Sugared lies.  vol.02


 一晩くらいで肺が劇的に膨らむわけもなく。四日後に手術と言い渡された。
 誰かに現状を聞いてもらいたいといった気持ちは全くなかったが、昨夜仙道に手術になるかもと話したせいだろうか。おかしなもので昨日のような落ち込みはなく、検査後はいつものルーティンを淡々とこなせて宿題もはかどった。

 夕食のトレイを下げがてら牧はディールームへ向かった。
「そろそろ来るのかな……」
 窓際の席に座り壁掛け時計をぼんやりと眺めていたら、「こんばんは、牧さん」と背後から仙道に小さく声をかけられた。
 気配に気付かなかったが驚かずにすんだ牧はゆっくりと首だけ捩って仙道を見上げる。
「よう。今日はジャージじゃないんだな」
 昨日は陵南バスケ部のジャージ姿だったが、今はTシャツとジーンズだ。190と高身長ながら俺より細身なせいだろうか、至って普通の服装なのにやたら爽やかに見える。そのままで雑誌の一ページを飾れそうだ。
 仙道は己のTシャツの首元を引っ張りながら眉を僅かに下げる。
「部活から真っ直ぐ来たかったけど、今日すげー暑かったんすよ。やたら汗かいちまったけど着替えがなくて、一旦家帰ってから来たんです。牧さんは昨日と髪型が違いますね。オールバックって初めて見たかも。カッコいっすね」
 モデルのような男に笑顔で世辞を言われて、眉間に皺が寄る自分を自覚する。
「……この機械のせいでシャワーも浴びれないんだ。だから今日は濡れタオルで頭を拭いてみたんだが。そのあとどうにもならなくて、櫛で流しただけだ」
 両腕を上げる動きは胸や背中が痛むので、実際は母親に頭を拭いてもらったのだが、そこは伏せておく。
 機械と繋がっている管が刺さっている左わき腹へ手を当ててみせると、仙道は納得したように頷いた。
「大変すね……。あ、前、リーゼントっぽいのしてましたよね。あれもカッコ良かったな〜。牧さんってお洒落すよね。俺なんて中学からずっとこれすよ」
 額を全て出して髪の上半分を全部逆立て、側面や後ろは流す独特のスタイルを仙道が指差す。中学からこれとは相当目立っていただろうな……などと、牧はまじまじと仙道の髪型を観察してしまう。
「そんな手が込んだ頭を中学からほぼ毎日か。凄いな、お前こそ洒落じゃねぇか」
「全然すよ。頭洗ってタオルでざっと拭いて、頭を下にしてここら辺りからドライヤーの強風あてて。ハードスプレーぶっかけてから冷風あてて。あとは手で横や後ろを撫でつけたら終わりすもん。簡単でしょ?」
 椅子に座ったまま仙道は自分のヘソを見るように頭を下げ、ジェスチャーでご丁寧に教えてくれる。
「いや、十分手間だ。まあ俺もリーゼントの時は手間かけてたけどな〜。だんだん面倒になってリーゼントとオールバックの中間みたいになっていって……」
 うんうんと頷いて聞きながら仙道に自分の髪を見られ、牧は洗っていない引け目で口をつぐんだ。そうまじまじと見るなと言いたいが、自分が先に見ていたために言い出せない。早くこの話題を変えてしまいたかった。
 そんな牧の心情に気付いていない仙道は「なるほどねぇ」とのんびりと呟くと、テーブルの上に腕を組んだ。
「真ん中分けで前髪下ろしてる髪型が俺は一番イイと思うんすけど。それも楽さを追求した結果なんすか?」
 髪型を変えた理由は見当がついているのだろう。そのくせ目をキラキラさせて聞いてくるとはこの野郎め……というのを牧はわざと顔に出した。
 仙道は手刀をきりながら「さーせん。けどマジ一番似合ってますよ。一番若々しいすもん」と、牧が口を開くより先に楽しそうに笑い零す。
「お前はそうやって笑うけどな、魚住より俺は若く見えてるだろ。ケホコホンッ……あいつこそOBだろうが」
 口を尖らせる牧に仙道は「確かに! 魚住さんなんて監督レベルすよ!」と更に笑いを深めた。
 牧の頭には桜木の仲間に監督と呼ばれた過去が過ぎったが、あえて沈黙を決め込んだ。

