Let's have fun together. vol.06


 申し込んだのは、釣り竿で挑めるのは一時間半、釣りきれなかった分は網や手で30分以内に取るコースだ。渓流とはいえ釣り堀なのだから楽勝だと思って選んだが、実際やってみれば一時間半はあっという間に過ぎ去ってしまった。
 釣果は仙道が五匹。牧が一匹という大差だった。初心者ほど釣れなければ釣りの楽しさに気付けないものだ。キャンプ場近くの川釣りを選ばずここまでバスで来た意味が半減してしまった気がして、仙道は勝った喜びよりも焦りに口を開いた。
「釣り堀の割に食いつき悪かったすね。特に後半なんて食わなすぎて餌変えたくなりましたよ俺。初めてなのにボウズじゃないだけいい方すよマジで」
 バケツを覗き込んでいる姿を落ち込んでいると取られたことに気付いた牧は腰を折ったまま仙道を見上げた。陽光を背にしているため、白く縁取られている仙道は青い空にひたすら映えていてつい見惚れてしまう。
 牧としては自覚した仙道への恋心で頭の中は台風のように乱れに乱れていたため、釣れなくて当然だと釣果など気にもしていなかったのに。優しい顔のわりに男らしい眉をへにょりと下げている仙道に申し訳無さを感じる。
「……釣り、嫌いになっちゃいました?」
「全然」
 立ち上がって伸びをしてから牧は腰に手を当てて片側の口角を上げてみせた。
「残り二匹。つかみ取りだったよな。これは釣りの腕は関係ないから、差を埋めてやる」
「! 望むところですよ! じゃあ俺、こいつ届けついでに網もらって来ますから。牧さん靴下脱いでて下さい」
 パッと眩しいほどの笑みを咲かせた仙道は踵を返し管理棟へ走っていった。その背を見届けた牧は両頬をバシッと叩いた。
「いつまでも腑抜けてんじゃねぇ。考えんのは家に帰ってからにしろ」
 楽しませようとしている仙道に失礼じゃねぇかと自分に発破をかける。キャンプ中は恋のことはひとまず忘れて、常の相棒として振る舞おうと、牧は背筋を正した。


 有言実行で二匹とも捕まえた牧は、バケツの中で泳ぐ魚たちを見ようとして己の膝が目に入った。
「あ、膝まで濡れてら」
「俺なんて捕まえらんなかったのに、ケツまですよ。乾くまで座れねぇかも」
「この天気だ、すぐ乾くだろ。お、サンキュ」
 受け取ったタオルで濡れた足を大雑把に拭けば、スーッと風を感じて気持ちが良い。牧はついでにと着ていたTシャツも脱いで体も拭いてしまった。綺麗な川水で絞ったタオルで拭いただけなのに、シャワーを浴びたようにさっぱりする。
 しかしまた汗を吸ったTシャツを着ればせっかくの清涼感が消えてしまう。それが惜しくて袖を通すのを一瞬躊躇ったところで、仙道の視線を感じた牧は顔を向けた。
「なんだ?」
 目が合うと仙道はすぐに顔をそらし、手にしていた自分のタオルを絞り出す。既に絞ってあったタオルからは数滴しか落ちはしなかった。
「いえ、別に。……水遊びなんていつ以来かなと思って」
「だよな〜。水は気持ちいいし本気で魚追いかけ回して楽しかったよ」
「マジすか?」
「おう。お前は違うのか?」
「すげー楽しかったっす」
「また釣りに誘ってくれよ。次は本気出すから」
「本気じゃなかったんすか? あんなタンカきっといて?」
 負けず嫌いだな〜とカラカラ笑う仙道へ、牧は微苦笑だけを返してTシャツに袖を通した。


 釣ったニジマスは釣り堀の敷地内にある食事処(茶屋)で四匹を塩焼きにしてもらった。
 残りの四匹は仙道が調理もできる水飲み場でさばいて持ち帰り用にする。そこでも牧に手際の良さを褒められ、仙道は崩れそうになる顔を引き締めるのに苦労を要した。

