Sleeper train  vol.01


夜も21時を過ぎたというのに相変わらず東京駅構内は人が多過ぎた。あまりにも多いものだから、大声ではないはずの一人一人の声が人数分だけ重なって、うわんうわんとひとつの巨大な唸り声のように感じる。
こう気持ちがどん底を這っている状態で頭を重くする唸り声に付きまとわれては、人波に沿うのも逆らうのも嫌になってしまう。もう足どころか腕ひとつ動かすのも面倒だ…。
仙道は空いたベンチを見つけると、体を放り出すように腰を下ろした。
硬く冷たいベンチが尻から、しんしんと上ってくる夜気が足元から体温を奪っていく。このまま長く座り続けていたら、冷蔵庫でカピカピになっていた食パンみたいに俺もなるだろうか。
「……ふ、はは」
景気よく笑ったつもりが、ちぎれたカスカス声しか出なかった。これじゃ隣に座ってる爺さんにも届きゃしない。
今の俺はパッサパサのスッカスカ。食えないパンと同じだ。いっそ誰かゴミ箱にでも捨ててくれりゃあいい。それかどっかの親切な誰かが、たっぷりの牛乳に卵をといた液につけこんで奇跡の復活。フレンチトーストにでも格上げして平らげちまってくんねーかな……。

なるべくなるべく、どうでもいいことを考えながらぼんやりと人が流れている様子を見るともなしに眺めていた。
そんな仙道に向かって一人の大柄な男が歩いてきて、眼前で立ち止まった。
「仙道だよな? こんなところで何してんだ? 待ち合わせか?」
鬱陶しい騒音の中、低く穏やかでいて張りのある声音が、風のようにするりと耳に飛び込んできた。仙道は重たい頭を上向けると、蛍光灯の眩しい光を背負い少しかがみこむように覗き込んでくる男を働かない頭で観察する。浅黒い肌、精悍な顔立ち、ダークブラウンの柔らかそうな髪。そして自分に近いくらい背が高く広い肩幅と長い手足…。
「…あんたは……海南の、牧さん…?」
「なんでそんなに自信なさげに言うんだよ」
隣に腰かけてきたため、一般的な日本人の瞳よりもわずかに薄い色味の瞳も、左目のそばの黒子までもしっかり目視できて、改めて本物だと確信する。先月行われた冬の選抜でも戦った、他校で一つ上の好敵手その人に間違いなかった。
「…こんな時間にこんな場所で会うなんて、思いもしなかった、から?」
本当に、彼が何故ここにいるのか不思議だった。大勢の人でごったがえしている駅の中で、立っているならまだしも座っている俺をどうして見つけられたのだろう…。皆が忙しなく目的地にむかって歩いているか、仲間とたむろっているかしかないような、他人を気に掛けることもないこんなところで。
どうしてここにいるの。どうして俺をみつけたの。なんで俺に声かけたの。
どれから聞けばいいのか、それともどれも聞くのはおかしいかと思っているうちに、彼が先に口を開いた。
「どうしたんだ」
「? 何がすか?」
「んな疲れた酷ぇ面して」
きゅっと心配そうに眉根を寄せた牧に仙道は驚いた。声をかけられてからは普段通りにしていたつもりだったのに、疲れを見透かされるなんて。
「……なんともないすよ?」
ニコリと笑みを添えてみたが、返事をするまでに僅かな間があったせいか、彼の曇った表情は変わらない。しかし詮索する気はないのか、それ以上踏み込んではこない。ただ静かに見計ろうとしているようにも見える。……居心地が悪い。
「なんでもないです」
もう一回、明るく微笑んで頷きながら言えば、彼は己の腕時計を見た。話を聞く時間があるかないかを計っているようだ。出先で他校の後輩を見つけ、声をかけるなど。世話焼きというか律儀な人だ…。よく見れば小ぶりのデイパックを背負っている。これから電車で出かけるのか、それとも神奈川へ帰るのかは知らないが、時間がないなら『そうか』といって置いていけばいいだけなのに。何を思案しているのだろう。
「……仙道。お前、これから予定はあるのか?」
「ないす。帰るだけすよ」
だからどうぞご心配なく。そう伝わるようにとニッコリと得意のスマイルで答えたのに、通じなかったのだろうか。彼は席を立とうとしない。
「明日と明後日の昼までは?」
「なにも予定は。明日はガッコも部活も休みで、明後日は…午後から部活?」
なんで明後日までの予定など聞くのだろうかと首を傾げると、彼は軽く口の両端をあげた。
「なら、俺とうどん食いにいかないか? 奢るぞ」
突然の飲食の誘いに驚くも、うどんという響きのあたたかさが冷えきっていた仙道にほんのりと響く。
「うどん……いいっすね」
「決まりだな」
牧が右手を差し出した。交渉成立の握手だろうかと握り返すと、手をつないだまま牧は仙道を引き上げるようにして立ち上がった。
「切符は車内で買おう」
「え。車内って? あの、どこに行くんすか」
「うどん県」
「うどん件? あ、電車でうどん屋まで移動ってこと?」
「そう。香川で本場もん食おうぜ」
「カガワ……香川って…うどん県〜〜〜!?」
驚く仙道の背を牧はポンポンと叩くと、その腕を引いて入場券を買うべく券売機へ向かった。


