部活が終わってすぐに仙道と牧は赤木にせかされて魚住が待つという学校の近くの喫茶店まで連れて行かれた。
「お前らしか頼める奴がいないんだ。助けると思って、引き受けて欲しい事がある。たった半日のことなんだ」
三人が魚住の待つ席へと座った矢先、魚住は向かいに座した牧と仙道へ深々と頭を下げながら開口一番に頭を下げた。赤木も黙って隣の魚住ほど深くはないが、軽く頭を下げる。
しばし呆気に取られていた二人だったが、仙道の方が早く反応した。
「半日って、何をすればいいんすか?」
頭は下げたままで牧と仙道を見ずに魚住が神妙に言葉を選んで説明しだした。
魚住の父の親友が営む店は最近、従業員同士のいざこざで不穏な空気が漂っていた。それを気にして何度も双方の話を経営者として聞いてはいたが、先週いきなり5名の従業員が辞めてしまったのだ。
取り急ぎバイトで補おうと三日前に面接もしたが、なかなかいい人材がいなくて困っているのが現状で。しかも間の悪い事に明日の夜、お得意さんが予約を入れてきてしまい、断りきれずに入れてしまったという。
5名も不在の中では丁寧な接客もできるわけもなく、急遽明日だけでいいので即席でいいから見た目のいいバイトが欲しいというのだ。
「それで…俺と仙道と赤木とお前で4名が代理に入れってことだな」
「いや、赤木と俺は明日はどうしても駄目なんだ。赤木の親父があと2名あてがあるって探してくれている」
「なんで赤木さんのお父さんが関係してるんすか?」
「……うちの親父は魚住の店の常連というか親友…らしい。湘北対山王戦、親父が会社休んで観に来ていたんだ。その時、魚住のかつらむきに感動して、店に通うようになったと言っていた」
「ほう…。不思議な縁もあるもんだな。俺もあの試合は見ていたけど、魚住のあのタイミングは絶妙だった。…捕まっていたけどな」
三人は昔を思い出して神妙に頷いていた。仙道はその試合はビデオで見ただけなのでその辺はあまり分かっていなかったが、それは後で牧に聞けばいいと黙っていた。
それよりも気になるのは、何故俺と牧さんに白羽の矢が立ったかということだ。魚住さんは友達は俺なんかよりずっと多いはずだし、たった半日のバイトをこんなに真剣に頭を下げて頼むのは…ハッキリ言ってヤバイバイトなんじゃねーのかなーと考えるのが妥当だろう。ホストとかポン引きとか、そういう夜の仕事臭ぇ気がする。
俺は別にいいけど、牧さんは絶対駄目だ。こんなに可愛い牧さんだもん、絶対危ない目にあっちゃうのが目に見えている。しかもこの人、自覚が全くないんだよね、自分が男を魅き寄せやすいってことをさ。どっちかってーと玄人受けするんだよ、ガタイいいし…シャレになんないよ。
「ありがとう、牧。すまんな、恩にきるよ」
仙道は深く自分の思考の海に潜っていたが、魚住の心底ありがたそうな声で我に返った。慌てて隣の牧を見る。
「いや、いいんだ。俺たちがその…こうした関係になれたのも、魚住や赤木のおかげだし。何か俺で役に立てることがあったらと常々思ってはいたんだ。でも経験がないからいい働きとかは期待しないでくれよ」
「ま、牧さん?ちょ、あの…」
「仙道、その日の部活のことは気にするな。早めに切り上げさせてくれるよう、俺からキャプテンに言っておくから」
「すまんな、仙道。二人とも急な話で悪いが宜しく頼む。じゃあ、その店の場所なんだが…」
会話は仙道を取り残して事務的に進んでいく。どういった店なのかも、何の仕事なのかも全く聞いていなかった仙道は慌ててテーブルの上の地図と、手書きの店内の簡単な見取り図を見て話を聞いた。
喫茶店を出ると真っ黒な夜空に白い月と灰色の雲が流れていて、気のせいか口から吐く息も少し白くなっていた。
寒そうに仙道がパーカーの袖をこすっているのを見て牧が少し笑った。
「牧さぁん…。笑ってる場合じゃないっすよ」
「何で?」
「引き受けた半日バイトの話です。普通のバイトじゃないんだよ?絶対俺達むいてないって」
本当は『俺達』ではなく『牧さんは』といいたかったのだが、一応そこは遠慮したが、それでも暗い口調は隠せなかった。
牧は裏で皿洗いと簡単なオードブルなどを作るだけだし、たまに運べばいいだけだから大丈夫だろと呑気に返してくる。
