数ヵ月ぶりに思う存分、朝からサーフィンを楽しんだその日の夜。牧紳一は突然左胸に激痛を覚えた。
鋭い痛みは一瞬で終わったが、その後は深く息を吸った終わりには嫌な感じに痛むようになった。
それは一晩寝ても治ることはなく、朝には息苦しさまで加わっている。
牧は寝起きでぼさぼさ頭のまま居間へ入った。いつもの味噌汁の香りが漂ってくる。
「おはよう……。あのさぁ、父さんが若い頃にやった肺の病気の名前って何だっけ」
「おはよ。あら、どうしたのよ。胸でも痛いの?」
母親の富江は調理の手を止めはしなかったが、心配そうな目線を寄越した。
「昨日の風呂上りにここら辺が突然……変な感じで痛んで。息を大きく吸うと痛いし、今もなんか息苦しいようなッゲホッ、ゲホゴホッ」
話きらないうちに咳をしだす息子に、富江はがっかりした調子で告げる。
「あんたそれ気胸だわ。自然気胸。今日も部活ないんでしょ、病院行っておいで。身長はあるけど、あんたはお父さんの若い頃みたいに細くもないのに……遺伝かねぇ」
咳が収まり、牧は眉間に皺を寄せて不機嫌を隠さずに返す。
「風邪かもしれないのに決め…ゲホンッ……決めつけんなよ」
「自分で症状が思い当たったからお父さんの病名聞いてきたんでしょ。経過観察で済む程度だといいけど。状態によってはお父さんみたいに二週間くらい入院になるわよ」
「それほど辛くない。我慢できないような痛みじゃゴホッゲホン……ケホン」
「私は今日はお稽古ないから。病院で結果が出たらメールじゃなく電話してね」
食卓テーブルに並べられていくおかずを横目に、「嫌だよ入院なんて」と不貞腐れた息子に富江は呆れ顔を向けた。
「誰もしたくて入院する人なんていないよ。入院とは限らないけど、まあ夏休み中で良かったじゃない。ほら、突っ立ってないでさっさと顔洗っておいで」
いつもは荒っぽく背中や腕を叩いてくるのに、今はそっと腕を押すように促された。
そんな些細なことで、牧は急に入院の可能性があるという現実を実感させられた。
* * * * *
近所の個人病院に行こうとしたが、富江に「念のため入院設備のある大きい病院にしときなさい。あ、武田さんが入院してる〇〇大学付属病院、ご飯が美味しいらしいわよ」と押し切られ。牧はバスに乗って薦められた病院に行く羽目になってしまった。
長い待ち時間の後で行われたCTや諸々の検査の結果。牧は自然気胸だと若い医師に病名を告げられ説明を受けた。
「悪化する前に胸腔ドレナージという処置をします。処置については後から詳しく説明しますね。幸いベッドも空いているので、本日から入院しましょう」
有無を言わさず畳みかける医師の横で、どっしりとした看護師さんが眩しい笑顔で頷く。
「良かったですねえ!!」
大変力強い一言は「はい」以外の返答を牧に選ばせはしなかった。
* * * * *
一度家に戻り入院生活用の荷物を用意して、富江と再来院した。
入院説明や手続きが終わり部屋へ案内されるなり、すぐに処置室へ呼ばれて部分麻酔をされて胸腔ドレナージ処置が行われた。
慌ただしくも諸々が終わり、あてがわれたベッド周りが片付いたところで、インターホンから食事を取りに来るよう連絡が入った。
六人部屋の病室で富江と長く話すのは気が引けたので、ディールームという談話室のような場所へ食事を運んだ。
そこは四人がけのテーブルが6つ、六人がけが2つとけっこう広い。数人の患者がそれぞれ食事をしながら一台の大きなテレビの字幕画面を見ている。壁際には給水湯器とレンジ、飲料と食事系の自販機が設置されており、見舞いの家族らしき人が自販機を利用していた。
紙コップのコーヒーを飲む富江の向かいで牧は食事を口にした。
気胸は食事制限がないため、思っていたよりも味がしっかりついていてありがたい。ただこれが一般同年代の食事量だろうが、牧には少々物足りなかった。食事途中で富江が売店で買ってきてくれたお握り二個をもらい、ようやく満腹感を得ることができた。
富江は息子が食べ終えたトレイを手に腰を上げた。
「私かお父さんのどちらかが一日一回はおかず運んで来るけど、食べ足りない分は下の売店で買って食べなさいね。テレビカードは渡したし……。あ、お金が足りなくなったらメールしてよ。あとは何かあったかしら……」