 頼んでいた雑誌を受け取って礼を述べたところで、はたと牧は全く別のことを思い出した。
「あのさ、昨日お前が帰ってから気付いたんだが。俺が呼吸器科・外科にかかっているとどうやって知ったんだ? 俺が教えるまで病名知らなかったよな?」
「そすよ。小児科・婦人科・耳鼻科以外の各階のナースステーションに行って『見舞いに来たんすけど、牧紳一さんの部屋番号教えて下さい』って。怪我かと思って最初整形に行ったけど違ったんで、その上の階のここに聞いたらビンゴでした」
 だから一回しか迷惑かけないですみましたよ、と仙道は照れくさそうに後頭部をかいた。
「……そこまでしたのか」
 つい漏れた小さな呟きを拾った仙道の片頬がぴくりとつるように動いた。
「っ……引きますよね。なんか自分でも内心少し引いたんすけど。すんません」
「おい、違うぞ。勘違いしないでくれ。手間をかけたなと思ったんだ。ありがとうな」
 返事のかわりによこした弱い笑みが牧の胸を詰まらせる。
「そこまでさせてしまって悪かったって意味で言ったんだ。悪くとらんでくッゲッホゲホン」
 焦って勢いづいてしまい、また咳が出てしまった。

 まだ仙道の目が不安そうなのは俺の体を心配してか。それともまだ誤解が消えないせいなのか。何の気なしに漏らした自分の迂闊な一言が心底腹立たしい。
「俺は部活の奴等もだがクラスの奴にも病院は教えていない。メールやラインで水臭いとか教えろと散々言われてるが、退院したら教えると返してる。…ケホッ……だから見舞いは家族だけでさ」
 長い睫毛が半分ほど隠している黒い瞳を見ながら話していると、体裁を保とうとか少しは格好つけねばという気が薄れていく。それでなくとも、こんな病衣を着て管をぶら下げて機械を連れて歩いているくせに。
 牧はそろりと静かに一呼吸してから続ける。
「けどさ。自分が望んだとはいえ、やっぱり家族とだけってのは会話が退屈でな。ゲホンッ、父は無口で会話にならんし、母は稽古と隣のおばさんとの話ばかり。妹は部活に専念しろ、来なくていいと言ってあるからラインだけ。だからお前と話せて、昨日は楽しかったんだ」
 本当だぞ? と照れを押し隠して念を込めると、仙道が視線を上げてしっかりと見つめ返してきた。
「……妹さんいるんだ。いくつ離れてるんすか? 何部?」
「中三で吹奏楽部。高校は吹奏楽の強いとこに入ると息巻いてる」
 吹奏楽部も体育会系すよね〜と、頷く顔はよく見知ったものに戻っていた。

 牧は安堵し背もたれに身を預けたが、体を反る動きで痛みが走った。
 仕方なくまたテーブルに肘をついて背中を丸めれば痛みは消えるが、楽でもない。管がなければまだ楽なのにと眉間に皺が寄る。
 仙道が心配そうに、でも黙って見守っていることに気付いた牧は、あえて明るい声で訊いた。
「お前のとこは何人家族なんだ?」
「うち? うちは四人。父・母・姉・俺。姉は大学二年。牧さんとこと逆すね」
「へえ……。お姉さんも毎日見舞いに来てるのか?」
「いや、俺だけ。姉は京都の大学だし、父は単身赴任で愛知なんで」
「愛知か。愛知はバスケットをやってる昔馴染みがいる。愛和学院三年の諸星大というんだが、知ってるか?」
「あー……聞いたことがあるよーな、ないよーな? なかったと言えばある気も……しますよね?」
「俺に聞くなよ」
 大真面目にとぼけた口ぶりが妙におかしくて、牧は胸を押さえながらも笑ってしまった。