全く仙道のいいたいことは通じてはいない。もともと言葉の裏を考えない牧にそれを期待しても無駄だとは分かっているけれど、不安と不満で仙道は返事ができなかった。少し間が空いた後、牧は照れくさそうに言った。
「悪かったよ。勝手に返事して。…でもな、お前も言ってただろう?あいつらにいつかお礼代わりに役に立ちたいってさ。しかもそれが割のいい一日バイトだし、お前の方が喜びそうなものじゃないか。今月も金欠なんだろ?」
「そりゃそうだけど…内容によりますよぅ…」
「いいじゃないか、別に一日くらい夜更かししたって。明後日、お前一講目入ってんなら俺が電話で起こしてやるぞ」
「だぁーかぁーらぁー。そうじゃなくてね。バイトの内容のことを言いたいの、俺は。分かってんすか?新宿二丁目にある深夜喫茶の厨房兼ウェイターなんすよ。つかね、どー聞いてても、絶対厨房なんてそうそういられないっての分かったでしょ?」
「夜でも地図見てなら…」
「場所の話じゃないって! いい、牧さん。そこにどんな人が集うと思ってんの?それくらい言わなくても分かって下さいよ?」
仙道が盛大に眉間に皺を寄せているのを見て、やっと牧は仙道が言わんとしていることを理解した。
そこで何故か牧は頬を赤らめて仙道から視線をそらした。そこは照れる場所じゃないですよ?と仙道は突っ込みたい気分に襲われる。
「分かってるよ…そんなこと。でも別に接客やるわけじゃないし、店が終われば掃除して帰ればいいだけの話だろ。それに…赤木に言われて、そうかなぁって」
「何て?」
訝しげに聞く仙道をよそに、牧は照れながら髪の毛をガリガリとかいた。
「まぁ、まだ三ヶ月だけど。俺たちもゲイになったことだし、問題ないのかなーなんて」
「な、な、なんつー馬鹿な入れ知恵しやがったんだ…あんのバカゴリラめ」
「え?なんだって?おい、大丈夫か?震えるほど寒いんなら、走るか?」
「別に寒さは大丈夫。それよりさ、確かに俺達付き合い始めて三ヶ月経つけどね。…そういう問題じゃないんすよ!!」
眼前できょとんとした表情で見上げている愛しい、妙なところがおバカな恋人に、どうやって説明をしたらいいのかと仙道は久々に本気で頭を悩ませていた…。
* * * * *
部活がまだ終わらないうちに副キャプテンから牧と仙道に帰宅許可の指示が出された。二人がロッカールームで着替えていると、休憩時間に入ったらしく赤木が顔を出してきた。
「すまんな、二人とも。これ、昨日渡しそびれた帰りのタクシー代だ。足りなかったら後で請求してくれって魚住が言ってた」
「わざわざいいのに…。ん?何だよ、人の顔ジロジロ見て」
「いや…。牧、お前体調悪いのか?疲れた顔してるぞ」
「昨夜な、仙道がなかなか寝かしてくれなくて。ちょっと寝不足なだけだ。大丈夫」
ため息混じりに呟かれた台詞に、赤木は眉間に皺を寄せて赤くなった。それを見て牧は慌てて補足を加える。
「ち、違うぞ赤木!変な顔してんな! 昨夜、仙道に接客の特訓を無理やり受けさせられてただけだからな!仙道はウェイターのバイトやったことがあるっていうから。それだけだぞ」
「あ…あぁ。そ、そうか。あはははは」
「そうだぞ。あはははは」
「接客特訓の後の方が時間くいましたけどね。あははは…痛いっ牧さん!何すんですかっ」
「お前が口を出すと誤解が増えるからやめろ」
「だって事実じゃんすか。練習とはいえあんな可愛い笑顔で『お待たせいたしました』なんて言うから、うわっ、危ねぇ!」
ロッカー室の椅子を器用によけて逃げる仙道と、その頭上を牧の鉄拳がスレスレで空を切っているのを止める気もおきず、赤木は盛大なため息をつきながらその場を去った。
「『喫茶』じゃなく『バー』だったと今日になって分かったんだが、言う必要もないな。本物同士だし問題ないだろう…」
歩きながら呟かれた魚住から預かった伝言は、結局二人には伝えられないままであった。
赤木剛憲。牧の親友でもあるだけに、堅物に加えて頭のネジがきっちり違う部分に閉められているところのある男だった…。
* * * * *
新宿など滅多に来る事もなく、まして二丁目などは一度だって来た事もない二人の表情は少し硬い。
