Ring
作者:やんまさん



JR横浜駅。
一日の乗車人数が数万人とも言われるこの神奈川県内随一のターミナルステーションは、夜の8時を過ぎてもまだまだ人で賑わっている。
そんな中、人より頭一つ以上飛びぬけた一人の青年が足早に東海道線下りホームへと向かっていた。
黒のスタンダードな学ランの上にファーの付いたダークブルーの皮コート。重力に逆らうように立たされた髪型に、端正な顔立ち。
ヘッドフォンからかすかに聞こえるアップテンポな曲に軽くリズムを取りながら歩く楽しげな姿に近くの女の子達が嬌声があがる。
そんな声に立ち止まりこそしないが愛想良く軽く笑顔で応えると、階段を2段飛ばしずつで飛ぶように下りていった。
彼の名前は仙道彰。鎌倉にある陵南高校の2年生だ。
「よっと。」
ホームに降り立つと中ほどに掲示されている乗車案内の電光掲示板に目をやる。
ずらりと並ぶ乗車案内の中に、一つだけ赤い文字が表示されている所を見つけた。それはここ横浜駅始発の下り列車があると言うことに他ならない。
夜の8時を過ぎたとは言え、まだまだベットタウンに向かう下り電車はかなり混雑する。横浜から乗換駅の藤沢までおよそ20分。
たいした距離ではないが普段あまりそういう電車に乗りなれていない仙道にしてみれば、出来るだけ避けられるもんなら避けたいって所が本音だ。
発車まであと20分・・・。
〔・・・急ぐ訳でもねーし、待つかな。〕
ほとんど迷うことなく決めたかと思うと、くるりと踵を返して始発電車の待つホームへ移動した。


車内は外の寒さとはうって変わってむっとしている。仙道に言わせて見れば無駄に暖房しているような感じがするが、そうは言っても仕方が無い。
首筋に手を当てながら軽く顔をしかめるとコートを脱ぎながら辺りを見回してみる。
発車時間まで少しあるせいか、思ったより席は空いている。
さて、どの席に座ろうか・・・そう思った仙道が再度ぐるりと視線を一巡したその先に飛び込んできたのは・・・目にも鮮やかな白。
通り過ぎた意識がぐぐっと引き戻されて、その一点にギュッと集中する。二回、瞬きをしてから小さく息を呑む。
〔・・・間違いない。〕
ざっくりとしたニットの白いセーターが浅黒い褐色の肌によく映える。軽く窓枠に肘を乗せ、頬杖をしながら何か真剣に読みふけっているその精悍な顔立ちは、
仙道の知っているあのコートの上とは違って酷く物静かな雰囲気を漂わせている。
さて、声を掛けようか・・・どうしようか・・・?
その穏やかだけど人を立ち入らす事をやんわりと拒否している空気に、どうするべきか一瞬次の行動を迷いかける。
その仙道の気配に気が付いたのか、視線の先のかの人がふと面を上げた。
ゆらりと空気が動く。少し険しかった表情が緩むと、驚いた様子も無く口元に笑みを浮かべたまま軽く手を上げた。
「おう、久しぶりだな。」
先に見ていたのは自分の方なのに声を掛けてもらうなんて酷くばつが悪いが、こうなってみると今更どうする事も出来ない。
「お久しぶりです・・・牧さん。」
照れ隠しも含めて軽く頭をかくと、牧のいる方へ大またで歩み寄った。


牧紳一・・・バスケをやっているものならその名前を知らないものはいない。
夏のIHで全国2位という輝かしい成績を残した神奈川県きっての強豪校海南大付属高校の元キャプテン。仙道より一つ年上の高校三年生だ。
「帝王」と称された牧の持ち味はスピードとどんな選手とも当たり負けしないパワー。バスケの選手としては決して背の高いほうでない彼だが、一歩も二歩も先を考え勝つ為の方程式を冷静沈着に遂行するその姿はマッチアップをした事のある仙道にしてみれば脅威に近い。ついでに言うと、帝王と言われる所以はそれだけではない。
真面目で誠実な人柄、人を率いる統率力などリーダーとなる資質を兼ね備えた牧には監督や部員からの信頼も厚い。
国体選抜やジュニアユースでも常に当然のようにキャプテンマークをつけるのだが、それが決して嫌味ではない。
実際彼の右に出るほどの男はそう他にはいなかった。それが現実だ。
それに対してこの夏にキャプテンになった仙道は天才肌のプレーヤーとしてその名を県下に轟かせはするものの、如何せん牧と違って生活態度に問題がある。
遅刻・サボりの常習犯でもある仙道の態度を少しでも改めさせる為に、この夏から責任のある「キャプテン」と言う責務を負わされたのだが、当の本人と言えば「俺がやらなくても誰かがやるよ」とばかりにのんびりとした調子だ。
お陰さまで何度も田岡監督に「海南の牧を見習え!」と怒られているのだが・・・それは仙道にしてみればもう聞きなれた小言の一つになっていた。
仙道だって知っている。そう、彼は「BEST」だ。少なくともバスケのプレーヤーとしては。
学校も違う、学年も違う。バスケ以外の接点がない仙道にしてみれば正直な話それ以上もそれ以下もない。
あのコートの上でみる牧が、仙道の知る全てだ。
勝負に対しては情け容赦なく貪欲な牧・・・。
少々の事では動じない自分が、あの夏、あのコートの上で牧と対峙した時、生まれて初めて肌があわ立ったのを確かに仙道は覚えていた。
獰猛で、かつ冷静な漆黒のピューマ。例えてみればそんな感じだろうか?
でも、それはあくまでもコートの上での話だ。まさか牧という男の全てがコートの上だけで見えるとは思ってはいない。
恐らく彼の一番核となる資質ではあるにせよ、そのイメージだけで彼を決め付ける気にはさらさらなれない。
だからだろうか?
コートを降りても同じチームメイトから絶対的な信頼・・・いやまるで神様を崇めるように別格扱いをされている牧の話を聞くといつも妙な違和感を感じた。
なんだろう・・・?しばらく考えて出た答え。それは一言だ。
――― 疲れねーのかな?
何処でもかしこでも『帝王』なんて、俺ならやってらんねぇ。
自分には出来ない事を何の気負いもなく行う牧に対するそれが仙道の最初に持った感想だった。


