Let's have fun together. vol.04
|
|
|
バスケから離れた牧さんを俺が知ることが出来たのは大学からでしかないが。当時からは牧さんが恋愛話に興味がないのは明らかだった。部活外や飲み会でその手の話になると、彼はいつの間にか席を外していたから。逃げ場がなく話を振られた場合も、『今は興味ないな。それよりお前はどうなんだ。聞いたぞ? 気になる子がいるんだって?』などと場をしらけさせずに相手へ振り戻す。どこかあしらいに手慣れている感じすらあった。 彼へ想いを寄せる女子は多いのは知っていた。だから浮いた噂話の一つもないのが不思議だった俺は、きっかけは忘れたが、どうして席を外すほど恋愛話が苦手なのか聞いたのだ。多分インカレで快勝した打ち上げ帰りに二人だけになった時だと記憶している。 聞こえないふりで流されるかと思ったが、気分の良い酒だったせいだろう。もしくは俺にも彼女がいなかったせいか。理由はわからないがすんなりと話してくれた。 高校二年の頃何度断ってもめげない熱意にほだされて付き合ったことがあると、意外にも経緯からの語ってくれた。曲がりなりにも彼氏になったからと、忙しいなりに相手の要望(デートや家に呼ばれるなど)も出来うる範囲で応えたそうだが。彼女が女友達に、牧さんは真面目で付き合いが悪く面白くないと零していたのを偶然聞いてしまったという。 俺は酷く腹が立ち酔いも手伝って、見たこともないその女を散々にこき下ろした。しかし彼は『いいんだ、もう。ただ自分から好きにならない限りは、次はないかな』と苦く笑っていた。 そんな話を聞いていたから、程なくして牧さんを好きだと自覚してからも油断していた。それでもあの通り、大体のことはそつなくこなせる上に見目まで格好良い人だから、好意を抱く女は依然として多かった。プロになってからなど更に倍増したから、注意して近づけないようにもしてきた。 けれど夢にも思わなかったのだ。まさかの同業他社の『男』に知らぬ間にかっさらわれてしまうなんて。牧さんはヘテロだと勝手に思い込んでいた間抜けな俺は、己への怒りの炎で黒焦げの炭と化したんだ……。 * * * * * * 管理棟内の廊下にある長椅子に腰掛けた仙道は、またも数年前の記憶に浸かってしまっていた。何度か視界から越野が消えたり戻ったりもしたが、それさえも気にかからないほどに、ただぼんやりと。 越野から強引に「一番風呂どうぞ!」と先にシャワーを使わされていた牧が戻ってくると、当然のように越野は「さっぱりしたでしょ! んじゃ俺も!」と仙道へお先にの一言もなく入りに行ってしまった。 「シャワー使えて良かったよ。気持ちよく眠れそうだ」 隣に座った牧からいつもと違う香りがほのかに漂ってきた。常にはない甘さに違和感を感じ、仙道は落ち着きなく足を組み替える。 「……随分フローラルな香りさせてますね」 「越野がくれたリンスインシャンプーのせいだろうな。変か?」 「んーん。けどいつものやつの方がいーす」 牧がくすりと笑ったので、仙道は首を傾げることで問うた。 「昔からシャンプーやスプレー変えたらお前が毎回煩いのを思い出した。犬っ鼻は大変だな」 タオルでがしがしと頭を拭く牧を見ながら、仙道は曖昧に微笑む。 別に自分は特別鼻がいいわけではない。昔も今も人がどんな香りものを使おうが気にかけたこともない。気にかけてしまうのは牧さんだけだ。別に本人が選んでつけるものだったら、どんな香りだって文句はないし高確率で好きになるだろう。でも人からもらったもの……特に香りもんなんかは、いい香りであってもなんとなく嫌なのだ。誰かの気配を感じさせるもんをあんたにまとわせたくない。その理由に気付いてから今に至るまで、牧さんに言えてはいない。 