不思議な果実・7


坂道が終わっても仙道は荷台から降りなかった。長い脚を蟹股にしてぺたぺたと座ったまま歩いている。牧は立って歩いた方が楽だろうと何度か降りるように勧めたのだが、子供のように首を嫌々と振って返すため、あきらめてハンドルを持って押して歩いた。
しかし駅の明かりが見えてきたため牧が仙道をちらりと見下ろすと、かなり渋々といった体で降りた。

駅構内に入ってみれば人もまばらで、蛍光灯の光が狭く少し埃っぽい空間を淋しげに照らしている。
「ほら、切符」
券売機の後ろで項垂れて立っていた仙道が礼を口の中で小さく呟きながら手を出してきた。その手を牧の左手が下から支えるようにぎゅっと掴む。それからゆっくりと右手で券を仙道の掌に置いた。
掴んでいる牧の掌は少し汗ばんでいて仙道にはやけに熱く感じる。その熱がゆっくりと離されていくのが奇妙な絶望感を連れてきて仙道の胸を締め付ける。
「離さないで」
切なさに負けてしまい、仙道は顔を上げないままに告げてしまった。空いている手で離された熱をもう一度、今度は自分から捕まえる。
今日最後の我がままを、やっとの思いで牧の色素の薄い瞳を見上げて口にした。
「帰るの、やだよ」

アナウンスが入った。
終電に乗れと。仙道に帰れと。その手を放せと教えるように。

「…帰るんだ。これ逃したら本当に帰れなくなるぞ」
牧の声は優しかった。同じように仙道を見つめる瞳もまたとても優しいものであったのだが、仙道はすぐに瞳をそらしてしまっていたので知ることはなかった。
あまりに優しい声に泣きたくなる。甘ったれてもっと困らせたら、この人はもっともっと優しく叱ってくれるのだろうか。そして言われてしまうのかな。『我がままも大概にしろ』なんて、俺が大好きな、少し眉間に皺を寄せた苦笑いで。
またアナウンスが俺をせかしている。分かってる。今この指を離すよ。煩いよ、分かってるんだって!
ここに着くまでに俺が発した、彼を引き寄せようとした必死のサインが全て空振りに終わったことも、彼が俺を可愛がるのは後輩や弟を甘やかすのと同じだって思い知らされたことも、俺が、俺が、俺が勝手に!
…勝手に、もう牧さんの気持ちなんて関係なしに、こんなにも好きになってしまってるってことも。

仕方なく手を放そうとした時、逆に強く握られた。驚いてそむけていた顔を戻すと、牧さんは先ほど俺が思い浮かべていたあの苦笑を浮かべていた。
「無駄にならずにすんだ」
ジーンズのポケットから取り出された切符。俺が今握っているのと同じ駅名の入った切符。
「帰るんだよ、お前のうちに。急ごう、これ逃したら二枚とも無駄になる」
手を放して踵を返し駆け出した牧の背を追って仙道もすぐに走り出した。


乗り換えの電車を待つ間、牧は自宅に電話を入れていた。自転車を借りたままでの無断外泊は流石に気が引けると言って。
会話の合間に牧さんは俺のことを部活の後輩と言っていた。他校だし俺はまだ高校生だけどそれは嘘じゃない。むしろそれが正解。
何をこんなに焦っていたのだろう。勝手に日が経つと、この胸が熟れ過ぎて腐ってしまうとでも思い込んでいたのかな。それでもさっき牧さんが迎えにきてくれるのを待ってた時は、来てくれるだけでいいとか思っていたくせに。
本気で人を想う経験がなさ過ぎて、何もかも今までの自分とかけ離れている気がして臆病になっていたのかな。どんどん欲張りになっていく自分が怖くなっちまったのかな。
こんな俺が自分の中にいたなんてと、おかしくてつい口元が笑ってしまった。

