Sleeper train vol.02
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ささやかな酒宴が終わる頃、牧があくびをした。 「牧さん、横になったら? 俺もそろそろ向こう行きますよ」 「うーん…。場所交代。お前、ちょっとこっちきて立て」 狭い室内で場所を入れ替わり、仙道が立ち上がると牧が寝台に横になった。 「……やっぱ狭いな」 事実を事実として語っているだけなのに、どこか楽しそうに感じさせる声音が耳に心地よい。 思い返せば、国体合宿の時も似たような好感を抱いていた。彼は否定的な言葉の中に必要以上の暗さや裏を含ませない。それどころか何故か建設的な明るさが潜んでいる気にさえさせる。それが声の調子か、添えられる表情のせいかはわからない。だが話をしていて疲れない、話を聞きたい・聞いてもらいたいと思わせる何かを持っていた。 もう寝てもいい時間ではあるが、あと少しでいいから軽い会話を続けていたい。 ほんの少し擦り寄るような気持ちが唇を動かす。 「…待望の寝台列車のベッドの寝心地は?」 「百聞は一見に如かず、その2だ」 手招きされて仙道が腰を下ろす。そのタイミングにあわせて牧が入れ替わるように立ち上がった。 淡いベージュのシーツに横になってみれば、先ほどのカーペット敷きの床より寝心地は格段に良かった。仰向けで見上げると細長く狭い天井が高く感じる。隣で見下ろす牧もとても大きく見えた。 「面白い…。寝心地はなかなかいいですね。これであともう少しベッドの丈があれば文句なしすよ」 「ベッドの丈は196cmだったかな。お前でも足を伸ばせるんじゃないか?」 「髪型崩れそう…。膝曲げた方が気楽でいいです。幅はどのくらいなんすか?」 「70…75? 確かそのくらいのはずだ」 「へえ…70cmって一人なら十分余裕なんすね。牧さん、ベッドのサイズまで調べたんだ。それって完璧鉄男でしょ」 「わざわざ調べたわけじゃない、たまたま調べていたら知っただけだ」 「それがわかっちゃうほど調べるのが鉄男…鉄ヲタってんじゃないんすか?」 「……知らんが、とりあえず俺は違う」 少し嫌そうな顔の牧さんを下から眺めるなど初めてで、つい楽しくてしつこくして機嫌を損ねてしまったようだ。 「そっすか。ただ俺、感心しただけだったんだけど…ごめんね?」 「いや、別に謝られるようなことじゃない」 気を悪くさせたかと思ったが、どうやら照れていたようだ。下からだと表情が読みにくいのもあるけれど、この人の照れポイントがわからない。旅行中に掴めるといいな、なんて思ってしまう今夜の自分も、なんだかよくわからない…。 狭い場所で少しだけ窮屈な格好で横たわる不便さが面白い。自分が彼の隣で横になっているという不思議なシチュエーションも。どうやら俺にも彼の楽しがりなところが伝染したようだ。つい「ふはは!」と笑い声まで出てしまった。 「もう少し壁にへばりついてみてくれ」 足元に腰かけてきた牧に言われて意図を察した仙道は手を顔前で小さく振る。 「無理すよ、二人でなんて。こんな狭いとこで」 「ちょっと試すくらいいいだろ」 「え、ちょっと…!」 牧は仙道に背中を向けるようにして横たわると、ぐいぐいと背で仙道を壁に押し付けてくる。 「壁と牧さんにサンドされた〜つぶれる〜! ギブギブ!」 笑いながら牧の肩をタップすれば、「なら、俺が具になってやる」と今度は仙道と壁の隙間に自分が入るように牧は馬乗りになって仙道を越えた。落ちかける仙道に牧の腕が後ろから回される。 「わ、わ。すっげぇ不安定! 牧さん腕離して」 「今離したら落ちるぞ確実に」 「けどこんなバカ力で締め付けられてたら苦しい〜」 「こら、ジタバタすんな。