武藤が貸してくれた『ジョジョの奇妙な冒険』の新刊を読み終えた牧は、初めてこのシリーズを読んだ時と同じこと─── 作者の荒木登呂彦は何らかの特殊能力者だろうと考えながら、その時と同じように自分の右人差し指と中指の先端を見つめた。
幼少の頃、寝ている愛犬ジョンの瞼を触った時に初めて能力(能力と呼ぶ類のものかはわからないが)が発動した。あの日のことを牧は今も鮮明に覚えている。
気持ちの良い毛並みを楽しみながらジョンの頭部を撫でていると、指先がジョンの瞼に触れた。するとジョンの額から10cmほど前に薄い絵本のようなものがふわりと浮かんだ。驚いたオレは長いこと呆然と眺めていたが、誘惑に勝てずぼんやりと発光しているそれを手にしてみた。重さがまったくない以外は、少し明るい光を自ら発しているだけの絵本のようだった。
表紙には『ジョンのゆめ』とタイトルが書かれており、その下に記載されている現在の日時は、デジタル時計のように音もなく時を刻んでいく。どこに電源があるのだろうかと恐る恐る表紙を開くと、白黒に近い薄い色でやけに低い位置から室内を見ているような映像が見開きで映し出されていた。
本のように見えていたそれにページはなく、同じ大きさの二つの隣り合う薄い箱の一部がつながった作りで、操作ボタンのないテレビ画面のようなものだった。あちこちを触ってみたが、全く自分でなにか操作ができる感じはなかった。
映像は数秒ごとに移り変わった。ドッグフードが入っている皿や、うちの玄関を下から見上げるているようなものや、父の靴下なんかが映し出された。途中で自分らしき人物も出てきた。笑って手を読み手側へ差し出してくる映像だ。その手がぐんぐん近づいてきたところで画面は白くなってゆき、完全に真っ白になった。そのうち本は淡雪のように何も残すことなく消えた。
呆気にとられているとジョンがくしゃみをして目を開いた。
「ジョン。今お前のひたいの上に、お前の名前が書かれたふしぎな本が出てたんだ。なあ、もう一度あの本を出してくれよ」
俺は一生懸命お願いした。言葉をもたない犬のジョンに理解できるはずもないのに。
それからはあの不思議な本(名称がわからないため、本と呼ぶことにした)をまた見たいがため、ジョンが嫌がるまで何度も頭を撫でた。しかし何も起こらずに日は過ぎていったため、あれは夢だったのかと思うようになった。
そんなある日、ジョンが寝ている時に頭部を撫でているとあの不思議な本がまた出現した。タイトルは以前と同じだが、日付は今日。本の内容は以前と似てはいたけれど、やたらと手(多分俺の)ばかりが出てきた。体を撫でられているジョンの視点のようなアングルだった。
本を手にしつつ、俺はジョンをそっと揺り起こしてみた。予想通り、ジョンの目蓋がピクピクと動くと映像は真っ白くなり本は消え、その数秒後にジョンは目蓋を開いた。この本はジョンが寝ている時にだけ出てくるものだと確信した俺は、大層興奮したものだった。
子供だった俺は両親や友達に夢の本の存在を話したが、誰も信じてはくれなかった。
せめて母だけにでもと、ジョンが寝ている時にやってみせたのだが。母は小首を傾げて「……私には見えないけど、紳一には見えるのね」と言った。
見えないのにどうして信じてくれるのかと聞けば、「本当に紳一の手に本があるみたいな仕草をするから」と。疑われずにすんでホッとする反面、実物を見てもらえないもどかしさと悔しさに俺は唸った。
「ううう〜〜本当にここにあるのに……どうやったら見せれるんだろ」
「嘘をついてないのはわかるわ。……でもね、母さんみたいに見えない人の方が沢山だと思うの。それはわかるよね?」
友達の誰一人同じように本が見れると言った者はいなかった。それどころか中には『シンちゃんの嘘つき。そんなの聞いたことない』と言ったやつまでいる。まだやって見せていないが父も母と同じで見えないような気がした。
