|
Dreamlike magic never end. vol.06
|
|
||||
|
仙道は初めて、合宿を心から楽しみにしていた。もちろん期待をかけすぎてはいけないと自分に言い聞かせてもいた。だって牧さんは他校の三年生で、しかも合宿では全体をまとめる立場の人間だ。自分だけが浮かれて、勝手に特別な時間を期待していい相手ではない。 それでも三泊四日の間だけは顔を合わせて挨拶ができる。少しでも直接話せる時間がある。それだけで十分だと思っていた。 そんな俺にしては珍しい浮かれた気持ちを、小せえ望みだな似合ってねーぞとせせら笑うかのように現実の合宿は、そんな小さな期待なんか軽々と飛び越えて、予想以上の幸せやラッキーをドカドカと降らせてきた。 「初日は挨拶できなかったけど、牧さんに昼寝から起こしてもらって、いっぱい喋れただろー」 誰に聞かせるでもなく、仙道は声に出しながら指を一本ずつ折っていく。 最近はサーファーたちの姿もなく人の気配が少ないこの釣り場を仙道は気に入っていた。潮の香りを含んだ風が頬を撫でる。一人穏やかな波の音を聞いていると、自然と合宿の日々が鮮明によみがえってくる。 牧さんと何を話したか。どんな表情をしていたか。もちろんそれも大切な思い出だけれど、一番最初によみがえったのは、あの昼寝から目覚めた瞬間のことだった。 頭の中を散らかった部屋に例えるなら、誰が片付けたわけでもないのに、一瞬で高級ホテルの一室みたいに整えられていたような、そんな感覚。以前一度だけ味わったことがある。けれどあれ以来、海の家の裏でどれだけ眠っても、どう頑張っても再現できなかったあの爽快な目覚めをもう一度味わえたことが嬉しかった。 「牧さんが同室にしてくれたおかげで話もけっこうできて。しかも初めて寝顔まで見れちゃったり、寝物語で寝かしつけてもらえたりなんてさ……」 折る指が増えていく。 「朝一番のおはようと、毎晩のおやすみの挨拶とか……最高だったなあ」 思わず頬が緩む。こんなマヌケ顔など誰にも見せられないと自分でも思う。 牧さんに関することだけは、どうしてこうも一つ一つが大事なものになるのだろう。 眠っている彼の顔を思い出す。整った鼻梁や男らしい輪郭。意外と濃い睫毛がつくる影。あれほど近くで穴が空くほど見つめても何も問題にならない時間など、今後またあるかどうか分からない。 「貴重な時間だった……つか、よく触らないでいられたよな、俺」 静かに引き結ばれていた彼の海外の俳優のようにふっくら肉厚な唇まで思い出してしまい、自分で言っておいてため息が漏れる。 「あんな据え膳みたいな状況だったのに」 あの時は起こさないように必死だった。そっとベッドを降りようとして、やたら時間をかけたっけ。一度離れたくせに、また気になって覗き込んだり。心臓がうるさすぎて、息が触れないように鼻と口を手で覆いながら。……今思えば行動だけ見るとかなり怪しい。 「……ビビりだったな我ながら」 苦笑しながらも悪い気はしなかった。むしろそれでいいとすら思える。触れたいと思うほど近くにいたけど、触れて嫌われることの方がよっぽど怖い。 「夜に自販機寄ったのとー……電気のスイッチ同時押し」 また一つ指を折る。ギリギリのところまでふざけた俺はグッジョブだったな。棚ぼたで『俺に可愛い顔したってダメだ』なんていう、とんでもなく嬉しいお宝発言までいただいたもの。腹立たしそうな口調だったけれど、問題はそこじゃない。牧さんが俺のことを可愛いと思ったことがある、というところが重要。その事実だけで、今まで女子たちに散々言われてきた「せんどーくん、かわいー」なんて言葉とは比べ物にならないくらい、胸の奥が騒いだ。 「あの時の俺、必死だったなあ」 もう一度言ってほしくて。ノートパソコンから顔を上げさせたくて。もう一回、口を尖らせた顔を見せたらどうなるんだろうなんて考えて、ちょっとぐいぐい必死すぎた。……まあ、調子に乗りすぎた結果、寝不足なのか息を詰めてたのか何なのかでっかい欠伸をして自滅したわけだけど。