「俺が同じのしか買わなくなったのはお前のせいなんだぞ?」 「うん。牧さんに一番合ってる。この鼻ソムリエが言うんだから間違いないよ」 「鼻ソムリエなんて初めて聞いた。なんだそれ」 笑う牧に合わせて、仙道も白い歯をみせた。 あれからけっこう経っている。そろそろまた訊いてもいいかな。今度は本人の口から恋人がいると聞かされるのだから、知ってはいても相当辛いけれど。でも強引さに流されての付き合いだったら、奪還する。したい。させてほしいからどうか、まだ気持ち全てを奪われていないでくれと祈る思いで。しかしそんな胸中を毛ほども感じ取られないよう仙道は言葉を選んだ。 「キャンプとか合宿とかのお決まりトークなんだけど」 「うん?」 「牧さんは好きな人はいないの? 気になる人とか」 「確かにお決まりネタだな。お前はそういう相手がいるのか?」 「俺は相変わらずすよ。牧さんはどうなんすか。なんなら付き合ってる人がもういるとか?」 「俺だって相変わらずなことくらい、お前が一番わかってるだろうが」 この手のネタは会話にならねーなと笑い返され、嘘をつかれることの辛さに胃液が逆流する。だが握っていた拳に力をいれることで表情には出さずに堪えた。 返事をよこさない仙道を訝しむこともなく、牧は腕を組んで斜めの方向に目を流し固定している。視線の先には大きなはめ込みタイプのガラス窓。室内の蛍光灯の光と外の景色がどちらも中途半端に映り重なっている。 「……気になる人…………というなら、お前なんだが」 動かなかった牧の視線が仙道の右手首に戻ってきて、仙道は苦笑を漏らした。 「捻挫でそこまで心配してくれなくても」 もうこのとーりほとんど問題ないすよと、テーピングしている手首をプラプラと振ってみせると牧は困り顔で笑った。 「もっと酷い怪我した奴だって沢山みてきたのに、ここまで気にはしなかったんだが……。なんでお前だけと不思議でな」 「高校ん時はライバルで、大学からは同じ部の後輩。今は同じチームで相棒だからでしょ。付き合い長いもんね」 「確かにそれもあるだろうが……。とにかくお前だけなんだよ。連絡が途切れたり顔が見れないと気になるんだ。実際昨日なんて、気になってお前の家まで押しかけちまったからな」 もしこれが牧さんに恋人がいない状況で言われたのなら、俺に気があると絶対誤解する。でもそうじゃないから……複雑すぎてどういう顔も出来やしない。 「顔を見りゃ見たで、やたら意気消沈して別人になってて放っとけなくなるし。嫌がられてんのも承知で、こうして着いてきちまうとか。……なんかもう、ここまでくると相棒だとか付き合いの長さで説明つかないだろ」 向けてくる淡褐色の瞳は真剣で、恋人がいるとわかっていながら期待をさせる。邪気がないだけにその瞳も言葉も美しく残酷で、全く罪な人だ。 「牧さん……」 二股をかける人ではないと知っていてなお、仙道の胸は悲しくも高鳴ってしまう。期待するだけ無駄なのに、喉が鳴ってしまう。 膝上のタオルを握りしめた牧は小さくため息をついた。 「こんなにお前のことばかり気にするなんて……俺はお前の親かよってな」 「…………親」 「何かあるとすぐ、飯食ってるかなー眠れてんのかなー、辛くなったりしてねーかなとか。一つしか違わねーのに気にかけっぷりが、もう肉親の域だろ」 盛大過ぎる肩透かしに、胸中の自分が『だよねー!! わかってたけど!!』と涙ながらに叫ぶ。 しかしそんなことを知らない彼は表を上げると目を優しく細めて呟いた。 「ムリな話だろうけど、いつでもお前には笑っていて欲しいと思うんだよ」 恋人がいるのに別の奴にモーションをかけるなどこの人に限って100%ない。数秒前に思い知らされていながら、またときめきを覚える愚かな己の胸を引きちぎりたくなる。