「……妖精や天使と同じでね、見えない人にその存在を理解してもらうのはとっても難しいと思うわ。それにね、その不思議な本のタイトルに『ジョンの夢』と書いてあって日付もついているのでしょ?」
「うん。たぶん、今みてるゆめがうつされてると思うんだ。だってさっきあげたホネの形のおやつがほら、ここに。あ、1コちがうのになっちゃった」
ページを見せようとすると母が小さく(見えないと)頭をふった。
「ねえ紳一。その本がジョンが今見ている夢ならなおのこと、人にやったり言ったりしてはいけないわ」
「どうして?」
「だってね普通は、夢はみている本人にしか見えないの。目じゃなく頭の中で見るものだから」
「でもボクは見えるよ?」
「うーんとね……例えば。紳一と母さんがジャンケンして、今日のおやつは勝った人がドーナツを一個多くもらえるとして」
「ボクは3つ食べたい」
「じゃあ、ジャンケンに勝った人が3つ。負けた人が1つもらえるとしてね」
「うん」
「紳一はグーチョキパーのどれを出すか、迷いながら決めるよね」
「うん。かちたいもん」
「そうやって決めた紳一が出す手を、母さんが紳一の頭の中が見えるメガネをかけてからジャンケンをして、母さんが勝ったら。紳一はどう思う?」
「ずるい! そんなのインチキじゃん。そのメガネなしでショーブしてよ」
「紳一はね、そのメガネと同じ力を持ってるのよ」
「え……。……ちが……ちがうよ……そんなじゃ……」
母が目をじっと覗き込んでくる。嘘を見抜く時に母がよくやるしぐさだ。
「…………同じだって、紳一ならわかるよね?」
悔しくて返事ができない息子の頭を、母親は優しく撫でながら静かに諭す。
「約束して、紳一。人の夢は絶対勝手に読まないって。読むのはジョンや他の動物だけにするって。夢はね、自分でコントロールがきかないものなの」
「こんとろーる?」
「自分で選んだり動かしたりすること。自分で選べないから怖い夢も見ちゃうでしょ?」
「うん……。あ、でも。こわい夢だったらボクがおこしてあげれるよ?」
「そうね。だけど人に内緒にしておきたいことを夢でみたりもするから……。母さんは怖い夢から起こしてもらうよりも、内緒にしたいことを知られてしまう方が嫌だな」
「母さんがボクにないしょにしたいこと……」
「紳一だって母さんに内緒にしてること、あるでしょ? そういうのが夢に出てくることもあるの。母さんや紳一だけじゃない、父さんもお祖父ちゃんも友達も先生も、世界中の誰もが内緒を抱えて生きてるのよ」
「……見たことをないしょにしてもダメなの?」
母はしっかりと頷く。
「もしも母さんがさっきのジャンケンでグーを出すって紳一がメガネを使ってわかっちゃったら。勝ちたい紳一は何を出す? パーを出したらズルよね。でもチョキだと負けちゃうから、グーを出す?」
「グーじゃ負けないけど、かてない……」
「紳一、覚えておいて。人の頭の中を勝手に見るのはいけないことなの。見られた人は怒って悲しむし、見た紳一も大きなリスクを負うの。ええと、リスクっていうのはね」
母親は夢の本が見えることを人に教えるのはとても危険だと俺に滔々と教えた。
それでも幼い好奇心は止められなかった。
林間学校や宿泊学習の昼寝の時間や就寝時などで周囲に起きている者が誰もいない時に俺はこっそりと人の夢を読んだ。
人の夢の本は動物と違い、右のページが文字で、左のページが映像に分かれていた。文字はない場合も多く、あっても喋っている台詞のみだった。動物は言葉を持たない(もしくは俺が理解できない言語だからか)ためか、映像のみなのだろう。
たまにセリフがでるため、夢の内容が動物より詳細にわかり面白くてのめりこんでしまった。それはどんな漫画や動画やテレビよりも破天荒かつ支離滅裂。辻褄もあわなければ場面もいきなり飛ぶ。話の筋などないものがほとんどで、異様なスピード感があるものもあれば、まったく動きのないものや空白ばかりのものもある。空白だけが流れているが本は消えない場合は、何も夢を見ていない状態だと牧は理解した。
