雨降りの日曜の、どこか気だるい午後。自分のベッドに横たわりながら牧は先週買ったまま読む暇がなく放置していた雑誌を広げていた。
高校時代に数回対戦したことのある、今はアメリカの大学で活躍中の山王高校出身・沢北栄治へのインタビュー記事を興味深く読んでいるところをまたしても恵理に邪魔をされてしまう。
「……くすぐったいからやめてくれ」
「くすぐってるんだもん。何よ〜、彼女が遊びに来てるのに雑誌ばっかり読んで。紳一君ったら私の話聞いてないでしょ」
「……聞いてるよ。その、さっき爪に塗ってたやつ……マネキュアが剥がれてガッカリしてるんだろ?」
寝そべっている牧の足の裏を小さな細い手がまたくすぐってくる。
「15分も前に話したことでしょ、それ。もう〜、やっぱり聞いてない〜」
それにマネキュアじゃなくてマニキュアだよと笑いながら突っ込まれてしまう。そんな小さな手にある細い爪、少し離れれば誰も気付きそうにないそれへ時間をかけて何故色を塗るのだろう。爪がピンクと白に綺麗に塗り分けられたら、それが何なのだというのか。第一、爪のピンク色が部分的に剥げてしまったことを一生懸命言われて、俺にどうしろというのだろう。剥げた部分にニスでも塗ってやろうかといえば『笑えなーい!』と背中をどつかれた。俺は笑い話をしたつもりなどなかったのに。
先ほど恵理が話していたことを聞きながら思ったことと同じことをもう一度、しみじみと牧は考えたが、先ほど同様にあえて口にはしない。口で恵理に勝てた勝敗は無きに等しい自分は、もうよっぽどのことでないと突っ込みは入れないことにしている。
不自然にツルツルとした光沢を放つ細い指先を牧はそっと自分の大きな掌で包み、足裏から離した。
確かに人──彼女が来ているというのに雑誌にかまけているのは悪いと思い、牧は雑誌を閉じた。
ベッドの足元に座って携帯を弄っていた恵理が牧の隣に寝そべってきた。サラサラと長い髪の毛がベッドに零れて甘い香りがする。
「紳一君、もしかして眠い? 突然押しかけちゃって怒ってる? 恵理、いないほうが良かった?」
今日三度目の同じ質問に、そっくり同じ三度目の答えを返す。
「眠くない。怒ってもないし、恵理がいるのは嬉しいよ」
嬉しそうに笑いながら牧の腕に細い腕を絡ませてきた恵理は猫がするように頭を擦り付けてきた。心が篭っていない返事をした自覚があるため、満足そうな彼女の様子が流石に申し訳ない気持ちにさせて牧に会話を探させる。
「あー……っと。そういえば、こないだの予定も駄目んなって悪かったな。誕生日も近いし、何か……そんなに高い物は買えないけど、街にでも今から出るか?」
瞑っていた目蓋をパカッと開いて大きな目が牧に向けられる。瞳を縁取っている睫毛が黒々と妙に長いのは、睫毛に何とかという化粧をしているからだと牧は知っている。
『泣いたら落ちちゃう』と、泣けるDVDを借りてきたと恵理がやって来た時にしきりと目元を気にしていた。実際、あの時はティッシュと恵理の目元が黒々としていたことに驚いた。爪の色が剥げた、睫毛の化粧が落ちた、眉毛が落ちた、化粧が剥げた……。女とはかくも面倒な事をして生きなければいけないものなのだろうか。
出会ったばかりの高校時代、すっぴんの恵理が一番可愛いかったように思う。大学に入ってから始めた化粧は、テクニック的な事は全く分からないが上手い方なのだろう。確かに大人びて綺麗になったように思えなくもない。友達などからは『美人でスタイルも良い彼女がいていいよな』などと羨ましがられるようにもなったから。
しかしそんなことよりも昔のように一緒にDVDを見ながら気兼ねせず笑い泣きをしたり、気軽に頬を包んだり出来た方が自分としては楽しかった。服に化粧がついたら悪いからと遠慮されてみたり、長々と化粧をするのを待たされる等のマイナス部分と、ちょっと目が大きく見えたり頬がツルツルして見えるプラス部分。どう考えても化粧というものはマイナス部分の比率が高いとしか思えない……
