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たった二日家に帰らなかっただけなのに、家に戻るとやけに気が抜けた。牧はいつも通りうがいと手洗いをすませ、洗濯機に衣類を突っ込んでから二階へ向かった。自室の向かいの開け放たれた襖から仙道の部屋をちらりと覗けば、いつも通り仙道の布団がぐしゃぐしゃのまま放置されている。居間も他も特段変わった様子もなかった。もしかしたら昨日も誰も家に呼ばなかったのかもしれない。そう思い至ると、牧は深い安堵の溜息を一度だけ吐いた。 バッグを部屋の隅にぞんざいに放り投げ、机の引き出しをあける。ホッチキスの芯の空箱の中からティッシュにくるんだ指輪を取り出して左手の薬指にはめてみた。指にぴたりと収まった指輪は窓からの日差しを受けて小さな光を指に点した。
「……よく考えたら、こういう物を男相手によこすのもおかしな話だよな」 しかもあいつは俺の指にはまったのを見て喜んでいた。 俺にこんな物を買い与えたり、俺にだけ甘えた寝ボケをかましたり、密着するようなスキンシップをしてくるのは。 「やっぱ…………重度な天然で相当な激ニブってことだな」 声に出してみると本当にそんな気がしてくるからおかしなものだ。 ぐっと握り締めた拳の一部が金色にきらりと光れば、不思議と力すら湧いてくる。 もしも俺の認識通りだとしたら、まだ望みはあるかもしれない。俺があの時に半分おっ勃てていたのにも気付かなかったかもしれないし、俺のあの変な声だってただの驚いた喉声くらいにしか捉えていないかもしれないじゃないか。だとしたら謝罪は無意味な自爆になり、全てを己で終らせる早まった愚行になる。 もしもうっすらと気付きかけて何かがおかしいと感じている様子だったら……白を切ろう。切り通そう。 股間の盛り上がりは服の皺で目の錯覚。変な声は驚き過ぎたからとかなんとか逃げ切ろう。あいつは何事もそうこだわるような男ではない。こちらが毅然とした態度で知らぬ存ぜぬを貫くうちに忘れるに違いない。それどころかこの二日でもう忘れている可能性だってあるじゃないか。 指輪を見詰めているうちにふとおかしくなって牧は口角を上げた。
あれからずっと落ち込んで現実から逃げ回っていたというのに、僅かな望みを見つけると即座にそれに飛びついて。こじつけ、無理やりに自分を鼓舞してまでも仙道との暮らしを……今の良い関係を続けたいと望む必死な自分が哀れで滑稽だった。 「……ま、仕方ねぇか」 諦めが悪いのは昔からだ。完全に点差が開いた負け試合ですら最後の一秒まで諦められないのに。もう一緒には暮らせないとはっきり拒絶される前から、どうして諦められる? 加えて俺はもともとこんなぐだぐだと後ろ向きに長考するのには向いていない性分だ。こじつけだろうがなんだろうが、まだこの指に光はともっている。ならばあいつの口から同居終了を告げられるまでは、あがいた方がよっぽど後悔は軽くすむはず。 「飯でも作っておこうかな……」 帰ってくるあいつへいつものようにおかえりと声をかけて。急に家を空けてすまなかった、飯はできてるぞ…なんてさらりと今までの日常に戻れるように。 熱を加えられた納豆が放つ独特の香りとカマンベールチーズの香り。これだでけでも十分臭いのに、強烈な焦げ臭さが加わった台所は凄絶な異臭に満たされている。窓を開けて換気扇を回しても焼け石に水だ。 臭いに辟易しつつ、左掌の小皿の中身の少なさに牧は肩を落として呟いた。 「……五分の一以下しか無事なところがねえ」 粘る飯。その飯を更にネロネロにさせる卵。火が通るとぶにゅぶにゅになる納豆。フライパンに張り付いて飯に頑なになじもうとしないチーズ。ネギのかわりに入れたレタスは溶けて消えた。混ぜる度に異質な物へと変化しフライパンと同化していくものをどうしろというのだ。ほぼ同じ材料を使ったはずなのに、どうにか焦げなかった部分すらも泥団子のようなこの有様だ。 