コートとドラムバックを網棚の上に投げ込んで、薦められるままに牧の向かい側に座る。
「随分寒くなりましたね。」
会話の常套手段は天気の話からとばかりに仙道の方から切り出してみる。
「もう11月も半ばだからな。」
クスリと笑うと、牧は少しだけ上にある仙道の顔をじっと見つめる。
「それよりお前、こんな時間に何でこんな所にいるんだ?」
「その質問、そっくり牧さんにお返ししますよ。」
にこやかに答える仙道にうまく交わされた感じがするのを否めないが、根が真面目な牧にしてみれば問いかけられた質問については答えなくてはなんとなく気が済まない。
「・・・俺は予備校の帰りだ。」
たった今まで見ていた参考書を閉じると脇においていた小さなディバックにしまいこむ。仙道はその仕草をじっと見つめていた。
「・・・本当だったんだ。」
「なにがだ?」
「牧さんが推薦じゃなくて一般入試で外部受験するって話。」
なんともいえない神妙な顔つきでそう言葉を繋ぐ仙道に、牧は沈黙で先を促す。
バスケの選手としてその才能を高く買われ、それこそ1年生の頃から牧の元には大学、社会人問わず多くのチームがオファーを申し込んできていた。
そんな牧がバスケの推薦でなく一般入試で大学を目指すと言う話はまだ公になっていないはずだった。
それをなぜ他校の仙道が知っているのか―――
その疑惑が牧の顔にありありと浮かんでいたのだろう。小さく苦笑いを浮かべた仙道が降参とばかりに話し始めた。
「・・・ほら、秋の国体合宿があったじゃないですか?あの時、神が言ってたんですよ。」
「神が?」
「えぇ、『牧さん、バスケやめちゃうみたいなんですよね』って。」
ピクリと反応した牧に気が付いたが、仙道はそのまま正直に答えた。
「アイツ、珍しく寂しそうでしたよ。」
「そうか・・・」
少しの戸惑いを滲ませて、牧は小さく呟いた。
ふと、いつでも温厚で穏やかな笑みを絶やさない一つ年下の後輩の顔を思い出す。神がなぜ他校の生徒でもある仙道にそれを告白したかは分からない。
国体に参加していたあの時点では神にはまだどうするかと言う事も話していなかったのだが、敏いあいつの事だ。恐らく俺の些細な行動から何かを感じ取っていたのかもしれない。
寂しそうか・・・それを言った神の顔を頭の中から押し出すように緩く頭を振った。
「バスケを辞めるわけじゃないんだがな。ただ、他に目指したいものがあるからこういう選択をしただけだ。それだけなんだがな・・・。」
そう言うと牧は窓の外を見ながらうんざりとしたため息をついた。整った横顔に浮かぶ憂いの表情。
なんとなく言葉尻がにごってしまうのは、そう思う牧の思惑とは裏腹に色々周りがうるさいからなんだろう。
そう、なまじ周囲の人々の期待に応えていた人だからこそ、その反発は予想以上に大きいはずだ。
立場は違えど、その周囲からの情け容赦ない期待を背負わされているのは仙道も同じ。気持ちが分からない訳ではない。
だからこそ、他の人には理解できなくても分かる事もある。少しふて腐れた表情でそっぽを向いている牧に、なんとも言えない親近感が湧いてくるのを仙道は感じ取っていた。
この人も、同じなんだ。帝王でもない、神様でもない。
絡みつくしがらみにため息をついたり、うまくいかない事に腹を立ててみたり・・・。
仙道にしてみれば、轟然としたコートの上の牧よりもふて腐れている牧のほうがよほど人間味があっていい感じだ。


