To the light. vol.01





 凍てつく金曜の夜。仙道が二週間ぶりに牧を飲みに誘ってきた。そろそろだろうと、牧も早く仕事を終われるように密かに配分し動いていた。
 誘いへの快諾に、伝わってくる喜びも露わな仙道の声音に、牧も口にはしなかったが嬉しく感じていた。
 それぞれ会社を早めに出た二人は居酒屋を数軒はしごするなど、ゆったりと週末の夜を過ごした。


 二人が出会ったのは高校時代だ。学校も学年も違いはしたが、部活がバスケットで県内の強豪校同士だったため、幾度も試合などを通じて対峙してきた。
 大学時代も似たようなものであったが、性格はかなり違うのに不思議と馬が合うことに気付いてからは、牧は人懐っこい仙道のペースに巻き込まれ、気付けば個人的に連れ立って遊ぶようになっていた。
 社会人になってからは職場が近かったことや、仕事でも関連のある会社先だったため顔を合わせることが多々あった。学生時代より物理的に距離が縮まったことで、会う頻度は更に増えた。
 二年ほど週一で飲んだり泊まりあったりしていたが、お互い仕事が忙しくなると会う回数は減っていった。それでも可能な限り時間を合わせては会い、何というわけではない時間を過ごすのが二人のストレス解消になっていた。

 しかし牧が結婚をしてからは、一緒に過ごす時間は大幅に減った。理由は牧が妻との生活を優先させたからではなく、仙道から誘ってくることが極端に少なくなったからだった。いくら牧が気にしないで誘って来いと言っても、笑ってその場は頷くが、結局は牧から連絡を入れるまで仙道から音沙汰はなくなってしまったのだ。
 妻との時間を気遣ってくれていることを思えば、牧としては『誘いがなくて淋しい』という気持ちを伝えることもできず。いつしか三ヶ月に一度会うペースで落ち着いてしまっている状態が四年ほど続いた。

 それがまたこうして頻繁に、(今回間があいたのは出張がずれて重なったから別として)それこそ週に二度以上の頻度で会うまでに戻った理由は簡単だった。牧が結婚四年目にして破局を迎えたからだった。
───『離婚の淋しさなんて牧さんが感じないくらい通っちゃいますから。また昔みたいに楽しくやりましょう! へへへ。嬉しいなあ〜』
 牧の職場の同僚などは職場結婚(結婚と同時に妻は退職したが)だっただけに、裏で少々囁きはしても表立っては傷に触れまいという、こちらが疲れるほどの気遣いを向けてきた。
 それだけに、仙道の慰めるどころか気色満面離で握手までしてきたものだから、その手放しな喜びように牧は笑うしかなかった。
 大きく息を吐いて笑ったその時。牧は労わりの目で見られることに対して自分がいかに疲れていたか……無理をして笑っていたかを思い知らされた。


 たった二週間会っていなかっただけなのに、顔を見れた嬉しさで二人はいつもよりもハメを外して食べて飲んで、話した。一週間分の疲労など忘れてしまうほどに、どうでもいい話をしては笑いあった。
 楽しい時間は飛ぶ様に過ぎていくせいで家へ帰るのも面倒になり、店からいくらかは近い距離にある仙道のところへ泊まることになった。

