くりっとした杏型の瞳に縁取られるまつげが長い。眉はきれいな直線を描いていて、つんと高い鼻はとても上品。
スタイルは良いけれど派手ではない。そんな品のある魅力的な大人の女性。
仙道の知らないその人がまっすぐに見つめる先にいるのは誰でもない、牧だった。
振り返った牧を見て、ふわりと笑う。
「よかった、入れ違いにならなくて。」
花がほころぶような笑顔が、闇夜に甘く溶け渡る。小気味よい足音を響かせて距離を詰めてくるのを合図に、仙道の腕が牧からゆるゆると離れた。
牧の近くまで寄った理恵は胸の辺りまでしか無い。振り仰ぐように見上げる理恵はいつもと変わらなかった。
「どうしてここへ?」
「うん・・・。これね渡そうと思って。」
そういうと理恵は肩にかけたショルダーバックから小さな白い袋を取り出す。
「天満宮のお守り。紳一のことだからこんなのいらないって言うかなって思ったんだけど、こんな事しか出来ないから・・・。」
かさりと小さな音を立てて差し出した牧の手元に落ちる。満足気に笑う理恵が小さく舌を出して肩をすくめる。
声に拗ねたような甘えた調子が加わる。
「今日予備校無いって言ってたからいると思ったのに、いないんだもん。」
その言葉で背後の仙道の気配が揺れたのを牧は感じたが、そのまま気がつかない振りを続けた。
「・・・悪かったな。」
「別にそんな事無いけど。・・・お友達?」
ちょうど牧の背中に隠れるようにいる仙道を覗き込むように首を傾げる。
友達。なんて都合のいい言葉なんだろう。
「・・・あぁ。後輩だよ。」
そういう自分の声が、まるっきり別人であるかのような錯覚に陥いる。それを誤魔化すように牧は理恵の肩をそっと引き寄せた。
その一部始終を黙って見ていた仙道が、愛想良く笑う。不自然なほど完璧な笑顔に牧の胸がすっと冷えた。
「初めまして。仙道って言います。」
軽く頭を下げる仙道に理恵は一瞬目をしばたかせたが、あぁと小さく声を上げた。
「君・・・どこかで見たことあるなぁって思ったんだけど、国体の時に紳一のチームにいた子だよね?あのチーム、凄かったよねぇ。」
屈託無く笑う理恵に仙道が曖昧な笑みを浮かべる。それでようやく自分の自己紹介をしていないことを理恵は気がついたのか、小さく顔をしかめると恥ずかしそうに片手を口元に当てた。
「あ、ごめんなさい。私、笹川理恵って言います。えっと・・・」
「俺の彼女だ。」
理恵の声を遮る様に牧が言葉を重ねる。その言葉を受けた理恵は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに口元をほころばせた。
しかし牧は見上げる理恵を見返すことなく、ただじっと仙道をいるように見つめていた。その息苦しいほどの視線に先に耐えられなくなったのは仙道の方。
「・・・可愛い彼女ですね?」
わざとらしくない様に気をつけながら理恵に視線をずらした。
「可愛いって・・・これでも私、結構年いってるのよ。」
理恵が小さく声を上げて笑う。その声につられるように牧は傍らにいる理恵に視線を向けた。
横にいるのは俺の彼女。目の前にいるのは俺の後輩。ここにあるのは何てことない光景だ。
でも、今からほんの一分前。俺はここで何をしていた?仙道は何ていってた?
俺は・・・どう思った?
