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一人淋しく家を出た二日目の天気は薄曇り。冴えないぼやけた景色の中、仙道は活きの下がった魚のようなどろんとした目でのろのろと大学へ向かった。 何もかも嫌になった気分で不貞腐れていたせいだろう。午前中は何かと喋りかけてきた仲間や、ダチでもないのにいつも何故か近くにたむろってくる女の子達も。気付けば周囲には見事に誰もいなくなっており、広い講堂には自分一人。静かで大変宜しいことだ。 仙道は壁時計を見てからのんびり歩き出す。食欲はないが部活までには何か胃に入れておかなければいけない。 とっくに昼を過ぎているせいか学食内は人もまばらでとても静かだ。メニューを気のない目で眺め突っ立っていると、思い人から返信メールがきた。 『件名 Re:松井さんって誰ですか? 松井はまるっと会で俺と幹事やってたアゴヒゲ。 松井のところに今日も泊まることになった。 お前も家に仲間呼んでいいぞ。ただし俺の部屋は入室不可。』 珍しく長い文面なのに喜ぶどころか悲しみの海にどぶんと放り込まれてしまい、目の前が暗くなった。
即返事をする気にもなれず、閑散とした食堂のだだっ広いテーブルにつっぷしていると、「仙道〜、こんなとこで寝てんなよ」と後頭部を何かの角で叩かれた。
「痛ぇな、何すんだテメェ……」 不機嫌オーラ全開で振り向いたそこには、雑誌を手にしている山下先輩と楽しげな顔をした井沢先輩。そして真っ青な顔でおろおろしている新山が立っていた。山下が頭を叩く前に新山に声をかけさせたのが三人の様子から見て取れる。 「………あ〜…皆さんおそろいで。もうそんな時間すか。俺も行こうかな」 「まだ部活の時間にゃ早ぇよ。ま、ここで皆で一服しようぜ。俺をテメェ呼ばわりしてガンくれやがった仙道の侘びだ、こころよく奢られてやらあ。おい新山、そこのメニューよこせ」 立ち上がりかけた仙道の肩を押し留めた山下が隣へどっかりと腰を下ろしてくる。 「ゴチ〜。つーても俺はんな腹減ってねーからホットドッグでいーや」と笑う井沢の後方で新山は仙道に両手を合わせている。 仙道は己の財布を投げやりにテーブルの上に放り出した。 「手持ちこんだけなんで、お手柔らかに」 「財布ごと出すかよ。ったく、諦めがいいというか豪気というか。どれどれ…?」 静かな食堂に山下の笑い声が大きく響く。井沢が山下の手から奪い見た仙道の財布の中に現金は八百円しか入っていなかった。 「ホットドッグが二百円だから、六百円を山下と新山と仙道の三人……。お前らも全員ホットドッグにする?」 「それじゃこいつの晩飯どーすんだよ。…しゃーねぇ、晩飯は奢ってやらぁ。福麗華楼でいいよな」 「えっ!? おい、仙道良かったな! 山下先輩、俺もすか?」 味もなかなかで量もあるが安くもない中華料理の老舗店名に、先ほどまで小さくなっていた新山が身を乗り出した。 「もちろんオメーも強制参加に決まってんだろ。井沢もな。当然だけどお前らの分は自腹」 「……ですよね〜。あーあ。んじゃ俺、百五十円のミニソフトで」 「調子のんなテメー。あ、山下さん六百円分どーぞ。俺も腹減ってねーんで」 「調子いいのはテメーだよ。ま、いいや。俺は腹減ってっからチキンカツ丼。足りねー分はこれで払っとけ。あ、そだ。おめー飯食ってねーだろ、腹の音なってんぞさっきから。おい新山、やっぱチキンカツ丼二つな」 「や、マジ俺食いたい気分じゃなくて」 「うっせえ。それがモテスタイルの作り方なんか? テメーも太らせてやる」 山下は仙道の頭を小突くと、新山に自分の財布から五千円札を追加して渡し、注文に行かせた。 せっかく静かだったのに大声の山下がいるだけですぐに煩い空間となる。しかも食いたくもないのにチキンカツ丼…。ありがた迷惑とはまさにこのことなのに、これでまた望まない借りができてしまった。今夜の晩飯だってそうだ。ちょっと美味いただ飯が決まりはしても気など晴れやしない。借りが二倍になるだけだ。……それでも今夜も一人コンビニ弁当よりはましかと思うのは、もうすっかり二人暮らしに慣れてしまっているからか。 などと仙道はくだらない会話がやりとりされている横でぼんやり考えていた。 部活が終わり着替えている最中ずっと、仙道は新山にペコペコと拝まれていた。 「つーわけでね、マジ金欠なんだよ俺。悪ぃと思ってっけど逃げさせて!」 「…いーよ別に。そろそろ一回くらいは付き合っておかねーと煩さくなりそうな頃だったし」 「わかってるねっ! 流石一年でたった一人のスタメン様〜。