オトコハツライヨ? (後編)


南雲と牧は何を話すこともなくテーブルを挟んで座っていた。もともと牧は初対面の相手とは何を話してよいのか分からず、話しかけられれば気さくに応えはするが自分から進んで話す方ではなかった。先ほどまで仙道がいないときでも賑やかだったのは南雲の饒舌さに引っ張られての会話といえた。しかし南雲が口を開かなければ、結果、厨房内はしんと静まりかえる。
いつもの牧であればこれほど静かな状態が長く続けば気を使って何かしら話題を探そうと頑張るところなのだが…。
「紳一君、とても眠そうだよ。…無理もないよね、こんな時間帯のバイトって慣れてないんでしょ?」
ぼんやりと壁を見つめていた牧の瞳がゆっくりと南雲に向けられた。
「はい、実は初めてなんです。もともとあまり夜更かししないんで」
「ふふ。そんな感じする。じゃあ、幸ちゃん特製のデミタスコーヒーとワインケーキをご馳走しちゃうね」
「あ、その…コーヒーはありがたいですが、ケーキはもう腹がいっぱいで」
立ち上がった南雲はくるりと体を半回転させると牧の肩に手をそっと乗せて顔を近づけた。
「…ケーキ、美味しくなかった?頑張って作った試作品だったんだけど…」
「いえ、美味かったんですけど、どうもワインの量が多いみたいで、酒臭くなりそうだから」
「なら余計にお客には出せないよね…。いっぱい作っちゃったの…捨てたくないよぅ、せっかく頑張ったんだもん。ねぇ、減らすの手伝ってよ。大丈夫、紳一君はもうフロアにもの運ぶとかないよ。お客も半分は帰ったみたいだし。お願いだよ、助けると思って」
細い眉毛を悲しそうに寄せて必死にせがまれては牧としても断りきれない。苦笑いで頷く。
「はい。じゃあ、あと一個だけご馳走になります。残りは皆が仕事終わったら配りませんか。香りはきついけど味がいいから喜びますよきっと。仙道なんかは特に喜ぶと思います。あいつ、洋酒のきいたケーキとか好きだから」
「うん。そうだね。では今夜最後の大人なお味のスイーツを楽しみましょう〜」
弾むような足取りで冷蔵庫へ向かう南雲の背を牧はあくびを噛み殺しながらぼんわりとした瞳で見ていた。



帰る客数人をタクシーに乗せたり階段と通路の泥を拭いたりと仙道は簡単な雑務を淡々とこなしていた。途中、酔いすぎて具合が悪くなった客をトイレまで案内して少々介抱めいたことをするなどあったが、他は特別変わった仕事もなかった。
外とフロアを往復することが多いため階段の上り下りが多いけれど、そんなものは部活で鍛えた脚力には全く支障などあるはずもなく…。
「やぁっぱ、気疲れなんかな〜」
「そうだね。慣れない仕事だから余計にねぇ」
ぼそりととりあえず今の時点では最後の客を見送った時に零してしまった愚痴に背後から予想もしなかった返事が返ってきて仙道は飛び上がるのを堪えなければならないほど驚いた。慌てて振り向くと出入り口の横にある、街灯の光も届かない細く暗い路地で武田が煙草をふかしていた。
「た、武田さん?なんでこんなとこで」
「店のトイレは誰か使ってたし、ロッカー室だと服が臭くなるから。自分の服はいいけど、他の人に悪いし〜。ちょっと休憩してたの、オーナーに黙っててくれると嬉しいなぁ」
説明などはテキパキとしていたが、彼の本来の口調というのはこちらののんびりしたものの方なのだろう。仙道は軽い笑顔で頷いてみせた。
その笑顔に武田はニヤ〜っと口角を上げた。どうやらこれが作り笑顔ではない、彼本来の笑顔らしい。…作り笑顔の方が印象がいい人もいるのだなと仙道は心の中でこっそり思った。
「俺…っと、僕、先に上行ってますんで、もう一本休憩して下さい。もちろん誰にも言いませんから」
「ありがとう。お言葉に甘えて、もう一本だけ…っと。あれ?あ、ヤベェ」
「?」
「悪い、仙道君。ライター落としちゃった。一緒に探してくんない?」
先週オークションで落としたばっかのZippoなんだよ〜と、情けない声でしゃがんで探し出した。確かにその暗がりでは簡単に見つかるものではないだろう。
少し嫌な予感はしたが、こんなに細い路地であれば何かしようにも男二人が楽に身動きできるものでもないと判断し、仙道は路地へと足を踏み入れた。