「いいんじゃないんですか?別に。」
さらりと告げられた言葉に外に向かっていた牧の意識が仙道の方に向けられる。その強い視線を感じながら微笑みかけた。
「牧さんがいいと思って決めた事なんでしょ?だったらいいじゃないですか。文句なんて言わせとけばいいんですよ。」
その言葉に牧がゆっくりと目を見開く。何か言おうとして口を開きかけるが、そのままぐっと飲み干し、険しい表情を浮かべたまま視線を落とした。
何かを考え込む様にじっと黙り込んだその仕草に、仙道は軽く首を傾げた。
あれ・・・何かまずい事言ったかな・・?生の牧に触れた様な気がして、ついいつもは言わない本音をポロリと漏らしてしまった事を今更ながら思い返す。
真面目な牧にしてみれば、いい加減なこと言うなって思ったのかもしれない。
やべーよ・・・慌てて何かフォローを入れようとしたその瞬間。
――― 笑った?
強張った表情がほどけると、軽く目を閉じた牧の顔にゆっくりと穏やかな笑みが浮かび上がる。
猛々しいコート上でのむき出しの笑顔でもなく、誰かに話しかけて満足げに頷く笑顔でもない。
まるで雪の結晶のように手を差し伸べたらその場で消え去ってしまうような儚い微笑。
とても ――― 綺麗だった。
男に綺麗なんて表現、おかしいと分かっていてもそれしか思い当たらない。
〔は・・・反則だよ!〕
仙道が知るどんな表情とも違う、あまりに普段と落差のあるその表情に何故か耳の後ろが熱くなる。
目が離せないし、意識がそこから動こうとしない。指一本、動かす事が出来なかった。
「仙道・・・」
「・・・はい」
突然の呼びかけに、搾り出すように返事をする。
そんな仙道のいつもと違う様子を気に留めることもなく、顔を上げた牧は何か言おうと口を開きかけた。
その瞬間、発車のベルが鳴り響いた。その非常識なほど耳障りな音に、顔をしかめた仙道の耳に届いたのは
――― ありがとう。
小さいけれど、低くて張りのある声。芯のあるその声が仙道の強張った心と体にじんわりと染み込んでくる。
手を軽く握り締め、不自然にならないよう小さく呼吸を繋ぐ。
「どういたしまして。」
そう言って、少しだけ笑った。


藤沢までの20分、牧と仙道はたわいのない話を続けていた。
バスケの事、学校の事、自分自身の事。試合の時はもちろんの事、国体で同じチームになった時だってお互いの周りにはたくさんの人がいてこんな風に話すことは一度もなかった。
それでも、こうやって向かい合って話してみるとまるで旧知の仲のようにすんなりとお互いの話題に溶け込めた。
それは、相手に合わせる必要がない・・・まるでパズルのピースがうまくかみ合うようなそんな自然な感触だった。
「次は〜藤沢〜藤沢〜」
車内案内が流れると、周りの人垣がざわりと揺らめく。そのアナウンスを受けて牧も仙道もコートと鞄を小脇に抱え人波に乗ってホームに降り立った。
暖かい車内からいきなり外に出た体に冷やりとした空気が纏わりつく。人混みを避けるようにホームの脇に寄ってコートを羽織ると、足早に改札に向かった。
「そういやお前、家はどこなんだ?」
「学校のすぐ近くですよ。ここから江ノ電です。牧さんは?」
ポケットをまさぐりながらようやく見つけた切符を改札機に入れると後ろにいるはずの牧に同じ様に問い返す。
「俺はここから歩いてすぐだ。」
「海南は寮じゃないんですか?」
スポーツの名門校として名高い海南の運動部の部員はほとんどが全中で活躍した選手がスカウトされてやってくる。
それもあって、ほとんどの選手が実家を離れて寮生活を送っているのは有名な話だ。
「自転車で30分の距離で寮に入るほどうちは裕福じゃないんでな。」
牧は笑いながらそう答えると、手馴れた調子で改札を抜けた。
JRの改札を出て牧はすぐ近くの階段を下りて自転車置場に、そして仙道は江ノ電に乗るために歩道橋の方へ進む。
「じゃあ俺はこっちだから。」