薄らぼんやりする記憶の中で、唯一つはっきり覚えているのは
――― 冷たく震えた唇の感触。
「ね、紳一?」
さりげなく流された言葉に、急速に意識が戻る。
暗くなっていた視界にゆっくりと光が戻ると、きょとんとした目をした理恵の瞳とぶつかった。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。」
ようやくの思いで告げると、仙道の方を振り返る。その視線に気がついた仙道は今まで理恵に見せていた表情をするりと隠すと、口元で小さく笑った。
冷たい風がコートの裾を揺らしていた。
「それじゃ、お邪魔でしょうし先に失礼します。」
「あ、なにか話があるんじゃないの?」
「いいえ。もう終わりましたから。」
理恵の問いかけにそう答えると、仙道が背中を向けた。
その後姿がいつに無く小さく見える。あのロッカールームで見た時と同じ様に。
何が自分を突き動かしているのか分からないまま、ただ叫んだ。
「仙道!」
はじかれたように牧が仙道の肩を掴む。歩きかけていた仙道はバランスを少し崩した状態で振り返った。
視線と視線が絡み合う中、言わなくてはいけない言葉があるはずなのに思うように口が動かない。
牧を見下ろしてくる仙道の瞳に、一筋の影が走った。ゆっくりと口が動く。
「また、来週。」
仙道は自分を掴む牧の手をゆっくりと外す。
そして動けずにいる牧の肩越しにもう一度理恵に向かって頭を小さく下げると、振り返ることなく一人階段を登っていった。
言えることは何もない。牧はただ黙って人気のなくなったホームを見つめ続けていた。
「本当はこの後なにか約束でもあったんじゃないの?」
足を進めて牧の横に並んだ理恵が気使うように見上げてくる。
「・・・いや、別に。」
一拍置いて返された言葉に理恵がちょっとだけほっとした表情を浮かべる。しかし、その事に牧が気がつくことは無かった。
『また来週。』
いつしか出来た仙道との合言葉。今ここで別れたら最後、そんな日はもう二度と来ない。
その事を仙道も分かっていた。分かっていてそう呟いた。また来週と。
これで良かったんだ。
俺には理恵もいる。仙道は才能ある将来有望な選手で、気のいい後輩なんだ。その事以外必要は無い。
後輩、友達。
自分の心の中で繰り返す言葉に、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。牧は思わずきつく眉を顰めていた。
「紳一、具合でも悪いの?」
その言葉が、きっかけだった。思うより先に腕が伸びる。いきなり抱きしめられた理恵が思わず声を上げた。
「ちょ・・・ちょっと紳一ってば。」
戸惑いと恥ずかしさから離れようとするが、びくともしない。肩で揺れるその柔らかい髪に、顔をうずめるように牧は強く抱きしめた。
押し付けられる体が感触は柔らかい。その感触が無性に欲しかった。
「今日は・・・帰るなよ。」
低く曇った声が理恵の耳に届く。
「一人になりたくないんだ・・・。」
理恵は胸元につけていた手をそっと背中に回すと、何も言わず牧の背中を抱きしめた。
浅い眠りからふと目覚める。寒くて凍えるほど静かな夜。
いつもの自分の部屋、自分のベット、いつもと皆同じなはずなのに、何かが違う。
その原因。
それは、背中に感じる紳一のぬくもりだ。
後ろから抱きしめるような形で眠り続ける牧を起こさないように、そっと腕をはがすと理恵はベットからするりとおりる。
暗闇の中、理恵の裸が部屋の冷たい空気に晒される。理恵はぶるりと震えると闇雲に投げ捨てられた服に手を伸ばして、一番近くにあるシャツを慌てて着込んだ。
その瞬間、理恵の鼻をくすぐるのは馴染みのあるにおい。牧自身はなんの香水も整髪料も付けないのだが、いつも彼の周りにはいい匂いが漂っている。
〔ボディシャンプーだろうけどね。〕
理恵は心の中だけで小さく笑うと、まるっきりサイズの合わないのも気に留めずそのままベットサイドに腰を下ろした。
闇に目が慣れてくると、窓から漏れる月明かりでぼんやりと牧の表情が見える。
深い眠りについているのかびくとも動かぬその横顔。彫の深い端正な横顔に月明かりが影を生み出してくる。
その横顔には明らかに疲労の色が濃く見える。
眠っている時だけが、色々なものを背負う紳一にとって唯一開放される時間なのかもしれない。
布団の外に出ている牧の腕を布団の中へ戻すと、理恵はそっと息をついた。
センター試験が始まってからずっと試験試験の毎日。
元々成績はいいほうだし、どこかに間違いなく合格するのはわかっていたが、それとは別にこの頃の紳一は何かに追われるように勉強を続けていた。
そして、その合間を見つけては度々自分を求めてきた。
スキンシップを好まないタイプの紳一のそんな変化に、誰よりも理恵が戸惑っていた。
いつからこんな風になったんだろう?
理恵は枕元にあったフォトスタンドを手にする。そこには夏のIHの時、無理やりねだって撮らせてもらった二人のツーショット写真が入っていた。
写真が苦手な紳一が嫌そうな顔でレンズを睨むようにじろりと見つめている。その横で笑っている自分。
バスケをして輝いている紳一が好き。
何気ない事で楽しそうに笑う紳一が好き。
少し先を歩きながらも、私に気を使って振り返ってくれる紳一が好き。
好きで、好きで仕方がない。
自分でもばかだなぁって思うくらい好きなんだから仕方がない。
そう、ずっと見つめていた。誰よりも。
だからこそ、分かる事がある。悲しいけれど。
理恵はそっとベットから離れると、壁にかかっている牧のコートに近づいた。
迷い無く右ポケットに手を入れると、そこにあるものを取り出す。それはシックな懐中時計。
理恵はそのまま窓際に近寄りその時計を宙にかざす。月の明かりを受けた時計は鈍くて柔らかい光を放っていた。
ここ数ヶ月。動かないこの時計を紳一はまるでお守りのようにずっとポケットの中に入れていた。
時計屋のおじさんが、紳一にあの時計を手渡したのは1月も半ばの頃。
『調子が悪くなったらいつでも持っておいでって言っときな。』
そう言ったおじさんに紳一は小さく返事を返していた。不思議に思った私は何の気なしに尋ねた。
――― それ、誰のなの?