細く暗い路地ではしゃがんだだけで身動きがとれないような感じだった。自分が出口側にいるという安堵感も手伝ったのか仙道は警戒心を緩めて本気でライターを探していた。落ち葉のようなゴミと判別不明の雑多なゴミが思ったより落ちているためなかなか見つからない。
探している間にお互いの手が重なった。仙道がさっと手を引くと武田はまたあの印象の悪い笑顔を見せた。
「…仙道君さぁ、僕のこと誤解してない?もしかしてミーティングの時に君をジロジロ見てたの、気に障ってた?厨房から戻ってから僕のこと避けてるように感じるんだけど」
「え…」
「僕、結婚してるから。指輪は仕事上してないけどね。君を見てたのはね、大きいな〜って思ってさ。何センチあんの?」
「194です。別に誤解なんてしてません。態度悪いと感じさせてしまってたのなら、すみません…」
普通に返事を返しながら内心で少し焦ってしまった。牧さんの恋愛関係については全く当たらない勘ぐりに踊らされてしまったなんて、きっとあんまり嬉しいことをあんな顔で言われて舞い上がってしまいすぎたせいだろう。思わず自意識過剰に取られてしまったかと恥ずかしくなってしまう。俺の方からは暗がりの上に逆光だから表情は武田さんに伝わってはいないだろう。それがちょっと救いだ。
「あ〜、いいんだよ気にしないで。こんな職場だし警戒心は大事だよ。特に君みたいにルックスのいい奴ならなおさらね。僕は172なんだ。柔道を今でも続けてるんだけどね。昔、無差別級が得意でさぁ、よく大会で賞とったんだよ」
「無差別級ですか。じゃあ、大きい人を投げてたんですか?」
「うん。だから大きい人を見るとつい戦闘モードで見ちゃうんだよね。えっと…牧君もかなり大きいじゃない。彼なんて投げたらスッキリするだろうなーとか。背負うならつり手は…とか考えちゃってね」
ニヤリと武田が笑ったので仙道もつられてくすりと笑った。あの恋愛激ニブな牧さんが反応したのは武田さんの戦闘モードの眼だと思うと妙に納得した。戦闘モードと恋愛モードをとっちがったなんて、彼らしい。俺は勝負系には反応は鈍いから気づかなかったのだろう。
「あっ。あったあった。悪かったねこんな狭くて汚いとこで探させるの付き合わせて。これだよ、これ」
「へぇ…燻し銀っぽくて渋いっすね」
仙道は差し出された武田の掌の上で鈍い色で輝くZippoを少しかがんで覗き込んだ。
と。後頭部に突然衝撃が走り、仙道の視界は一瞬にしてブラックアウトした。元々前かがみな状態で覗き込んだ形だったので、仙道の体は武田の差し出した左腕の中にどさりと落ちるように覆いかぶさる。
よろめきながらも自分より大きな体の仙道を抱きとめて武田は聞こえていない仙道の耳へねっとりと囁いた。
「…結婚してるのは嘘じゃないよ。ただ、僕はバイなんでね。両方いけちゃうんだな〜」
奇妙な笑い声を漏らしながら武田は少し奥へと更に進んで小さなドアを片手で開けて仙道を担ぎ入れた。


「二個食べてやっと寝付く人なんて。普通は一個…半分?それくらいで寝つくはずなんだけど。よっぽど仕事が気になったのかなぁ。真面目なんだね、紳一君」
愛しそうに南雲はテーブルに突っ伏すように眠っている牧の頬を指で撫でた。
「僕は武ちゃんみたいに力技は出来ないから焦っちゃったよ。薬が効かなかったら手の出しようがないもん。…さて、どうしよっかな」
壁の掛け時計を見上げる。まだ閉店までに時間がある。途中で帰ったというのには不自然な時間。
「…本当は店でやるのは好みじゃないんだけど、仕方がないね。こうなると自分よりかなり大きい相手は大変だなぁ…」
南雲は厨房の最奥にある倉庫とは名ばかりの狭い納戸を開けた。ここにとりあえず彼を隠しておいて、そして武ちゃんと連絡を取り合おう。きっと武ちゃんは仙道君の確保を失敗していないだろう。
以前、気に入った奴がきた時に二人で組んでやったことを思い出す。オーナーへの上手い言い訳やご機嫌取り、全て武ちゃんが上手い事やってくれた。
今回オーナーに『牧君と仙道君は用事があるからオーナーへの挨拶は省略させて帰した』とでも言うのかな。
かなり前に一回やっただけだけど。きっと今回も上手くいく。それに普段ちょっとお目にかかれないくらい上玉だもん…武ちゃんだって乗り気だったしね。
「早く食べたいよ〜。武ちゃん〜早く電話出てよぅ〜」
くねくねと体を捩じらせて牧の背中に抱きつく。ガッシリとした好みの肉体の感触に歓喜で鳥肌がたつ。この体にこの渋いマスクが熱い瞳で自分を襲ってくることを考えると、思わずそれだけで下半身が熱くなった。
両手足を縛ってしまわないと意識が戻ってきた時に逃げられるからと、用意してあったロープで縛り上げる。
「お、重い〜。予想はしてたけどこりゃ大変だよ〜。ううう、武ちゃん助けて〜」
熟睡中の人間というだけで重たいのに自分より遥かに身長も高く体躯もいい男を背負って、南雲は眼と鼻の先にある納戸まで泣き言をあげながら休み休み運び入れた。
「汗かいちゃったよ〜。こういうことじゃなく、違う事でたっぷりかく予定なのに〜」
南雲は嬉しくて止まらない独り言をご機嫌で連発しながら鼻歌交じりでドアを閉めた。


客が全員帰ってしまい、三井はカウンターから出て椅子に座った。くすりと岸和田が笑う。
「立ち仕事だから疲れたかい?」
「あ〜…。いえ、なんつーか、気疲れしたっていうか。俺は敬語使うだけで疲れが倍増する体質なんで」
「そういう体質ってあるんだ。面白いね。じゃあ僕が慣れない仕事で頑張った三井君にご褒美をもらってきてあげようかな」
「え。飯?なんか食えるものっすか?」
明け方四時近い時刻。お腹がすいていた三井は目を輝かせた。途中でポトフが客を含めて全員に振舞われたが、客と店員との量の差は歴然としたもので、あんなものはただの焼け石に水といった程度のものにしかなってはいなかったのだ。
あまりに期待の篭った視線を向けられ、岸和田は苦笑を漏らしながら頷いてフロアを出た。

