Let's have fun together. vol.08


 仙道が硬直してしまってからどのくらい経っただろう……。一時間は優に過ぎたように感じてしまうのは、自分が口走ったのは軽い下ネタジョークではなくセクハラ。いや俺は年上だからパワハラジョークかもしれないと気付いてビビったせいもある。
 しかし仙道は冷たい表情ではなく純粋に驚愕のまま固まった顔なので、そこまで悪くは捉えてなさそうなのが救いだ。ただ確実に失敗したと理解はしている。この恋心は抱くだけ無駄だとも。
 短けぇ春だったな……と古い宮崎アニメ映画の参謀のセリフが脳内で旋回する。恋を自覚し半日経たずに失恋とはスピード決済にもほどがある。初恋とは実らないそうだが、それにしたってあまりにあまりだろうよ……。
 などと失恋のショックを直視しないよう、ふざけた思考に逃げている場合ではない。そろそろ言わねば。『何を本気にしてんだ。冗談にきまってるだろ』と。俺だってたまには下ネタジョークくらい言うとでも付け加えようか。たまにどころか初めてかもしれないだけに、かなり苦しいが。

 握りこぶしに力を入れた牧が意を決して口を開いたのと、仙道の唇が動いたのは同時だった。
「何を本気にしてんだ」
「お願いします」
 同時すぎて『お願いします』と聞こえた気がしたが、そんなわけはないので聞きとれなかったと牧は理解した。実際、目の前の仙道は赤い顔はしてるがとても真面目な眼差しをしている。それなのにそんな冗談を言うわけがない。……うん、ない。よし、じゃあ続きを言おう。あ、でも仙道も俺の言ったのがよく聞こえてなかったかもしれんから仕切り直そう。
「何を本気にして、え。な、何だ?」
 話しの途中で再び取られた牧の右腕は─── その右手はあろうことか仙道の中心部に押し当てられた。
 理解不能の仙道の突然の行動と、先ほどよりもリアルに伝わってくる硬さや熱も相まって牧がフリーズする。
「あ、ファスナー下ろしますね……」
 仙道のくぐもった呟きは牧の右耳から左耳へと脳を介さず抜けていく。
 二人の腰を覆う寝袋のせいで仙道にも見えてはいないが、掴んだ牧の右手を一旦自分の太ももへ乗せて、ジョガーパンツのボタンを外しファスナーを下ろした。そうして再び掴んだ牧の右掌を己の股間に降ろした。
 薄く湿気った布の質感。直に触っているわけではないのに、初めて触れる人のソレ……ましてや熱く屹立した感触の生々しさに牧の頭は完全に真っ白になった。
「俺だけじゃ恥ずいんで……牧さんも一緒に……牧さんのは俺にさせて下さい」
 意識が月まで飛んでしまっている牧には、仙道の言葉は音としてすら届くわけがなかった。

 彫像のように硬直しきった牧にかまわず、仙道は上体を捻り長い腕を牧の中心部へと伸ばした。見えないながらも器用に牧の前をくつろがせてから、布一枚となっているだろうそこへひたりと手のひらを押し当てて漸く。
「ヒ?!」
 牧の喉から奇声が転び出る。意識が飛んでいた牧にとっては突然己の股間に何かを押しつけられたようなもので、瞬時に引っ込めた右手は仙道の手を強く振り払ってしまっていた。

「あ……」
 傷ついたように大きく見開かれた仙道の瞳と視線が合い、牧は我に返った。
「ち、違う、仙道。すまん、違うんだ。俺のはいいからって」
「……なんで?」
「俺は疲れてないから。ぜんっぜん疲れてなんかないんだ」
 仙道は牧の顔を見据えながら、再び寝袋の下へ手を入れると躊躇もなしに先程のように手を押し当ててきた。恥ずかしさで牧の頭部はカッと熱を帯びたが、今度は振り払わぬよう奥歯を噛み締める。
「……ほら、な。何ともなってないだろ? 俺には必要ないんだ」
 納得して手が離されたと牧が思った次の瞬間。今度は下着の上からそろりと握り込まれた。そのままぐっと身を寄せてきた仙道が至近距離から、潤んではいるが強い瞳で覗き込んでくる。
 近すぎてぼやけた視界のせいか、仙道の長い睫毛とわずかに寄せた眉間までがやけに扇情的に映り牧の喉は知らずに上下する。この距離は、やばい。
 仙道の掌と指が握っているものの形を確かめるように淫らに蠢く。
 数時間前に好きだと意識した相手にこんなことをされている現実に頭が追いつかない。体だけが指の動きに促されるように昂ぶっていく。
「……でも、どんどん育ってますけど……?」
「に、握られれば誰だってなる……だろ。離せよ。いいからもう離してくれ」
 仙道の手を引き剥がそうとした牧の両手の上に仙道はもう片方の手を押しかぶせて、あろうことか重なる全てで牧の下腹部を圧迫する。───熱い、苦しい。なのにそれだけではない鈍い疼きに息が詰まる。
「ほら……もうこんなだよ?」
 いやらしい。至近距離から瞳を細めての暗い囁きも、薄甘い笑みを浮かべる整った唇も。俺の手も重なっているのを理解していながら最下でもぞもぞと蠢く指の動きもなにもかも。
「俺とかわんない」
 滴るほどにいやらしい顔で煽られて無反応でなどいられるものか。俺は童貞だが不感症ではないのだ。
 寝た子を起こしといて何言ってやがると怒鳴りたいのに、喉が干上がったように声が出ない。浅慮と打算で迂闊な提案はしたが、俺はこんなとんでもないことをこいつにしてやる覚悟なんて端からなかった。
(俺はなんてことを言っちまったんだ)
 今更ながら冷や汗だか羞恥だか判別つかない汗がどっと牧の体中に浮いた。

