Family vol.01


 面倒な諸々の手続きの最後となる住所変更手続きを郵便局ですませ、建物から出た牧と仙道は身も凍りそうな冷気に首を竦めた。けれど面倒と開きなおりきれず抱え、律儀に各窓口で火照り続けた頬には心地よくすら感じられる。それでも遅めのランチをとるべく歩いている間にはすっかり北風に負けてしまった。一月の日差しは明るくても体を温めてはくれないため、二人は歩を早めた。
 駅裏にある、外観はかなり古びているが味には定評があるラーメン屋も昼時から外れたおかげか行列もなく、すぐに座ることが出来た。白い湯気が漂うカウンター近くの奥まった席に座れば、二人は深い吐息を漏らした。
 適度に賑わった店内で仙道は厨房で忙しく立ち回る店主に聞こえるように、腰を少し浮かせ大声で注文を伝えた。
「ここのラーメンは久しぶりだ……」
 注文を終えた後もメニューを眺めながら呟いた牧にだけ聞こえるよう、仙道は声を落とす。
「ね。プライベートでは今日から名前で呼び合いませんか」
 唐突な提案に牧は僅かだが眉間に皺を寄せる。
「どうしてだよ。一緒に暮らすからって呼び方まで変える必要はないだろ?」
「名前で呼び合っていたら、同じ部屋に入っていっても兄弟にとれるじゃん。まぁマンションの住人に関係だの苗字だの尋ねられることもないだろうけどさ」
 一応仙道なりに牧が周囲を気にすることを気遣ってのことだと伝わり、牧はいつもの穏やかな雰囲気に戻りはしたけれど。
「……照れくさくてどうもなぁ。今さら白々しいよ。そう思うだろ?」
 仙道の予想通り、やんわりと拒否してきた。
「何事も慣れですよ、紳一さん」
 お手本にと頼まれもしないのに先に呼んでみせた仙道は、期待に満ちが眼差しを向けてくる。続けて牧が自分の名前を呼んでくれるだろうと。
「……やはり賛同しかねる。聞かれたら義兄弟だから苗字が違うと言えばすむ。今まで通りでいいじゃないか」
「え〜。こういうのはきっかけがないとなかなか言えなくなるもんだから、今がいいと思うんですけど。今で戸惑うんなら、何年後か分かんねーけど、俺があんたの養子に入って苗字同じになってからじゃ益々慣れにくくなりますよ。だからね、紳一さん。彰って呼んでよ」
「却下。苗字が同じになったとしても、呼び方まで変える必要ないだろ。誰も戸籍抄本を背中に貼り付けてるわけじゃなし。第一なぁ、それこそ兄弟で“さん”付けしてる方が変じゃないか?」
「じゃあ、……紳一」
「顔赤いぞ。そんなに言いにくいのに無理するな」
 軽く小さな笑い声をたてた牧を仙道は恨めしそうに見やる。
「チェ。せっかく牧さんに名前で呼んでもらえるチャンスだと思ったのに」
「棺桶に片足突っ込む頃には呼んでやらんこともない、かもしれん」
「そんなヨボヨボジジイになってからですら、“かも”なんすか。名前呼ぶくらい、んな大層なことでもないでしょー」
「大層なことでもないのなら、尚のこと変える必要もないな」
 ニヤリと牧は片方の口角をあげた。対する仙道が両方の眉毛を情けなく落としたため、牧は湯気をたてるラーメンからチャーシューを一枚仙道の丼ぶりへ差し入れてやった。

 知り合ったのは高校時代と随分昔。違う高校で学年も一つ異なるため、同じバスケ部所属の身ではあってもそれほど接点はなかった。大学もそうだった。しかし牧がプロ契約したチームに仙道が一年遅れで入ってきてから二人は急速に親しくなり。先輩後輩はもちろん、チームメイトの枠も親友の枠も何もかも飛び越えて恋人同士となっていた。恋人となる前、接点の少ない頃から互いに想いを寄せていたのだが、様々な誤解などで余計な遠回りをしてきていた。だから余計に想いが通じ合った喜びは大きく、まだこういう関係となって五年目ではあるけれど、昨年末に共同出資でマンションを購入し同棲に踏み切ったのだった。