厨房の扉をノックして中へ入ると汗だくな南雲以外誰もいなかった。
「あれ?仙道君と牧君は?武田君もいると思ったんだけど…フロアに戻ってこないし。なんで南雲君一人なの?しかも息きらして…」
「あ、ああ。えっと。さっきまで三人ともいたんだけどね。それよりどうしたの?何か用事あったんじゃないの?」
明らかに動揺している南雲を見て岸和田はふと開店前オーナーと話していたことを思い返した。
オーナーが岸和田に漏らしていた言葉。
『今じゃ武田君と南雲君しか残っていなんだよ…。ていうか…彼らが入ってから従業員内の雰囲気が変わってしまったようでね。僕はもっとこう、昔みたいに皆ほがらかにやっていきたいのに。頼むよ岸和田君。これから人も増やすし、明るい雰囲気になるように変えていきたいんだ。長くいておくれね。そしてね、何かあったら従業員内ですませず、なんでも僕にも声がけして』
昔、客としてこの店に来た事があった。その時はとても雰囲気もよく、自分もこういう店で働きたいと思ったことを覚えている。
それが今やっと叶ったと思ったら、まだ来て半日だというのになんだかきな臭い。オーナーが悪いわけじゃない…でも何かが胡散臭い。強いて言うなら武田の表裏の強い性格のせいか、はたまたこの南雲の奇妙な雰囲気…いや、態度か。
「…岸和田君…何か言いたい事でもあるの?何でじっと見てるのさ」
苛立たしげに南雲がトントンと指でテーブルを叩く音で岸和田は腹を決めた。気になることはスッキリさせようと。まだ勤めて一日目でこれでは先が思いやられる。長くいて人間関係がきっちり出来あがる前に面倒ごとは片付けてしまいたい。
「いいや、別に。ちょっと初日で疲れたんだ。休ませてよ。フロアにはもう客いないしさ。いいだろ?」
ニッコリと腹にあるものを綺麗に隠して岸和田は笑って南雲の前の椅子に腰を下ろした。南雲の眉が一瞬嫌そうに寄ったのを岸和田は見逃さなかった。…何か、ある。
南雲もまた嫌な感じを岸和田に抱いたようで、ふいと席を立つと冷蔵庫へと向かった。
「岸和田君、お腹すいてるんじゃないの…?試作品でワインケーキ焼いたのがあるんだよ。ブランデーケーキはよくあるけどさ、ワインは珍しいでしょ。良かったら食べない?」


「遅ぇ。岸和田さん、他の奴等とくっちゃべって俺の飯のこと絶対忘れてる」
小さく文句を呟いたつもりが思いのほかフロアに響く。誰もいないフロアは先ほどまでの賑やかさはどこへやらで、朝焼けが始まる一歩手前といった寂しさだけが窓ガラスに映し出されていて気分だけが滅入る。
元来淋しがり屋である三井は一人で慣れない場所にいるというのが苦手であった。そわそわとフロア内を意味もなく歩き回る。
と、扉が開かれる音がして足を止めて振り返った。
「遅いっすよ岸和田さ……あ。オーナー」
「おや、三井君一人かい?ごめんねぇ、奥で長電話してて。岸和田君待ってるの?あれ?武田君は?」
「岸和田さんは厨房に行ってます。武田さんは…そういえばさっきからいないっす。俺、探してきましょうか?」
「ああ、いいよ。僕がみてくるから。三井君はそこにいていーよ」
そういい残すとまた平岸は来た時と同様の唐突さで去っていってしまった。
「…俺が探してきたかったんだっつーの。チェッ。もっかい木暮に電話しちまうかなぁ…まさか寝てねぇよな」
また一人にされてふて腐れた三井はポケットに入れていた携帯の電源を入れた。

朝焼けがゆっくりと始まってきた空を見上げる。この時間が一日の中で平岸は一番好きだった。仕事が忙しい日はこの景色を一人でこうして楽しめないけれど、ゆとりがあるとなるべくこうして玄関口から一人で空を見上げるようにしていた。最近は社員の入れ替わりが激しくて、なかなかこうした時間をとることはできなかったからか、一際美しく感じる。
腕を大きく広げて深呼吸をしてみる。誇りっぽいような清々しくない空気がまた、よかった。
一応形だけ声を出して探してみる。
「おーい、武田くーん、仙道君やーい、さぼったの怒らないから出ておいで〜」
なんてね。と、一人突っ込みを入れた時にタイミングよく隣の細い路地から盛大な物音が聞こえて思わずビクリと身を縮める。
恐る恐る薄暗い路地を覗いてみる。誰もいない。ドキドキと嫌な感じで鳴る心臓を押さえながら更に覗き込む。
ドガンッ!!ガンガラガッシャーン!!と、また何かが崩れるような音が聞こえた。音源は普段滅多に使うことのない、自分のとこの倉庫からだった。
「ひぃ〜。なんなの〜いまの〜。ヤダよ〜…また酔っ払いが鍵壊して入ってつぶれてたとかってのはゴメンだよ〜」
自分のところの倉庫からでなければ聞かなかったことにして店へ引き返したいところではあったが、平岸は仕方なく恐る恐る
ドアの取っ手に手をかけた。鍵はやはりかけられておらず、簡単にノブは回った。あきらめて力いっぱいノブを引く。
「そこにいっ…ぐおっ!!」
体ごと入り口から外へ吹っ飛ばされた。そのまま隣の建物の壁にしたたか頭を打った平岸は頭を抱えて汚い路地へと倒れる。
狭い入り口からのっそりと出てきた長身の男は平岸を見るなりスットンキョウな声をあげた。
「お、オーナー!?すんませんっ大丈夫っすか!?うわーヤベー!!武田の仲間かと思って殴っちまったよ」
大丈夫ですかと長い腕に支えられて平岸は涙目で自分を支える男を見上げて弱々しく呟いた。
「仙…道くん…何事…?武田君がどうか…イタタ…したの?」