ペットボトルを二本ずつ買い込んで乗り込んだのは、寝台列車サンライズ瀬戸。金曜の夜のせいだろうか、それとも寝台列車とは常に人気があるのか。仙道は列車内デッキの隅で、次々と乗り込んでくる人達(主に男性)を見ながら呆然としていた。
(荷物はペットボトルしか入ってないビニール袋だけ。こんな俺がなんで、こんな列車に乗っているんだろ…)
ぼんやりとしている仙道の肩先を牧が指でトントンと叩いて振り向かせる。
「俺がとった指定席、2号車二階のB寝台で車掌が来るのを待とう。発車後に切符チェックでまわってきた時にお前の指定席を購入するから、な?」
隣に立つ牧がチケットを見せながら確認するように言ってきたが、仙道は自分のおかれた状況にまだ実感が湧かず、曖昧に頷いた。

歩き出した牧の後ろに続けば、初めて見る寝台列車内はなにもかもが興味深かった。全体的に明るい木目調で統一された車内は清潔感と高級感がある。通路の一角が洗面所になっているのも面白い。間接照明下のような薄暗く細長い通路の両脇にドアが並ぶ様は狭いホテルの廊下を思わせる。二階へ続く階段を上るだけでもなんだかわくわくしてくる。キョロキョロと視線を走らせていると「ここだ」と牧がひとつの扉の前で足を止めた。
「本当はここより安いB寝台ソロにしたかったんだが、空いてなくてこっちになったんだ」
そういいながらテンキーロックを解除しドアを開けた牧は先に仙道を中へ入れた。
室内は廊下同様、柔らかい間接照明で照らされた明るい木目調。天井や窓は車体にそってRがついている。日よけは明るいグリーン。ベッドや寝具は淡いベージュ。狭いながらも小綺麗なホテルの一室といった感じに驚かされる。
「へえ…! すげぇ立派すね! 俺、もっとショボイイメージしかなかった…、あ、ここで靴脱ぐのかな」
狭い玄関にはスリッパとゴミ袋がひとつずつ用意されていた。ベッドの上には毛布・浴衣・枕が一セット揃えられている。
「そうみたいだな。天井も湾曲している分、思ったよりは高さがある。息苦しくなくていい」
小さな玄関に牧が入ってくると仙道は追いやられるように「失礼しまーす…」とベッドへ浅く腰を下ろした。
「何を遠慮してんだ。もっと奥に入って座れ。俺が座れん」
言われるがままに仙道は奥へすすみ壁にもたれるように座れば、いい具合に部屋を見渡せた。
「テーブル、鏡、コンセント、読書灯、ハンガー…色々揃ってますねぇ」
壁に備え付けれているコントロールパネルには、非常通報装置、常夜灯、室内灯、エアコン、NHK-FMの音量つまみとヘッドホンとスピーカー。アラーム付き時計までも備わっている。
「コンパクトで機能的な空間ってさ、なんか好きなんだよな俺」
ガタイデカくなってんのにさ…、と少し照れたように言われて思わず食いつく。
「俺も。秘密基地っぽくていっすよね。ガキん頃、押し入れに色々持ち込んで隠れ部屋作ったことありますよ。牧さんはないすか?」
「やったよ、もちろん。押し入れに本や菓子やデスクスタンド持ち込んで。だがコンセントですぐバレてな」
「俺は懐中電灯持ち込んだけど、入ってた布団を全部部屋に出したから、まあ即バレますよね」
「ははは。なあ、今夜はここが俺たちの秘密基地ってことでどうだ?」
「賛成。…ヤベー、なんかすげー楽しくなってきた」
個室とはいえ防音的には頼りないため、ひそひそと話し合うのも楽しさを倍増させる。
「そりゃ良かった。……実は旅の楽しみに、っと、車掌来たかな」
廊下で車掌と乗客の会話らしきものが聞こえ、牧は素早く立ち上がると仙道を残して部屋を出てしまった。

