瞼の裏に柔らかいオレンジの色を感じる。
その色に導かれるように仙道は閉ざしていた目をゆっくりと開いた。
よく見ると見慣れているはずの白いリビングの天井が、夕暮れの淡い光に照らされてオレンジ色に彩られている。
あれ・・・寝てた・・・か?
眠気の残滓を振り払うように寝たまま大きく伸びをする。フローリングの床で仰向けになって寝ていたせいだろうか、隅々まで体の筋が伸びると同時に節々がぎしぎし軋む。ようやく人心地が付いた所で首を傾けリビングの壁にかかった時計を見た。ほんの少し目をつぶっただけのつもりでいたのに、気がついたら一時間以上も経っている。
寝ているはずなのに何となく体がだるいのはきっと変な時間に寝たせいだな。
はぁ・・・と肺に溜まった空気を吐き出してのろのろと起き上がる。ぼーっとした頭を抱えたままベランダに続く窓を開けると、薄ら寒い風が通り抜けていく。ひやりとしたその風は自分の中にある感覚を呼び起こしてくれるようで結構気持ちがよかった。その風につられる様に仙道は置きっぱなしにしてあるサンダルをはくとベランダに出た。何もない殺風景なベランダを横切って手すりに近づくと、こじんまりとした住宅街が見下ろせる。真っ直ぐに伸びる道の両脇を街路樹が彩り、その木の下を楽しげに走る子供達の姿が見える。駅に近い割には静かで、緑と家がバランスよく混在しているこの街を仙道は結構気に入っていた。
子供たちの声が届くのを小耳に挟んだまま、今度は下に向かっていた視線をちらりと上げる。
夕暮れの空に茜色に染まったうろこ雲が東から西へと長く伸びている。気がつけばもう11月も半ば。
街中のあちこちで当たり前のように紅葉が見られるようになったこの時期になれば、いくら日中は暖かいといってもこうして日が暮れてくればかなり肌寒くなってくる。
ジャケットしか持っていかなかったけれど・・・大丈夫かな。
そうは思うが、その当人がここにいる訳ではない。仙道は小さく肩を竦めると、誰もいないリビングに1人引き返した。
壁にあるスイッチに手を伸ばして薄暗くなっていた部屋に明りを灯す。
その途端、思わず動きが止まる。その原因は今、仙道の目の前に広がっている光景。
ソファーには朝脱いだ自分のパジャマが置きっ放し。テーブルの上には食べかけのお菓子と飲みちらかしたビールの缶。読もうかと思ってもってきた新聞は結局開かれないままフローリングに投げ出されている。
割と綺麗好きな牧のお陰で男二人暮しのこの家は誰に来られてもいい位の綺麗さを保っているのだが、たった一日でこうなってしまったのは全て自分のせいな訳で。はっきり言って目も当てられない。
ってか、この惨状を牧さんに見られたら確実にこの家から追い出されるのは間違いない。
やべーよ。早く片付けなきゃ・・・。
なけなしの家事能力を駆使して、慌てながらも仙道はどんどん片付けを始めていった。パジャマは洗濯機へ、ごみはゴミ箱へ。汚れた場所を軽く拭いて、最後に放り投げてあった新聞を取り上げて雑誌の山の上に積み重ねる。
その時だ。一番上にある雑誌に何かが挟んであるのに気がついた。
何だろう??