客もいなけりゃ従業員(この場合自分は除く)もいない。木暮と長電話をしてるところを見つからないですんだのは良かったけれど、
「もう限界だっ。退屈な上に腹まで減ってて黙ってられっかっての」
フロアが無人になるからと耐えていた三井ではあったが我慢も限界となり、足音も荒く厨房へと向かい勢いよくその扉を開けた。
「待ってらんねかったっす!俺にも何か食わせて……って…あの、何をしてるんすか?」
煌々とした蛍光灯の光のした、あまり綺麗とは言いがたい床に南雲は腹ばいの形で、その上に岸和田が押しかぶさる形で伏していた。
岸和田はスッと視線だけを一瞬三井に向けた。それだけで三井は背筋に冷水を浴びた感覚を抱いた。かなり昔にこの男がよく浮かべていたあの瞳。昔、自分がバスケットから遠ざかりたくて誘われるままに安易に足を踏み入れた暗く狭い世界。その中でも更に深く、これ以上いってはシャレにならないと本能が教えたその奥で笑っていた男の、瞳。
震えそうになる体を抑えるために三井はあえて普段の声音を出せるように腹に力を入れてみせる。
「岸和田さん…」
パッと岸和田が南雲の後頭部を押さえつけていた手を緩めて上半身をひねるようにして三井を見上げてきた。その顔はもう先ほどの殺気を滲ませたどす黒いものではなく、ここ数年の『いつもの』穏やかな彼のものに戻っていた。
一気に血の気と共に安堵感が三井の全身に戻り、我知らず抑えてしまっていた息が深く漏れた。
「やぁ、ごめんごめん。そうだったね、飯を頼みにここに来たのに、すっかり僕、本来の目的忘れちゃってたよ」
下に敷かれていた南雲が逃げ出そうと少しもがいたようだったが、下半身をがっちりと岸和田の二本の脚に挟み込まれているため無駄に終わっていた。
「南雲君がね、ちょっと小賢しいマネをしてくれたんで。今後のことも考えて、すこぉしだけお相手してあげようかな、なんてね。あ。そこにあるケーキ、食べない方がいいよ。睡眠薬がたっぷり入ってるみたいだから。それで牧君もやられたみたいだし」
「えっ!?なんで薬!?てか、牧は?何で牧を?」
事態が全く把握できないまでも、先ほどの物騒な岸和田の眼とテーブルの一口だけかじった後のあるケーキ、そして確かにここにはいない牧の存在に三井はうろたえた。そんな三井をちょいちょいと指で呼ぶと岸和田はくすりと笑った。
「牧君は大丈夫みたいだよ。まだ何もしてない時に僕がお邪魔したみたいでね。で、僕が邪魔になると判断して僕もついでに眠らそうとしたみたい。…よっと。はい、三井君バトンタッチ。逃げないようにこいつ抑えてて。こいつね、弱そうなフリしてるけどけっこう悪いよ〜。叩けば他にも埃がいっぱい出てくるとみたね。まぁ、その楽しみはあとでオーナーを交えてゆっくりやるけど」
言われるままに三井は南雲の背に座って首の付け根を両手で押さえた。呻いた南雲の頬には岸和田にされたのだろう、二〜三回張られた痕が赤くついていた。

「…三井君、どけてよ。どけてくれたら君は無傷で帰してあげるから。僕にこんな酷い事して、岸和田…ちくしょう…。武ちゃんが戻ったらギッタギタにしてもらうんだから」
くぐもった怒りに満ちる声は岸和田に聞かれないためなのかとても小さく、三井には全部は聞き取る事はできなかった。
「おい。なんだって?最後の方、もっぺん言え。お前、他にもつるんでる奴がいるんかよ?おい!!」
「いいって、三井君。どうせあと仲間がいるとしたって、片手分もないでしょ。僕が昔をちょーっと思い出して体動かせばどうとでもなるって。それよりほら、バナナ。これでも食べてなよ」
冷蔵庫からバナナを放られ、三井は受け取りながら苦笑いを返す。
「そりゃまぁ、岸和田さんが本気だしゃ…。それにしても、こんな状況で物食うのも、なんだかなぁ…」
正直、先ほどから驚きの連続で空腹感など忘れていた三井ではあったが、事態が長引くことを考慮して口と片手で器用に皮をむいて食べだした。

