明日からやっと部活に参加できる。とはいえ短時間メニューだから実際にはそう忙しくなるわけではない。それなのに確たる根拠はないが、今日を逃せばもう仙道に会いに出向けなくなる奇妙な確信が牧の足を急がせた。
結果、陵南高校近くのバス停前に、昨日仙道達が集っていた時刻よりも50分ほど早く到着した。
仙道が昨日のように仲間とやって来ても、もとからバスを待っている体で自分が立っていれば不審に思われることはないだろう。今日は海南の部活休みと思われるように振る舞えば……いや、もう多少誰に不審に思われようと仙道を連れ出そう。そして見舞いの礼を述べて、次に会う日を決めるのだ。
(俺には借りがある。礼をするため会いに行くのはおかしなことじゃない)
二日もここに赴いているが、俺は仙道を追いかけまわしているストーカーではないと自分に言い聞かせる。それでも仙道に引かれたらという一抹の不安で猫背になっては己を無理やり奮い立たせて、牧はあえて胸を張るよう意識せねばならなかった。
牧がバス停に立ってから四本のバスが行き過ぎていた。
「もうこんな時間か……」
途中からあまり見なくなっていた腕時計を確認して牧が呟く。きっと仙道はとっくに違う出口から出たか、今日は学校体育館ではない場所での練習だったのだろう。
藍色と紺色が彩る夜空に溜息を零すと、左折してきた五本目の駅前行きのバスに乗り込んだ。
最後尾に座った牧は発車してからも未練がましく、誰もいないバス停が見えなくなるまで後ろの窓ガラスから見つめていた。
* * * * *
食欲はなくても食べないという選択肢のない牧は、富江に呼ばれてのろのろと食卓についた。
「いただきます。……あれ、父さんは?」
「今夜は宿直〜。あらぁ、やっぱりこの男の子、この子のことが好きだったのねぇ」
録画番組を見ながらの富江の返事の後半はひとり言だ。しかし牧はテレビ画面に映されている人物を見てつい聞いてしまう。
「“この子”って、背広着てるあの男?」
「そうそう。この美形君がこの可愛いスーツ君を好きってこと」
「ふーん……」
気のない返事をする息子へ富江はドラマのこれまでの粗筋を語って聞かせる。しかし牧は最近は同性恋愛のドラマなんてあるのかと思っただけで、内容には興味がないため相槌もそこそこに黙々と食事を続ける。
「そういえばあんたも、男の子と付き合ってたっけねぇ。えーと、ほら、大ちゃん。大ちゃん、今どうしてんのかしら」
「前にも教えただろ、諸星は中学で彼女出来たって。大体、あれは付き合ってたって言えるような代物じゃないって何度言えばわかるんだよ」
小学二年生の正月の話をまた蒸し返さるのはごめんだと牧は不機嫌さを顔に出したが、富江は一向に気にしてないどころか、懐かしそうに続ける。
「だって二人とも可愛かったんだもの〜。家に帰りたくなくて『オレ、シンちゃんちの子になりたい』って泣く大ちゃんにあんたが『それはケッコンしないとムリだよ』って聞きかじりの知識で返すから。大ちゃんむきになっちゃって、『じゃあオレ、シンちゃんをおヨメにさんにする! シンちゃんオレとケッコンして!』って、ねぇ」
にやにやしている母親の頭に拳骨を落として黙らせたい気持ちをぐっと堪え、牧は黙って味噌汁をすする。下手に嫌がれば余計に長くなるのは経験済みだ。
息子の返事がないことに慣れている富江は、気にかけもせず話し続ける。
「そしたらあんた『ヨメはイヤだ、女みたいじゃん』ってズレた返事するもんだから、大ちゃんまで『じゃあオレがヨメになるから、しんちゃんはパパになりなよ』だもん。大ちゃんのお母さんと吹き出しそうになるのを必死で我慢したところでよ。あんたが『じゃあいいよ』って! いいんかいそれで!!」
富江は片手突っ込みの仕草をきめると「ぶはははは! 傑作〜おかしくて死にそう〜! あの頃の二人の可愛いことったら!」と盛大にひとりで笑いだした。
同じ話を何度も繰り返してきてよくもまあ、毎度そう大仰に笑えるものだ。こうなってしまえば場を去るしか富江を黙らせる手立てはない。富江の暴走をやんわりと止めてくれる父もいないのだから。