 仙道の赤い舌先が己の薄く形の良い唇をちろりと舐めて湿らせる。目眩がしそうなほど淫靡だ。少し冷たかった指先が同じ温度となり、やけに馴染んでしまったのもまた、どくどくと主張する下腹部を嫌でも意識させる。
 体の正常な機能とはいえ自己処理は面倒ではあるが、特段不便はないし年をとればその必要もなくなる。そんな程度に捉えていた性欲と快感という体の反応を他人の手で。いや、好きな奴の手によって無理やり引き出されていくだなんて。
 脳は現実に追いつけないのに体だけは信じられないほどのスピードで快感を感じ取り発火していく。
「あ……。すげぇ……カッチコチ。牧さん、もうこれ」
「言わないでくれ」
 わずかに声はかすれたが仙道を黙らせることに成功すると、牧は重なりから引き抜いた手を伸ばす。
 もう冗談などではすまされない。引き返せず進むしかないのならば、せめて。

 下着ごしに仙道に触れたが、もう意識は飛ばなかった。その代わり、恐ろしいほどの興奮が全身を駆け巡る。好きだと意識した昼間から一日だって過ぎちゃいないのに、もう好きな奴の性器を握っている。こんなことが恋愛経験ゼロの自分の人生に起ころうとは。
 痛みを感じさせないように気をつけながら手指で形を確認するように触れば、あっという間に熱と質量を増した。
(……仙道が、俺の手なんかで感じるなんて)
 思わず奇妙な感動で胴震いが出てしまい、少し強く握り込んでしまったところで仙道が言いにくそうに口を開いた。
「っ……あ、あの」
「お前と同じことをしてるだけだ」
 ほんの僅かでも拒否されたくなくて遮ってしまった。全ての勇気をかけているだけに、嫌がられてしまってはもう二度と触れられなくなってしまう。
 怖じ気で早口になったせいか。それとも必死さに気付かれたかはわからないが、仙道は安心させるように目を優しく眇めてみせた。
「違います、拒否ってねーす。あの、ひとつだけ。聞いていいすか」
「なんだ」
「牧さんはその、こういうことを別の奴……あ、赤木さんとしたことがあるんですか」
 聞こえてはいるが、牧は何を言われたのか理解出来なかった。
 仙道の顔を覗き込んでも、至極真面目に返事を待っているだけで埒が明かない。
「…………あかぎ……あかぎって、まさかブレッジェの赤木か? センターの?」
 こくりと仙道が頷く。同じプロバスケ選手ではあるが別チームの男の名が何故突然、ここで上がるのか。何の関連性があるのだろうか。
「何故ここで赤木の名が出てくる?」
「質問したのは俺です」
「あるわけないだろ。大体、お前以外の誰にこんなことができるかってんだ。頼まれたってごめんだバカ。恐ろしいこと言うんじゃねえ」
 そんな確認するまでもないことを聞いてきて、これほど余裕のない俺を中断させたのかと苛立ちが隠せなかった。
 けれど仙道は『良かった』と。息だけで呟くと、どこか痛そうに微笑んだ。