純粋な厚意を伝えられたのだから、ここはお礼を言うべきなのに喉からは声のひとつも出やしない。 かろうじて一つ頷いてみせた仙道は尻をベンチギリギリに滑らせて背もたれに後頭部を預けた。薄くヒビが走る天井がぐんぐんとにじんでいく。 仙道は身動きもできず越野の戻りをひたすら待つしかできなかった。 * * * * * * テントに戻った途端にあくびを三連発した牧を見て、仙道は荷物を端に寄せはじめた。越野はその行動で意図を汲み取ったようだ。 「牧さんは寝袋のファスナー全開にして掛け布団代わりにして寝ますか? それとも寝袋として寝ます? それぞれに利点と欠点がありますけど」 「どんな?」 越野が手振りをつけて説明する。 「布団の利点は窮屈感がないから体が楽。欠点は肩か足が少し出ること。寝袋の利点は気楽。欠点は肩がはみ出ることっすね。ファスナーで調節できるけど、牧さんの身長だと長さがちょいギリなんで」 190あるこいつの場合は完全アウトと、親指で仙道を指してみせる。 「寒くはないからどっちでも大丈夫だな。二泊するんだから、両方試したい」 「いっすよ。じゃあ、今日はどうします?」 「寝袋で。小学生の時以来だから、少し楽しみにしてたんだ」 牧の顔がほんのり照れくさそうで、横目で見ていた仙道は可愛さにぐっときてしまったが、急いで顔を伏せた。 それぞれ寝袋に入りマットへ横になると牧から「おやすみ」と言ってきた。越野が「おやすみなさい」と反射で返した数分後にはもう、牧は規則正しい静かな寝息をたてはじめた。 「はっや……。寝心地いいわけでもねーし、そんなザッパな性格でもなさそーなのに。……疲れてたんかな、やっぱ」 大柄な二人とは違い、すっぽり寝袋に収まっている越野は「俺も寝ーよう」と呟くとミノムシのようにもぞもぞと動いていたが、やがて止まった。 外から漏れ聞こえる梢が風に揺れる音と極々小さな牧の寝息を聞きながら、暗闇の中で仙道はまんじりとしていたが、寝袋から出していた両腕で起き上がった。寝袋のまま正座をして牧を見つめてみたが、全く灯りがない中ではいくら目が暗さに慣れていてもよくは見えない。はみ出している牧の肩に軽く触れてみたが起きる気配は皆無だ。仙道は横座りのように上半身をひねり、牧の顔の横に長い両手をついて覆いかぶさった。 寝顔を見るのはシーズン前に牧さんのとこに泊まって以来だから、けっこう経つ。精悍な顔つきは眠っていると和らいで、どこか少しあどけなくもある。薄っすらと開いている柔らかそうな唇の奥には、白く綺麗な歯が隠れているのを知っている。長くはないが濃い睫毛が縁取る瞼のラインは、触れさせて欲しいと今夜も俺に願わせる。 「…………無防備」 恋愛が早いもの勝ちだったら、あんたはとっくに俺のものなのに。好きで好きで、大事でたまらないから慎重に慎重を重ねて出遅れるなんて。 いっそ今、その薄い瞼が開かないように手で覆って唇を奪ってやろうか。なんて出来もしないくせに考えてしまえば鼻の奥がツンと痛んで目頭が熱くなった。 「なにしてんだよ……見えてんぞ」 押し殺した声の主へ仙道はゆっくりと顔をむけた。少々三白眼っぽい越野の射抜くような視線とかち合う。仙道は音を立てずに再びもとの場所へ横たわった。 「眠り具合を確認しただけだよ」 「違ぇだろ。寝首かこうとしてたじゃねーか。てめー表出ろ」 「なに言ってんだよ。もう俺も寝る。おやすみ」 「うっせぇ。大声で牧さん起こされたくねーなら面かせ」 越野は言い捨てると素早くテントから出ていった。このまま寝てしまったら越野に殴り起こされるのは確実だ。仙道は頭をがりがりと乱暴にかくと寝袋から渋々這い出た。 越野の隣の簡易チェアに座るなり、いきなり胸元に指を突きつけられた。 「お前さあ、何様のつもりでいつまで不貞腐れたままでいるわけ? お前トシいくつよ。