 緑の影が落ちるテラスの白い簡易テーブルの上には、並べられたニジマスの塩焼きと塩おにぎりに山菜の天ぷら。
 目を輝かせながら二人は金色の液体で満たされたコップを打ち鳴らした。
「〜〜っあ〜〜〜!」
「くぁ〜〜〜! 昼ビール最高!」
「バスで来て正解だな! いただきます!」
「マジ大正解! いっただきます!」
 熱々のニジマスは炭火で焼かれているだけはありパリッと香ばしい。全く臭みがなくほろりと甘い身が塩のきいた皮とあわさって口の中を幸福で満たす。そこへふっくら炊かれた白米の甘さと海苔の香りを追加すれば、満足感に言葉もない。
 右手に釣りたて焼きたての新鮮なニジマス。左手に握りたてのホカホカおにぎり。これ以上ない組み合わせに、口が忙しい二人は何度も頷き、目だけで最高だと会話を交わす。
 両手が空いたところで漸く、「美味い!」と声をハモらせた。
 合間に手を出す山菜の天ぷらの油分がまた、ビールを止まらなくさせる。
 もう一本だけと追加した大瓶も六個あったおにぎりも、四匹のニジマスと共に綺麗に二人の腹へと収まってしまった。

 濃い緑の隙間から差す強い陽光。隣の柵下から吹き上げてくる爽やかな川風。さらさらと耳に優しい清流の音。賑やかな鳥の鳴き声。癒やし効果満点のシチュエーションに加えて、腹はふくれ、いい具合にほろ酔いになってしまえば心地良すぎて腰から根も生えるというものだ。
 仙道がだらしなく足を投げ出したままスマホを見て「次の行き先は───……」と口にしたが。それきり続ける気配がないまま数分が経過していた。
 牧ももう何も考えたくない気持ちもよーくわかるので、ゆっくりと流れる真っ白な雲を無心で目で追っていたけれど。このまま店のわきに設けられた木陰のベンチでそよそよとぬるい風に吹かれてばかりいるわけにもいかないだろうと声をかける。
「『次の行き先』は決まったのか? 決まってないならとりあえず……仙道?」
 呆けているのかと思いきや、よく見れば先程喋りかけた時から全く動いていないかに見えていた仙道の指先は時折動いている。どうやら次の行き先を既に決めて熱心にチェックしていたようだ。ただぼんやりとしていたのは自分だけだったようで、牧は少々申し訳なくなる。
「行き先に目処をつけてたんなら教えてくれよ。調べることがあるなら俺も手伝うぞ?」
 仙道の手の中にあるスマホを覗き込もうと尻をずらし近寄れば、大げさなほど仙道はビクッと両肩をあげ、隠すようにスマホを伏せてしまった。
「な、何? どうしました?」
 不自然に驚いてしまった自分を取り繕っている感のある仙道に牧は首を傾げる。
「何を熱心に見てたんだよ。次の行き先じゃないのか?」
「そうそう。次なんすけど、駅の近くにカルシウム豊富な温泉が出てて、それの日帰り温泉施設が沢山あるみたいなんすよ。これからバスで駅まで戻ってひとっ風呂浴びて、広い無料休憩所でゆっくりすんのとか良くないです?」
「温泉はダメだ」
 こいつと入浴。そう考えたとたんに、割り切ろうとしてなんとか普通にしている牧を嘲笑うように心臓が駆け出したため、次の瞬間には口がダメだと動いていた。
 らしくなく理由より先に断定口調で断られて驚いたのだろう、仙道が口先を少々尖らせて聞いてくる。
「なんで? 下着の替えやタオルならコンビニ寄りゃいい話しでしょ。多分温泉の売店にもありますよ?」
 つい二時間ほど前に仙道を好きだと気付いたばかりなのに、まさかもう情欲まで抱くなんて。己の体が信じられず牧は激しく動揺していた。
 それでも幸いにも顔に出さずにすんだのだから、今はその場しのぎでいいから逃げ切ろうと、牧は上がる一方の心拍数から意識を全力でそらす。