「……まさかお前は」
 こんなとんでもないことを仙道がどこかの誰か……赤木とではないだろうが、ともかく経験済みだなど考えもしなかった牧の顔が引きつれば、びっくりしたように仙道が素早く首を左右に振る。
「まさか! 俺もあんたと同じですよ! すんません、水差しました」
 ならばどうしてそんな当たり前のことを聞いたのか。何故赤木の名をここで挙げたのか。あの痛そうな笑みの理由はなんなのだと。牧の頭に疑問を山ほど湧かせておきながら。
「あんたが言い出したんだ。あんたはこの手のジョークは言えない人だってのは俺が一番知ってる。全くその気がなかったなんて言わせねぇ」
 スイッチが切り替わるように欲情と嗜虐さをはらんだ瞳に変えた仙道の指に力がこめられる。
(一瞬でも目をそらしたら食われそうだぜ。怖い奴だ)
 歓喜や興奮にも似た、言葉にし難い感覚がぞくぞくと背中を這い上がる。つい先程まで狼狽が7割で3割が開き直りであったのに。仙道の強い瞳をうけて腹が座っていくのがわかる。
「今更逃げんのはなしです」
「逃げる?」
「そう。尻尾巻いてね」
「……誰に言ってんだ」
 山程の疑問をわきへ追いやった牧は淡褐色の瞳を燃やすと、白い歯を剥いて獰猛な笑みを返した。



*  *  *  *  *  *



 冗談だと最初からわかっていた。『俺が抜いてやろうか』なんて、随分と牧さんらしくないと少し驚きはしたけれど。きっとそれは、おっ勃ててたのがバレた羞恥で死にそうになってた俺を楽にさせてやろうとした彼の優しさだ。似合わない下ネタでの表現はキャンプという非日常的な空間が気を大きくさせたがゆえのものだろう。
 実際俺の返事が即座にこないせいで、外してしまったととった牧さんは明らかに『しまったな……』という気まずい顔をしてもいた。らしくない冗談言ってら〜と即笑って返される予定が崩れたのだから、まあそうだよな。

 わかっていながら俺は驚愕したふりで脳をフル稼働させた。
 俺がこの冗談を本気にしたと思い込ませることができれば、優しくて押しに弱い牧さんはきっと引くに引けなくなる。自分の冗談のせいで俺にダブルで恥をかかせてはいけないと考えるはず。そこまで持っていければ、俺が牧さんのムスコに触れる流れは作れると踏んだ。
 エロい気持ちも当然あるが、何より赤木さんより先を越せるチャンスだと。牧さんの様子からまだ赤木さんとは清い交際なのは確信していたから、彼らの仲が深まる前の今しかないと思ったんだ。
 もちろん、ちょっとは触れても手コキまでさせてくれるとは思ってなかった。彼の貞操観念からいえば、恋人がいる身でありながら俺のを触ってくれるのだって信じられない譲歩だ。
(パンツの上から長いこと触ってたら「汚れるから、お前も脱げ」って。あん時の牧さんの顔だけで今すぐイける……)
 本当に全部が今でも信じらんねーけど、抵抗らしい抵抗もないどころか……普通に一緒に過ごしていたら死ぬまで絶対あり得ないことができてしまった。キャンプマジック恐るべし……!

 ここまで出来てしまったってことは。もしかしたら赤木さんから奪うのは案外容易だったりすんのかな。だってあんなに堅物な牧さんが、恋人の赤木さんより先に俺とだなんて。これはもう、絶対押すしかなくね?
 告白……してみようかダメもとで……。ダメもと…………って、ダメだったらダメだろうが。何年も思いを押し殺して築いた相棒の地位だけじゃなく、牧さんと一緒に戦い隣で笑いあえる未来の時間までも失うんだぞ? 欲をこれ以上かいて失敗してみろ、覆水盆にどころの騒ぎじゃねえ。
 いや……でも今ほどのつけ込み時なんてこの先あんのか? 牧さんだって……俺のことを憎からず思ってくれてっから、触ってくれたり俺にさせてくれたんじゃねぇ? あの堅物さんがキャンプマジックとかあるわけねーもん。
 やっぱ絶対、脈ありだろ? そうだよ……だってあんなに切なそうに見つめてきたり、あれほどエッチな顔…………す、すごかったよなあの無自覚の色気。目の縁を赤く染めて……あ、ヤバ、思い出したらまた元気んなっちまう。今はダメだ今は。
 ええと……もしかしたら牧さんは俺になら奪われてもいい……むしろ奪ってほしかったり……?
 牧さんがそこまで考えてなくてもあんなことした今、告っても全くなびいてくれないようなら。……それはもうこの先俺が何やったっていつ告ったって無駄ってことだよな? なら今言わんでどーする的な??