「ふぃ〜、ご・到・着〜と! ささ、牧さんも遠慮せずあがって」
 タクシーを降りて手荒に自宅の鍵を開けた仙道は、少々ふらついた足取りで玄関の敲きへあがると、牧の手を引っ張って強引にあがらせようとした。
「待てって。まだ靴を脱ぎきれてない」
「手伝ってあげましょーか?」
「いらねえよ。……っと、お邪魔します」
「どうぞ〜」
 2DKの独身者用マンションの中は、来るたびに牧に同じ台詞を口にさせる。
「また派手に散らかしてんなぁ。お前、俺が来るまで片付けねぇのかよ」
 ぼやきながら牧はテーブルや床に散乱する雑誌やDM、ペットボトルやゴミを拾っては、勝手知ったる何とやらでTV台の下の引き出しからゴミ袋を引っ張り出しては分別して片付けはじめる。
 仙道が台所から両手にビールを持って現れた。
「うん。だって俺よりあんたの方が片付け上手いもん。それに他に人なんて呼ばねぇから」
「お前より片付け下手な奴なんて……いなくはないか。お前は散らかしはするが汚しはしないもんな。けど、それとこれとは……うーん……」
「いっすよそんな綺麗にしなくて。それよかほら、早く座って。ね」
「一宿一飯の礼になるし、何より夜中に起きてトイレへ行く時にゴミ踏むのは嫌だ」
「俺は平気すよ?」
「俺が嫌なんだ。このバカが。まったく……この脱いだ形のままの服がまた、でかい分だけ邪魔なんだっての。くそっ……お前は蛇か。脱皮するな」
「まぁまぁ。片付けのお礼に、昼は美味いオムライス食わしてあげますよ。ふわふわ卵の作り方、こないだ魚住さんに習ったんだ〜」
 あんたオムライス好きでしょと笑顔でソファをパンパンと叩きながら『座れ』と誘う、その悪気のない顔に毒気が抜かれた牧は苦笑いで座ってしまう。
 どちらかが眠気に負けるまで飲むか話すかといった時間が始まる前の、一連のお約束なやりとりが終わり、二人は今日何度目かの理由のない乾杯を交わした。


 酔いだけではなく、眠気が牧の目蓋を重たくさせ始めた頃。精悍な褐色の頬にうっすらと笑みが浮かんでいるのに気付いた仙道が尋ねた。
「どしたの? 思い出し笑いなんかして」
「え? 俺、笑ってたか?」
「うん。なんか幸せそうな顔……俺の好きな顔してた。や、どれもあんたの表情は好きだけど」
「お前は〜。そういう変な冗談は家の中だけにしとけよ」
 今にも閉じそうな目蓋の隙間から柔らかい視線を向けられて、仙道は嬉しそうに口角を上げる。
「家の中なら言っていいってことになったんだ。やっと自分の魅力に自覚出てきました?」
「バカがほざいてんな。いくら言っても……それこそ俺が離婚してから頻繁に注意してても治らないからあきらめたんだ。離婚して……ええと……。あぁ、もう一年半くらいになるか」
「……離婚してからの一年半って長かったと思う?」
 仙道の伺うような声に牧は目蓋を閉じるとゆっくりと頭を振った。
「一番長かったのは……離婚するまでの一年間だったような気がする。いや、もっと前かな……」
「あのさ。聞いていいかな。別れた原因って色々あるだろうけど……。離婚するってかなり大変なんじゃないかと思うんだけど。それでもするほどの直接的なデカイ理由って、何だったんすか?」
 パチリと目を開いた牧は驚いた表情で仙道を見返してきた。慌てて仙道は両手を左右に振る。
「いや、別にいいんす。すんません、変なこと……つーかプライベートなこと聞いちまって」
 今度は牧がつられたように片手を左右に振った。
「そうじゃない。お前にはとっくに話したと思ってたから。何だ、言ってなかったか……。あれ? でも俺の部屋で飲んだ時……?」
「うん。かなり前……牧さんの部屋に泊まった時、言いかけてたんですよ。でも牧さん、話しの途中で寝ちゃったんだよね。俺もなんかそれ以来タイミング逃して訊けなくて。……中途半端な分、やっぱちょっと……気になって」
「そうだったか、すまん。じゃあ俺は夢の中で話し終えてたんだな」
 小さく笑い零した牧はソファの背もたれに深く身を沈める。
「楽しい話でもないが、リクエストにお応えしようか。驚いて目も覚めたことだし」
 仙道が困ったような顔で頷いたのを見届けてから、牧は視線を外してゆっくりと語り始めた。