夜だというのにネオンが光り輝き、思ったよりも人通りがあり活気がある。長身なだけでなく、体格も良い二人はスーツを身にまとっているため、どこから見ても学生になどは見えなかった。
夜の新宿で目立たないようにと魚住の気遣いで着てきたスーツの襟元が、仙道はなれないせいか少し窮屈に感じていた。しきりと襟元を緩めようと指を襟に突っ込んでいる。
「このワイシャツ、新しいから襟が硬くて。ボタン外すかなぁ」
「着いたらどうせ制服かエプロンでもあたるんだろ。それまで我慢しろ。おい、この地図さっぱり分からんぞ?」
「牧さん、逆ですよ。こっちをこの方角にして…だから、あっちの路地を曲がってですねぇ…」
青信号になっても地図とにらめっこで進まない二人の背後から、聞いたことがある声がかけられた。
「なんでお前らがこんな時間にこんな場所にいるんだ?」
振り向くと、二人の男が立っていた。一人は牧と同じくらいの長身で、少しキツイ上がり気味の眉と顎にうっすらと傷跡がある。覚えてはいるのだがあまりに久々に会ったため、仙道は咄嗟に名前を浮かべられなかった。
もう一人は全く見覚えもない茶髪の小柄な男。両方に共通しているのは整った顔だという点だけで、バスケ関係同士といった感じには見えなかった。二人は黒っぽいラフなファッションに紙袋を提げている。一方は腰に派手な柄シャツを巻いているため、二人の印象はバスケどころかチンピラと水商売ともとれる印象が強かった。
「あー…。あんたは元・湘北のポイントガード」
「せーんーどーうー。面白くねぇ冗談かましてんじゃねぇよ。おい、牧。テメェも黙ってねぇでツッコミやがれ」
「久しぶりだな、三井。お前こそ何でこんなところにいるんだ?」
牧は話しながら、一応三井の隣に立つ男へと軽く会釈をした。雰囲気が自分たちより年上に感じたからだ。茶髪の華奢な美形は軽く微笑んだ。
「はじめまして。僕は岸和田。これからバイトに行くところなんだ。悪いけど時間がないから…」
チラリと岸和田が三井を見上げたので、三井は慌てて言葉を継いだ。
「そういうわけだから、俺らは行くけど。お前らは何だよ?迷子か?さっきからすっげー目立ってんぞ」
「あ、あぁ。ちょっと店を探していて…。新宿は俺達さっぱり分からなくてな」
牧の手にあった地図を三井はひょいと覗いた。三井の綺麗な二重の瞳が大きく見開かれる。
「おい…この店…。お前ら、ひょっとして俺らと同じ半日バイトに雇われたんかよ?まさか客じゃねぇよな」
そこで残りの三人も三井と同じように驚いて固まった。四人の目的地どころか、目的まで同じであったのだった。
* * * * *
「まぁったく。なんでスーツ着てくるかね。お前らってバカ?」
与えられた長いエプロンを腰に巻きながら、三井は悪気の無い笑顔で言った。ギャルソン風なエプロンが細い腰になかなか似合ってさまになっている。
「魚住さんが夜の新宿歩くならスーツがいいって言ったから、一張羅わざわざ引っ張り出したんだよ。ね、牧さん。あれ?それは前で結ぶんですよ」
「ん?あ、そうか。通りで俺だけ魚屋のオヤジみたいになるはずだ」
ギャハハハと三井の馬鹿笑いが狭いロッカールームに響く。その横で紙袋に入れてきた黒っぽいスーツに着替えた岸和田がうっとりと微笑んだ。
「…牧くん…魚屋でこんなに色気のある人はいないよ。立派な体躯に似合ってるよ…」
「はぁ…。どうも」
「本当に…カッコイイっす…牧さん。腰のあたりが迫力あって色っぽい…」
「ば、バカ。お前までお世辞を真にうけるな」
「おーおー。牧、バスケの帝王じゃなく、今度は魚屋の大将でデビューできるんじゃねぇ?ぎゃっはっは」
「煩いぞ、三井。あ、バカ、やめろ。せっかく立て結びなおしてもらったのに」
三井が牧のエプロンの紐をひっぱろうとしているのを避けて牧が逃げる。それを岸和田が笑った。
仙道はうっとりと賛同していたが、ハッと笑っている岸和田を振り返った。なんかヤバイくねぇ?この人。牧さんを見る目が…オイオイ、嫌な感じ…。
マジマジと改めて岸和田を観察してみる。可愛い顔をしてはいる。牧さんとは真逆の意味で年齢不詳だ。ただアイドル系の普通の男には思えない…。なんとなくだが、立ち姿がすでに素人じゃない。やけに場慣れしているし、店に馴染んでいる。この人、もしかして本物のそっち系の人かもしんない…。