仙道はプッと小さく笑った。 でも調子にのりすぎた自覚があったからだろう。あの晩、『俺に近づくな気持ち悪い』って氷のような目で突き放されて沢山罵られる、あの見慣れた悪夢をみたんだよな。……そういえばここ最近は見てなかったけど。 「……で、最大級のラッキーは」 最後に残った指を折る。 「肩を抱いてもらった上に、添い寝だったなあ」 思い出すだけで胸の奥が温かくなる。 やっぱり添い寝なんて無理だと言われるかもしれない。そう思いながら、それでも腹に腕を回してほしいなんて頼んだ自分に今でも少し呆れる。でもあの時の何ものにも代えがたい幸福感は忘れられない。 筋肉のついた腕の重みや背中に感じた体温。冷房で冷えた身体に伝わる安心する熱。すべて朝まで堪能するつもりだったのに。気付けばあっさり眠りに落ちていた。 「……あれだけ近くにいられた三泊四日が終わったってーのに」 仙道は広い空を見上げる。 「思い返せば思い返すほど、胸の奥はあったかくなんだよなぁ……」 どうして俺は、こんなにもあの人に弱いんだろう。少し考えるように目を細めて水平線を眺める。 (……いや。考えるまでもねえだろ。初めて見つけた日から、もうずっとだ) 顎を僅かにひくと、波打ち際では小さな波だけが規則正しく寄せては返していた。 彼を初めて目にしたのは、神奈川へ越してきて海釣りの楽しさを知り、時間を見つけては海へ通うようになった頃だった。 釣り場へ向かう途中、浜辺にはいつも何人かのサーファーがいたが、最初は特に気にも留めていなかった。似たようなウェットスーツを着た人間が波と戯れている。それだけの光景だったのに。ある日、暇つぶしに安い軽量の双眼鏡で浜辺を眺めていた俺の視界に、ひときわ目立つ男が入り込んだ。 高い身長や長い手足。鍛えられた身体。大勢の中にいても、なぜか自然と目が向いてしまう存在感。濡れた褐色の頬が陽光を受けて輝いていた。 そんな男が真っ白な歯を見せて、豪快に笑った。 その瞬間。まるで自分の心の奥にある暗い場所まで、その笑顔に照らされたような気がした。見ているだけでこちらまで少しだけ明るくなる。そんな不思議な笑顔だった。 気付けば俺は、周囲から怪しまれない場所へ移動していた。彼が海へ入り、波に乗り、また浜辺へ戻って仲間と笑い合う。そして最後にはその姿が見えなくなるまで、ずっと見ていた。……今思えばかなり危ない行動だったと思う。でもあの時の俺には、それを止める理由がなかった。ただもう少しだけ見ていたい。その一心しかなかった。 その日からしばらく、俺は毎日のように海へ通った。釣りをするためなのか、それとも彼を探すためなのか。途中からは自分でも分からなくなっていた。ただ残り少ない春休みの空き時間を、俺はほとんど海で過ごした。 最初の頃は、きっと単純な憧れなのだと思っていた。自分がなりたいと思っていた理想の男。強くて自由で、何にも縛られず太陽の下で笑っているような。そんな自分とは正反対の存在だから惹かれているのだと。 けれどウェットスーツの上半身を脱いだまま、朝日を背負って浜辺で仲間と話している姿を見た日の夜。俺は夢の中で、彼を抱いていた。欲望をそのまま映像にしたような夢だった。 そこでようやく理解した。俺は彼に憧れていたんじゃない。話したこともない彼に惹かれていたのだと。 陵南バスケ部へ入部して二週間ほど経った頃だった。俺の心の中に勝手に作り上げた恋人。海辺で見つけた理想の男。その存在が海南大附属高校バスケ部二年エース、牧紳一と同一人物だと知った。あの時の衝撃は今でも忘れられない。 『仙道、お前が牧を止めるんだぞ』と、ビデオの中でコートを支配している彼を指さした田岡監督にそう言われた瞬間。俺は真っ青になった。あとから越野には、『いくら神奈川の帝王相手だからって、ビビりすぎだろ』なんて笑われたけれど。そういう意味で青くなったんじゃない。あれは別の意味での動揺だった。自分が勝手に作った理想の恋人と、これからコートの上で戦わなければならないのだから。