「もう〜返事くらいしてよぅ。最近の紳一君、恵理の話をあんまり真面目に聞いてくれない……。まぁ〜あ〜? 押しかけ彼女だけどぉ〜。ね、車出してくれるよね?」
ついまたくだらないことをつらつらと考えてしまっていて、今度こそ本当に聞いていなかった自分に内心慌てる。この『押しかけ彼女』というのを恵理は昔から気にしている。確かに恵理の強引さに負けてはじまった関係ではあるが、付き合ってもう三年になるのだ。同じことを何度も蒸し返すのが恵理の悪い癖だと思うが、いつまでも不安にさせていると暗に咎められているようで、牧はこの言葉が出るのを嫌った。そちらへ話を流される前にと、とりあえず何だか分からないが買い物に行くかと誘われて恵理が断るはずがない。電車ではなく車で行こうということを話されたのだろうと推測して返事をした。
「すまん。えっと。いいよ、車出すよ」
「本当? ありがとう紳一君〜! あとの手配は奈美ちゃんと私に任せてね。そうだ! そこね、釣りも出来る川が近くにあるんだって。紳一君、釣りにも興味あるって言ってたよね? 奈美ちゃんの彼が釣りする人だから、紳一君の分の釣り竿や道具も一式貸してってお願いしてもらう?」
全く話を聞いていなかったため、そんな話をしていたなんてと今更言えず、牧は内心激しく後悔した。が、もちろん表情は変えないように気をつける。
車を出すのはいいけれど、どこへ行くという話になっていたのだろう。釣りってことは郊外で、しかも他にも二名加わるようで……どうもかなり面倒なことになってしまったようだ。己の迂闊さにげんなりしてくる。
ウキウキと喜んで奈美さん(恵理の親友で名前だけは牧も知っている)へ凄い早さで携帯メールを打っている恵理の手元を見ていると、尚更詳しく聞き出せなくなる。
「うふふ〜。紳一君が二日も部活休みなんて滅多にないから、実はこっそり奈美ちゃんと計画練ってたんだよね〜。あっ。どうする? 釣具借りる? 借りない?」
「あ、あぁ。釣りは俺は今回はパスだ。人のだと傷つけたりしたら悪いし。今度でいいよ」
「うん、分かった〜。待ち合わせ時間、朝8時でいいよね? いや〜ん、嬉しい!! 実は前々から奈美ちゃんとダブルデートしたいねって言ってたのよ。やっぱりログハウス泊まるには人数多いほうが楽しいもん。しかもタダ! それに紳一君も釣りの話とか色々聞いたらいいよ〜。彰君は結構昔から本格的に釣りやってるみたいだから、詳しく教えてくれると思うの。だから釣りは今回会って仲良くなってから、次の時にしたらいいかもね」
「アキラ君?」
「うん。奈美ちゃんの彼氏の名前。忘れちゃった? けっこうカッコイイけど、紳一君ほどじゃないから安心して。あっ、奈美ちゃんから返事着た」
今交わした会話の断片を繋ぎ合わせて漸く話しが通じた牧は内心ため息をつきたい思いだった。来週末、二ヶ月ぶりの二日間連続の部活休みは恵理の誕生日の一日前に当たる。確かに一日くらいは恵理に付き合おうという気もなくはなかったが、二日間全て……。しかもどうやら恵理の親友とその彼氏と四人でログハウスに泊まることになってしまったようだ。そういえばかなり前にもそのメンツで海に行きたいとかねだられて、その時は大会があるからそれどころではないと断ったように思う。
確かにログハウスとあらば二人で泊まるよりは大勢がいいだろう。しかし男友達やもっと沢山で行った方が絶対楽しいし、気楽だ。何が悲しくてダブルデート……。気疲れするのは火を見るよりも明らかで、考えるのも嫌になってしまった。
うんざりとした顔を見せまいと背中を向けるように横たわると、背後で恵理が嬉しそうに声を一段高くして話しだす。
