壁に掛けられている時計の音が耳について離れない。
牧はそっとため息をつくと、目を落としていた参考書から顔を上げた。
窓に向かって置かれている自分の勉強机からは、庭にある木々が嫌でも目に付く。そこにはほとんど枯れ落ちてしまって寒々しい木立が冷たい北風に小さく揺れていた。
暖かいと思っていたが気がつけばもう大晦日だ。牧は小さく掛け声を掛けて立ち上がると、壁に掛けてあるコートを手にして部屋を後にした。
部屋を出たとたん、下からけたたましいテレビの音が聞こえる。恐らくようやく仕事を終えた両親がのんびり紅白歌合戦でも見ているのだろう。
そのまま声も掛けずに玄関へ向かうと、がらりと障子の開く音がする。
その音に反応した牧が振り返ると、そこには上半身だけを冷たい廊下に乗り出して顔を出す母親の姿があった。
「あら紳一、どこか行くの?」
「ちょっと気晴らしに、神社にでも行ってくるよ。」
「いいけど、寒いから気をつけていくのよ。」
軽く頷くと夜の帳が降りた街中へと出て行った。
玄関を出るとあたり一面シャッターの下りた商店がずらりと並んでいる。牧の家は藤沢の駅のほど近くにある小さな商店街の一角にある。
物心ついた頃から、この商店街を幼馴染達と走り回っていたのを急に思い出す。
そう言えばあの頃はもっとここも活気があって大晦日と言えばどの店も年の終わりの大盤振る舞いとばかりに夜遅くまで店を開けて盛り上がっていたものだった。
が、今となっては駅前のデパートや大型スーパーに客をとられて青色吐息って状態だ。
街路の暗さと冷たく吹き付ける風がなんとなくうっそうとした気分を増長させる。牧は小さく肩を縮こませコートをぐっとかき込んだ。
少し頭をすっきりさせたいと思って特に当てもなく出てきてしまったのだが、母親にああいった手前なにか神社に行った痕跡でもなくちゃいけないだろう。
そう思い近くにある神社へ向かおうと歩き出した時、ふと隣にある時計屋の看板が目に飛び込んできた。
――― お願いします。
そう頼んだ時のあいつの泣き出しそうな顔がちらりと横切る。
牧はじっと目をつぶると意識をあの時へ戻していった。
「牧さんの事が好きなんです。」
つかまれた左腕は徐々に強く握り締められていく。どこかへ飛びかけた意識がその痛みで現実に引き戻る。
「ちょ・・・ちょっと待て。」
慌てて遮る牧の声で仙道がはっと息を呑む。反射的に緩んだ手をようやくの思いではがすと、少ししびれた腕を手でさすった。その仕草を見て小さく顔を歪めた。
「すみません・・・」
しゅんとした様子の仙道を唖然とした表情で牧は見上げる。
「お前、自分が何言ってるのか分かってるのか?」
その問いかけに仙道が黙って首を縦に振る。仙道はさらりと受け流してくれたが、牧にとっては由々しき問題だ。内心でため息をつくと、肩を落とした。
「そんな事言われたって・・・俺にどう答えろって言うんだよ?」
「え?そうですねぇ・・・」
意外な反論だったのか、きょとんとした仙道が軽く目をしばたかせる。
「ま、本当はここで牧さんも俺の事が好きだって言ってくれれば万々歳なんでしょうけど、さすがにそれは俺も望みませんよ。」
そういうと口元を緩める。その表情に牧の眉間にすっと皺が寄る。今度は隠そうともせずにため息をつくと、大きく首を横に振った。
「・・・あのな、俺は男でお前も男だ。冗談にしたって趣味が悪い・・・」
「冗談でも何でもありませんから。」
牧の言葉を遮るように仙道が強く言い切る。いつも仙道がまとっている穏やかなやわらかい空気が一瞬にして硬質なものに摩り替わる。その勢いに思わず気おされた。
「俺は、牧紳一って人が好きなんです。別に男が好きなわけじゃありませんよ。」
「お前・・・正気か??」
「うーん、正気なんですけど・・・はたから見たら正気じゃないかもしれませんね。」
口元に手を当てて考え込む仕草を見せる仙道には、さっきまでの頼りなさ気な雰囲気はもう消えうせている。そこにいるのはいつもの牧が良く知るいつもの仙道彰だ。
その表情に二人の間に流れた異質な空気が薄まった。
「その顔は信用ならん!」
どこかでほっとする自分の気持ちを誤魔化すかのように、牧はびしりと指を突きだす。
「ひでー!牧さんってば!!これが俺の地顔ですよ?」
仙道がからからと楽しげに笑いかけるのをわざと顔を背けてやり過ごす。このペースに巻き込まれてはいけない。
そうは思うが、いつになく動揺している自分をなだめるのに牧は自分の持つ精神力をフル活用しなくてはいけなかった。
ようやく笑いを納めた仙道がいきなり話題を変えてきた。
「今週末、ウインターカップの県予選なんですよ。聞いてます?」
「あぁ、一応な。」
「俺、負けませんから。」
がらりと変えた口調に、牧が思わず振り返る。その牧の目に飛び込んできたのは、試合の時に見せる自信たっぷりの本気の瞳だ。
「牧さんのいない海南に、負ける気は全然ありませんから。」
「俺がいなくったって、うちは強いぞ。」
「全然違うよ、牧さんがいるといないじゃ。そんなの神たちだって・・・牧さんだって本当は分かってるんでしょ?」
覗き込むように下から見上げてくる仙道に牧が小さく舌打ちをする。嫌な言い方をする奴だ。
確かにフォーメーションの要として自分の果たしていた役割はあまりにも大きい。分かってはいるが、それをあえて指摘してくる所が嫌みったらしい。
「だから、負けない。それだけは言っておきますよ。」
そう言い放つと仙道は踵を返してゆっくりと歩き始めた。
さっきまで泣きそうな顔していたくせに、あっという間に立ち直りやがって。理由のない腹立たしさに一発何か言ってやら無いと気がすまない。