 同期入社で席も近かった日和子(牧の元妻)は、黒髪がと意思の強そうな瞳が美しい小柄な美人だった。明るく行動的で男性社員に人気があった。加えてハキハキとした口調、物怖じしない性格だったため、彼女から牧へ積極的に話しかけてきた。
 学生時代は部活にあけくれ、遊ぶといえば仙道や男仲間とばかりだった牧は、昔からどこか女性に対して無意識に気を張ってしてしまうところがあった。そんな牧ですら、周囲にいる他の女性社員達とは違う日和子のさっぱりとした性格が、女性独特の、牧の苦手と感じる雰囲気を感じさせないため好感を抱いた。話や仕事を一緒にする機会が増えていくにつれ、気軽に話せるようになっていった。
 初めて女友達ができたと思っていた牧へある日、日和子が告白してきた。それは一種、悲しいのか嬉しいのか牧自身にも判別の付かない感情で混乱させられた。
 その気持ちを正直に伝えると彼女は、「付き合っていけば悲しさより嬉しさが増えると思うの。もっと一緒にいたら楽しさは二倍になるよ。一人より絶対!」と笑った。
 力強い日和子の笑顔に頷き返したことで、二人の関係がはじまったのだった。


 牧が結婚する前に、二人の馴れ初めとしてここまでは仙道もポツポツと聞いていた。
「前回までの粗筋を付けてくれてんのは、サービス?」
 軽く冗談めかして訊いてくる仙道へ、牧は肩を軽くすくめてみせた。
「どこから話せばいいか分からんから、全部話す。眠くなったら寝とけ。そこで今日はお仕舞いにしとく」
「ノロケがいっぱいで面白くなくなったら、眠くなくても寝るかも」
「離婚してんのに、そんないい話なんてあるかよバカ」
 頭を軽く小突かれた仙道は、へらりと笑って先を促した。


 付き合っていくことで確かに楽しさも喜びも二倍になるような気がした。徐々に気を遣わない気楽さも加わっていき、世にいう恋愛というには穏やか過ぎる感じもしたが、ゆっくりとそれらしくはなっていった。
 適齢期という言葉に当てはまる年齢になった彼女が、「女から言うのもなんですけど〜」とふざけた口調にこっそりと本気を潜ませた結婚話を持ちかけてきた。牧としても特別断る理由もなかったため、「不束者ですが、宜しく」などとふざけて返したものだった。
 意外だったのは結婚と同時に彼女が会社を辞めたことだった。キャリア志向があるように感じていただけに、暫くは共働きになるものだと勝手に思っていたからだ。しかし特別働いて欲しい気持ちがあったわけでもないので、何も言わなかった。
 お世辞にも上手くはない料理の腕を頑張ってふるう彼女を愛しいと思った。疲れて帰れば明るい笑顔で迎えてくれるのも素直に嬉しかった。
 だからこそ、もっと自分の稼ぎを早く増やして喜ばせたいと仕事に更に精を出した。実際、ボーナスが上がったり昇進したりすれば、日和子はとても嬉しそうに喜んでくれた。


「……ここまで前も話したんだったか?」
 突然尋ねられて仙道は驚いて振り向くと、大きく頷いた。が、いつの間にかまた目を閉じていた牧には通じなかっため、仙道は「そっす」と改めて声にした。
「そうか。えーと……。彼女は喜んでいたし、俺はバカだからさ、夫が妻に喜ばれつつ尊敬されることは出世なんだって。勝手に思い込んでいたんだ……」