「紳一君が車出してくれるって言ったら、彰君も行くって言ってくれたって! 良かった〜。最近ね、奈美ちゃんと彰君、うまくいってないんだって。でも奈美ちゃんは彰君のこと大好きなのよ……。だから可哀相で、どうにかしてあげたいなって思ってたの。私と紳一君が仲良くしてるの見たら、きっと彰君も自分が奈美ちゃんを淋しくさせてるってこと気付くと思うのよ」
「…………そんなことはないと思うが」
「ううん! 絶対仲良くなると思う! ほら、よく言うじゃない。倦怠期の夫婦が仲の良い新婚夫婦を見て新婚気分を取り戻すって」
「……そんなTVのような話、ないって。そいつら、付き合い長いのか?」
「えーと。二ヶ月とか言ってたよ。あ、ため息つかないでよ〜」
背中を小さな拳がポコポコと叩いてくる。肩たたきにもならん刺激だよなぁと笑いながら牧は仰向けになり天井を見上げた。
倦怠期というなら、今の自分がそうじゃないかと牧は冷めた思いを飲み下す。いつかはもっと本気で彼女を愛しくなるのかと思いながら続けているこの関係を、牧は一年くらい前から疑い始めていた。初めて出来た恋人という関係をそれなりに楽しめていた二年間が、最近ではかなり昔にすら感じている。恵理は『紳一君はバスケのこと以外は淡白だからね〜』とよく言うから、自分でもその気になっていたけれど……。恵理のことは嫌いではない。好きだと思う。だが、どのくらい好きかと問われれば……。このままズルズルと、特に問題もなければ関係は続いて、いつか恵理と自分は結婚するのだろうか。全くカケラもそんなビジョンは浮かばないのは、自分が男だから……?
ベッドがきしんで我に返る。どうも今日はぼんやりしてしまっている。本当に眠いのかもしれない。
恵理がひょいと牧の上に49kgの体を重ねてきた。軽くて柔くて暖かい。
「ログハウスはね、一階に二部屋のベッドルームがあって、二階はリビングとお風呂と、あとキッチンがあるんだって。奈美ちゃんの家って本当にお金持ちだよね〜。恵理、ログハウスって初めてだから楽しみなんだー。紳一君は泊まったことある?」
「ない。そこの住所、紙に書いてくれないか? 後で地図で確認しておきたいから」
「うん。……ね。ベッドルーム二つだけど、その日はできないよね」
少し恥ずかしそうな上目遣いで尋ねられ、牧は頷く。とてもそんな気分になれはしないだろうし、気疲れで早々に寝てしまうだろう。
そっと牧の唇にキスをしてきた恵理の細い腰を牧は条件反射のように優しく掴むと体勢を静かに入れ替えた。
二日間連続の部活休み初日。往生際悪く、土砂降りにでもなって中止になりゃいいと思っていたのに、空は清々しいほどの秋晴れ。こうなったら無口な人で通して、一人ドライブのつもりで走ろうと牧はハンドルを握った。助手席ではいつもより気合の入った化粧の恵理がせっせとCDやMDを聴く順番に並べている。
「もう出るぞ。駅に着いたら俺は車から降りないでいるから、恵理が迎えに出てくれよ」
「うん。出発して〜。あ、奈美ちゃんから電話だ」
30分もしないで会う人とまた電話で話をし始めているのを少々呆れ気味な横目で見ながら牧は黙ってアクセルを踏んだ。
コツコツとリアガラスを叩く音で牧は首を捻った。恵理が笑顔で早口にまくしたてる。
「あのね、彰君大きいから、やっぱり助手席に乗ってもらうことにしたから。あ、トランク開けて〜、奈美ちゃんと彰君の荷物入れたいの」
恵理の背後にいる奈美と思しき、恵理に似た化粧の女性に会釈をする。彼女も「今日は宜しくお願いしますね」と小さな顔に満面の笑みを浮かべて会釈を返してきた。
と、急に助手席のドアが開いて牧は挨拶の途中で顔を向けて硬直した。
「ども。やぁ、やっぱり牧さんでしたか。今日は宜しくお願いします」
一ヶ月前に接戦を繰り広げた強豪校のエースでもあり、高校時代には何度も対戦して一時期はライバルとまで称された、黒い硬そうな髪を立てた独特のヘアースタイルの男が微笑んで乗り込んできた。