落ちたくなかったらもう少し背中を俺に押し付けろ」 足を向かい側の壁につけて仙道は背を牧へ強く押し付けてみた。体が安定する。足を壁から離してベッドの上に乗せても体はぐらつかない。 「……ほら。バランスとれただろうが」 後ろで笑う牧が腕の力を抜いたのと同時にカーブに差し掛かったようで、車体が傾斜する。 「うわっ」 反射的に仙道は牧の腕を抱え込むように掴んだ。しかしこの場合、牧の腕を掴むよりも自分の足を壁に突っ張った方が断然安全性は高い。 咄嗟に彼の腕に縋った自分が途端に恥ずかしくなる。 「あ……。えと。運行中にシートベルトを突然外すのは危ない、すよ、ね?」 「そうだな」 密着している背中に伝わる振動は電車の揺れではない。牧が声を殺して笑っているからだ。 「……意地悪ぃ。そこはツッコミくれてもいんじゃないすか?」 「シートベルトに難しい注文つけるなよ」 「…あーあ。シートベルトが勝手にはずれて危なかった! 不良品じゃねぇのこれ」 引っ込みがつかなくなってしまい、わざと不貞腐れた口調で牧の腕を掴みなおす。そのまま胸元にぐいっと乱暴に引き寄せたけれど、牧はされるがまま。ただ声もなく笑い続けるものだから。とうとう仙道もくくくと笑いだしてしまった。 笑いの波が去れば車両の揺れと彼の体温が身に染みてくる。その心地よさに暫く浸かっていると、急にどっと疲れがよみがえってきた。押し込めようとしていた疲れ─── 抱えている後悔と喪失感を、甘えついでに口にしてしまっても、このあたたかい男は負担と思わず丸ごと受け止めてくれるのだろう…。 そう勝手に感じてしまえば、口は勝手に動いていた。 「今日……部活終わった頃に母親から電話が来たんです。明日までおはぎが持たないかもしれないから、来れるなら明日じゃなく今日帰ってこいって。で、急いで……走って電車飛び乗って実家に戻ったんだけど。……あ、俺の実家は東京で、うちの犬の名前はおはぎっていうんです」 「おはぎ…美味そうでいい名前だな」 「うん。腹側が白い毛で背中側が黒だから。俺がつけたんすよ。子犬の頃、まるまって寝てるとおはぎみたいだったから。あ、そんで。急いだけど、最期には間に合わなかったんですよね」 「そうか…残念だったな……」 静かな一言がいきなり胸にズドンときて、一気に目頭に熱が集中する。仙道はそんな自分に狼狽えた。 「あ、いや。別にね、すげー可愛がってたってわけでもなくて。高校入ってからなんて滅多に会えてなかったし。家を出る前だって姉が散歩に連れていく回数も多かったから、姉の方になついていたんすよ。…だからほらその。別に。そりゃ淋しいけど? 老衰だったし? あ、人間にしたら90歳くらいだから大往生?」 見えはしないが背後で牧が微かに笑った気がして、仙道は更に焦り早口になってしまう。 「や、わかってますけど! なら凹むなよってことは!」 「何を勝手な誤解して逆ギレてんだ。俺が笑ったのは、シートベルトに随分と先回りした物言いをするもんだと思ったからだ」 ぐっと仙道が恥じるように唇を引き結ぶ。 「おはぎは大型犬? 小型犬?」 「…中型犬。ウェルシュ・コーギーす。足が短くて胴長で」 「知ってる。実家の近所で飼ってる家があった」 「うちのは茶色と白のコーギーより大きいんですよ」 「へえ…。写真ないのか?」 「見ます? ちょっと待ってて」 仙道は牧の腕を自分の腹からよけて立ち上がると、ハンガーにかけてあるコートのポケットから携帯を取り出した。 また戻ってきて横になると、牧の腕を自分の腹に当然のようにしっかりとまわしてから携帯をいじり、牧へ肩越しに見せる。 「可愛いな。それに利口そうだ」 「そうなんすよ。