 仕事が忙しくなればなるほど、帰宅時間も比例して遅くなった。午前様なんてしょっちゅうだった。体を壊すと心配されても、その頃には仕事自体が面白くなってきた時期でもあり、体力にも自信があった牧は「心配いらないから、日和子は先に寝てていいよ」と返していた。
 そんな会話しか今は記憶に残っていないほどの、仕事漬けな日々を送っていた。
 日和子はといえば、月・水・金の昼間に水中エクササイズを習いに行くようになった。帰宅すると楽しそうに授業の話を聞かせてくれるのは嬉しかったが、最後までしっかり聞いてやれることはまれで、いつも先に寝てしまうのは牧の方だった。
 万事がその調子だったため、いつも明るくお喋り好きな彼女の口数が極端に減っていることに牧は気付かずにいた。いや、正確には気付いていたのかもしれないが、元来自分から彼女が興味を持つような話題を振ることは得意ではないため、『夫婦も三年たてばこんなもんだよな……』という程度にしか考えないようにしていた。

 結婚四年目が近づいてきたとある日曜の夜。入浴後、明日のために早く寝ようとベッドへ入った牧のあとに日和子はついて来ず、電気を消した寝室の入り口で黙ってこ牧を見てきた。どうしたと声をかけても、湯冷めするぞと起き上がって手招いても彼女は動こうとしなかった。
 ベッドから出て傍へ立って漸く、彼女は小さな震える声で呟いた。
「……もう、寝ちゃうの? また、一人で先に寝ちゃうの?」
 夜は寝るものだろうと、何が言いたいのか分からずに牧は首を傾げてみせた。その瞬間、日和子の瞳から涙が零れて、口からはヒステリックで弾丸のような言葉が吐き出された。
 彼女の話す内容は支離滅裂なものだった。仕事を頑張りすぎる牧への心配と労りや、自分を放っておくことへの不満と好きにさせてくれることへの感謝。その合間も溜めに溜めてきただろう強い不安が堰を切ったように溢れ出ていた。
 日和子は泣きながら小さな体を牧へとぶつけるように押し付けしがみついて叫んだ。
「私、紳ちゃんから求められたことってここ半年、一度もないんだよ! ううん、もっとすっと前から!」
 牧は自分の心臓が一瞬ひやりと冷たい何かに撫でられたような気がした。
「確かに私、あんまり女らしくないよ? でもそこが好きだって紳ちゃん言ってたよね。だから私、気をつけてた。紳ちゃんが好きなさっぱりした女でいようって。けどね、違うでしょ。私は女で、妻なんだよ? 抱かれたいって、思っていい立場だよね?」
 震える彼女の唇が奇妙に赤く歪んで、まるで口元だけ笑っているように映る。
 自分はその時、どんな返事をしたのだろうか。ごめんだとかもちろんだとか? それとも言ってくれたらとか? いや、何も言えなかったのだろうか。そこだけ記憶が抜け落ちていた。
 ただ悲痛な彼女の声が砕けそうなほどに冷えた胸に刺さって、やけに体が震えるのを止めようと必死だったことだけは覚えている。抱きしめている腕から彼女へ伝わらないようにと。
「紳ちゃんが仕事頑張ってるの分かってるし、疲れてるから平日や土曜は仕方ないって思ってた。でも日曜くらいは……って思うのは、私が好色だからなの? 確かに私、子供はもう少しあとでもいいって思ってるって二年くらい前、言ったけど。一緒に暮らしてるだけって夫婦って言うの? それなら下宿のおばさんと私、どう違うの? 優しくされるだけで満足できるほど、私は子供じゃないのよ。私は紳ちゃんの逞しい胸や腕、その褐色の肌に包まれたい。女のわ……わ……私に、セッ……したい……って……言……せた……」
 最後は涙が咽を詰まらせて、日和子は苦しそうに喘ぎながら牧の腕の中から崩れ落ちるように床へ座り込んでまるまってしまった……。

 その週の土曜日、牧は日和子を抱いた。ことが済んだあと、彼女は淋しい笑顔で言った。「お疲れ様。ありがとう……」と。
 夫としての義務感で抱いたのを見透かされた気がした。
 牧は彼女が眠ったあとベッドを抜け出た。パジャマでベランダに出るには秋の夜風は冷たく、頬を伝うものまで一緒に冷やされて身震いが止まらなかった。
 それでも寝室に戻る気にはなれずに、欠けた月を長いこと見ていた。