「何か困ったら連絡するから。母さんは帰って休んでくれ」
牧もゆっくりと席を立ち、チェストドレーンバッグと呼ばれる機械を乗せた点滴スタンド風のカートを連れて後に続く。
「何かあったら電話しといでね。明日はお昼前におかず届けに来るから」
「ん。今日は色々とありがとう」
息子よりも25cmほど身長が低い富江は背伸びをし、184cmの息子の髪についていた糸くずを取ってから苦笑いのような顔で見上げてきた。
「病院の寝間着で体から管ぶら下げて……。その管とつながったスーツケースみたいな機械をゴロゴロ連れてるのは……大柄なあんたでも随分と患者らしいわね」
「……気を付けて…ケホンッ、帰れよ」
エレベーターに乗り込み手を振る富江の弱い笑みを扉がゆっくりと隠していった。
* * * * *
突然の連発続きに流石に疲れ、初めての入院で初日というのに21時に消灯されると牧はすぐに寝付くことができた。
普段よりも早くに就寝したせいか、翌日は病院の起床時刻より一時間ほど早く目覚めてしまった。
斜め向かいのベッドの方角から漏れてくるいびきや廊下を歩く控え目な足音などが聞こえてくる。
牧は持参したウォークマンを出そうと起き上がりかけて、思わず声が出た。
「痛……って」
左脇の下から胸へ管が通されている。その固定されている部分と背中が同時に痛み、小さく声が漏れてしまった。不用意な動きをすると引き攣れて痛いことを就寝前に学習していたのに、寝ぼけて忘れていたようだ。
(これから暫くこの状態か……。母さんは患者らしいと言っていたが、俺は鎖につながれた犬のように感じるぜ。まいるなぁ……)
六人部屋のため溜息すら大きく吐くのはためらわれ。
牧は今更ながら自分は病人になったのかと。けっこう残念な気持ちになりながら、上半身をかばうようにしてゆっくりと身を起こした。
* * * * * * * * * *
胸控ドレナージをしたまま肺の穴が自然に塞がるのを待つだけの、様子見的な生活を牧は過ごしている。
基本的に入院生活は日に二〜三回の検診と三度の食事。それ以外は拍子抜けするほど、何もすることがない。
同室の人達は病気も皆違うようで、容体のせいか、それともプライベート重視のためかはわからないが、昼間でも皆ベッド周りにぐるりとカーテンをしめている。たまに病室内で目があってもお互い会釈を交わす程度で、交流はない。入院前は患者同士の人間関係等も少々気がかりだったから、その点は気楽でありがたかった。
ただ痛みがある患者のうめき声や、ノイズが混ざったような息遣いさえ気にしなければ、入院生活は想像していたよりは快適といえた。
母親に高頭監督へ連絡を入れてもらう際に「病名はかまわないけど、病院名は内緒にしてくれるよう伝えてくれ」と頼んでおいたため、見舞いは基本的に親だけで気楽だった。
先週買ったばかりで慣れないスマホには、部活の奴等から返信に困るほどメールやラインが毎日大量に来ている。だから淋しさは全くない。
では持て余すほどの暇な時間を何で潰しているかといえば。
エスカレーター式の大学進学組といえど、夏休みの宿題はたんまりある。入院中に片付けて、退院したら残りの夏休みを有意義に過ごすべく、母に運んでもらってある。
検診がすむとディールームで宿題をやる。真っ白なカーテン越しの明るい光を背に浴びながら、ほどよいクーラーがきいた静かな空間は図書室よりもはかどった。
飽きると売店で食料を買い込んだり、慣れない手つきでスマホを操って短信を返したりと。検査・勉強・適度な気晴らしという、新たな生活リズムが出来あがっている。
激しい痛みや苦痛、大病を抱えて入院している患者を見ると申し訳なさを感じてしまう程度には。牧は心身共に大変平穏で恵まれた入院生活を過ごせていた。
* * * * *
胸内の空気が管から抜けているせいか咳も減り、微熱もあまり出ず過ごせているのに。
入院三日目の朝の検診では、「思ったより回復してないね…。明日もこの調子なら、手術するかもしれません」と医師に言われてしまった。
牧はこのまま自然治癒して退院できるかもと勝手に抱いていた期待を裏切られ、力なく肩を落とした。
午後の検診を終え、富江が届けてくれた好物のおかず付きの昼食をすませても、腹は膨れど気は晴れない。