大型の食器収納棚より奥にある扉を岸和田が開けた。そこには冷たいビニールタイルの上だというのに手足を縛られたまま気持ち良さそうに寝ている牧がいた。
「やっぱね〜。隠すとこったらここしかないよね。安易だねぇやることが。ていうか、鍵もない場所だってのに。やること雑だよ南雲君。まぁ、相手が寝てる間に色々して、んで写真やムービーに収めて後でゆするかたかるかしてたんだろうけど」
「ゆすってなんかない…」
三井の下で弱々しく南雲が呟いた。三井が南雲の頭をガツンと一発殴る。
「ゆすってなかろーがなんだろうが、テメェのやってるこた犯罪なんだよっ。薬盛った時点でテメェなんざブタ箱決定なんだ。黙ってろ」
キツイ口調ではあるが後半部分は涙声のような震えが混ざっていた。南雲が何人の被害者を今まで生んでいたのかは知らないが、自分の知っている、しかもバスケで競い合ってきた、いわば『仲間』が酷い目にあうところだったと思うと怒りで目頭が熱くなったのだ。
「…三井君。大丈夫だよ牧君は。本当になんにもなかったみたい。とても気持ち良さそうに寝てるよ。いい夢でも見てるんじゃないかな…。だからほら、そんな顔しないの。手も足も縛った跡も残ってない。暴れるとかもしないまま、ホントに寝てる間の出来事だったようだし。ね」
ズッと鼻をすすりあげて三井が頷いたのを見て岸和田も優しい顔で頷いた。そしてまたくるりと納戸へと戻り、歌うように言った。
「ふふふ…。僕のちょっとしたお手柄に対し眠り姫からお礼をもらってもいいよね〜♪ 実は最初から目をつけてたんだ。眠り姫を起こすのは王子様のキッスって相場が決まってるしね♪」
「ダメっすよ岸和田さん!!それとこれとは」
「いいじゃん減るものでもないんだし〜。キスだけだもん」
まずは額からと岸和田が牧の前髪をかきあげて唇を落とした。むずがゆそうに牧の眉間に皺が寄せられる。どうやら薬は思ったよりも牧の体質には効かないらしい。もう覚めはじめているのかもしれない。
次は頬に…と牧の精悍な頬に手を添え顔を近づけた。すると目をつぶったままの牧の両手がふいっと上がり岸和田の両頬を優しく挟んだ。そのまま岸和田の頬に牧は己の唇を微かに触れさせた。そしてまたパタリと両手を下ろすとゴロリと寝返りをうった。
「すまん仙道…まだ寝かせてくれ…あと10分…」
ポカンと口を開けたまま岸和田は健やかな寝息をたてている牧の横顔を暫し見つめていた。が、よろけるようにようやく立ち上がると先ほどまで自分が座っていた椅子へと戻りどっかりと腰を下ろして笑い出した。
「参った!!いやー、マジで参りました!!この僕が頬にキスされたくらいで動けなくなるなんて。しかも仙道君と間違えられてるし!!」
ゲラゲラと高笑いをする岸和田を床から見上げながら三井はぼそりと呟いた。
「…知らんかった…奴等もお仲間だったなんて。しかも神奈川の帝王と天才……すっげー知りたくなかった…」


階段を二段飛ばしで駆け上がってくる音が派手に響いてきたため、三人は扉を開けて次に飛び込んでくるのが誰かはすぐに予測がついた。
岸和田は笑いを堪えながら。三井は苦虫を噛み潰したような顔をしながら。南雲は最後の望みが消えたことに落胆しながら扉へ視線をやった。バアンとこれまた派手な音をたてて仙道が息を切らしながら飛び込んできた。
パチパチパチと岸和田が拍手で迎える。
「王子様のご登場〜」
「は? あの、えっと。あっ!!」
呑気な拍手の出迎えに瞬間怒気をそらされたが、すっかり観念しきった様子で三井の尻の下で大人しく床に伏している南雲を見て仙道が再び険しい顔で足早に駆け寄る。
三井を片手でよけさせると両腕で南雲の首元を掴み、そのまま腕をクロスさせ、首を絞めるあげる形で南雲を立ち上がらせた。
身長差がかなりあるということもあるが、バスケットで鍛え上げられた両腕で吊り上げられ、南雲の足は空しく宙に浮いていた。
「テメェ…」
「はい、ストップ。こいつをシメんのは後にして。王子様はさっさとあっちでいい夢みてる大きいお姫様を起こしてあげて」
岸和田がポンポンと軽く仙道の肩を叩きながら茶化すように納戸を指差した。仙道はハッと首を指された方角へ向けると見慣れた大きい靴底と長い脚が床に伸びているのが見え、真っ青になって南雲を放り出してダッシュした。もちろん放り出された南雲は三井と岸和田に挟まれて逃げる事などできなかった。

大急ぎで床に横になっている牧へと跪いてそのブラウンがかる柔らかな髪を壊れ物のようにそっと抱える。
「牧さん、牧さん、大丈夫ですか…起きられますか?」
驚かさないよう細心の注意を払ってそっと耳元へと訊ねる。牧は眠そうに目元をこすったが、仙道の膝に黙って顔を摺り寄せただけで返事はなかった。
「どこか痛めつけられたりとかしてませんか?無事…ですか?」
膝に牧の頭部を乗せたまま、さっと仙道は牧の全身を点検するように視線を這わせた。どこも何も変わりはないようだった。
「牧君は睡眠薬の入ったケーキを食べて眠ってしまっただけで、それ以外のことは何もされていないから大丈夫だよ。薬もね、なんか僕がさっきみた限りじゃあ、あんまり効いてないみたい。もう意識は戻ってるみたいだったよ。話しかけたら返事したし」
岸和田は仙道の不安をなんとか減らそうと、できる限りの穏やかな口調で声をかけた。仙道は振り向かずただ小さく頷いてみせた。

