Let's have fun together. vol.03


 越野の後ろには牧がいるため、仙道には後続を気にするつもりは端からなかった。
 自分に今必要なのは、この鬱屈した気持ちを少しでもどうにかして払拭すること。頭どころか体までも泥を詰めたように重くなっている自分を捨て、早く飄々としたいつもの─── いや、演じているうちにもうひとつの自分となった俺に戻る必要があるからだ。
 強制リセットをするには全力で頭の中を空にする必要がある。そのためほぼ走る勢いで登ってしまった。
 (自然の中を一人で歩くのはちょっとした冒険みたいで、子供の頃から好きだったな……)
 足元を少し気にしながら無心で足を動かそうとすると、現在に至るまでの記憶がランダムにぽつぽつと浮かびはじめる。雲のように輪郭がぼやけた映像がうまれては消える。そのどれへも意識を傾けることなく流れるがままにして、時折空を見上げては空気を多目に肺へ送りながら歩を進めていく。
 荒い息と伝う汗と鼓動が感覚を大きく占める頃には、頭の中はいくらかクリアになっているし、泥と疲労が入れ替わった体はどこかへたどり着いてもいる。見晴らしのいいところもあれば、そう変わり映えがないところだったりするが、どこだって別にかまわない。泥袋だった自分を置いてこれたと実感できるのが、いいのだ。


 頂上で二人を待つ間、仙道は裾野に広がる町並みを見るでもなしに立ちつくしていた。
 爽やかな山頂の風が熱い身体を冷まし、息を静めてゆく。ついでに冷やされた頭は、牧を追い続けてきた今までの自分を振り返らせた。

 高校卒業後の進路は海南大に決めた。二年のインハイ予選で牧さんと互角の試合をしたつもりの俺は、今度はじっくりとコンビプレーをしてみたくて推薦入学した。最初はそんな理由だけで数多の推薦を蹴り、わざわざ海南大の狭いスポーツ推薦枠を狙うのは少々おかしいと自分で思いもした。
 けれど入学して牧さんに真正面から、「お前とチームプレーがまた出来るとはな。楽しみだ」と笑顔で肩を叩かれた時。己の直感でここへ来たのは正解だったと確信した。この人もまた、国体で同チームとして戦う楽しさを忘れられなかったのだと、勝手に思い込んで心は震えた。
 高校時代全国に行けなかったのに推薦で入った俺には、当然ながら部内の風当たりは強かった。しかしなにくれにつけ牧さんは俺がくだらない些事で潰されないように気を回してくれた。三年の先輩に俺をかばうことを咎められてすら、陰ながら目をかけ続けた。そんな彼の負担を減らすためにも、出過ぎた杭になってやろうと俺は積極的に練習に挑んだ。そして不慣れながらも人間関係にも気を配った……俺なりにだけど。
 部に馴染めたていたのだと気付けた頃には。他校からも牧と仙道は最強のコンビと認識されるまでに息の合ったプレイを出来るようになってもいた。

 彼に信用される自分になろうと時間をかけて信頼を積み重ねてきた……つもりが。何故か俺の中では彼への恋情が溢れんばかりに醸成されてしまっていた。
「そんなつもりはなかったのにな……」
 小さな呟きを風がさらっていく。
 戻れないとわかっているのに、ただ同じチームでやれる喜びで満足出来ていたあの頃の自分が羨ましかった。