自分の機嫌をコントロールできねーのが許されんのは小学生までじゃね?」 「っ…………。わかってるよ。わかってっからキャンプ行かねえって言ったのに、無理やり連れ出すように仕向けたのはお前だろ」 「そりゃそーだろ。てめーの場合は知んねーけど、俺ぁ社会人にもなって気分でドタキャンなんて出来ねーよ。ドタキャンで施設がかぶる損益考えるし、そこに勤めてるおまえの叔父さんだって、甥のせいでご迷惑おかけしてすみませんって他の職員に頭下げることになんじゃねーの? 社割で予約取らせてくれた叔父さんの顔丸つぶれじゃん?」 容赦なくズバズバと正論で刺してくるところは全く変わっていない。それどころか保険会社という社会で揉まれているせいか、隙もなければキレッキレである。 反論出来ずに唇を噛むしかない仙道に対し、越野の口は容赦なく回る。 「しかもだよ同チームの先輩に、よくまああんなに八つ当たり出来るよな。普段どんだけ甘えてんだか見えるよーだぜ。俺にも会社で仲いい先輩いるけど、いくらプライベートでも無理だね。怖ぇもん、後が。酒の席もそーだけど、無礼講なんて幽霊よりありえねーかんな。だろ?」 「…………あぁ」 きっと越野は楽しんでいる。正論で黙らせるのを。昔からそういうところがある奴だった。だから今でも関係は途切れず続いている。煙たいし腹も立つが、面と向かって言ってくる奴は俺の周囲には少ない。大体は適当な言葉で宥めすかしたり、機嫌をとっていいように俺を利用しようとするか、陰口叩く奴が多かった。だから貴重といえなくもないのだ。……時にキャンキャンうるせーけど、こいつの根底には俺のためという大前提があるのを知っているから。 「俺はびっくりしたよ。すげーのな牧さんって。魚住さんが昔、牧は面倒見がいいとか褒めてたけど本当なんだな。すげー忍耐力。よくまあ腐ってるお前の相手をあんなに平気そうにやってられるよな。ブッダかよ」 越野が合掌するものだから、仙道は軽く吹き出してしまった。 春とは思えない夜気の冷たさに越野が身体を震わせる。自ら持ち出した寝袋のファスナーを開き大判ブランケットにすると、てめーも使えと手荒に広げた。まだそこまでではいなかったが、仙道は黙って膝にかけた。 「今となっちゃ自慢だよ。高校時代に試合出来て、あの人に直にふっとばされたなんてな。あーあ、すげーよなあお前ら。プロだもんな……」 越野が夜空を見上げる。先程までの口角泡を飛ばす勢いはその横顔からは消えており、どこかしら寂しそうですらある。 「……もっと大事にしろよ。バスケ以外、誰にも何にも執着しないおまえが、唯一長いこと追っかけてる人じゃねーか」 「……なんでそう思う?」 「高校ん時からのダチなめんな……って言いてーけど。てめーが海南大のスポーツ推薦受けて入った理由なんてそれしかねーだろ、皆知ってるよ。しかも卒業後も同じチーム入団とか。世間的にもプロフとかで気付かれてんじゃね?」 「あー…」 「少しくらいは腐ってた理由ゲロって、軽く謝っといた方がいいと思うけどね。これからも一緒にやってきたいんなら、だけど。いくら楽しくやれててもさ、困り事や悩み事を全く打ち明けて貰えないのは、けっこう地味に距離感じるもんだぜ?」 「そうか……? でもそれって格好悪くね?」 「格好悪ぃけど、八つ当たりして謝らなねー方がよっぽど格好悪ぃだろうが」 正論がまたもぐさりと胸に突き刺さる。 知らず己の胃の辺りを掴んで眉間の皺を深める仙道に流石に同情したのか、越野は腕を組み考え込む。 「そーだなー今更謝りづれーよな……。なら詫び代わりにキャンプに来て良かった、楽しかったって思わせるとかどうよ」 「楽しませるって、こんな山しかねーとこで。それも難しそうなんだけど。