「言ってくれるな。」
「そりゃそうですよ。」
仙道が足を止めて振り返る。
「牧さん以外の奴には絶対負けない。牧さんより俺、絶対強くなりますから。だから・・・」
そういうと、仙道は離れかけた距離を一歩ずつゆっくり詰める。見えない何かに抱きすくめられているように立ちすくむしか出来ない。
息のかかる距離まで近づいた・・・そう思った時、ことりと牧の肩に仙道が頭を乗せた。
「俺の事、少しだけ特別な位置に置いて見てもらえませんか?返事はいりませんから・・・」
目を閉じて俯きながら呟く声が耳元から体へとゆっくり流れ込んでくる。
報われないと知りつつも言わずにはいれなかった仙道。
そしてそれに応えられない自分。
肩から伝わる振動に、どうにもならない思いに泣きたくなる。
生まれて初めて、そんな感覚に襲われた。
そして、その週末。
あの夜の宣言通り、牧のいなくなった海南を僅差で破って仙道率いる陵南高校がウインターカップ初出場を決めた。
『牧先輩、好きなんです・・・』
女の子たちからはもちろん、ごく一部の男どもからもそんな言葉を言われた事は正直片手では効かないほどあった。
でも、それはあくまでも憧れから言ってるのであって、俗に言う惚れたはれたのものでは無い。
牧にしてみれば、単なるそれは戯言だ。
でも、それと仙道が言っている「好きだ」といっている意味が全然違う。
あの時、仙道の目に浮かんだ煌き。あれは、コートの上で仙道が見せる本気の目なのを牧は覚えている。
あのIH予選の時―――
自分の中に沸きあがる激情を深く胸の内に押し込んで全身からピリピリとオーラを発する仙道。
あいつの神経が、視線が牧の一挙手一動を、心の中を敏感に察知する。
騙し、騙され、抜いて、抜かれて。牧のすべてを喰らいつくそうとする仙道の瞳に、牧はぞくぞくと心が沸き立った。
最高だった。しょぼいセックスなんて太刀打ちできないほど。脳天までしびれるその感覚に牧は酔いしれた。
来い、仙道――― 引きずり落とそうとする仙道を叩き落しながら、その快感に身をゆだねる。
あの試合の最中、確かにあの瞳に心を奪われたのだ。
でも、それはあくまでもコートの上での話のはず。まさか、こんな駅のホームで見ることになるとは牧だって思いもしなかった。
ゆっくりと瞳を開く牧の視界には、ここにいないはずの仙道の面影がぼんやり浮かぶ。
よく知るユニフォームではなく、ここ最近良く見るコートを着た学ラン姿の仙道が静かに微笑んでいる。
「どうして俺なんだ・・・?」
誰にもいえない言葉が思わず漏れ落ちる。才能にも容姿にも恵まれているあいつが、何を血迷って自分のことを気に入ったといってるのか牧には全然皆目見当もつかない。
でも、あいつが嘘を言っているのではないという事だけは分かる。
あいつはそういう男じゃない。そして、ふと気がつくといわれた事に対して嫌悪感を抱いていない自分に牧はうすうす気がつき始めていた。
実力に裏打ちされた自信としなやかな強さを併せ持つ仙道の影に隠されている初々しい脆さ。暗闇におびえ、確かなものを欲しがる幼い心。
『牧紳一って人が好きなんです。』
泣き出しそうに歪んでいたあの笑顔・・・あの仙道が至近距離で見せた「弱さ」が今までに見せたどんな魅力的な顔より、仕草より牧の意識を鷲づかみにしてやまない。
男、女ではなく、俺単体が好きだとあいつはいう。
俺が好きだと・・・
軽やかな着信音が飛びかけた牧の意識を現実に戻す。気がつくとジーンズのポケットに入れた携帯がなっていた。
手馴れた調子で携帯を取り上げて、そこに出ている名前を一瞥する。小さく息をつくと、ボタンを押した。
『もしもし、あたし。今何処にいるの?』
気さくな調子で話しかけてくる女の声に、牧はふと顔を緩める。
「外。気分転換に。」
『なんだ。そうなの?だったら誘ってくれれば私も行ったのに。』
「・・・いや、もう帰るつもりだ。」
『もう、つれないなぁ。せっかくの年越しを一人で過ごさせるつもりなの?そんなんじゃ彼氏失格よ!』
明るい調子で言ってるのだが、声のトーンでなんとなく怒っているのはわかる。
「すまないな。」
『・・・分かってるわよ。今は受験で忙しいもんね。もうしばらく我慢することにするか。』
「いつか埋め合わせはするよ。」
『そんなのはいいけど・・・ねぇ、紳一。』
なんとなしに言葉が途切れる。耳をすませると、受話器の先からポップ調の軽やかなメロディが聞こえてくる。この曲・・・誰だっけな。
思わずそんなことを考え始めてしまう。
『・・・調子はどう?』
「あぁ、大丈夫だ。」
無意識のうちにそう口が動くのを牧は自分自身気がついていない。その返事を聞いた相手が小さくため息をついた。
『紳一は何を聞いても大丈夫・・・なのね。』
「え?」
その言葉に思わず首を傾げるが、打って変わって打ち消すような明るい声が響く。
『ううん、いいの。何かあったらなんでも相談してね。聞くぐらいならできるからさぁ。』
「あぁ、そうする。」
『じゃ、おやすみ。早く帰りなよ。・・・また連絡する。』
「お休み。」
躊躇いがちに途切れた携帯から、機械的な通話音が響くのを確認して携帯を閉じるとそのまま無造作にポケットにしまう。
彼女・・・笹川理恵は牧よりも5つ年上のOLだ。牧の住む商店街の一角に住む理恵は牧にとって少し年上の幼馴染だった。
見た目の華やかさに下町育ちの愛想よさを兼ね備えた理恵は牧達近所の悪がきたちにとって一種憧れの華。
その関係が変わったのはちょうど理恵が大学を卒業してこの街に戻ってきた2年前からだった。
――― 紳ちゃん、大きくなったね。