*  *  *  *  *  *


 山頂では仙道が待ちわびていた様子もなく、ただぼんやりと人気の少ない木立のそばで立っていた。
 その胸中を越野は全く組むことは出来ないし、その気もなかった。それよりも額に汗のひとつもなく立ったまま待っていた仙道と疲れの片鱗もなく自分の横に立つ牧に、越野は内心舌打ちをしてもいた。無尽蔵にも思える二人の体力に苦い疎外感を味わわせられ、自分でもお門違いの嫉妬だと思いながらも声は荒ぶる。
「てっめー……三人で上ってる意味ねーだろが。一人であっという間に先に行っちまってよっ」
「牧さんいたからいーだろ」
 慣れない失恋(もしかしたら初めて?)で落ち込んで変になってる奴だとわかっているし、登ってくる時にも仙道が一人で行ってしまったのも納得していたのに。疲れている越野の短い導火線は仙道の言い方ひとつで瞬時に着火する。
「ああそーだよ、俺ぁ確かに牧さんに助けられたよっ。じゃなかったら転がり落ちて今頃あの世に一番乗りしてっかもな。良かったぜ、てめーみてーな自分勝手と二人で登らなくて。牧さんに会うまでお前と二人キャンプすんのに不安がなかったお気楽な自分が笑えるぜまったく」
 鼻で自嘲すると、急に仙道の表情がわかりやすく動いた。
「なにかあったのかよ」
「遅い俺のペースを一切急かさねー、下手な慰めもかけねー。なのに勝手に焦って石段から足踏み外してひっくり返りそうになった俺を、牧さんが助けてくれたんだよ。けっこうな距離を一瞬で駆け上ってさ。助けたあともさりげなーく気遣ってくれて。本当に出来た人だぜ。俺ぁ心象変わったね。もうダンプなんて呼べねーわ」
「……怪我なくて良かったな」
 無事を喜んでくれている割には、仙道の表情はどこか引っかかりを感じさせる。しかしその言葉に嘘はないのはわかる。
「おーよ。つーわけで俺ぁ帰り道は牧さんの後ろ、最後尾にすっから。俺が下りで滑っても牧さんならストッパーになってくれそーだしよ、てめーと違ってな。いーすよね、牧さん」
 話を振っても真横にいる牧はぼんやりと仙道を見つめたまま、相槌どころか返事もよこさない。仙道の様子が変なのは最初からだが、牧までなんだかおかしく感じて腰は眉根を潜めた。
「牧さん? 牧さんどうかしたんすか? 話、聞いてます?」
 山頂に三人が揃って初めて、仙道が牧の顔をわずかに覗き込んだ。途端、顎を引き視線をそらすように首を捻った牧と越野の視線がかち合う。
「あの、牧さん?」
「ん? どうした?」
「どうしたじゃないすよ〜。下山の順番、今度は牧さん真ん中で頼んますって話なんですけど」
「帰りは道はわかるから俺はどこでもいいよ。お前らが好きに決めてくれ」
 話してみれば牧は何も変わりがなかった。自分の気のせいだろうと、越野は深く考えることを放棄する。
「んじゃそういうことで。あー疲れた〜! てめーは茶屋で三人分の飲み物買ってこい。牧さん、あっちに座れそうなとこあったから行きましょう」
 二人の返事も待たずに越野は腰を下ろしたい一心で、疲れた足を叱咤して再び歩きだした。


*  *  *  *  *  *


下山は特に問題も目新しいこともなく。登ってきたのと同じルートなだけに少々気だるさが勝る中、三人はほとんど無言で足を動かし続けた。
峠の麓にある山小屋風の喫茶『気まぐれ』は店名からして営業日も時間も曖昧のようだが、登山前に越野が電話で営業を確認していたため、無事夕食にありつくことが出来た。
 ここでも疲労困憊の越野と、まだどこか心ここにあらずな牧。そして不機嫌とは少々違うが陰気臭い仙道とでは会話も弾むことはなかった。

