里穂が泊まりに来た金曜の夜から二日が過ぎていた。朝食から外出するまでの一時間と帰宅から就寝までの二時間程度以外、彼女はずっと不在だった。
おかげで彼女の兄とその同居人はあまり普段と変わらない、のんびりとした土日を過ごした。
月曜日は牧も仙道も普通に出社した。里穂は有休をとっており、仕事で不在の兄には頼らずバスで出かけて行った。 同じ職場である牧と仙道はいつもの同僚と四人で昼食をとっていた。そのうちの二人は用があるからと一足先に社員食堂から出ていってしまった。
仙道と二人になって妹のことを思い出したのか、牧は顔を曇らせ面白くなさげに呟いた。
「よくまぁ、毎日どこへ行ってるか知らんが家にいない奴だ」
「ホントっすねぇ。まぁ女の人は買物が何よりのストレス解消かつ癒しだっていいますから? それにしたって財布がよく持ちますよねぇ」
「あいつは俺より金銭面はしっかりしてるから心配してないが……」
文句がましく言いつつも、東京へ毎日出かける妹を心配している兄の顔がのぞいている。
「大丈夫ですよ。駅で友達と約束してるって言ってたじゃないですか。そうだ。俺、自主トレやめて早く帰ろっかな。家に待機してて連絡が来たら駅まで迎えに行きますよ、牧さん今夜は用事あるから早く帰れないもんね」
「……いや、そこまで世話はいらんだろ。子供じゃないんだし」
気遣いありがとうな、と牧は軽く仙道の肩を叩いて口元に笑みを浮かべると席を立った。
もし彼女と俺の仲が良かったら、牧さんは迎えに行かせたかったんじゃないだろうか。返事が一拍遅れたのは、俺を迎えに行かせた後のことを考えたからかもしれない。
トレイを手に前を歩く牧の背中を見ながら仙道は、『俺はいいけど、牧さんのためにもどうにかしないといけねーかな……』とぼんやり考えた。
その夜。仙道は通常のトレーニングが終了すると真っ直ぐ帰宅した。
いつもなら居残り自主トレをする牧が終わるまで、仙道もしていた。それをしない日は二人、もしくは仲間と夕飯をとってから帰る。直帰などあまりに久しかったせいか、仙道は自宅の壁掛け時計を見て口笛を鳴らした。
「はっやー! こんなに早く家に着いてどーすんの? 何してりゃいいの? TVだって何やってっか分かんねーよ!」
誰から返事がくるでもない部屋の中で苦笑いを零すと、とりあえず夏場の習慣で風呂場へ足を洗いにいった。
ラムネ味のアイスキャンディーを片手にソファへ腰をおろす。TVのリモコンに手を伸ばそうとして、足もとに紙袋が落ちていることに気付いた。
「なんだこれ……。あ、袋開いてる」 中には一冊ずつビニール袋に梱包された薄いノートのようなものが十冊ほど入っている。
一冊引っぱり出してみてれば、ピンクとレモン色がキラキラしている、漫画絵の女みたいな男二人が密着して踊っている表紙がチカチカと目に痛い。仙道は目を丸くした。
「これ……同人誌、だよな?」
こんなものを牧さんが買うわけがない。売ってる店どころか、こういう本の存在すら知らない気がする。そんなものが我が家にあるということは。
「これ買ったのは彼女なんだろうなぁ」
なるほど年に三回必ず牧さんのとこへ泊まりにくるわけだと合点がいった。
春・夏・冬と、漫画やアニメのオタクのための三大イベントが東京で行われているのはニュースにもなっているので、存在だけは俺でも知ってる。多分彼女はそれに合わせて東京に程近い兄の住まいをホテル代わりにしているのだろう。差し詰め今回の来訪は夏コミが目的というところか。
納得しながらビニール袋の上部に貼られた値札に仙道は目をむいた。
「ゲッ、なにこの値段!?」
こんな古くて薄っぺらい本に四千五百円って何事だと、思わず値段に気をとられたけれど。とりあえずこれは人の購入した物だからと紙袋へ本を戻して元の位置へ置いた。