 バレンタインのイベントでデパートが賑わいをみせる頃。二人は予定より遅くなったが、無事新しいマンションへと引っ越した。引越業者が去って山積みの段ボール箱を気が抜けたように眺めている牧がボソリと呟いた。
「男の二人暮らしは女同士より珍しいよな……」
 後悔している響きは感じられなく、ただ思い浮かんだことを口にしただけのようだったので、仙道は聞こえなかったふりをした。
 洗った手を拭いたタオルを無造作に何も置かれていない調理台へ置くと、仙道は牧の横へ立った。
「今までも半同棲みたいなもんだったけど。牧さん、不束者ですが、末永く宜しくお願いしますね」
 深々と190pの長身を折るお辞儀を牧は慌ててやめさせた。
「改まんなよ。かえって落ち着かなくなるじゃないか。それにその台詞は嫁いできた女性が言うもんだろ」
「性別なんて関係ないよ〜。しっかりしてない方が言えばいいんじゃない?」
「まぁそうだけど…。お前はしっかりしてるよ。いや、ちゃっかりしてるというべきか?」
「何気に失礼っすよ俺に」
 ぷくーっと頬を膨らませてみせた仙道に牧は軽く笑った。その笑いはまだどこかぎこちなく、不安が薄く透けてみえる。仙道はゆっくりと背後から牧を腕の中に収めた。
「大丈夫ですよ……なにも心配いらないから」
 まだ時期尚早ではないかという牧を強引に説得したことを悔いているわけではなかった。彼はどれほど条件が良かろうが理にかなっていようが、自分が納得しなければ絶対に首を縦には振らない。説得されたということは彼自身がきちんと納得したということだから、いいのだ。しかし普段何事も割り切りの良い人がまだこうも気持ちを切り替えきれないことが淋しい。
 切り替えさせてあげられることが出来ない自分が歯がゆくて、仙道はそっと牧の柔らかなブラウンの髪へ鼻先を埋めた。
「心配なんてしてない」
 返す声に牧は精一杯の優しさを込めた。それだけでは足らず、仙道の頭を抱えるように抱きしめる。
 二人でマンションを購入し一緒に暮らすことは同棲の域を超え、事実上の結婚と牧は考えていた。仙道に確認はしていないけれど、そう考えているのは瞭然だった。それを踏まえて購入を決め、自分は親のところへ説明に行った。しかしいざ両親の顔を見てしまえば、『ファミリー用を選んだのは……いつか今後を考えて』と。一緒に住む仙道のことも告げずに、その日は購入の話だけをして逃げ帰ってしまった。仙道にそれを報告すると、『お疲れ様でしたね。いいんすよ、なんも一度に全部進めてかなくたって。じっくりいきましょーや』と微笑んでくれたのが今も胸に痛い。
 その優しさに甘えたまま、自分はまだ両親にその後何も言っていない。今日も引越し手伝いにくるといった親には、業者や友人が手伝ってくれるからと断りを入れただけだ。
 結婚を考えているかのような言葉で両親を騙し、生涯のパートナーと決めた仙道を紹介しない臆病で卑怯な自分。どちらにも悪いことをしている罪悪感が顔に出ているのだろうか。こんな弱い俺を許す優しい恋人は、申し訳なさそうに眉尻を少し下げている。申し訳ないのは俺の方だというのに……。
「そんな顔をしないでくれ……。こちらこそ。その、……宜しくな!」
 牧が吹っ切るように明るく言うと、仙道は鏡のように元気な顔に変わった。
「はい! これからは俺、もっと片付けとかもきちんとやりますよ。安心して下さい」
「そうしてくれると助かるな。まぁそれに関しては期待しないでおくが」
 ふざけて肩をすくめてみせると、仙道は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「大丈夫。俺は何事も本気を出せば出来る男だってのは知ってるでしょ。さ、まずは寝室を片付けて来ようかな」
「お? もうやる気になったか」
 振り向いた仙道は綺麗なウィンクを決めた。
「当然。綺麗好きの恋人のために、引越し初夜の準備はバッチリ決めてきますよ」
「っ!! このバカ! スケベ!」
「スケベな俺が好きなくせに〜」
 イヒヒと笑って逃げる仙道へ手近にあったハンガーをブーメランのように投げて命中させた牧の頬には、先ほどまでの憂いの影は消えていた。