「おい、行くぞ」
牧にポンッと肩を叩かれ、少し考え込んでいた仙道は慌ててロッカーを閉めた。
ロッカー室を出る間際、牧が仙道にしか聞こえないように、仙道の耳元に小さく呟いた。
「…お前が、一番カッコイイぞ」
それだけ言うと、仙道から顔を隠すようにさっと牧は先に立って歩き出した。もうそれだけで仙道は岸和田のことなどすっかり念頭から外れ、白いシャツに黒いエプロン姿の牧の背にでれんとした顔を向けていた。牧の仄かに赤く色づいた耳までがたまらなくて、仙道は既に早く帰ってこの腕に抱きたいという思いばかりで脳内を満たしてしまうのだった。
すぐ隣の部屋は事務机とくたびれた小さな応接セットがある狭い部屋だった。そこにはオーナーらしき人とコックスタイルの人、そして黒スーツの男が立っていた。
「やあ、今日はすまないね。僕はオーナーの平岸。宜しくね。急にお願いすることになってしまったけれど、今夜一晩だけ皆自分をプロだと思い込んで頑張ってほしい。詳しい事は係り分担を今からするから、彼らに従ってくれ。あと40分後には店を開けるから、それまでにしっかり説明をきいて心構えもしておくように。…では、まずフロア担当…」
口ひげを生やしたオーナーが岸和田を見て片手を差し出してきた。岸和田もその手をとって会釈する。
「よく来てくれたね。歓迎するよ。君の他店での働きは彼から色々きいている。ぜひ長く勤めて欲しい。頑張ってくれ。期待しているよ」
「はい。宜しくお願い致します」
二人の会話の隣で黒スーツの淡白そうな顔の男が嬉しそうに瞳を細めて頷いている。どうやら知り合いらしい。ちらりと仙道は三井の横顔を盗み見たが、なにも表情には浮かんでいない。多分彼が別の似たような職業についていたことは既に知っていたのだろう。…では、どこでこの二人は出会ったのか?知り合いになる共通項はなんだろう。
そんなことを考えていると、いきなり間近に中年男のヒゲヅラがあって仙道は焦った。
「君達は背が高いねぇ。確かスポーツをやっているんだったね。ふぅん…三人ともそれぞれいいねぇ。魅力的だね」
くすくすとコックが平岸の後で笑った。
「オーナー。ご自分の趣味で分担しないで下さいよ」
「南雲ちゃんに言われなくても分かってるよ〜だ。ん〜。では、身長では一応威圧感の少ない君、フロア補佐お願いするね。武田君と岸和田君のサポートでカウンターの中の仕事をお願いするよ」
宜しくねと三井の肩をポンと叩くと平岸は仙道と牧を交互に見た。
「あとは厨房サポートとウェイターなんだけど。どっちにしようかな…」
すっと仙道が半歩前に出て平岸に軽く微笑んだ。
「僕、バイトでウェイターやってたことあるんで、慣れた方をさせて欲しいです」
「おや、そうなんだ。ではお願いするね。なに、大丈夫さ。うちは喫茶形式はもうやめてるから、メニューはそんなにないんだよ。すぐに覚えられるから。呼ばれるまでは厨房で待機していてくれ」
では、君は厨房補佐宜しくねと牧の腰をポンッと叩くとオーナーは岸和田となにやら机の上で書面を挟んで話し出した。
それぞれが一夜の先輩の指導をうけるべく所定の場所へと連れて行かれる。三井と仙道は武田という男に連れられ、さらに奥へと。
牧は南雲と呼ばれていたコックにロッカー室より奥の厨房へ通された。お互い軽く苗字を名乗って会釈程度の挨拶を交わす。
「あの…。ここ、喫茶店じゃないんですか?僕たちはそう聞いていたのですが」
思ったよりも広い厨房の中、磨かれたステンレスのテーブルの横の椅子を勧められ、座りながら牧は訊ねた。
白いバンダナできっちり髪の毛を隠し、真っ白いエプロンをつけた南雲は細いフレームの眼鏡を上げながら微笑んだ。
「うん。昔はね。でもオーナーがカクテルに懲りだして、バーテンの資格もとっちゃってね。それからはBarになったんだよ。厨房、立派だろ?喫茶の頃の名残なのさ。前はコックは五人いたんだ。でも今じゃ僕一人。本当は先日まで二人だったんだけど、辞めちゃってね。牧君は料理とかは得意?」
うっと牧が困った顔をしてみせた。それだけで通じたようで、南雲はにこにこと笑った。
「いいよ、得意じゃなくても。僕一人で本当は十分なんだ。ここ、見てよ。こういうのを皿に並べる程度の注文がほとんどさ」