……例えばどういうんだよ」 「うーん……キャンプつーたら飯だろ。美味い飯作って食わせてやるとか? デザート喜んでたし、いけんじゃね? あとは……レジャーっぽいこと?」 「……あ、受付棟で釣り竿レンタルやってたよな?」 「おまえの娯楽は釣りしかないのかよ。けどまあそんな感じで遊んでさ、帰りの日にでも、初日とか機嫌悪くてすみませんでしたってポロッと言えば? 牧さんいい人だし理由言わなくてもさらっと許してくれそーじゃん」 「そうだな……。サンキュ。流石元副キャプテン。ナイスフォロー」 「うっせえ副キャプ言うなってんだろ、バスケ以外はてんで見掛け倒しの使えねー奴なくせに。あーあ、俺はもう寝るからな」 立ち上がった越野の背に問うてみる。 「なあ。お前も腐ってた理由を少しは聞きたい口だったりするのか?」 「モテ男のてめーが大失恋。それだけで十分なネタだから、俺はもーいーわ。まあ? 高級焼き肉奢ってくれんなら、詳しく聞いて慰めてやらんでもねーけど?」 首だけ捻って越野は歯を見せた。昔と変わらない勝ち気な笑みにつられて仙道も片方の口角を上げる。 「お前に奢るくらいなら、牧さんにお詫びで奢るよ」 「ははっ。今度のキャンプは焼き肉やろうぜ」 寝袋を抱えてテントへ戻っていく越野の背中は細く、高校時代と変わらなく見える。でも中身はしっかり大人になっていた。あの頃の越野だったらここまで優しくはなかった。成長を突きつけられたようで、あいつが嫌う役職名で茶化してしまった。 当時も越野がキャプテンになりたがっていたのは知っていたし、相応しいと思っていた。俺はエースの重責以上のものを背負う気はなく、越野の方が部員をまとめたり後輩を指導していく器量があったからだ。でも役職の決定権も拒否権も俺らにはないため、仕方のないことだった。 魚住さんと池上さんがいなくなった陵南バスケ部に奇妙な空白を感じて、釣りとか自主練に逃げていた俺を真っ向から叱りつけ引き戻したのは越野だった。バカな俺を信じてる奴らがどれほど貴重なバカどもかを、忘れちまったけどなんかいい言葉で気付かせたんだよな。それで俺はキャプテンをやれた部分もあるから……今も頭が上がらねえ。 なんて正直に言ったら多分、照れて蹴りが飛んできそうだから言わねーけど。 「せっかくの忠告をきかなかったら、まじ殴られんな……」 携帯を開いてマップを表示させると仙道は検索をしはじめた。 * * * * * * 耳障りの良い低く優しい声。そっと名を囁かれるのもくすぐったくて心地よい。ずっとこのまま聞いていたいのに肩や腕を揺すって邪魔をされる。 「やめ…………」 寝返りをうって逃げようとすると、今度は耳にはっきりと声が吹き込まれた。 「起きろよ仙道。朝だぞ」 「…………まきさん?」 「うん」 眠っていても眩しかったようで自分の腕で目を覆っていた。少し痺れている腕をおろし重い瞼を開けば水色のぼんやりとした光の中でとても近い距離からふわりと微笑んでいる牧さんがいた。 「……きれいだ」 「あぁ、快晴だぞ。……なんだ、起こしてほしいのか?」 抱き寄せようと伸ばした両腕を、全てに勘違いしている彼は力強く掴んで引き上げた。半身を起こされ、否が応でも目が覚める。 「おはよう」 白い綺麗な歯並びをみた途端、スイッチがはいったように仙道の脳裏に昨夜のこと─── 越野にくらった説教と、その後に一人で決めたことが一気に浮かんだ。 「おはようございます」 「さあ、早く顔洗いに行け。今日は昨日よりもっと歩くんだろ?」 「歩きません」 「なんでだよ。昨日は午後からだったからあの程度しか登れなかったんだろ? 今日は」 聞き終える前に仙道は牧の手をとった。驚いた牧が上体を引いた分だけ、仙道は顔を近づける。 「釣りをしましょう」 「……つり?」 