気がついたら自分よりもはるか下に位置してしまった彼女を戸惑いながら見下ろしていた自分を、なんともいえないと言った表情で見上げていた理恵。
その視線に込められた意味に気がつけるほど牧はその当時まだ大人ではなかった。
しばらくして学校の帰りに良く通っていた本屋でアルバイトを始めた彼女と牧が親しくなるのにはそんなに時間はかからなかった。
1年ほど過ぎた頃、告白された。
――― 近所のお姉さんじゃなくて、一人の女としてみて欲しいの。
いつも笑っていた理恵が自分の胸で泣いているのを見ながら、戸惑いの中に確かに愛おしさが生まれた。
プライドも何もかもかなぐり捨てて自分の元へ来た理恵を自分の腕で出来る限り守ってやりたいと思った。だから、付き合い始めた。
そう、俺にはちゃんと彼女がいる。優しくて、明るくてしっかり者の理恵がいる。
なのに、あの時の仙道の瞳が牧の脳裏を離れない。
今まで理恵に対して抱いていた穏やかで暖かいような優しい感情ではない。
その瞳を思い出す度、何もかも引きちぎって壊したくなるような激情に近い衝動に駆られてしまう。理性ではない、心があの刺激を求めている。
そんな自分の心の変化に、軽く首を振ると牧は自ら蓋をする。
牧はもと来た道を振り返った。この視線の先には見えないけれど湘南の海があり、そして恐らく仙道もいる。
お前は、俺にどうしろって言うんだ?
もう一度、心の中で問いかける。ここにいない仙道に向かって・・・。
年が明けてすぐ、ウインターカップが東京で始まった。
神奈川県代表として初出場した陵南高校は順当に勝ちあがっていき、これが仙道にとっても初めての全国デビューとなった。
学校としては初参加であっても、秋の国体での活躍もあった仙道はマスコミ各社からもすでにかなりマークされている。
たくさんの報道陣に囲まれる中、いつもの穏やかな表情でコートにでてくる仙道を牧は2階のスタンドから見下ろしていた。
来るかどうか、本当は最後まで迷っていた。
でも、仙道がどんなプレーをして海南を打ち破り決勝まで上がってきたのか純粋に興味も湧いたし、なによりも・・・コートの中でしか見れない本当の仙道の姿をもう一度見てみてみたかった。
決勝戦は大方の予想通り山王対陵南。IH後、沢北が抜けたとは言え他の面子はそのままだ。新聞でも大方の予想は山王圧勝であろうと書き綴っていた。
歓声とどよめきの中、決勝戦が始まる。両校の応援合戦が盛り上がる中、牧はじっと両校の動きを追いかけた。
魚住が抜けて強力なセンターがいなくなった陵南の痛手は想像以上に大きかったはずだ。
魚住の代わりに入ったセンターも牧が見覚えの無いところをみると、恐らく控えの選手だったのであろう。
パワー、存在感とも明らかに魚住には劣っている。これではインサイドの弱さは否めない。
しかし、それを仙道を中心としたパスワークをメインにした堅実なフォーメーションでその弱点を補い外から確実に点を取る方法でチームを纏め上げていた。
夏のあの雪辱からどれだけチームで練習を重ねてきたか、そのプレイで牧には一目で分かる。
よく戦ってるな・・・そう牧は判断した。だがしかし、相手は強豪山王だ。
取っては取り返してのシーソーゲームを続けるが、次第にインサイドでのボールキープが出来ない陵南にミスが目立つ様になってきた。
チームが浮き足立つと、仙道が軽く声を上げてその場を落ち着かせる。その度にチームの意識が仙道にぐっと集中する。
そう、それは仙道でなければ出来ない事だと牧も身を持って体験している。ああなったときの陵南の強さは手に負えない。
それは絶対的に信頼するものがある奴らの強さなのだ。
でも、それではあまりにも仙道にかかる負担が大きすぎる・・・それが、逆に陵南の弱さでもある事に恐らく仙道自身も気がついているに違いない。
バスケットは一人が突出した才能を持っていても、それだけでは勝てない。
チーム全体の力を底上げして初めて全国で勝ち進めるチームとなりえるのが、団体競技の難しさなのだ。それを、痛いほど感じているのが誰でもない仙道なのだ。
結局、最後の最後力尽きた陵南は僅差で山王に破れ準優勝となった。
メンバーが泣き崩れる中、1人いつもの平然とした顔の仙道はじっと相手コートを見つめていた。
閉会式のが終わり少しずつ辺りの喧騒が静まる頃、牧はようやく2階席を離れた。
こわばった体をほぐすように軽く深呼吸をする。何もしていないのに、じんわりと汗をかいているのにその時気がついた。
秋に国体で共に戦ったのはまだほんの3ヶ月ほど前の話なのに、仙道のプレーはあの頃よりも確かに幅が出てきたようだった。
試合の最中、仙道の傍らで走る自分の影を何度も見た。確かについこの間まで自分も仙道と同じ様に汗をかき、あのコートの上で走り回っていたはずだ。
それはたった数ヶ月前のことなのに、遠い幻影のように思い出される。
今のあいつとやって勝てるだろうか・・・ふと思いつくが、その瞬間自嘲気味な笑みをこぼす。
もう手放したのだ・・・自分は。
あんな風に仙道と同じコートの上で汗をかき、共に走り回る事はもう二度とないのだ。もう、二度と ―――
突然、痛みがきた。
心臓の奥深くに針を突き刺したような鋭い痛み。その競り上がってくる痛みを無理やり飲み込むと、堪えるように眉をしかめた。
自分で決めたはずだった。あのコートではなく、こうして一歩はなれた場所から見ることになったのもすべて納得したはずだった。
それなのに、今この期に及んでまだ迷っている。
あのしびれるような快感を、喜びを・・本当に手放していいのだろうか?今なら、まだ間に合うんじゃないか?