牧は残り少ないおかずを行儀悪く、皿に口を直接つけてかきこむ。
「そういえばバレンタインには大ちゃんからハート型のピーナッツチョコをもらってたわねぇ、不二家の。そしたらあんたホワイトデー用に『これ買って。アメなのに箱に入っててカッコイイから』って。えーと、ほら。なんて飴だっけ」
「チェルシーのヨーグルト・スカッチ。ごちそうさま」
これまた教えないといつまでたっても『ねーねー、教えなさいよ』と付きまとわれるため、牧はさっさと答えて席を立った。ただでさえ今日は空振りのダメージが大きいのに、これ以上くだらない昔話に付き合わされては、流石に酷い口のひとつやふたつきいてしまいそうだ。そうなったら好戦的な富江の口撃にあい、返り討ちの特大ダメージは必至だ。
「三月末に転校しなきゃ続いてたかもしれないよねぇ。たった三ヶ月で幼い二人の恋を大人が無情にも引き裂いちゃって……って、あら? もういない」
富江がテレビの方を向いている隙に、牧は音もなく居間から姿を消していた。
* * * * *
湯船にしっかりつかったのに疲れがとれた気がしないのは、がらにもなく落ち込んでいるからか。
(そうそう偶然が起こるわけがない)
濡れた髪を乱暴にタオルでがしがしと擦れば、床に水滴がパラパラと散った。
そんな滴にすら、嵐の日にも会いに来た仙道の濡れたTシャツが張り付く肩や乱れた髪を思い出してしまう自分が哀しい。あいつは俺への連絡を忘れてしまったどころか、俺を思い出すことすらなくなってしまっているのか……?
晩飯の時に富江が話していたことをふいに思い出す。通信手段を持たない俺と諸星の幼い付き合いは、距離ができたらあっさり自然消滅した。一応年賀状だけは続いているから、高校ではたまにだが互いの試合を見たり、顔を合わせば雑談くらいはする。しかし仲が良かった当時のことは、もう互いの記憶に僅かに残る程度だ。
そんな小学生の頃とは違い連絡を取りあえる術を互いに持っていながら、仙道とは連絡先を交換し合わなかった。俺はただのうっかりだが、仙道が俺ほどまぬけとは思えない。となれば、あの病院でだけ明日が続く関係を、あいつは意図的に望んでいた……?
仙道が毎日のように残してくれた『また明日』の言葉がどれほど自分にとって特別で大事なものだったかを、会えなくなってから思い知らされて。俺は今頃になって無様に戸惑い焦っている。
会えないことがこれほどもどかしくて淋しく感じる自分は、なにかがおかしい。もうお礼がどうこうのレベルはとっくに越している。
あいつの考えなどわかる由もないけれど。少なくとも俺は退院した今もあいつと会いたいし、連絡を取り合いたいと願っている。毎日会ったり連絡をしあえるほどの高望みはしない、から。せめて月に一度。それがダメなら二ヵ月、いや三ヶ月に一度でもいい、会いたい。一緒に飯を食ったりたわいない話をして笑いあいたいんだ、お前と。いつの間にか俺たちの間に生まれていた、あの心地よい空気を。このまま自然消滅させてしまいたくないんだよ……。
どうか今夜。寝ているのを起こされてもかまわない。仙道が電話をくれますように。
「…………俺が神頼みか」
らしくない自分に牧は苦く笑い零すと、枕元にスマホを置いて瞼を閉じた。
* * * * * * * * * *
カーテンの隙間から差し込む強い光が牧を強制的に眠りから引き剥がす。
目元を軽くこすると、牧はすぐにスマホへと手を伸ばすしたが、一瞥するなり再び枕元に戻して荒々しく体をうつ伏せた。ベッドが軋む音はまるで牧の胸中を代弁しているかのように不快に響いた。
ここまで連絡をしてこないということは、俺と二人で会う気はもうないということか。そう思われそうな理由など、黙って退院したことしか思い当たらない。あれだけ世話になっておきながら、礼儀知らずで薄情な奴だと呆れられてしまったとしか。
今まで俺は人に嫌われても、特に理由などなくとも合わない奴はいるものだし、お互い様だと割り切ってしまえた。去る者を追うより、来る者や出会う者を大事にすればいい。そう転校やクラス替え、部活などで学んできていたから。