「人の会話を聞いて笑うな」
いつの間にか牧さんは話し終えていたようで、携帯も手から消えていた。慌てて手を振って否定してみせる。
「違う違うよ〜。電話終わったことも知らなかったっすよ。それよりお母さん、自転車明日朝使うとか言ってませんでした?」
「それは大丈夫だったが…」
「あ。ギイギイ変な音するようになったことバレちゃったの?」
「いや、そっちじゃなくて弟の話。まぁいいんだそれは。で、何でお前は笑ってたんだ?」
急に自分にふられてしまい、仙道ははぐらかすために全く違う事を口にした。
「…切符、二枚買ってくれたって最初から言ってくれてればいいのにって。牧さん案外、人が悪いんだなーって面白くて」
してやったりといった感じで目元を細められた。
「まだまだ勉強が足りないようだな。俺はこう見えて意地が悪いんだ」
「えー?逆だよ牧さん。見かけの方こそ…。あ、嘘。嘘ですからそんな落ち込まないで下さいよぅ〜」
組んでいた腕に頭がかぶさるように項垂れてしまった牧の背中を慌てて仙道がぽんぽんと叩いた。
「…人のコンプレックスを今日は随分刺激してくれるな…」
暗い声に思わず吹きだしそうになってしまって一瞬困ったが、向けてきた牧の表情は声音とは裏腹に楽しそうなものだった。
俺は今度はもう隠さずに笑ってしまった。牧さんもまた、くっくと小さく笑っている。
「ほんっと意地悪いって!やられた、見事にやられました!」
「意地悪な俺は嫌いか?」
「好きですよ!もう、分かってて訊いてんでしょ!」
「老け顔で意地の悪そうな顔は?お前の我がままを、まんま甘やかしちまう俺はどうなんだ?」
片方の口角を上げてわざと意地悪そうに笑ってみせられ、仙道はもう笑いが止まらなくて腹が痙攣するほどだった。
「オヤジに間違われるその男らしく彫が深い顔も、俺の我がままホイホイきいちゃう太っ腹なとこも、俺から言わせようってズルイとこも、全部好きですよ!ホント、もうどうしようもないくらい大好きです!」

ひとしきり笑い終わってやっと、仙道は牧が固まっているのに気付いた。訝しげにその顔を覗きこむと、牧はやっと瞬きを数回繰り返した。同時に列車が到着したというアナウンスがホームに響いた。見ればもう電車の灯りが近くに来ていた。仙道は先に立ち上がり、今度は自分から手を差し出して「行きましょう」と促した。

車内では二人とも何も話さなかった。他の乗客同様、電車の揺れる音と振動を黙って受け流すように少し揺れていた。
ただ違っていたのは、仙道は晴れ晴れとした楽しそうな顔であったことで、牧は難しい事でも考えているような厳しげな表情だった事だけ。


鎌倉駅を降りたのは六人ほどしかいなかった。それもいつしか散り散りとなり、波の音が遠く聞こえなくなる頃には既に路上に動いているのは二人の影しかなかった。
「朝飯、なんか買って帰りましょうか。ろくなもんないし」
鼻歌をやめて首だけ振り返った仙道に牧は頷き返した。月を背にしている牧の表情が電車を下りた今でも硬いままなことに心配し、先を歩いていた仙道は足を止めて向き直った。
「どうしたの?さっきから急に牧さん、変ですよ?」
深刻そうな表情の牧へ首を傾げて尋ねれば、ますます眉間の皺は深く刻まれてしまった。逆光も手伝って、牧の瞳は影に隠れて伺うことができなくってしまっていた。
「話…戻して、いいか?」
一言一言区切って確かめるように訊いてきた。瞳を見ることが出来ないのが少し不安で、条件反射のように仙道は小さく頷いた。
「さっき、言ってたよな。“俺から言わせようってズルイとこも”って。それって…その…」
「…は?」
「つまり…お前の気持ちをだな…俺が図らずも言わせたということで…」
牧にしては珍しく言い淀んだまま黙してしまった。次の瞬時、仙道の首から上へ一気に血が集結する。
「え…?まさか、えええ〜??勝手に俺の勘違いっつか、早合点で暴露したとか言うんすか??? そりゃないっすよ〜」
足の力ががくんと抜けてしまい、仙道はその場にしゃがみこんだ。恥ずかしさで一気に全身から汗が噴き出す。穴があったら入りたいというより、今すぐこのコンクリートを掘って飛び込んでしまいたいほどだ。自分の口から弱々しく妙な奇声が出るのを止められない。