 牧の不安をよそに、日々は何事もなく穏やかかつ順調に過ぎて行った。
 同じ職場ではあるがスタッフはこういうご時世のためか、あくまで事務的に対応してくれたし、チーム(バスケット)の仲間にしても住所の話など今さらしない。同棲する前から牧も仙道も仲間とは基本的に外で遊んで別れるというスタンスであったため今までと変わらず、プライベートで自宅に呼ぶこともなく、突然押しかけられるということもなかった。
 二人が住むマンションでは住人の交流というものはほとんどない。もちろんエレベーターや共同ゴミステーションなどで顔を合わせれば挨拶くらいは交わすが、お互い名前も階も知らない。一応両隣に引越し挨拶はしたけれど、家族構成など紹介しあうわけもなく。都市型住民のコミュニケーションの希薄さが濃いこのマンションは、二人にとっては余計な詮索のない快適な居住環境といえた。

 カーテンの隙間から朝日がきらきらと細かい銀の粉となり零れている。
 いつもなら寝汚くいつまでも布団に潜っている仙道だが、今日は来客があるためセットしていた目覚まし音で渋々起き上がる。隣のベッドで寝ている牧にも目覚ましの音は聞こえていたようで、疲れたような小さい溜息をつくと、細く眩い光から顔を背けるように体の位置を変えた。
 影の落ちる精悍な頬は昨夜の情事による疲労をうっすらと滲ませている。仙道は牧の枕元へ静かに腰を下ろすと、そっと労るように指先でなぞった。
 男らしく整っている眉がピクリと動き、ゆっくりと目蓋が開かれる。
「まだ寝てても大丈夫だよ」
「……今、何時だ?」
「9時4分。朝ごはん、すぐ食べれるんならもう作るけど?」
「起きる。飯は……少しでいい」
 緩慢な動きで起き上がった牧の体からブランケットがするりと落ちた。浅い海の底のような部屋の中に美しく鍛え上げられた裸体が強い生命力を放って仙道の目に飛び込んでくる。
 大きく伸びをする体はしなやかに反らされ、零れた光たちが波の飛沫のように褐色の肌を弾いた。思わず仙道は腕を伸ばし、昨夜何度も唇を落とした鎖骨の下の窪みに触れ、滑らかな項へ唇を落とした。一瞬牧が息をつめたのが唇から伝わってくる。感度の高い場所をゆっくりと指先で擦りながら、牧の首筋を舌先で辿れば、「ん……」と小さく咽を鳴らしながら牧が身じろぐ。
「やめろ。今日から三日はしない約束、忘れたのかよ」
「……これは昨日沢山頑張ってくれた、大事な身体に調子はどうか尋ねてるだけです」
 唇を微かに触れる位置で喋られるのが刺激になると分かっていて、仙道はしれっとした調子で答えた。ぶるりと牧の体が素直な反応を示す。
「そんなの直接言葉で聞け。調子は問題ない。触るな」
 牧の掌が仙道の額をペチンと叩いた。仕方なく仙道は体を離した。パジャマの下だけを身につけている牧がベッドから出る様子を名残惜しく見つめる。
 まだ昨夜の刺激で敏感になったままであろう体に未練が募るあまり、仙道は往生際悪くもダメもとでねだってみる。
「後ろまでは触らないから。それなら負担もかからないし、時間だってかかんないよ。さっきだって感じてたじゃないっすか。十五分でいいから」
 寝室のドアを開けようとしていた牧が首だけ僅かに捻って睨みつけているのに気付いた仙道は慌てて口を閉じた。
 少し掠れた不機嫌丸出しの低い声音で牧が命ずる。
「さっさと飯を作れ」
「はい!」
 反論すればお小言をくらうのは必至。それどころか臍をまげられて更なる不本意な約束を押し付けられてはかなわない。
 仙道は軍人のようにビシッと敬礼のポーズを決めると台所へ向った。