仙道は靴を脱いでいたので出るのに少々もたついた。部屋を出ると牧が支払いを終えて切符をもらっているところだった。
部屋へ戻ると礼を言うより先に牧に手刀をきられた。
「チケット取れたから、もう安心だぞ。すまんな、冷や冷やしてただろ」
言われて初めて、仙道は無賃乗車をしていたことを自覚した。確かにあれだけ人が乗り込んでいたのだ、満席・満室の可能性は高いはず。なのに牧さんに誘われてからは驚きや心躍る楽しさ続きで、不安など感じる暇もなかった。もしかしたら彼の方がチケ取りの厳しさを知っている分、不安だったのではなかろうか。そんな素振りは微塵も見せないから、自分は安心して任せきりだったと今更ながら思い至る。
「冷や冷やはしてませんでした。牧さんに頼り切ってたんで。チケ取り、ありがとうございました」
仙道は急いで頭を下げた。
「で、あの、すんません。チケット代聞こえてたんですけど、今俺手持ちが」
「いい。皆まで言うな。往復分、俺が立て替えとく。飯代や観覧代は奢ってやるから安心しろ」
「いやあの、一万くらいはあるんで自分の飯代くらいは自分で払えます。けど切符代は、すんませんが貸しといて下さい。必ず返しますから」
「一万も持ってるのか。それなら明日の飯代や土産は自分で賄えるから安心だな。俺も助かるよ」
牧が軽い笑みを浮かべて仙道の背中をポンと叩いた。申し訳なさに猫背気味になっていた背が自然とのびる。
「そうだ。あのな、行きもだが、帰りも個室はどれも満室でノビノビ座席しかとれそうにない。そこは寝台料金がいらなくて指定席料金だけで利用できるとこでな、指定料金510円で横になれる。安さが魅力の席なんだ」
「リクライニングシートみたいなんすか?」
「百聞は一見に如かず。見に行こうぜ」
今度は悪戯っぽく片方の口角を上げられて、再び戻ってきた楽しい気分のままに仙道は力強く頷いた。

隣の3号車にはBシングルのソロとミニサロンがあった。一部屋のドアが開きっぱなしになっていたので、牧がちょいちょいと指で仙道を呼ぶ。仙道の耳元で「ここを取りたかったんだ」と牧が言うので、まだ無人の室内を覗く。
「……部屋いっぱいがベッド?」
「そう。だからベッドから落ちる心配もなく寝れるだろ」
「こっちは随分天井低いすね」
「寝るだけだし、高さより広さ優先にはこっちの方がいいんだよ。それにBシングルより千円安い」
「あー。そりゃ大きな魅力だ」
ひそひそと喋りながらまた移動する。通り抜けたミニサロンは椅子やテーブルがあり、自販機もあった。
「寝台列車って初めてだからなんでも珍しくて面白ぇ…」
「俺も」
「え!? すっごい色々説明してくれてんのに??」
「ネットで調べたんだよ。車内の写真も沢山見た。が、やっぱ実際に見ると上がる」
バスケの時はひとつどころかOBに見えるほど迫力があるのに、背中越しに見える楽しげな頬が可愛くさえ見える…。仙道は首を傾げて軽く目を擦った。辿り着いた5号車は二段ベッドが沢山横に連なっているような雰囲気があった。
既に一部ではカーテンをぐるりと引いてる席もあり、もう寝ているかもしれないと牧は更に声のボリュームを落とした。
「えーと、上段二階席の……あった、こっちだ。あそこから上ろう」
牧に続いて狭い階段を上ると急に視界が開けた。二階はまだ誰もカーテンを引いておらず、端から端まで見渡せた。合間にちらほらと人の足や座っている背中なども見える
「うわ……全部の部屋が見渡せますね。あ、部屋ってのも変か」
「雑魚寝部屋の区割りのような…。でもほら、頭の部分は仕切りがあるから、一応のプライバシーはある」
カーテンもあるしな、と牧は足元のカーテンを引っ張ってみせた。
「カーペットに雑魚寝って気楽でいっすね。あ、読書灯もある。毛布もあるし、俺ここで十分寝れますよ〜」
ゴロリと横になった仙道の横に牧も横たわった。二人だと途端に狭くなる。特に牧が横たわった側は階段部分が足元にあるため、膝を曲げて窮屈そうに足だけを仙道の方へ寄せるしかない。
「牧さんもっとこっち寄って下さいよ。足、そんなんじゃ落ちますよ」
「ああ、すまん…。下段の方が少し縦に広いか…同じかな? ま、あまりかわらんか」
「牧さんもう寝るの?」
「いや。お前はもう眠いか? 寝るんならB寝台で寝ろ。俺はここで寝る」
「なに言ってんすか。俺がここですって。B寝台の代金払った人はB寝台で寝て下さい〜。俺はここの指定席代金510円払ってるんだから」
「それを言うなら俺は寝台列車代金を払っている。だからどっちを俺が使おうが自由だろ」
「もー。…ま、いいや。ちょっと人増えてきたし、寝るまで基地に戻りましょうか」
「だな」
徐々に人が増えてきたのも丸見えで、二人は顔を見合わせ含み笑いを交わした。