振り返った紳一はほんの少しだけ目を細めるとためらう様に口を閉ざす。
――― 紳一の?
――― 違う。仙道の・・・この間、駅でお前も会ったろ?あいつからの頼まれもんなんだ。
そう言うと、紳一はそれっきりその話題を一切口にしなくなった。
でも、本来の持ち主に帰ることなくあの時計はあれからずっと紳一の元にあった。
動かない時計を、一秒たりとも放さない紳一。時折思い出したように取り出しては、じっとその時計を見つめていた。
声をかけるのをためらうその瞬間。
その時計の向こう側に私の知らない景色が広がっていて、そこには私じゃない・・・誰かがいる。
そんな感じがしていた。
その度に、間違いだと思い込もうとしたあのシーンが頭を過ぎる。
紳一は気がついているのだろうか?あの夜から自分がどれほど変わってしまったのかを。
抱かれる度に紳一の背中が遠くなる。そんな悲しい夜を何度繰り返せば彼は気がついてくれるのだろうか?
本当の自分の気持ちに。
唇をかみ締める理恵の淡い瞳はどこか傷ついた色を帯びていた。
気がつかなければ良かった。そうすれば何事も無く今までと同じ様に二人時を重ねることが出来たはずなのに・・・。
でも、もう手遅れ。
理恵は壁にかけられたカレンダーに目を走らせた。
紳一の最後の合格発表の日まで後3日を残すのみだった。
春がようやく近づいてきたと感じ始めるのはいつの頃だろうか。
ごろりと横たわった芝生の上でぼんやり考えていると、その視界をさえぎるように理恵の顔がひょいと覗き込んでくる。
「こんな所で寝ていると、風邪引いちゃうよ。」
「あぁ。」
その返事に口元を小さく緩めると、理恵は横たわる牧の横に腰を下ろす。
ここは二人にとって馴染みの場所。
時間の無い牧とわずかな逢瀬を楽しむために良く使ったこの公園にも、寒さが緩むこの時期から少しずつ出歩く人も増えてくる。
もう春の気配が漂い始めていた。
「春からは東京ね。」
「そうだな・・・。」
ポツリと呟くとゆっくりと目を閉じる。
すべての大学の合格発表が終わったのはつい昨日のこと。
第一希望だった東京の大学にも無事合格が決まり、牧の未来は前途洋々輝いているはずだった。
しかし、牧の心を満たすのはほんの少しの安堵と ――― なんとも言えない倦怠感。
練習や試合の後に感じる疲労とは明らかに違う疲れをずっと感じて続けていた。
「・・・紳一、なんだか浮かない顔してるね。」
その言葉に、無意識のうちに口が動く。
「大丈夫だ。」
「・・・大丈夫?」
なんだ?