「せっかく山に来たんだ、山に登ろうぜ、山。まだ日も高いんだ、昼ビール飲んで上手い飯食った分、動いて消費しないと」
 つい先程までほろ酔いでもう動きたくないなどと思っていたことなど棚に上げ、やる気十分とばかりに左手で拳までつくってみせた。山に登りたいわけでは特段ないのだが、咄嗟に浮かんだのは山しかなかったのだから貫き通す。
「え〜。山は昨日登ったじゃないすか〜。それに同じとこ登ったって面白くないでしょ〜」
 不満たっぷりな仙道を納得させるために、昨日と違う何かを……と思ったところで閃いた。
「なあ、途中までケーブルカーに乗って、それから頂上まで登ってさ。帰りは昨日と同じルートで帰ろうぜ。帰りだって昨日は先頭が俺で真ん中が越野だったろ。今日はお前が俺の先を歩けよ。ほら、昨日と全部違うだろ」
「違うっていうの、それ……」
「全然違うって。それにこれなら秦野駅に戻らないでいけるんじゃないか?」
 強引な提案に最初は半ば呆れ顔だった仙道だったが、ぷふっと小さく吹き出した。何がおかしかったかのかは知らんが、畳み掛けるなら今だと牧は身を乗り出す。
「行こうぜ、せっかくの上天気なのに屋内にいるのはもったいない。半分は昨日と同じルートだが三人とは違う。なにより昨日とは別人のお前となんだ。ほら、違うだろ全然」
「それを言われると……。ま、そっすね。天気もいいし外がいいすよね。あ、そうだ。秦野には5本のハイキングコースもあるみたいだけど。そっち調べてみます? 確か秦野駅からスタートするやつとかが」
 調べようとスマホに視線を移そうとした仙道の言を牧が片手を小さく振って遮る。
「いい、いい。本当にそんなに気を遣わんでくれ。それに今から秦野駅に戻るより、ケーブルカー目指すほうが近いだろ?」
「どうだろ……。駅にバスで一回戻って、またバスで大山ケーブルバス停まで行った方が楽で早いのかな。……いやでも待ち時間と乗車時間を考えると……」
 仙道は再びスマホの地図を見て唸りだした。
 正直なところ牧にとっては温泉の看板などが沢山ありそうな駅周辺に近寄りさえしなければ、もうなんでも良かった。今は温泉の文字を見ただけで仙道の裸体を想像しそうな自分が怖い。パンツ一丁の姿は更衣室などで数え切れないほど目にしてきているはずなのに、それを思い起こすことすら今は怖いだなんて。
「考えるより歩こうぜ。行けばなんとかなるだろ。ダメなら引き返せばいいさ」
 また仙道が気を回さないうちにと、早々に腰を上げる。座ったまま仙道が眩しそうに目を細めて笑みを向けてきた。
 その笑みがとても清々しく綺麗なだけに、邪な思いに蓋をしようと必死な自分を申し訳なく感じさせた。



 茶屋からほどなくして分岐にさしあたった。案内板にならい右に折れ、樹林帯の道を30分ほど歩くと蓑毛越に到着した。原生林から零れる木漏れ日が目に美しく、風も少し出てきて爽やかでもあり、休憩を入れることなく大山ケーブル駅まで歩き通せてしまった。
 上りの駅周辺は土産物屋や旅館などが所狭しと両脇に立ち並んでいた。無骨な自然むきだしに近いヤビツ峠コースとは全く違い、整備もされており観光地的な賑わいがある。売店に立ち寄りはしないものの、店先に並ぶ品々を軽くひやかしているとおのぼりさん気分も味わえた。
 登ればけっこうかかる道もケーブルカーに揺られ、ただ流れる景色を眺めているだけで退屈する間もなく終点の阿夫利神社駅へ到着できてしまった。
「なんかまじで観光客みたいすね俺ら」
「だな」
 楽過ぎる行程に二人はむず痒い笑みを交わしあった。

