To the light. vol.02






 細い指で煽られても、最初の反応など全くなかったかのように沈黙してしまった牧に、彼女は小さく呟いた。
「私……魅力ないかな、そんなに……」
 泣き笑いを浮かべられ、牧は「ちょっと風邪気味で体調が」などと苦しい言い訳と、「日和子のせいじゃない。絶対に。俺が不甲斐ないだけなんだ」といったことをポツポツと項垂れながら口にした。
 降りてきた沈黙の中で、初めて受けた男としてのショックと、彼女の前から消え去りたい羞恥心をなんとか押し殺すために、己の膝の上、爪を痛いほど食い込ませた拳だけを見ていた──。

 衣擦れの音がして、肩にパジャマをかけられたことで牧は怖々顔を上げた。そこには、疲れた笑顔。小さな唇から零れる静かな言葉。
「……そうだね、私のせいじゃない。もちろん紳ちゃんのせいでもない。だから踏ん切りつかないまま……お互いが苦しんだよね。どっちも相手を嫌いになれなかったから余計に……。言ってあげる。悲しいほどどこまでも優しくしてくれた紳ちゃんに、私が出来る最後の優しさ返しとして」
 白い頬に伝う涙の軌跡が不思議に美しかった。
 あの日から、もう泣かせたくはないとずっと頑張ってきたというのに。自分が崩れたために零させてしまったその涙を美しいと感じるなんて。
 伸びてきた細い手が牧の頭部を優しく胸に抱きしめて、愛を告げるように優しく囁く。
「別れてあげる。紳ちゃんを自由にしてあげる。今夜は一緒のベッドで寝ましょ。ちょっと狭いけど手を繋いで。昔みたいに枕を寄せて……」
 額を伝って流れてくる彼女の涙があたたかくて、指で雫に触れて漸く牧は、忘れていた『抱きしめたい』という、昔の純粋な気持ちを思い出せたのだった。それを伝えることも出来なくなってから、やっと……。

 土曜の朝、用紙を差し出された。後はお互い事務的な作業を一緒に行うというような、淡々としたものだった。提出するものは記入しあい、財産を計算しては等分しあう。良くも悪くも思い出が残りすぎる家は売却することに決めた。築年数も短く立地も良かったため、買い手は驚くほど早くついた。
 まるで何もかもが、それぞれが別々の道を早く歩きだせるようにと後押しをしているかのように。

 日和子は明るく、でも少し困ったような笑みで肩をすくめた。
「もっと苦労とか面倒があると思ったけど、案外簡単だったね。結婚するよりも簡単だったわ。結婚式の準備なんてすーごく大変だったよねぇ。これだもん離婚率上がるわけだわ〜」
 牧もまた同じような苦笑いで返す。
「子供もいないしな、俺たちの場合。あ、でも慰謝料は前も言ったが、できる限りはさせてもらうから」
「なにまだ格好つけてんのよぅ。言ったでしょ、家賃分だけでいいって。それ以上は入金してくれても送金し返すからね」
「いやしかし……せめてそれくらいは……。お前だって生活が」
 パンッと牧の眼前に突如突き出された日和子の小さな両掌が重なり音を立てた。
 突然の猫騙しに驚き、牧は瞬きをするのも忘れて固まった。日和子はそれを見て満足げに口角を引き上げてみせると、細い己の腰に両手を戻して胸を張ってみせた。
「どっちのせいっていうんじゃないんだから、本当は貰いたくないくらいなんだよ。でも現実問題、再就職決まるまでは、悔しいけど甘えさせてもらうだけなの。バリバリまた働き出したり、玉の輿ひっかけたりしたらもう紳ちゃんになんて頼らないんだから!」
「あ、ああ。わかってる」
「いい? 最後だから教えてあげるけど、優しいだけの男なんてね魅力ないのよ。紳ちゃん、次の人の時にはその渋い顔に見合った厳しさを、時には出せなきゃダメなんだからね。仕事やスポーツの時だけ厳しい顔してもダメなんだから! 小さくたって中身は男よりもタフでしたたかな女もいるんだって、私で勉強したでしょ」
 キッパリと言い切るように話す清々しさ。強気な笑み。牧が好きだと感じた彼女の良さを久々に見ることができた。……久しぶりだと感じるほど彼女から、その良さを奪う生活をしてきていたのかと、牧の胸は少し痛んだ。
 けれどこれからは、彼女はまた自分らしさを活かして過ごしていけるのだと、安堵に似た喜びが痛んだ胸に優しく沁みてもくる。
「あ。……紳ちゃん、今の……」
「ん?」
「今の顔、私が一番好きな顔なの。すっごい久しぶりに見れた〜。優しくて大らかで、泰然としててあったかいの。なんだか嬉しい……。そうやって微笑む方法を忘れさせちゃったこと、実はかなり後悔してたのよね。……良かった、最後に見れて」
「俺も今、同じことを考えていたよ」
「またまたぁ〜。最後になって調子いいんだから。もう出戻らせたくなった?」
「戻る家も売っちまってもうない。あ、諸費用を引いた売却金詳細は分かり次第連絡する。入金されたらきっちり折半で振り込んどくから。それが入ればまた余裕もかなり出るだろ。あまり仕事を早く見つけようと頑張りすぎて変なとこ選ぶなよ。無理はするな。何かあったら俺でよければ頼っていいから。元気でいてくれ」
「…………ありがとう。紳ちゃんも元気でね」