ほんの少し語尾を上げるシニカルな響き。そのいつもと違う声色に牧の意識がふと引き寄せられる。
「理恵?」
「いい加減にして欲しいのよね・・・もう。」
ため息と共に呟いた理恵は軽く顔を背ける。
「もう、終わりにしよう。」
「え?」
「別れようって言ってるの。分かる?」
理恵の声が淡々と響く。牧は慌てて上半身を持ち上げた。
「なに言ってんだよ?どうして・・・」
「どうして?理由を言わなくちゃ紳一には分からないの?」
振り返った理恵の目に、混乱した牧の顔が飛び込む。どこか昏い満足感を覚えたまま、理恵は口元を歪ませた。
「私、見たんだよ。あの時。」
その言葉に牧の目が大きく開く。
そう、見たの。あの時。仙道くんと紳一がキスしてるところ。
「・・・黙ってたけどね。」
何の興味も失ったとばかりに俯くと近くの芝生を小さく毟り取る。その目は開いてはいるが、何も見ようとはしていなかった。
「あれは・・・」
「あれはちょっとした事故だった。そう言いたいんでしょ?紳一は。」
表情も口調も何一つ変わらない。芝を毟り取るのも止めない。毟り取られた芝が、風に吹かれて理恵の足にどんどん舞い落ちるがそんな事も気に留める様子はない。
「当たり前よね。だから私もそう思おうとしたのよ。ちょっとしたハプニングだってね。でも・・・あの時。」
私たちをおいて仙道クンが先に帰ろうとした時。
彼が紳一を見つめる寂しげな笑顔や、そんな彼を反射的に呼び止めた紳一の表情。
押さえつけていた激しさや情熱・・・そんな想いが私のところまで押し寄せてきた。
あんな紳一は知らない。あんな顔をした紳一を私は見たことない。
少なくとも私の前であんな表情はしてくれない。
たったそれだけだったけど、充分だった。あれが見間違いじゃないと確信するには。
「あの時の紳一の顔。まるで恋人に捨てられる女がすがりつくような顔だったよ。」
面を上げた理恵の笑いが風に溶ける。一瞬の間をおいて、理恵は牧のほうを振り返った。
「もう最悪よね。女の子にならまだしも、男に紳一取られるなんて思いもよらなかったわよ。」
ゆっくりと体を起こすと、理恵はひざ立ちのまま牧の足を跨ぐ。座り込んで動けない牧を真正面から見据えると、首にその華奢な腕を回して唇を重ねる。
甘くて、柔らかくて、温かいキス。理恵の吐息を、口元で感じる。
「ねぇ、教えてよ?男とのキスってそんなに良いもの?」
何度も何度も。絶え間なく降り注ぐキスの間に理恵はうわ言の様に囁き続ける。
「私を抱きながら彼のこと考えてた?」
「やめろよ。」
「イク時は私の顔?それとも彼の顔??」
「いい加減にしろ!」
怒鳴った瞬間、理恵の右頬が軽い痛みを孕む。その瞬間、二人の間にあった何かが軽い音を立てて途切れた。
「・・・最低。」
首に回していた手をするりと肩へ移動すると全部の体重を乗せるように体を倒しこんでくる。そのいきなりの行動に、牧は支えきれずに押し倒された。かばいきれず地面に頭を強く打ちつける。
一瞬息が止まったそのタイミングを見計らったように離した手をのど元に当ててきた。
「ねぇ、どうしてあの日彼に会いに行ったの?どうして私の元に来てくれなかったの?」
細くてしなやかな10本の指から想像もつかないような力が少しずつ牧の首元に加えられていく。
朦朧とする意識の中、それでも牧は必死に抵抗を試みた。
「り・・・え・・・。やめ・・・」
「どうして・・・私には何も言ってくれないの・・・?なんでよ!」
畳み掛ける言葉が、悲痛な音色を立てている。その音に、塞ぎかけていた瞼を必死の思いで開いた。
そこにあったのは、感情の抜け落ちた空っぽの理恵の姿。
冷たくて冴え冴えとしたガラス玉の瞳が、自分を見下ろしていた。
理恵が笑うだけで、俺も周りの人もみんな優しくて温かい気持ちになれた。
笑って。笑って。どんな時だって明るく笑って ―――
なのに ――― いつの間に俺は理恵をこんなに追い込んだろう?
きっかけは確かに仙道のことだったのかもしれない。
でも、それだけじゃないんだ。
開きかけた瞼が再び閉じる。暗い闇に落ちるのは簡単なことだった。
――― 後悔は、死ぬ時にまとめてしようと思ってるんです。
あぁ、仙道。
もしかしたら、俺は今がその時なのかもしれない。
今までずっと理恵の優しさに甘えてばかりで、何一つあいつの事なんて考えてやってやれなかった。
いつだって俺は自分のことで手一杯だったんだ。