 降りた駅の壁に貼られた地図を仙道が指でたどる。
「ここからはこの本坂を登ります。昨日行った山頂まで、大体90分くらいが目安ですね」
「てことは60分くらいだな」
 昨日は越野にあわせて登ったが、仙道のペースで登るならそうかからないはずだと読んだだけで含んだものはなかったのだが。
「や、昨日のは登山を楽しむっつーのとは違いますから。しっかり景色も楽しんで余裕もって登るから80分くらいすよ、きっとね」
 苦笑いで返され、少し可哀想になってしまった。俺など招かれざる客なのだから、お前がどんなペースで登ろうがなんだろうが全くかまわなかったし、俺は普通に楽しかったのに。引け目はいらないと言ってやりたかったが、あまり言うのも押し付けになりそうで結局曖昧に頷くしかできない。
「牧さんが今日は先でいっすよ。好きに登って下さい、ついて行きますから」
「初心者に合わせてもらうのもなぁ……。お前が先でいいよ」
「あんたはもう初心者じゃねーでしょ。二度目なんだから」
「たった二回でかよ。厳しいな」
 牧が笑えば仙道はパッと白い花が咲いたような笑みを返してくる。
 打てば響くいつもの自分が良く知る仙道。頭の回転が早く、勝ち気でよくふざけてはよく笑いよく甘えてくる。自由奔放そうでいて実はけっこう気遣いで敏い、俺の好きな……。
 そこまで考えて、たった二文字の言葉にまた動揺してしまう。恋愛感情にひとまず蓋をするだけのことが、これほど難しいとは想像以上だと牧は眉間を曇らせる。
「…………いかんな」
「ん? まじで大丈夫ですよ、昨日より少し登りやすいくらいだし」
 全く的外れな軽い返事に牧の緊張は少し緩み、小さく頷いてみせた。

 駅を出ると神社までの登りの階段や道は舗装され整えられていた。阿夫利神社はこんなところにと感じるほどなかなか立派な建造だったため、つい足を止めて見てしまった。そのせいで仙道は「寄りましょうか」と境内へ入っていった。隣に並び立つと仙道が瞼を閉じて手を合わせたので、牧も参拝した。
「真剣に祈ってましたけど、なに祈ったんすか」と聞かれ、「俺もお前も怪我をしないようにだ」と正直に伝えれば「俺も同じです」と意外に真面目な顔をされて自然と頬が緩んだ
 山登りの時に浮ついていては怪我につながる。シーズンオフ中といえど怪我など絶対にごめんだ。俺が昨日の越野のように足を滑らせるミスも許されない。仙道の右手の捻挫は本当に痛みはないようで今日も全く不便そうには見えないけれど。自分と同程度の体重に降ってこられては、悪化どころではすまされない。
 本気で気を引き締めて牧は頂上登山口から始まる急な石段を登りきり、さらに先の登山道を黙々と登り始めたのだが。
「あ。牧さんあれ見て。あのでっけぇ二本の杉の木」
「どれだ? ……あの根本にしめ縄とかぶら下がってるやつか?」
「そう。あれね、夫婦杉っつーんですよ。左右同形の巨木だからなんだって」
 しめ縄にぶら下がっている板に書かれた説明文を仙道が簡略に読み上げる。
「へえ……」
 樹齢5〜600年とは立派なものだと思いはするが、さして興味を引くものではないなと思いつつ眺めていると隣で仙道が首をかしげた。
「……なんか夫婦って感じしませんよね。例えばですけど夫婦茶碗とか湯呑なんて大小のセットだし?」
「確かに」
「左右同形にこだわるなら、男女より同性同士のが近いんじゃねーかな、なんて。そう思いません?」
 全く他意はない疑問だとわかっているのに、ドキリとさせられる。
「……そうかもな」
「そのほーが自然ですよねー」
 肯定されてニコリといい顔をした仙道は、また登山道に靴先をむけた。
「やっぱ俺、先登りますわ。牧さん周囲見てるようでいて、けっこう見落としありそうだし?」
「あぁ。そうしてくれ」
 仙道の後ろを登るからといって注意力を散漫にさせていいわけではない。しかしこんなどうでもいい会話で翻弄させられる自分が前を歩くよりはマシだと、牧は気付かれないように、不甲斐ない己に溜息を零した。