こっちの動きをよーく見てるし、物覚えも早くてね。姉ちゃんなんておはぎの方がよっぽど賢いって。俺の方がおはぎよりガキ扱いされてましたよ。おはぎもその気になって俺にはけっこう偉そうでね、兄貴分くらいに思ってたっぽくて。けど遊びだしたらこう、目をキラッキラさせてさ。俺が疲れてもまだ遊ぼう遊ぼうって、しつこく誘って…きて……」 尻尾をちぎれそうなほど振ってこちらを見る楽しそうなおはぎが脳裏に浮かんだ。途端、喉がつまって声を失う。体が涙を発する準備をはじめるように熱を帯びはじめる。仙道は少し慌てて身を起こそうとしたが、腹に回っている牧の腕はほどけない。 がっちりと仙道をホールドしたまま、牧は静かに言葉を紡いだ。 「写真でしか見てない、詳しいことは何も知らない。今知ったばかりの俺ですら。この可愛いおはぎという犬はもういないのかと思えば、淋しい。…とても残念に思うよ」 ぽつぽつと降る雨のようにゆっくりと哀しみを伝えられ、仙道は動けなくなる。 「もっと早く知っていたら、会わせてもらえたかもしれないのにな…」 「…う…………ぐ……」 喉から嗚咽が、目からは熱い涙が溢れた。冷たくなって動かないおはぎを何度撫でても出てこなかった涙が。 俺が悩んだり苦しんでいる時はよく布団に入ってきたおはぎ。もう動くことのない体を毛布ごと抱き上げたら、随分軽くなっていてショックだった。こんなに痩せてしまうまでにお前が年をとって弱っていってたことを俺は知らずにいた。もっと頻繁に会いに行って抱いていたなら驚くはずもないのに。もし、もっと早く知っていたら。…それでもやっぱり、実家に戻って学校に通おうとまではしなかっただろう。そういう薄情なことをしでかしそうな自分に薄々どこか勘付いていた…。だから母さんに『たまにはおはぎに会いにきたら?』と言われても。テストだ部活だ試合だと……嘘ではなかったけれど。半日くらい時間が作れないわけでもないのに、ほとんど会いに行かなかった。 冷たい奴でごめん。年老いて軽くなってるお前を抱くのが怖かったなんて、どんだけ臆病なんだろ。自分が辛い時だけ優しさをもらってばかりで、いざお前が辛い時に添い寝もしてやれないようなダメな奴でホントごめん。なんで俺ってこんななんだろ。 おはぎの死からも、最低な自分からも逃げた。真っ向から受け止めるのが怖くて頭がいっぱいいっぱいで、冷たくなったあいつを撫でてても泣くどころじゃなかったんだ……。 目を背けていた事実と後悔に打ちのめされ、涙が止まってもなおぐじゃぐじゃと考えては暗い自己嫌悪に堕ちていたけれど。背後でもぞりと身じろぎされて仙道は我に返った。 「!! す、すんません! あの、俺、」 「左腕の感覚が……もう、ない」 「わあ! マジすんません!」 飛び起きて振り向くと、牧は自分の頭の下に枕がわりにしていた左腕を右手で引き出している。 「ま、牧さん、枕は……あっ! 俺が枕使ってたんすね! うわ、すんませんっ」 牧は人差し指を唇にあてて「しー…」と音のない声で言った。驚いて声が大きくなってしまっていたことに気付き、仙道は咄嗟に自分の口を手で塞ぐ。 「気にするな。枕が二つあったとしても並べて置く場所などないんだから。う〜〜痺れたぁ」 己の左腕を一度見てから、牧は悪戯っぽく瞳をキョロリと動かした。意図がわからず仙道は首を傾げる。 「痺れているから触るなよ」 「はい」 「いいか、左腕は触るな。絶対触るなよ?」 「はあ。触んないすよ?」 牧は片眉を跳ね上げると呆れたように溜息をついた。 「なんだよお前鈍いな〜。三回繰り返されたら逆をするのがお約束だろうが」 「!! そのギャグ俺も知ってる! 知ってるけどっ。