それが理恵をこんなにも傷つけてそして・・・お前も傷つけた。
お前といる居心地のよさに俺は甘えて、お前の気持ちだけ見ない振りをした。
情けねぇけど、所詮俺もこんな奴だったってことだよ。
時計・・・渡せそうもねぇや。
手放せなくて、すまなかった。
どうしても、これだけは持っていたかったんだ。
牧さん――― どこかであいつがつぶやく声が聞こえる。
低くて甘いテノールの響き。少し語尾を上げて呼ぶのはあいつの癖だな・・・。
喉と胸にかかる圧迫感が引くと同時に、視界が急速に明るくなる。
消えかけていた風景が一気に戻ると同時に目に飛び込んできたのは空の青。そう分かったとたん、体中に痺れが走った。
上に乗っていた理恵ごと体を起こすと、足りなくなった酸素を取り込むように何度も咳き込みながら深呼吸を繰り返す。
呼吸を重ねるごとに手足に血が巡り視界がはっきりしてくるのが手に取るように分かる。
俺は、まだ生きている。ようやくそう思えた瞬間、牧は大きく息を吐き出した。
「ねぇ、今誰のこと考えてた?」
その声にようやく顔を上げる。気がつくと理恵は牧のすぐ隣に座り込んでいた。
ガラス玉のように見えたその瞳はいつもと同じ淡い色を帯びていて、静かに遠くを見つめてる。
その変貌はまるで憑き物が落ちたような感じだった。
「最後に会いたいって思ったのは・・・誰だった?」
「・・・」
「私じゃなかったでしょ?それが、答えなんだよ。」
舌を出して肩を少しだけ竦める。照れたりなにか失敗した時によくやる理恵の仕草。まさか ―――
「理恵・・・お前わざと・・?」
その問いかけに答えることも無く理恵はくすりと笑う。
「嘘をつくのが上手な紳一はこれ位しないと自分の気持ちを認めないと思ったからね。」
それが答えだ。牧はそのまま言葉を失った。
「紳一は私のこと大切にしてくれたけど、自分の事は少しも話してくれなかった。それってね、結構寂しいんだよ。」
いつだってどこか一線引かれるその感覚。
本当の気持ちを紳一から言って欲しくて私は何度も「大丈夫?」と問いかける。
紳一は私を傷つけない為に、心配させないために「大丈夫」と答える。
お互いがお互いを思ってしている事なのに、なぜかすれ違ってしまう。
そして、その歪はいつしか取り返しのつかないほど大きくなっていた。
「私だって、紳一の力になりたかった。守られるだけじゃなくてあなたと一緒に悩んだり苦しんだりもしたかったのよ。でも、そうやって紳一の中に入ることが出来たのは彼だけだったのね。」
その言葉に痛みが胸を掠める。牧は思わず理恵の視線から逃げるように顔を背けた。
「・・・あいつは男だ。」
消え入りそうな牧の呟き。それを掬い取るように理恵は小さく首をかしげた。
「それは紳一の言い訳なんじゃないの?」
「言い訳だって?」
普段聞きなれない牧の苛立った声に理恵が思わず噴出す。
「ふざけるなよ!」
「ごめんごめん。そんな風に怒られた事もなかったなぁって思ったら思わずね。」
そう言うとようやく笑いを収める。
「やっと本音を吐いてくれたわね。この期に及んで皮肉な話だけど。」
目じりに浮かんだ涙を指でそっとふき取ると、長いため息をつく。
理恵の答えは簡単だった。
「あなたは「男を好きになった自分」を認められない。ううん、それだけじゃない。私と付き合っているのに他の人を好きになった自分が許せないのよ。」
声こそださないが、紳一の心が悲鳴を上げているのが聞こえる。でも止めるわけにはいかないの。
だって私がそばにいる限り、あなたは永遠に自分の心から顔を背けつづける。
動かない時計を握り締めながら。彼の面影を私に重ねて。
そうやって自分の気持ちを押し込めれば押し込めるほど想いはどんどん深くなるのにも気がつかずに。
「ねぇ、立って。」
「は?」
「ほら、早く立って目つぶってよ。」
怪訝そうな顔をする牧に理恵は同じ言葉を繰り返す。仕方なく牧は立ち上がると言われるがまま目を閉じた。
「これでいいか。」
小さく頷くと理恵は右手をゆっくりと牧の左胸につけた。
二人の間に訪れた沈黙。それを破ったのは理恵の方だった。
「性別なんて単なる器よ。こうして目をつぶってしまえば関係なくなるわ。」
その言葉に、牧の鼓動が早まるのを感じる。
ごめんね、紳一の事を責めてばかりで。
いけないのは私も同じ。