「あれ・・・?」
思わず顔を上げて辺りを見回すと、意図した所と全然違う位置にいる事に気がつく。
細い廊下に青白い蛍光灯がチカチカ光っている見覚えのある景色。誰にも見られないようにこっそり外へ出ているはずだった・・・のだが、恐ろしいものだ。
考え事をしながらぶらぶら歩いているうちに通いなれた選手控え室の方へ来てしまっていたらしい。
ドアがすべてしまっているが、中からは小さなざわめきが聞こえてくる。恐らく表彰式が終わって一息ついた選手たちが雑談に明け暮れているのだろう。
一番ほっとする瞬間だ・・・牧は苦笑いを浮かべると今来た道を戻ろうとそっと踵を返した。その瞬間 ―――
「お疲れ様です!」
バンと派手な音を立てて乱暴に目の前の扉が開く。ちょうど死角になる部分にいた牧は思わずその場に立ち竦む。
目の前に突きつけられた扉には思いっきり「陵南高校控え室」と書かれている。
〔やばい!〕
久しぶりに体中に緊張感が走る。全然関係の無い自分がこんな所にいるのがばれたら色々な意味で大問題だ。
扉を間に挟んでいるこの状態なら、黙ってこのまま立っていれば気が付かれないだろう。
息を殺してじっとする。中から人がどんどん出て行く気配がする中、
「仙道、行かないのか?」
何気なくかけられたその名前にどきりとする。
「あ、俺ちょっと用事があるから・・・」
少し遠いが聞き覚えのある声がする。久しぶりに聞く声はいつもと変わらないはずなのに、その低い声だけがやけに牧の耳に響く。
「じゃ、俺達先帰るな。」
その声を最後に人並みが消え、廊下には再び静寂が戻った。カタン・・・しばらくして椅子を引く音と共に人が動く気配がした。
牧は物音を立てないようにそっとドアの影から覗き込む。
その広い控え室にはどうも仙道しか残っていないようだ。ちょうど覗き込んだ牧に背を向けるような形で仙道はロッカーからバックを取り出していた。
誰もいないなら・・・声を掛けてみようか。ふとそんな悪戯心が湧き上がった。
ここ最近こいつには驚かされっぱなしだったからな。
全国はどうだった?負けねぇとか言ってたくせに負けたじゃねぇか。まさか手ぇ抜いた訳じゃないだろうな?
それを聞いたときの仙道の顔を想像すると、ちょっと愉快になった。
声を掛けよう・・・一歩足を踏み出した。
バンッ。
乾いた音が一度鳴った。
その音の出所が、仙道がロッカーに右の拳を叩きつけた音だと気がつくのにほんの数秒かかった。
淡々とした空気の中、また風が動く。
バンッ、バンッ
静寂の中一定のリズムで繰り返されるその響きだけが、牧の頭の中で鳴っている。
背中を向けられている牧に仙道の表情は分からない。でも、そこに立ち入る事は誰も出来ない。
仙道が、泣いていた。
国体の合宿中に行なわれた練習試合。
Bチームに落とされた仙道がさしたる文句も言わず淡々と練習をこなすのを見て、一度怒った事があった。
お前はレギュラーからはずされて悔しくないのか。お前に一番足りないのは、勝利への執着心だ。
実力はあるのだから、それを気が向いたときに出すのではなく試合の間中常に出せるようにすればお前はもっと活躍できるはずだ。
それを聞いた仙道は何かをいいたげに顔を上げたが、結局黙ったまま曖昧に笑ってきた。
そう、何も言わずにただ笑っていた。
試合の時に感じるあのクールだが熱を帯びた瞳と、その曖昧な笑いがどうしてもかみ合わなくてあの時一人首を傾げていた。
今なら、あの笑顔の意味がよく分かる。
仙道は、本音の部分を面に出すのがうまく出来ないだけなのだ。
勝利への執着心も闘争心も何もかも内に秘め、自分の中で処理していく。恐らく吐き出さなくてはやりきれない事もすべて・・・。
そうやって一人嵐が過ぎ去るのを耐え忍び、そしてまたあの笑顔で現れる。
あの顔は、仙道のディフェンスなのだ。誰にも自分の心を悟られないための。
どうしてそんな風になったかなんて分からない。
けど一つ言えるのは、あいつは見た目よりずっと不器用なのかもしれないって事だ。
喜びは共に喜びあって何倍に、悲しみは共に分かち合って半分に。何でも出来るくせしてそんな簡単な事もうまく出来ない仙道が、ひどく悲しい。
ただ、その事が悲しかった。
* * * * *
人気の少なくなったエントランスロビーに、夕刻の闇が影を長く落とす。
そんな中、牧は一人ベンチに腰掛けた。
あの音が耳から離れない。声にならない仙道の悲しみが、まるで潮が満ちていくように牧の体を満たしていた。
なにか、声をかけてやりたい。そうは思うが気の聞いた言葉一つ思い浮かばない自分がどうにも歯がゆかった。
「しっかしよ。あいつもたいした事ねーんじゃねぇの?」
静寂を破る大声に牧の思考が中断する。俯きかけていた顔をぐっと持ち上げて後ろを振り向くと、フロアーの方から男が二人こちらに向かってやってきた。
遠めにも背はかなりあるようだから、どこかのバスケット部員なのかもしれない。が、私服姿の所を見ると、牧と同じ見学組なのだろう。