B寝台に戻ってきて一息つくと、牧はデイパックからワンカップを取り出してみせた。
「酒…! もしかして旅の楽しみってさっきいってたの、これ?」
「そう。夜の景色なんて真っ暗なだけだが、酒飲んでほろ酔いならそれもまた楽しめるかなと思ってさ」
備え付けのコップに半分ほど注いで手渡される。
「意外だなぁ。牧さんって20歳まで飲酒はしない人かと思ってましたよ」
「見かけは20代とっくに越してるからいいんだ」
仙道は口に運びかけていた酒をとっさに口から離して吹き出した。
「あ、あんたっ……あんたが自滅ギャグ言うなんて!」
「笑ってないで“そんなことないですよー”くらい言ってもいいんだぞ?」
「すんません。俺、正直がウリなんで」
「強烈なギャグで返された。腹筋が割れそうだ」
「真顔で何言ってくれちゃってんすか。つかもうあんた、腹筋割れてるでしょ」
「腹を割って話すのが信条なもんでな」
「そっちの腹と違うから! も〜オヤジギャグ連発されて力抜ける〜」
「飲まなきゃやってられないだろ?」
「まったくっす。んじゃ、カンパーイ!」
「カンパーイ。……っあー、しみるなぁ〜」
「美味いすねぇ……俺、ぬる燗好きだから丁度いいすわ」
「なんだ、お前のんべかその年で。悪い奴だなぁ」
「違いますー。金ねぇから滅多に飲みません〜。それに俺は品行方正なスポーツマンですからね」
「へえー奇遇だな。俺もだよ」
「はいはい。あー…つまみとか欲しくなっちゃうなぁ。こんないいもの用意してるなら言ってくんなきゃダメじゃないすか」
知ってたら駅ん中にあるコンビニで買ってきたのに〜とぼやけば、また牧がデイパックを引き寄せる。
「ホタテの貝紐とチョコレートならあるぞ。あと、カロリーメイト」
「ホタテの貝紐! マジもんの酒飲み?」
「マジもんてのは塩だけでもいいんだろ。俺は酒は嗜む程度だ」
言いながら明治の板チョコの銀紙をむきだした牧に仙道は目を瞠った。
「え。まさか日本酒のつまみにチョコ…?」
「美味いぞ? あ、お前はホタテの貝紐食うか?」
「いやもう、ほとんど飲んじまったから俺はいいです。チョコねぇ…ブランデーとかなら聞いたことありますけど…」
包み紙の上にパキパキと割られた板チョコが乗せられる。
ぽいと一欠けらを口にした牧は続けてクッとガラスのコップを呷った。
「……そうまじまじと人の顔を見てたって味などわからんだろう」
チョコを差し出され、仙道は口に入れて同様に残りの酒を呷ってみた。
「……ん。なかなか合うんですね。酒とチョコの甘味がほのかに残んのがいい感じ?」
「なんだっていいんだよ、美味く飲めればそれで。まあ、コップ酒半分量じゃ出すほどでもなかったがな」
チョコはただ食ったって美味い。そう言いながらふわりと微笑んだ彼の唇がやけに赤く見える。アルコールで血色が良くなったからだろうか。室内灯の淡い黄色味を帯びた光の下、少し肉厚な唇が妙にエロティックに映る自分も、どうやら久しぶりのアルコールと深過ぎる心の疲れ。そしてこの楽しく不思議な時間がぐちゃぐちゃに混ざって、少しおかしくなっているのかもしれない。