冷蔵庫にある材料で飯を作る。そんなさりげない格好良さを仙道を見て学んでいた。それにわざわざ材料を買って帰って料理を用意しておくというのも不自然な気がした。だからあえて今、冷蔵庫にある材料だけでできる納豆チャーハンに挑戦したのに。いつも残り物で手早く作ってくれるメニューだから俺でも作れるだろうと甘くみていた。テフロン加工のフランパンは見事に焦げた飯や具財を分厚くまとって、まるで鉄鍋みたいな様相を呈している。 今から使った材料とフライパンだけ買いに行こうか。しかしもう一度作って成功するとは全く思えない。 「臭いを差し引いても食うのに勇気がいる……」
「んなこたないすよ。俺、それ食いたいもん。腹減ってるし」 至近距離、真後ろからの仙道の声に牧は驚いて肩を跳ね上げた。 「驚かせてすんません。何回も声かけたんだけど。この換気扇、パワーないわりに音だけは立派ですよね」 「ま、全く聞こえなかった……。おかえり」 「ただいま〜。牧さんもおかえりなさい! まさかこの時間に帰って来てるとは思わなかった。今日は部活ないんすか?」 「部活は夕方五時半から。お前は?」 「俺もです。今日は午後の講義はなかったけど、ちょっと用事あって街寄ってました」 ニコニコといつもの笑顔で仙道は「着替えてくるね」と台所を出て行った。牧はまだ落ち着かない心臓のあたりへ手をやって何度も深呼吸をし、臭気にむせた。 一番の臭いのもとをどうにかせねばとフライパンを洗おうとしたところ、仙道に止められた。今回も気配には気付けなかったが二度目なのでそれほど驚かずにすんだ。
「それ、しばらく水につけておかないと無理すよ。皿洗いも晩飯食ってからまとめてすりゃいいし。それよかあったかいうちに食いましょーや」 「本気か?」 「え。もしかして牧さんの分だけで俺のはないんすか?」 「そういうわけじゃないが……」 二人分の麦茶と箸を用意した仙道はにこりと口角を上げて手招いた。牧は困り顔で向かいの席につく。 「いたーだきます! ……うん、味はいーすね。カマンベールチーズ使ったからかな? 濃いね〜。外カリッとしてっからライスコロッケみたい」 「無理のある世辞を言うな。つか、食うなよこんなの。見るからに不味い」 「牧さん味見してねーの? ほら、ここなんてチーズがいい感じだよ。あーん」 「あー」 ついいつもの味見感覚で箸を出されて口を開けてしまった。差し出された飯を気恥ずかしさごと噛んで飲み込む。 「………食えなくはないがこんな団子飯、美味くもなんともない」 「えー? 俺は美味いけどな〜いい味つけだし。中がわはきりたんぽみてーで。牧さんが作る飯、俺大好き。外で食ってもやっぱ牧さんの食いたいって思うんだよね」 咀嚼しながら首を傾げる仙道の姿をあまりに可愛く感じてしまい、牧の胸はきゅっと締め付けられる。 「俺はお前ほど飯は作ってないだろ……。それにお前の飯の方が贔屓目なしに格段に美味いぞ」 自分も同じように、外でもお前の味を思い出すとまでは流石に言えなかった。 「そう? 牧さんにそう言ってもらうとまんざらでもないっすねぇ」 嬉しそうな顔をみせる仙道に牧の口元もついフッと緩む。 「納豆チャーハンとは難しいものなんだな。作ってみて初めてわかったよ。お前は凄いなぁ」 「コツを知らないでいきなり作ったのに、食えるもんが出来てる牧さんは料理のセンスがあるよ。これはコツさえ知ってればすげー簡単。けど知らないと絶対失敗するんだ。俺なんて初めて作った時、フライパンごと捨てたもん」 「お前がそんな失敗するのかよ」 「んな驚かんでも。小五だったかな? 家中焦げ臭くして家の窓全開して。したら隣の家のおばさんがあまりに焦げ臭いからボヤでも起こしたんじゃないかって家にきてさぁ。大変でしたよ」 子供が一人で火を使うなんてとかなんとか説教はくらうし。などと仙道は肩をすくめてみせた。 「今も十分、この家中臭いが大丈夫かな…隣家から離れてはいるが」 「全然、ぜーんぜんレベル違う。