 表道らしく道中には名のついた大きな自然岩や説明看板、石碑などがけっこうな頻度で見受けられたというのもあるが。何より昨日と一番違うのは、それらの一つ一つを簡易に説明する仙道その人だった。まさに別人と何度も茶化したくなるのを牧は堪えねばならないほどに明るくて面白く、そしてニコニコした様が可愛かった。
 今日何度目かの『気を遣わないでいいぞ』という申し出にも、『俺がしたいだけなんで』と返して説明してくれるものだから。特別由来など興味がないながらも二人であーだこーだと話しながらゆっくりと登るのがどんどん楽しくなってしまい。大きな石や太い木の根が邪魔をする悪路や急勾配なども苦にならないどころか、途中からは仙道の適当で嘘くさいガイド聞きたさに、ケーブルカーに乗ったことを密かに後悔する始末だった。
「牧さんほら、あれ。富士山。富士見台っていうだけはあってよく見えますね」
「おー、ほんとだ」
 緑の間、沢山の山の向こうに水色の綺麗な富士山が見えた。昨日見たのと同じなはずなのに、何故か少し立派に感じる。
「昨日より空気が澄んでるせいかな。それにしてもこんなにスッキリ見えたの初めてすよ。昨日は俺が見た時はいつも雲が半分くらいてっぺん隠してたのに。晴れ男の牧さんと一緒だからかな、雲ひとつまとってない。くっきりハッキリ綺麗だ〜」
「俺は別に晴れ男じゃないぞ?」
「昨日も登りの途中で牧さんが見た時は雲かかってなかったんでしょ」
「まあそうだが。頂上で見た時は雲がかかっていた」
「じゃあ、二人きりだと晴れるんですかね?」
 嬉しそうに問われて返答に困る。この会話にだって仙道に邪なものは何もない。越野とでも晴れていたことを仙道は聞いているのだから。それなのに俺だけが勝手に胸が甘苦しくて…………恥ずかしながらまんざらでもなかったりするのが嫌だ。
 こんな会話を頂上までに何度もしているせいで、ただの登山なのにデートみたいだと感じてしまって。安全登山を祈っていたあの真面目な気持ちはどこへいっちまったんだと情けなくもなる。
「これからもっと二人で遠出しましょうよ。傘いらずすよきっと」
「そうだな」
 やけっぱちで肯定してしまえば、「牧さんさっきから同じ返事ばっかして。手抜きだなー」と仙道は声を出して笑った。