牧が親指で階段を示すのを仙道は軽く頷く。じゃあな・・・そういって階段を下りようとした牧の背中に凛とした声が投げ掛けられる。
「じゃあ・・・また来週。」
「え?」
放たれた言葉に思わず立ち止まって振り返る。そこにはコートのポケットに手を突っ込んだまま楽しい悪戯を思い付いたかのように笑っている仙道がいた。
「おい、来週って・・・?」
どちらかと言うと堅物でとっつきにくいというイメージをもたれがちの牧の大人びた顔がクルクル変わるのがたまらない。
もう少しそんな顔を見ていたいのだが、とりあえず種明かしを始める事にする。
「俺、実は毎週月曜日東京の実家に顔見せに帰ってるんですよ。」
「実家?なにお前1人暮らしなのか?」
「そーですよ。」
そう言うと仙道は軽く肩をすくめた。
田岡監督のスカウトで東京の実家を離れて一人暮らしを始めたのは高校に入ってすぐの事。
寮のない学校側の事情を知った家族が進学するに当たって出してきた条件、それが体育館の休館日に当たる月曜には必ず顔を見せに実家に帰ると言う事だった。
「それはそれで大変だな・・・」
「そうですねぇ。」
説明を受けてまるで自分の事の様に難しい表情を浮かべる牧に対し、仙道はと言えばまるで他人事のようにすました顔で答えた。
慣れたらそんなものなのかもしれない。
しかし仙道だって全国にはまだ行ってないにしろ、県内では強豪チームとして数えられる陵南のレギュラーだ。
毎日の練習はかなりハードな物だろうし、唯一の休館日も東京を往復するなら休みにもなりゃしないだろう。
「じゃあまた来週も帰るのか?」
ほとんど哀れむように眉間にしわを寄せてそう問いかける。
「多分そうするつもりです。牧さん、普段からあの電車に乗ってるんでしょ?」
「そうだが?」
「じゃ、来週また俺もあの電車乗りますから席とって置いてくださいよ。折角の休みも電車を乗り継いでご機嫌伺いに行かなくてはいけない俺を可哀想だと思うんでしたら。」
笑ったまま変な取引を持ちかける仙道に、牧はようやくいつものペースを取り戻す。
「可哀想でもなんでもないがな。まぁ、年上のよしみとしてコーヒー一本で考えてやるよ。」
「了解しました。」
おどけた調子で軽く右手を掲げ敬礼のポーズを取る仙道をふっと鼻であしらう。
そのこっぱずかしいポーズも妙に人好きのするこいつがやるとなんとなく様になるんだから、得してるよなぁと思わず考える。
(俺がやったらみんなぶっ飛ぶだろうな・・・)
自分のいかつい顔でこのポーズを取った時に皆が一斉に引くのが目に浮かんでつい笑ってしまう。
「じゃあ、また来週な。」
笑顔を浮かべたまま再び牧が軽く手を上げて階段を下りていく。その後姿を見送りながら仙道は一人ほくそえんだ。
毎週一度実家に顔を出さなくてはいけないって事は嘘じゃない。嘘ではないが、正直な所守ったことなどほとんどないのだ。
今日はたまたま用事があって帰っただけ。
いつもは終電までだらだらいてもっと遅く帰るのだが、今日は偶然早く出てきてしまったのだ。
そして・・・飛び乗ったあの電車で偶然牧に会った。そして多分偶然に「素顔の牧」に触れることが出来た。
偶然が偶然を呼んで・・・そして小さな奇跡を起こす。
――― もう少し話をしてみたい。
頭の中で囁かれた小さな願いに引きずられるように全然予定もないのに来週も帰ると牧に告げてしまった自分。
頬を撫でる冷たい北風にふと我に返る。
どちらかと言うと牧みたいなお堅いタイプは苦手だったはずだ。それなのに、そんな牧ともう少し話がしたいなんて・・・。
どうして・・・そんな事言っちまったんだろう。
何の気なしにふと空を振り仰ぐ。ビルの谷間に数えるほどの星が瞬いているのが見えた。
本当はこの空一面無数に星が輝いているはずなのに、町中のネオンや明かりのせいでほとんど見えない。
見えるはずなのに見えない。そこにあるはずなのに気が付かない。
それは星だけなんだろうか?
答えは、出なかった。