 今度は会話が途切れても気詰まりさはなかった。夏の遅い夜がゆっくりと街を青く染めていく。五階から暮れていく景色を誰かと見るのもいいものだ。
 紙コップに口をつけると遠慮がちな視線を寄越されたため、牧は首を傾げた。
「あの……。肺は膨らんだんですかね?」
「ああ、すまん。言おうと思ってたんだ。肺な〜、ダメだったんだよ。入院初日からほんの少し膨らんだ程度でさ。手術は四日後の午前十一時からだと」
「そうなんだ……。手術って部分麻酔? 時間はどのくらいの予定なんすか?」
「全身麻酔で一〜二時間ってとこらしい。手術当日はICUで一泊らしいから、手術当日は寄ってくれても会えない」
「ICUって……めっちゃ緊急の患者が運び込まれるイメージなんすけど」
 怯えたように眉根を寄せられ、牧は微苦笑を漏らした。
「俺も最初聞いた時は同じように思って少しビビった。けど、麻酔が切れるまではほとんどの術後の患者はそこに運ばれるんだと。簡単な手術の人なら手術当日でも病室に戻れるそうだ。まあ俺の場合は最低でも一泊は確定と言われたが」
「それって……やっぱ大変な手術の部類ってことじゃないすか」
「うーん……。そういうわけでもないんじゃないかな? とにかく一泊と言われてしまえば嫌とも言えんし。泊まってくるさ」
 牧が肩を軽く竦めてみせれば、暗い顔になっていた仙道がくすりと笑みを零した。
「なんか妙な宿に強制的に泊まらされる羽目になった旅人みてー。ICU泊、快適だといっすね。寝れるといーけど」
「俺はけっこうどこでも良く寝れる方だから。大丈夫だろ」
「そいつは頼もしい」
 指先だけで拍手をされて、牧は意外さを隠さずに問うた。
「お前はどこでも寝れそうだと勝手に思っていたが。実は寝る場所や枕を選ぶたちなのか?」
「全然。合宿の煎餅布団、体育館のマットレス、机の天板で組んだ腕枕。なんなら公園のベンチでも。その気になったらどこでも俺の寝床です」
「俺よりお前の方がよっぽど頼もしいじゃねーか。体育館のマットレスで寝てんなよ」
 呆れて笑ったのに、仙道は何故か嬉しそうに頬を緩ませた。

「話戻しますけど俺、全身麻酔どころか部分麻酔も経験ないんすよ。ICUも海外映画で見たくらいしか知識なくて。終わったら色々聞かせて下さいよ」
「わかった。俺も全部お初だから、体験レポーター気分で受けてくる」
『「突撃☆牧紳一のドキドキッ全麻の手術体験! ICUにも入っちゃうゾ☆」』ってな感じすかね〜。楽しみだ〜」
仙道は何かの番組の予告のつもりか、高い声と両肘を曲げ両脇を絞めるポーズをしてウィンクまでかました。似合わない滑稽な仕草に思わず吹き出してしまい、牧は痛む胸をかばって手で押さえながら前のめりに笑った。
「すんません、ふざけ過ぎました。大丈夫すか?」
「まいった……。お前のアホさに気が抜けた〜。いいわ、俺もそんな感じで気楽に受けてくるわ。あ、さっきのゼンマってなんだ?」
「全身麻酔を略してみました。ピンクな全身マッサージの略じゃねっすよ?」
「お前、その顔でそういうギャグ言うんだな」
「んん? どういう顔すかね?」
 顎に人差し指をあてて、キリリとしたドヤ顔を作られて。牧は胸を押さえながら「イタタタタ」と再び笑った。

 話の合間にせっせと運んでくれた三杯目の冷水がなくなった頃。
「……少し検索してみたんですけど。手術したほうが自然治癒の場合よりは再発少ないみたいすよ」
 仙道は真面目な面持ちで言ってきた。
「まあ、いいも悪いも手術しなけりゃ退院できないんだ。さっさとしてもらったらさっさと出れるようになるだろ」
「いいこと言いますねぇ。そのとーりすよ。さくっとやってもらっちゃって、早く元気になって下さいよ。んで、1on1やりましょーや。俺、いい場所知ってんすよ」
 最初は仙道の手前、少々強がってもいたのだが。仙道の軽い感じに引っ張られて、自分もその気になって気が軽くなっていた。
 そうだ、さっさと治してもらって早く退院しないと。筋力だって落ちていくし、バスケットから離れて感覚を鈍らせたくない。