 思考が自分に都合のいいループに陥りかけたところで、強風がテントを揺らした。風で煽られたターフがたてた不快な音はまるで冷水のように仙道の鼓膜を刺す。
 もし。……もしも断られたら……すんませーん調子のっちゃいましたー、くらいの軽薄な冗談風にして牧さんの精神的負担を軽くしよう。それで今夜はさっさと寝ちまおう。
 明日もし、牧さんがまだバツが悪そうな感じだったら。昨夜のことは全部なかったことにしましょうって安心させて、そんで彼を家に送り届けて。明後日は不動産屋に行って即日入居可の物件契約して即日引っ越しやってる業者探そう。金さえ出せば無理きいてくれるとこはある。叔父さんのくれたキャンプ道具一式と、スポーツウェアの類と少しの衣類だけ運べばいい。仕事は……手首が完全に治ってから、遠くの……北海道のチームにでも売り込みに行こうか。罪人は北へ行くって何かで聞いたしな……。
 暫く離れているうちに若気の至りで許してもらえるかもしれないし。牧さんが俺に警戒しなくなってくれたら……また同じチームに戻ろう。んで、今度は間違わねーように慎重に慎重を重ねて大事にして俺に惚れさせよう。そん時もまだ赤木さんがいたら闘えばいいや。今は自業自得のせいだから不戦敗に甘んじるけど……それは牧さんのためだ。怒り狂う赤木さんにビビって逃げんじゃねーからな……。

 現実から目をそらし過ぎて、つい最悪の事態まで想定する逃避思考に仙道が陥っていたところで。飲み物を買ってくるといって出かけた牧がやっと戻ってきたようだ。コンパクトチェアを避ける物音で仙道は現実に引き戻される。
 テントのファスナーが開く音につい正座すると、牧が大きな体を縮めるようにのっそりと入ってきた。
「おかえりなさい。外、寒かったでしょ」
「そうでもない。途中、突風が吹いてどこかのテントが吹っ飛ばされそうになってたけど。ほら、やる」
 烏龍茶のペットボトルを渡してくれた牧さんの顔は、意外にもさっぱりしていた。遅かったのは炊事場で顔を洗ってきたせいかもしれない、前髪が少し塗れている。
 礼を言って烏龍茶を喉に流し込めば痛いほどの冷たさに気が引き締まった。
 決心が鈍る前にと仙道は牧の背中に向って、言った。
「俺にしませんか」

 財布をしまっていた牧がゆっくりと振り向いて首を傾げる。
「……ん?」
「俺を恋人にしませんかって言ったんです」
 見開かれた目に、やはり早急過ぎたかと焦った仙道は即座に言い換える。
「や、セフレでもいーすよ?」
 脈絡もなければ突拍子もない提案過ぎて、すぐには理解出来なかったらしい。牧さんは傾げたままの首を戻すことも表情を動かすこともなく固まっている。
「便利ですよ、俺。恋人気取りでデートだプレゼントだとねだんねーし、仕事も一緒だから『仕事と私とどっちが大事?』とかもねえ。パシリも出来るし溜まったら処理の手伝いにも使える。恋人よか断然便利すよ?」
 傾げた首をゆっくりと元に戻した牧の表情に変化が。主に眉間に皺がみるみると刻まれていく。焦りは仙道の口をますます滑らせる。
「もちろんがっちり秘密は厳守します。外でベタベタとか絶対しません。リスクも何もない、ただ便利な関係だから牧さんに損は全くないんです。だから俺をどうすかって」
 仙道が明るく軽く言えば言うほど、牧の表情は重暗く厳しいものになっていく。
 あまりに今までが予想外に上手く行き過ぎたせいで、ちょっとの不快な表情すらも怖くて焦り過ぎた。話している間に既に完全に失敗したことは最初の一言目の彼の反応から明らかだったのに。
 それでも仙道は己への焦慮に駆られ暴走する口を止められない。
「我ながらいい買い物じゃねーかなと思いついたんで、ちょっとおすすめしてみたんですけど。安物の押し売りになっちまいましたね。赤木さんってイイ人がいんのに何言ってんすかね俺。あははは」
 全部冗談ですと続けたかったけれど、流石にそれは通らないだろうから。精一杯軽薄さを演じてみたのに。切望する『びっくりさせんなよ。変なこと言うな』的な言葉を牧さんはくれない。それどころか、厳しい表情は苦痛を耐えるものに変化してしまっている。