開けられた戸棚には業務用サイズの乾物が沢山入っていた。それを見てやっと牧は緊張が少しとけてくすりと笑った。
「並べるくらいなら、僕でも出来ますね…。? どうかしましたか?」
首を隣の南雲へ向けると、驚いたような顔をして自分を凝視していたため、かえって牧の方が驚いて尋ねてしまった。
「え、あ、いいや、なんでも、なんでもないよ…。まいったなぁ…」
真っ赤になってうろうろと広い厨房内を南雲は歩き出した。意味もなくレードルなどを持ち上げては戻している。何がまいったのだろうかと不思議に感じたが、それよりも開店前の短い時間に色々教えてもらわねばと牧は別のことを口にした。
「メニュー、どんなのがあるのかなど、色々教えて下さい。宜しくお願いします」
「う、うん! あのさ、僕、南雲幸久っていうんだ。幸せに久しい。牧君はなんていうの?」
「牧紳一です。糸偏に申すの紳に数字の一です」
「紳一君かぁ…。いい名前だね。そう呼んでいいかな。僕のことは幸ちゃんって呼んでくれない?皆にそう呼ばれてるからさ」
もじもじとしながら奇妙なことを言われてしまい、牧としてはあまり下の名前で呼ばれるのは慣れなくて好ましくないのだが、一晩とはいえ先輩の言葉である。頷くしかなかった。けれどやはり一応は言っておく。
「僕は幸さんと呼ばせてもらいます。先輩をちゃん付けは…呼びにくいです。すみません」
「ううん、いいよ。じゃ、呼んでみて、紳一君」
「は? …幸さんってですか?」
言うなり南雲は壁に張り付いて妙な動きをしだした。耳が何故か赤い。『こういう職場に勤める人は変わっているんだなあ…』と、牧は不思議な生き物を見るように南雲のくねくねと左右に動いている背中を見て苦笑を堪えた。
フロアは想像以上に広く、ボックス席だけで6つはあった。カウンターも思ったより広いし席数もある。
武田は三井と仙道をカウンターに座らせて手際よく説明を始めた。いかにも日に当たっていないという白い顔ではあるが、和風の整った部類にはいる面立ちをしている。それに似合った静かな喋り方だった。ひとしきり業務説明を終えた後で、けだるげな顔でひらひらと片手をふってみせる。
「うちは元は喫茶だったこともあって、あまり接客とかはしない。だから今も仕事はホストというよりはウエイター。それでも客のリクエストでたまに一緒に座って話を聞くこともあるけどね。うちの基本は『聞き上手』だから。あと、安らげる場所を提供するってこと。オーナーから君達はゲイじゃない、ただの突発バイトって話は聞いてる。無理はしないでいいから、困ったことがあったら僕か岸和田君にすぐふっていいよ。ただ、どんな時も客を不快にさせないということだけは念頭において接するようにね。基本的に三井君はカウンターから出ることはないし、仙道君も呼ばれない限りは厨房待機になるから。料理運んだりテーブル片付けたりだから。けっこう力仕事も入るけど、大丈夫だよね」
仙道は静かに頷いた。と、三井が片手を小さく挙げた。
「カクテルの名前とか、こんなに沢山覚えられないです。こんな短時間で…」
「大丈夫。オーナーが酒全般作るし、勝手にオーダーも受けちゃうから。君はほとんど仕事ないよ。にこやかな雰囲気で立ってればいいから。飾りというか、カウンターに座った人の話の聞き役。楽な仕事だよ。でも持ち場を離れる時は仙道君か牧君と変わってね。オーナーはちょくちょくカウンターから離れるから、無人にならないように」
説明の後で店内の説明をうけた。帰る客の見送りや洗面所の清掃点検も仙道の仕事だと伝えられた。
出口に通じる細い階段や店内の照明・温度管理の出来る場所などを案内されたあと、仙道だけ厨房へ戻された。
「失礼しまー…」
厨房の扉を開けながら仙道の言葉は目の前の奇妙な光景に止まってしまった。
フロアの薄暗い雰囲気とは全く違う、白々とした蛍光灯に照らされたステンレスの壁面やキッチン、テーブルの室内で、男二人が密着している。もちろんその男とは自分の恋人の牧と先ほどのコック。
「おう、仙道」
くるりと牧が顔だけを入り口で立ち尽くしている仙道に向けてきた。すると慌てるようにコックが牧から離れて仙道へと向き直った。顔が赤い。
「ど…したんすか?」