 食欲だけは旺盛な牧と仙道はハンバーグライスの残りが1/3になると、牧は焼きそばを。仙道はホットサンドを追加注文した。
 呆れと驚きでチキンライスを食べる手が止まってしまった越野へ牧は苦笑を寄越す。
「仕方ないだろ、少ない昼飯で山登りしたんだから。なあ?」
 仙道が牧に同意をふられて頷く。
「越野も何か追加しなくていいのかよ。そんなんじゃ足りねーだろ? あ、やっぱ晩飯作るつもりだった? これが晩飯だとばかり思ってたけど」
「作るわけねーだろ、こんな疲れてんのに! だいたいそんなに食っておいて、もし俺が晩飯まで作ったら無駄になんだろーが」
「車を置いてキャンプ場まで歩こうぜ。そしたら食えるから無駄にならん」
 真顔の牧に越野はぎょっとした。行きの時に歩ける距離だと言っていた記憶が蘇り、気が遠くなりかける。
 愕然とする越野の顔を覗き込んだ仙道がクッと右の口角を上げた。
「冗談真に受けんなよ。すぐ日も落ちんのに今から歩くわけねーだろ」
「う、うっせー! 体力バカの大食いが言うと洒落になんねーんだよ!」
「体力バカってお前……牧さん先輩だって忘れてる?」
「あっ。ヤベ、すんません。あの、」
 口が滑ったことに慌てる越野を牧は軽く片手でいなすと、仙道へ小首を傾げる。
「俺なんて普通だよな?」
「大食いは……井内すね。食堂のB定食に醤油ラーメンと麻婆豆腐つけてましたから」
「凄いな。あ、そういや餃子定食にチャーシュー麺大盛りとチョコパフェを岸田が平らげてたのを冬に見たな。どっちが大食漢かなぁ」
 疲れで食欲の出ない越野には二人の会話は想像もしたくないものだった。
 しかし漸く仙道が辛気臭いながらも、牧といくらか普通に喋っているため、越野は会話には参加せず再びスプーンを動かした。


 キャンプ場に戻ってみれば、離れた場所にあるどのテント付近からも湯気や煙が見え、脇を通れば美味そうな匂いが鼻をくすぐった。まだ日は完全には落ちていないが、気を抜けばすぐ漆黒の闇に包まれることを知っているキャンパーは、夕食の準備を16時には開始しだすから納得の情景だ。
 匂いや湯気に触れたせいだろうか。三人はすぐにテントにこもる気にはなれず、タープの下に再び椅子を出した。
「……焚き火くらいしようぜ。薄ら寒くなってきたし」
 越野の一言で仙道は管理棟へ薪を購入しに。牧は言われた通りテントの横に広がる森林の入り口付近で細い小枝を拾いに行った。そんな数十分の間に日は落ち、夜が日の名残りの淡い黄色と紫の空を紺碧で塗り潰していく。
 越野が組み立てた逆四角錐型のスノーピークという焚き火台に、仙道が着火剤の上に薪を細く削ったものを乗せ、さらに細い小枝を乗せていく。
「点火〜」と越野は枝の隙間へ、ノズルの長いライターの先を入れて火をつけた。
 ゆっくりと火がまわり炎が出て燃え始めると、二人が細く割った薪をピラミッド型に組んでいった。「空気の通り道が大事なんすよ」と越野は口も動かしながら。

 細く小さかった炎が育つと、明るさと熱で周囲の雰囲気をまるごと優しいものに変えた。薪が小さく爆ぜる音も、無音の寂しさを消してくれる。
 オレンジの縁と中心のイエローが踊り混ざり合う炎や立ち上る煙を、牧は団扇で風をゆっくりおくりながら飽かず眺めている。
「……どっすか。いいもんでしょ、焚き火って」
 そろりと聞いてくる越野へ牧は小さく。だがしっかりと頷いた。
 炎に照らされてどこか神聖な力強さを感じさせる牧の精悍な横顔から仙道は目を逸らせなかった。あまり見つめてはいけない、恋人がいるこの人にこれ以上心を持っていかれてはますます惨めになるだけだ。そうわかっていてもなお、炎が照らす彼に視線も心も捉えられてしまう自分が哀れだった。
 ふいに牧が仙道へ顔を向けて柔らかく口角を上げた。
「綺麗だな」
 パチパチと木が爆ぜる音に重なる、低くて深い声に仙道の目頭が熱を帯びる。
 綺麗なのはオレンジの光に縁取られて微笑むあんたがだよ、と。言える自分になりたかった。
 でも現実は本音の欠片でも口にすれば困らせてしまうだけだから。頷いて、煙で目が痛いふりで涙に滲む目元を擦って隠すのが精一杯だった。