しかしすぐに思いなおして、紙袋をテーブルの上に置き直した。
仙道はソファへ体を沈めると、腕組みをしながらにやりと口元を歪めた。
里穂はタクシーを降りてから兄のマンションまで全力疾走した。エントランスでは早歩きをし、エレベーターの中では合鍵を片手に足踏みまでしてしまう。 頭の中では兄からの文章がチカチカと点滅している。SNSの内容自体は『仙道が早帰りをした。お前を駅まで送ってくれるそうだ。』という、兄らしい要件のみな短文で、焦るようなものではない。
焦っている理由はただ一つ。兄から連絡が来たことで、自分が一度荷物を置きに戻った際にソファの傍に置き忘れた荷があることに気付いたためである。ひたすらに周囲に隠してきた秘密が一発でばれてしまうその荷物── 表紙からしてひと目でBLとわかる同人誌を、兄とその同居人に見つかる前に、何としても仕舞ってしまわねばならないからだ。
インターフォンなど目もくれず、荒っぽく鍵を差し込み勢いよく玄関を開けた。
次の瞬間、巨大な仙道の靴が沓脱ぎにあるのを目にし、彼女は一気に脱力した。手に持っていた大量の荷物がずっしりと重みを増す。
里穂は「お邪魔します……」と小声で呟くと、仮の自室へ直行した。居間の方からは仙道の「お帰り〜、早かったね。牧さんに連絡してくれたら俺が迎えに行ったのに」と返すのんびりとした声に追い打ちをかけられる格好で。
居間へ向かう己の足取りはまるで、足枷をつけられた囚人のように重たい。いっそ居間へ行かずに京都へ帰ってしまいたかった。けれどあんな本を置いたままで、万が一中を読まれでもしたらと思うと怖くてできない。 ── 兄に見つからなかっただけ、まだマシなの? それともあいつに弱みを握られたことこそが一生の不覚なの?
答えの出ない自問でどんよりと暗雲を背負いながら里穂は居間へ入った。
ふわりと生姜と葱の香りが鼻腔に届く。
「ちょっと待ってて。大した晩飯でもないけど、もうすぐ出来るから」
居間にいるものだと思っていた男の声は台所から聞こえてきた。
ソファの方へ視線を向けると、テーブルの上には件の忘れ物が置かれていた。里穂は敗北感でいっぱいになりながら、のろのろと紙袋を手にした。
後ろでカチャカチャと皿がぶつかりあう軽い音がする。
「牧さんは今夜用事があって遅くなるから、俺が駅まで送るね。まだ時間あるけどさ、外食するほどの時間はないだろうから家で食っちゃおう」
仙道が食卓テーブルに皿を並べながら、里穂へ座るよう指で椅子を指した。
今夜も夕食は友達と外でとり、あまりここで長居しないですむ時間に戻ってくる予定も全て自分のミスで流れた。この男となれ合いになる気はなかっただけに、二人で食事など最悪だとは思ったが、逆らえず里穂は大人しく座った。
冷蔵庫にあるもので作ったから品数少ないけど、と仙道は言ったが、夏らしいメニューが食卓を彩っていた。キンと冷えたトマトのスライスに淡い色味のスライスチーズがサンドされたサラダ。数種類のキノコをベーコンと炒めた皿からは醤油とバターの香りが控え目ながらも芳ばしい。冷やシャブの肉からは生姜の爽やかな香り。上にたっぷり乗っている白髪葱が食欲を促す。冷凍しておいたご飯だというけれど、茶碗に盛られた白米は炊き立てのようにツヤツヤしている。
こちらにきてからは朝食以外は全て外食だっただけに、手料理が眩しく感じる。兄は土日の朝食はパンと決めているらしく、ここで湯気をたてているご飯を見たのは初めてだった。
どちらかといえばご飯党な里穂にとっては、食卓に並んだもの全てが箸を持たせるのに十分な威力だった。
「いっただっきまーす」