 こわばった牧の肩先すら見ていられなくて。そしてこんな無様な自分を暗い目で凝視されていることに耐えられなくて仙道は背を向けた。
「ははは……。忘れて下さい。わかってます、さっきのはお情けなのになんか俺、勝手に一人で盛り上がっちまって。すんません。もう寝ましょうか。あ、同じテントはイヤすよね。今夜は俺は車中泊……って車ねーのか。ええと、」
「赤木? お情け? おまえはさっきから一人で何を言ってる?」
 止まらない仙道の口を一発で黙らせる、低く押し殺した声で牧が疑問をかぶせてきた。胡座の膝の上で硬く握り込まれた両の拳は細かく震えている。
 全身から静かに怒りのオーラを発している牧に、仙道はごくりと喉を鳴らした。
「…………か、隠さなくて大丈夫すよ。全部知ってますから。誰にも漏らしてません」
「俺が何を隠してるってんだ。勝手にわかった気になってんじゃねえ。俺と赤木が何だと言うんだ。はっきり言え」
 牧の据わった瞳の底でチリチリと金色の怒りの火の粉が舞う。
「最中でも言ってたな、赤木の名を。何をどう知ってるのか俺にわかるように説明しろ」
 爆発寸前の怒りをどうにか抑え込んでいるのが伝わってきて、誤魔化しや逃げを打とうものなら一気に焼き尽くされると仙道の本能が警鐘を鳴らす。ふざけたふりはもう出来ない。
「…………付き合ってんでしょ、あんたら。大丈夫、赤木さんにはもちろん誰にも絶対言いませんよ。さっきのことも」
「どこでそんなデマが回ってんだ。俺自身初耳だぞ」
「誰かから聞いたとかじゃなく実際に俺、見てたんで」
 牧が片眉を不愉快そうに跳ね上げた。
「全く覚えがない。どこで何をだ。詳細に言え」
「つい先日ですよ……喫茶店椎ノ木で飯食ってたら、牧さんと赤木さんが入ってきたんです。声かけようとしたけど、赤木さんが注文をしたあとで雰囲気がなんか親密っつーか、なんか……。それで声かけそびれちまって。聞く気はなかったんすけど……その、牧さんが赤木さんに『好きになるなんて思わなかった』って。赤木さんも『俺もだ』とか。『高校の頃だったらまだしも、今になってなんてな』ってあんたが続けたら『いつ好きになるかなんて、そんなの誰にもわからんもんだ』って赤木さんが……」
 数時間前、自分も牧さんと喫茶店でお茶をした。一瞬デートのようで浮かれたが、本当のデートとはあの時見た牧さんと赤木さんの間に漂っていた、初々しくも甘ったるいあの空気があってこそなのだと。急に我に返った時の悔しさと虚しさが仙道の口を重くする。
 思い出したくもないのに一言一句頭から消えてくれないあの会話を、こんな形で口にさせられたのは。欲をかいた自分への罰なのだろう。胃が捻じ切れるようなあの時感じた痛みまで蘇ってきて、口の中まで苦い。
「……そんで……だからそれ以上聞いたら流石に失礼だと思ったんで、そっからは俺は店を出ました」

 待てども返事がこないので、いつの間にか俯いていた顔を仙道は恐々と上げた。
「……牧さん?」
 返事はないが、赤いような青いような顔色の牧は口元をへの字に曲げている。……しかし何故か先程の殺気じみた怒りは沈下しているようにも感じられる。
「てなわけなんで……俺に隠す必要はないんですよ」
 仙道の締めくくりの言葉を牧は手で遮るように払うと、苦虫を噛み潰すような難しい顔で小声がちに言った。
「あれは赤木に言ったんじゃない。俺は……デジモンが好きだと言ったんだ。そして赤木もそうだと返事をしたんだ。俺達は……いい年してデジモン仲間なんだ」
「……仲間? ポケモン仲間??」
「ポケモンじゃなくてデジモンだ」
 つい口からポケモンと出てしまったが、それすらもよく知らない仙道にとっては牧が酷く苦々しい顔をする理由もわからない。子供向けのアニメかゲームの類だからだろうか。
「俺や赤木のようなゴツい面した大の大人がデジモン仲間とか……幻滅しただろ」
「幻滅もなにも……すんません、マジ知らねーす。なんですかそれ。昔流行ったポケゴーとかいうやつのイトコみたいなもんすか?」
「全く別物だ。ポケゴーのように大人も巻き込むほどの大々的なブームは起きずに終了してる。お前、本当に何も知らないんだな……。まあそれが自然だよ。俺だって去年のオフシーズンに甥っ子を毎週末預かったりしてなければ、知りもしない世界だった」
 宙を仰ぐ牧の横顔はほろ苦い憂いを称えている。彼が知らずにおれなかったという世界……ポケ、じゃなかったデジモンというものは、そんな憂う顔を彼にさせるほどの何かがあるのだろうか。全くわからない。