こんなもんじゃなかったもん。つか、もう大分換気できてるよ。換気扇煩いし、止めてもらっていい?」 牧が頷くと仙道は「ごちそうさま。う・ま・かったー♪ 牧さんの飯食えるとすげー幸せ♪」とご機嫌でハミングした。 失敗した飯すらいつでもこうして喜んでくれる仙道が愛し過ぎる。失敗を責められないから、俺はまたこりずに料理に挑戦できるんだ。お前を喜ばせたい、驚かせたい。そう思えてしまうんだよ……。 牧は仙道の背中を見つめながら、またもきゅうきゅうと鳴る胸の甘さに狼狽させられた。 軽い深呼吸をすませてから換気扇をとめて振り返ると、仙道の視線が己の左手に注がれていることに気付いた。
「それ、してくれてんの初めて見た」 「え。……あ、あぁ」 指輪を指摘され、途端にバツが悪くなる。突然の帰宅にペースを乱され、外し忘れていた。迂闊な自分が腹立たしかったが顔には出さなかった。先ほどまでは普段と変わらぬ調子で過ごせた。だからこれからも自分さえヘマをしなければ、あのまま今までの日常に戻れそうだと踏んだからだ。 しかし続く仙道の言葉に牧は明らかに動揺し眉をひそめてしまった。 「せっかくしてくれてんのに悪いんすけど。返してもらっていいすか」 「返すって……指輪をか?」 「そっす。すんません……俺、考えなしに買って渡しちまって。あん時の俺はそういう物は気軽に渡していいもんじゃねーってこと、知らなかったんです」 もう一度、すんませんと頭を下げられる。 つい先ほどまで二日ぶり……いや、正しくは仙道を好きになってから初めて胸に灯した小さな希望。それがふいに投げられた謝罪の言葉に跡形もなく消し去られる。一瞬だが文字通り牧の視界は暗転した。 視界が明るさを取り戻しても両腕はだらりと体の両脇に下がったままぴくりとも動かない。
仙道は硬直している牧へ真面目な声音で説明を続ける。 「昔女の子と付き合った時、ネックレスやブレスレットとかねだられたことがあって。同じように露天で買ったことがあったんだ。で、なんつーか……あん時の俺は、それと似たような軽いノリで買ったっつか」 うまく言えないんすけど……と困ったように仙道は後頭部をかいている。 目が涙の幕で曇りはじめたため、牧は仙道から顔を隠すべく俯いた。 先日の失態で仙道は俺に好意をもたれていることに気付き、脈があると誤解を持たせるようなものを以前俺へ買い与えていたことを思い出して回収にきた。ただそれだけの事実があまりにも受け入れ難く、再び逃げ出したかった。それきりもう、こいつの目に一生触れることのない存在になりたくてたまらくなる。 「……だからえっと。本当に申し訳ないと思っていてですね。反省しました。ごめんなさい牧さん」 謝らないでくれと言いたいのに涙で喉がつまり声が出ない。首を左右に振り返事をすれば、止めきれない涙が頬を伝った。けれど秋の早い夕暮れは換気扇下の暗がりに立つ俺の顔を濃い影で隠してくれているはず。それでもこれ以上この場にいては涙がぼたぼたと床に落ちて気付かせてしまう。そうすれば優しいこの男は自分は何も悪くないのに、また必要のない謝罪の言葉を重ねるだろう。 指輪を渡してこの場を離れる。そうするしかないのだと己を奮い立たせて、牧は震える指に力を入れて指輪を抜いた。 テーブルの上へ指輪を置きざまに牧は走って二階の自室へ飛び込んだ。 部屋のドアを閉めて牧はその場にしゃがみこんだ。次の瞬間、ノックもなくドアが開かれ仙道が隣にしゃがみこんできて牧を横抱きにしてきた。