 1on1が出来る穴場の場所の話を聞いているうちにうずうずしてくる。
「呼吸器科の手術割り当て日で決まるんだよ。だから四日後なんだと。あーあ、明日にでも手術してもらいたくなっちまったぜ」
 溜息交じりの牧の言葉に仙道は目を細めた。
「牧さん気付いてる? 昨日より格段に咳が減ってること。素人考えで言わせてもらうけど、手術までの四日間の間にも少しは良くなったりもあるんじゃないかな。どうせ手術受けるなら、万全とまではいかなくても備えて損はないと思うんすけど」
「素人考えって……。俺だって同じだよ」
「一週間や二週間バスケットから離れたって、何年も覚え込ませてきたあんたの体は忘れない。体力や筋肉が少々落ちたって、すぐ取り戻せますよ。焦るこたーなにもないす」
 実際プロでもシーズンオフには全く、ボールにも触らない選手もいるのを牧も知っていた。それでも焦っているのを見透かされたようで少々恥ずかしさを覚える。しかし静かで、本当にどうってことはないと信じさせるような落ち着いた仙道の声音が雨のように優しく、焦燥も羞恥も流していく。
「……そうだな。サンキュ」
「偉そうでしたかね? 実は映画かなんかでみたセリフをちょいと変えただけなんすけど」
 後頭部をかりかりとかく仙道の頬はほんのりと赤い。病室よりも涼しい場所なのに。
「なんだよ、仙道のくせにいいこと言うなーって思ったのに。そういうことは黙っとけよ」
「『仙道のくせに』とはなんすか。“くせに”とは」
 不満げな口元は照れ隠しだ。気付いてはいたが牧は仙道に合わせて、軽く肩をすくめてみせた。


 体が少々辛くても軽い会話で笑い、心配する瞳へ空元気で返す。
 そういうのも時には必要なのだろうか。気を張るうちに辛さが消えて、笑ううちに気分は上がっている。どれも一人では出来ないことだ。
 昨日今日と、仙道と過ごした時間にかなり救われている自分を思い返しながら、牧は手に下げていた袋の中を覗き込む。
 仙道が帰り際、『母さんに“飽きた”って突っ返されちまったんで。よかったら食って下さい』と渡してきた、みかんゼリーとプリン。
 白いビニールの中で透明のカップから覗くカスタード色や透明なオレンジ色が華やかしい。
 病院という白い空間に、仙道が残していった涼し気な彩。
「…………かなり日持ちするんだな」
 賞味期限を確認した牧は、大事に冷蔵庫の奥へしまった。



*  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 病室内の温度は常に適温を保たれているのに、午後に入ってからやたらと汗が出る。夕食後に体温を計ってみると少々熱が上がっていた。汗以外は特に不調はないため、仙道に会っても問題はない。しかし風呂に入れていないのに汗をかいている自分の臭いが気にかかる。
 寝間着だけでも取り換えておこうと、牧はベッドまわりのカーテンを閉めた。

 着替えは意外に手間がかかる。ドレーンを入れている箇所が引っ張られて痛んだり、着脱の動きで胸や背中が痛むため、動作にも制限がけっこうあるのだ。
 不自由ながらも寝間着の下を着替えたはいいが、上着の紐が点滴スタンドに似たカートのどこかに引っかかったようで脱げない。片腕を袖から抜きかけた状態で固定されてしまった。
 もうすぐ仙道が来てしまうという焦りで肌はますます汗ばみ、寝間着がさらに張り付いてしまう悪循環に牧は陥っていた。

 こんなことなら着替えなければ良かったと後悔しはじめたところで、カーテン越しに遠慮がちな声が聞こえてきた。
「失礼します……。あの、牧さん……いますか?」
「いる。入ってくれ」
「何か取り込み中なんでしょ? 俺、ディールームにいますからゆっくりどうぞ」
 控え目な声の主を引き留めるべく、牧は早口で言った。
「いいから入れ。すまんが手伝ってくれ」
「はい? んじゃ、おじゃまします……わっ! す、すんません」
 仙道はそろりとカーテンの隙間から顔を覗かせるなり驚きの声を上げ、急いで頭を引っ込めてしまう。
「なにを慌ててんだ。すまんが背中の方を見てくれないか。紐が引っかかってると思うんだ。着替え手伝ってくれよ」
「あ、はい。すんません、手伝います……」
 何故か忍び足で入ってきた仙道は素早く牧の背後にまわった。
「あー…金具の部分に紐が。これは一人じゃムリすよ。今はずします」
「頼む」
「…………はい、解けました。このまま脱がしていいんすか?」
「ああ。助かる」
 寝間着が上半身から離れて体が湿気と暑さから解放される。牧が小さく安堵の息を吐くのと同時に仙道が嫌そうに呟いた。
「うわ……。かなり痛そうすね、この管刺さってるとこ……。こんな丸見えなんだ。これじゃ機械とか関係なくシャワーなんて絶対無理でしょ」
 わき腹の胸腔ドレーンが刺さっている部分を見た仙道の苦渋に満ちた顔に牧は軽く笑った。
「見た目ほど痛くはない。刺す時は部分麻酔したしな。まあ、動きによっては胸腔内が痛むが、痛み止めを飲んでるから普通にしてれば平気だ」
「どんくらい切ったの?」
「2〜3cm程度だって言ってたな」
 うげぇと口元を歪めた仙道は「もう十分痛々しい……牧さん我慢強いんすね」と消え入りそうな声で零している。
 何故か本人より辛そうな仙道に牧は内心、手術はこれどころではないはずだぞと言いたいのを堪えるのに我慢を要した。