誰も何も言わずに少しの時間が過ぎた。ようやく訪れ始めた朝焼けが一つだけある小さい窓から差し込んで床に四角い茜色の絵を描いていた。
「仙道…。牧を起こしてこっち座らせてやったらどうだ?そのまま寝てたんじゃ体があとから痛いと思うぞ」
「うん。それがいいよ。一人で運べないなら、僕が手伝うよ?」
三井と岸和田に小さく首を振ることで返事をした。ゆっくりと牧の頭部を膝からはずして床へと置くと戻ってきて仙道は頭を軽く下げた。
「すいませんけど、俺ら、もう帰らせてもらいます。あと…20分あるけど、もう、いいっすよね」
「あ、あぁ…。時間は別にもういいんだけど、君達だってその…一応被害者なんだから一緒に」
小さく仙道がまた首を左右に振って岸和田の言葉を止めた。
「被害届け、俺らのは出しません。こんなとこでバイトしたのバレたら部活動停止にもなりかねないし。それが一番辛いっすから…」
「…あ。オーナー…」
三井の声に三人が振り返った。平岸が悲しそうな顔で仙道に近づいて手を握るように封筒を二つ押し込んだ。
「ごめんね。こんな面倒ごとに巻き込んでしまって…。岸和田君も三井君も。もっと早く僕が気づいていれば良かったのに…。武田君も意識は戻ったよ。でも彼には別室で控えてもらってる。…鍵をかけてあるし、まぁ、そんなことしなくても自力でまだ動けはしないと思うけど。あともう少ししたら、…南雲君」
タレ目で優しげな顔のオーナーが本当の厳しい顔をするとどれほどなものかを三人は気づかされて息を呑んだ。
「南雲君と武田君は警察に僕が責任を持って連れて行く。いいかい、南雲君。君達がやったのは立派な犯罪行為なんだ。過去にも一度、同じような事をやったらしいね。武田君から聞いたよ。それらを含めて、しっかり裁いてもらおう」
「オーナー…。業務停止くらっちゃいますね。捜査も入るし、マスコミも…」
「うん。でも仕方がないよ。二度とこういったことが起きないためにも、ケジメはしっかりつけさせないと。ごめんね岸和田君、君を雇う話、なかったことにしてくれるかな…。いつ再開できるようになるか分からないし、店もこうなった以上は…」
「いいんです、仕事のことは。それより、僕、一緒にこいつら連れてくの、付いていきますよ。だから、彼ら…仙道君・三井君・牧君はもう帰してやりましょう。こんなことで全く関係のない彼らに不利益が生じるのは無意味だし」
「それはもちろん。でも君だって無関係といえるじゃないか」
岸和田は困ったように笑ってオーナーの手をとった。
「実は僕、昔…オーナーに助けてもらったことがあるんですよ。僕もさっき思い出したんですけどね。平岸さんはもう忘れたと思うけど…貴方が族のヘッドだった時、僕が族に入りたてでヘマをやらかした時、救ってもらった恩があるんです。今、それを返させてもらいたいんです…」
「え…。そんな昔……っていうか、僕、岸和田君の顔、記憶にないんだけど。こんな可愛い子いたら覚えてそうなもんだよね…」

三井は仙道の脇にすっと寄って小さく耳打ちをした。
「おい。なんか二人の世界作ってるから放っておこうぜ。俺達はさっさと帰る仕度してトンヅラしようぜ。俺、ロッカー室から荷物とってくっから、お前は牧をさっさと起こしておけよ」
三井がいなくなってから仙道は手の中に押し込められた封筒をシャツのポケットに押し込んで納戸へと戻った。そっと牧を抱き起こす。
「牧さん、朝だよ。もう起きよう?ね?」
「…ん…。あと5分…」
「ダメだよ。起きないと朝っぱらから熱烈顔面チューしてヨダレでベタベタにしちゃうよ」
軽く頬へと小さいキスをする。普段と変わらない朝と牧が勘違いしているのなら、そう勘違いさせ続けていたいから。出来る事ならば今回の警察沙汰になる関連のことは彼には知らないままでいさせておきたい…。
くすぐったそうに目を閉じたまま牧が微笑む。
「顔面にはいらないから、目が覚めるの、ここにしてくれ」
「…牧さん、すっげぇ寝ぼけてるでしょ」
流石の仙道も珍しい牧の甘えた切り替えしに頬が少し熱くなるのを感じて苦笑する。牧もまた目を閉じたままで口元で笑った。
「寝ぼけてるから言ってるんだ。早くしろ。でないと、またあと5分寝るぞ俺は。…本当におかしなくらい眠いんだ」
「あとで絶対後悔するよ〜。じゃあ、王子様の口付け2分で目覚めて下さいね」
「誰が王子…ん……っ………く……」
湿った水音が二人の口付けの深さを語っている。二人がいるのは狭い納戸であるため、淫らな音と時折漏れる甘い吐息は当然少し大きく聞こえる。

徐々に頭がハッキリしてきたのか、牧が自分から唇を離した。
「もう目が覚めた…。これ以上は、いい」
「別のとこが起きちゃいそうだから?」
「…触んな、バカ。マジで起きたらどうするんだよ。まだ仕事中……あっ!!」
パチッと目を開き慌てて仙道の腕をよけて牧が体を起こして周囲を見やる。床に置いた自分の手に触れる冷たいビニールタイル。左右に積み重なるダンボールや雑多な料理関係の道具や材料らしき袋。低い天井。見慣れたものは仙道以外何一つない場所。
突然、「いや〜ん、もう我慢できなぁい!!若いっていいわねぇ〜!!」と、すっとんきょうな高い声。それも男の裏声といった気色の悪い声が聞こえてきて牧は瞬時に青ざめた。その声に続くのは岸和田の声。
「オーナー、やっぱりエッチな雰囲気を嗅ぎ取るとオネェ言葉になる癖、変わってないんですね」
「んもぅ、岸和田君ったら意地悪〜。そっかぁ、この癖知ってるんなら、昔の私も知ってなきゃおかしいわよねぇ。ねぇねぇ、それより急に静かになっちゃったわよ。納戸、覗いてみちゃいましょうよぅ〜」
「これくらいでやめといてあげませんか?二人とも照れ屋っぽいし。特に牧君は真面目っぽいから。さぁ、年寄りな僕達はさっさと面倒ごと片付けにいきましょう」
青い顔で目が点といった牧の表情を仙道は笑いを必死で堪えながら黙って見ていた。
オーナーの先ほどより大きい声が厨房内に響く。
「仙道君、牧君、お疲れ様!!もう時間30分も超過しちゃったから、後片付けはいいよ。今日は助かったよ、ありがとうね!!超過手当て、テーブルの上に置いておくから。それ持ったら着替えて帰っていいからね〜」
「僕はオーナー達と残るから、三井君と三人で先に帰ってて。じゃあね。今夜は楽しかったよ。牧君、またどこかで会えるの楽しみにしてるよ」
「これで挨拶終了〜。顔見せに来ないでいいからね。といっても、流石にラブシーンの後じゃあ…うふふ」
「オーナー、若い子を苛めないの。お?三井君グッドタイミング」
「二人の声、大きいから廊下から聞こえてました。帰っていいんすよね?」
それから三井がどうやら挨拶をオーナーに述べているようだったが、続けて小声でなにかやりとりをされてるらしく仙道達には聞こえなかった。
牧はといえば。言葉も出ないらしく、青いのか赤いのか分からない顔色で冷や汗を全身にかいて正座をして項垂れたまま小刻みに震えている。
仙道は意地悪くニヤリと笑うと牧の肩に腕を回して耳元に囁いた。
「…だーかーら、言ったでしょ。後で絶対後悔しますよって」