「……いただきます」
口にした冷たい豚肉は柔らかく、臭みもなくとてもジューシーだった。噛みしめるたびに葱のシャキシャキ感と合わさって箸がすすむ。テーブルにポン酢が瓶ごと置いてあるのが男の食卓らしい。それは実家にはないスタイルだけれど、口には出さないがポン酢好きの里穂には好ましかった。
黙々と食事は続いた。いつ話を持ち出されるのかと構えていたけれど、ご飯が茶碗に半分まで減ったところで、とうとう自ら口火を切った。
「兄に、言いますか?」
あえて品物の名を言わなかったのは、僅かだがこの男が同人誌の存在を知らないかもしれないと望みをかけて、逃げ道を残す言い方を選んだからだ。
先に食べ終えて水を飲んでいた仙道の手が止まった。
「別に。牧さんにビーエルの同人誌を里穂ちゃんが買ってたって教えたところで、ビーエルとか同人誌だとか、そういうの知らないと思うし」
同人誌の存在どころかBLという用語まで知ってるとなると、誤魔化しようがないと落ち込みは深まったが、言動には出さないよう平静を努めた。
「発音おかしいですけど……仙道さんは知ってるんですね。こういったディープな世界があることを」 うん、と軽く頷いた顔からはこの男が何をどう考えているのかさっぱり読めない。涼しく優しげな美形の割には、けっこうな腹黒さと底の深さを感じさせる。
里穂はため息を一つついた。
「弱みを握られましたね。でも……私も仙道さんの弱みを掴んでます」
ぱちぱちと男にしては長い睫毛を瞬かせた表情は本気で驚いたもので、里穂は腹に力をこめる。本当は物的証拠として写真などを撮ったり、何か決定的となる物を入手してから話すつもりだったが、こうなった以上は仕方がない。
「仙道さんが兄と同居しているのは、金銭で困られているからでしょ」
「え? は? 俺が?」
「二日前の夜、私は洗面所に行く前に居間をちらりと見ました。その時、仙道さんは兄の財布からお金を抜いてました。昨日の夜は兄が仙道さんの財布を見て、深いため息をつきつつ自分の財布からお金を仙道さんの財布へ入れてました。春に私が泊まりに来た時も確か、似たような場面を見た記憶があります。それに仙道さんは買物に出る前に兄に向って、『すんません、ちょっと』と手を出して、兄からお金を渡してもらっているところも見ました。普通、貸して下さいとお願いするのが真っ当だと思いません?」
一気に早口で告げる里穂へ仙道が慌てて少し身を乗り出す。
「ちょ、ちょお待ってよ里穂ちゃん。そりゃ誤解で」
「最初に来た時から変だと思っていたんです。彼女もいない独身の兄が何故突然マンションなんて買ったのか。それに部屋の中を見ても、彼女はいないと言っておきながら、センスのない兄の住まいとは思えないくらい、インテリアも小物も適度に揃っているじゃないですか。全て仙道さんが選んで兄に買わせたんじゃないですか? 衣食住、全て兄に出させて、お金までたかって。それって同居とはいいいませんよね」
仙道に口を挟ませては勢いをそがれるばかりに、里穂は猛前とまくしたてた。証拠がないことを言及される前に押し切りたいという狙いもあった。
最初は焦っていた彼も観念したのか、はたまた話を最後まで聞いてから次の手を打とうというのか。眼前の男は黙って聞いている。
「兄の何か大きな秘密や弱みでも掴まれたんですか。それとも、仙道さんに対して兄は負い目になるような大事故や何かでもしたんでしょうか。理由如何によっては、私、両親に話します。友達のお兄さんに弁護士や警察関係の人もいますから、場合によっては相談に乗ってもらおうとも思ってます」
腕を組んで軽く首を左に傾げている仙道はまだ何も言ってこない。緊張で咽が渇き、里穂はコップの水を半分ほど一気に咽へ流し込んだ。