 炎も落ち着きすっかり暖まり、いい具合に気がゆるんだところで、越野は牧に尋ねた。
「牧さんはキャンプは全くしたことないんすか?」
「サーファー仲間とバーベキューくらいはたまにあるが、キャンプはないな。中学の炊事遠足という名のキャンプが最後だったかな」
「炊事遠足〜?! 牧さんが遠足!」
「なぜ笑う。俺にだって中学時代があって当然だろう」
 越野は薪を追加しながら、まだ笑いの残る顔を仙道へ向けた。
「そういやお前さ、中学ん頃に牧さんが出てた試合見たことあるって言ってなかった?」
 顔にはギリギリ出さなかったが、仙道は驚かされた。そんな大事な自分だけの秘密を人に話した覚えなどなかったからだ。
「そうなのか? 一度もお前からそんな話は聞いたことがないが」
 二人の視線がガスランタンに着火しようとしていた仙道に集中する。
「…………多分、中一か中二くらいの頃に一回だけ。でももうほとんど覚えてねーし、忘れてましたよ」
 すっかり暗くなり、光源が焚き火と電池式LEDランタンしかなかったところにガスランタンの明るさが加わる。ガス火独特のふわりとしつつもしっかりとした明るさに、三人の顔が文字通り明るくなる。
「あ、そーだ。魚住さんから聞いたんすけど、中学ん頃は神奈川の怪物とか言われてたんすよね?」
「そう呼ばれだしたのは二年の頃だったかな?」
「中学で神奈川の怪物で、高校で神奈川の帝王でしょ。学生の頃からすげー二つ名ですよね」
「いらんけどなそんなの。越野は?」
「まっさかぁ〜俺にあるわけねーすよ。ある方が少ないんすから。あ、でも中学ん時に大田原って奴が」
 話題が逸れたことをこれ幸いとばかりに、仙道はついた嘘に気付かれる前にLEDランタンを片手にそろりと席を離れた。


「あ、戻ってきた。便所なら一言いっとけよ〜」
「違ぇーよ。ただ焚き火してんのも芸がねーだろ」
 仙道は抱えていた物を簡易テーブルの上に広げた。ひと目見ただけで越野がその中の数個に手をのばす。
「俺はコーヒー入れる係やる〜。ミルひくの好きなんだよな」
 テーブルの上に残っている物を見て戸惑っている牧へ、仙道はバナナとスプーンと皿を渡す。
「食べやすいサイズに適当に切って皿に乗せて下さい。バナナは皮を半分だけむいて、残り半分をまな板代わりにすると汚れものがませんよ」
 牧はこくこくと素直に頷き取り掛かる。そんな様すら微笑ましく思う自分が哀れで、仙道は無理やり視界からはずしてマイクロストーブを組み立てはじめた。
 アウトドアという非日常での彼の表情や行動全てが新鮮で、つい目で追っては見入ってしまうけれど。不便を楽しむアウトドアは何かとする作業が多い。それが今の自分にとって彼から気を逸らせる小さな逃げ場だった。

 マイクロストーブで湯を沸かす準備が出来て火をつけると、牧の感心するような声が触れる。
「へえ……こんなに小さくて軽量そうな折りたたみのゴトクでもしっかりしてるもんだ。キャンプ道具は面白いなぁ」
 いつの間にか作業を見られていたことが面映ゆく、仙道は小さく頷いた。
「こいつん家にギア。あ、ギアってキャンプ道具のことなんすけど、すげー色々あったんですよ。お宝あり過ぎて、どれ持ってくるか迷っちゃいましたよ〜。このスタイリッシュなデザインのランタンも仙道の。ガスは電池式よりは着火や手入れが面倒だけど、炎に雰囲気があるすよね〜」
「うん。一味違うのはわかるよ。それに焚き火ともまた違うのな……落ち着くよ」
「すよね〜。車で行ける時は荷物の重量とかそう考えなくていいから、そうなるとやっぱ雰囲気とかちょっと重視しても……。あ! 牧さん全部バナナむいちゃったんすか?!」
「残した方が良かったのか? すまん、全部やっちまった……」
 山盛りのバナナへ目を落とす牧の横顔が少し幼く映り、悲しいほど仙道の胸はギュンギュン甘く絞られる。
「火を通せば縮むし、三人いるから。それくらい食えますよ」
 軍手をした仙道はフライパンを火があがっていない熾火の場所に置き、砂糖とバターを入れた。ほどなく溶けたバターと砂糖が混ざり合い、泡立ちながら甘い菓子のような香りを漂わせはじめる。そこへ牧の膝からバナナの皿を取ってフライパンの中に加えた。細かくゆすりつつ、バナナが溢れないようにスプーンで優しく混ぜ続ける。