 今日から三日間セックスはもちろん、スキンシップもなるべく禁止。
 そんなつまらない約束を仙道が承諾するのは、牧の妹の里穂が今日から泊まりにくるからだ。まだどちらの家族にもカミングアウトしていない身としては、ただの同居人として振る舞う必要があるのだ。
 春にも里穂は泊まりに来ていた。その時も同じ約束をして過ごしている。
「仕方ないって分かっちゃいるんだけどね……」
 牧は妹を迎えに行っているため、仙道は一人、家で本日何度目かのため息をついた。


 居間に入るなり里穂の表情が硬くなる。前回泊まりに来た時とよりも悪い反応に牧は少々気落ちしながら車の鍵をボックスへ閉まった。
「こんにちは里穂ちゃん。暑かったから疲れたでしょ」
 爽やかな笑顔でソファをすすめる仙道へ、里穂は表情と同じ口調で返す。
「こんにちは、仙道さん。三日間お世話になります」
 深々としたお辞儀に自分と同じ茶色味の強い髪がふわりと揺れた。
「そんなかしこまんないでよ、初めて会うんじゃないんだし。もっと楽〜にしてよ、疲れちゃうだろそんなんじゃ」
 仙道は嫌味なほど他人行儀に礼をする里穂に嫌な顔一つもしない。こういうところは本当に救われる。
「妹のくせに変にかしこまるなと前も言ったろ。ほら、座れ」
「うん」
「咽渇いたんじゃない? 里穂ちゃん、麦茶と烏龍茶どっちがいい? あ。アイスコーヒーもできるよ?」
「……」
「……里穂、聞こえなかったのか?」
「すみません、お返事遅れまして。では申し訳ないですがアイスコーヒーをお願いします」
 敬語なだけに冷たさ倍増の里穂の返事に牧の眉間に深い皺がよる。
「里穂、お前」
「牧さんも同じでいいよね。まだビールにゃ早いもんね〜」
 今正に説教をしようとした牧を遮るように仙道が軽く言った。
「あ、あぁ。すまんな」
「いーえー」
 軽い返事を残して仙道が台所へと消える。説教の出鼻を挫かれた牧は天井を仰いだ。途端、里穂の顔が迎えに行った時や車内の時と同じく、明るく人懐っこい表情に戻る。
「お兄ちゃんとこって相変わらずこんな真夏日でもクーラー弱いんだね〜。暑くないの?」
「慣れてる。仙道はたまにもっと強くかけたがるけど」
「一流のスポーツ選手は体が資本なのは知ってるけど、お兄ちゃんは子供の頃からそうだったよね。あ、今年はまだそんなに日焼けしてなくない? サーフィンここんとこあまりやってないの?」
 里穂はニコニコと楽しそうな顔で、Tシャツの袖から伸びる牧の腕をペシペシ叩いてきた。前回もそうだったが、牧が仙道の話題をふっても里穂はそこだけ聞こえないように振る舞う。
 妹にとって仙道の何がいけなくて、どこが気に食わないのか牧には皆目見当がつかずにいた。まだ親にも妹にもカムアウトするつもりはないけれど、いずれは自分の恋人だと伝えて理解を得ようと考えているというのに。ただの同居人としか伝えていない現時点でこれほど嫌う理由がさっぱり分からない。
 普通は兄の同居人が容姿も性格もこれほどいい男ならば、妹は安心してその同居人に恋をしても不思議はなくないだろうか。それがまぁ、この露骨なほどの嫌いようときたら……。
 全くといっていいほど妹の心理が理解できないだけに、自分の男をむやみに嫌われることに苛立ち、牧は半ば意地のように仙道の名前を会話に混ぜてしまう。
「仙道と比べれば俺なんて年中色黒、毎日サーフィンやってると思われてそうなもんだけどな。あいつは男のわりに色白だと思わないか?」
「私、荷物整理してくる。前と同じ部屋使っていいのよね?」
 先ほどの台詞は全く聞こえませんでしたというほど悪びれない笑顔を浮かべて、里穂は小首をかしげながら牧の腕を引っ張った。顔を曇らせつつ頷く兄へ妹は「片付けてくるね〜」と、さっと立ち上がって行ってしまった。
「おい、コーヒーどうすんだよ。入れてくれる仙道に悪いじゃないか」
「いらな〜い。お兄ちゃん飲んどいて。私、車の中でペットボトル一本飲んでたの見てたでしょ。お兄ちゃんがくれたやつ。そんなに水分ばっかりとってたら、お腹たぷたぷしちゃってご飯食べれなくなっちゃうもん」
 バタンと扉が閉じられた音と同時に台所から仙道がカラコロと涼しい氷の音をたてながらコップを両手に戻ってきた。
「……だ、そうだ。すまんな、せっかく入れてくれたのに。俺が二杯飲むよ」
「いいっすよ全然。俺も咽渇いてたから」
 手間をかけて入れてくれる仙道のアイスコーヒーは香りも味も絶品だ。これから先の三日間が思いやられて、早くも疲労している心に芳ばしい香りのコーヒーが染み渡る。キンと冷えた液体が咽を冷やすのと一緒に、少し熱くなっていた頭も冷やしてくれて、牧は長い吐息を漏らした。
「……ほんっと――に、美味い。染みる。お前のアイスコーヒーは絶品だ」
「あはは。大げさだなぁ」
「これを飲まずして部屋へ引っ込むとは。我が妹ながら本当に馬鹿だ」
「まぁまぁ。車ん中でも飲んできたんなら無理ないって。まだ三日もあるんだから、また入れる機会もあるよ」
 にこりと笑った仙道が可愛くて可愛くてたまらなくなる。あんな妹にまた入れてやろうと思うなんて。こんっっなにいい奴なのに。こんっっなに可愛い奴なのに。(女にとっては可愛いというよりはカッコイイか?)何が不満なのだ妹よ。兄は悲しい。心底悲しいぞ。
「お前は本当に」
「はい?」
 可愛い奴だと思わず言いそうになったが、ギリギリで耐えた。隣の部屋には里穂がいるのだ。
「……いい奴だよ。うん」
「いやぁ、そんなに気に入ったならこれもあげますよ」
 コップに半分ほど残っていたアイスコーヒーを差し出された。牧としても本当は車中で里穂同様にペットボトルを一本空けてきていたため、量はそれほどいらなかったのだが。その勘違いの仕方もまた可愛くて、ついお礼なんぞ言いながら受け取ったのだった。