シートベルトを締める自分よりは細身だが大柄な男の姿をポカン口を開けたまま見つめていると、後部座席に女性陣が乗り込んできた。
「彰君、もっと座席後ろに下げていいよ〜。あ、恵理ちゃんそれ見せて」
楽しそうに弾んだ声が背後から聞こえてくる。牧は三度ほど瞬きを繰り返してからやっと口を動かした。
「せ、仙道……あきら……君…?」
「はい。仙道彰です。一泊二日、楽しくやりましょう、牧紳一さん!」
「やぁーだぁー、二人でフルネーム呼び合ってる〜。おっかしー」
「なぁんだ、二人とも知り合いだったんだ〜。なら気楽にやれるよね! ね、もう出発しよ! その前にこれかけてくれる? 彰君」
仙道が後ろから伸びてきた恵理の手にあるCDをにこやかに受け取ってカーステレオにセットしている。
牧はこれはどんな悪い夢なのかと、恐ろしく晴れ渡った空にも似た青い顔で天井を仰いだ。
「てっきり牧さんも俺だと分かってて今回の旅行OKしたんだと思ったんだけど、違ったんすね」
道の駅で休憩を入れている時に仙道と牧は併設の土産物屋で二人きりになっていた。特に欲しいわけでもない菓子の箱を棚に戻しながら牧は隣の仙道に顔を向けて苦く笑った。
「全くお前だなんて気付いてなかった。下の名前で呼んだことなんてなかったから、覚えてなかったし」
本当は全く知らない人を想定していた自分は、人見知りで通してなるべく単独行動をとり気楽に過ごそうと思っていた。だから中途半端に無視しきれないバスケ関係者だと知って落胆したことまでは、流石に秘しておく。
そんな胸中を知らない仙道は軽い笑みを浮かべた。
「俺はけっこう前から気付いてました。奈美が恵理さんの彼氏はバスケットとサーフィンをする人だって話してたから。あんまいないよね、バスケとサーフィン両方やる人ってさ。恵理さんは俺のこと詳しくは何も言ってなかったんすか?」
「釣りをする一つ年下の奴だとしか言っていなかった。前から気付いていたなら、教えてくれても良かっただろうが」
やっとトイレから戻ってきた女子二名は土産物屋の入り口にある、パンや菓子が乗った特価ワゴンに引っかかっている。仙道はその様子にちらりと一瞥をすると、彼女達から見えにくい位置へと移動するように歩きながら口を開いた。
「何度か言おうかなとは思ったんすけど、なかなか機会がなくて。そういえば、恵理さん練習試合の時に俺、見かけたことないけど、もしかしてあんまり試合に応援とか来てないんすか?」
店内にかかっている音楽が大きいのと、仙道の声が小さくて聞き取りにくいのとで、牧は仙道の傍へと歩み寄る。
「試合や練習には顔を出さないよう約束させている。気が散るのも嫌だし周囲にからかわれそうな種をわざわざ蒔く必要もないだろ」
「そっすよね」
軽い返事に牧は(おや?)と改めて仙道を見やった。いつも同じような質問をうけては先ほどと同じ返答をするたびに男どもは『贅沢者〜。とられたくないからって隠すなよ』と揶揄し、女子マネ達には『応援させてあげないだなんてけっこう冷たいんだね〜』と非難を浴びせられていたから。
しかし仙道は咎めるどころかあまりにあっさりと頷き、続いて何故か嬉しそうに微笑んだ。仙道の反応が不思議で、つい尋ねてしまう。
「お前も奈美さんに顔を出さないよう言ってるクチか?」
「俺は言いたくてもそれは無理なんすよ。……うちの寺澤キャプテン、知ってます?」
唐突に仙道の属する大学バスケ部主将の名が出されて牧は一ヶ月前の試合へと記憶を戻した。いかつい顔をした、魚住とは全く違う意味での威圧感のある2mクラスのセンター。いつもどこか下卑た笑いを含んでいるように感じさせる、嫌な意味で印象に残る男を思い返して頷いてみせる。
「奈美、寺澤キャプテンの妹なんすよ……。キャプテン命令で付き合いさせられてるんです。それだけなら慣れてるけど、寺澤キャプはすっげーシスコンだし、あの性格だから色々煩くて余計に大変で」
「そ、そうだったのか……」