「どうしたんですか突然!? あっ! な、なんで泣いてんの!? どっか急に痛くなったとか!?」 「な…で勝手に……ってくるんだ」 涙で詰まった喉ではあったが驚きに声は出た。間髪を容れず返事がとんでくる。 「話の途中で突然走っていかれたら追うって。しかも何であんた泣いてんすか!」 「泣いてないっ」 「はあ? 何言ってんの、大丈夫?」 「煩ぇ! なんともないからどっかいけ! 行かないんなら俺が行く!」 涙を拭こうと伸ばしてきた仙道の指を乱暴に払い、ぐいっと拳で涙をぬぐい牧は立ち上がった。その足へ仙道はがっちりとしがみついてくる。 「やっと帰ってきたってのに、なんでまたどっか行こうとするんすか! もうどこも行かせねぇ! 行くんなら俺もついてきます!」 「離せ! 離さないと殴るぞ!」 「殴られたって逃がさない! なんで泣いてるか教えてくれるまで離さないっ」 仙道はますます強く牧の足を締め付けた。そのせいで仙道の側頭が牧の股間に強く押し付けられる。牧は慌てて仙道の頭を引きはがしにかかった。しかしなお、意固地になったようにぐりぐりと仙道が押し付けてくるため、牧は怒りに声を荒げた。 「テメェ! っ、…ヤられてぇのかこの野郎!」 「それはいーけど、絶対絶対もう二度とあんたに逃げられんのだけはごめんだっ」 「俺は本気で言ってんだぞ、ビビれ馬鹿野郎が!」 「そんな遅かれ早かれすることなんて俺は怖くないっ。あんたこそまた黙って逃げようとしたら足腰立たねーように俺が犯してやる!」 激情に任せる形になりはしたがカムアウトした。それを逆手にとる仙道の買い言葉が牧の神経を逆なでし怒りに身を震わせる。 「ふ…っざけんなこのガキ……俺がどんな思いでっ…!」 拳を振り下ろそうと前傾姿勢をとった牧の腕を仙道は咄嗟に素早く掴んだ。そのまま己に力一杯引き寄せる。バランスを崩した牧が膝をついたところで仙道は牧を胸にきつく抱きとめた。 「泣いてた理由は今は聞くの我慢します。だから、頼むから落ち着いて。俺にさっきの話しの続きをさせて下さい」 「…続き?」 仙道から離れようともがいていた牧の動きが止まる。 「はい。さっき台所で俺があんたに謝ってた続きです」 「……続き…………か」 「怒るのはもっともだと思うけど、まずは俺の話を最後まで聞いてからにして下さい。それからなら叱られる覚悟はできてるし、なにされてもいいですから」 仙道が畳み掛けるように懇願すると、牧は判決を言い渡される罪人のように項垂れ沈黙した。 ─── あれ以上、更に望みがないことを言い渡されないといけないのか。 牧が静かになったことで了承を得たとみなした仙道は、牧の腕を掴んで立ち上がらせた。 ベッドへ座らせた牧の隣に腰掛けた仙道は己をこそ落ち着かせたいようで、暫く指を組んだり後頭部をかいたりしていた。仙道が何度か体を左右に揺らす度、振動が牧の尻にも響く。
それも暫くして止まったのち、やっと仙道が口を開いた。 「えーっと……どう説明したらいいのかな。あ、そうだ……」 パーカーのポケットから先ほど牧にはずさせた指輪を取り出すと、まじまじと見詰めて呟いた。 「……こんな雑なつくりのオモチャだったんだ。まだこれと同じだったんだな……。ごめんね牧さん」 優しい瞳を向けられた牧は訝しげに眉根をひそめた。 「意味がわからん」 「これと同じ、あん時の恋心はちゃちなもんだったってことですよ」 すでに仙道には思い人がいる。それをまた思い知らされて、再び牧の胸は黒く濁る。牧は胸中を隠すように仙道から視線を外した。 もう完全にふられているのだから、仙道に好きな相手がいようが自分には全く関係がない。それなのに、もし思い人がいるともっと早く知れていたならば、と。好きにならないよう自制出来ていただろうか、それでもなお恋情を止められず同性のこいつに焦がれ倍も苦しんだろうか……などと思考が渦巻く。 銅像のように全く動かないまま考え込む牧の横顔を仙道はチラリと横目で見た。そして恥ずかしそうに口元をゆがめると、先ほどとは逆側のポケットへ手をいれて、今度は綺麗に包装された小さな箱を取り出した。