朝焼けが眩しい中、身長180cm台の二つの影と190cm台の影が汚れたアスファルトにくっきりと浮かび上がっている。今日は晴天らしく、高いビルの隙間から覗く徐々に青みを増していく空が美しい。
「この時間なら地下鉄動いてるだろ。俺はタクシー使わねぇで帰る。せっかく稼いだ金、減らしたくねーし。お前らはどうする?俺と方向違うよな」
「うーん。牧さんが眠気に負けないようなら、俺も公共機関乗り継いだら安くて丸儲けなんだけど」
三井と仙道が振り返って心ここにあらずな牧へ視線をよこす。しかし牧は視線を受け止め返そうとはせず、頑なに信号機を見上げて返事だけを呟いた。
「…眠気は大丈夫だ。帰宅方法は任せる」
一応三井は先ほどの二人の熱烈な朝のキスを知らないのだが、それでも牧のバツが悪いことには関係ないらしく、店を出てから終始無口だった。
小さく肩を一つすくめてから青信号になったため三井は歩き出した。それに続いて仙道。かなり遅れて牧が付いて行く。
三井は仙道にだけ聞こえるように笑いを含んだ小さな声を向けた。
「牧に何があったか俺は知んねぇからさ、後で岸和田さんに連絡入れて聞きだせるんだけど」
仙道は三井より小声で言葉の続きを奪った。
「けど、しないでいてくれるんですよね。三井さんは優しいなあ」
ニコニコと無邪気な笑顔を向けられ、三井は苦々しい顔をして舌打ちをした。
「貸しにしといてやるよ。それにお前、あの武田さんを殴り倒したツワモノみたいだし?」
「あれはまぁ、ラッキーパンチでしたよ。脚を縛ろうと油断してたところを上からこう…しただけだから」
ジェスチャーで殴りつける様を再現して見せた仙道に三井はますます嫌そうな顔を向ける。
「あー、ヤダヤダ。俺は野蛮なことは嫌いなの。この繊細な指が大事だしよ〜。おい。この貸し、高くつくかんな」
「そうですよね〜、三井さんの繊細な指を眼鏡をかけた…木暮さんって可愛い彼氏が寝ないで待ってますもんね」
三井の表情が驚きで固まった。先ほどと全く変わらない無邪気な笑顔のまま仙道は話を続ける。
「『退屈で死にそう』だけど頑張ってお仕事するから『飯を用意して寝ないで待ってろ』って言ってましたもんねぇ。そんで、えーと。『マジもんのエロテク聞いたから、忘れないうちに試してや」
三井の声音をところどころ真似て話していたが、仙道は止めた。三井が赤い顔をして睨みつけてきたからだ。
「…借り、高くつくんでしたっけ?」
鋭い三井の視線にも全く臆する事もなく、穏やかに微笑みながら仙道は首をかしげた。その度量に三井はあきらめたようにまた肩を一つすくめてみせると、先ほどと同じように剣呑さは含まれていない苦々しい顔を作る。
「チャラだ。俺も今日のことは探らねぇし、牧にも今日あったゴタゴタは言わねぇ。だからテメーも」
「木暮さんに隠れて三回ラブコールしてたのも、こっそり棚にあった高級そうなお酒をちょっと盗み飲みしてたのも、俺は綺麗に忘れますよ」
「…そこまで知ってたんか。抜け目ねぇっつーか、油断なんねーなテメーはよ。天才ってのはテレポートもできんのか」
本当は仙道は二回までしか三井の電話の一部始終を聞いてはいなかったが、荷物を持って戻ってくるまでの時間が長かったから、そこで最後にもう一度かけただろうと鎌を掛けたのだ。案の定だったらしく、仙道は顔に出さず心中で『ビンゴ』と笑った。
「テレポーテーションはできませんけどね、まぁ、お互い、可愛い恋人のためには特殊な力を発揮できるもんですよね〜。三井さんだってそうでしょ?本当は今日のバイト、引き受けたのは木暮さんだったのに、彼にさせたくないから変わったって岸和田さんから聞きましたよ」
「牧もテメーも可愛くねぇ!!つか、テメー、マジ性格悪ぃっての!!これ以上お前が口を開いたら俺が可哀相だ。おい、牧!!遅ぇぞ!!」
ぐるんと背後へ振り向くと、後半大声で三井は牧を呼んだ。牧は驚いて顔を上げると二人へと近づくべく少し歩を早めた。