 が。そんなどうでもいいことよりも。仙道は赤木とのあの濃密で甘酸っぱい雰囲気は本当に恋愛感情は混ざっていなかったのかを、しっかりと確信したかった。
「あの。赤木さんとはどうして仲間に? 近くに住んでましたっけ赤木さん」
「神奈川じゃないぞ、今はどこだったかな……実家は藤沢と聞いたのは覚えてるが。それよりな、赤木もきっかけは俺と似たようなもんなんだよ。あいつが高二の時に隣の家の小学生の兄弟が」
 またも知りたいことから遠ざかりそうな気配に、仙道は口を挟んだ。
「えと、そっちじゃなくて。牧さんとその。仲間? になったきっかけを聞かせて下さい」
「去年の暮に甥っ子と行ったおもちゃ売り場のワゴンセールだな。まあただの売れ残りの投げ売りコーナーだが。それを甥っ子と見ていたら、偶然通りがかった赤木に見られてさ。甥っ子に付き合ってる風を装おうとしたんだが、ワゴンの中に見たことがない絵柄が見えて。ついそれを手に取った俺に赤木が言ったんだ。『ルーチェモンじゃないか』って。それからなんだ」
 苦笑交じりに語ってくれる様子はどこか可愛くもあるけれど。いまいち言ってることがわからなくて反応に困る。
「喫茶椎ノ木ではさ、赤木が集めたコレクションを借りていたんだ。デジモン自体が古い作品だから、去年ハマった俺には歴史が有りすぎて奥が深くてな……。赤木は全盛期の頃から知ってて頼りになるんだ」
 先人のコレクションも借りたことだし、俺ももう少しは甥っ子に格好がつくようになりたいんだが等々。何を言っているかイマイチわからないが、少し熱っぽく語る牧さんの表情からは全く。毛ほども赤木さんとは何もなかったことが伝わってきて、俺は漸く腹の底から安堵した。

牧さんも赤木さんも外見や喋り方や立ち居振る舞いが実年齢以上に大人で重みがある。(あんたら紛らわしいんだよ、誤解させやがって! とツッコミたい気持ちはおいといて)そのせいで他愛無い会話なのに重々しく意味深なものだと、勝手に思い込んでしまった自分も悪い。
 加えて、こんなバカらしい真相と知らずに俺は何年越しの片思いを、数日の間だけではあるが諦めようとしていたのかと。自棄になりすぎていっそ嫌われちまおうとしていた昨日までの自分に気が遠くなる……。
 もしも越野がキャンプに牧さんを誘ってくれていなかったら。あのままシーズンオフになったのをいいことに、俺は牧さんと暫く距離を置くつもりだった。距離くらいで長年培った思いは消せないから、きっとそのうち牧さん奪還作戦を練ったり赤木さんに宣戦布告に出たりするだろう。それこそ必死で略奪愛すべく立ち回って、赤木さんまで巻き込んでいらぬ大恥の大立ち回り……下手すりゃそれで牧さんに嫌われるかもしれないのに。
 そこまで考えて、仙道は寒気に身震いがでた。助かった。危うく自分の誤解で身を滅ぼすところだった……。

 憑き物が取れたように呆けていた仙道は、牧の話が終わっていたことに気付いていなかった。そして何故かとても不審そうな。いや、不機嫌そうという方が当てはまる顔で見つめられていることに驚き、首を傾げた。途中から聞いていなかったことがバレたせいだろうか。
「どうかしました?」
「……赤木のことで話を逸らせたと思ってそうだがな。俺は流してやる気はないぞ」
「な、何がすか?」
「さっきのセフレって話だ。……あれは本気で言ったんじゃねーよな?」
 重低音ではあるが、期待していた返答を今頃貰えた。今これに乗るしかないとばかりに、仙道は背筋を正した。
「本気なわけねーすよ!! やだなあ、俺が二股を推奨するわけないじゃないすか!」
 明るくきっぱり言い切ったけれど、牧の表情が晴れる様子は微塵もない。
 無理を承知で笑顔はキープ……することも空気的に辛くなってきて、仙道は自分の足元に視線を落とした。
 なんて軽率なことを言ってしまったんだろう。恋人になって、で止めておけばまだなんとかなったかもしれないのに。拒まれたくなくてなんとか引き止めたくて、焦りすぎて思ってもいないことをベラベラベラベラ……。あんなの、まるで俺がエロ目的で牧さんを狙ってるようにもとれちまうじゃねぇか。なんてバカ言っちまったんだろ俺。