 棚の上に置いていた濡れタオルが目に入ったのだろう、仙道が尋ねてくる。
「もしかして体拭いてました?」
「上半身はまだ出来てない。あ、もしかして臭いこもってて臭いか?」
 体はたまに拭いているが頭は洗えていない。狭い場所にこもれば臭くて当然かと、牧は仙道に着替えを手伝わせたことを今更ながら激しく後悔する。
 しかし仙道はなんでもないというように軽く手をひらひら振ると、小さい洗面器にタオルを浸してから絞りだした。
「全然。ついでだし背中拭きますよ」
「え。いやいいよ、そこまでしなくて。上着を……」
 話している間に項から背中にかけてタオルのひやりとした感触が滑っていく。牧は一瞬、冷たさに首をすくめた。
 そっと肌の上をタオルが滑る度に涼しい風がほてりを収めて、汗による不快感を拭い去ってゆく。
「大丈夫? 冷たくないです? お客さん、どこか痒いところはありますか?」
 床屋を気取った仙道に申し訳なさも忘れて、牧はひっそりと笑った。
「平気だ。上手いもんだ、気持ちいいよ」
「いい背筋してますね〜。色も……俺も今年は焼こうかなぁ。牧さん行ってる日サロ紹介して下さいよ」
「俺は海で勝手に日焼けただけだ。そんなとこ通うかよ」
「タダでムラなく焼けてんだ。いーすね。じゃあ、ケツとか白いんすか?」
 たまに他者にきかれるふざけた質問を仙道が言うのは意外に感じた。普段は『地黒だから』と適当に返してきた。けれど背中を拭いてくれている仙道に同様の返事では悪い気もする。
 百聞は一見に如かずかなと、牧は寝間着の下を下着ごと少しずらしてみせた。
「こんなんだ」
 仙道の手が肩甲骨の上で止まった。

 待っても返事もなければ再開の気配すらないので牧は肩越しに仙道を見ようと首を捻ると、仙道は飛びのくように後ろへ離れた。そのまま牧へ背を向けて洗面器の水にタオルを浸しはじめた。仙道の両肩に力が入っているのが見て取れる。
「どうした?」
 腰を浮かせて下着と寝間着を引き上げる牧へ仙道は早口で返してくる。
「や、別に。何も。別になんもねっす。タオル、ぬるくなったんで」
「あー。もういいぞ。大分すっきりしたから」
「いやいや、あと少しだから。中途半端は俺がイヤっす」
 絞ったタオルで仙道は自分の顔をゴシゴシと荒く拭いてから、牧へ白い歯を見せた。
「……それ、俺の体拭いたタオルだぞ。顔なんて拭いていいのかよ」
 顔が汚れたんじゃないのかと眉間を狭めた牧を仙道はきょとんとした顔で見返してくる。
「へ? ……あ。いやいやいやいや、全然平気ですよ。同じ皮膚ですから!」
「皮膚……」
「あ、表現変でしたかね? 肌かな? いやいやいやいやいや、あはははは」
「仙道、悪いが声を少し抑えてくれ」
「すんませんっ」
 慌ててタオルで口を押えた仙道は、そのまま自分の首をタオルで拭いて「あ、ヤベ。またぬるくなった」と再び水に浸し直した。
 突然仙道はおかしくなってしまったけれど、紅潮した頬がどことなく楽しそうにも見える。
 話しかけると仙道の奇妙な言動が増えるため、牧はそっとしておこうと背を向けて座り直した。