「……私の弱みなんて、あなたのタカリなんかよりはずっとずっとちっぽけで個人的なものだと思いますけど?」
細い肩を精一杯いからせて冷静を装いつつ懸命に話す姿は、人に懐かない野良の小猫が精一杯虚勢をはって鳴いているようだった。あまり似ていない兄妹だと思っていたけれど、真っ直ぐな視線の強さとふっくらした唇は血のつながりを感じさせる。 ── 『どうだ、お前の考えてることなんてお見通しだぞ』
ここにはいない彼女の兄の心地よい得意げな声が聞こえる気がした。理論で俺をねじ伏せた時に見せる表情も浮かんでくる。それと目の前の彼女が僅かだが重なった気がして、仙道は思わず微笑ましささえ感じていた。
「仙道さんは何か言うことはないんですか? 反論がないのは認めたとみなして、まずは両親に話しますけど」
「あ。もう俺、喋ってもいいの?」
「どうぞ」
わぁ、憎々しげな顔をされてしまった。でもそんな顔もまた牧さんを思わせるねぇと、つい口から出そうになるのを寸でで堪えた。
「うーん。何から話せば……。あ、そうそう。里穂ちゃんはタマリン錦が好きなのかな? あの本、元は五百円くらいしかしなかったはずなんだけど」
兄と同じ色素の薄い瞳が零れそうなほどに驚かれた。次の瞬間、彼女の小さな頬は真っ赤に染まった。
「まさかビニール破いて中まで見たんですか?!」
「見てない、見てないよ。中なんて見たくもないって。紙袋空いてたから何かと思って覗いただけ。一冊だけ、表紙をビニールごしにちらっと見ただけだって。開けられた形跡なんてなかっただろ? ビニールに値段ついてたからさ、そんで暴利を貪ってるなぁ古本屋はと思っただけなんだよ」
仙道は話す順序を間違ったかと内心で舌打ちをしながら、頬をひきつらせている里穂をなんとか宥めようと殊更軽く伝えた。しかし彼女は今や毛を逆立て細い爪で飛びかかってくる直前の子猫みたいな様相となってしまった。
「た、確かに薄さの割には高額でしたけど! あなたと違って自分のお金で買ってますんでご心配なくっ」
「違うって、責めたわけじゃないんだ。俺はただ、タマリン錦が好きなのかなって。そこを聞きたかっただけでさ。そんな怖い顔しないでよ〜」
女の扱いは下手じゃない方だと思ってきたけれど、よく考えれば年下の女とは付き合った経験がない。俺の鬼門は年下の女なのかもしれない。それがよりによって恋人の妹なのかと仙道は頭を抱えたくなった。
箸が折れそうなほど、小さな両手を震わせながら割り箸を握りしめて俯いてしまっている里穂が、聞き取りにくいほどの小声で呟いた。
「……男の人にタマリン錦先生の良さを理解してもらおうとは思っていません」
「あ、やっぱ好きなんだ。そっかー、良かった。友達の本を代理で買っただけかなーとかも考えてたんだけどね」
箸がミシリと嫌な音をたてた。そういうとこもお兄さんとそっくりだ。
こんなにいっぱいいっぱいな子(といってももう立派な社会人だけど)を、これ以上緊張させっぱなしは流石に可哀相になってくる。
仙道はなるべく刺激しないように言葉を選びながらゆっくりと話した。
「俺の二番目の姉がタマリン錦なんだ。だからサインとか、持ってなくて欲しい本とかあったら、余ってないか聞こうかって話をしようと思ったんだ」 仙道は数年前、実家に所用があり五日ほど戻ったことがあった。その時二番目の姉が『いいところに帰ってきた〜。バイト代出すから、通販作業手伝って〜!』と泣きついてきたのだ。姉にすがられ金にほだされ、仙道は余裕のない日程の中、数種類の本をビニール袋に詰めては封筒に入れていく作業を丸一日、延々と手伝わされた。隣の部屋で繰り広げられていた姉とその友達数人によるハイテンションな、いわゆる腐女子丸出しの聞きたくもない会話をBGMに……。