物分りのいい大人の女を演じてばかりいて、私は紳一の心の中に本気で入ろうとはしなかった。
ぶつかって出来る傷が怖かった。些細な出来事で紳一の視線がどこか別のところへ行ってしまうのが怖かった。
だから「いつの日か分かり合える」と言う言葉でごまかして、優しいふわふわした関係だけを必死に抱きしめていたの。
そう、抱きしめるばかりで私だって紳一に何もしてあげることは出来なかった。
だから、これが私の最初で最後の贈り物。
別れてあげる。
紳一が大好きだから、別れてあげる。
最初に少しだけ息を吐く。紳一が見てないのは分かっているけれど、なぜか自然と顔がほころんだ。
「自分の気持ちから逃げないで。私・・・いつだって紳一には前をちゃんと向いて歩いて欲しい。」
手を下ろすと牧のポケットから時計を取り出す。
時は止まったまま、ただ静かに立ちすくんでいた。
「何もかも止めとく訳にはいかないよ。この時計を動かすのは・・・紳一じゃないの?」
ふと視線を感じて振り仰ぐと、紳一の瞳の中に泣き出しそうな私が見えた。
情けない顔の私。でも、これが最後。
二度とこうして彼の瞳の中に私が映ることはなくなるのだ。
その瞬間、鼻の奥がジンとした。ぶわりと目頭が熱くなる。
でも、まだダメだ。まだ泣くわけにはいかない。
物分りのいい女を最後まで演じるのがせめてもの私のプライドだから。
そっと理恵は手を伸ばす。壊れ物の様に牧の頬を手で包んだ。
「誰が許さなくても、私が許してあげる。紳一がすることすべて。」
男の人を好きになったことも、私を捨てていくことも全部。
全部許すわ。だから・・・
視界と体が同時に揺れる。
そう思った時には、理恵は牧の胸に抱き寄せられていた。
息が出来ないほどきつく、そして強く。
「・・・・めん。」
耳元で囁かれる謝罪の言葉。切なくて、苦しくて、悲しくて。
でも本当の気持ちが泣きたいほど嬉しかった。
何度もこうして抱かれたはずなのに、初めて紳一を感じているような気がする。
紳一の匂い、私の何もかもさらっていってしまう魔法の唇。紳一のすべて。
きっと・・・忘れたくても忘れられない。
そう思った瞬間、足元から震えが来た。
ダメだ。これ以上こうしていたら、きっと私は愚かな女になってしまう。
すがり付いて泣きじゃくって、私を置いて行かないでと叫んでしまう。
全身の力を込めて胸元をゆっくりと押しやると、満面の笑みを浮かべて紳一を見上げる。
最後に残る私の記憶はどうか笑顔でありますようにと願いながら。
「さよなら。」
そう言うと理恵はくるりと背を向け歩き出した。
「理恵!」
背中を射る声に、息が止まる。
でも、もう振り向かない。もし振り返ったら、せっかくの決めた決心が音を立てて崩れていくのが分かるから。
だから、絶対に振り返らない。
手の平に爪あとが残るほどぐっと握り締め、理恵はただ前を向いて歩き続けた。
藤沢到着のアナウンスが流れる中、仙道はドアにもたれかかりながら流れる景色を眺めていた。
最終電車というのに、なぜかこの電車はいつも混んでいる。以前は全然気にも留めなかったが、久々に乗るようになって初めてそんなことにも気がついた。ウザったい気分に小さく舌打ちをする。
仕方がない。何もかも。
電車が混んでるのも、まだまだ外が寒いのも、行きたくも無いのに実家に帰らなきゃいけないのも。
そして・・・牧さんに会えないのも。
人込みに押されるようにホームに降り立つと、冷たい北風が頬を刺す。そんな風もお構いなしと、周りの人並みが一斉に改札に向かって動く。
ようやく仙道がコートを羽織った時には、もうホームには人っ子一人いなかった。
〔ダメだ。どうもこの風景は馴染まない。〕
そう心の中で呟くと、仙道は足取り重くホームを歩き始めた。俯きかけた視線の端に階段を捕らえる。
以前はもっと東京よりの場所に乗り込んでたんだが、今はもう少し後ろ側に乗っている。
乗りたくないのだ。あの場所には。
いつも牧さんの乗り込んでいたあの車両に乗ると、いやがおうにもあの階段の陰に降り立ってしまう。
あそこはあまりにも思い出が多すぎる。
こみ上げてくる苦い何かを、仙道は胸の奥でかみ殺す。
わざわざ試合を見に来てくれただけじゃない。あの日、確かに牧さんは俺に会いに来きてくれた。
俺だけに、会いに来た。あの牧さんが。
最初で最後になってしまったキス ―――
あの時、一瞬でも心が通い合ったと思ったのは錯覚だったんだろうか?