 兄が神奈川県とは名ばかりの辺鄙な場所。見方を変えれば、かなり東京よりのマンションを、結婚をするわけでもないのに突然買ったことに当初はかなり驚きもしたけれど。年に最低三回は東京に出てくる自分にとっては、より東京に近づいてくれたことが大変便利でありがたかった。しかも今まで以上に部屋も広く綺麗で、下手なホテルよりも快適。今では上京になくてはならない場となっている。── 問題は。
「……いつまでいるのかな、あいつ」
 少ない荷物の中身と翌日からの行動に必要なものを床へ広げながら里穂は呟いた。
 独身の兄がマンションを買うといいだしたのは、結婚を前提に付き合う女性ができたからだろうと両親は思っていた。私もそうだ。三十代で奥手の兄にやっと彼女ができた事は、母には嬉しくもあり淋しくもあるように見えた。
 それが購入してそれほど経たずに、兄は仕事仲間の一人を同居人とする話を持ち出してきた。
── 『購入したはいいが、支払が思ったよりきつくて困ったと後輩の仙道に相談したら、シェアすれば返済が楽になると提案してくれて。仙道は今まで住んでた賃貸の家賃と同額出すとまで言ってくれたんだ』
 両親は兄に嫁ができてマンションに住むことになった時に即、同居人が退居してくれるかを心配した。しかしそこは同意書を交わしてあると、用意周到な返答に納得させられた。母は気遣いなところのある兄が他人と同居は疲れないかとも気を揉んだが。
──『気も合うし、とてもいい奴なんだ。奴もずっと独り暮らしだったから家事もできるし、金銭面以外でも何かと助かるんだよ』と安心させた。
 兄は見かけの渋さによらずぬけてるしお人よしなところがあるけれど、頭はいい。非情さを必要とされる場合は妹からみても少々怖く感じるくらいに容赦なく、冷静かつ論理的に物事を片付けていく。だからシェアの話を聞いた時も合理的だと思ったし、両親が心配するようなことを私は全く気にしなかった。
「でもやっぱあいつ、なんか、ヤダ……」
 春に二日ほどこうして泊まらせてもらいに来た。その時に自分の中で何かがひっかかった。これと明言できないけれど、そのもやもやとしたものが、爽やかな美形でそつなく接する仙道さんを気に入らない存在に変えてしまった。