「今は全然違うから。やりなおさせて欲しいんです」 返事をしない心ここにあらずの牧へ仙道は「牧さん? 聞いてます?」と続けて首を傾げた。 自分の名前にだけ反応した牧は緩慢に首を仙道へむけた。牧の虚ろな視線の先で仙道の長い指が器用に包装をとく。 開かれた小さな白い箱。白い布貼りの中心には金色のシンプルな細い輪が半分ほど埋められた形でおさまっている。仙道は指先でつまみ引き出すと、空いている方の手を伸ばして牧の左手をとった。 褐色の長い薬指に指輪を押しはめた仙道はふわりと微笑む。 「ああ……やっぱ本物の金はあんたの肌になじむ。…けど、これじゃ細くてあんたの指には頼りない感じだね。でも今の俺の財力じゃ18金だとこれしか手が出せなくて」 はにかむ仙道を牧は無表情で見返す。 「細いけど、内側に“From A to S”って彫ってもらったから。見て下さいよ。俺、あーいう店に入ったことすらなくてさ。だから買うのも彫るの注文すんのも、全部すげー恥ずかしかった〜」 ロボットのように言われるがまま、牧は無言で指輪を外した。内側の文字を見て牧はますます混乱を深める。 つい先ほど仙道に好きな女性がいると知らされ、最後の希望を返したというのに。今度はもっと思わせぶりな物を贈られて、いよいよ仙道の真意がわからなくなる。何故、ふった相手の俺にこんなものをくれようとするのか。 「……お前はさっき、指輪を贈る意味を今は理解してるとか言っていたよな?」 力強く頷いた仙道は外された18金の指輪を再び牧の左の薬指に押し込むと、今度は両手で牧の左手ごと包むようにして引き寄せる。 「早く卒業してプロになって。次こそはあんたの指に似合う太さの、24金の指輪を贈ると約束します。だけど今は……安物だけど本物のこの指輪を。俺の真剣な気持ちを受け取って下さい」 仙道は耳まで赤く染めた真面目な面持ちを向けてきた。
牧は仙道の視線を逸らすことができず、射抜かれたように固まったまま必死で考えた。
辛過ぎるけれどなんとか話を理解しようと努めて聞いたのに、聞くほどにわからなくなってしまった。金の純度へのこだわりも何のことやらさっぱりだ。話が見えなくて頭がぐらぐらしてくる。 しかし再びこんな気を持たせるような高価なものをくれたり、俺の失態を蒸し返してこないところをみると同居解消は考えていないようにとれる。 一度は完全に消えたと思われた希望の灯火は涼やかな一筋の風となり、牧の真っ黒に染まった胸に光を受け入れる隙間を作る。 あと二年一緒に暮らせればいいと願った。それが今、俺の出方次第で叶うかもしれない…? 仙道が弱り切ったように眉尻を下げた。
「ねぇ、そんな硬い顔で黙ってないで、返事して下さいよ」 長考してしまっていたと気付かされ、牧は慌てて言葉を探した。けれどどんな言葉が適切なのか見つけられない。失敗はもう許されないというのに。 焦りが眉間に皺を寄せていく。益々厳しい表情になってしまう牧へ仙道は小さくため息を吐いた。 「……似合わねぇくっさい台詞いっちまったとは自分でもわかってます。けど本気なんです。俺、告白なんて初めてしたから……これでいいのか不安なんだ。だから、返事を数日待つとか全然ムリで。余裕なくて格好悪ぃとはわかってるけど、今すぐいい返事がほしいんです」 牧は我が耳を疑った。─── こくはくなんてはじめてした…? こくはく? それはあの漢字の、か? 「……今……“告白”って言ったよな?」 「や、やっぱり下手でしたかね? まだ結婚して下さいっつって渡すのも早い気するし、男同士で結婚つーのもなんか違うかなと思ったんすけど。勉強不足ですみません……」 ああもう俺とことん格好悪ぃ、もっとまともそうな本でマジ勉強すりゃよかった…と、仙道は意気消沈したように小さく唸り頭を抱えた。 仙道の手が離れたことで牧の左手だけが室温を涼しく感じた。そこで漸く、今まで手をとられていたことを意識した牧の頬にじわじわと血の気がのぼる。