「あぁ。幸さんが目にゴミが入ったというから見ていたんだ。でも見つからないんだよ。お前の方が俺より目がいい。見てくれないか?」
コックはギュッと牧のエプロンを握ると首をぶんぶんと左右に振った。
「大丈夫、なんか今取れたみたい!!もう平気。ありがとう紳一君。えっと、仙道君だったよね。丁度良かったよ。今から説明するとこだったんだ。座って座って」
「はぁ…。宜しくお願いします。えっと…」
「あ。僕は南雲幸久。宜しくね。えーと、どこまで説明したんだったかな…」
赤い顔で明らかにうろたえている南雲を見ながら、仙道は『何故牧さんを紳一君だなんて呼んでんだ?しかも牧さんまで相手をあだ名(?)で呼んでるし。何だよ今の不自然な状況は?目にゴミぃ?嘘だろテメェ…』と一気に警戒心を燃やしていたが、顔には出さずに大人しく説明を牧と一緒に聞きはじめた。
各自説明などを受け終えた頃。オーナーが「開店するよ」と大きな声で言った。それにあわせて全員が一礼し、それぞれ持ち場についた。
武田と仙道は玄関前に横付けされたタクシーから出てくる客を店内へと挨拶をしながら案内していた。厨房では予約人数分のグラスに水と氷を入れて冷蔵庫からお絞りを用意しだす。カウンターではオーナーと三井が挨拶をし、岸和田が客を席へと案内しはじめた。
こうして今夜の予定客が全員店内に入り、店は息を吹き返し先ほどとは別の空間であるかのように精彩を取り戻した。
最初の頃こそ注文が多いので厨房もカウンターも忙しくフル回転してはいたが、一通りとりあえずのオーダーが終わってしまえばパタリと嘘のようにすることがなくなってしまった。開店してまだ一時間ちょっとしかたっていないというのに、もう暇になってしまうとは…と、牧も仙道も厨房の椅子に座って不思議な気分で顔を見合わせていた。
「第二の波がくるまで暫く暇だから、二人とも楽にしてなよ。ねぇ?君たちってとても背が高いけど、何のスポーツやってるの?バレー?」
「バスケットをしてます」
「そうなんだ〜。ね、二人は友達なの?同じ部活とか?確か学生さんなんだよね?」
君達はとふりながら、南雲は牧の顔ばかり見つめている。牧も自分の方に視線があるため、律儀に応えている。
南雲の仕事の手際のよさや人当たりのよさは感心できる。しかし仙道はもう既に南雲が嫌で仕方がなかった。何かにつけて牧のことを馴れ馴れしく呼んでは体に触れている気がするからだ。牧ももう少しは嫌がればいいものの、自分が後輩だと思っているせいなのか、はたまた何も感じていないのか素振りは普段となんら変わらない。動じない、落ち着いているといえば聞こえはいいが、『この場合、ただの鈍ちんだよなぁ…』と、仙道は悲しい気分でいっぱいであった。
客に牧が何かされるのではと警戒して挑んだバイトではあったが、それどころか職場内でこんな身近にヤバイ奴がいるとはと、自分の計算違いにガッカリする。しかしここで自分の恋人を守れるのは自分しかいない。なるべく厨房に早く戻ってこれるよう、自分の仕事は手早くすませるしかないと気を張るしかなかった。
あと6時間半。辛いなぁ…。
真面目な牧が暇だからと話してばかりよりは下ごしらえなどを手伝いたいと申し出たため、何故か三人は注文も受けていないのにポトフを作ることになった。冷蔵庫に残っていたソーセージなど材料になりそうなものを見ていて南雲が決めたのだ。
仙道も知らなかったことなのだが、実は牧は全くといっていいほど料理ができない男だった。
震える手で恐る恐る人参をゆっくり切っている。その横顔は試合のときさながらに真剣そのものだ。
「牧さん…俺が切るよ。牧さんこっちやんなよ」
「…いい。話かけないでくれ…。指を切るわけにはいかん」
自分でも練習に響くようなことだけは避けたいと思っているらしい。慎重な動きは危なっかしさとあいまって仙道の心臓を嫌な感じでドキドキさせた。その横で南雲はうっとりと夢見るように小声で「…紳一君…真剣な横顔も素敵だ…」と呟いた。
その言葉は牧の耳には全く届いていないらしく、両肩をいからせて前かがみで小さく切っていた。
仙道は玉ネギを炒めながら二人に聞こえないようにため息を零す。もうやだ…このエロコック。腰うごめかしてんじゃねっつの。