 蘇らせた記憶を、仙道には箇条書きのような要点のみで伝えたため、あまり伝わり切らなかったかもしれないと牧は思った。中途半端ではあるものの人に話せたことが……自分の中で漸く過去にすることが出来たからだと思えて、寂しいながらも少しだけ安堵した。
 缶ビールへ手を伸ばす牧の表情は不思議に穏やかで、自分の苦い過去を話しているというよりは、人から聞いた昔話を語っているような雰囲気を仙道は感じていた。
「……牧さんさ、もう完璧ふっきれてんだね。俺の勝手な思い込みかもしんねぇけど」
「ん……。なんか話していて思ったほど苦しくもなければ、恥ずかしくもないんだ……。変だよな。酔ってるせいかな」
「ううん。変じゃないよ。でもさ、もういいよ? 無理しないで」
 うーんと、小さく唸ってから牧は小首を傾げた。そして意外にもフッと軽く微笑んだ。
「いや。ついでだから全部このさい話してしまう。長くないから聞いてくれないか?」
「長くたって俺は平気すよ。眠くもないし、それに……話してくれて、嬉しいから」
「そうか」
「うん」



 日曜日が来るのが憂鬱になった。それでも月に一度はベッドを共にした。けれど妻を抱きながら頭の片隅では、純粋に抱きたい気持ちからではない自分に気付かれているという後ろめたさや、義務感でするこの行為で彼女も自分も何がどう満たされるのか―――― 意味はあるのだろうかという冷めた疑問が抜け切らなかった。
 また徐々に間隔が開きだした頃には、日曜日になると彼女は早く布団に入って寝てしまった。本当は眠っていなかったのかもしれないが、それに騙されるふりをさせてもらう情けない自分がいた。
 そうして半年が過ぎた頃だろうか。彼女は今までの習い事をやめて別のスクールに通いたいと言い出した。月謝は跳ね上がるが、夫として満足させていない負い目と、少しでも妻が楽しめるのならばと二つ返事で承諾した。
 生活レベルを落とさずに、高額の月謝や、そこへ通うためのブランドの服を彼女が望むままに提供する。家を購入したばかりだったこともあり、更に残業や休日出勤を増やさざるを得なくなった。けれどその頃には広くて真新しい家にいるよりも、慣れた会社の狭いデスクで仕事をしている方が気楽であったから苦痛ではなかった。寧ろ仕事に逃げ場のようなものを感じていた。
 暫くはそんな状態で表面上は何事もなく月日は流れた。日曜は二人で買い出しと外食をする。それだけが二人で一番長く穏やかに向き合って過ごせる時間だった。

 とある平日、出張前に大事な書類を家に忘れたことを思い出した牧は車で自宅へと急ぎ戻った。
 妻はまだスクールから帰って来ていない時間だからと、ドアベルも鳴らさずに鍵を開けて自宅へ足を踏み入れた――――


 突然仙道が牧の顔の前に手をかざして話を遮った。
「……ちょ、待って。なんかサスペンスドラマみたいになってますよ? 俺……ホントにそこまで詳しく聞いちゃっていいんすかね?」
「本当によくある話というか、三文ドラマみたいだよなぁ。話していて俺も思ったよ。けどまぁ事実だし。別にいいんだ。終わったことだ」
 牧は少し自暴自棄になってしまった笑みを仙道から隠すように伏せた。
「間男と殴り合いとかしたの? 牧さんのパンチ、くらったことねぇけど凄そうだよな〜。腕っ節強いしね」
 少し困ったように仙道は眉尻を下げ、ふざけた口調で軽く拳で空を切ってみせた。牧もつられて軽い口調で返して来る。
「まさか。玄関で知らない男物の靴と、居間から楽しそうな妻と男の笑い声が聞こえたからさ。足音忍ばせて自分の部屋へ行って書類引っつかんでさっさと出た。JRの時間も迫っていたしな」
「あー……。牧さんの家、広かったらしいもんね。自室もあるって言ってたねぇ、そういえば」
「そうだぞ。だから何度も来いって言ったのに、お前一度も来なかったよな。俺だって立派な家持ちになったって、見せたかったのに……って、まぁ、それももう今更だ。売っ払っちまったから過去の栄光ってやつだもんな。ええと、それで──」