先ほどまでただの単語だったもの達がドクドクと力強く脈打ちはじめた血流に流されて、全身を凄い勢いで加速する。急激な流れの中でも消えていかなかった言葉達が到達した先─── 心臓のあたりで規則をもって整列し、意味を持った一連の文章として再構築される。 「……オモチャの指輪を俺に買った頃のお前は、俺に対して軽い好意しかなかった。……それが恋心に変わった今、本物の指輪を俺に贈ったと説明し告白……し、た?」 胸の奥に輝く一つの文章を恐る恐る読み上げてみれば、仙道は再び真っ赤になって瞬きを数回繰り返した。 「改めて言われるとすげー恥ずかしー……」 赤くなりながらも微妙に腑に落ちない表情の仙道に牧の表情が僅かに曇った。それに気付いた仙道は慌てて続ける。 「や、大筋はそうだよ。そうなんだけど。なんか微妙に違うんだ…。なんだろ、なにが変なのかな?」 仙道は首を傾げたが、程なく閃いたように瞬きをした。 「わかった。“今”ってのが引っかかったんだ。俺が牧さんを好きだと自覚したのは最近なんかじゃないからだ。言い訳になるけどオモチャの指輪のことは忘れてただけで。それのせいで俺の本気が伝わっていないなんて、昨日まで思いつきもしなかったんだよ」 「それのせいで、って? いやまて…………え。お前が俺をす、好き…?」 仙道は心底がっかりしたとばかりにガクンと項垂れ盛大なため息をついた。 「あー……通りでキス拒まれたわけだ。牧さんちっとも俺のこと好きだって言ってくんないから、俺も少しは不安つかおかしーなーとは思ってたけど。あーあーあー……」 「き、キスってお前、何のこと」 急に仙道の手がストップをかけるようにあげられ、牧の言葉は途中で遮られた。 仙道はがばっと顔をあげると再び牧の両手をとった。牧はびくりと手を引きかけたが、強引に引き寄せられる。
「何回だって、信じてくれるまで言います。俺は本気で牧さんが好きなんです。どうか俺の気持ちを疑わないで。あんたにも俺を本気で好きになって欲しいんです。俺はただの懐き過ぎな後輩でも甘えたがりの同居人でもない。そんなんと同じに思われてたなんて、知った以上は耐えられねぇ」 「仙道……」 「さっきもどさくさでちょっと言ったけど、俺にとってこれは婚約指輪のつもりだから。いつかはあんたにもそういう意味合いのものだって理解してもらいたいんだ。この指には今後、俺から贈る指輪以外は通さないって言ってほしいんです」 そっと薬指へ落とされた仙道の唇は離れたあとも牧の指にほのかな熱を残す。その熱が指から腕へ、腕から心臓を通って喉へあがり瞳へ到達する。そうして牧の瞳を先ほどとは異なる熱い滴で満たしてゆく。 「…………これを指につけて生活はできない」 「つけてなくていいです。今までみたいに、しまっておいてくれりゃじゅーぶんす」 牧はゆるく頭をふった。 「……もう、しまっておきたくない」 表情を硬くした仙道に牧は弱く微笑んだ。 「違う、受け取れないという意味じゃない。これがお前の気持ちだというなら。四六時中、身に着けていたいと言っているんだ。だが指にしたままではバスケが出来ないから。バスケの度にはずして、いつか失くしてしまうのが怖い」 「牧さん……」 泣き笑いの牧が首を傾げれば、透明な滴が褐色の頬に光の筋をつくっていく。 「どうしたらいいんだろうな。しまうのも嫌で、身につけて失くすのも怖いなんて。鎖にでも通して首から下げようか。それならまだ失くしにくいだろうか」 「いいんだよ、失くしたって。何度だって贈らせてよ、俺だけに」 「これだけでいい。いや、これがいい。Aはお前で、Sは俺の名前なんだろ?」 「当たり前でしょ……。もらってくれるなら、お返しに聞かせて下さい。あんたの口から俺を好きだって」 「好きだ。お前が好きだよ。お返しなんかじゃない。言っていいものならずっと言いたかった……」 「そう、なの?」 「幸せだ。お前を好きだと口にすることを許される日が来るなんて」 夢見てはいけないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。 牧はそう言い添えると、震える両手で仙道の熱を帯びた頬を包んだ。 見返してくる漆黒の瞳から音もなく涙が溢れて落ちていく。神の部屋で見た、僅かに茶を含んだ黒曜石を思い出す。しかし生きた強い光を放つ瞳は鉱石の何百倍も美しい。