恥ずかしさでいてもたってもいられない仙道に、しかし牧は暫く経っても何故か何も言ってこない。
仙道は牧がまた意地悪く自分のこの情けない様子を楽しんでいるのではと、恥ずかしさも手伝って思い切りふてくされた顔をようやく上げた。
そこには頭を両手で抱えつつ、唖然とした顔で立ち尽くす姿があった。初めて見る、牧の羞恥と狼狽の入り混じった赤い顔に仙道が驚いて立ち上がる。
「牧さん…大丈夫? 酷く汗かいてるよ…。俺もだけど…」
仙道の言葉は全く耳に届いていないのか、牧はうわ言のような自問を始めた。
「嘘だろ…俺の片思いのはずだろ…? 都合良過ぎやしないか?」
今度は仙道が狼狽した。それでも、まだ呆然としたままの牧の耳元に仙道は驚かさないよう気を遣って静かに尋ねた。
「牧さん…本当に俺に片思いだったの?」
「そうだ」
素直な返答にまた仙道の引きかけた汗が新たに噴きだす。尋ねる声が震えてしまう。
「いつから?」
「けっこう昔から」
「俺があんたを好きだって、知らなかったの?」
「知らなかった── ん?ちょっと待て。お前、いつから俺を意識しだしたんだ?」
やっと頭が正常に働きだしたのか、牧は探るような瞳を向けてきた。
「俺はあんたが、俺に興味を持てって言った日から…だと思います」
「そんなことくらいで── まいったな」
「や。自信はなかったんすけど、俺、勝手にそれから一人で盛り上がっちゃってたんですよ」

困り果てた仙道に、牧は泣き笑いのような複雑な表情をしてみせた。こんな顔もする人だったのかと、頭の一部だけがどこか冷静に見ていた。
けれどやはり冷静なんかじゃなかったようで、自分は本当に泣き笑いをしてしまっていた。鼻の奥が痛い。
「泣くなよ。こっちだぞ泣きたいのは」
「な…で。何で牧さんが…ぐすっ…泣きたいのさ」
牧の指が恐る恐るといった慎重さで仙道の頬を伝う涙をそっとぬぐった。
「叶わないことだってずっと思ってたんだぞ?それがお前、そんな一言で、しかもあんな馬鹿みたいな会話からお前の気持ちが分かるなんて。これが泣かずにいられるか」
「泣いてないじゃん」
「言葉のあやだ。それほど嬉しいってことだ。説明させるなそんなこと」
憮然とした顔だったが、まだ赤い頬は明らかに無理をしていることを仙道にしっかり伝えていた。
「へへへ…そんなに俺があんたを好きなの分かって嬉しーんだ」
今度は本当に照れ隠しではないらしく、片眉を上げて軽く睨まれた。
「…お前、ひょっとして俺より意地が悪くないか? いや、絶対悪い」
「何で? 断言されるほど意地悪した覚えはないっすよ?」
「俺がお前に惚れてるって知ってたんなら、自分もそうだったらすぐに教えてくれたっていいだろが」
「それはお互い様ですよ〜。それに俺、確信が持ててたわけじゃないもん。あ、そうだよ!牧さんこそ意地悪だし秘密主義じゃん!車持ってるくせに俺に隠してたりさっ。自転車で迎えに来るんだもん、肩透かしもいいとこでしたよ」
「おい。何で俺が車持ってるって知ってんだよ?言ってないぞそれはまだ」
「う……」
知ってしまった経緯を言えばこの真面目な御仁は、遅刻に加えてだらだら遠回りをしていた自分を叱り出すことだろう。それよりなにより、このまま芋蔓式に今までしてきた自分のみっともない数々の事柄を全部吐かされてしまいそうで、それだけは避けたい。
仙道は再度目元をこすってからへらりと笑った。
「あー…えーと…。立ち話もなんですし、続きは家に着いてからにしましょうか」
「その前にコンビニ寄るんだろ。お前こそ秘密主義じゃねぇか。都合が悪くなるといつもその顔して誤魔化すし」
「あ、これ、名前ついてるんすよ。『ヘラヘラスマイル』って。福田につけられたの」
「そんなのつけられて喜んでるんじゃない。あ、またした」