まさかあんたがそんな古典ギャグをやるとは思いもしねーすもん! つか、下手だし? なんだよも〜!」 わかんねーすよ、と仙道が唇をへの字にすれば、牧は小首を傾げて呟いた。 「……触るなよ?」 「まだ言いますか。あーもー! 触らせろー! マッサージしてやるーっ」 「あはははは! あ、よせ、まだ少し痺れてるから。っと、お前どこ触って、っあ、くすぐってぇ、あははは……っと」 とびかかってきた仙道から左腕をかばって笑っていた牧は慌てて自分の口を右手で塞いだ。 「…静かにしないとな」 「ヤベ」 顔を見合わせると二人は声もなく腹を抱えて笑った。 ひとしきり笑い終えれば空腹を感じた。そういえば実家で晩飯を出されたが、ほとんど食えなかったのだ。 「さっき通ったあのミニサロン、飲み物の自販機だけでしたかね…」 「あー…食べ物系はなかったな」 牧はデイパックからチョコ味のカロリーメイト一箱とホタテ貝紐一袋を取り出すと仙道に渡してきた。 「や、半分でいいす。すんません、なにからなにまで」 「変な組み合わせだが、貝紐はよく噛むことで食い応えを得られるし、カロリーメイトはエネルギー供給ができる。それにどちらも水分をあまり含まないから日持ちもする。荷物にもならん」 水分をとりながら食べれば腹にもたまる、と乗車前に買っておいた二本目の水のペットボトルも出された。 「旅の携行にピッタリなんすね。俺、てっきり酒のつまみだと思って、さっきはすげー笑っちゃった…」 貝紐をつまみながら感心していた仙道へ牧はしれっと答えた。 「酒のつまみにもなる」 「もー。まぜっかえすの好きな人だなあ。牧さんがこんなに面白ぇ人だとは知らなかったなー」 先ほどの彼の下手なギャグをまたも思い返してしまい、ちょっと吹き出してしまう。 「笑ってないで全部食え。俺はいらん。腹は減ってないから」 「さーせん、じゃ遠慮なく。…久々に食うと美味いすね。それにしょっぱいと甘いが交互だから、けっこう合うし?」 「貝紐の塩分とカロリーメイトの糖分が、発汗による塩分の消失と」 「や、もっともらしい話はもういいから、笑って食えねぇす。それよか、明日の予定を教えて下さいよ」 「香川県でうどんを食う」 「それはもう聞きました。それ以外すよ。一日中うどん食ってるわけねーでしょ。どこどこ観光まわるんすか?」 カロリーメイトを齧りながら尋ねれば、牧は再びデイパックを引き寄せた。文庫本サイズのガイドブックを取り出すとパラパラとめくりはじめる。 「決めてない。お前が眠くないなら、今決めようか」 「はい?」 「香川で行きたいところはあるか? あ、一日あるから香川でなくても四国内なら行けるかもしれんぞ?」 のんびりと尋ねられ、仙道は数度パチパチと長い睫毛を瞬かせた。 唐突に旅へ同行させる強引さや、旅行の予定を当日に決めるつもりだった呑気さなど。どれも今までの“真面目で計画的でしっかりとした頼れる男”という彼の印象を崩していく。いや、頼りがいは今も十分にある。ただこんなに大雑把でとても優しい……黙って泣かせてくれたり、泣いた後の気まずさを笑いで流してくれるような気遣いをする男だとは想像すらしたことがなかった。 「……仙道? どうした?」 「あ…いえ。これ食ったらノビノビ寝台に行きませんか? そっちでならゴロ寝しながら一緒に本見れるから」 ここの読書灯の位置だと二人で小さい本一冊を見るのは大変そうすよね、と続ける。 頷いて立ち上がる牧を見ながら、仙道は自分の胸に手を当てる。 このままこの部屋に二人きりでいても、もうこの男のぬくもりを感じることはない。それならあのゴロ寝タイプで並んで寝ころがる方が……という結論に達しかけ。 ( なしなし。今のなし。