その雑誌を取り上げて挟んであるものを取り上げる。それは丁度先週公開になった映画の前売りチケットだった。
あぁ、これか。すっかり忘れていた。仙道はチケットを手に苦笑いを零した。
あれは一ヶ月位前のこと。たまには牧さんと映画でも見に行こうかなぁって思って雑誌を捲っていた俺に、チームメイトが一本の映画を薦めてきた。それは有名な喜劇作家が脚本、監督をした新作で『くだらないけど、かなり笑えるらしい。』と言うのでテレビにも取り上げられ結構話題になっている作品らしかった。身振り手振りを交えて熱く説明するその声を聞き流していた俺の頭の中で、ふっとある興味がわいた。
そいつが言うくだらなくて馬鹿馬鹿しくてどうしようもない映画。そんな映画を見て、悪態つきながらも腹を抱えてゲラゲラ笑う牧さんの顔がなんとなく見たいかもしれない・・・と。
いや、なんとなくじゃない。見たい。大笑いする牧さんが見たい。
急に閃いた考えはどんどん頭の中で膨らんでいき、どうにもこうにも一向に収まる気配を見せなくて。結局その日の帰り、そのチームメイトと連れ立って前売り券を買いに行ってしまったのだ。
あとは、牧さんを連れて行くだけ。行くだけなのだが、実はそれが一番難しい事を俺は良く知っている。
でも、考えていても仕方ない。あとは実行あるのみ・・・そう思ってその日の夜、家で仕事を片付けている牧さんに俺は映画の事を切り出した。
絶え間なく流れつづけるパソコンのキーを叩く音と共に、牧さんの低い声が被さった。
――― くだらないって分かっているのに見に行くのか?もっと別な奴にすればいいじゃないか。
案の定色よい返事は来ない。そりゃそうなのだ。牧さんが言うのはもっともで、本当なら涙ものの恋愛映画でも流行のアクション映画でもなんでもいいのだ。
でも、今回のポイントは「馬鹿馬鹿しい事で大笑いしている牧さんの顔」がポイントなのだ。でも本人を目の前にそんな事はとても言えない。言いたいけれどいえないその本当の訳をぐっと喉の奥へ押し込めると、俺はもう一押しと言い募った。
――― でも馬鹿馬鹿しくって笑えるってみんな言うんですよ。前売りも買っちゃったし、一人じゃつまんねーから牧さん、付き合ってくださいよ?。
チケットを手に最後の手と牧さんの背中に拝み倒してみる。
その声に、ぴたりと辺りが静かになる。手を休めた牧さんが椅子をくるりと回して俺の方へ振り返った。
――― 分かったよ。
――― え?本当ですか??
俺を見上げる牧さんがため息混じりに頬を緩める。
――― あぁ。次にお前と俺の休みが重なった時・・・な。
困った奴だ、しょうがない奴だと言いながらも結局は俺を受け入れてくれるその掛け値の無い優しさ。
自分が牧にとって特別な存在なのだ・・・そう感じさせてくれる一言に、俺は柄にもなく舞い上がった。
――― じゃ、次の休みですよ!絶対ですからね!
そんな俺の我が儘に、牧さんは小さく笑いながら「あぁ」と答えてくれた。
ぼんやりと眺めていた視線がすっと険しくなるのを止められない。
「休み・・・重なったじゃないっすか。」
賑やかに笑う顔が描かれたチケットを指でぴんと弾く。ぱしんと痛そうな音が響き渡るけれど、チケットの笑顔は相変わらずそのままで。その笑顔が妙にむかついて、仙道は思いっきりチケットを握りつぶした。
あれは予感だったのかもしれない。それは今朝の事。
朝7時なんて普段なら絶対に起きない時間帯になぜかふと目が覚めた。暗い部屋をカーテン越しの光がベッドの輪郭をぼんやりと浮き上がらせる中、ふと横を見ると牧さんのベッドがもぬけの殻になっているのに気がついた。
あれ?牧さんは・・・そう思った俺の耳に、隣の部屋から人の気配とカタリと何かがガラステーブルに当たる音が聞こえてきた。どうやら牧さんはすでに隣のリビングで一息ついているらしい。
確か今日は休みだといってたはずなのに随分早起きだなぁ。いつもならそう思ったままその音を子守唄代わりに眠ってしまうのに、なぜか今日に限っては目が冴えてしまって。右向いて、丸まって、うつ伏せになって、あれこれ寝る態勢を変えたが結局眠れずに、俺は惰眠をむさぼるのを諦めてベッドから起き上がった。
せっかく早起きしたし、たまには一緒に朝飯でも食うかな・・・がしがしと頭をかきながらドアを開けてリビングに足を踏み入れる。そこには予想通り牧さんがいた。が、何となく様子がおかしい。
肩を窓に預けて寄りかかったままぼんやりと外を眺めている。そして窓に映る牧さんの横顔はいつになく空ろで・・・ただ何かを考え込むように視点を宙に彷徨わせたまま、持っていたマグカップの淵を親指でなぞっていた。
牧さんは俺が起きだして来た事にまだ気がついていないらしい。見慣れないその姿に声をかけるのを一瞬躊躇ったが、意を決して
――― 随分早いんですね。
と声をかけた。その声に、牧さんの指の動きが止まる。あぁ・・・そう牧さんの唇がかすかに動いた。
何なのだろう。別に牧さんに怒られてる訳でもないし、睨みつけられている訳でもない。それなのにそれ以上踏み込むのをためらわせるような何かがここにあるような気がして、俺はそれ以上動く事が出来なかった。
先に動いたのは牧さんだった。ゆっくりとリビングを横切って俺の横を通り抜け台所へ入ると、手にしたカップをシンクへ置く。
――― シフトを頼まれて変わった。今日は出番なんだ。
そう一言告げると、再び俺の横を通り抜けクローゼットのある部屋へ入っていった。
パタン・・・ドアの閉じる音が聞こえたと同時に知らないうちに止めていた息を大きく吐き出した。
嘘・・・だな。俺は心の中で呟いた。
理由は簡単。いつだって『人の目をちゃんと見て話せ』という牧さんが、今朝から一度も俺の目をまともに見ようとしないから。牧さん自身が感じている後ろめたさが、そうさせてるとしか思えない。他の人に対してはどうか知らないが良くも悪くも牧さんは俺に対して正直すぎる。それがいい所だといえばそうなのだが、こういう時はちょっと辛い。
そんな風に考えていた俺をよそに、あっという間に準備を終えた牧さんが玄関で靴を履き始めた。
もうすぐ出て行ってしまう。肝心な事は何も言わずに。俺は、頬の内側をかみ締めた。
一体何があったんですか?