片腕にコンビニの袋を下げ、手には缶ジュース。流した汗と涙へのご褒美とばかりに、二本目のジュースを飲みはじめた仙道に牧は神妙な面持ちで口を開いた。
「このままだと俺は秘密主義者と確定されかねんから、弁明する」
照れ隠しなのか少しふて腐れた口調に仙道は口頭で「パチパチパチ〜」と拍手を送った。
「弁明その一。お前に告げなかったのは、同性だから無理だろうと思っていたからだ」
「そんなんくらいで弱気になっちゃうなんて、牧さんらしくないな〜。俺なんてそれはあんまり気になんなかったっすよ?」
「勝てない喧嘩は自分から売らない主義だ。弱気じゃなく慎重と言ってくれ。お前が奇怪なんだよ」
「人を変な妖怪みたいに言わないで下さいよ。で、その二は?」
言うのが大変不本意という様子を隠さずに促されるまま牧は続けた。
「車は、縦列駐車が上手くなってからと思ったんだ」
「え〜。別にいいじゃん、そんなの。広い駐車場のあるとこ行きゃいいんだから。くだんねぇ〜。俺、すっげぇ色々考えちゃったのに〜」
「くだんねぇ言うな。教えたらドライブに連れてけって言うだろ?」
「言いますねぇ。牧さんは俺とドライブ行きたいって思ってくれないの?」
牧は握っていたペットボトルの烏龍茶の残りを一気に煽った。照れ隠しなのが今度は見え見えで、仙道は嬉しさを抑えきれずに背後から牧にタックルした。
「全部言わせるなよ。本当に意地悪いぞお前」
「…意地悪い俺は、嫌い?」
ニッコリと楽しそうに笑ってきた仙道に、とうとう牧はお手上げとばかりに溜息を零してから緩く笑った。


明るい仙道の笑い声が誰もいない暗い路地に小さく響いていたが、それも消え。街路灯の弱い光も届かなくなった曲がり角で二人は立ち止まった。
仙道が目蓋を閉じたのを合図に、そっと牧の指が仙道の顎を掴んで引き寄せて唇で触れた。ついばむように軽い接触。

「柔らかいな…」
「牧さんだってそうだよ」

軽く触れ合っただけではやはり物足りなくて、もう一度と顔を寄せあう。
今度は互いの唇を食むように、しっかり重ね合わせた。仙道の舌が牧の舌を誘って引き寄せる。絡み合った先から溶けていきそうな感覚。

「…美味しい?」
「あぁ。何だろう、感触だけじゃなく本当に甘い…。フルーツのような。みかん…モモ…?」
「どっちでもないですよ…きっと」

ちゅく…。
また音をたてて深く味わいあうために繰り返す。
牧の舌が丹念に探るように仙道の口腔内を優しく蠢けば、連動して甘やかな痺れが仙道の体を熱く芯から麻痺させていく。


気が遠くなるほどの幸福感と悦びの中、更に深く全てを感じようと目蓋をきつくつぶれば、香る互いの汗が混ざり合ったものが更に深く感じられて媚薬のように意識まで溶かしていくようだった。
そう感じているのは自分だけではないことは、こんな場所だというのにやめようとしないことから伝わってきていた。それが例えようもなく嬉しい。

「…早く帰らせてやらなきゃいけないのに。ごめんな」
そう告げるためだけに数秒離れた唇は、仙道の返事も待たずにまたおりてくる。
仮に返事を待たれたとしても今の仙道にはもう紡げる言葉など短いたった一言しかないのだから、どちらにしろ唇が離れている時間など同じようなものでしかなかっただろう。



一人で味わった塩辛さも苦さもしょっぱさも、全部甘く優しい悦びのうちにとろけてしまった気がする。
きっと今の俺はどんなフルーツにだって負けない、極上の果実だと思う。だって牧さんのおかげで一気に熟成したとしか思えないほど、今の俺は全身が熱くて甘くてたまらないんだ。

味わって。もっともっと。
虜になって。他の何よりも愛しいと思うほどに。俺があんたの背中にしがみついて風をきった時に強く感じたように。
俺はあんただけのために実った果実。
美味しく食べた後に残る小さな種はあんたの胸に植えて、大切に育ててほしいんだ。
いつしか立派に── それこそ、今の俺よりも美味しく実ったら。
その時は、俺だけに味わわせて下さいね。

あんたもまた、俺だけのために実る果実なのだから。








*end*




やっとこ終わりました。最後に仙道が不穏な事を言ってます。そうです、このサイトは牧仙牧。
いつかは仙道もしっかり牧を食う予定です(笑) ご通読ありがとうございましたv
P.S オマケで今回のラストの牧バージョンをUPしました。ギャグ風味ですが宜しかった読んでやってねv

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