(腹と同じくらいたやすく肺も膨らんでくれればな……。たえず呼吸しているから穴が塞がる暇がないのか……でも呼吸は止められんし)
牧の心とシンクロしているような鈍色の空からは、今にも雨が降り出しそうだ。
いつもの一式を持って再びディールームへ来たはいいが、ノートを開く気にすらなれず。仕方なくまた病室へ引き返しベッドに横たわると、特別見たいわけでもない映画を一本。スマホで流し見る。
映画はたいして面白くなく、冴えない気分のまま確認したデータ通信料は驚くほど消費されていて。こんなことなら本でも読めばよかったと更に気が滅入った。
院内でWi-Fiが使えない不便さにも打ちのめされているとインターフォンが夕飯をつげた。
こんな気分では隣人の、今にも本当に吐きそうなうめきを我慢しながら食事をするのは辛い。
牧は片手に割り箸とコップ。もう片方で機械のカートを引きながら食事を取りに出た。
食事のトレイを手にディールームへ行くと、見知った意外な人物が座っており、牧は驚きに目を瞠った。
「仙道……? え。陵南の仙道だよな?」
すっきりと整った面立ちに特徴的な逆毛の髪型。椅子から腰を上げると周囲を圧倒する高身長(多分190はあるだろう)でひとつ年下の男が牧へ向かって会釈をする。
「こ、こんばんは。お久しぶり……ってほどでもないすけど」
「どうしたんだよ、こんなところで……。あ、誰かの見舞いか?」
「えと……牧さんの見舞いに、です」
「俺の? っゲホッ、痛てっ」
驚きに大きな声となったせいで、咳と一緒に痛みが背中に走る。
前屈みになりかけたところで仙道が駆け寄り、手からトレイを持ってくれた。
「すんません、驚かせて。大丈夫すか」
「平気だ。すまん。あ、ここ座っていいのか?」
もちろん、と仙道が椅子を引いてくれたため、牧は仙道の向かいの席に腰をおろした。
「飯時にすんません。あ、飯食って下さい。冷めちゃいますよ」
「もとからぬるいから、それはいいんだが。お前こそ飯は?」
「俺は来る前に菓子パン食ってきてるんで平気す。食事時間決まってんすよね? 食って下さいよ。あ、俺がいて気になるなら、食べ終わる頃にまた来ますけど」
牧は返事の代わりに割り箸を割ると、「いただきます」と言って味噌汁に口をつけた。
牧が食事をしている間、仙道はぽつぽつと突然の来訪に至るまでの経緯を話してくれた。
昨日の部活終わりに部室の鍵を田岡監督に届けに行った際、立ち聞きしてしまったそうだ。
「牧君の容体はどうだ、とか〇〇大学附属病院の耳鼻科なら知り合いがいるんだが、とか……。他はあまり何話してるかわからなかったんすけど。なんか気になって、田岡監督に誰と電話してたんですかって聞いたら高頭監督だっていうから。もしかしたらと思って、今日寄ってみたんです」
情報の出どころは聞いてみれば納得な話だった。
「お前さ、俺がここに入院してるって誰かに話したか?」
仙道は長い睫毛を瞬かせると、心外そうに顎を引いた。
「まさか。本当に牧さんかもわかんなかったし、わかってても言うわけな」
牧は小さく手刀を切って仙道の会話を遮ると、少々上目遣いに口の端で笑みをつくる。
「聞いたのがお前で助かったよ。実は海南の奴等にも病院は教えてないんだ。毎日誰か彼か来られても面倒だしさ」
「すよね。でもよく監督以外にバレないですみましたね」
「不調を感じたのが丁度、年に一度の部活三連休の二日目でさ。病院に行ったらベッド空いてるからって即入院。ラッキーなんだかそうじゃないんだか」
軽く笑い流そうとしたのに、脇腹と背中が痛んで苦笑いのようになってしまった。
神妙な面持ちで牧を見ていた仙道は、一拍ほどの間テーブルに視線を落としたのち、再び面を上げた。
「あの俺。母親がこの病院に入院してて、今も届け物してきた帰りなんすよ。毎日この時間……あ、違った。も少し遅いす。今日はたまたま早く来れただけなんすけど。えと、明日も来るんで……帰りにここ寄ってもいっすか? もし良かったらその、何か買い物とかもしてきますけど!」
思いつめたように言い寄られ、牧は少々面を食らった。
(もっと飄々とした食えない感じの奴だと思っていたんだが……こんなに人懐っこかったのか?)