あの時は『あんなのビビるだろフツー』と返してすませた気がするが、あれは本当に心臓に悪い衝撃だった。 それからは土日の早朝に海辺で彼を探すことはやめたし、釣り場も完全に逆方向へ変えた。自分の中で完全に、海辺の彼と神奈川の帝王を別人として分けるために。そして何度も『海辺の彼は忘れろ』と己に言い聞かせた。 そうまでしても未練がましいことに、初めて見つけた自分だけの理想の存在を簡単には手放せなかった。 そのうち、誰にも言わなければいい─── 俺が同性を好きになる人間だということも、誰かの姿を借りた妄想を大事にしていることも。知られなければ迷惑をかけることもない─── 想うだけなら自由だ。そう言い聞かせるようになっていた。 俺は結局、彼の姿だけを借りて作った虚像を心の片隅に置き続けた。それは恋人というよりは孤独を慰めるための、小さな避難場所だった。 部の奴らとは違った意味で緊張して挑んだ、海南との初めての練習試合。当然、牧さんを前にして余計なことを考える余裕なんてなかった。ただ必死だった。食らいつきたい。少しでも近づきたい。そんな気持ちだけでコートに立っていた。 試合後、牧さんはゆっくりと俺の方へ歩いてきた。初めて間近で見る彼は双眼鏡越しに見ていた海辺の彼と、同じようでいて違っていた。 コートの上では圧倒的な存在感を放つ王者。けれど一歩コートの外へ出れば、どこか人の良さそうな優しさがあり、落ち着きの中に爽やかさと育ちの良さを感じさせる。 その頃の俺の中では、海辺の彼はもう完全に、今目の前にいる本物と別の存在になっていた。セクシーダイナマイツボディでエロエロネコという、俺の欲望で都合よく作り挙げられた恋人の影など、現実の牧さんのどこにも存在しない。 同じ顔。同じ身体。なのに恐ろしいほどに全然違う。そして別人だと思うほどに、どちらも好きだという事実に俺は戸惑った。それと同時に襲ってきた罪悪感は大きく、俺は必要最低限の返事しかできなかった。『はい』『いえ』『大丈夫っす』それ以上の言葉が出なかった。 本当は、もっと話したかった。近くでしっかり見たかった。けれど俺の中にいる、勝手に作り上げた牧さん虚像の存在を知られたら。もし俺を見る目が変わってしまったら。そう考えるだけで足まで竦んだ。 そんな俺に気を悪くした様子もなく。牧さんは『じゃあ、またな』と気さくに笑って、ポンと俺の右肩を叩いた。 その瞬間。そこから眩しい光が溢れた。それと同時に牧さんの右手が黒く汚れていくように見えた。まるで俺に触れたせいで、あの人の綺麗な部分が汚れてしまったみたいに。慌てて首にかけていたタオルへ手を伸ばした。拭かなきゃ、汚してしまった彼の手をと。けれど汗を吸ったタオルの不快な感触にギョッとして手が止まった。 俺は結局、冷たい汗に濡れたまま、遠ざかっていく牧さんの背中を見送ることしかできなかった。 その夜から、俺は悪夢に苦しめられるようになった。 ある時は厳しく、ある時は激しく。ある時は、ひどく冷たい目で夢の中の牧さんは、俺を責め続けた。当然だと思った。だって俺が勝手に汚した人だから。 そうしているうちにインターハイ予選。夏の神奈川強化合宿。冬の選抜に春の練習試合などがありはしたけれど。何度も顔を合わせる機会はあっても、個人的に話すことはほとんどなかった。彼は学年も違う全国レベルの選手。ただの他校の後輩である俺が、特別に意識される理由なんてなくて当然だ。あの初練習試合の後が、たまたま特別だっただけ。そう結論づけていた。 だから、二度目のインターハイ予選会場の自販機前で牧さんに声をかけられた時、俺は本気で自分が作った幻を見ているのかと思った。しかもいつものユニフォーム姿ではなく、彼がブレザー姿だったことも現実感を削いでいた。 『あんたは海南の…牧さん』 今思えば相当間抜けな確認だったと思う。でもあまりにも現実味がなくて、頭で考えるより先に口から出ていた。そして不思議なことに、その時の俺はほとんど緊張しなかった。夢と現実の間にいたようだったからか、それとも牧さんが自然に話してくれたからだろうか。 