けれど仙道にだけはそう簡単に割り切れない。……あいつには嫌われたくない、弁明の機会を作りたい。だって俺はこれからもっと─── 付き合えまではしなくとも、近しくなりたいのだ。
どうして自分が仙道に好かれていると誤解をしたのか、今ならわかる。本当は自分があいつに惹かれていたから、手頃な理由をみつけて都合よく誤解したのだと。
冷静に考えてみれば、仙道の母親があの病院に入院していなかったからといって、俺に会うために毎日通ったと考えるのは短絡過ぎだ。むしろ仙道にとって毎日通うほど大事な人─── 例えば恋人が入院しており、その存在を隠したくて、俺には探りを入れられる心配のない間柄(母親)を便宜上伝えたと考えるほうがしっくりくる。婦人科と言ったのも深く聞かれないための予防線だろう。
最初からあいつが言っていた通り、俺の所へ寄っていたのは“ついで”なだけで。病院にいない俺にはわざわざ連絡を取る必要も興味も最初からなく。焼き肉の話で喜んでいたのも社交辞令のようなものだったのだ。
そう仮定してみれば連絡が来ないことも含めて、全て合点がいく。部活後の見舞いが今も続いているならば、帰宅は毎晩遅いはず。ならば毎日忙しくて電話をかけることなど忘れても不思議じゃない。
何も言わずに退院したからという程度の理由で無視をするような奴とは思えない分、仮定は俺の中でじわじわと確信に変わっていく。
(あいつが毎日通うほど大事にしている恋人……か)
胸と目の奥がズキズキと痛むが、気胸の痛みとは全く違う。これが失恋による痛みというものか。失恋と認識すれば胸苦しさに拍車がかかる。
毎日あいつが来たら何を話そうと考えたのも、あいつが好きなものを覚えておこうとしたのも。あいつの涙を消したくて、言うつもりのなかったことまで暴露してしまったのも。あいつと一緒に食いたくて、腹が減っていなくても食ったのも。食ってみたら美味いと思えたのも。思い起こせば全部、ほぼ最初から仙道に惹かれていたんだ。
痛みと胸苦しさの深さ具合から、重症度を今更ながらに思い知らされる。
あまりに救いようのないバカな自分。ガタイは成長し多少の知恵はついたものの、根本はなにも変わっちゃいない。呑気で鈍くて頭の悪いガキのままな自分に心底腹が立つ。
「…………高嶺の花なのに都合いい誤解なんてしたから、バチが当たったかな」
喜び浮かれていたここ数日の自分が哀れで情けない。ここまでくると痛過ぎて笑えて、乾いた唇が笑うように引きつる。
笑ってしまおうとしたのに声にすらならず、やがてため息混じりの独白に変化する。
「滑稽過ぎてまいる…………ダセェ」
痛む目の奥から熱いものがこみあげてきて、目に水の膜をはる。声が僅かに滲んでいたせいもあって、惨め具合は最高潮に達していた。
仙道が忙しい理由を思えば悲しくもあるが、それでも仙道が連絡をくれなかったことで、愚かな勘違いを披露しなくてすんだことは心底助かった。
もしも仙道と連絡がとれて一緒に飯でも食っていたら。楽しい時間を終わらせたくない俺はきっと、あいつが言い出さないならと自ら告白をしたかもしれない。そして呆れ断られ、しかもゲイ(正しくはバイだが)バレでどん引かれて……。そんな最悪の自爆の事態を避けられて本当に命拾いをした。
父と結婚しているが母は性的指向にフラットだ。そのせいかは定かではないが、俺は昔から恋愛対象の基準に性別はない。しかし大多数の男は女という性別がまず恋愛条件の基本だ。種の保存からいっても当然ともいえる。
そんな当たり前のことすら頭からすっ飛ぶほどに、仙道が俺を好き(誤解だが)だと気付いた喜びは凄まじかった。諸星以来誰とも付き合ってない、理想の恋人像すら思い浮かべたこともない、恋愛経験の浅い俺に、だ。あの仙道彰なんだぞ? あれほど魅力的な恋人が自分に出来るかもなんて、寝耳に水・青天の霹靂過ぎた。優しくて格好良くて面白くて美形で、俺と同程度の体力を兼ね備えた仙道彰という恋人が出来るチャンス到来なんだぞ?