試合では何度も対峙してきたが、考えてみれば学年も違うため神奈川強化指定選手合同合宿などでもあまり話をしていなかったかもしれない。不敵な印象が強かったせいだろうか。知っていたつもりで、実は自分はバスケット抜きでの仙道を全く知らないことに気付かされる。
返事のタイミングが少し遅かったようで、口を開く前にまた仙道が喋り出した。
「あ。いきなり失礼でしたよね、すんません……。その、仲間の見舞いがないなら買い物とか不便あるかなと思っただけで。さーせん、出過ぎたこと言っちまって。すよね、ゆっくり静養しないと治療効果も半減しちゃいますよね」
また一気に言い募られてしまい、仙道の焦りが伝わってくる。初めて見る慌てているような仙道に牧は内心驚いたが、顔には出さない。
「おい、落ち着け。誰も来るなと言ってないだろうが」
「そ……すね……。あ、そうだ。見舞いの品ってほどのもんじゃないんすけど、これ」
ドラムバッグから引っ張り出したコンビの袋を差し出された。
中にはミカンの缶詰とカルピスソーダのペットボトル。どちらも全く冷たさはない。むしろほのかなぬくもりを感じ、外の暑さを思い出させる。
「ありがとう……。そんな気を遣われると申し訳なくなるから、明日は手ぶらで来てくれ」
最後の一言で仙道の表情は一気に明るさを増した。
上がったり下がったり。牧はほうれん草のお浸しを租借しながら仙道のテンションの波を面白く観察する。
「お前のお母さんはどこが悪いんだ? 聞いていいなら、だが」
「あ……えっと。腰っつーか……その、婦人科なんで」
なんの気なしに聞いたのにデリケートそうな部類の話になりそうで、今度は牧が慌てた。
「すまない。もういい。違うんだ、俺と同じ科かなと思っただけなんだ。あ。俺は気胸なんだ。自然気胸」
「そんな気にしないで下さい。俺もよくわかってないだけなんで。更年期の関係かもって病院にかかりだして……とにかく重い病気とかじゃないす。それより牧さんのシゼンキキョウってどんな病気なんすか?」
「自然に発生した気胸。気胸は気分のキに胸のキョウ。肺に原因不明の穴があいて空気が漏れて、肺と胸郭の間に空気がたまる病気だ。漏れた空気に肺が圧迫されて縮んで……えーと。ざっくり言えば空気漏れで、肺が膨らまない状態、かな?」
話を変えたくて自分の病名を明かしたのに、仙道の母親の病状を話させてしまったため、申し訳なさに牧は多弁になってしまう。
そんな牧の心情など知らない仙道は目を瞠って声を上げる。
「肺に穴!」
パサパサと瞬く音が聞こえてきそうな仙道のまつげの長さに、牧は内心で感心する。そういえばこいつは神奈川バスケット界で三本指に入るイケメンと騒がれていたような。
「それほど驚くほどのことじゃない。10代後半から30代くらいまでの男にけっこうおきやすいらしい。俺の父親が若い頃に一度やってるんだ。軽度だと安静だけで塞がることもあるが、中等度はこの機械を繋いで数日様子を見て…ッケホン。塞がらなかったら手術。俺は今日で入院四日目なんだが……まだみたいだ」
小さな咳ひとつで心配気な顔をされ、牧は話の合間に“大丈夫”と手を小さくかざしてみせた。
「……漏れた空気って、今も胸ん中に溜まってるんすか?」
「いや、漏れた空気はこの管から排出されるんだ。この機械が吸い出してるんだと思う。だから胸の中には溜まってはいない」
面白い話でもないのに、仙道は真顔で興味深そうに聞いている。
「てことは、軽度でこの機械してなかったら、漏れた空気はそのまんまってこと?」
「漏れた空気は血液に溶けて消えるらしい」
「なるほどねぇ……。人間の体はよくできてるんだなぁ」
「そうだな……。だが勝手に肺に穴があいて空気漏れとか起こすけどな。って、話が一周したな」
肩を軽くすくめてみせると仙道は少し困ったような顔で軽い笑みをつくった。
仙道は牧の体と管で繋がっている機械をじっくりと観察してから、眉間に皺を刻んだ。
「その管って体に刺さってんすよね。今は痛みとかあるんですか?」