 沈黙の重さに、仙道は項垂れ身体を縮めた。穴があったら埋まりたい……。
「……本気じゃなくて助かった。遠回しに架空の恋人という存在と比較することで自分は便利だと持ち上げてみせたり、パシリや欲望処理に使えるとか。お前がそんな風に自分を軽んじて貶めているのが本気じゃなくて良かったよ」
 静かで皮肉な言葉たちが仙道の心臓をえぐる。
「それと俺が心を伴わない肉体関係を望むほど、淋しく惨めな奴だとみなして誘ってきたわけじゃないってのもわかって、良かった」
「そんなっ」
 思いもよらない受け取り方をされていたことに驚愕し、仙道は顔を上げた。
「俺があんたを悪く捉えるわけないじゃん!」
 つい荒げてしまった声に初めて、深い溜め息を零しつつ牧が苦く笑った。
「だよなあ。俺だってお前がそんなモラル崩壊の大バカ野郎だなんて、どうしたって思えねーよ。なのにお前、さもさも本気くさく言うもんだから。聞くに耐えなくてまいったぜ」
「そ、そっすよね。すんません、笑えねぇバカ言っちゃって。あはは……?!」
 取り繕った仙道の笑いは胸ぐらを掴み上げられたことでかき消された。一瞬で詰められた距離に目を瞠る。
「ま、牧さん……?」
「二度と言うな」
「っ?」
「自分のことを安物だのなんだのと。冗談とわかっていても腸が煮えくり返った」
 至近距離で覗き込むように睨みつけてくる瞳は、今にも炎を上げそうな強い金褐色に燃えていた。先程見え隠れしていたあの炎の真の意味はこれだったのか。
 恐怖と畏怖、そして奇妙な歓喜が仙道の背筋を震わせる。
「俺はな、自分の本当に大切なものを傷つけられたり軽く扱われると心底腹が立つんだ。だから大事なものほど人には教えない。いらんゴタゴタはごめんだからな」
 初めて聞かされる彼の秘密を一言も漏らさず胸に収めたいのに、掴み上げられている胸ぐらのせいで項に服が食い込んでおり、その痛みに気をそらされてしまう。
「……ちょっと首の後ろっかわが痛いっす」
 牧は我に返ったように手を離すと、僅かだが怯えるように後ずさってから目をそむけた。
「すまん…………。俺は……そんな自分がわかっているから、気付かないようにしてきたんだと思う。長いことそうしているうちに、自分の気持をすり替えて……相棒という関係が俺の望みだと思い込んでいたんだ」
 仙道の伸びて歪んでしまった服の首元に、牧は痛々しい顔でまた「すまん」と呟いた。
「謝んなくていいっす、こんなんどーでもいーから。それより、あの。その……つ、続きは?」
 無粋だとわかっていながらも格好悪さまるだしで続きをせがんだ俺に、牧さんは困ったように口元を歪める。
「なんでお前がそんな切羽詰まった顔してんだよ」
「詰まるよ!」
「長いこと好きだった相手に失恋したばかりのお前だ、まだその人を忘れられないのは当然だと思っている。……それでもいい、今は二番目でもいいから俺と。……もうあんなことはしなくていいから。その、」
「待って。二番目ってまさかあんた自分のことを言ってんの?」
「他に誰がいる。あ、二番目なんてセフレと似たようなもんだろとか言うなよ。急かさないよう努めるが、いずれはお前にとっての一番を狙っている。現状二番目と言ったまでで、己を卑下したつもりはない」
 まさか牧さんまで略奪愛を決心していたなんてと仙道は慌てに慌てた。
「バッ、バカなの?!」
 慌てすぎて言葉は選ぶ間もなく口から飛び出ていた。仙道の素っ頓狂な声に牧はごく真顔で返してくる。
「バカだろうが、俺はそのつもりだ」
「俺が長いこと好きな人なんてあんただけに決まってんだろ? つかなんで俺が失恋したって……あ、あいつか。越野でしょ?!」
「どうして越野に教えて、俺には教えないんだ。そこも腹が立ってたんだった。俺の方がずっとお前の傍にいるってのに」
「待って待ってよ、だって言えるわけねーじゃん! 失恋した相手に、俺はあんたに失恋しましたって報告すんの? できるわけねーでしょ!」
「だからいつお前が俺に失恋したってんだよ、俺は振ってないだろが。俺はお前に告白されてもいなけりゃ、お前に好かれてたなんて全く知らなかったんだぞ? 俺が知ったのはさっきお前が、俺の乳首をずっと触りたかったって言った時なんだから」
 仙道は仰天過ぎて「い?!」と変な叫びを上げてしまった。
 確かにあの時、下と胸を同時に弄る俺に『なんで乳首なんて触るんだ』ってイヤそうに言うから、『ずっとずっと触りたかったんです。……ダメ?』と正直に返したら牧さんは顎を引いて黙った。あれは物好きめと呆れたのではなかったのか。え。ていうか、
「あんなんで知ったとかやめてよ! いつもスーパー鈍いくせに、なんであんなんでわかんのさっ」
「俺だってあんなんで知りたくなかった! そもそもお前が勝手に失恋した気になったのが悪いんじゃねーか」
「それは赤木さんとあんたが紛らわしかったからじゃん! それに俺は大学時代からずーっとあんたに好きだって言ってきたよ! なのにあんたが全部『おう』とか『そうか』とか『ありがとな』って後輩からの好意として流してきたんじゃん」
「赤木とのことはお前の勝手な誤解だろうが。大学の時のなんて、俺の腕組みながら『牧さんだ〜い好き』とか『マジかっけー、マジ好き』だの。あんなんで誰が本気にするか!」
「だって百万が一にもゲイ怖ぇとか引かれたら軽く死ぬもん! ボクシングだって最初から必殺技出さねーよ、最初はジャブで様子みんじゃん! あんたが男も大丈夫かどうか慎重に探る必要があったんですよっ」
「随分と余裕があるな。俺なんて……いや、それはいい。とにかく俺はそういう」
 途中で言いやめた牧が、大きく息を吸ってから力強く吐き出した。冷静さを取り戻そうとしたのが伝わってきて、仙道もまた自分も白熱してしまっていたことに気付かされる。
 あんなことをし終えて、お互いの気持もわかって誤解もとけてなお。声を荒げている自分たちの滑稽さに二人は苦い笑みを交わしあった。