 身長が近く歩幅があうせいか、ペースが身体に合っていて昨日よりも下りやすかった。昨日と同じコースという慣れのせいもあるが、それよりも仙道がやけに饒舌で優しかった功績が大きい。大した事のない段差で「つかまって」と何度も手を差し出してきたり。帰りのヤビツは見どころがないからと、初めての一人キャンプの時の失敗談を面白おかしく語ってもくれて。
 それでなくとも後ろから見る仙道の楽しそうな頬に木漏れ日がキラキラとこぼれて目を何度も奪われ。裏参道なので人が少ないせいか、仙道の声が木々の間で少しこもるように柔らかく耳に届いて夢心地だというのに。時折どきりとさせるような甘さを含んだ言葉までかけられて。気持ちがずっとふわふわと浮いていた。
 もちろんそんな不埒な考えは微塵も仙道には覚らせなかったとは断言出来るが、この浮足立った高揚感効果は恐ろしいもので。昨日の半分も疲労感がない。足まで地面から1cmほど浮いていたんじゃないかと疑うくらいに昼間から俺の脳内はドーパミンがドバドバ出っぱなしで多幸感に酔っ払っいそうだった。いや、実際酔っ払っていたから半分ほどワープしたとしか思えないほど短い下山だった。
 好きだと意識した相手との行楽は楽しく幸せすぎて怖いほどだ。仙道の後ろでずっと顔が笑ってしまっていたせいで、とうとう頬の筋肉がぴくぴくしはじめた。並び歩く時までには緩んだ顔を引き締めないといけない。

「ね、牧さん。昨日寄ったカフェ、今日も開いてたらよりません?」
 振り向かずに仙道が聞いてくる。
「そうだな。喉が乾いた」
「俺も。んじゃ少しペース上げますか」
 長い仙道の足が歩を早める。疲労感の陰りもない足取りに、仙道も楽しいのかななど一瞬思ってしまったが。冷静に考えれば沢山説明したり喋ったせいで喉が相当乾いているからだと気づき、ほとほと自分の恋愛ボケ具合に呆れた。


 店は今日も無事開いていたので、ここでしか飲めない私有の湧き水で入れた名水のアイスコーヒーとやらを飲みに立ち寄った。
 静かな店内は客もまばらで、景色がよく見える窓辺の小さなテーブル席に案内された。
 ほどなくして運ばれてきたアイスコーヒーは氷のせいか涼しげに見えた。ゆっくりと口に含めば濃い苦味が広がる。喉を滑らせると冷たい爽快感に吐息がついて出た。仙道もビールを飲んだように強く息をひとつ吐くと、間をあけず一気に半分ほど飲み干した。
「美味いね、やっぱ店のは違うや」
「今朝のコーヒーも美味かったぞ?」
「……まぁね」
 長い睫毛を少し伏せて仙道が口元をほころばせる。よく見知った、これも俺が好きな表情のひとつだ。
(そういえば男を好きになったことに対してはそれほど衝撃はなかったな……)
 会話が途絶えたことで、牧は少し落ち着きを取り戻そうと昔を振り返った。

 子供の頃から女子は思考回路が違いすぎて言動の全てが理解し難かった。幼子や犬猫などと同じく保護すべき弱い存在と捉えており、可愛くなくもないし庇護欲はそれなりにもてる。しかしそれ以上の、抱きたいというような感情はいっさい湧かなかった。そんな考え方をする自分を特殊だとは、思春期になって周囲の野郎どもの様子から理解できていたし、これでは一生恋愛とも縁はないと早々に己を見限ってもいた。誰にでも向き不向きもあれば欠点だってあるものだ。そう開き直ることで、深く考えてしまって淋しくなったり落ち込まないようにしていた。
 そんな俺にも彼女ができた。しかし彼女に対しても性欲はわかず、まだ高校生だからと逃げ回っていたらあっけなく破局した。それがとどめだったのか、女性への興味は完全に失ってしまった。
 幸い俺にはバスケットをはじめ好きなものは沢山ある。大切な親友や仲間もいる。それで十分いい人生じゃねぇかと頑なに思ってきた。宮益や仙道に彼女はつくらないのかと聞かれたことが昔あったが、好きな相手が出来たらと無難に返しはしたけれど。そんな日は来ないと腹の中では思っていた。
 だから驚いたのは好きになった相手の性別どうこうではなく、恋愛感情として人を好きになれていた自分にだった。こんな変わり者の俺でも人を好きになれていたのかと驚愕しつつも嬉しい衝撃だった。
(それに─── )
 窓の向こうを眺めている、形の良い薄い唇を少しほころばせている仙道を牧は盗み見る。
 これほど見目も良ければ性格もいい仙道だ。俺は至極真っ当な心眼。いや、審美眼か? ともかく見る目があると評価できよう。好きだと意識したおかげで、仙道は人としても美しいと今更ながら認識した。健やかな精神がのびのびとしていて綺麗なのが言動だけでなく外見にも現れている。時として自由過ぎて周囲を戸惑わせもするけれど、その自由は他者ではなくあくまで己自身の行動においてのみだ。それに対して負う責任からもこいつは逃げないのを俺は昔から近くで見て知っている。……たまに責任の重さにぶーたれてもいるが。でもそんなところも素直で憎めなかったりする。なにより、俺にはないものばかりで構成されているのに、こんな面白みもなければ真面目なだけの俺を尊重し慕ってくれる懐の広さも好きだ。
 ああでもやはりこいつの形の良い二重も通った鼻筋も薄い唇も、長い指や大きな掌も、すんなりと長い筋肉質な脚も、悔しいが俺より少し高い身長も全部が好きだ。俺は面食いだったなんて、どうでもいいことも知ってしまった。
 今ならば仙道に恋慕する数多の女性たちと話をしてみたらかなり理解できるに違いない。まあ話しかける気などさらさらないが。