嫌になるほど見た件の表紙を目にして蘇った、どうでもいい記憶。そんなものが今になって話のきっかけに役立つとはわからないものだ。
俯いていた小さな頭は仙道の言に髪が乱れるほどの勢いで上がり、先ほどの冷たい表情などどこへ飛んだのかと思うほど切迫した顔で食いついてきた。
「嘘?! タマリン錦先生が仙道さんのお姉さんなんですかっ!?」
「マジ。あ、なんなら今、電話してあげよっか?」
予想以上の反応の良さに仙道はニコリと微笑んだ。
TV台の上にある携帯を取ろうとした仙道のシャツの裾を里穂が力いっぱい引っ張って止める。
「い、いいです! そんな、突然何話していいか分からないですから!」
「そう? でもさ、タマリンが姉だって証拠がないと里穂ちゃんも後からかつがれた気がしたりすんじゃない? 俺もまさかそんな話になると思ってなかったから、その手の物とか何も持ってないしさ。うーん……こんなことなら『1,000mg配合ハイパー』なんていらねぇって返すんじゃなかったなぁ」
「そ、それって幻の小冊子じゃないですか! 何で知ってるんですか!」
「幻かどうかは知らないけど、手伝い記念つって渡されたんだよ。んなもんいらねーってその場で返しちゃったんだ。そん時知ったんだけど、タマリン錦のサークル名がミラクルタウリンって、とんでもない安直さで驚いたんだよ俺。タウリンときたら1,000mg配合ってのはお約束だもん。それを本の題名にするってのもねぇ。嫌でも覚えるよ。あん時はあまりにアホらしくて呆然としたっつーか」
椅子に座りなおして改めて見た里穂の目はキラキラと輝いていた。 「……信用してくれたみたいだね。良かった。じゃあ、会わせてあげるよ。いつがいい? 姉にも都合きかなきゃいけないかな……。まぁ、漫画家だから毎日家にいるだろうし、いいか」 「よくありません! 先生は今や商業誌でも大変ご活躍されていて、とても忙しいんです! 私の方が先生のご都合に合わせるのが当然っ! あぁでもでも……本当にお会いしてもいいのかな。うわ〜どうしよう〜」
先ほどとは違う薔薇色に染まった頬を両手で挟み、里穂は恋する乙女のようにぷるぷると首を左右に振っている。
そんなに喜ばれると思っていなかった上に、口調が少し砕けてくれたことで仙道は手ごたえを感じた。上手くすれば、もう少し歩み寄れる……か?
「俺としても姉のファンに会ったのは初めてだからさ、なんか嬉しいよ」
頬笑みながら思ってもいないことをペロリと告げると、里穂は照れた顔を俯けて、恥ずかしそうにまたふるふると頭を振った。
「里穂ちゃんは面白いなぁ。うーん。そんなに好きだと思ってもらえてるって姉が知ったら、そりゃ喜ぶよ。聞いてて俺までなんか面白かった」
「先生を知ってからは集められるだけ本もグッズも集めたんだよ。今度見せてあげるね。あ〜、去年のノベルティグッズ持ってくればよかった〜」 つい兄と話すような口調で、楽しく仙道と長話をしてしまったことに里穂は遅まきながら気が付いた。
周囲に同人の話しを出来る友人がいない隠れ腐女子としては、大好きな商業兼同人作家の話しをできるなんて。しかもその相手がその作家と会わせてくれるだなんて、考えたこともないラッキーを提案してきたのだから、理性が飛んでしまっても仕方がない。
しかしこのまま話が終わってしまっては、彼は自己弁護を一切できないままになる。話をしていて思っていたよりも気遣いのある優しい男だと認識を改めてはいるけれど。彼に持った警戒心の種を解消しないことには、自分が帰れない。それに、もしこれが兄との金銭関係の話をうやむやにする手だとしたら?
