木漏れ日が差す、静かな公園の一角。牧は芝生に腰を下ろしてぼんやりと寄りかかった木の茂る葉をぼんやり見上げている。
誰もいない広い公園。そこはとある医療施設が管理する公園で、平日などはリハビリに利用する患者や見舞い客が多くいるところだったが、今日は土曜日。小鳥のさえずりと傾いた午後の日差しだけが穏やかに牧を包んでいる。

そんな周囲の穏やかさは牧の心までは届いてはおらず、表情のない虚ろな瞳はなにも映してはいなかった。

今朝、起きてすぐに『シフトを頼まれて変わった。今日は出番なんだ』とだけ告げた。本当は今日は仕事は入ってなどはいないというのに、口をついで出てしまったのだ。そのままついてしまった嘘を本当のように装うべく、手早く身支度を整える。
出掛けにかけられた仙道の静かな微笑みと『帰れなくなったら、留守電かメールでも入れといて下さいね』という声が、ついた嘘も仙道にはバレているのであろうことを確信させた。それでもただ頷いて鞄を持って家を出た。

何度か夢でみたことがある。一心不乱にバスケをしている自分。試合中だったり練習中だったり。そんな自分をどこか遠くから見ているときもあれば、実際にボールの感触すら感じるようにリアルに動いてるときもある。
今ではそんな夢を見た朝は……少し、辛い。つい掌を見てため息をつくようになってしまっていた。
それでも夢を長く覚えている方じゃないから、ベッドから出たら忘れていたりする。忘れていなくても気持ちを切り替えれば、平気。


ここ数ヶ月、ずっと仕事が忙しかった。院内でのいざこざで、かぶりたくない火の粉をいくらか…いや、けっこうかぶった。研修医という弱い立場では数多の納得がいかないことに異論も唱えることは許されなく、作り笑顔で自分を殺し仕事をこなした。
長い間のリハビリに耐え、やっと治ったと喜んで出て行った患者が、一週間たたないうちに戻ってきた。…リハビリのしようがない状態になって。
やっととれた休みの日。実家で父と飲んだときに父が零した小さな一言。『お前達が帰った後…母さんが、ちょっと、泣いた。それが辛かった』
同期で俺と仙道が付き合っていることを知っていた、唯一の女友達だと信じていた女性に告白され、『私なら子供を産めるのに』と泣かれた。
良かれと思ってしてきたことがささいなことで全てバランスを崩した気がして、続けるのが馬鹿馬鹿しくなった。
夜勤明け練習試合を見に行った時、仙道がバスケを苦しそうにしているところを見てしまって、声をかけずに去った。
小さなミスをなすりつけられ、カッとなってきつい言葉を投げつけてしまった。そんな自分が腹立たしく、今度は自己嫌悪。
他にも、他にもうんざりするほど沢山。色々、沢山、ありすぎた。いつあったかなんて日付も覚えてなんかいない。ありすぎたから、忘れた。無理やりに。


手を顔の前にかざすと、太陽の光で手の縁が赤く見える。
まばたきをずっとしないで見ているうちに、その輪郭はぼやけ、目頭が熱くなった。


ナニヲエラベバヨカッタ?
───別に選択してきた全てが失敗したわけじゃない。そもそも、成功だ失敗だって分ける基準なんてない。

ナニヲエラビマチガエタ?
───別に選択を間違えたなんて思っちゃいない。選んだのは自分の意志。何を選んだって間違いなんてない。…正解もないが。

分かっている。
医療の道を選んだのも、バスケをすることを捨てたことも、仙道を選んだことも、後悔なんてしてない。
選ばなかったら。『たら?』なんてことを考える暇があったら、他にするべきもっと有意義なことは山ほどある。今まで選んできた全てと逆のものを選んでいたら、きっと俺は俺とは違う俺だろう。無意味なんだ、そんな考えは。
俺は聖人君子じゃないから、ミスもすればカッときもする。いつだって冷静に対処できるわけもなく、傷つかないわけもない。感情が揺れて苦しむこと、それをコントロールすることも普通のこと。それを繰り返して日々を重ねるのが生きるということ。

わかっているのに、では、何故。今朝みた夢まで俺を苦しめるのだろう。
ドリブルをして、仲間にパスをだした。次の瞬間、チームメイトの足は止まる。パスを返してくれるものと思っていた俺はどうしたのかと問うた。『院内じゃボール遊びは禁止ですよね』と顔も分からない『仲間』が笑って俺の姿を見下ろす。着ていたはずのユニフォームはいつのまにか俺だけが白衣に変わり、履いていたはずのバッシュは革靴に変わり黒光りを放っていた…。


かざしていた手で目元を覆って、そのまま芝生に横たわる。指の隙間から沢山の緑が重なって風で揺れているのが見える。


泣けたらいくらかスッキリするのかもしれないが、涙もでやしない。悲しいわけじゃないから、まぁ、泣けなくて当然といえば当然なんだが。
情けない自分がたまに、ごくごくたまにこうしてやってくる。独りになりたくてたまらなくなる。こんなカッコ悪い自分なんて誰にも絶対見せたくない。仙道からすら逃げたくなるほど、ちっぽけで弱々しい存在に成り下がる。
大事で大事で、失ったら埋めようのない風穴がどてっぱらに空いてしまうんじゃないかと思う奴から逃げたくなるなんて、矛盾しすぎて笑える。
こうして逃げ出してきて、独りになって安堵して、そして夕暮れの匂いがやってくると子供のように仙道に会いたくなる。
まったくもって矛盾。情緒不安定過ぎる。そんな自分をもてあます。