 出張で自宅へ戻るまでホテルで過ごした三日間。牧は自分がショックを受けてはおらず、寧ろ淋しいほど冷静であることが悲しかった。腹立たしさよりも、日和子の胸の空洞を自分が埋めてやるために、もう無理に頑張らなくていいのだという安堵感のようなものすら感じていたからだ。
 終わっていたのだ、とっくに。彼女の浮気をこうして冷めた気持ちで捉えている冷たい自分が、きっと無意識ながら彼女に接する言動などに見え隠れしていたのだろう。女は敏いから……。いや、自分が極端に気持ちの機微に鈍いから、SOSを必死に発していた彼女に気付けず、逆に追い詰められた気になって自滅していったのだ。それを直視出来ない自分は、物や金、家というものを提供することでまだ、いつか年をとれば笑い話になるかもしれないなんて、甘い夢を─── 甘すぎるちゃちな希望を抱くことで、何とか日々をやり過ごしていたに過ぎない。
 頬を伝い落ちた涙が誰のためのものかも分からず、その時も自分はホテルのカーテンを開けて電気を消した室内から夜空を眺めていた。
 月も星もない、やけにスモークで濁った灰色の夜空を。

 出張から戻っても日和子はいつもと変わらなかった。牧もまた何も言わなかったため、不思議なほどに変わらない日常が過ぎていった。
 あの出張から二ヶ月ほど過ぎた頃だろうか。仙道と三ヶ月ぶりに会える時間を作れそうだと、手帳を開いて確認していた木曜の夜。
 彼女が膝に座ってきた。結婚当初と変わらぬ軽く小さな体をきつく寄せて、「今、抱いて」と。まだ風呂に入っていなかった牧は、シャワーを浴びてくるからと先に寝室へ行ってもらった。本当は風呂などただの口実で、急に甦ってきた記憶が生々しくて、どうしても居間では出来ないと思ったからだった。
 熱めのシャワーをざっと浴びて急ぎベッドへ戻り彼女を抱いた。最後にしたのはいつだったか、知らない男の笑い声は若い感じだったななど、抱くことに集中しようとすればするほど余計な考えが駆け巡って脳を冷やしていった。
 それでも息が上がってきていた彼女の中へ入ろうと押し当てたそれは。先ほどの硬さが嘘だったかのように、手の中で力を失っていた……。


「もともと自分でも昔から、俺って淡白かもな〜なんて、周りの奴等のY談とかそれ系の話を聞きながら思ってはいたんだが……。実際問題あんなことは初めてだったから、正直、男として相当……その、なんというか、やっぱり……ショックでさ」
 ひらひらと片手を振った牧は天井へ大きく息を吐いた。仙道もつられて小さな吐息を漏らしてしまう。
 同じ男として、過去に自分が同じ経験をしたとして。例え親しい友人相手だとしても、言える度量など俺には少なくとも、ない。それだけに深く心を許してくれているのが暗に伝わってくる。彼の器の大きさと向けてくれる信頼、全てがどれほど特別なのかと思えば思うほど、仙道は隣でぬるいビールを不味そうに飲む横顔へ手を伸ばしてしまいたくなってしまう。
 そんな想いをなんとか胸の奥深くへ押しやって、仙道は努めて自然で軽い口調を装う。
「牧さん、見かけだけじゃなく仕事とかでもタフだからね〜。でもさ、その状況じゃ淡白であろうがなかろうが誰だってなりますよ。つか、よく抱こうとしたなーって俺なんかそっちを尊敬しちゃいますね。俺なら無理。ムリムリ。即座に断ってますよ絶対」
「うー……そうなんだよなぁ。でもあの時はもう、考えることに疲れ切っていて、断ることすら思い浮かばなかったんだ」
「まぁまぁ。自分ばっか責めたら駄目っすよ。萎えさせる原因を先に作ったのは相手じゃんすか。牧さんの選んだ女性を悪く言いたかないけど、何か女ってさ、勘違いしてると思うんだよね。男は脳と体は別個だから、体に快楽与えてやれば勃つってさぁ。確かにそういう奴もいるけど、全部がそうじゃねーのに。女にだって色々いるように、男にだって色々な奴がいるって何で考えないかなぁ。たいていの男って女よりデリケートだと俺なんかは思うんだけど。つか女ってさ、すぐ自分の幸せばっか口にしない? 強欲ってかまず自分、みたいな。そりゃ人間なんて自分が一番大事だけど、男ってさ、相手が笑ってくれれば自分も幸せでそれでO.Kって多いよね?」
 仙道はふと我に返ると、色素の薄い綺麗な瞳が静かに自分を見つめていることに気付いて、興奮していた自分に恥じて口を閉じた。