 拭くのを再開した仙道は最初と同様に、まるで壊れ物を磨くように丁寧に優しく。うなじや背中、肩や二の腕までも拭いてくれた。
 牧はもう十分だと取り上げたタオルで首や腹を拭きながら仙道へ軽く頭を下げた。
「ありがとう。助かった」
「そんな、こんなことくらい。あ。そういや、なんか臭いを気にしてたみたいすけど。全然すよ? こんなんで気にするんなら、牧さんがうちの部室に来たら鼻曲がって泣いて逃げだすんじゃないかな。特に今時期なんてひでーもんすよ?」
 ベッドの足元に腰かけた仙道は何故かカーテンレールの辺りをじっと見つめて喋る。
 正直、何もない所なだけに……病院という場所柄、少々気味が悪い。しかし半裸の俺を見ろというのも変なので、牧は受け答えに意識を集中させる。
「それならうちの部だって負けん」
 夏場の部室など窓を全開にしていても、空調や温度調節されているたった六人しかいない病室とは比べ物にならない臭気と熱気がこもっている。
 牧は慣れた臭気を思い出しながら仙道の横顔、すっきりした額から綺麗な鼻筋のラインを見ていた。
 見られていることに気付いていない彼の唇がふわりと笑みを形作り、開かれる。
「俺……あんたの匂い好きですよ」
 仙道はやっと顔を向けてくると手を伸ばしてきた。
 泣くのを我慢して微笑むような表情と伸ばされた手に、牧は戸惑う。
 仙道は腰をずらして近付くと、牧の手からタオルを奪った。顔の距離が近い。
 ふいに、鼻をすんと鳴らすように仙道に首筋を嗅がれた牧は、反射的に仙道の顔を手で押しやった。急に捻る体勢をとったせいで胸と背中の両方が痛み、前屈みになる。
「いっ……いたたた。嗅ぐなよ、体拭いたって頭は臭いまんまなんだから」
「大丈夫ですか。……すんません、ふざけ過ぎました」
 背中を擦りながら謝る仙道の心配そうな瞳と、掌から伝わってくる高い熱。
 拭いてもらったせいで背中の温度が下がっていたのか、それとも仙道の体温が高いのか。そんなことに気を取られるうちに、牧の困惑は霧散していった。
「……もう平気だ。すまんが寝間着の上取ってくれ」
「手伝いますよ。この管んとこはどうするんすか?」
 添えられていた大きな手のひらが離れ、そこだけ急に冷たさを覚える。
「ああ、そこは自分で。すまんな。着替えというのはこんなに体を動かすことだったなんて、気胸になるまで知らなかったよ。甚平みたいな着やすい寝間着なのにさ。……あ、サンキュ」
 何故か饒舌になってしまう自分の顔を隠すように牧は俯き、意味もなく丁寧に紐を結んだ。

 再び汗をかくこともなく着替えはあっさりすんだ。汗を拭いてもらったおかげで、さらさらと乾いた布の感触が心地良い。
「よし。行くか」
「はい。あ、俺、水捨ててタオル洗ってきますから、先にディールーム行ってて下さい」
 そんなことは後で自分がと牧が伝えるより先に、仙道はカーテンを開けて足早に出て行ってしまった。
 横を通り過ぎていった仙道からは珍しく汗の匂いがした。