 日和子は先に立ち席を立ち伝票へと手を伸ばしたが、座ったまま長い腕を伸ばした牧が当然とばかりに先に取り上げて軽い笑顔を浮かべてみせる。
「払わせてくれ。もう払ってやりたくても出来なくなるんだから」
 頷きながら苦笑を漏らした彼女が小さく口の中で何か呟いた。
 聞き取れなかった牧が首を少し傾げて見上げると、ショルダーバックを肩にかけなおした日和子が潤んだ優しい眼差しを向ける。
「……優しい男はこれだから嫌いって言ったの。教えたくないことまで全部言わせられちゃうもの。あのね……何かの映画でね『男は優しくなければ生きている資格がない』ていう台詞があるの。私、この言葉好きなの。男も女も関係なく、優しさを持てない人はどんなに言葉や外見で飾っても人としての魅力はないわ。人間らしさって、笑うことと優しく出来ることだと思うの。いくら他に長所があったとしても、その土台となる優しさがなかったら、それはただの装飾品でいつかは壊れるもの。……最後まで惜しみない優しさを向けられる紳ちゃんは……優しくなれない私には立派過ぎて辛いのよ」
「日和子は俺なんかよりずっと優しいじゃないか。それに俺のことを買いかぶり過ぎている」
 真顔で返す牧の表情には謙遜の色も愛想をとろうとする色もなかった。あるのはただ、正直な思いと素朴な疑問の色だけであった。しかし日和子はあきらめたようにゆるく首を左右に振っただけで、唇を閉ざしてしまった。
 弱い微苦笑をつくったあとはもう、日和子の目が牧を映すことはことはなく。彼女は小さな背を向けて店を出て行った。


*  *  *  *  *  *


 話し終えてしまうと、自分の存在が希薄になったような物寂しさすら感じるほどに、ずっとひどく重たかった心が軽くなって静かに凪いでいた。
 固まってしまっていた体から不必要な力がぬけて、波のない穏やかな春の海にたゆたっているような感覚に浸っていた牧に、仙道が体を寄せてきた。
 とても久し振りに感じる、自分以外の人間の重みと体温が優しい。
「牧さんさぁ……マジでふっきれてんだね。順を追って話してくれたのに、淡々……つか普段と変わらないからさ。十年以上も昔の話を聞かせてもらってるみたいだった」
「そうか。……きっと終わり方が彼女のおかげでドロドロしたものにならずにすんだのもあるんだろうな。それと……まぁ、色々」
 牧は続きを口にすることはやめて、うやむやに流した。目の前にいる本人に向かって今、改めて礼をいうのが照れくさいからだ。
 こうして全てを吐露できたのは、話しやすいように上手く相槌をうちながら気遣いを挟みつつ、親身に聞いてくれた仙道のおかげだった。日和子と交わした会話までは言えなかったが、それでもほぼ全てを吐き出せたことで、これほど呼吸がしやすくなるなんて。お前のおかげだと、いつか別の機会に言わせてくれ。
 仙道が黙って己の頬を牧の肩へと摺り寄せてきた。
「……お前って外人みたいだよな」
「なんで?」
「うーん……。甘え上手というか、スキンシップ好きというか。俺には出来んから、こういうことは。……俺も照れずに自然にやれていたら、もう少しなんとかなったのかな」