驚きとあまりの気の毒さに短い返事をするのがやっとの牧へ向けてきた仙道の顔は疲れた様相を呈していた。
「っつーわけで、俺が奈美にそっけなくしていても目を瞑っておいてくれませんかね。あ、気付かれた」
恵理が仙道と牧を発見して手を振ってきたため、仙道は軽く手を挙げると「行きますか」と呟いて歩き出した。
牧は恵理の目論見に早くも協力出来なくなったことを悟り、笑顔で近づいてくる華やかな二人へ心の中で『スマン』と詫びた。
車に乗ってしまえば先ほどと同様に牧も仙道も会話らしい会話を交わすことはなかった。車内では後部座席の二人がチョイスした賑やかなポップスとヒップホップが交互に流れ、曲に負けじとばかりに後方から大声でマシンガントークが繰り広げられていたからだ。こう煩いと話をする気など起きようがなかった。
時折二人は運転席と助手席に向かって返事を求めてくることがあるため、一応は話の大筋を聞いていなければいけないせいもある。溜息が出そうなのを押し殺して運転していると、助手席の仙道が溜息をついた。
「……うっせーよ。他人のことあーだこーだって勝手に言いやがって。ほっとけっての」
とても小さいぼやきは牧にだけ届いた。ちらと視線を牧が送ったのに気づいた仙道は苦笑を零した。
「あ、すんません。別に恵理さんを咎めたわけじゃあ……」
仙道の気遣いに牧は少しだけ首を左右に振ってから同じように溜息交じりの小声で呟いた。
「全くだ。着く前から疲れる。もう少し控え目に喋ろってな」
仙道はきょろりと目を動かし意外そうな顔をしたため、牧は「な?」と唇の形で相槌を促してみた。すると仙道はコクコクと数回頷いて人懐っこい笑顔を向けてきたため、牧もつられて微笑んでしまった。
試合や合同合宿などでは学年が違うこともあり、会ってもそれほど話をすることはなかったから、自然と仙道にまつわる噂──女好きでお喋りが上手く、漂々と上手く何事も渡りオイシイとこ取りで、少しスカした男。そんな人から聞くとはなしに聞いていた、どちらかといえばあまり好ましくない噂から、知らずに自分も勝手なイメージを植えつけられていたのだと今更に気付く。確かに恵理達に返す返事はそつのないもので、会話をふられれば場を白けさせない程度に上手くやっている。けれど別に自分から率先して喋るわけでもなく、どちらかというと自分には物静かで適度な気遣いの出来る正直な男だと感じられた。
ふいに仙道の視線を感じ、牧は視線で『何だ?』と尋ねた。
「俺、奈美の誘いは出来るだけ蹴るようにしてたんです。でも今日は、牧さんとバスケ関係無しに話せる滅多にない機会だから────……って」
煩い音楽と後部座席からの賑やか過ぎる話し声にただでさえ囁くような仙道の呟きは聞き取り辛く、牧は最後の方の言葉を聞き損ねてしまった。心なしか頬を赤らめて唇をきゅっと噛んだ仙道の様子に、聞き逃してはいけない言葉だったような気がして何故か焦りを覚えて聞き返す。
「すまん、よく聞こえなかった。滅多にない機会だから何だって?」
しかし仙道は困った顔をしてからゆるく首を左右に振った。
「だから来たんです、って言っただけですよ」
「……そんな短くなかったと思うが」
「いえ、そんな感じのことを言っただけっす。気にしないで下さい。あ、何か菓子でも食いますか? 奈美が色々持って来たって言ってましたよ」
「腹減ってないからいらない。食いたかったらお前はもらったらいい」
「別に俺もいらないっす」
軽く頷いた表情はもう牧が良く見知っている、そつのないものだった。
絶対にもっと何か含みのあることを言われた気がする。そうでなければ言い終えてあんな……運転中でなければもっとよく見みたいと思わせるような、心を動かされる表情をしてはいないだろう。しかしそれだけに、二度も言えないようなことを言わせようとしたようで申し訳ないためあれ以上深くは追求できなかった。話を変えられてしまったのに蒸し返すのもためらわれたが、やはりどうしても先ほどの表情が──初めて仙道が己の裡を覗かせたことを確認したくて、会話を少しだけ戻してみる。