 越野まで手を完全に止めてこちらをみているため、仙道は顎を向けた。
「そろそろ湯が湧いたんじゃねーの? コーヒー奉行」
「あ。いけね。牧さん、そっちに昼間使ったカップ、そう、それ。あざす」
 越野へ手渡した牧の肩を仙道は小さく突っつく。
「牧さん。ちょっとこっち見てて」
「うん?」
 まんべんなく少し茶色く色づいてしんなりしたバナナへ仙道は小瓶のブランデーを注いだ。火が上がっている薪の上にフライパンを少し傾ければ一瞬で高さのある青紫と橙色の炎がフライパンで踊った。
 目を丸くする牧の後ろで「おー!」と越野の声が上がる。
「こんなに火が……焦げちまうんじゃないのか?」
「アルコール飛んだらすぐ消えますよ。この炎の色も独特で面白いでしょ」
 仙道が話す間にも火はどんどん勢いを弱めて、消えた。変わりに先程より洋酒で深みを増した甘い香りが漂いだす。
「面白いというより驚いた。TVで見た中華料理の厨房にいるようだった」
「そこまで」
 素朴な感想の可愛さに、ついやに下がってしまったが。言った本人はフライパンの中に夢中で助かった。

 仙道が取り分けた皿を、越野はコーヒーを配った。夜のひんやりとした空気にコーヒーとフランベしたバナナの濃厚な香りが広がり、周囲の温度が僅かに上る。
 いただきますと牧が口にするのと同時に越野が声を上げた。
「うっわ、バナナのくせにトロリとしてて、なんか女子が喜びそうなお洒落なもんになってる!」
「美味い。立派なデザートだ」
「アイスクリームでも添えれば、もっと見た目もデザートらしくなるんですけどね」
「十分だ。本当に美味いよ。バターと砂糖とブランデーで化けるもんなんだな」
「バナナのくせに偉そうになったもんすよねー。コーヒーと交互に飲み食いしたら止まんねーよ。もっとバナナ買えば良かったなー」
「バナナ切り過ぎって文句言ってたのは誰だよ」
「こーいうの作るって教えてくれてりゃもう一房買うのにさぁ。知らねーもん、ただ食うと思うだろよバナナなんて。ねえ牧さん」
「俺は料理の類は全くやらんから、お前らが買ってた食材の使いみちなど全部わからんかったよ」
 牧の頬をランタンの火が優しく照らしているせいか、それとも甘いもの好きだからだろうか。微笑みがいつもより柔らかくて、その頬に触れてみたくなる。
 越野はそんなことは考えないだろうが、文句がましく尖らせていた口先は軽い笑みに変わっていた。

 潜在的な闇への恐怖を思い起こさせる、音すら吸い込みそうな漆黒の森が奥に広がっているけれど。焚き火の音と煙。そしてチロチロと燃えるオレンジの炎が恐怖心を薄れさせてくれる。
 炎ごしに夜の森に目をやっていた牧の唇からマグが離れた。
「やけに落ち着く……。コーヒーのいい香りのせいかな」
「コーヒー入れるの上手いんだなお前」
 越野は二人からの素直な賛辞に照れたようで、一瞬口元を歪める。
「ま、まぁな。家の道具で入れたらこんなもんじゃねーけどな」
「道具持ってくりゃ良かったじゃん」
「キャンプドタキャンしようとしてたてめーが言う? 今回の道具選別だってほとんど俺がやったんだぜ? コーヒー褒める前に俺にもっと感謝しやがれ。てめーは昔から感謝が足りねーんだよ、感謝がぁ」
「どーも」
「だぁらそれが足んねー言われる理由だっつの!」
 照れ隠しで噛み付く越野は学生時代と変わらない。懐かしさに苦笑いが漏れる。
「牧さんも大変すね、こんな奴と大学卒業してまでコンビ組まされて。しかもこいつなんてマイペースで生意気だから先輩に睨まれて大変なのに。大学時代なんて組まされたら連帯責任で酷い目にあったでしょ」
「大学のこいつまで随分詳しいんだな」
「お前、俺の追っかけやってんの?」
「やってねーわクソが! こんな奴がプロんなっても相方なんて牧さんが気の毒過ぎるわ!」
「こいつがいい奴なのは越野の方が俺より前から知ってただろ」
 それにしても相方というとお笑いコンビみたいだなと牧が笑うと、越野は「牧さん甘やかしすぎ!」と地団駄を踏んで悔しがった。