 仙道は気まずげにテーブルの上のアーモンドを口に入れて咀嚼した。それでもまだ牧が何も言わず自分を見ているため、渋々その視線を受け止めるべく顔を向ける。
「……なんすか? もしかして日和子さんのことを良く知らない俺が、勝手なことを言って腹立ったとか? 別に彼女のことじゃなくって、勝手な俺の一般論っつか女性認識なんですけど。……あの……お、怒りました?」
「いや……。昔、日和子に聞かれたことがあるんだよ。どんな時が幸せと感じるかって。俺はその時、思いつく限りって言われたから頑張って考えたんだ。幸せなんて普段そう意識して考えないだろ? 女ってそういうことを聞きたがるよなーって……思い出して」
「牧さんそん時、なんて答えたんです?」
「……美味い物食ってる時と、適温の湯に浸かっている時と、日和子が笑ってる時。あ、お前今、俺のことキザだと思ったろ」
 恥ずかしさに少し頬をひきつらせた顔が可愛くて、仙道は胸が甘く疼いてしまっている自分に今は気づかないふりをする。
「いえ、俺も似たようなもんなんでわかりますよ。ね、そーでしょ? やっぱ大事な人が笑ってくれたら幸せだよね。女ってほら、すぐつるみたがっては人数増えるとすぐ内部分裂してません? それくらいならつるむなっての」
 また同じように牧に注視されていたため、仙道は声が少し大きくなっていた自分に気付いて口をつぐんだ。
 そのバツの悪そうな表情に牧は真剣な表情で訊いてきた。
「……お前って、ひょっとして……女嫌いなのか? それとも、過去に酷い女に痛い目にあわされてきたとか」
「……まぁ、確かに過去、痛い目は何度も見ましたけど……。でもそれは俺も最低な野郎だったから自業自得……って。今夜は俺の話じゃなくてあんたの話でしょ。ほら、続きがあるなら話戻して下さいよ。なんかここで終わられると俺、寝つき悪いまんまになっちまいますよ」
「あぁ、そうだったな。うん。あとは離婚へのカウントダウンなだけだ」
 映画の粗筋を話し出すように、また牧は咽をぬるいビールで潤してからのんびりと再開した。











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<2006年時のあとがき>
牧が立たなくてショックを受けたり女と離婚した話を読みたいな〜と、気軽にはじめた妙な話。
え?お前本当に牧ファンかって?当然でしょうとも!!思ったより長くなったので渋々連載形式です。

<2023年改定あとがき>
よくある内容もびっくりだけど、当時このタイトルが「To the Light.」だったことに
改定にあたって気づいて戦慄しちゃったよ! 右へ行ってどーすんじゃゴルア☆
いや〜当時よく、誰からもお叱りのツッコミが入らなかったなぁ……いい時代でした(?)