鷹揚な返事や穏やかな声。少しゆっくりした間の取り方。笑う時の表情。そこでようやく気付いた。俺がこの人の容姿が好きなのも本当だが、俺は牧さんの声も仕草も考え方も、全部が─── 現実の牧さんこそが一番好きなのだと。 そう認めた瞬間。俺の中に長い間いた“推しの彼”は。ただ牧さんの姿を借りただけのグラビアアイドルになった。 悪い意味じゃない。むしろようやく正しい場所へ戻ったのだと思う。欲望だけで作った存在じゃない。俺が本当に好きなのは。目の前にいる、この人なのだ。 『じゃあ、またな』 そう、以前と同じ言葉を残して去っていく背中を見つめながら。俺は初めて後悔した。 どうしてもっと早く自分から話しかけなかったんだろう。怖がって勝手に距離を取って、勝手に諦めて……。 それ以来、夢の中にエッチな推し彼が現れることはほとんどなくなった。代わりに、穏やかな牧さんが出てくることが増えた。夢の内容は目覚めればすぐに消えてしまう。どんな会話をし、どんな顔をしていたのかなど細かいことは、ほとんど覚えていない。それでも目覚めた後に残る、わずかな温もり。それだけで十分だった。 恋なんてもっと派手で、もっと分かりやすいものだと思っていた。でも俺の場合は違った。 誰にも言えない場所で誰にも見せないように。小さな灯火を守るみたいに。胸の奥でそっと大事にするものだった。 バスケと釣りと学校生活。そこに付随する、人付き合いの面倒なことや些細な悩み。そういうものは、きっとこれからもなくならない。でもそれ以外の時間。誰にも知られない場所で、恋のような小さな温もりを胸の奥でそっと愛でるように牧さんを想う気持ちを大事にし続けた。それだけで俺は十分満たされていた。この歳で枯れすぎかもしれない。もっと欲しがってもいいのかもしれない。けれど欲張った瞬間に、この小さな幸せまで失ってしまうような気がした。 だからこのままゆっくり自然に想いが薄れていくのも。いつか全く別の誰かとの恋に上書きされるのも。それならそれでいいと思っていた。─── そのはずだった。 人生なんてとこの歳で語るつもりはないけれど。大体そういう時に限って、思い通りにはいかないもので。 貴重な部活休みの日。早朝の釣りを終えて、誰もいない海の家の裏で昼寝を決め込んでいた俺の前に。まさか牧さん本人が現れるなんて。無欲の勝利。あれほど見事な棚ぼたは、後にも先にもないと思う。 あの日から俺たちは驚くほど近くなった。電話で話すようにもなり、くだらない話をするようになった。何気ないことでも伝えられるし、伝えたいと思うようになった。 そうして気が付けば、胸の奥にあった小さな温もりはもう“恋かもしれないもの”ではなくなっていた。立派な……どうしようもなく大切な恋になっていた。 いつからだろう。冷めた目で物事を見ることが癖になっていた。 期待しなければ傷つかない。深入りしなければ失わない。そんなふうに自分でも気付かないうちに、少しずつ諦めることを覚えていった気がする。 でも牧さんは、そんな俺の中に何度も熱を戻してくれた。 ほんの些細なこと。道端で拾った、面白い形の石ころみたいな話。そんなくだらない話を電話で伝えると。『それ、面白いな』なんて言いながら、牧さんは俺が気にも留めなかったものを拾い上げてくれる。磨いて光らせたり、少し形を変えてみせたり。自分の持っているものを足して、別の楽しさを見つけたりと、俺が何気なく投げた小さなものを牧さんはいつも、大事なものみたいに扱ってくれる。だからもっと話したくなる。もっと声を聞きたくなる。 電話の向こうで彼がどんな顔をしているのか。どんな表情で言っているのかを想像するだけで楽しかった。 それに牧さんがくれる声や言葉は柔らかな水みたいに、長い間言葉にできない寂しさで固まっていた俺の心を少しずつ溶かしてくれた。 ありがとう。 本当は毎日でも伝えたい。 牧さんを好きになったことで、知らなかった喜びや楽しさをたくさん知った。もちろん嬉しいことだけじゃない。ままならない寂しさや、届かないかもしれない苦しさも知ってしまった。