 コンコンと軽いノックの音が聞こえ、理穂は慌てて手にしていた切り抜きを手提げ袋の中に押し込んだ。
「なに? 着替えてるからちょっと待って」
「晩飯、何時頃食いに行く? 行きたい店とかあるのか?」
 兄の低く心地よい落ち着いた声に思わず、“二人でなら行く”と子供っぽい返事をしそうになる。それを無理に飲みこんで明るく言った。
「友達と約束してるから気にしないで。言い忘れてたわ、ごめんね」
「そうか。じゃ、俺達は食いに行ってくるから。鍵はいつものとこな」
「はーい、いってらっしゃーい」
「お前もあまり遅くなるなよ。明日、早いんだろ」
「うん、だいじょーぶ。明日朝、悪いけどお願いねー」
「おう」
「里穂ちゃん、冷凍庫にハーゲンダッツ入ってるから食べていいよ」
 牧のそばに仙道がいたことに気付かなかった里穂は眉間に皺を寄せ唇を歪めた。こんな顔を兄に見られたら即叱られただろう。
「── はい。お気遣いありがとうございます」
 里穂の硬い返事に落胆した兄のため息が聞こえる。
 僅かな沈黙の後、行ってくるという声と玄関の扉が開けられる音が続いた。
 このままでは兄に自分が嫌われてしまうのは時間の問題だ。その前に何としても、前回泊まった時に感じた嫌な感じを今回の滞在中にはっきりさせる。その内容によっては両親とも相談、もしくは兄に直接同居を解消するように勧めることになるかもしれない……。
「お兄ちゃんに何か災難が起きる前に、尻尾をつかまなきゃ」
 兄と似たふっくらとした唇を里穂はきゅっと噛みながら気を引き締め直した。