 病室ではほとんど音にならないような小声で会話していたが、ディールームでは普通に話が出来る。それに病室よりもクーラーが効いているし、何より電灯が明るい。
 たったそれだけのことなのに牧はくつろぎを覚えて、椅子の背もたれに深く体を預けた。
「ね、牧さん。自然気胸の別名って知ってます?」
 蛍光灯の光で明るさを増した微笑に問われ、牧の眉間にくっと皺が寄る。
「……ネットで入院前に調べた時に知った。お前がいいたいことも見当がつく」
「牧さんにぴったりすよね」
 何故か得意げに頷く仙道に、相手にしないつもりだったのについ口が出てしまう。
「どこがだよ! イケメンでもなければ細身でもない。当てはまるのは高身長くらいしかないのに、なに言ってんだ。例外過ぎて病名を言うのが恥ずかしいくらいだぜまったく」
「はあ? 牧さんなんてどこから見てもイケメンじゃん。スタイルもいいし。さっき知ったけど、上半身の筋肉パネェしさぁ」
「真顔で冗談を言うな。お前に似合う病名なんだから、お前がなれば良かったんだ」
 あしらうように鼻で笑った牧へ仙道が口をへの字に曲げる。
「なにそれ、ひっでー。あ。もし俺が入院したら、牧さん毎日見舞いに来てくれます?」
「行かない。行っても一週間程度の入院なら一回がせいぜいだ。毎日なんておかしいだろ」
 一瞬妙な間が空いた気がしたが、すぐに仙道は大仰な顔を作った。
「冷てぇなー。あーあ。母さんから明日ちょっと美味いもん頼まれたから、あんたにもって思ってたんだけどなー。んなこと言われちゃ、明日来にくくなっちまったなー」
「何の買い物を頼まれたんだよ」
「知ったって牧さんには関係ないんじゃねーの?」
「いいだろ、ヒントくらい」
 仙道は自分の顎先に人差し指をあてた。
「ヒント。鶏肉」
「肉? からあげくんか? 鳥串とか?」
「もうちょい食いでのあるもの。ヒントその2、クリスマスは超人気」
「わかった。ケンタッキーだろ」
「ピンポーン。ディールームで食べてる人を見かけて羨ましくなったんだって。レンジで熱々にして食うってきかなくて。まあ、たまに脂っこい物食いたくなる気もわかりますよね」
 確かにディールームでカップ麺食べてる人も多いから、匂いも大丈夫そうすよね。
 などと仙道の話を聞いているうちに、俄然食べたくなってしまう。
「おい、金出すから俺の分も。五個入りパック買ってきてくれよ」
「え〜? 一週間程度の入院に毎日見舞いに来たらおかしいんでしょー? 俺、もう四日も通ってるんですけどぉ」
「そんなに根に持つ話かよ」
 牧はポケットから財布を取り出して金を渡そうとした。しかし仙道は受け取る気がないようで、手を己の背中に回してしまう。
「釣りは駄賃にやるから、な? 聞いちまったら急に食べたくなったんだ、お前のせいでもあるんだぞ? 責任とれよ」
「商品名を口に出したのはあんたでしょ。でも、そっすね〜『仙道くんに明日も会いたいから、買ってきて』って言われたら、買って来ちまうかな〜」
 ひっこめていた手を仙道はテーブルの上に乗せて首を傾げてきた。
 もう一度、今度は仙道の左手をとって牧は千円札を押しつけて握らせる。
「イケメンの仙道君に明日も会いたい。俺の分も買ってきてくれ」
 仙道は牧の両手に包まれた自分の拳と牧の顔を交互に見て、長い睫毛をパサパサと瞬かせた。
「……本当に言ったよこの人。しかも余計な装飾つけて。牧さんって実はノリがいい?」
「ノリがいいというより効率重視なんだ。あー、いいなあ、味が濃くて油ギトギトの鶏肉。楽しみだ」
「それ、ちっとも美味そうに聞こえねんだけど。あ、サイドメニューは? アイス系以外なら買ってこれますよ?」
「いらない。肉に齧りつきたいんだ。病院の健康的な食事だとジャンクな食べ物が恋しくなるんだよ。って、まだ入院して六日なのにな」
「家族からの差し入れとかはないんすか?」
「ある。昼頃に一回。昼飯と晩飯用におかずを一品持ってきてくれるが、母さんは揚げ物が苦手でさ。煮物や焼き物が多いんだ。運んでもらっておいて言うなって話だよな」
 贅沢だとツッコミを入れられる前に、牧は自虐的に笑ってみせたのだが。
「明日は楽しみにしてて下さい」
 微笑んで力強く頷かれてしまったため、牧は返事に窮し、
「楽しみにしてる」
 とほぼオウム返しをしてしまった。
 そんな雑な返事に心底嬉しそうに頷かれてしまったものだから。牧は調子を狂わせられたまま、つられて同様の笑みを返していた。



 病室へ一人戻った牧の目に入ってきたのは、棚の上の小さな洗面器。それを覆うように広げられたタオル。
 どうにか乾きやすくしようと考えてくれたのが伝わってくるそれに、仙道の気遣いを感じた。
 牧はロッカーからハンガーを取り出してタオルをかけた。ふわりと石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。多分、洗面所に備え付けのハンドソープで洗ってくれたのだろう。
 半乾きのタオルを頬にあてると、清潔な香りに癒される。
 (手土産なんてなくたって。明日もお前を待ってるよ)
 丁寧に体を拭いてくれた優しい手の動きがタオルの涼感に呼び起こされて、牧は頬を緩めて瞼を閉じた。




















*next : 03









自然気胸の別名はイケメン病。高身長・細身・10〜30代前半の男性が多いからとか。
己を老け顔としか認識していない天然さも牧の魅力ですよねv



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