 同程度の体重の男に寄りかかられているのに、どけるわけでもなく重たいと文句を言うでもなく。黙ってしたいようにさせている牧と仙道の腕の体温の区別がつかなくなった頃。仙道が上体を少し起こして牧の頬へ口付けてきた。
 これには流石に驚かされて、牧は目を丸くした。それなのに仙道はさらに牧の唇のはしぎりぎりに唇を寄せてくる。
「あ、よせ、くすぐったいって。こら、舐めるなよバカ! おい、ちょ……っ!」
 逃げようと顔をそらしても追ってくる仙道の顔面を、牧の大きな掌が押し避ける。
 牧が憮然とした顔をむけても、仙道は白い歯が眩しい悪びれない笑顔を浮かべた。
「〜〜外人じゃなくて犬だな。大型犬かお前は」
 明るい笑みにすっかり咎める気をそがれてしまい、牧はあきれ顔で笑った。返事のかわりなのか、仙道は「ワン!」と元気よく吠えた。

「ねぇ、牧さん。今度は俺の暴露話を聞く気はないですか? それとも、もう眠たい?」
 ちらりと窺うような上目遣いをよこされて、牧はわざとあくびをしてみせた。
「あー凄く眠いなぁ。うん。急に眠たくなってきた」
「うっわ。こうなったら意地でも話したくなるぜ」
「寝物語に聞いてやる。どんなに長くても情けなくてもいいぞ。いや、むしろ情けないのを聞かせろよ」
 笑いながら床にゴロリと横たわれば、仙道も隣で軽く微笑む。
 寝室からブランケットを持ってきて牧へかけた仙道は、床に座りソファに背を預けクッションを膝の上に乗せて話し始めた。
「俺、ずっと……十年以上ずっと……好きな人がいるんです」
「えっ? そういう話なのか?」
 意外な切り出しに牧は驚きの声をあげた。仙道が苦笑いで頷くと、牧は口元をムッとへの字に結んだ。
「なんであんたがいきなりムスッとするんすか」
「お前に好きな人がいたなんて、俺は全然知らなかったぞ。この秘密主義者め」
「隠してなかったですよ。つかね、気付いてもらえなかっただけで」
「自分で言う前に俺に気付いて欲しかったのか?」
「うーん……。まぁ、その話は置いといて。続けていい?」
「ん? あ、あぁ……」
 まだ何も話を聞いていないのに、何故か面白くない気持ちが胸にふつふつとこみ上げてきて釈然としない。
 しかしとりあえず話を聞いてから考えようと、牧は仕方なく続きを聞く体勢に戻った。

「高校時代に知り合ったんです。その人は他校で一個上だったけど、俺が一方的にすっげー好きになっちゃって。全然脈はないの分かってて、それでも少しでも仲良くなりたくて……近くにいたくて」
 照れくさそうに、大切な秘密をそっと打ち明けるように話す仙道の横顔を盗み見ながら、牧は内心面白くなかった。
 恋愛相談を受けるのが苦手だからか、それとも仙道がそんなに昔から一途に好きな人がいたというのを、こんなに長いことつるんでいる自分が知らなかったのが悔しいせいかは分からない。が、とにかくかなり面白くない。
 そんな牧の胸中を他所に、仙道は手にしているクッションをまるで想い人を撫でるかのように優しく指で触っている。
「すっごい頑張ったんです。その人の特別になりたくて。時間をかけて、ゆっくり……ゆっくり自然を装って近づいていったんだ。そうしてやっと隣にいれるようになれてさ……。そりゃもう俺、嬉しくて嬉しくて。なるべく時間作っては会いに行って。そのうち俺んとこにも来てくれるようになったんです」
「そいつは良かったな」
 夢見るような仙道の声音とは真逆の、そっけない相槌をわざとしたのに。
「はい。大変良かったです。幸せ絶好調でした」
 臆面もなく返されて、牧は唇を尖らせた。
「おい。俺が離婚暴露話をした後で、今度はお前のノロケ暴露かよ。それって俺が可哀相じゃないか?」
「いえ、全然」
「キッパリ否定すんなよな」
「だってノロケ話じゃねーもん。話はこれからっすよ。もう、牧さんちょっと黙ってて下さいよ。ちっとも話しが進まないじゃないっすか」
 笑う仙道に牧は少々ふて腐れ気味に「さっさと話せ」と呟くと、仙道からクッションを奪って枕にし目を閉じた。