自分がここにいる事を誰にも知られたくない。そのまま前に体の向きを変えると軽く俯いてその場をやり過ごす事にした。
そんな牧に気がつかないまま男達の話は続いていく。
「誰だよ、あいつって。」
「ほら、神奈川の仙道って奴。雑誌で結構持ち上げられてるけどさぁ、やっと全国に出てきたと思ったのに結局優勝できねぇでやんの。」
「沢北が抜けた山王だってのにな。あれで負けて何が天才だよなぁ?」
「ちゃらちゃらしやがって・・・ちょっとは悔しそうな顔して見せろよなぁ。泣いたらハンサム顔が台無しだってか??」
吐き捨てられた言葉と悪意に満ちた嘲笑が閑散としたロビーに木霊する。
その瞬間耳の奥で何かがぶちきれた。
「お前らに何が分かる。」
いきなり背中に投げつけられた声に、笑い転げていた二人は立ち止まって訝しげに振り返る。
「なんだよ、てめぇ?」
敵意を含めたその問いかけをした相手に、凄みを効かせた声で威嚇する。
しかし、その声に怯むことなく一歩ずつ距離を詰めてくる相手の姿を認めた瞬間、男達の目が見る見る大きくなった。
「あ・・・あんた海南の・・・」
驚きを隠さずに掠れた声を上げる二人に無機質な瞳を向ける。
我慢の限界だった。自分の事を言われた訳でもないのに腹の底からどうしようもない怒りが沸いてくる。
「私服でここにいるお前らに、何が分かるかって聞いているんだよ。」
威圧的なその雰囲気に息を飲む二人に、断罪を下すように牧がもう一度問い返す。
「仙道の何が分かるかって聞いてるんだよ。答えろ!」
その勢いに気おされた二人が小さく声を上げて後ずさりするのを、追い詰めるように一歩ずつ距離を詰める。
何が分かる。お前らに何が分かる?
時計を見つめる仙道の優しげな瞳、試合の時の凛とした横顔、悲しみを一人耐えている背中。
何も知らないお前らに、仙道の事をとやかく言う筋合いはない!
何かが牧の心の中をかき乱す。それを止める事も出来ず、ただ目の前にいる二人を追い詰める。
その怒りの咆哮が体中から漏れ出そうとした時、怯えた二人の表情がぶれたスクリーンのようにもう一つの面影とだぶった。
その瞬間、ヒヤリと何かが心を掠める。同じ様に嘲笑するもう一つの面影。
それは、自分だ。
仙道の事を何も知らず、知らないうちに上から見下ろしていた自分の姿だ。
「牧さん?」
呼びかけられる声に体がぎくりとこわばる。ゆっくりと時間をかけて振り返ると、そこには何度も思い浮かべたコート姿の仙道がひっそりと立っていた。
振り返った牧の顔を認めた仙道の顔が見る見る明るくなる。
自分に向けられたその屈託の無い笑顔が、牧の中に生まれた怒りもどす黒い感情もそっと凪いでいく。
勢いよく駆け寄った仙道が牧の背後にいる二人組みにすっと目を細める。
「なにかあったんですか?」
仙道の声に微かな棘がこもる。
「いや、俺たちは・・・」
しどろもどろに答える二人を尚も問い詰めようと足を踏み出そうとする仙道の目の前に牧の静止の手が上がる。
「止めとけ。」
「でも・・・」
「お前が気にするような相手じゃない。」
その一言に仙道がなんとも言えない表情を浮かべるが、黙りこくる牧に取り付くしまも無い。
その牧の声に弾かれる様に男達が逃げ出したのを止める事もなく仙道は見送った。
その姿が見えなくなるのを確認してもう一度牧のほうを見下ろすが、そこには怒ってるとも泣いているともいえない複雑な表情をした牧がじっと床を見つめていた。
「誰にも負けねぇって言ってたのに、負けちゃいましたよ。」
照れてるように右手で鼻をこする振りをして明るく声をかける。その仙道に視線を合わせるように顔をゆるゆると上げる。
「よくやった。」
「え?」
「お前は、よくやったよ。確かにチームとしては負けたかもしれないが、お前自身は負けてない。」
俺には分かるよ・・・続けられた言葉に仙道が言葉を失った。
顔に上げられていた右手を牧の左手がゆっくりと引き剥がす。
呆然としてた仙道がそのいきなりの行動に思わず手を引っ込めようとするが、それを上回る力で引き寄せた。
「右はお前の利き手だろう?」
ポツリと呟く問いかけに小さく息を呑むのが分かる。
こぶしに残された傷を右手で一つ一つ確認するようにゆっくりと触る仕草を仙道はただ黙って見つめていた。
「痛まないか?」
「大丈夫・・・ちゃんと加減してますから。」
分かりきったその返答に牧が苦笑いを浮かべる。
「こんなに自分を傷つけなくても、吐き出し方はもっと他にあるだろう?」
「・・・牧さんって千里眼?」
牧の一言に同じ様に苦笑いを浮かべながら問い返すと、空いている左手をそっと牧の手の上に乗せる。
少しだけ熱を帯びたその掌が冷たくなっていた牧の手をゆっくりと温めていく。
「本当に大丈夫ですよ。・・・ってか、大丈夫になった。」
そういい切る仙道の瞳に、さっきコートの上で見た虚ろな光はもうない。
さっきまで何もしてやれないと思っていたが、ただ触れるだけで伝わるものがある。
それを肌で目で確認してようやく牧は口元をほころばせた。