コンコンと扉のノック音のあと、武田が「注文追加〜」と入ってきた。厨房に漂う香りに(お?)という顔をする。
「あ、武ちゃん。今、暇だったからポトフ作ってんの。あと半…いや、一時間したら出来るよ。オーナーに今日の特別メニューで出すのはどうってきいてみて」
注文のメモを渡しながら武田が頷いた。
「お得意さんだから喜ぶんじゃないかな。オーナー見栄っ張りだし。今賑わってるから、一時間後なら皆腹減るんじゃないの」
そういい残すと武田はまたのんびりと厨房を出て行った。
すると南雲は先ほどデレデレと牧を見ていた顔とはうってかわったキリッとした表情で仙道に向き直った。
「じゃあ、二人でこのメニューやっつけちゃおっか。仙道君はこれ宜しくね。他全部僕やるから」
あ、と牧がまな板から顔を上げて南雲に指示を仰ごうとした。しかし南雲はにこやかに微笑んで手を左右に振ってみせる。
「いいよ、紳一君はそのままキャベツ千切ってて。大丈夫、大した注文じゃなかったから。二人で十分だよ」
「そうですか…。じゃあ。いつでも手伝いますんで、言って下さい」
「あぁ。でもね、応援してほしいなぁ〜。ね、頑張ってって言って」
「はい。幸さん頑張って下さい。仙道も」
南雲は満面の笑顔で頷くと、隣のシンクで手際よく作業を始めた。仙道は頼まれた乾物を皿に並べながら『俺はこんなコントみてぇなの、なんで大人しく見てるしかねぇんだろ…トホホだぜ』と、情けなさに頭痛がしていた。
どうにも好きになれない南雲ではあったが料理の腕は確かであった。注文を鮮やかに手際よく仕上げていく。仙道と牧が交互に狭い廊下を出来上がっていく料理を手に運んでは戻るを繰り返す。喫茶店ではなくなったと言っていたわりにはメニューにもない料理の注文などもあり、流石に長年のお得意さん客への対応であると思わされた。
最後の料理を運び終えた仙道が厨房へ戻ってくると牧から中皿にのったポトフとスプーンを渡された。南雲は注文を運んでいる合間にポトフの味付けを完璧なものに仕上げてみせたのだ。
「お夜食代わりに先に少し食べよ。さぁ、二人とも座って食べて」
にこやかな南雲の笑顔と美味しそうな湯気と香りに二人はすぐに座って食べ始めた。牧も仙道も出来上がったばかりのポトフの味に目を丸くした。短時間の煮込み料理とは思えない本格的な味であったのだ。
「僕ねぇ。実はここに入る五年ほど前、○○○ホテルのレストランで働いていたの」
二人の素直な感心した様子に南雲は少し照れた様子で自分の昔を語った。見掛けは少し弱々しい感じに思わせるが、その実かなりな苦労人だったらしい。気づけば仙道まで大人しく山あり谷ありだった南雲の過去の話を聞いていた。それでも仙道は内心、あまりに出来すぎたドラマのようにも感じてしまい、半信半疑で聞いていた。しかし隣で聞いている牧は素直に信じたらしく、重々しく頷いている。
「ふふ。ごめんね、こんな昔話聞かせちゃって。あ、僕ちょっとトイレ行ってくる」
自分の話に照れたのか南雲はうっすらと頬を染めて厨房から出て行った。これはチャンスだ。仙道はおもむろに牧の手を握った。
「牧さん。南雲さんが戻る前に話しておきたいことがあります」
「そうか。奇遇だな。俺もだ」
「え?牧さんもなの?」
「ああ。まずお前から先に言え。手短に頼む」
少なからず驚いた仙道ではあったが、次に牧も話したいならばと率直に言った。
「牧さん、南雲さんに気をつけて下さい。彼、絶対あんたのこと恋愛対象として見てます。二人っきりの時は気をつけて下さい」
「いや、それは大丈夫だ」
「何を根拠にそんな自信たっぷりなんすか〜。いいから、お願いだから気をつけて下さい。俺のためだと思って」
この通りと頭を軽く下げてみせる。しかし牧は真面目な顔で仙道の手を握り返してきた。
「根拠はある。彼が言っていた。俺は彼の亡くなった弟さんに似ているそうだ。肉親に似たものに手は出すまい。きっと
似ているからついかまってしまうのだろう。そんなことより、次は俺の番だ」
「いや、ちょっと」
「いいから聞け。お前こそ武田さんに気をつけろ。彼はホモ…いや、ゲイか?とにかくどっちかだ。そしてお前を狙っている」
仙道は驚いて牧の顔を穴が空くほど見つめてしまっていた。この恋愛沙汰に鈍い恋人は何を言い出したんだろう??