背を向ける牧さんの肩に手を置いて振り向かせ、ちゃんと顔を見て問いただしたかった。何が牧さんをそんな風に追い詰めているのか洗いざらい話して欲しかった。でも、そんな事を牧さんは望んでいない・・・望んでいないからこそ、嘘をついてまで俺の元を離れていくのだ。悲しいかな、そんな事まで分かってしまうほど俺は牧さんの事を知っている。
物分りが良すぎるのもどうかと思うけどな・・・そう思いながらも、俺は静かに言った。
――― 帰れなくなったら留守電かメールでも入れといてくださいね・・・。
その言葉に一瞬牧さんの肩が揺れる。ゆっくりと俺のほうを振り返った牧さんの表情はほんの少しこわばっていたが、律儀に小さく頷くと薄い合板のドアノブに手をかけて出かけていった。
――― いってらっしゃい。
届かないと分かっていたけれど、俺は閉ざされたドアに向かって小さな声でそういった。
多分、疲れているんだと思う。昼夜問わずの仕事に、プライベートでも何かに頼りにされる牧さんはいつだって忙しくって。俺に向ける笑顔や態度はいつもと変わらないけれど、時折漏れるため息の回数が最近めっきり増えていた。
でも、振り返るといつもの牧さんで。
その何気なさが、牧さんの中から自分が閉め出された感じに思えて本当はすごく嫌だった。
女が相手なら優しく抱きしめて時を過ごせばちょっとは楽になるのかもしれない。
いい加減な奴なら、嫌な事なんて酒でも飲んで寝てしまえば忘れてしまうのかもしれない。
でも、牧さんだから。そうは上手く行かない。
周囲の事柄すべてを自分の中に取り込んで、きちんと自分の中で消化して。それがあの人の凄いところだけれども、右から左に聞き流せば良い事まで受け止めてしまうのは、人としてある意味凄く危険な行為のような気がしていた。そして、その事を自覚していないのが実は結構厄介で・・・。回り始めた思考を無理やり止めると、手にしていたチケットをテーブルにおいて最後片付け損ねていたビールの缶をキッチンへ運びはじめた。
暇なあまり家にあったほとんどのビールを飲み干してしまったせいか、酷く喉が渇いていた。
水でも飲むか・・・冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのボトルを取り出すと、キッチンに置かれていたグラスに勢い良く注ぎはじめる。大柄な仙道の手にしっくり来る大き目のそのコップに見る見る水が溜まっていく。まずはぐいっと一杯飲み干すと、思いついたようにもう一度グラスに勢い良く水を注ぎ始めた。
俺の想像だけれど。多分、牧さんの中にもこんな風にでっかいコップがあって。
ちょっとの事じゃそのコップはびくともしないし、でかいだけあってあふれかえる事も滅多に無い。だから何でもかんでも取り込んでいくんだろうけれど、いくらコントロールが上手くったって次から次へと容量も考えずに受け止めていけばどんどん水位は上がっていく。
ぽたり、ぽたり。水面に吸い込まれるのをじっと見ながらバランスを取る様に慎重に垂らしていく。そして
「おぉ!すげぇ!!」
コップの淵で水面が膨れ上がっているのを見て思わず感嘆の声を上げた。
許容量を超えている水を表面張力で何とかこらえているこのコップ。つまり、これが今の牧さんだ。
受け止めるだけ受け止めて、限界ぎりぎりまで我慢して、挙句の果てにはオーバーヒート。
こうなったらもう手遅れなのだ。
ぽたり。
もう一滴、慎重に水を垂らしてみる。すると、我慢し切れなかった水が、音を立てずに溢れ出していった。
そう。どんなに頑張ったって、たった一滴の雫で堰を切ったようにあふれ出してしまうものなのだ。
コップの肌を一筋流れていくその様はまるで涙を流しているように見える。そしてその姿が何となく今朝見た牧さんの物憂げな横顔とダブって、胸が締め付けられるような気持ちになった。