『俺の彼女だ』それが、牧さんの出した答えだというのに。
牧さんの隣に立つ綺麗な女。
『すげぇお似合いですね。』
3ヶ月前の自分なら何の迷いもなく手放しでそう言ってた。昔の俺なら。
「何だかなぁ・・・」
軽く横に首を振ると、仕方なく笑ってみる。
こうして笑う度に深く押し込めた感情が見えない力で揺さぶられ、引き裂かれ、真っ赤な血を流していく。
暗闇の中、視界に写るのは鮮やかな赤と、たった一度しか見た事のない人の顔。
牧さんの横で当たり前のように笑うあの人が、どうにもならないくらい憎い。
ただ、女だって事だけで無条件に受け入れられるのがたまんない。
生まれてこの方、初めて他人を羨ましいと思う。
――― 人、それを嫉妬と呼ぶ。
そんな人並みな感情が自分にもあったんだって事に、今更ながら驚いた。
無意識のうちに手はポケットをまさぐる。いつもある感触が、もうここにはない。
そうだ。牧さんに預けたままだっけ。思わず仙道は苦笑いをこぼす。
〔俺だけ残して時計だけ行くなんてなんだか理不尽だな。〕
忘れなくてはいけないなら、近づかないに越したこと無い。
そう分かってはいるのだが、まるで何かに取り付かれたように足はいつもあの場所に向かってしまう。
今日もまた同じだ。
そして、また誰もいないその場所で一人ため息をつかなくちゃいけないんだ。
嫌になるな・・・そう思いながら階段下へ足を踏み入れた時、そこにあるはずの無い影を仙道は見た。
「牧・・・さん?」
夜空を見上げていた牧がその声を受けてゆっくりと振り返る。久々に見るその顔はほんの少しやせたような感じがする。
でも変わらない。あの誠実なまなざしも、腕も、唇も。
「待ちくたびれたぞ。」
「なん・・・で・・・?」
あんなに会いたいと思ってたのにいざ目の前に現れると、喉に張り付いたように声が出ない。
それを見た牧はふっと笑うと、ためらうことなく仙道のほうへ近づいてくる。
そして呆然としている仙道の右手をつかみあげると、手の平に懐中時計を落とした。
表情を固まらせたまま、手に置かれた時計と牧の顔を交互に見比べる。
「まさかこれだけの為に待ってたんですか?」
「そうだと思うか?」
じろりと見上げる牧の目に不思議な色が浮かぶ。
「・・・いいえ。」
「お前に、聞きたいことがあって・・・待ってた。」
その言葉に仙道が目を見開く。その表情を受け止めると、おもむろに口を開く。
「・・・目、つぶれ。」
「はい?」
「いいからつぶれ。」
いきなりの命令口調に思わず問い返してしまったが、再度睨まれておとなしく目をつぶる。
「陳腐な質問でなんだがな・・・今、もしここで死ぬとして誰の顔を思い出す?」
目を瞑ったままの仙道が一瞬首を傾げるが、口元を緩めた。
「誰も思い出しませんよ。」
「誰も?」
期待はずれのあまりな返事に思わず鸚鵡返しに問い返すが返事はこない。
その代わりに、何度も自分に向けられた腕が、初めて自分の体に巻きつくの牧は感じた。
「だって・・・」
そっと囁く。抱きしめたぬくもりがどこにも行かないように
「思い出す必要なんて無いっすよ。今、ここにあるから。」
その返事に牧の体が強張るのを肌で感じる。その感触を少しでも長く感じたくて、目を瞑ったまま少しだけ力をこめた。
夢かもしれない。
初めて抱きしめた牧さんの体は柔らかいには程遠くて・・・抱きしめても跳ね返ってくるだけで。
だけど、触れて伝わるぬくもりが。伝わる鼓動が。温かくて、手放せない。
「牧さんの腕の中でこと切れるなら本望だな。」
「馬鹿か、お前は。」
牧の腕がゆっくりと伸びる。抱きしめられるその思いがけない力に、今度は仙道が固まる番だった。
「・・・理恵に逃げるなって怒られた。」
「誰からですか?」
「自分自身からだ。」
そう呟くと、牧はゆっくりと目をつぶる。
すべてから目をそらそうとしていた自分の弱さを力ずくで剥がしてくれたのは、誰でもない理恵だった。
逃げるなと。何もかも許すから、自分の思うがまま生きろと。
あの一言を言うまでどれだけ辛かっただろう。俺が気がつかない所でどれだけ泣いたんだろう。
最後呼びかけた時、振り返らなかった理恵の潔さに俺は誓った。
あんなことを言わせておいて、俺が尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。
この先どうなるかは分からない。それでも前に進むしかないならば、俺も言葉にして告げよう。
「・・・あいつも大切だったんだ。それでも何度も思い出すんだよ、お前の顔を。」