牧は仙道の目を真剣に見返すと、強く頷いてみせた。
「冗談じゃないぞ。お前の仕事は彼と組むことが多い。あと三時間。無事でいろ。なるべく俺もお前のそばにいたいが…こればっかりは仕事で厨房からそうそうは出れないからな。頼む。俺の見苦しい心配と思ってもいいから。それこそ俺のためだと思って気をつけてくれ」
「そ…んな、別に見苦しいとか思わないけど、武田さんは別に…。俺や三井さんのこと、ノンケだって知ってたし、んな素振りもなかったよ?」
「ノンケ…。ああ、ノーマルのことか。うん。いや、だから危ないんだ。南雲さんが言っていた。彼はその…ノンケが好きだそうだ。しかもどうやらお前が常日頃から言っているタイプの男らしい。俺もな、実は妖しいと思っていたんだ…。ミーティングの時な、武田さんはお前をとてもその…熱い目でみていた。俺には分かるんだ」
「分かるって、そんな…」
あんたが分かる程度のこと、俺が気づかないわきゃねーでしょと続けたいところを堪える。眼前の牧は普段あまり見ないような必死な顔をしていた。思わず自分を心配してそんな顔をしてくれるのかと、見当違いな部分で胸が熱く震える。
愛しいと思う気持ちで握りあった手の上にさらに空いていた左手を重ねてしまう。牧は困ったように少し眉間に皺を寄せた。
「分かるんだよ…。俺はもともとは同性に恋愛感情なんて抱かなかった。けれどお前に惚れた。お前にはその魅力があるんだ…」
「牧さん…」
「もっと自分の魅力を自覚してくれ。俺は心配でかなわん…」
よほど必死なのだろう。普段は照れてそこまで自分を思っているだなどと言ってくれない照れ屋な男が心配そうに告白している。
それだけでもう仙道の心には幸せの鐘がリンゴーンと鳴り響き、頬は熱くなる。ハッキリ言ってあんたこそ自分の魅力に気付いて警戒心を持ってくれと言いたいとこだけれど、今のこの信じられない薔薇色な状況を崩したくなくて何もいえなくなる。
「な。頼む。気をつけてくれ。相手は身長は低いが柔道の黒帯だそうだ。危ない時は場所など考えず叫べ。俺が駆けつけるから。いいな」
仙道は熱に浮かされたように(実際、喜びのあまりのぼせあがっているのだが)こっくりと小さく頷いた。
牧もやっとホッとしたように少し微笑んでみせる。そのまま空いている右手を仙道の頬にそっと添えた。
「素直で可愛いぞ、仙道。…家に帰るまで我慢できん。少しだけ…いいか?」
軽く触れてきた唇。うっとりと仙道も瞳を閉じて応えるようにそっと唇を薄く開く。いつもより少し熱く、ほんの少しワインの香りがする舌が仙道の唇の上を軽くなぞって離れた。いつもの真面目で堅い牧とは思えない行動に胸は高鳴る。どこまでも甘やかな夢のような時間…。
(ん?ワイン…?)
パタパタと足音が聞こえてきたため二人は手を放し離れた。お互い得意のポーカーフェイスで戻ってきた南雲を迎える。
「ちょっと一服してきちゃった。ごめんね遅くなって。何か注文入ってた?」
「いえ、なにもなかったです」
牧と南雲が話をしているのを仙道は黙って見ていた。どう見ても牧を見る南雲の瞳は弟などを見るものではなかった。自分もそうだったが、牧さんがきっとまた勝手に誤解して自分を弟と思われていると思い込んだとしか思えない。本当はどう贔屓目に見ても外観的には明らかに南雲の方が軽く5歳は年下に見えた。先ほどの昔話から察すれば彼が牧さんよりも10は上だと分かるだけに、
『どうして牧さんはこう…人と思考回路の回り方が違うかなぁ。自覚がないだけに治しようがないよ…』
ふう…と、ついため息が出てしまった。きっと無意識で『可愛がられる=年下に見られた』と思い込むように回路ができているのだろう。そんなところも可愛くはあるが、これはおいおいに治させないといけない。彼のために。そして俺のためにも!!
ぐっと心の中で握り拳を作ったところで仙道にお呼びがかかった。
椅子から立ち上がりかけた時、こそっと牧が体を揺らした素振りをしながら小声で耳打ちをしてきた。
「…気をつけろよ」
軽く視線を交わして仙道は『あんたこそ』と南雲の前では言えないため、黙ってフロアへと向かった。
* next…
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