なんだよわけわかんねーな…俺ってこんな甘えた行動する奴じゃねーのに…) 狂いっぱなしの調子を振り払うように、仙道は頭を振ると急いで牧の後を追った。 隣の3号車ではサラリーマンらしき男二人がサロンの椅子に腰かけ缶コーヒーを飲んでいる。その横を通り過ぎ、ノビノビ寝台がある5号車へ向かう。辿り着いた目的の車両内はほぼ全ての場所でカーテンが引かれており、会話をしているようなぼそぼそとした小声が時折漏れ聞こえている。二人は身軽に階段を上ると先ほど横たわった自分達のスペースへ静かにもぐりこんだ。 仙道が読書灯をつけてカーテンをひいていると牧がブラインドを閉めて呟いた。 「思ったより肌寒いな。…毛布かけるか」 小さな薄い毛布一枚の下に並んで俯せる。肩が出るどころか体の両端にも毛布はかかりきらない。 「……寒いんでもう少し寄っていっすか」 牧が返事のかわりのように肩を寄せてくる。仙道も身を寄せると腰から下は二人とも毛布からはみ出なくなった。しかしこの体勢では他人に見られたらゲイカップルと思われるのは確実だ。 「…やっぱ近付き過ぎかな」 カーテンをしてはいるけれど、牧に悪いようなどこか後ろめたい気持ちになる。離れようとした仙道の肩を抱くように牧の腕が伸ばされ、留める。 「寒いよりはいいだろ。我慢しろ」 「…俺はあんたに気を遣っただけです」 「いらん気遣いだな。さて、明日の目的地を決めようか」 腕をほどいた牧はガイドブックの香川県のページを開いた。 (俺だけ妙な意識してたのか…。そうだよな、寒いよりいいもんな) 仙道は本を覗き込むため、今度は先ほどよりも遠慮なく身を寄せた。 「香川県人気観光スポット・ベスト20……って、美術館とか公園系が多いすねぇ」 「お前は美術館とか好きなのか?」 「好きでも嫌いでもないす。つか、あまり行ったことないし? 牧さんは?」 「芸術が理解できるような男に見えるか?」 「黙って腕組みして立ってたら見えますよ? あんた、外見は渋くてカッコイイもん」 「……じゃあ、美術館ではずっと腕組みしていることにする」 「あはは! んじゃ、美術館はなしってことでOK?」 「お前が行きたいなら付き合うぞ?」 「いーえ。俺なんて見かけ通り芸術とは縁遠い奴ですから」 「お前は外見だけで言えば美術館はよく似合うぞ?」 「それって褒めてんの、皮肉ってんの?」 「褒めているに決まってる。“芸術は爆発だ”と俺は美術で習った」 「? それ、誰かが昔言ったのは俺も知ってる。けど、力強く言われても全然わかんないす」 「お前の髪型は芸術じゃないか」 「!? 俺の頭は爆発させてんじゃないから! 褒めてない、絶対褒めてないよそれ」 「褒めてる褒めてる」 ひそひそと音のない声で計画をたて、声もなく笑いあう。まるで悪事を二人で企ててでもいるかのように、一枚の小さな毛布を共有し、子供の頃からの親友のような距離で。 考えてみれば部活仲間でもこの距離でこんなに長い時間を過ごした経験はない。だから落ち着かないのならわかるのに、なぜかすっかりなじんでいるのが謎だ。 肩を並べてこうしていると楽しさにテンションがだだ上がりして、ついさっきまで泣いてたくせにと内心どこか恥ずかしくもある。でも隣の彼の横顔も楽しそうに見えるから、いいんだって思えた。 ガイドブックを硬そうな指先でトントンと叩きながら牧が軽く唸る。 「う〜ん……一位の寒霞渓…『日本三大渓谷美や日本百景』と言われてもなぁ。冬に見ても紅葉はないから淋しいだけな気がするんだが」 「俺もそこは興味ないでーす」 「じゃ、次。第二位、エンジェルロード。第三位、地中美術館、第四位」 「あの。三位スルーはいいとして、なんで二位は検討しないんすか?」 「だってお前、『一日二回、引き潮の時に現れる天使の散歩道。