「兄ちゃん!」
いきなりその静寂を破る声に、牧が反射的に掴んでいた手を乱暴に振り解く。声のするほうを振り返ると、小学生と思われる小さい少年が息を弾ませて仙道に近づいてきた。
「遅いから、迎えにきたよ。」
「ワルイ、ワルイ。」
目を輝かせながら見上げるその少年を見つめる仙道に、いつにない親しげな表情が浮かぶ。
「あ・・・こいつ、俺の弟なんです。ほら、挨拶は?」
「仙道亮太です。よろしくお願いします。」
仙道に小突かれたその少年がぺこりと頭を下げる。
「牧です。どうぞよろしく。」
姿勢を正すと牧も同じ様に挨拶を交わす。
「まだ来ないのかって、お父さんたちが怒ってるよ。早く行こうよ。」
少年は、苛立ちを隠そうともせず顔を軽くしかめると、動こうとしない仙道のコートの裾を軽く引っ張って外へ連れ出そうとする。
けっして似ている訳じゃないのだが、相手がガードする前にするりと入り込んでくる人懐っこさはアニキ譲りらしい。
「ちょっと待てよ。」
困った表情を浮かべて弟を見下ろす仙道に、軽く牧が肩を叩く。
「じゃ、俺はこれで。」
「え?ちょ・・・ちょっと待ってくださいよ。」
慌てて引き止める仙道に出来る限り安心させるように笑顔を向ける。
「折角の家族水入らずなんだろ?早く行ってやれよ。」
「牧さん!」
「別にこれで会えなくなる訳じゃないんだから、そんな顔するな。」
軽く顔を手の甲で叩くと、そのまま出口へ向かう。
「牧さん、明日はいますか?」
呼びかけられた声に足を止めてゆっくり振り返る。逆光になっている牧の表情は暗く沈んでいた。仙道から表情を窺うことは出来ない。
「あぁ、いるよ。」
一拍置いた後、そう一言告げられた。
翌日。実家に一晩泊まった仙道は久しぶりに横浜駅のホームに降り立っていた。
はやる気持ちをもれないように押さえ込むと、いつもより早足で約束の場所へ向かう。
センター試験まであと1週間。いると言ったけど、この忙しい最中ドタキャンされたって仕方が無い・・・そう思ってはいた。
でも・・・
仙道は傷跡の残る右手をちらりと見つめる。
――― 痛まないか?
あの時の湿り気を帯びたぬくもりが、触られる度に小さく生まれた痛みが離れない。見えないそれを手繰り寄せるように何度も手を握り締めてみる。
「きっといる。」
誰にも聞こえない程度に言い切ると、初めて乗ったあの時と同じ車両から乗り込む。
いつもと同じまだ乗車客の少ないがらりとした車内にぐるりと視線を走らせた。
――― 見つけた。
初めて見た時と同じ様に軽く俯いて単語帳を読み込んでいるその姿に、仙道の胸がきりりとする。
体のこわばりをほぐすように小さく息を吐いてると、顔を上げた牧と視線が絡み合った。
「よぉ。」
軽く手を上げる仕草が、初めてここで出会った時の事を思い出させる。
あの時、こんな展開になるなんて仙道もそして牧も思いもよらなかった。偶然の采配を思い、思わず笑みがこぼれそうになるのをぐっと堪えて、仙道は牧の元へと歩み寄った。
「今日はこれ。先月練習試合で茨城に行ったときに見つけたんですよ。」
早く飲ませたくてずっと持ち歩いていた激甘コーヒーをようやく手渡す。小さく礼を言うと、牧はおもむろにコーヒーのプルタップを開けていつもと同じ様に豪快に飲み干した。
その当たり前の仕草に、仙道は二人の間に流れた微妙な空気が薄まるのを感じた。
「やけに甘いな。」
「激甘コーヒーって書いてありましたからね。」
顔をしかめる牧に、いつものように何気ない調子で缶のラベルを指差す。そこには「限定激甘」と大きく書かれている。
それは何も変わらない、何度となく繰り返された同じ風景だった。
「そんなの買ってくんなよ。」
言葉とは裏腹に顔には穏やかな笑顔が浮かんでいる。
それを見た仙道は、昨日の夜からずっと考えていた事を口にした。
「どうして、昨日来てくれたんですか?」
その質問を予想していたのだろうか?牧の瞳が静かに仙道の瞳を捉える。
「純粋にお前のプレーがどんなもんだか見たかったからにきまってるじゃないか。」
「・・・それだけじゃないでしょ?」
やんわりと否定の言葉を口にする。その答えに少しだけ息を吐いた。
「お前に・・・あの場所で聞いてみたかったんだ。」
「何をですか?」
「陵南に行った事、後悔していないか?」
「え・・・?」
「うちからも、お前のところにはスカウトが行った筈だ。いや、恐らく全国の強豪校からお前の元には連絡が入ってたはずなのに・・・どうして陵南に行ったんだ?」
「牧さん・・・」
少し黙った後、牧は思い切ったように口を開く。
「こんなに苦労しなくても、何もかも背負わなくても、もっと簡単にお前なら全国にいけたはずなのに・・・。」
勝負は結果でしか判断されない。
どんなに記憶に残る試合をしたとしても、その過程は選手や観客の間に残るだけ。
たとえ仙道が天才ともてはやされたとしても、その結果が残せない限り何の意味も成さないのだ。
仙道は考えなかったのだろうか?