約束なんて確かな物ではないにせよ ―――
毎週月曜日の夜、予備校帰りの牧が先に席を取っておいて、後から仙道がやってくる。
いつしかそれが暗黙の了承となっていた。


「今日は新製品、プレミアムコーヒーにしてみました。」
いつもの定位置に向かうと、仙道は持った缶を軽く上げて振り回す。
「お、偉いぞ。」
牧が満面の笑みを浮かべて嬉しそうにコーヒーを受け取る。仙道が座るのを見届けるとプルタップを開けて威勢良く飲み始めた。
それは景気のいい飲みっぷりだ。オイオイ、あれで味がわかるのかぁ?目を白黒させる仙道を尻目に
「んー、うまいな。さすがプレミアムだ。」
喉の奥まで見えるような豪快な笑顔を覗かせる。こうして会うようになって色々な牧の表情を見るようになったが、この顔が何気に仙道は気に入っている。
笑うと顔がくしゃりとして、人懐っこい表情になるのだ。
「・・・冗談ですよ。ちゃんとラベル見てくださいよ。」
「え?」
何を言われたのか分からないと言った様にきょとんとした顔を見せる牧に、仙道はコーヒーのラベルを見せる。
よくよくみてみると手にしているのは馴染みのメーカーのいつものコーヒーだ。ただ、冬季限定と言う事でラベルデザインがちょっと違うだけ。つまり、中身は一緒だ。
「お前なぁ〜」
「牧さん、おかしすぎ。」
恥ずかしさも手伝って声がいつもより何層倍も低くなって唸る牧を尻目に我慢しきれないとばかりに仙道は笑い転げた。
ようやくその笑いが収まった頃、牧が思い出したように窓の外を覗き始める。何かをきょろきょろ探しているようだ。
「牧さん、何やってんですか?」
「いや・・・ちょっと時間をな・・・。」
「時間ですか?」
怪訝そうな表情を浮かべたままふと牧の左腕に視線を落とす。そう言われてみればそこにいつもはめられているダイバーズウォッチが今日は見当たらない。
その視線に気が付いた牧が照れくさそうに左手首をさすった。
「いや、急いで時計を忘れてしまってな。」
「あぁ、そうなんですか。ちょっと待ってくださいね・・・」
仙道は学ランの右ポケットをごそごそし始めると鈍い輝きを放つ何かを取り出した。手にしたものは明らかに年代物の古い懐中時計。ちらりと視線を落とすと、
「えっとですね・・・もうすぐ8時15分ですよ。」と答える。
しかし牧の視線は答えた仙道自身ではなく、手の中に納まっている懐中時計に注がれている。
「なに?物珍しいですか?」
不躾な視線も気にせずにどこと無く嬉しそうな顔をすると、懐中時計から伸びるチェーンの部分を掴んでだらりと宙に放つ。
車内の明かりを受けて鈍い光を放つそれは、ニッケルメッキのボディにシンプルな時計盤を有している。
いかにもクラッシックな感じで年代物なのは分かるが、牧が思わず目を留めたのはそれだけではない。
小首を傾げてしばらく時計を見つめていた牧がふと顔を上げるとそこにあるのはニヤニヤした仙道の顔。
「・・・俺に似合わないって、よく言われますよ。」
まるで思った事を見透かしたように答えると、いきなり空いている手で牧の手を取り上げた。
「お、おい。」
「どうぞ。別に壊れませんから。」
そう言うと持っていた懐中時計を牧の手のひらに落とした。
最初こそ驚いた牧だったが、せっかくのチャンスと思ったかそっと時計を持ち上げると表裏としげしげと眺めはじめる。
何の気なしに見ていた牧の顔つきが触ってるうちにどんどん変わってくる。そんな変化を仙道は面白そうに眺めていた。
遠目で見たときには分からなかったが、時計版にもうっすらと美しい文様が刻まれている上に、銀色のケースの部分にも洒落た装飾が施されている。
年代を感じさせる中に持つ人を選ばせるような気品と風格が確かにそこにはあった。
「なんかこれ・・・すげぇいい奴なんじゃねーの」
コクリとつばを飲むと搾り出すように感想を述べる。その素直な反応に仙道は満足げに頷いた。
「これ、俺のじい様の形見なんですよ。かれこれ80年位前のものらしいんです。」
掌に置かれた時計を裏側にすると、とある場所を指で示す。そこにはかなり擦れていて読み辛いが確かに1923年とかかれていた。それを見て牧がピュッと軽く口笛を吹く。
「凄いな。それでもちゃんと動くんだろ?」
「まぁ、そうですね。ゼンマイ仕掛けなんでちゃんとねじを回しておかないとすぐに遅れたり止まったりしちゃいますけど。」
「それじゃ『ちゃんと』動いてるとはいわねぇけどなぁ。」
そうなんですけどねぇ・・・頭をかきながら照れ笑いを浮かべた。牧は小さくお礼を言うと、仙道に時計を手渡した。
「皆にもいい加減新しい奴にしろよとか、おっさん臭いとか言われるんですけどね・・・その方が多分時間が遅れるのも止まっちゃうのも気にしなくて良くなるし、安心して使えるのも分かってはいるんだけど」
ふと言葉を区切ると、視線を時計に落とした。じっと見つめる仙道の瞳にいつになく優しい光が浮かぶ。
「それでも、俺どんな時計よりこの時計がいいんですよ。使い勝手が悪くても、ちょっとおんぼろでも、俺にとってはこれが一番しっくり来るんです。」
「あー、でもなんか分かる気がするぞ。」
「え?」
その思いがけない牧の反応に仙道は内心の動揺を隠したまま聞き返す。
「いや、なんか今の時計って全然音がしねーじゃん?俺、昔からあの時計がカチッカチッて動く音が・・・うーん、うまく言えないけどちゃんと時間が過ぎてるって確認できて好きだったんだよなぁ。」
なに言ってんだよ俺・・・苦笑いを浮かべて頭をかいている牧を仙道は瞬きもせずに見つめ返した。

詳しい説明なんて要らなかった。
牧が何をいいたいのか、それ以上聞かなくても理解できる。
だってそれは俺がずっと抱いていた思いと同じだったから。
まさか、同じ事を言ってくれる人がいるとは思わなかった・・・。





* * * * *




それはまだ仙道が幼かった頃。
理由はわからないが、頻繁に夜中に目が覚める時期があった。その頃からすでに自立するようにと1人の部屋をあてがわれていた仙道の周りには当然誰もいない。
大きなベットに高い天井、広い部屋にキンと強張った空気。光も音もないその世界は、時間も何もかも止まっているように感じた。
そしてふと思うのだ。
もしかしたら、ここは僕の部屋じゃないんじゃないか?
1人で何処かに吸い込まれて何も無い世界に行ってしまったんじゃないか?
暗闇の中に宿る潜在的な恐怖に襲われると、小さい仙道にはどうにもならない。
目を閉じても開けても暗闇の中、何か確かなものが欲しくて布団をかぶってみたり、自分を触ってみたりする。
そうして自分で自分を抱きしめながら、眠れないまま夜を過ごすのだ。
理屈じゃない闇の中の恐怖を少しでも分かって欲しい。
幼い仙道は拙い言葉を紡いで必死に両親に伝えようとするのだが、誰もが笑って聞いてはくれない。
――― ばかねぇ。彰は大きくなってもまだそんな事言ってるの?
今ならそういわれるのも良く分かる。でも、その時の仙道はその一言に酷く傷ついた。
誰もわかってくれない。
そんな思いに打ちひしがれる中、唯一仙道の事を理解してくれたのが父方の祖父であった。