この道を手を繋いで歩いた二人は将来結ばれる』とか、俺たちにはどうでもいいだろうが」 「手ぇ繋いで歩いたら俺たち、より仲が深まるかもしんねぇすよ?」 「バカ。えーと、第四位、金刀比羅宮」 「今度は俺をスルーした〜」 「返事しただろ。“バカだろお前”って」 「それ返事って言わないから。それに余計なのくっついてるし。もー。…ん? 金刀比羅宮ってこんぴらさん?」 ボケたりツッコミ入れたりしながら話しているうちに、どんどんお互い口調が砕けていった。俺の中ではもうすっかり仲がいい先輩のように。いや、俺にとって一番話しやすい先輩の魚住さんよりも気楽に話せる人になっている。 (真夜中のテンションってやつのせい? 夜中までこんな喋ってたことねーもんなぁ。合宿でも修旅でも、話の途中で俺はさっさと寝ちまってたし) こんな短時間の間にここまで気を許してしまっている自分がどうにも面映ゆい。でも悪い気はしない上にやたら楽しいし落ち着くのだから、参る…。 仙道が照れくささに頬をかいていると、牧はひとつあくびをしてから確認するように言った。 「じゃあ、明日は朝飯に近場でうどん食って、丸亀城に行って…」 「うん。で、金毘羅神社に行きましょう。……っ」 深夜で気温が下がってきたのか、毛布で覆いきれない肩から上が寒くてブルリと身震いをしてしまった。 「寒いか?」 「少しだけ…ックシュ。…なんすか?」 体を押し付けてこられた仙道が端へ寄ろうとすると同じ分だけ牧が身を寄せてくる。もともと狭い場所なので、すぐに仙道は仕切りに左肩がついてしまった。 「俺、これ以上端に寄れないすけど…?」 「寒さ対策のおしくらまんじゅうだ。少しはあったかいだろ」 「うん。牧さんは寒くないの?」 「お前と違って鍛えている。筋肉は熱をうむからな」 得意げな顔で言われてしまい、仙道は口先を尖らせる。 「……筋肉デブ」 「負け惜しみには乗らん。で、なんだっけ。金毘羅神社の後は…」 「どのくらい時間つかうかによるけど、昼……ックシャン!」 心配そうに眉根を寄せると、牧はガイドブックを閉じてしまった。 「もう寝よう。お前は寝台に戻って寝ろ。俺はこっちで寝る」 「少しくしゃみしただけじゃないすか。まだ金毘羅神社の次、決めてないのに」 「どのくらい時間を使うかもわからんのだし、行ってから決めよう。明日の朝もけっこう早い。俺ももう眠い」 「……なら、俺がこっちで寝ます」 「こんなことで風邪をひかれちゃかなわん。先輩命令だ。行け」 ピストルのようにした指先を眉間にびしっと押し付けられ、命じられてしまう。 仙道は渋々と階段を下りた。その背に「おやすみ。寒かったらエアコンの温度上げるんだぞ」と牧の優しい小声が届く。 「うん。おやすみなさい…」 底冷えのする寒さにくしゃみを堪えきなかったことを悔やみつつ、小さく返した。 通路では長く大きな、上部が湾曲している窓が片側を占めている。ふと立ち止まって横をむけば窓ガラスの向こう、真っ暗な中にポツポツと灯る民家らしき白い光が流れていく。そんな物淋しい黒っぽい風景に、少し猫背の自分が反射で映り込み重なっている。さぞかししょぼい顔をしてるだろうなとガラスに顔を近付ければ、けっこういつもと変わっていない。よく仲間に言われる“飄々とした面”に見えた。 (……ありがと、牧さん) 少しだけ困ったように眉毛を下げたのち、仙道は再び足音をたてないように歩き出した。 * next : 03 |
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すっごい迷ったんだけど入れっちゃった、牧の微妙なギャグ。今の若い子は知らないだろうな…; |