牧は言葉を切るとゆっくりと仙道を引き剥がす。澄んだ眼差しが自分を見つめるのを、まっすぐに受け止める。
「俺もお前が好きなんだって。仙道って奴が好きなんだって。やっと分かったんだ。」
「嘘・・・でしょ・・・」
どこか呆然とした表情で仙道が呟く。
どんなに願っても叶わない。気高くて、綺麗で絶対自分のものにならないって心のどこかで諦めてた。
諦めて自分の気持ちに折り合いをつけていたのだ。
「信じらんねぇ。」
熱くこみ上げてくるものを堪えきれない。仙道の肩が大きく揺れた。
少し怒ったように顰める眉も、子供のように揺れる瞳も、すべてが大切でいとおしい。
時折見せるお前の弱さがこんなにも俺を惹きつける。その事を多分お前は知らない。
知る必要もない。俺だけが知ってればいい事だ。
小さく笑うと、牧は額と額を合わせるように軽く仙道の頭を寄せた。
「信じられないなら、何度でも言ってやるよ。俺もお前が好きだ。」
「俺も・・・」
見下ろす仙道の瞳が揺れる。視線を合わせて、牧はそっと唇を寄せた。
触れるだけのキスはあの時と同じ。あっという間に仙道が激しいキスへと変えていく。
唇に歯を立られて思わず開いた唇に仙道の舌が忍び込んでくる。
「・・・ん・・・」
甘い吐息が唇からするりと漏れ落ちる。
深く貪られ絡めあった舌先からは痺れるような電流が走る。それは記憶の奥底に眠るものと同じ。
コートの上でしか味わえないあの感覚が沸々と牧の体に蘇り、激しい眩暈に襲われた。
この先、自分たちは一体どこへ行くのだろう?
周りを傷つけ、それでも離れられない俺たちは。
目に見える確かなものは何一つ無くて、いくら探しても答えが見つかることはないのかもしれない。
「仙道・・・」
吐息を感じる距離でもう一度囁く。
「はい。」
「一緒に・・・行くか?」
どこまでも、共に。答えの無い長い旅路に。
その問いかけに、仙道は小さく笑う。幸せに満ちたその笑顔を惜しげもなく晒して。
「どこまでも。」
どこまでも一緒に。出来るなら死が二人を別つその時まで。
二人の影がもう一度重なった。
「そういえば、その時計。止まってんだよ。」
人気の少ない駅構内を並んで歩いていた牧が、思い出したように仙道に告げる。
「あぁ、これ・・・巻かなきゃ二日ももちませんからね。でも、すぐに動きますよ。」
ちょっと待ってくださいね・・・そういって懐中時計を取り出した仙道が、時計を見つめたまま動きを止めた。
「どうした?」
訝しげに聞く牧に仙道は顔を上げる。
「いや・・・なんか、動かしたくなくなっちゃって・・・。」
そういって照れているのか何となく苦笑いを浮かべている。
時が止まることは無い。昔じいさんが言った言葉が蘇る中、仙道は思わずにはいられなかった。
このまま鍵をかけて、時間を止めて、ここから動けなくなってしまえばいいと。
今この瞬間が現実と分かっていても、不安になる。
この時計が動いた瞬間、何もかも砂のように崩れてしまうような気がして ―――
「なら、俺に教えろ。」
「は?」
「お前が動かしたくないって言うなら、俺が動かしてやる。」
自信たっぷりに言って手を差し伸べる牧を仙道はまるで初めて会う人のように見つめ返した。
一緒に歩くと言っただろ?言葉にならない声が聞こえたような気がした。
そうだ。これも牧さんなんだ。
自分の信じる事に突き進む強さは誰にも負けない。
幸せすぎて、臆病になってしまったのはどうやら俺だけみたいだ。
仙道はポケットに入れていたバネ巻きを取り出すと時計と共に牧に手渡す。
「ここを押して・・・そう、で裏を開いたら、ここに棒を差して・・・」
仙道の指示を受けながら牧がバネを巻き上げていく。
「これでいいか?」
仙道がうなずくのを確認して、元の状態へ戻すと自分の時計を確認して時間を合わせる。
カチッ、カチッ・・・規則正しく動き始めた時計を牧と仙道はじっと見下ろした。
動き出した時計はこれから先の俺たちの時間を刻み続けていく。
その規則正しい音色と共に。
「帰るか?」
「牧さん、俺・・・電車終わってるんですけど・・・」
「・・・しょうがねぇなぁ。」
ため息交じりの牧の声に、仙道の笑いがかぶさる。
「まだまだ夜は長いっすよ」。
「そう言われればそうだな。」
牧は軽く顎をしゃくって階段の方へと仙道を促す。いつも別れるその階段を、この日初めて二人で並んで降りていく。
――― それじゃまた。
――― あぁ、また来週な。
その言葉は、二度と口にされることは無くなった。
* Fin *
|