――― 彰、いいものやろう。
――― なぁに?
――― 目をつぶって、手を出してごらん。
言われた通りに目をギュッとつぶると両手を差し出す。しばらくすると、手のひらに何かひんやりとした物が置かれた。
――― 明けてもいいぞ。
祖父の了解の元、恐る恐る目を開いた仙道の目の前にあったのは、祖父が大事にしていた懐中時計。
祖父のポケットには必ずこの時計が入っていて、いつだってこれは祖父と共にあるものだった。
――― じーちゃん、これ僕にくれるの?
ビックリした表情で聞く仙道に向かってゆっくり頷くと、目線を合わせるように小さく屈みこんだ。
――― 彰。これを耳元に当ててごらん。
言われるがままに耳元に当てると、チック、タックと規則正しい音が優しく耳元で響く。
――― 音がするよ。
――― そうだ。これからな、夜中にもし目が覚めて怖くなったらこの時計を耳元に当てるんじゃよ。目をつぶって、この音をじっと聞いていれば大丈夫。怖いものなんかありゃしないぞ。
――― そうなの?
――― そうとも。この音が60回なったら1分経って、それが60回続くと1時間経つ。そうやって確実に時は流れるんだ。どんなものだって、どんな事だって、時が経てば変化する。
      所詮終わりの無い闇なんてもんは無いんだよ。だから大丈夫だ。分かるか?
――― ・・・わかんない。
――― そーか。ちょっと難しかったかな。
しわくちゃな手を頭に置いて髪の毛をくしゃりとまぜる。そこにあるのは暮れなずむ夕焼けを背にした祖父の優しい笑顔だった。


それから眠れない夜が来ると、仙道はその懐中時計を耳元に当てた。
目を閉じてチクタク、チクタク、規則正しく時を刻むその音に少しずつ自分の鼓動を、意識をシンクロさせる。
すると不思議だ。あんなに怖かったはずの暗闇も気にならなくる。
宙に浮きそうになる自分の意識がこの音で引き戻され、確かな歩みをもたらしてくる。
終わりの来ない夜は無い。この音が鳴り響く先には必ず朝がやってくる。
だから大丈夫。きっと僕は大丈夫。
それから、仙道が暗闇の恐怖に悩まされる事は無くなった。
どんな瞬間だろうと、時間は必ず流れてる。
時計が奏でる規則正しい音に、時を刻む度に小さく震える振動に、正確無比な針の動きに・・・目に見えない時の流れを五感を通して感じさせてくれる物。
それが仙道にとってこの懐中時計だった。


越野には「こんなしょっちゅう遅れる時計持ってるからお前は遅刻すんだ!」って散々怒られた。
昔の彼女に「どうして私のあげた時計、着けてくれないの?」ってケンカ越しに聞かれた時、正直に「音が聞こえないから」って言ったら思いっきり叩かれた。
それ以降、俺はこの時計の事を尋ねられてもいつも笑って誤魔化すようになった。
別に誰に分かって欲しいわけでもない。いちいち説明までしてこの時計を持っている理由なんて話す気にもなれなかったし、それを伝えたいと思う相手にもめぐり合わなかったから。
でも、牧さんだけには分かるんだ。
この時計が存在する意味が。
それが嬉しい。何も言わなくても分かってもらえるのが嬉しい。
たくさんの人との出会いの中、見つかるわけ無いといつしか諦めていたものが、今ここにある。
その奇跡に仙道は感謝したくなった。


「おい、仙道どうした?」
訝し気に呼びかける牧の声にふと我に帰る。
「あ・・・いや、俺も。・・・俺もそう思ってたんです。」
「あ、そうなのか?いやぁ、この話で同意してくれる人がいるとは思わなかったぞ。」
しどろもどろで答える仙道に不信がる様子も無く、何でもなさそうな声で笑うと頭に手をやる。
色んな思いが渦巻く中、何かを言わなくてはと考えるがうまく言葉がつながらない。
結局仙道は微笑みながら時計をポケットにしまいこんだ。
「でも・・・。」
「ん?」
「この懐中時計もいい加減寿命かもしれないんですよね。」
ポツリとそう仙道が呟いた言葉に牧の表情が曇る。
「そうなのか?」
「なんか・・・イマイチ調子が悪いんですよ。」
元々毎日ネジを巻いても2分程度は遅れてしまうのだが、最近はそれがとみに酷い。
その上、ネジを巻く時にギリギリきしむような音がする様にもなってきたのに仙道は気が付き始めていた。
懐中時計は本来とてもデリケートなものでこまめな手入れが必要だ。しかし、幼い内に譲り受けた仙道は手入れの仕方などほとんど知らない。
そのせいもあって、祖父が死んでしまった5年前からはほとんど何もしていない状態が続いていた。
何とかならないかと近所の時計屋に持って行ったこともあるのだが、アンティークの懐中時計を手入れするほどの技術を持っている店はもうほとんど残っていない。
結局皆新しいものを薦めてくるだけで、見向きもしてくれないのが現状だ。
分かってはいるのだが、やはりため息が出てしまう。
仙道の中にしかないこの時計に刻み込まれた祖父との優しく儚い遠い記憶。恐らくこの時計が止まるまで・・・いや、止まったとしても手放す事は出来ない。
どんな高級時計だろうがこの時計の代わりには決してならないから。
でも、このままでは確実に動かなくなるのは火を見るより明らかだ。
どうしたらいいのか・・・ちょっと頼りなさ気な小さい言葉に牧は何か迷う風に顎に指をのせていたが、やがておもむろに顔を上げた。
「それ、手入れしてもらえるか聞いてみてやろうか?」
「は?」
「いや・・・実は俺の家の隣が3代続いている時計屋でな。確かお店にそんな時計とかも置いてあったんだよ。置いてある位なら手入れも出来るかも知れないし、もしそこで出来なくてもやってくれそうなところ知ってるかもしれないぞ。」
そう言いながら牧はしたり顔で頷いた。
「いいんですか?そんな面倒くさい事頼んで。」
考えもつかなかった展開に、思わず仙道の声が上擦る。それを牧は軽く受け止めた。
「いい時計じゃないか。ちゃんと手入れさえ出来ればまだまだ使えると思うぞ。大切な時計なんだろ?それ・・・。」
その言葉に・・・息が、止まるかと思った。牧の紡ぎだす飾らない、ありのままの言葉が仙道の中で小さな音を立てる。
頼むから・・・そんな言葉、さらりと言わないで欲しい。
どんなに俺がその言葉を欲しかったのか知らないくせに。
俺の中を笑いながら踏み込まないで欲しい。
そんな事されると ――― もっと、もっとと期待したくなるから。
答えを返さないまま小さく疼く胸の痛みに目を背けるように、仙道は窓に顔を向けた。ガラス窓に映る自分の姿がなんか頼りない。
牧の笑顔が、言葉が、酷く堪える。
嬉しいのに、辛い。相反する想いが嵐のように駆け巡るのをじっと目をつぶって堪えた。