「えっとね。社会人になって職場も家も学生時代より近くなったから、距離はもっと近づいたんですよ。なんか俺の存在を受け入れてくれたっつか、いい感じになれて。……なれすぎて、言い出せなくなっちまったんです。せっかくここまでこぎつけたのに……って。告って玉砕だけならまだしも、気味悪がられて隣にいられなくなったりしたらとか、色々考え過ぎちゃって。このままでいられるなら─── そりゃ本音は恋人になりたいって凄ぇ思ってたけど。これ以上は望みすぎだろって自分を誤魔化して、自分で線引きしちまったんです……」
 仙道は言葉を止めると、そっと牧の顔を覗き込んだ。
 褐色で健康そうな肌に彫りの深い精悍な顔立ち。伏せた目蓋に綺麗に濃く揃った長過ぎない睫毛。その睫毛が落とす静かな影が、時折すこしだけ揺れている……。
 無意識に仙道は指を伸ばしていた。
 美しい芸術品を視覚だけではなく触覚でも感じようとする本能的な動きを───
「……お前らしくないな。で? 続きは?」
 いきなり牧が口を開いたため、仙道は反射で手を引っ込めた。そのまま己の心臓を掴むようにワイシャツの胸元を握り締める。
「びっ……くりした〜。寝ちまったんだと思ったんですよ。あんまり静かだから」
「お前が黙ってろって言ったんだろが。いいから続けろよ」
「……うん、それで、えっと。そんな状態で数年過ごしていて気が緩んでいた俺に、その人はいきなり言ったんだ。彼女が出来たって」
 今度は牧が驚き目を瞠って仙道を見上げてきた。
「お前の好きな人って、その。レズビアンなのか?」
「違うっす。俺がゲイなの」
「は?」
 鳩が豆鉄砲をくらった顔そのままで固まった牧に困ったような笑顔をみせてから、仙道は軽く面を伏せた。
「そん時俺ね、すっげーショックでどうにかなりそうだったんだけど。彼が照れくさそうに『お前に一番に報告してやったんだぞ』なんて言うもんだからさ……。口だけ勝手に動いたんだ。おめでとうとか何とか。あんま覚えてないけど」
 牧は表情がほとんど伺えない仙道の横顔を黙って見つめた。少し眉間に皺を寄せて。
「それからは随分悩んだよ。二人を別れさせるよう動こうかとか、カミングアウトして大丈夫そうなら告白してみようかとか。……けどね。結局何も出来なかった」
 頬に注がれている牧の視線から逃げるように、仙道は座る位置を微妙にずらす。
「その彼女と俺、どっちが彼への愛情が深いか測れる機械があったとして。俺は絶対負けない自信があった。彼女に一度も会った事はないのに断定しちまえるだけの自信が」
 まるで目の前に件の女性がいるかのように、仙道は一瞬とても厳しい顔をした。けれど次の瞬間にはまた、どこか冷めた顔に戻ってしまった。
「でもさ、俺……男だから。男女で得る未来と男同士で得る未来。どっちが明るいかなんて考えるまでもねーから。……世界で一番好きな人を日の当たらない場所に引っ張りこむよりは、ってあきらめたんだ……。それにやっぱ、キモいって嫌われるのが怖かったからね。だから……式に何度も誘われたけど絶対行かなかった。けどさ、笑って祝福の言葉は言えたんだよ」
 仙道の声は痛いものを無理に咽の奥に押さえつけているようにくぐもっていた。
 両膝を抱えるように腕を組んで項垂れることにより、牧から面を隠しきってしまった仙道を、牧は起き上がって黙って見つめた。
 寄せた眉間はそのままに、瞳に疑問の色を浮かべながら。