全国のあまたる強豪校を断って陵南に行くと言う事が、バスケを続けていく上でどれほど大きなリスクを背負う事になるかと言う事を・・・。
その問いかけに黙り込んだのは一瞬の事。
クスリと小さく仙道が笑うと、もてあました足を牧の足元の方へ軽く投げ出した。
「全国に行けるなら行きたいですよ。もちろんね。でも俺は、俺をワクワクさせてくれる相手と試合が出来ればそれでいいんですよ。」
満面の笑みでそう答える仙道に牧は唖然とした表情を浮かべる。
「今年は最高ですよ。今までは牧さんや藤真さんくらいしかいなかったけど、流川や桜木みてーな面白い奴も出てきたし、海南だって神やノブ君がいるでしょ?
いくら全国に出ても、優勝しても、そんな相手がいないなら全然意味ないしね。それに・・・」
きょろりと辺りを見回して誰もいないのを確認すると、瞳に楽しげな光を浮かべる。
「そんな俺をやる気にさせてくれる人とチームメイトじゃ駄目なんですよ。俺は戦いたいんですから。それが、海南じゃなくて陵南に進んだ訳ですよ。」
その返事に牧が嘆息する。
「お前って奴は・・・」
軽く頭を振ると、牧はなんとも言えない表情を浮かべる。自信たっぷりの仙道が羨ましい。事も無げにそんな風に思える仙道を妬ましいとすら思う。
「羨ましいよ。お前って奴が。」
「どうしてですか?」
「俺は、未だに迷ってるよ。自分で選んだものが間違ってるんじゃないかって・・・」
その牧のつぶやきを黙って聞いていた。
弁護士になりたい。漠然とそう思いはじめたのはもう随分前のことだった。
小さな頃、商売をやっている牧の家で揉め事があった時仲介に入ってくれた弁護士をみて、あんな風に人を助ける仕事もいいなぁって思ったのが最初だ。
バスケットを続けながら、弁護士を目指す。どちらかを捨てる事なんて牧には出来ない。だからこそ、バスケも勉強も自分のもてる力を最大限行使してやってきた。
恐らく、ここまでは順調に来たのだと自分でも分かっている。
しかし、IHを終えた頃本格的に自分の進路を考える段階に入って、牧は決断を迫られる事になった。
弁護士になる為には大学でみっちり勉強をしながら司法試験を受け、そして実践を積んでいくことが必要だ。
バスケをしながら、若しくはバスケを引退してからでは到底無理な話なのだ。
バスケの推薦で海南大に行くなら、弁護士の道は諦める。
弁護士の道を進むなら、一流の選手としてバスケを続けることは諦める。
どちらを選ぶか・・・長い間1人で考えた末出した結論は、弁護士の道へ進むというものだった。
無論、反発が来るのは分かっていた。そう、頭では分かっていたのだが実際そうなってみるとさすがの牧もその負のパワーに圧倒されそうになった。
海南大に進学するとばかり思っていた監督をはじめチームメイトたち。
最高の条件を携えて一介の高校生である牧に頭を下げるスカウト陣たち。
そんな様々な人の想いは時として牧に無言の鎖を絡み付けていた。自分が思う通りにするという事は、その人々の想いを踏みにじり断ち切る行為と同じ。
裏切りとなんら変わりないのだ。
――― 牧、考えは変わらないのか?
――― どうしてそんなもったいない事をするんだね、君は。その才能をどうして生かそうとしないんだ?
――― 嘘でしょ?どうしてバスケやめるなんて言うんですか?俺、信じません!!
何度も聞いたその言葉。
それに対して牧は自分なりに誠意を持って伝えるが、盲目的に自分を信奉してくれる人たちにはどうしても理解できないらしい。
それはそれで仕方が無いだろう。その痛みすら自分で引き受ける覚悟をして、牧は1人違う道を歩き始めたのだ。
だから ――― 後悔してはいけないと思った。
周りの人の期待や信頼をかなぐり捨てて自分はこの道を選んだのだ。
後悔すると言う事はその人たちに対して一番卑劣な行動に値する。そう牧は思っていた。
それなのに、未だ迷う自分がいる。
これで良かったのか?迷うくらいならもう一度バスケをすることも出来るのではないか?
今ならまだあのコートの上に自分も戻れるんじゃないか?