「途中で温泉もいいすね。食料もビールもたらふく買い込んで、夜は豪勢にいきましょう!」 牧が訝しげに首を傾げる。 「どうしたんだよお前。昨日と別人だぞ?」 「生まれ変わりました。もうあんな黙々とただ登るだけのつまんねーのはナシです」 「俺は楽しかったぞ? 帰りは鹿も見たし」 「本物の楽しいつーのはあんなもんじゃないす! 今日はレジャーが目的です。たっぷり楽しませますよ〜。俺の本気をみせてやるー!」 離した両手を拳にかえて天井に突き出した仙道が吠える。 「……まだ寝ぼけてるのか? 本当にお前、誰だよ?」 「あんた専属の観光ガイド仙道彰です。本日は宜しくお願いします!」 今度は両手で握手をされた牧はいよいよ開いた口が塞がらないようで。数秒ほど満面の笑みを湛える仙道の顔面をまじまじとみていたが、やがて小さくため息をついた。 「……心肺機能や体力筋力の維持の件は?」 「牧さんは社会人になってからは初キャンプなんだし、楽しい思い出にしなきゃ。そっちのほーが優先順位は上!」 「そんな急に勝手なことを言いだしたら越野に叱られるんじゃないのか?」 「へーきへーき。久々の山登りでヘバってたんだから、釣りや温泉の方があいつも喜ぶに決まってますよ」 這い出た寝袋のファスナーを開いていると、隣で笑う気配がした。 「お前、いつもより頭のネジが一本飛んでるように見えるぞ? ……でも」 「でも?」 「一昨日よりはずっといい顔だ」 仙道が振り仰ぐと牧の明るい笑顔があった。 「お前のしたいことは全部付き合う。最初からそのつもりで来たんだ俺は。まあ、まずは越野を説得してからの話だがな」 「ありがとうございます」 心配をかけたことや八つ当たりをしていたことをまだ謝れないかわりに、仙道は深く頭を下げた。 洗面具を手にテントから出れば、夜とはまた違う湿った森林の香りと冷たい空気に全身の毛穴がギュッと締まる。 両腕で身体を抱いて「寒ぃ〜」とボヤけば、「おっせーぞ! いつまで寝てんだ! 一人で殿様やってんじゃねえ!」と越野の元気な声が飛んできて、高校の合宿中と錯覚しそうになる。 「おはよー越野」 「さっさと顔洗って来やがれ。てめーだけだぞ洗ってないの。ん? 牧さんなんすか?」 「寝袋は出しっぱなしでいいのか? 丸めて隅においた方がいいか?」 「寝袋は使うたびに干した方が寝る時気持ちいーんで、そのままでいっすよ」 「全部開いて、出発までの間だけでも外に干そうか?」 「そっすね。頼んます〜助かります。……人んこと見てねーでさっさと行けよ」 今日も越野は牧さんが好きなようで、俺への対応と全然違う。そりゃそうだよな、自分から率先して出来ることを提案してくる出来た先輩なんてそうそういない。 「……越野ってまだ檸檬坂の岸田ちゃんが好きなの?」 「岸田じゃねぇ、岸和田ちゃん! そりゃ好きに決まってんだろ。今なんて押しも押されぬセンターはってんだぜ! て、今それ関係ねーだろ。さっさと行け!」 「はぁい」 流石に吐く息は白くはないけれど、仙道は寝起きにしみる寒さに首を竦めながら流し場へ向かった。 パックごはんとシーチキン缶とキムチを使って越野が焼き飯を作った。仙道はマッシュポテトの素と豆乳パック、コンソメキューブ・塩・黒胡椒でポタージュスープを。牧は二人の調理を興味深そうに覗いては、食器を用意したりジャグに水を足しにと動いた。 昨日湯を沸かしたときにも使った小さなバーナーと、それとサイズは似てるがゴトクが分離しているバーナー。たったその二つで三人分の朝食が同時に出来あがると、牧は感心したとばかりに何度も一人で頷くため、途中で二人は堪えきれずに吹き出した。 越野があまりにじっと見てくるので、焼き飯を咀嚼し終えた二人が感想を口にする。 「見た目よりは美味い」 「そうか? 