それすらも、この関係を育てるために必要なものだと思えるくらい。俺にとって牧さんとの時間は大切なものになっていた。 だから……肉欲だけで長い間汚していたことも。そこから生まれた罪悪感が、いつの間にか本当の恋になってしまったことも。絶対に牧さんには言わない。言えるわけがない。少しでも嫌われる可能性があるものを、わざわざ差し出すつもりはない。俺は自虐で自分を慰めたいわけじゃないから。 ただこの特別な時間を。牧さんとの、この心地よい関係を。一日でも長く続けたい。 そのためなら今は背伸びだってなんだってする。優しくて強くて綺麗な牧さんの隣にいても恥ずかしくない男を装い続ける。いつか背伸びなんて必要なくなる日まで。 「……違うか」 仙道は小さく笑った。 「大事にしたいんじゃなくて」 口に出した言葉が、波の音に消えていく。 「大事にさせてもらいたいんだ。背伸びが必要じゃなくなるまで」 そう呟いてから、仙道は自分の言葉に少しだけ笑った。 らしくないと自分でも思う。昔から何事にも執着しない、なるようになる。そんな顔をして生きてきた。けれど牧さんのことだけは、どうしても簡単に諦められない。 幸せを数えていた指は、いつの間にか強く拳になっていた。仙道は再び握り込んでいた手を開いた。 「あんなに近くにいられた三泊四日はもう終わっちまったのに……」 思い返せば思い返すほど。胸の奥のあたたかな熱は消えるどころか確かなものになっていく。どうして俺はこんなにも、あの人に弱いんだろうとまた堂々巡りのようなことを思いかけて、仙道は小さく息を吐いた。 (……考えるまでもないか。初めて見つけた日から、もうずっとか) 仙道は開いた掌に視線を落とす。 「カフクはアザナエル縄のごとし……だったかな」 確かそんな言葉で、幸福と不幸は表裏一体。そんな意味だったはずだ。 今の自分は幸せすぎる。だからこそ、怖い。これが。今が。牧さんとの関係の、一番良い瞬間なのではないか。この先少しずつ距離が開いていくのではないかと。そんな考えが、ふと胸をよぎる。 バスケなら分かる。練習すればいい。足りないところを見つけられるまでやればいい。昨日より今日。今日より明日。成長はたとえその日には見えなくとも、数字や結果として見える。 けれど人の心は。自分の内面は。どれだけ変われたのか、どれだけ近づけたのか目に見えない。だから時々、どうしても不安になるのだ。 仙道は顔を上げた。先ほどまで雲ひとつなかった空には、いつの間にか低い雲が広がっていた。白く眩しかった世界が少しずつ、灰色に染まっていく。遠くの空には、さらに黒い雲が重なり始めていた。風に乗って、わずかに雨の匂いがする。まるで胸の奥にある不安を空が映しているようだ。 波打ち際では、小さな波だけが規則正しく寄せては返していた。騒がしいわけでもない。強く押し寄せるわけでもない。ただ静かに、変わらずそこにある。 それを眺めながら仙道は、ゆっくり立ち上がった。 (─── 帰ろう) 早く帰って飯を食って、自主練でもしよう。牧さんのライバルだなんて周りは簡単に言うけれど。少しでも油断したら大きく溝を開けられてしまう。そうでなくとも一学年上の彼は来年には大学で揉まれて、さらに遠くへ行く。 (なら。俺も止まっているわけにはいかない) 肩に担いだ空のクーラーボックスのベルトを握り直す。コンクリートの階段を、早足で降りる。 「バスケで強くなる」 一歩踏み出す。 「あいつらとインターハイでベスト3に入る」 もう一歩。 「いい男になる」 口にした言葉に、自分で少し笑う。でもそれでいい。今の自分に足りないものを、ひとつずつ埋めていけばいい。 「……この恋をどうするなんて」 仙道は再び空を見上げる。落ちてきた雨粒が、頬に触れる。 「まだまだ、その後の話だ」 誓いを呟いた仙道は、不安に捕まるまいとポツポツと黒い水玉に埋められていくアスファルトの上を全速力で駆けていった。 雨粒は背中を叩き続ける。それでも前だけを見て走った。
|
|||||
|
|
|||||