「休憩入りまーす!」
喧騒と熱気の中、マネージャーの一声で体育館の空気が一瞬にして緩む。
その声を受けて、仙道は一人足早にコートを離れる。肩で息をつきながら壁際に寄るとひんやりとした床に直接座り込んだ。
うつむいた自分の顎から一筋の汗が床にたれ落ちる。それをぬぐうこともなくじっと一人見つめていた。
「ほら、タオル。」
投げやるような声が頭の上から声がかかったと思うと、ばさりとタオルが落とされる。少し乱暴に聞こえる声が誰なのか、仙道は見なくてもすぐに分かる。
「サンキュ、越野。」
タオルの隙間から見上げた先には、首にタオルをかけた越野の不機嫌そうな顔が見える。
「まったく・・・。」
そう小さく言うと、仙道の横に同じように座り込む。休憩の合間を狙ってここぞとばかりに練習を始める後輩たちの姿を何を言うのでもなく二人ぼんやりと眺めていた。
「なぁ、なんかお前最近変だぞ。」
仙道をわざと見ないようにまっすぐ見据えたまま、越野が小さく問いただす。
「ん?そーかな。」
「そーだよ。何、お前自分で気がついてねぇの??」
何でもなさそうな声に、呆れ顔の越野が振り返る。それを目の端で捕らえると仙道は軽く肩をすくめた。
その仕草に小さく顔をしかめると越野は声を潜める。
「お前、普段はボーっとしてるけどバスケをしている時はもう少ししゃんとしてただろう?何上の空で練習してるんだよ。皆気がついていないみたいだけど、俺をだませると思ったら大間違いだぞ。」
いつになく抑えた声に含まれる語気の強さが越野の苛立ちを表しているようだ。
別に・・・そう答えて微笑を作ろうとしたが失敗する。そんなことすらうまくできなくなっている自分に仙道はそっとため息をついた。


あの夜から、すでに3週間。仙道は一度も牧に会っていなかった。別に仙道が避けてる訳でも、ましてや牧が避けてる訳でもない。
単純にウィンターカップが近づいた陵南の練習が厳しくなって、週に一度あった休館日も市内の体育館を借りて通常練習が行なわれるようになったせいなのだ。
その挙句、練習が終わった後もフォーメーションのチェックだなんだと言われては居残り練習にまで付き合わされている。
終わって体育館を出たら毎晩夜9時過ぎだ。とても牧のいる横浜なんていける状態ではない。
夏の屈辱を晴らす為に、「打倒湘北」を掲げてチーム一丸となって調整を図っているこの時に、キャプテンでありなお且つレギュラーでもある自分がおいそれサボる訳にはいかない。
出来ないのは分かっているのだが・・・。
ふと気を許すと思い出すのは牧の顔。それも散々見覚えのあるコート上の姿ではなく、ここ最近知った些細な事で大笑いしたり怒ったりする素の牧だ。
聞いといてやるからと言ってくれてたのに、肝心の時計だって渡してない。
そう、この間練習試合のときに見つけた地方限定の激甘缶コーヒーだって飲ませてないし。
あれ飲んだ牧さんのリアクションが見たくて仕方ないんだけどなぁ・・・。
越野の目を盗んでちらりと壁にかかっている時計に目を向けて、予想通りの時間に再びため息をつく。
気になって仕方がない。時計を渡したらすっきりするのだろうか?
そうは考えるのだが、やっぱり答えは出ない。
会えない時間を記憶の中にあるほんの少しの面影で埋めようとしている自分 ―――。
そんな訳の分からない熱に浮かされている自分を認めない訳にはいかなかった。