 暫し無音であった室内に窓の外からトラックの排気音や何かの物音が小さく聞こえてくると、また仙道はゆっくりと話しはじめた。
「失恋の痛手を癒すには『時間薬と男薬』って昔、女友達に言われたことがあってさ。実践してみたんだ。そうでもしないと、あんまり苦しくて辛すぎて、間違って彼を傷つけるようなことを言いだしかねなかったから。てか偶然彼のそばにその女がいるのを見たら俺、逆上して何言い出すか分かんねーからさ。とにかく二人とブッキングしねぇ場所に逃げたんです。とりあえず二丁目とか行って遊び相手探してみたりね……。意識を彼から逸らそうと必死だった」
 話しながら仙道は何かを思い出したのか、軽く鼻で笑ったようだった。
「けどさ。これが傑作。どうしても無意識に、どっか彼に似たとこある人探してんの。そん時はもちろんそんなこと考えて相手を選んでるわけじゃないのに。自業自得なんだけど、ふとした時に遊び相手に彼と似た部分を見つけては、似ているだけで彼本人じゃないことを思い知らされて……悲しくて淋しすぎて……。そんなんだから、結局相手にもすぐ嫌われるわ、自分もどうでもいいやでさ。ホント、馬鹿ばっかりしてたんだ。よく病気にならなかったなって思うよ。これぞ“若気”ならぬ“馬鹿気”の至り?」
「……本当に……大馬鹿野郎だな」
 手厳しい相槌の中には微かな慈愛。仙道は体を揺らしながら頷いた。
「そんな身も心もボロボロになってた馬鹿野郎のもとにね、風の噂が届いたんだ。彼が離婚したってね。そん時俺、これは最後のチャンスなんだって確信した。彼を想って身を引いた結果、俺が不幸なのは分かるけど、彼まで幸せになれなかった。だから今度はあきらめねえって決めた。嫌われてもいいから告白しようって決めたんだ。それにもしかしたら彼も独り身に戻って淋しくなっててさ、上手くいけばほだされてくれるかもしんねーじゃん? そしたら俺が彼を目一杯幸せに出来る……離れないでいれるんだって都合よく思い込むことにしたんだ」
 仙道は一気にそこまで話すと、へへへと小さく照れくさそうに笑いながら体をゆらゆらと動かした。
「……俺と彼が上手く行くということは、結局は日の当たらない場所に彼を引きずり込むことになるけど……でも。暗闇の中で綺麗に咲く華─── 月下美人みたいにさ、夜空の下でも彼の幸せを咲かせられたらって。そう決心してからは俺、疲れた彼の心につけいろうとね、えげつないほど通ってんです。幸い、ゲイに生理的な嫌悪は持ってないのは通って早いうちからわかったしさ。隙をみてはちょっかいも出したりしてんの。あと数ヶ月くらい経って彼の心に俺が入れそうな隙間が作れたら、カミングアウトして告ろうって……」

 仙道の頭は完全に自分の両腕の中にすっぽりと埋め込まれていた。190cmもある大男が小さく……とまではいかないが、コンパクトに固まってしまっている。
 完全にこちらからは表情が窺えない形。
 まだ続きがあるだろうと長いこと待っていたが、仙道はずっと沈黙を保ったままなので、とうとう牧は自分で訊ねるしかなくなってしまった。
 大きく息を一つ吸ってから、牧は仙道を驚かせないように、静かに声を発した。
「……なぁ。俺の自意識過剰かもしれないが。……その、お前の好きな彼ってのは、」
「これで俺の暴露話はお仕舞いっす。最後までご清聴ありがとうございました」
 牧の言葉を強引に遮った仙道の声は思いの外、か細い。     
 また訪れた静けさが牧に、己のいつもよりも早い鼓動を意識させる。掌に浮かんでいた汗に気付き、牧は強く拳を握った。
「……あと一時間くらいで始発動くと思うから、帰っていいですよ」
 腕の隙間からくぐもった声と小さな溜息が漏らされる。
「まだ質問に答えをもらっていない」
 硬い牧の返答に仙道は笑ったようだった。それも気配だけではあるが。
「あんたが自意識過剰だったらね、世の中の95%は過剰っすよ。……今夜俺はこの話をする気はなかった。ただ、あんたがあまりにも俺に全部を話してくれたから……俺だけ暴露しねぇのはフェアじゃないって思ったから話しただけなんです。だから今夜は、逃がしてあげます」
「そんなことは訊いてない。俺が知りたいのは、お前がずっと想い続けている男の名前だ」
「あんたバカだよね。……言っちまったら、逃がしてなんてやれなくなるんですよ? 言ったでしょ。『今夜は』って。俺はもう腹くくっちまってるんです。今はなんとか逃がせるけど、次は絶対掴まえる。……さぁ、もういいでしょ。俺の理性が持つ間に帰って下さい」

 ゆっくりと隣で立ち上がる気配が仙道に伝わる。
 仙道は更にその身を縮めるように己の脚を強く抱え込んだ。
 頭上から、静かな声。
「……洗面所、借りる」
 微かにきしむ床の音は仙道と距離ができるごとに薄れてゆき、消えた。

 扉の向こうから流れてくる水音を、仙道は胸に降る雨音に重ねて目を閉じた。












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<2006年時のあとがき>
やっぱり牧可愛さゆえに綺麗な別れに(笑) 失恋の痛手の癒し方を教えてくれたY子さんに感謝ですv
仙道を真性のゲイにしちゃってすいません。でも最初はバイだったんですよ〜…って、関係ない裏設定ですな☆

<2023年改定あとがき>
結婚より離婚の方が楽だと日和子に言わせてますが。そこらへんはあまり調べてないので、
逆だったらすみません。まああくまで彼女と牧の場合は、の話ですから。



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