 つい己の心情の変化や新たな発見などの感慨深さに目を閉じ頷いてしまっていたようで、いつの間にか仙道に面白そうに見られていた。
「そんな噛みしめるほど美味しかったんだ? おかわり頼みます?」
「いや、十分堪能した」
「ゆっくり景色も見たし、喋りながらだったけど昨日より時間かかんねーで下山できましたね」
「越野には黙っておこう」
「そすね。あいつ負けず嫌いだから」
「まあ俺らも相当だけどな」
 違いねーやと軽快に笑う仙道の声に牧の笑みが重なると、急に仙道は悪戯っぽい顔をつくった。
「カフェで向かい合ってアイスコーヒー飲むとかさ。デートみたいすね」
 牧は驚きに声も出なかった。昔から数え切れないほど二人で飲み食いしてきてるし、カフェだって多くはないが行ってもいる。それなのに仙道がそんなことを思うなんて。
「…………そうだな。デートみたいだ」
 間が空いてしまったけれど、けっこうな喜びと緊張を隠しつつ。ほんの少し距離が縮まることを期待して返事をしたのだが。
「あはは。ウソウソ。んなわけあるかって顔で無理して合わせないでいーのに」
 優しいなぁとケラケラ軽快に笑った仙道だったが。
「……喫茶店で向きあってコーヒー飲むなんてフツーのことなのに。何言ってんすかね俺。バッカみてぇ」
 早口で己へ言い捨てた上に、氷しか残っていないグラスを一気に傾けガリガリと氷を噛み砕いた。とても苦い顔で。
 急に魔法がとけるような、いい夢の最中に強制的に起こされるような感じに牧の体を伝っていた汗が冷や汗にすりかわる。
 返事を失敗しただろうか。誤解させるようないかつい作りの己の顔のせいかもしれないと落胆する。

 長い腕を伸ばしてメニュー表をとった仙道は打って変わった明るい声をあげた。
「デザートもありますよ? なにか食べます? ほら、牧さんの好きそーな甘いのが」
 仙道はテーブルの上でメニュー表を回転させ牧へと滑らせる。
「腹は減ってないからいいよ。お前は食いたかったら頼んだらいい」
「俺もいらないよ〜。んじゃ、そろそろ行きますか。明るいうちに戻って飯作らないとね」
 ニコニコとした明るい顔が先程の苦々しい顔は見間違いだったのかと思わせる。
 そんなはずなどないのに。


















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大昔に数回、汚い生け簀の釣り堀に行ったことがあります。渓流タイプは綺麗そうでいいなぁ。
でも併設の食堂で釣った魚を天ぷらにしてもらい最高でした。釣ったとこで食べれるっていいですよねv


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