茜色に染まりだした空に染められて、暗緑色に変わってゆく緑が指の隙間から揺れる。瞬きを忘れてそれを見ているうちに、目頭が痛くなり、目を閉じる。
ドス黒いような赤黒い世界。今の俺の体内の臓器全てがこんな色になってんじゃないかと思えて、笑えるのに表情筋はピクリともしない。
これが、無理をしてない今の俺、か。
本当は笑いたくなんかない。研修医としての顔も、物分りのいい男の顔も、そんなもの全部とっぱらって。とっぱらって…社会生活を円滑に営むためのものを捨てて歩いていけるほど、やっぱり俺は強くない。
不器用な今の俺ができることは、やっぱり今までやってきたように精一杯できる範囲のことをする。それしか残っていない気がする。
こうして考えてもどうしようもないことを考えている自分も嫌だから、今日でリセットしなくては。
自分を嫌いになる前に。


手を下ろして黙って目を閉じたまま、唱える。
『大丈夫。大丈夫。俺は、やれる。大丈夫だ』
気休めのような言葉で自己暗示にかける。

ふと、昔、初めてのインターハイ出場の時に旅館の布団の中で何度も何度も心の中で自分に言いきかせていたことを思い出す。
「変わってねぇなぁ。進歩ねぇ…」
口に出して呟くと、ついバカみたいで笑えた。やっと、笑えた。なんだ、やっぱり俺、大丈夫じゃねぇか。

いつの間にか入っていた肩の力がふっと緩んで、今まで意識していなかった周囲の細かな音がどっと耳に流れ込む。
遠くで車が走る音。自転車が走る音。人が何か喋っている声。さらに遠くで豆腐屋の笛の音。あまり遠くない音は…。自分の視線の先にある一本の木から沢山の雀のさえずり。

付き合いはじめて間もない頃、同じように雀で一杯になっている一本の街路樹を見て「雀のマンション」と呟いた時、仙道はこっちがびっくりするほど驚いた顔をして俺を振り返ったっけ。
子供の頃、沢山並んでいる同じ種類の街路樹の、どうして一本にだけ沢山の雀が集うのかが不思議で母に訊ねた。母は『広い場所で楽しく遊んでいても、疲れたらお家に帰りたくなるでしょう?紳一だってお家に誰かいないと淋しいよね。雀は淋しがりだから皆でお家を決めてそこへ帰って休むのじゃなぁい?』と笑って言った。『お家が集まってるなら…雀のマンションってこと?』と、俺はその頃覚えたてのカタカナ文字をあてはめて言ったらしい。
それ以来母は雀が集う木を見る度に俺に雀のマンションと言うので、俺も自然にそう呟くようになってしまった。
その話をしたら、仙道は俺を抱きしめてきたので、慌ててひっぺがしたんだ。その後もずっと嬉しそうに勝手な節をつけて『♪雀のマンション〜可愛いマンション〜疲れたら飛んで帰ろう雀のマンションへ〜』と歌って俺を笑わせた。
それからはあいつは雀が集っているとすぐ歌いだすようになったから、俺までしっかり覚えてしまった。

あの笑顔が見たい。
今はあの当時と違って、約束をしなくてもあいつに会える場所がある。幸せはいつでもそこにある。

すっかり暮れてしまって、少し肌寒い。ジャケットについた小さな枯れ草を払い落とす。少しストレッチのようなことをすると、腹が鳴った。そういえば昼も食べていない。

ゆっくり、でもしっかりと牧は歩き出す。当然ずっと心に沈んでいる暗い石のようなものは消えてはいないけれど。
忙しさと辛さに忘れていた、帰る場所を手に入れられた時の幸せ。こんないいこと忘れてるから駄目になるんだ。まさに初心忘るるべからずだな。

気休めなんかじゃない。もう、本当に俺は大丈夫。


車に乗る前に、ずっと切っていた携帯の電源を入れた。15分前に入っていた一通のメールは仙道から。
『今晩は餃子。死ぬほど作るから、ビール買ってきて。残ってたビール、飲んじゃったから』
ほろ酔いで鼻歌交じりに餃子を包んでいる仙道が目に浮かぶ。
『了解。お前の好きなローソンのサラダも買って帰る』
返信を打ち、電源を切って車に乗り込む。牧は仙道の作詞作曲の『雀のマンション』を鼻歌しながらエンジンをかけた。







*end*




牧だっていつも前向きではいられないでしょう。研修医って凄く大変ならしいしね。あ。乗ってる車は激安中古車(笑)
このお話は、まだ養子縁組はしてないけど両親にカミングアウトして同棲して一年って頃かな。

やんまさんがこの話の仙道サイドを書いて下さいました。『雀』を読んだ後にぜひ読んでねv 読まなきゃ激烈損ですよ!!
やんまさん作 : 『優しい嘘』



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