文字は俺が知らない漢字は平仮名で表示されるため、かえって意味がわからない上に、読みきる前に消えることもあった。台詞が読めても、内容が滅茶苦茶で意味がわからないものが多かったが十分に楽しめた。
夢の映像には時折、見たこともないとても綺麗なものや楽しく不思議なものがあったりもして、どこか宝探しめいていた。たまにゾンビ映画のような怖いものもあったけれど、その場合は急いで本を閉じてもとの場所(空中だが)に置けば消えていくので問題はなかった。
そんな調子で泊まりに来た親戚の叔父の夢の本をこっそり読んだ俺は衝撃を受けた。
今思えば叔父は戦争映画でも観たのだとわかる。全体的にその影響がとても色濃かった。だが子供だった俺は本の中で繰り広げられる凄惨な殺し合いや男女の性交という、全く知らない大人の世界に触れて恐怖を覚えた。怖いと感じた時点で本を閉じればよかったのに、衝撃が強すぎて指先ひとつ動かせないまま流れる映像を凝視してしまった。ドロドロとした大人の世界にまるごと飲まれてしまったのだ。
本が真っ白になってやっと動けるようになり、急いで自分の布団に潜ったけれど。恐ろしくて朝まで眠れなかった。翌日叔父が「おはよう」と言ってきても、気持ちの悪い怖い夢を見る人だと思うと返事すらろくろくできず、数日は食事もわずかしか喉を通らないありさまだった。
普段なら食欲がなくなるとすぐ「病院にいこうか」と言い出す、健康面では過保護気味な母がこの時ばかりは何も言わなかった。夢の本を読んだせいだと気付かれたように感じ、約束を破っている引け目もあって、暫くは母すらも避けていたように記憶している。
それから人の夢の本を読むことはやめた。動物の夢もジョンが老衰で虹の橋を渡ってしまってからは、悲しみが癒えるまでの長い期間、犬猫に近づくことすらしなくなった。そのうちにサーフィンやバスケットボールにはまっていって、いつしか能力のことも忘れてしまっていた。
けれど荒木登呂彦の漫画を高校に入ってから貸されて、読後にこうして少し思い出すようになった。
「……まだ今でもこの能力はあるのかな」
あったとしてももう使わないけれど、消えてしまっていると思えば少し惜しいような気がしないでもない。
自分が珍しい特技を有しているようなささやかな優越感。それを古い記憶とともに読後思い出すのはほんの少し楽しい。だから多分、また新刊が出たら武藤に借りるのだろう。
* * * * * *
インターハイが終わると部活は例年通り三日間完全に休みになった。
高校最後のインターハイで死力を尽くしきった反動もあり、休日初日は家でゴロゴロして過ごした。だが二日目は目が眩むほどの快晴でいい風も吹いており、牧はビーチクルーザーにサーフボードを積んで家を出た。しかし海が近づくにつれて風が強まり、海の青がちらほら建物の隙間に見え隠れする頃には強烈な向かい風になってしまっていた。
(ここでこの風向きは良くないな……。風を調べもせず出ちまったからなぁ)
浮かれて家を出た自分に溜息をひとつ。気を取り直して強い向かい風で重くなったペダルを踏み込み海へとひた走る。その間に「今日はダメだなぐしゃぐしゃだ」「ひっでーオフショアで乗れたもんじゃねえ」などとボードを片手にぼやきつつ駐車場へ向かう見知らぬサーファー数人とすれ違った。それでも案外着いたら風向きが良くなるか風が和らぐかもしれないと海岸沿いまで来てみたものの。
(確かにこりゃあ乗れそうにない。……仕方ねえ、別のポイントを探しに行くか)
ビーチクルーザーに跨ったままペットボトルを仰いで海を眺めていたが、牧は額の汗を乱暴に片手でぬぐうとまた走り出した。
海沿いを北上し一度しか使ったことのないサーフスポットへ辿り着いたはいいが、駐輪場の場所が以前とかわったようで見当たらない。最近は物騒なのでそこらの柵にチェーンでとめるのは落ち着かないため、牧は駐輪場を探しはじめた。