横にいる越野の気配がふと揺れる。
それに気がついて振り返ろうとした仙道の首に越野の腕がぐるりと回り、強引に引き寄せられた。
「く・・・苦しいって・・」
「白状しろよ。お前、好きな奴が出来たんだろ??」
「はぁ???」
あまりの展開に引き剥がそうとした手が思わず止まる。当の越野はしたり顔で何度も何度もうなずいている。
「わかってるわかってる。そのため息に、時間ばっかり気にする仕草。俺も経験したことがあるからよく分かるよ。」
「いや、だからさぁ・・・」
「会いたくて会いたくて仕方がないって時期、あるんだよなぁ?。」
何気なく放たれたその言葉に、どくりと脈打つ鼓動が耳を突く。
会いたくて、会いたくて・・・気になって仕方がない。その気持ちは確かにある。ぐるぐる回っていた感情がすとんと剥げ落ちて、目の前が急激に開けていく。
認めちまえば楽になるって誰かが耳元で囁いた。
お前でもそんな事あるんだな・・・笑いをかみ殺して1人大受けしている越野からようやく離れると、囁くように呟いた。
「じゃぁ・・・」
「ん?」
「それじゃさ、約束も無いのに会いたいって思ったり・・・その人が笑ってくれないかなって考えたりするのって・・・」
「それだよ、それ!それが本気の恋なんだって!!お前いつも来る者拒まず去る者追わずって感じだろう?お前の頭ん中じゃ彼女だって、隣のクラスメートだって同列だもんなぁ?。」
畳み掛けるように何か話しかけてくるが、何一つ頭の中に入ってこない。
ゴメン、越野。もし、お前の言う事が本当だったら・・・。
俺は・・・。
「ほら、行ってこいよ。」
バシッと背中を叩かれて我に返る。人の悪そうな笑顔を浮かべた越野がすくりと立ち上がると仙道を見下す。
「今日だけは勘弁してやるから、一度ちゃんと会ってこいよ。あ、それから今度教えろよな。お前の本命!」
言うだけ言って笑うと越野は軽やかにコートに戻っていく。
その動きにはじかれるように、仙道は体育館を飛び出していった。


いつも牧と出て行く改札を逆にくぐり抜けると、人の流れに逆らってホームへ向かう。
下り電車が発車した後のホームは朝の混雑とまではいかないが、それなりに人であふれ返っている。
そんな中小さく謝りながら人ごみを掻き分けていつもの場所へ足を運ぶ。人よりも頭ひとつ分以上出ている自分の背の高さをこんな時だけは感謝したくなる。
そしてもうひとつ感謝するのは相手も同じように目立つ事だ。
誰でもない、それは俺たちだけに与えられた特権だ。そして、その姿を目にした瞬間柄にもなく大声を上げた。
「牧さん!」
その声に反応した牧がきょろきょろと辺りを見回している。そして同じ視線の高さに仙道を認めた。
一瞬の驚きの後、鮮やかに笑う。少しずつ見慣れたと思っていたその笑顔は、少し落ち着いた仙道の心を再度かき乱した。
「久しぶりだな。」
開口一番出た言葉はそれだけ。余計な事は聞かないそのシンプルさが、牧の優しさなのだと今の仙道は知っている。
「あの・・・これ・・・」
仙道はポケットから懐中時計を取り出して牧に差し出す。
「これ牧さんに預けますから、お願いしてもいいですか?」
「あぁ、それな。実はこの間聞いておいたんだがな、大丈夫みたいだぞ。手入れさえすればそういうのは結構もつらしいしな。」
仙道の手のひらに置かれた時計を牧の手が掠めるように取り上げていく。触れた所かじわりと熱を帯びるのを感じながら、まぶしそうに見下ろした。
牧はポケットからハンカチを出すと丁寧にその時計を包んでそっと鞄の中にしまいこむ。
「今・・・忙しいんだろ?次会った時でも良かったんだぞ。」
その言葉に、仙道がゆっくりと首を振った。


左胸の奥に何度も繰り返し生まれる甘い疼痛・・・その痛みにつける名前が何なのか
分かっていながらすっと見ない振りをしていた。
それに気がついたら、もう二度と引き返せない。どんな事をしても、誰を泣かせても手にしたくなるから・・・。
でも、もう手遅れなんだ。
いないと分かっていても貴方の影を追い求めるようになってしまったから。
誰にも聞こえない俺の声を貴方が聞き取ってくれると知ってしまったから。
自分には止められない。止める術がない。


そっと微笑んでいた仙道の視線が足元に落ちる。軽く俯き加減になった仙道の口元が小さく揺れた。
「・・・たんです。」
「ん?何か言ったか。」
問い返す声にゆっくりと面を上げる。まっすぐと牧を見据える仙道の瞳には凛とした強さが滲み出ている。
それは迷いの消えた瞳だった。
「牧さんに、会いたかったんです。どうしても。」
「ははは・・そうなのか?そんな風に言ってもらえるのもなんだがな。」
照れくさそうに苦笑いを浮かべる牧に、同じように笑いかける。
そんな二人の間を冷たい北風が吹きすさぶ。その風でホームに落ちていた缶が軽やかな音を立てて転がっていく。
「ほら、いつまでもこんなところにいないで帰るぞ。」
そう言うと笑いながら仙道の脇を通り過ぎようする。その瞬間、牧の動きを遮るように仙道の左手が牧の腕をつかんだ。
その行動に訝しげに見上げた視線の先には、相変わらずいつもの穏やかな笑顔を称えた仙道がいた。
「好きなんです」
「・・・何だって?」
言われた事が理解できないとばかりに問い返す牧に、仙道はもう一度はっきりと口にする。
「俺、牧さんの事が好きなんです。」
牧の目がゆっくりと見開かれるのを、祈るような気持ちで見つめる。

あなたの事が ――― 好きなんです。
どうしようもなく好きなんです。






To be continued.




三部で完結となるお話をいただきました。ドキドキしながら続きのお話へGO(上記の
To be continued.より行けます)してね♪ TOPに戻りたい方は下のbackでどうぞ。

 


[ back ]