長い睫毛が瞬くたびに銀の滴が細かく散る。黒く丸い吸い込まれそうな夜空に銀の星々が生まれ散るようにもみえる。 その眩いまでの尊さを前に牧は瞼を閉じた。そのままそっと、包み込んだ愛しい者の唇へ己の唇を重ねた。 つい先ほどまで羽のように重ねられていた柔らかな唇が離れてゆき、ゆっくりと言葉を紡ぐ。 「骨に埋め込んじまいたいよ。俺は死ぬまでこれひとつがいいんだから」 顎先にたまった最後の滴は、彼の後ろから射す沈みかけの夕日の光で一瞬金色に輝く。穏やかな琥珀色の瞳からうまれる悲しみの含まれない涙というものは、おわりの時までただただ美しいばかりだと知る。 包まれた頬に伝わる愛しい者の放つ熱と、歓喜に沸く己の頬の熱が重なり合って、熱くて熱くてのぼせそうだ。今ならこのまま、この熱に溶かされてもいいと思うほどに仙道は幸せに酔いしれる。 「俺も明日、お前に指輪買ってくる」 「気持ちは嬉しいけど別にいいよ。俺、アクセとか全然しないから慣れてないし、毎日とかできねーもん」 「そんなの俺と同じだろ。銀色の……俺の薬指よりひとつ小さいサイズのプラチナを、お前に贈りたい」 「金じゃないんだ」 「大荷物かかえて雨に濡れて。途方に暮れきった、出会った時のお前の睫毛に乗っていた水滴の色だ。多分それを見た時にはもう、俺はお前に魅かれていたんだろうな。そうでなけりゃお前を強引に家へあげた自分に説明がつかん」 「そんな……。あん時の俺は着ぶくれしてたし疲れてて酷い有様だったのに」 「その後だって俺にとってお前のイメージカラーはずっと銀だ。朝日を反射する海を思わせる。いつの間にか銀色が俺の一番好きな色になっていたよ」 仙道は驚きと照れくささに目を瞠った。─── こんな抽象的というか詩的な表現をするような人だとは。一緒に暮らして随分彼を知った気でいたけれど。彼の繊細さに伴う魅力に改めて気付かされる思いだ。 「……じゃあ俺は、あんたにプラチナを贈れば良かったのかな」 「金でいい。お前が俺に似合うと言うから、二番目に好きな色だ」 俺を思わせる、彼にとって一番好きな色で贈りたいと言う。そこに込められた深い愛情が、再び喉の奥を熱くさせる。 「……そう、良かった」と返す震える声に牧は綺麗な瞳を柔らかく細めた。 そのまま仙道の左手をとると、まだ何もはめられていない薬指へ柔らかな唇で触れて囁いた。 「ここへ、贈るから」 「……もらえるの、待ってます」 満ち足りた微笑で頷く男があまりにも頼もしく、そして美しく愛しすぎて。仙道はもうどうしていいかわからず、精一杯の力で。初めて正面から牧を胸におさめきつく抱きしめた。 仙道は確かな愛しいぬくもりを腕におさめながら、胸の内で囁いていた。 あんたが金の滴で、俺が銀の滴ならば。俺達は一対の唄なのだと。 あの詩─── いつかの夕暮れ時、彼を見て思い浮かんだ古い詩にあった。 『銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに。』 あれは、俺と牧さんの唄だ。銀の滴が降り注ぐところに、金の滴もまた降り注ぐ。降り注ぐものはきっと、それぞれが抱く相手への愛しさや慈しみなどの美しい想いだろう。幸せゆえに流す彼の金の滴が俺に同じ想いで銀の滴を流させるのだから。 俺の解釈はこの詩の解釈としては間違ったものだろう。けれど正しい意味など調べたりはしない。俺にとっては幸福な涙を交わしあえるこの特別な関係を表した唄として胸にしまっておきたいから。 誰にもこの解釈は教えない。この腕に抱いている金の滴を持つ人─── 牧さんにすらも。 けれどもし、いつかどこかで偶然、彼がこの詩に出会ったとしたら。 教えなくても俺と同じ解釈をする気がする。俺を銀色だと言った、唯一人の金色だから。 |
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『銀の滴降る降る』はアイヌの叙事詩に出てくる歌です。こちらのサイト様の説明も綺麗ですよ。 |