苦しい時には力づけてあげたい。力になれるならいくらでもなってやりたい。解決しないとしても、吐き出すだけで楽になるって事だってあると思う。そんな事は多分牧さんだってわかってる。それでも出来ない理由は・・・多分プライドだ。何故わかるかって・・・多分俺が逆の立場でも同じだと思うから。
みっともない自分は見せたくない。弱い自分も苦しんでいる自分も・・・大切だからこそ牧さんだけは見せたくない。
相手には話して欲しい、頼って欲しいと思うくせに自分だったら触れられたくないなんて・・・変な話だけれど、そうなのだから仕方ない。
そんな相反する思いがいつしか苛立ちに変わって吐き気のように喉元に込み上げてくる。
ジーンズのポケットに手を入れて携帯を取り出す。着信は相変わらず無い。忌々しげに小さく舌を鳴らすと、携帯をソファーに向かって投げつけた。鳴らない携帯なんて単なるプラスチックの固まりだし、大切な人が苦しんでいる時にどうにも動けない俺も単なるお荷物だ。でもお荷物なんて本当は嫌なんだ。
ここにいるべき存在意義が見失いそうになるから ―――
どんどん湧き上がる嫌な考えを振り払うように軽く頭を一振りすると、グラスを軽く水で流してかごの中に戻した。そこには昨日の夜の食器やグラスが置かれているが、お互い一人暮らしの時に使っていた奴をまんま使っているものもあれば、一緒に暮らすようになってから揃いで買ったものもあった。
何気なく眺めていると、ある一つのカップに目が止まった。細かいブルーのストライプで彩られた大き目のマグカップ。今朝は使った記憶が無いのにどうしてここにあるのだろう?そこまで考えて思い出した。
そういや朝、牧さんが使ってたっけ。
物憂げな表情を浮かべながら触っていたマグカップ。表情に気を取られて気がつかなかったけれど、良く考えたらあれは俺のマグカップだった。ちなみに牧さんは同じ柄のグリーンを使ってる。
そう、あれを買ったのは一緒に暮らし始めてすぐの頃。
――― お前のがブルーで、俺のがグリーンな。
――― でも牧さん、ブルー気に入ってたんでしょ?どうせなら一緒の色にしませんか?
最初に牧さんがブルーのマグカップを手にしているのを見ていた俺が何気なくそういうと、牧さんは真面目くさった顔でこういった。
――― それじゃどっちがどっちのもんかわからなくなるじゃないか。分かるように色違いにしておいた方がいいだろう。
――― どっちがどっちのでも良いじゃないっすか。俺は全然気にしないですよ。
――― 俺は気にする。いいな、間違えんなよ。
ドリンクの回し飲みとかは全然気にしないくせに、こういう日常の些細な事に細かい人なんだって意外な一面にちょっと笑えた。でも、結局の所一緒に暮らしていくうちにいつしか俺の物も牧さんの物もごっちゃになっていった。
そんな些細な事を思い出しただけで、強張った心根が明るく揉み解されるような感じがする。
ブルーのマグカップは朝牧さんが洗ってくれたらしく、既に乾ききっていた。それを手に取って朝、牧さんがやっていたように淵を親指でなぞってみた。無意識のうちに俺のマグカップを使っていた牧さん。
そんな些細な事に、牧さんのテリトリーと俺のテリトリーがいつしか重なっていたのを感じる。そしてその聖域はここ・・・二人で作ったこの家に存在するのだ。
俺には俺の、牧さんには牧さんの世界があって、どんなにお互いがお互いを想っていてもすべてを共有する事は出来ない。だからこそ、それぞれの荒波に向かって俺たちは一人で立ち向かわなくちゃならない。確かに苦しんでいる牧さんを見ているのは辛い。でも、良く考えたら牧さんがそんな事でつぶれる様な人じゃない。俺の手助けなんかが無くたって、自分の方法でちゃんと日の当たる道を探し出す事が出来る人なんだ。
俺が好きになったのはそういう人。道の無い所でもこつこつ地道に道を作り上げてそれを誰に自慢する事も無くただ笑って後から来る人を見つめてる。激しさと優しさを兼ね備えたそんな人。