 烏龍茶のペットボトルを渡せば、牧は残りの半分を一気に煽ってから深くため息をついた。
「なにやってんだ俺たちは」
「そっすね……少なくとも喉が枯れるまで言い合うとかないっすわ」
「まったくだ」
 大きく溜息をついて、後ろ手に床に両手を着いた牧が水色の天井を見上げる。
「あー…なんかこの二日で、今まで見たことのないお前を沢山見れたなぁ」
 俺だってあんなムキんなって声を荒げるあんたなんて初めてみたと言いたくもなったが。あれはきっと、俺を特別大事だと思ってるから頑張ってくれちゃったんだろう。そう思えば嬉しいし、これからも俺だけに見せて欲しい一面なので黙っておくことにした。

 ふと、謝るタイミングはここかもしれないと仙道は深く頭を下げた。
「最初俺、酷い態度ばかりとっちまってて……その、すみませんでした」
「いいよ。そりゃ嫌だろ。失恋した相手と四六時中一緒に過ごすなんて。誤解だから自業自得とはいえ、事情知った今となっちゃ同情するよ。よく逃げなかったなお前」
「逃げようとしたけど、越野のせいで無理でした。あんたこそ、俺に邪険にされたのによく来る気になりましたね。あんた去る者追わずなのに」
「まあ…………越野のおかげかな」
 たっぷりの間のあとには『お前が好きだったからかな』と続くと期待したのに越野の名が上がり、仙道は口先を曲げる。
「なんかすげー癪だ……けど、俺も……百歩譲ればそうなんのか……」
 仙道の気持ちをわかっていない牧は、そんなに越野のおかげが嫌かと笑った。
「……随分長いこと一緒にいるのに、お前とはここまでメチャクチャな……なんでもかんでも腹割ってぶちまけあったことはなかったな」
「そっすね……。あんたの前じゃ精一杯格好つけてましたから、俺」
「俺はお前の前ではいい先輩や相棒でありたくて、知らず気を張っていたかもしれん。お前は何やらせてもスマートで格好いいからさ」
 さらりと褒められてしまい、嬉しいけれどバカを晒した直後なだけにその倍以上恥ずかしくなる。
「だぁからぁ背伸びしてたんですってば」
「ははは。それ以上伸びられたら届かなくなるからやめてくれ」
「ちぇ。そーやって笑ってられんのも長くはないすよ」
 互いに笑みを形作っている唇が自然と重なる。仲直りの合図やこれからよろしくという挨拶のような。でもやっぱり告白のようでもある、初めてのキス。
 静けさの中でそっと離れた唇がぷちゅ……と極々微かな音をたてたせいで甘酸っぱさが殊更に増す。気恥ずかしくて、鼻先をつけたまま照れた微笑みを交わし合った。
「……そろそろ寝るか?」
「目ぇ冴えちまったから、少し星でも眺めてから寝ましょうか」
 離れがたくてもう一度だけ、軽く唇を触れ合わせてからテントを出た。


 漆黒の森の上に広がる空には幾重にも色とりどりの星々が折り重なり、視界に入り切らないほど広がっていた。その上を藍色のベールのような薄い雲がゆっくりと流れ、星々を淡く覆い隠しては瞬かせている。
 コンパクトチェア二台をぴったりと寄せ、二人は一枚の寝袋を広げて首まで潜り込む。寝袋の下でまた仙道が牧の右腕をとって己の体の上にのせたが、牧はもう動揺はしなかった。
 牧は右手の甲に伝わってくる仙道の規則正しい鼓動に。仙道は牧の手の体温と快い重みに、たとえようのない幸福感に瞳を滲ませる。

 二人は言葉を交わすこともなく。昨夜よりもやけに美しく見える、僅かに滲んだ満天を長いこと眺めていた。















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肝心の部分はどうした!との心の声が聞こえてくるようです。ご用意はしておりますので、
18歳以上で裏の鍵をお持ちの方はぜひそちらでお楽しみ下さいv
先に申しておきますが、そんなにエロじゃないですよ。でも無駄に長いです(笑)


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