「今日はお互い、バスケを忘れて気楽にやろう」
仙道がおや?と目を見張った顔を向けてきた。
「牧さんがバスケを忘れてってのは想像出来ないな〜」
いたずらを仕掛ける前の子供のような瞳が新鮮で、ついつられてニヤリと牧もまた笑い返してしまう。
「俺だって四六時中バスケのことばかり考えてなんていないぞ」
「じゃあ今日は、バスケを思うのはいつもの三分の一程度にして、俺をかまってくれるってことですね」
「そのワケの分からん比率はどっから来たんだ。しかもお前をかまうってのは何だよ。犬猫じゃあるまいし」
「あんたが信長君や神とか高校時代可愛がってるの見ててさ、俺、マジ羨ましかったんだもん。決めた! 今日は俺、あんたに可愛がられることに100%全力出すんで、ヨロシク! こんなチャンス滅多にあるもんじゃないもんね」
「どんなチャンスだよ。勝手に話を決めんなっての。それに俺は別に、信長も神も特別可愛がってたわけじゃない」
「そーじゃなくてね。あぁ〜やっぱ勇気出して来て良かった! ホントは牧さんはこんなダブルデートみてーなの嫌いだろうと思ってたんだ。だって俺だってやっぱそーいうの嫌だもん。奈美がどうとかいう前にさ。それに貴重な二日連続の部活休み、もっと自由に過ごしたいもんじゃん。俺がこの話を蹴ればこの計画自体が流れるって分かってたんだけどさ、どうしても……牧さんに可愛がってもらいたくて」
ね? と冗談めかして首を軽く傾けてから思い切り嬉しそうな、そしてどこか安堵した様子で仙道は長い足を組みなおした。乗り気でないのをそんなに全面に出していたかと反省しかけたが、続いた仙道の言葉は予想とは違う、牧に対する気遣いに満ちたものだった。
「……そんなに俺とバスケ以外の話しがしたかったんなら、個人的に連絡寄こせばいいのに」
「いやいや。神奈川の帝王様に別ガッコの俺がいきなり直アポとるなんて、んなの無理っすよ。それに──……困るしね」
また先ほど同様に最後が聞き取れない。つい後ろに向かって『煩いぞ』と普段温厚な牧も文句の一つも言いたくなる。
「おい、聞こえなかった。何が困るって?」
「いーってそんな、毎度聞き返してくれなくても。律儀だなぁ牧さんは! それよかさっきの話!」
「え?」
「この一泊二日、気軽に楽しくやりましょうってことです」
「あぁ。お前も他校の先輩だとか気遣わないでいいから。俺も気を遣わんつもりだから。話も、もう少し静かなとこで、な」
牧が後ろにちらりと視線をやる仕種をしてから仙道を見やれば、つられて微笑まずにはいられないほどの笑みを寄こしてきた。
と、背後からいきなり恵理が顔を前座席の間に挟んできた。
「な〜にが“もう少し静かなとこで”なの? 静かなとこで二人、何したいのかな? キャー嫌だ〜紳一君ってばエッチ〜」
キャーキャーとふざける恵理と奈美にあきれて言葉もない牧に代わり仙道がふざけて火に油を注ぐ。
「静かなとこで二人でやることなんて決まってるよね。俺、牧さん大好きなんで、二人ともジャマしないで下さいよ。せっかく牧さんがその気になってくれたんだから」
パチリと綺麗なウィンクを仙道に決められ女性陣は更に煩くはしゃぎだした。牧は訂正するのも面倒でただ大きな溜息を零したが、その溜息には出かける前についていたもののような重さはなかった。
悪ふざけも沈下し、また最初のように牧と仙道は黙し、恵理と奈美の楽しげな話し声と賑々しい音楽だけが車内に満ちる。
仙道への根拠のない苦手意識が早くも消え、それどころか思っていたよりは楽しくやれそうな気がして、ハンドルを握る牧の口角は無意識に軽く上向いていた。
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