 焚き火やギアに興味を示し、簡単過ぎるデザートにも喜ぶ牧に仙道は密かに胸を痛めていた。
 もし俺がもっと早くに、このキャンプだけでもと気持ちを切り替えられていたら。食材もギア選びも越野頼りにせずに、俺がもっとマシな料理を作って食べさせられていた。今座っている椅子だってそうだ。本気で探せばサイドテーブルも付いた立派なチェアだってあるのだから、長い足を持て余すことなくゆったり座らせてあげられたのに。
 初めての失恋でどん底の時に当の失恋相手と四六時中一緒にいるのが辛いからと邪険にしたり、面白くもなければ不便なだけのキャンプに嫌気を感じさせ一足先に彼を帰らせようだなんて。少し落ち着いて考えればそれこそ忍耐強い牧さんには“ ない ”話だというのに。連日の泥酔で腐りきっていた俺は何をするのも嫌になっていて、考え方もダメダメで、結局こんなことになって。俺は牧さんにも越野にも、迷惑しかかけていないダメ野郎に成り下がっている……。

 会話も長いこと途切れており、薪もそろそろ終わる。仙道は静けさを乱さない低い声で話しかけた。
「……汗流しに行きますか? つーても、管理棟のコインシャワーすけど」
「おー、いいな。石鹸だけじゃなくシャンプーも持ってくれば良かったなぁ」
 罪悪感を加速させるほど嬉しそうな顔を向けられ、沈痛な面持ちになった仙道が口を開くより先に越野が立ち上がる。
「少し多めに持ってきてるんで大丈夫! 今とってきます」
 あれほどダンプだと頑なに何年も呼び続け、本人の前以外では敬称をつけなかったくせに。越野はすっかり牧さんの犬になっている。牧さんはもともと年下に好かれやすいから珍しいことではないので驚きはない。でもあまり彼が好かれ過ぎるのも余計なライバルを増やす種……と、まだ彼の全方向に気を揉んでしまう癖が治らない自分に苦笑いが漏れた。
「良かったな」
「え」
 急に声をかけられて顔をむけると、柔らかな微笑が嬉しそうに囁く。
「人が楽しそうだと、つられて自分も楽しい気になるよな」
 唐突で理解できず相槌を返すことすらできない仙道を残し、越野に続いて牧もテントに入っていった。
「あ、これリンスインシャンプー。使って下さい」
「ありがとう。あぁ、タオルはいいよ、持ってきたから」
「実は俺、ここのコインシャワー使ったことないんすよ。前来た時は故障中で。だからちょっと楽しみなんすよね」
「じゃあ俺はいい時に来たな」
 テントから漏れ聞こえる二人の楽しそうな会話に、漸く理解する。越野の楽しそうな様子につられて不機嫌だった俺が少し楽しそうになれていて『良かったな』といったのだろう。嫌々でも外に出て人と一緒に過ごす意味があっただろと、言われた気がした。

 ぐずったままのガキの機嫌が戻ったと解されたような恥ずかしさで、背中が焼けるように熱い。そういう意味で苦笑いが出たわけではなかったのに。
 しかし今はもう彼と二人きりになっても焼けるような胸の痛みはなくなっている……から、彼らの楽しそうな様子に一日触れていたのが全くの無関係とも言い切れない。
「まいったな………」
 仙道は小さく零すと、荒っぽく炭を寄せて片付けだした。
 ついでに仕舞おうとした手にしたフライパンは綺麗に拭ったはずなのに、ふわりと甘い香りがした。……ような気がして、仙道は困ったように眉根を寄せた。














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実在のキャンプ場をモデルに書いてますが、実は簡易シャワーではなく風呂棟があります。
話の都合上、簡易シャワーにしちゃいましたが、気にしないでもらえたら嬉しいです。


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