見た目もいいじゃないか。つけあわせの魚肉ソーセージも合う」 「すよね! 俺の鉄板朝飯メニューの中のひとつなんすよ」 牧へ満足げな笑み向けてから、越野はチタン製のマグカップに口をつけてフンと鼻を鳴らす。 「味は悪くねーけど、マッシュポテトもっと少なくていいよな〜。ポタージュっつーにはぼってりし過ぎてるぜ」 「食いでがあっていいだろ、朝飯のおかずもかねてんだし。ね、牧さん」 「うん。美味いよ。飯にかけてもいいんじゃないかな」 「え〜! それは合わないっすよ〜。せっかくのツナとキムチの……あ、俺のスマホか」 越野は鳴り続ける携帯を取りにテントに入るとそのまま会話を始めた。 「なんだよ結衣、俺飯食ってる途中…………え、母ちゃんが猫拾ったってマジかよ! どこで拾って、え? …………んだよ……よりによって、んな弱ってるやつ…………」 窓も入り口も開け放しているテントからはため息まで丸聞こえだ。二人は越野の返事だけで状況を理解し、顔を見合わせる。 「はあ? ダメだって風呂に入れたら! 汚れててもそのままで、タオルかなにかにくるんでやるだけにしとけって。…………違う、風呂だと逆に体温落としたりもあんだって。……そう。うん、うん。……子猫に人間の飲む牛乳はダメだ。猫用じゃないとダメ。……理屈までは知らねぇけど、とにかくやめとけって弱ってんだろ? 腹下したらますます弱るぞ。……うん。いや俺は帰れねーんだって……仕方ないだろ。なんとか自分たちで頑張れよ。拾った責任があるだろが。……あーもー泣くなって。なるべく明日急いで帰るから……」 仙道は簡易テーブルに皿をもどして牧と視線を重ねた。 「越野だけ、先に帰した方が良さそっすね」 「ああ。今伝えてやれ。早いほうがいいだろ」 一つ頷いた仙道はテントに膝だけついて入った。一旦越野は家に戻ったらいいと話す仙道の声も、車がないと移動が大変過ぎるだろと返す越野の声も聞こえている牧は、テント越しに「俺たちはなんとでもなるから」と伝えた。 仙道に続いて曇った顔の越野が出てきた。 「途中で水さしてすんません。仙道、悪ぃけど車使わないで行けるとこ探してくれな」 「大丈夫だって。俺らは適当にやるから。ほら、早く行ってやれ」 「急いでる時ほど安全運転だぞ」 「はい! 明日のチェックアウトまでに必ず迎えに来ますから! さーせん!」 越野は勢いよく頭を下げて身を起こすと、財布と携帯と車の鍵を引っ掴んで慌ただしく去っていった。 全く期待などしていなかったのに、自然な流れで牧と二人きりで過ごせるようになったことに仙道は感動を覚えていた。改心して牧さんをもてなそうと誓ったところで降って湧いたこのナイス過ぎる状況。こういうのをラッキースケベ……いや棚からぼたもち? ともかく急に俺にとって都合が良すぎる流れがきて浮き足立ってしまう。 「すげーラッキー……」 つい本音がまろび出てしまった仙道のすぐ後ろで、牧が小さく笑った。仙道は身を一瞬固くしたが。 「叱られずに予定変更出来るもんな」 どうやら彼は二人きりという状況になれて俺が喜んでいるとはとらなかったようで安堵する。 「だが車がないぞ? そうあちこちは行けんだろ」 「大丈夫。車なんてなくたってどうとでもなりますよ」 越野の目がないということは二人で遊ぶいつもの休日と同じ。牧さんだって気楽なはずだ。その点でも最高の状況じゃないか。 しっかりと昇りきった朝の太陽が眩しく周囲を照らしてくる。天気も味方につけた気になって、仙道は一人やる気をみなぎらせた。 *next : 05 |
||
|
||
越野は清純派アイドルとか好きそうなイメージがあるのですが、牧と仙道は全く興味なさそう。
二人はどんな音楽を聴くのかな。少し古い洋楽や好きな映画のサントラとかを流し聴きかなぁ。 |