電車の窓から見慣れた街並みが見えはじめ、やっと吹っ切れたのか牧は肩の力が抜けたような弱々しい笑みを仙道へ向けた。
「なんか凄く疲れた…。知らない間に自分でも気を張っていたのかな。でもまさかバイトとはいえ仕事中に寝るとは、俺もだらしない奴だな」
「大丈夫、後半は客は帰るばっかりだったし。皆で牧さんを寝かせておこうってなって、納戸に運んだんだって。俺もあんたがあんなとこで寝てたからビックリしたよ。あそこ、静かでよく寝れたでしょ」
「ああ。静かだったが…仮眠室にしては狭いし寝心地は悪かった」
はははと軽く仙道は笑った。朝一番の電車は人もまばらで、その笑い声は小さく響いた。
「…寝て、悪かった。すまなった」
「え?ちょっと、なんで頭下げるんすか。やめてよ牧さん」
「俺、お前が呼んだらいつでも駆けつけるなんて偉そうなこと言ってたくせに…。寝てたら呼ばれても分からんじゃないか。幸い何事もなかったようだから良かったものの…。不安だったろ。ごめんな」
また小さく頭を下げられ、仙道は泣き笑いを浮かべてしまった。
武田を殴り倒してオーナーに説明をしている間も、それから急いで厨房を目指して駆けている間も、牧に何かあったのではと怯えた自分を思い出してしまったから。牧を腕に抱いた時に目が覚めなかったら…と抱いた恐怖も一緒に甦り、少し心臓が冷たくなってしまった気がした。
結果的には変なものを牧の口に入れさせてしまった後ではあるけれど…多分俺は頑張った、と、思う。だからいいだろう、少しくらいは。幸い車両にいる人は皆、自分達の傍にはいないことでもあるし。
「うん…。いいんです。でも、やっぱちょっと不安なの我慢してたから、ご褒美にちょっとだけ…」
スーツの重なりを利用して、見えないようにそっと牧の手を握った。牧も黙って小さく頷くとゆるく手を握り返した。
「目、閉じて寝たフリしろ。肩、貸してやるから…」
今度は小さく仙道が頷き、少し体重を預けるように牧の肩へと頭を乗せた。
耳と頬、そして指から伝わる牧の体温とかすかな体臭とスーツの香り。それらが疲れた仙道の心に染み渡り、嬉しかったことを思い出させた。
普段言わないようなことを言ってくれたのは、もしかしたら睡眠薬(本当にそれだけしか含まれていないかは謎だけれど)のせいかもしれないけれど。でもきっと牧さんなりに俺の不安や疲れを減らしてくれようと言ってくれたんだと思う。だって、超絶照れ屋な人だから、きっと今、同じことを言ってとせがんでも絶対言ってはくれないだろうから。


「…仙道?起きてるか?次で降りるぞ」
「ん…。俺、マジでちょっと寝たかも。ありがと、牧さん」
「疲れ、少しは取れたといいけどな。あ。そうだ。バイトの給金、お前預かってるんだよな?」
忘れてたと言って仙道は背広のポケットから封筒を四つ出し、牧の名前が書かれている二つを手渡した。二人で中身を確認する。
「すっげー…。こっちは話に聞いていた金額だけど、こっちは…」
ヒューッと仙道が口笛を吹いた。牧が車内で口笛を吹くなと目で叱る。しかしすぐまた自分の封筒を覗き込んで言った。
「おい…こっち、おかしいぞこの額の多さは。オーナー、時間超過手当てとか言ってたが…。お前はまだしも、俺なんて超過分、全部寝ていたぞ。こっち、返そうかなぁ…」
多分オーナーは超過手当ではなく、危険手当としてくれたのだろう。それと口封じの気持ちも込めて。警察へつきだすと言ってはいたけれど、本当にそうするかはもう仙道にはあずかり知らぬところだった。諸々を込めての金額と思えば、妥当ともいえた。
薬を盛られたなど夢にも思っていない牧には、この金額は確かに不気味で嫌なのは仕方のないことだろう。
仙道は少し考えて、嘘をつくことにした。本当は今日一日で牧へは沢山の隠し事や嘘をつくことになって心苦しい気もしたが。
「内緒ですよ。実はオーナーと岸和田さんが仕事中にちょっと抜け出してイイコトしてたらしいんですよ。それを武田さんが見つけちゃって、全員にそのことの謝罪分と帳消し分ってことで払ったんです。それプラス、時間超過手当て」
「そうだったのか…。俺なんて寝てたから知らないのに。ぼろ儲けって感じだよ。でもまぁ、ならありがたくいただくか」
「そうですよ。ね、これでさ、今度二人でちょっと遠くに旅行しませんか?」
「俺はいいが、お前の生活費に消えるんじゃないのか?金欠だろ、毎度」
毎度は言いすぎですよぅと笑うと、牧もまた楽しそうに笑った。

駅を出て仙道は背伸びをすると腹の虫がなった。
「流石に腹減った〜。あんなコーヒーカップ程度のスープじゃもつわけないよね〜」
「あ。俺、お前にいいもんあるんだ。ほら、これ食えよ」
牧がポケットから金色の包み紙でくるまれた小さな菓子を仙道へと差し出す。
「南雲さん試作品のワインケーキだ。ワインの香りがきついが、味は良かったぞ。お前、洋酒の滲みたケーキ、好きだろ。だから一個もらっておいたんだ。食えよ」
愛しい恋人の向ける優しい笑顔。掌の上で朝日をうけて輝く金色の小さな包み。それらが涙で滲んで揺れて見える。
仙道はそれを受け取ると、「あとで食います」と言って自分のポケットへ突っ込んだ。


この涙は優しい気遣いへの感激の涙か、はたまたこの先を思いやって溢れる苦労への涙か。
仙道にとってそれは心中複雑に思うところが多々あったが、隣で爽やかな笑顔で空を見上げる牧を見て、『ま、いっか』と笑みを零したのであった。
そして小さく牧へと聞こえないように、ぼそりと空を見上げて呟いた。

「男は辛いっすねぇ…」






* end *




やっと終わりました。長すぎ〜、こんなオリキャラだらけの話だというのに。ううう、大失敗。
薬なんて使ってホントすみません。でも本当にちょっと多めの睡眠薬ですから許してね☆
うちでは三×木なんですよー。ホモ増えすぎてしまったこのシリーズ。ヤバイかしら(汗)

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