それはそれ、これはこれと口調を線引きしたものに変えて問いただすのも、もう今更だ。里穂はくだけた感じのまま問うた。
「さっきの話に戻るけど。仙道さんは私が考えてる金銭面での疑惑に釈明しなくていいの? もし私の推測が当たりなら、兄に聞いちゃうよ? 仙道さんにたかられてんじゃないのって」
仙道は焦った様子もなく、「あーそうだったね〜」と鷹揚に頷いた。
普通だったら真っ先にそちらを否定してから、自分にとって有利に働きそうな情報を話すものだろうにと、里穂は首を傾げた。
「全くの誤解だったから、聞いてて面白かったよ。確かに里穂ちゃんが見た場面だけじゃ、そう考えるのもありかもな〜。まぎらわしいよね。うん」
ごめんね〜。でも何て説明すりゃ分かりやすいのかなぁ、などと少し眉根を寄せて考えている。その顔はある意味無防備なもので、とても上手く騙す算段をしているようには見えない。もしこれで本当に悪いことを考えているのだとしたら、……かなり油断できない男だけれど。
「……兄の様子を見てる限りじゃ、あんまり本気で困ってるようには見えないけど。でも今言っておいたほうがいいんじゃない? 兄がいないほうが言いやすいとかはないの?」
「そうだね。いない時に俺が話した内容と、後から牧さんが話した内容が一致してなかったら、それもまたツッコミどころになるもんね」
口の端を軽く上げて笑われた。余裕が見えるその様に、最初の頃ならカーッときていただろうけれど。何故か今は形の良い唇が描く曲線に見とれて、一瞬だけれどドキリとしてしまった。
「もー。そんな挑発しても時間の無駄だから」
「お? いいね、里穂ちゃん。俺、頭のいい人は好きだよ。時間、そういや大丈夫かい? 何時のJRに乗るの?」
「まだ少し大丈夫。でもあんまり時間ないから。分かりにくい説明でもいいから早く聞かせて?」
軽く両肩をすくめながら仙道が苦笑を漏らした。
「はい、里穂先生。別にそんな深い話じゃないんだ。俺は金遣いが荒いというか雑でね。財布にあればあるだけ使っちまうんだ。でも、なきゃないで使わない」
「なかったら誰も使えないわよ」
「はは。そーだけど、金を人に借りてまで使う奴いるじゃん。金融業社とか行ったりさ。ま、それは置いといて。俺もいい年だしさ、もう少し貯金とかも考えなきゃいけねーなと思って牧さんにお願いしたんだよ。俺の給料全部預ってもらえないかなって」
「全部!?」
うん。と、ケロリとした顔で頷かれてしまい、向かいに座る涼しくも優しげな美形をまじまじと穴が開くほど見てしまう。
確かに兄は金銭面に関しては比較的しっかりしている。私から見るとまだ甘いけれど。だからって。いくら同居している親しい先輩だからといって、全額預けるとは信じられない。
「そんなことしたら不便じゃないの? それにもし、兄がお金を誤魔化したりしたらどうするの?」
「んなことする人じゃないのは、里穂ちゃんが一番知ってるんじゃないの? 生活的には俺、今のところ全然不便感じたことないよ。かえって安心して使えてありがたいんだ」
面白いのが、自分でも使い過ぎてるかなーって時は牧さんの追加すっげー少ないの。酷い時なんて五百円しか入れてくれてないんだよ。昼飯どうすりゃいいのよとか思ってたら、昼に牧さんが来て、『家のトイレ掃除やってくれるなら飯を奢ってやろう』だって。学生の罰掃除みたいだよね。んでその晩に俺が掃除したら、翌朝三千円入れてあんだから。飴と鞭? 鞭と飴?