 里穂は京都の大学に通うため一人暮らしをするようになってから、牧の住んでいるところへ年に三〜四回泊まりにくるようになった。里穂の高校時代の友達が沢山東京に移ったためと聞いている。卒業後も京都に就職したため、それは今も続いていた。友達のところへ泊ることもたまにあるが、基本的に彼女は兄の住まいを拠点にして遊びまわっている。
「それでも昔は、初日の夜くらいは一緒に飯食ってたんでしょ?」
 ハンバーグを箸で割りながら軽く訊いてみる。
「あぁ。どこそこの店に連れてけって、雑誌の切り抜き持参で。俺が苦手そうな店ばかりだったけど」
 サラダボウルからホワイトアスパラガスをつまんで口に放り込んだ牧の表情は家を出てからもずっと晴れない。
「別に妹と飯を食いたいわけじゃない。あれもいい大人なんだし、色々あるんだろ。お前が気に病むようなことはない」
「俺は牧さんが淋しくないなら気になりませんよ。あんたでしょ、気にしてるのは。元気出して下さいよ。女ってのは男と違って色々考えてるもんなんだから、俺らが考えたところで無駄ですって」
 納得がいったわけではない曖昧な表情。それでも頷く牧さんが可哀想になる。
 俺の見た限りでは、兄妹仲はどちらかといえばかなり良い方だと思う。俺が近くにいない時の彼女の声は素直で明るく、兄に甘える普通の妹だ。
 初めて彼女と会う前に牧さんは、『人みしりしないし、まぁまともな方だと思うから。気楽に相手してやってくれ』と言ったのを俺は忘れていない。実際、初めて会った最初の数時間ほどは普通だった。普通という言葉はおかしいけれど、ひどく他人行儀な冷たい口調で敬語を使うことはなかったのだ。
 何が彼女の気にくわなかったのだろう。徹底的に嫌われるようなポカをした覚えもない。少し親しい後輩で、暮らしやすい距離を保っている同居人。俺は上手く演じているはずだった。特に無理をしなければいけない役柄でもないし、僅か数日演ずるくらいどうということもないのだから。
 仮に何か失敗をしていて嫌われたのだとして。俺は別に平気だ。もちろん、今後将来的には牧さんの養子に入る俺だけど、そんなのはまだ先の話だ。少々嫌われるよりも、逆に恋心を抱かれてしまう方がやっかいなわけで。自分でも奢った考え方と思うが、実際そうなのだ。少し愛想良く相手をすると大概の女性は俺に惚れてしまう。羨ましがられることが多いけれど、本人に至っては大変面倒な話で、このせいで今までいらぬ苦労を多々してきている。恋情が絡んだ人の誤解を解く苦労を思い返せば、嫌われているくらいの方がよっぽどいいのだけれど。
「里穂ちゃん可愛いじゃないすか。きっと俺に大好きなお兄ちゃんが取られちゃったような気がしてるんすよ。それにほら、実際は俺、牧さんを取っちゃったわけだし? だからいーんすよ、ホントに」
 俺としては問題は馬よりも将の方── 眼前の恋人の辛そうな様子なのである。暗い雰囲気をどうにかしようと明るく言ってみたものの。曇り顔のまま黙々と咀嚼していた彼はお冷を一口飲むと冷静に言った。
「二十代後半にもなる女が、そんなわけないだろ。しかもあの里穂が」
「……そっすね」
 それ以上返す言葉もなく。お冷やをグイと飲みほして仙道も食事を再開した。
 気まずい空気をそれでもどうにかしようと、今度は明るく頼んでみる。
「俺もやっぱり目玉焼きもトッピングすりゃ良かったな〜。半分、パインと交換しません?」
 牧さんはカレーハンバーグに目玉焼きのトッピングだ。目玉焼きを最後に食べるのが好きなのを俺は知っている。だからいつも終わりに近づくと俺はふざけて目玉焼きを盗むふりや、自分のパイナップルと交換しようとするのだ。すると毎度のごとく『自分で追加すればいいだろ』とか『パイン乗せるなって』と嫌そうに逃げられる。それが楽しくて、俺はいつも特別好きでもない、牧さんが『あったかいパインなど認めん』と気持ち悪がるそれをカレーハンバーグにトッピングしていた。
 そんなワンパターンの楽しいやり取りを今日もしたかっただけなのに。突然俺の皿に目玉焼きが飛んできた。
「わ。いいの? 悪いな〜。んな全部もらおうって気はなかったんだけど」
「いい。もう腹いっぱいだから」
「ありがとーす。ゴチになりまーす。あ、パイナップル半分いる?」
「いらん」
 返事よりも早く箸を置いてしまった牧を横目に、もらった目玉焼きを仙道は美味しそうなふりをして食べた。でも本当は、思っていたよりパサついた黄身が味気なくて、カレーをぶっかけて飲み込んでしまいたい気分だった。

















*next : 2




妹をびっくりドンキーへ連れて行くつもりはなく、二人飯になって急遽店を変更したのでした。
疲れている時ほど、よく利用する気取らないチェーン店の存在は助かりますよね。

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