湧き上がる思いを片っ端から打ち消すが、消えることは無い。消えることが無いという事実がずっと牧を苦しめていた。
途中黙ったりつっかえたりしながらも牧はぽつりぽつりと仙道に自分の思いを話していった。
「俺はお前のように後悔しないって言えるかどうか自信が無いんだ。今更こんなに周りを振り回しておいて笑っちゃうよな。」
ため息交じりの告白に、仙道は何も言えずただ何かを考え込むように牧をじっと見つめていた。
「今日は変な話して悪かったな。」
苦笑いを浮かべた牧はホームに降り立った仙道を見上げてそうつぶやいた。
あれからずっと黙り込んだ仙道を、最初こそいぶかしんだがよく考えればいきなりこんな重い話を突きつけられたら、その後の話にだって苦労するに決まってる。
そんな事すら考え付かなかった自分の至らなさに牧は心底申し訳ないという顔を見せた。
階段の下で風を避けながらいつもの様にコートを羽織り、改札へ向かおうとする。
そんな牧の動きを止めるように仙道は軽く牧の腕をつかんだ。
「ねぇ、牧さん。ちょっとだけいいですか?」
その呼びかけに牧は足を止める。まっすぐに見つめてくる牧の視線を外すように仙道は横を向いた。
「俺、夏に湘北に負けた時・・・。初めてメンバーの奴らと顔会わせたくないって思ったんですよ。」
仙道の口元が徐々に苦笑いの形に歪んでいった。
あの時、何もかもうんざりだった。
当たり前のように自分に頼ってくる監督やチームメイトの視線が。
「俺たちの力が足りなかったばかりに・・・」そう言って人目憚らずに泣きじゃくる先輩たちが、うっとうしくて反吐が出そうだった。
あの時、魚住さんが5ファールにならなければ。
あの時、もう少し桜木をマークしておけば・・・。
あの時、あの時、あの時・・・そうやって終わってしまった事を蒸し返しては考えて。
その挙句最後の最後、ふと思った。
あの時、もし陵南を選んでなければ・・・って。
「正直、後悔しました。」
そういうと、足元に転がってきた缶をつま先で軽く蹴飛ばした。二人の間に沈黙がおりてくる。
「でも、限界あると思いません?俺たち神様でもなんでもないんですから失敗したり後悔するのも当たり前だと思うんですよ。これなら大丈なんて道、あるなら俺だって知りたいですし。でもね・・・」
そこで一区切りすると、仙道はつと視線を合わせてきた。その目を見た瞬間、心臓がぎゅっと引き攣れた。
「振り返った時に、これでよかったって思える様になればいいと思ったんですよ。」
「仙道・・・。」
「生きてる限り、やり直す事はいくらでも出来るでしょ?後悔は死ぬときにまとめてしようと思ってるんです、俺。」
だから、大丈夫だと思う。言葉にしないけれど、そう仙道が言ってるのが牧には分かった。
「そうだな。」
一言そう呟くと、顔を緩めて笑った。
人生だってバスケと一緒で勝負の連続だ。勝ったり負けたりそれを繰り返しながら日々の営みを繰り返す。
勝ったらそれに奢ることなく邁進し、負けたらそれを踏まえて次への糧へと生かしていく。
たとえ後悔したとしても、それを踏まえて次へのステップにすれば結果は自ずとついてくる。
そうやって、俺はここまで来たんじゃないか。
恐れる事は何も無い。
「俺自身が決めた」この事だけは後悔しないと分かってるから。
少なくとも、それだけは後悔しない。その事がこれから起きるすべての事のスタートラインなんだと初めて牧は思うことが出来た。
「なぁ仙道、電車の中で初めてお前と会った時、俺に言った言葉覚えてるか?」
「もちろんですよ。」
――― 牧さんがいいと思って決めた事なんでしょ?だったらいいじゃないですか?
「あの時、急に牧さん黙り込むからまずい事言ったかなぁって正直焦ったんですよ。」
思い出し笑いをする仙道に牧は軽く首を横に振ると足元に視線を落とした。
「違う。驚いたんだよ。あの時。」
誰もが息苦しくなるほど自分達の考えを押し付けてくる中、誰かに言って欲しかった言葉。
その言葉をかけてくれたのが、まさか仙道だとは思いもよらなかったから。
「お前が決めたなら良いじゃないかって、誰も言ってくれなかったからな。正直へこんでいた時だったから嬉しかったんだよ。」
あの時言えなかった思いをようやく伝えることが出来る。今更なんだと言われるかもしれないが、どうしても伝えておきたいと思った。
同じ様にしがらみに苦しんでいたのはお前だけじゃない。俺も同じ様に悩み、そしてお前の言葉に救われたのだと。
「――― 俺も、同じなんです。」
掠れた声に牧がはっと顔を上げる。
「何度も牧さんに救われた。全然気がついてないかもしれないけど。」
だから・・・そう呟いた先の言葉が途切れる。仙道から表情がすり落ちた。
奇妙に静かな目がじっと牧を見つめている。
静かだった。周りに人がいない訳じゃないのに、音も光もその瞳に吸い込まれているようだった。
逸らしたいのに、惹きつけられるように目が離せない。無意識の内に後退さろうとする牧の二の腕を仙道が捉える。
あの時と同じ光景が繰り返される中、なぜかあの時と同じ様に牧は手を振り払うことが出来ずにいた。
ゆっくりと牧の視界をさえぎるように仙道の瞳が近づいてくる。
あと少しという時、仙道の唇が小さく揺れた。
「頼むから、期待させないで。」
仙道は牧にそっと唇を重ねた。冷たい唇が微かに震えるのが、唇から伝わる。
お互いに目を開いたままのキスはキスの意味を持たない。
何をされたのか分からないまま呆然とすべてを受け止めた牧から、ゆっくりと仙道が離れていく。
仙道との距離は50センチ。
「紳一?」
背中からかけられる声に、牧の体がぎくりとこわばる。
振り返った先には、しげしげと自分と仙道を見つめる理恵の姿があった。
…To be continued.
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