── などと、とても楽しそうに話す様子に、『それを不便というんじゃないの?』とのツッコミすら入れられなくなってしまう。
「逆にさ、あんまり使わない月だったりすると、給料日の三日前くらいから財布の中身が少なくもないのにいきなり増やされてたりするんだよ。多分、牧さんの中で俺の月額使用料の目安があるんだろうね。二ヶ月連続して使うの減らしたらどういうことになるのか試したくて、ちょっと我慢してみたんだ。そしたら翌月給料日の三日前、どうなったと思う?」
ニコニコと首を傾げて尋ねられた。
「……ボーナスとして二倍出たとか?」
「俺もそれを狙ったんだ。それなのに、千円逆に減って二千円にされんの! 何でって聞いたらさ、『節約が楽しくなったようだから、レベルを上げてみた』だって。もうねぇ俺ガッカリしちゃって。翌月普通に使ってたら、月末今度は窓ガラス磨きだよ。参るよマジ」
ちっとも参ってない笑顔を向けられ、楽しそうな二人の生活が目に見えるような気がしてしまった。もしかしなくても、私の推論は見事に外れていたのだと馬鹿らしくなる。
放っておいたらまだまだ喋りたいエピソードがあるようで、里穂はまだ続いている話を途中で強引に遮った。
「分かったわ、私の勘違いだったって。あのね、私そろそろ帰る準備しないといけないの。それでね、申し訳ないんだけど、食器洗わないで失礼していい? 今度来た時は私も食事作りや皿洗いとか手伝うから」
「あ、ごめん。皿は後で牧さんの飯が終わったらまとめて洗うから気にしないでいいよ」
行って用意しといでと促され、里穂は礼を述べて部屋へ戻った。
荷物を整理し終えた頃に携帯が鳴った。兄からだ。
「はい。どしたのお兄ちゃん?」
『お前は今どこなんだ? 俺ん家か?』
「うん。そうだけど?」
『俺はまだまだ帰れそうにないから、仙道に代わりに送ってもらえ。いるだろ、仙道も家に』
「いるけど、まだバス使っても間に合う」
『いい加減にしろ。仙道の何が気に食わんか知らんが、お前の態度は目に余る。仙道はな、お前のために自主トレもしないで急いで帰ったんだぞ。俺はそこまでしなくていいと言ったのに。早く帰って軽く飯食わせてやりたいからって』
妹の話を遮った声は低く、怒りを抑えているのが伝わってきた。
兄は妹の仙道を見る目が変わったことなどまだ知らない。彼を嫌っているからバスで駅まで行って帰ると言っていると勘違いしている。自分としては時間的にまだ少し余裕があるため、これ以上迷惑をかけないようにとの配慮なのに。
「……お兄ちゃんはそんなに私が仙道さんを嫌いなのがイヤなのね」
電話の向こうで兄が一呼吸おいた。 『……あんなにいい奴を毛嫌いされたら、腹立たしくもなる。あいつの良さが理解できないのは……言い分はあるだろうが、お前にも問題があるんじゃないかと俺は思っている』
顔が見えない分、硬い声音には複雑なものが沢山含まれているように感じさせた。
今まで私が兄の友達を毛嫌いしようが、気に入ろうが、兄はあまり頓着していなかった気がする。昔一度だけ、あんな人と遊びに行くなんてと言ったことがあった。その時も兄は苦笑いで『里穂は手厳しいな。お前の友達じゃないんだ、放っといてくれよ』と流しただけだった。そんな、自分と妹の価値観の違いを達観していたような兄が……。
呆気にとられて返事をするのが一拍ほど遅れた。それをスネて黙していると勘違いしたのか、兄は悲しそうに続けた。
『もし、どうしてもお前が仙道を嫌いで、歩み寄る気はないというなら。年に三回、東京のホテル代は俺が半額出してやるから……』
暗に、彼を嫌うなら毎年恒例、年三回の妹の来訪を断るとまで言われて彼女は慌てた。
「お、お兄ちゃん! あのね、違うの。バスに乗るって言ったのはまだ時間に余裕があるからで、食事の後片付けを仙道さんにお願いしちゃったし、帰るくらいは自分でと思ったからなの!」
『あ、飯食ったんだ。美味かったろ』
「うん! とっても美味しかったよ。それにね、食事しながらいっぱい喋ったの。ホントよ。仙道さんは優しい人なんだって分かった。これもホントだから。あ、でもそうだね、やっぱり仙道さんに送ってもらうわ。せっかく早く帰ってきてくれたんだもん。甘えることにするね」
一気にまくしたてると、兄の苦笑が漏れ聞えた。
『分かった。気をつけて帰れな。仙道にちゃんとお礼言えよ』
「当然でしょ、子供じゃないんだから」
また笑っている気配が伝わってくる。その後ろで兄を呼ぶ野太いオッサン声が電話の向こうから漏れ聞こえてきた。
『すまん、もう切る。じゃあな。また……次は冬か。元気でな』
兄のどこか嬉しそうな余韻は、妹の「またね」という返事と共に消えた。
*next : 03
|