「左脇の下辺りにな、コホッ……。動きによっては引き攣れて痛むが、普段はなんともない。そのせいでたまに刺さっていることを忘れて、不用意に動いては痛い目にあってる」
ははは……と笑い零すと、仙道は「大変そうすね」と胸の前で腕組みをした。
「この機械使い出して何日くらいの間に膨らめば手術はしなくてすむんすか?」
「目安は五日目のようだ。俺の場合は明日の朝の検診結果による、のかな」
「明日の朝……すか。今夜中に膨らんでくれたらいいのに。あの、基本的なこと聞いていすか? さっきから時折、咳してますけど。咳以外の症状はあるんですか? 食っていいものとかダメなものとかは? あと、もうすぐここ来て30分以上経ちますけど、そろそろ横にならなくて大丈夫なんですか?」
矢継ぎ早な質問は、早く安静にさせようと急に焦りだしたせいだろうか。随分と真剣に色々と気にしてくれる。もしかしたら先ほどの余計な説明が、むやみに心配を煽ったのかもしれない。
「食事制限は一切ないんだ。機械は常時つなげていなければならないが、それ以外の行動制限なども特にない。症状ったって、少々息苦しいのと深い呼吸のあとに胸や背中が痛むくらいで。あと、動きによっては引き攣れて痛むくらいか。これのせいで寝返りが厳しくてな〜。まあそれくらいだから、俺なんて全然軽いもんだよ」
心配いらないと笑ってみせたが、喋り終えた途端に咳が出てしまってあまり格好がつかなかった。
牧の咳が収まると、仙道はトレイを手に立ち上がった。
「横になりましょう、牧さん。明日までに膨らんでもらわなきゃなんだから」
「いや別に、起きてたって変わらんよ」
「病人は安静が大事すよ。それに体を冷やしたら悪いかもだし。ここ、病室より涼しいってあっちの患者さんが言ってたっす。長居して体に負担かけちまってすみません。さ、行きましょう。部屋はどこすか?」
全然負担になってないのにと零しながらも、牧も仙道にならい席を立つ。
「東508号室の廊下側……。その前に配膳室へ寄ろう、それを下げとかないと」
「あっ。そっか……すんません。飯時に来ちまって」
手にしているトレイに目をやった仙道が背を丸める姿に牧は目を細めた。
「いいって全然。そんなに気を遣われると、まるで病人みたいな気になる」
仙道は一瞬意味がわからないというように固まったが、牧が軽く片方の口角を上げたことで冗談と察したようだ。
仙道は肩に入っていた力を抜くように、大きく息を吐いた。
「ホントすよ。いつも威風堂々としてるあんたが、そんな丈の合わない甚平みたいな格好してるから調子狂っちまいましたよ。すげー似合ってねーす」
「だろ。こういうのもあって見舞いに来られたくなかったんだよな〜。普段いばりちらしてるくせに、って言われて拳骨落とすにしてもこの格好じゃあなぁ」
冬場だったら腕も足も寒いだろうから夏場で良かったぜと、牧は寝間着の短い袖を引っ張ってみせた。
「やっぱ来て良かったなー俺。レアな牧さん拝めたしさ。けどまじ、弱ってんのは似合わねーから……さっさと治して下さいね?」
拳を差し出されたので牧も拳をつくってコツンとぶつけた。
「……明日、寄ってくれるんだろ? なら今月号の『月刊バスケットボール』を買ってきてくれよ、売店にないんだ。金は部屋にあるから、ちょっと病室にも寄ってってくれ」
「はいっ」
神奈川ベスト5に選ばれた時でもこんなに嬉しそうな顔をしていなかったような。
(おつかいを頼まれてこんなに喜ぶってなんだよ。調子狂うなぁ)
牧はやけに可笑しくなり、仙道の背中を軽く叩いた。そして胸が痛まないように声を出さずに笑った。
仙道が帰ってから、頬の筋肉がヒクリと動いた。そういえば入院してからこんなに喋って笑ったのは初めてだと気付く。
牧は誰も見ていないというのに、顔を両手で擦って深い息を吐いた。
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