(知り合いがいたら教えてもらいたいが、そううまい具合には…………あれ? あいつって……)
営業していない古びた海の家の横にある小さな物置らしき建物に背中を預けて座っている男に見覚えがある気がして、自転車を止めて柵に手をつき目を凝らす。
(あそこで休んでるのは陵南の仙道……だよな。……へえ、釣りするんだあいつ)
あの一つ年下の他校の好敵手のプライベートは、遅刻が多いとか女が切れないだとかどうでもいい噂しか届いていなかった。だからだろうか、砂の上に置かれたクーラーボックスや僅かな釣具らしき荷物に、意外な趣味だと驚かされた。
「おーい仙道! おーい! おー……まさか寝てんのか?」
金目のものは持っていないのだろうが、いくら昼間とはいえあんなところで一人では物騒じゃないのかと、牧はビーチクルーザーで降りられる場所に移動して砂浜を引き返した。
先程牧がいた店の裏側にあたる道路側からは丸見えだったが、海側からだと思いの外人目につかない場所だった。建物の影がいい具合にひんやりとした心地よい温度をつくっている。
後頭部と背中を壁に預けて目を閉じている男へ、驚かさないよう静かに近づき膝をつく。
「……おい、仙道。寝てるのか?」
そっと声をかけるも返事はない。仙道は微かな寝息を規則的に繰り返すだけだ。
「こんなとこで本気で寝てんのか……。まあ涼しいけど」
猫は涼しい場所を探す天才だと誰かが言っていた。こいつと猫が脳内で重ならず、ネコ科の大型……ヒョウやジャガーなんかがシュッとしててイメージに合うかな。などと考えながらどこか微笑んでいるような表情をじっくり観察していたら、仙道の目蓋に短い髪の毛が一本落ちているのに気づいた。
(なっがい睫毛がストッパーになってるのかこういうのは痒くなるよな……とってやるか)
髪の毛をつまむもうと牧が指先を近づけたのと仙道が僅かに寝返り(?)をうったのは同時だった。その瞬間、仙道の額から10cmほど前方にぼんやりと白く発光するあの不思議な本が現れた。
(うわっ、指先が目蓋に触れちまったのか。つか、まだこの本を出せる能力があったんだ俺……)
もう何年もみていない夢の本は、胸が切なくなるような懐かしさがあった。しかし触れることに牧は躊躇した。幼少時に母に諭されたことや叔父の夢で痛い目に会った経験だけではなく、仙道というバスケの好敵手という接点しかない相手への遠慮が勝ったからだ。
けれども周囲には誰もおらず、幸せそうな仙道の寝顔から良い夢をみているように思えてつい魔が差してしまい、牧は本を手にしてしまった。
(そうそう、本には全く重みがなくて、こんな風に熱のない不思議な光を放つんだった。手にすると気付けるんだよな、虹のような色が混ざる乳白色に)
表紙には薄い灰色で「仙道彰の夢」というタイトルと今の日時が浮かび上がっている。
「彰か。晃じゃなかったのか……漢字を間違えて覚えてたな」
(少しだけ。ごめんな、仙道。少しだけ見せてもらったらすぐに閉じるから)
僅かな罪悪感が混じる強い高揚感に浮かれ、開いた本の右側の文章を目で追う。最初の一行目の『牧さんも飲みなよ』という台詞に驚き、牧は咄嗟に左側の映像側を見やった。
そこには仙道と夢の中のオレ(以下、オレ)は見知らぬだだっ広い乾いた荒野でヒッチハイクをしているうようだった。残りわずかの水が入ったペットボトルの水を口に含んだ仙道が、オレの顔を引き寄せて口づけた。そのままオレの後頭部の髪を掴んで少し仰向けにして、口移しで水を分け与えている。オレの喉が上下し、唇が離れたところで今度は仙道の頭部をオレが掴んで引き寄せ、深く口付け返しはじめた。
(どういうことだ? オレは口移しに驚くどころか自らキスをし返している。現実の俺から好意を感じたことが過去にあって、それが脳の情報整理でこういう形で現れたとか?)