そしてそんな人に選ばれてるんだって事を俺ももう少し認識しなきゃいけないのかもしれない。何も力になれないのは確かに歯がゆいけれど、その苛立ちは俺の愛情の裏返し。どれだけあの人の事を好きかって事のバロメーターだと思えばいいのだ。だからちょっとつれなくされたからっていちいち自棄酒してみたり、頼ってもらえないからって愚痴ってみたり。そんな子供っぽい俺はもう卒業だ。全然成長が見られないのはこの際置いておくとして・・・。
今頃きっと無理やり笑おうとしているんだろうな。
眉間にしわが寄るのを何とか伸ばそうと頑張って、でも上手く行かなくて。仕方なく笑ってみたりして。そんな牧さんの様子が目に浮かんで、泣きたいような笑いたいような複雑な気持ちが湧き上がってきた。
仕事、友達、家族、絶対に切り捨てることの出来ないしがらみの他にも、俺たちの前には見えない透明な壁がある。それは想像以上に頑固で硬くて・・・多分これからもお互いてこずるのだろう。
でも、どんなに辛くても傷ついても結局俺たちが帰る場所はここしかない。この小さなマンションで、傷を癒しながら力を蓄え、そしてまたそれぞれ別の場所に旅立っていく。
それが俺たちの選んだ道。別々の道を歩く事を決めた時からこうなる事は分かっていたのだ。
でもね、牧さん。これだけは忘れないで。
俺はいつだってここにいる。いつも側にいられるわけじゃないけれど、牧さんが必要としている時は必ずここで待ってるから。だから大丈夫、きっと大丈夫。
今の俺に出来る事は、帰ってくる牧さんを黙って迎え入れてちょっとした嘘に付き合う事。そして何も言わずただ抱きしめる事。でも、それで良いような気がする。多分、今の牧さんに必要なのはそんなささやかな休息だ。そしてその休息を与えられるのは俺だけなのだと・・・ちょっと自惚れよう。
「よし。」
気合を入れるように声を上げると、ペットボトルを冷蔵庫にしまいこみ中にあるものを確認する。
キャベツにひき肉・・・餃子の皮があるから餃子なんていいかもしれない。もちろんにんにくたっぷり入れるのはお約束。どうせ一緒に食べれば後の匂いも気にしなくていいしね。
ささっとレシピを頭の中で繰り広げて、ソファーに投げ捨てた携帯を手に取る。メールのあて先はもちろん牧さんだ。
「今晩は餃子。死ぬほど作るから、ビール買ってきて。残ってたビール、飲んじゃったから」
これでよし・・・そう思っていると、さっき握りつぶしたチケットが無残に机の上に置かれているのに気がついた。賑やかな笑顔のイラストがくしゃりとつぶれて泣き笑い状態になっている。
あ〜あ・・・ちょっとやりすぎたな。苦笑いを浮かべて手でしわを伸ばしてやってもう一度笑顔を取り戻してやる。
うん、これで大丈夫。賑やかな笑顔に向かって俺もちょっとだけ笑ってみた。
今日は駄目だったけれど、次の休みは牧さんと一緒にこれを見に行こう。
一緒にたくさん笑って、一緒に美味しいもん食って。俺が横にいる間は牧さんにあんな顔はさせないようにしよう。
自分自身にそう誓った。
軽やかな電子音がメールの着信を仙道に告げる。手にしていた包丁を置いて携帯を取り上げる。
送信元はもちろん牧。
「了解。お前の好きなローソンのサラダも買って帰る。」
簡潔な文面に、いつもの牧が伺える。
とりあえず大丈夫かな。仙道は一人にんまり笑うと再び台所に向かった。
牧さんが帰ってきたら、急いで玄関に迎えに行こう。そして抱きしめてキスしてこう言おう。
<お疲れ様。飯、一緒に食いましょう>って。きっと牧さんはあの極上の笑顔を見せてくれるはずだ。
その笑顔を思い浮かべながら一人仙道は鼻歌交じりで餃子を包み始めた。
*end*
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