気を取り直すため、ふーっと大きくひとつ息を吐くと体が揺れた。電車の揺れなのか自分が揺れたのか判断がつかない。
磨かれた窓ごしに彼と視線が合う。考えていたことなど彼に伝わっているはずがないのに、ばつが悪い。
「……酔ったのか?」
頬の熱を酔いの血色と勘違いされてしまったようで、手をひらひらと振ってみせる。
「まさか〜。牧さんはコップ酒半分程度で酔えるんすか?」
「全然。…まあ、気分で酔えないこともないがな」
「あー…そういうの、ありますよね……」
頷いて目を閉じれば電車が走る振動と隣に座る人の気配がくっきりと感じられる。列車の走行音が心地良いBGMにかわって、穏やかさに包まれる。
あんなに胸が苦しくて、体も冷え切って、指一本動かすのも億劫になっていた俺の手をとって引っ張りあげた彼の存在が、今更ながら不可思議過ぎる。もしかして俺はあの硬く冷たい駅のベンチで眠りこんで、救われる都合のいい夢でもみているような錯覚すら覚える。
「……もう一度だけ、聞く。言いたくないなら、別にそれでもかまわんが」
静かな声音に、目を閉じたままで「なんすか?」と軽い調子で答える。
「なにかあったんだろ?」
傷つけないようにひっそりと放たれた気遣いの言葉に、やはりこれは現実なのだと知る。夢であったなら、抱えていそうな面倒をわざわざ聞き出して、この心地いいだけの軽い空気のままで終わらせているはずだから。
ゆっくりと瞼を押し上げて、室内灯の反射で蜂蜜色にも見える彼の瞳を見返して笑ってみせる。
「いえ、大したこっちゃないすよ」
「…そうか」
少し寂し気に微笑まれて胸が痛む。この空気を壊してもいい理由も、これ以上甘えていい理由も探せないことを胸中で詫びた。

このまま黙したままでも自分は十分救われている。けれど余計な気がかりを抱えたままの彼はそうはいかないだろう。先ほどの良い空気を戻せる会話の糸口、とまではいかなくとも何か話を…と口を開く。
「牧さん」
「うん?」
「うどんのことはおいといて。マジ香川に何しに行くんですか? 香川で誰かに会う予定とか?」
違うと教えるように牧は首を軽く左右に振った。
「俺さ、寝台列車って乗ったことがなかったんだ。いつか乗ろうと思っているうちに、新幹線の普及でどんどん寝台列車が減っていってな。とうとう乗る予定だった北海道行きのカシオペアもトワイライトエクスプレスも廃止になってしまって。こりゃ、なくなる前に乗っておかないと、ってな」
「牧さんって乗り鉄?」
「全然」
「じゃあなんで? それに到着が北海道と香川じゃ全然違うと思うんだけど」
「目的は寝台列車だから。着く場所自体は、まあ……なくなることはないだろうし」
行こうと思えば何ででも行けるだろ、とあっさり言い切られ、仙道は牧のアバウトさに目を丸くした。
「…寝台列車ってそんなに憧れるもん?」
「さあ? 俺の場合は車・普通列車・地下鉄・新幹線・飛行機・船は乗った。寝台列車はまだないから、乗ってみようと思っただけだ」
「そんだけ?」
「? 他に理由がいるか?」
「いえ、別に。……あ、俺も寝台初めてです。さっきも言ったけど」
「良かったな」
「…はい」
本当は良いのかそうでもないのか微妙なところだが、牧さんにニコリと断言されて、本当にそんな気になってくる。この人の言葉と笑みには理屈不要で納得させてしまう力がある。
仙道はもう一度。今度は先ほどより少しだけ声に力をこめて言う。
「良かったです」
目元を嬉しそうに細められた。それだけ、まだ乗ったばかりだというのに自分の中で“とても良かったこと”として定着してしまった。
微笑み返す自分の胸がほのかにあたたかい。

仙道は何かやさしいものが自分の胸に。そして二人の間に静かに満ちていくのを確かに感じていた。














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寝酒は悪い夢を見やすかったり、睡眠も浅くさせたりであまりよくないらしいですね。
寝る前にはホットミルクを飲むことで睡眠の質が向上するそうですよ、と牧に教えたい(笑)



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