夢の内容などに意味をもたせようとするのは全く無意味だと知っているくせに、混乱した頭は何故、どうしてと騒いでしまう。そんなパニックに襲われている牧の手の上では映像が急速に薄れだした。夢が覚めはじめている。仙道の覚醒が近い。
牧は本を閉じてもとの位置に戻した。ほどなく本は消え、その数秒後に仙道がゆっくりと目蓋を開いた。
ぼんやりとした顔で仙道は首をコキコキと鳴らすと、隣に牧が膝立ちで居ることに気づいて驚いたように小さく口をあけた。
「え…………あれ? 牧さん、ですよね。なんで牧さんがこんなとこに?」
「よお。お前こそ、なんでこんなとこに寝てんだ?」
牧の心臓はまだ落ち着いていないが、顔や声には出さないよう努める。
「俺は早朝釣りに来たんですけど、今朝はさっぱりで。あきらめて少し歩いて……いい場所みつけたんで、ちょっと休憩。のつもりが寝ちまいました。牧さんも釣りするんすか?」
照れくさそうにはにかんだ笑みには、夢の余韻の欠片も見当たらない。本がああいった消え方をする時はレム睡眠であっても大体が夢をみたことを覚えていないから、さもありなん。だがそうなると自分だけが意識して少々バツが悪い。しかしそんなことを絶対に顔に出してはいけないため、早くここから去ろうと牧は己の後方の自転車を指差しながら立ち上がった。
「俺はサーフィンをしに来たんだ。でも波のコンディションが悪くてあちこち移動してて」
「ショートボードなんだ。へえ、自転車ハンドルでかくてカッケーすねぇ。ん? ブレーキ片方なくねーです?」
興味を引いたのか、仙道が牧よりも先に自転車へ足早に近寄っていく。
「ビーチクルーザーだからな。……ああ、ビーチクルーザーってのはサーフボードを乗せる前提で作られてる自転車でな。基本、ペダルでブレーキを行うんだ。コースターブレーキっていって、逆向きに漕ぐとブレーキがかかる」
東京でなら珍しいかもしれないが神奈川に来て二年目で、しかも学校が海の近くにあるのだから知っていそうなものだが。愛車を褒められ興味を持たれては悪い気はしないため、つい説明までしてしまった。
「面白いっすね、コースターブレーキかぁ。どんな感じなんだろ。……タイヤ太いのいいな〜。パーツゴツくてカッケー」
「……砂浜でも走れるから、ここで乗ってみるか?」
「いーんすか?」
返事も待たずに仙道は長い脚でひらりと自転車に跨った。そんなに乗ってみたかったのかと牧は思わず笑っていた。
* * * * * *
翌日も牧は昨日と同じポイントへサーフボードを積んだ愛車を走らせていた。今日はしっかり天気予報で風向きもチェックしてきている。
昨日は偶然会った仙道に誘われて定食屋で昼飯を食ったりなんだりしているうちに波に乗る気も失せ、夕暮れまで一緒にいて結局一度も海に入らず帰ってしまった。いつもの自分だったら準備をしていった以上は波に乗れなくてもいいから、せめて海につかりたかったと残念に思うはずなのに。全く思わないどころか、部活のない長い一日が短く感じるほどに。何も特別なこともなければ有意義な話もなかったのに……やけに充実した一日を過ごせたような気になったのが不思議だった。
もっと不思議なのは、夢の本をまた見れたことや、夢の内容があんな変なもので動揺させられたことなどは帰宅してからあまり思い返さなかったことだ。子供の頃より夢というものがいかに脳内の情報処理でしかないかを理解しているからもあるだろう。それにしても思い返すのは仙道がまとうゆるい空気や、間の抜けた柔らかな返事や、力の抜けるどうでもいい話しばかりで。それがなんともクセになるというか……俺の周囲にはいないタイプで面白いような、妙に波長が合うというかなんというか……。
自分でもよくわからないが、今も海沿いを走りつつ波をチェックをしながらも、昨日仙道が寝ていたあの場所へとペダルを漕いでしまっている。
約束をしたわけでもない、昨日だって偶然あの場所を見つけたらしきことを言っていたからまたいるはずなんてないのに。それでもいたらいいのにと。俺と同じような理由じゃなくていいから、昨日のように釣り道具を足元に放置してあの場所に座って寝てりゃいいのにと思ってしまうのだ。
海風にさらされてペンキがすっかり剥げた、もう使われていないあの海の家が見えてきた。その裏手にある物置も。
(……あ。立つだけで存在感が凄いなあいつ)
道路側からだけ見える海の店の裏手側で、仙道がこちらへ長い腕を振っている。釣具が周囲に見当たらない。どうやら手ぶらのようだ。
ペダルに力を込めてぐんぐんと近づいていけば、「遅いっすよー」と仙道は屈託なく笑った。
(何が「遅いっすよー」だ、待ち合わせてなんかいないだろが。チェ、いい顔しやがって)
初めて部活の夏休み中に一度もサーフィンをせずに終わる年になりそうだと口の端で笑いながら、牧は大きく片手を振って足に力を込めた。