけどな…」 そう言うと、牧は軽く仙道を睨みつけた。 「今日から再び、自分に欲情している男と一つ屋根の下か。 よく考えると危険極まりないな。専用の座敷牢でも作ってやろうか」 「牧さん…」 「冗談だよ。本気にとるな。今度身の危険を感じたら本気で抵抗する。 俺が本気で抵抗したら、どうなるか分かってるだろ」 「はい。身をもって知りました」 先程の恐怖を思い出し、仙道はぶるりと身震いした。 「まあ、あれだ。お前のやったことは許せないけど、 好きだと言われたことは、満更でもなかったよ」 「えっ?それって…」 仙道が尋ねる前に、牧はくるりと背を向けた。 「そろそろ腹も減ったし、朝食にしよう。 三井が最近パン作りに嵌って、なかなかの腕前だ」 「あの肝心なことを聞いてないんですが、牧さんは俺をどう…」 言いかけた口を手で塞がれた。 「むっ…」 「待てない所が若造だな。あんまり急かすと嫌われるぞ。 時間はたっぷりあるんだから、話は朝食の後だ。聞きたいことも多いしな」 そうか時間はたくさんあるんだ。 牧さんが俺のことを完璧に許しているとは、思わない。 でも受け入れて、向かい合おうとしているのは分かった。 俺が思ってた以上に、優しくて同時に強い人だ。 今度こそ死ぬまで傍を離れない。一生忠誠を誓おう。 「俺も、話したいことがたくさんあるんです」 「うん。全部聞く」 優しく頭に触れられ、涙が出そうになった。 我慢していたら、そうとう変な顔になっていたらしく、 笑われてしまった。 出奔していた馬鹿が帰って来た。 さんざん周りを心配させた挙句、再会の第一声は「俺は卵、目玉焼きで」だった。 頭にきたので、持っていたお盆で殴ってやった。 驚いたのは、主人があっさりと馬鹿を受け入れたことだった。 朝食が終わった後は、二人で部屋に籠って長い間話していた。 出てきた時、馬鹿の顔は傷だらけだったが、妙に安らかな表情をしていた。 二人の間でどんな話があったのかは、分からない。俺も聞かなかった。 そして馬鹿が出て行く前と、同じ生活が戻ってきた。 でも…… 「なんだかな」 「何がなんだかな?」 溜息をついてたら、目ざとい宮城に見つかった。 「最近牧よく怒るよな」 「三井さんが怒るようなことするからでしょ」 「違う、俺にじゃねえよ。仙道にだよ」 「ああ」 「仙道が帰ってきてから、あいつ変わったよな。 前はもっと猫被ってるっていうか、いい子ぶってた」 「……」 「でもさ。よく怒るし煩くなったけど、よく笑うんだよな。 それって仙道のせいだよな。あの二人できてるのかな」 「それは知らないけど、何かはあったんだろうね」 「なんか嫌だな…」 「奥様を焚きつけてたのは、三井さんでしょ」 「人をくっつけ婆みたいに言うな」 「そういえば今回大人しいね。いつもならこんなネタ放って置かないのに。 キャーキャー騒いで、奥様や仙道に根掘り葉掘り聞きそうなのに」 「俺だって空気ぐらい読む」 三井はむっつりとした。 「牧が楽しそうだからいいんだよ。でもさ…」 「でも?」 「友情って弱いよな。俺が励ましても全然効果なかったのに、 仙道が帰って来た途端に元気になるんだもん。現金すぎるぞ」 「俺の牧さん取られちゃったって?」 「むぅ…そんなんじゃない」 宮城にはそう言ったが、本当は少し当たっていた。 「いいじゃない。三井さんには俺がいるでしょ」 「うん…」 こんな時は宮城の優しさが嬉しい。 ふと思った。牧にはこういう奴がいなかったんだな。 旦那は優しいけど病弱だし、俺以外に友達もいない。 牧が弱ってる時に支えになりたかった。でも俺じゃだめだった。 むかつくけど、牧の心を動かせるのは仙道だけだ。 「しょうがねえな」 「三井さん?」 「ちょっと遅くなったけど、牧の快気祝いと仙道帰還祝いしてやるか。 ケーキ焼いて、御馳走作って忙しいぞ。宮城シャンパン買って来てくれ」 「うん。二人とも喜ぶよ」 宮城は笑顔で頷いた。 俺は牧の友達だから。友達の幸せは祝わないとな。 でも手が滑ったふりして、あの馬鹿にシャンパンぶっかけるぐらいは 許されるよな。 想像したら少し気が晴れた。 三井は鼻歌を歌いながら、台所へ入って行った。
end
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切なくも美しい短編『薔薇の下』が今、壮大なドラマを展じここに堂々の完結!
と、本であれば帯に付けたくなる大作! 鉄線さん、素晴らしいドラマな世界をありがとうございましたv |