「そりゃまあ……俺でなくても世間の九割は、誤解しちまったら浮かれてまともな思考なんて出来なくなるか」
低いのに爽やかな声で俺の名を呼び、甘いマスクから白い歯を覗かせる仙道がまた脳裏に浮かんでくる。浮かれて想像した数々のデートプランまでも。
約束もしてないのにバスに乗ってまで出向き、炎天下の中で待ってみたり。トイレや風呂に入ってる時にも連絡がきてやしないかと気にしたり。バス停で長々と待ってみたり。思い返すほどに行動を伴う己の重症っぷりが哀れ過ぎて、記憶ごとここ数日間の自分の存在全てを抹消したくなる。
それらが無理でもこのまま仙道とずっと会わなければ、バスケを通しての俺と、病院で会っていた俺だけが仙道に残る。─── それは救いだ。もう個人的にあいつとは会えない俺にとっての。
いつか時間が経てば俺だって、ただ早合点しただけだと。若気の至りと苦笑いで思い返せる日も来るかもしれない。きっと高等監督が先日言っていたように、結構な時間を要するのだろうけれど。
深く長い息を吐き出しきると、牧は重だるい体をやっと起こした。目覚まし時計に目をやれば、起きているのに飯も食わずと長い間ぐだぐだどろりと淀んでいた自分に呆れる。
「そろそろ用意すっか……」
明るい外とは対照的なほど暗い気持ちを少しでもどうにかしてから出かけねばと、冷水を浴びに風呂場へと向かった。
* * * * *
目眩がするほど強烈な夏の日差しから逃げるように、牧は日陰を選んで歩いた。告白もしていないのに朝から失恋気分にどっぷり浸っているせいか、お天道さまの下を長いこと歩いているとミイラのように干からびてしまう気がして。
日差しや人をことさらに避けて歩けば、気分は罪人だ。普通にしていたって強面なのに、きっと今は相当極悪な面にもなっているだろうから、部活仲間にすらも会いたくない。ペースの違いによる乱れを生まないように、牧は他の部員達と時間がずらされている。それ以上の他意はない高頭の采配が、今の牧には最高にありがたい配慮だった。
精一杯日陰を選んで登校しても、容赦のない高い気温と湿度は避けようがない。部室へ向かう渡り廊下を歩きながら、牧は額に滲んだ汗を乱暴に手で拭う。
「無駄なあがきだったな」
「今、なんて言ったんすか?」
独り言を聞き返され、てっきり周囲には誰もいないと思っていた牧は驚きに歩を止めて声がした方向へ振り向く。
「ちわす。もう部活出れるようになったんすか? 大丈夫?」
そこには陵南ジャージとTシャツ姿の仙道が立っていた。
日差しを跳ね返す白いTシャツが眩し過ぎて牧は瞳を眇めながら、会いたさが見せた白昼夢かと疑う。
「せん、どう?」
「はい。今日も暑ぃすねぇ」
のんびりとした声音は半分空気に溶けるようで、まだ牧の中で仙道は実在感がなく、半信半疑だ。
返事もよこさず薄く唇を開いたまま棒立ちの牧にかまわず、仙道は明るくつげる。
「退院おめでとうございます。一日早まったんすね、行ったらいなかったから退院祝い渡せませんでしたよ〜」
体の脇にだらりと降ろされていた牧の右手を掴みあげると、仙道はしっかりと両手で包むような握手をしてきた。込められる手指の力と体温と湿気。短い接触ながら牧は漸く、目の前の存在は実在で、今このときは現実であると確信できた。途端に、ぶわりと気持ちが高揚する。
「牧さん?」
「会えて、良かった」
「はは。ホントに」
Tシャツに負けないほど眩しく笑う仙道に牧は胸がいっぱいになり、ただ深く頷き返す。こいつに恋人がいたってなんだって、どうでもいい。前と同じ笑顔で話しかけてくれた。もう十分じゃないか。
つい先ほどまで罪人みたいだった自分を、仙道の笑みが一瞬で浄化してくれた。
「偶然に感謝だ」
牧は今日はじめての笑みを仙道へと向けていた。
笑みを受け止めた仙道は少しだけ眉尻を下げ、後頭部をカリカリとかく。
「なんか感謝してくれてるのに悪ぃんだけど、偶然じゃねーんす」
今日くらいから牧さん部活に顔出すんかなと思ってと話しながら、仙道は肩から下げているドラムバッグを開けて、牧へビニール袋ごと小箱を渡してきた。
「実は待ち伏せしてたんです、あんたを。退院祝いのケーキ、約束してたよね。今回はショートケーキ二個にしときました。保冷剤多目に貰ったから、夕方くらいまで持つけど、早く会えて良かった。……牧さん?」
「あ、あぁ。ありがとう……」
仙道が俺に会いたくて待ち伏せ。そんなことが嬉しくて喉が詰まるなんて。
指先が震えないように気をつけながら、牧はそっと両手で受け取る。
「あのさ、牧さんもし時間あるなら、今、どっかその辺で食っちゃいません? 生ものの荷物って気になるでしょ」
ケーキ一個くらい俺はここで立ち食いでも平気すけどと続けながら、適当な場所を探すように周囲を見渡す仙道の額が汗で光った。
「日陰に移動しよう。ここは暑い」
提案に頷いた仙道は踵を返した牧の後ろを、覚えてしまったあの歩調でついてきた。
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