何でも見抜いてらっしゃる頼りになるー!」 「飯食うのに関係ねーだろ。全く調子いいよな新山は。おい、そろそろ先輩達のシャワー終わんぞ?」 「ヤベ。んじゃ明日な!山下先輩にはうマジうまいことたのんまーす!」 鉢合わせしないように新山は逃げ帰っていった。 仙道としては別に人数がいようがいまいがどうでもよかった。人数が多ければ山下は自分を手下に見せたいがために偉そうに振舞い、少なければ昼間のようにいい先輩面で恩を着せようとするだけで。どちらにせよ面倒には変わりない。 そんなことよりも。仙道にとっては明日こそは牧が帰宅するかどうか。また、会えてもまだ牧の様子がおかしかった場合、どう修復をはかればいいかばかりが頭を占めていた。 山下が気に入っている四川料理の店である福麗華楼はビジネスホテルの地下にある。そこへ繋がる地下街を山下と井沢と仙道の三人で歩いていると、突然井沢がけっこうな広さがあるドラッグストアの前で立ち止まった。
「そーだ。俺、買物頼まれてたんだ。ちょい寄っていい?」 「おー、いーぜ。けど腹減ってっから早くしろよな」 そう返事をした山下は井沢と共に店へ向かったが、通路で待とうとした仙道へ振り向くと顎で来いと示してきた。仙道は軽く肩を竦めると蛍光灯がやけに眩しい店内へ足を踏み入れた。 ご機嫌の山下は店内でかかっている懐メロを口ずさんでいる。自分を美声と勘違いしているお目出度い山下はカラオケが大好きだ。仙道は興味もない品々が並ぶ棚をぼんやりと眺めながら、それを聞かされていた。ワンフレーズならまだしも、知ってる歌なら全てフルで歌うとばかりに店内で歌われるのが嫌で、仙道は歌を遮るべく口を開いた。
「最近は昔流行った歌を歌う歌手、増えましたよね」 「なー。人の歌でアルバム作るなんざプライドねぇのかっての。いくら上手く歌えたとしても、んなのカラオケとどう違うんだよ。誰が買うかなめんなバーカってな。どう上手く歌おうが、二番煎じなんざ本人の味はぜってー超えられねんだ。自分で作れねーんなら作詞家でも作曲家でも頼りゃいーじゃん。プロがプロと組んで作らねーから、最近の歌は似たりよったりなんだよ」 山下はご機嫌にとうとうと語り終えるとまた、今かかかりだした曲を歌いはじめた。確かに山下の言うことも一理あるがカバーの方がいい場合もなくはない、などと話し相手が牧であれば会話を続けようとしただろうけど。山下という存在にうんざりしていた仙道は口を開くのも面倒で、ただ軽く頷いただけだった。 山下の傍からこっそり離れようと踵を返そうとした時。ふいに歌詞のワンフレーズが仙道の耳にひっかかった。
「……そこ、もう一回最初から歌って下さい」 「へ? ♪愛さえあればぁあ〜いいと言いながら〜 プゥレゼントの値段だーけでー 気持ち〜はかぁてるぅ〜 セクハラ〜上司を〜オフィスでかわーしぃ〜」 「あざっす、もういいです」 「いいってお前、こっからがサビなんだぞ」 続きなど耳にも届かない仙道は眉間に薄くしわを寄せる。次の瞬間、仙道はぐるりと体の向きを半回転させて山下へ向き直った。 「あの! すんませんけど俺、急用思い出したんで。やっぱ飯はまたの機会にお願いします! さーせん!」 190cmに直角に近いほど深く頭を下げられ、山下は呆気にとられた。その一瞬の隙を突くようにガバリと勢いよく頭を振り上げた仙道は踵を返すと猛ダッシュで店を出ていった。 一人残された山下の肩に井沢の手がポンッと乗せられる。耳元には井沢のやけに上手く軽い歌声。 「♪感謝して〜もっとしてぇ〜 」 「井沢……テメェ」 「目をかけてる可愛い後輩にまたふられちゃったね、ミ・ユ・キちゃん」 「テメーはっ…! いちいちいちいちウッセーんだ! 下の名前で呼ぶなっつってんだろ、殺すぞ!」 「仙道を手なづけるのは難しいと思うよ〜。あいつ、調子はいいけど絶対本音みせないじゃん。もういい加減あきらめて別の奴にしたらあ?」 「そんなんじゃねー! だぁーもー腹立つ!!」 なだめようとしているのか面白がっているのかわからない井沢に山下は怒鳴りながらも真っ赤になっていた。 山下達と別れた仙道は電車に揺られながら腕時計を確認する。駅から家まではけっこうある。しかし初めて行った時よりも格段に体力はついている。坂道続きの上に更に砂利の坂道にも慣れた。家まで走って二階に駆け上がって金を財布に突っ込んで。それからまた走って駅にいって電車に乗ればギリギリ間に合うはず。 (よーい……ドンッ!) 仙道は改札を出ると同時に子供のように胸の中でスタートをきって家を目指し走り出した。 * * *
突然の思いつきではあったが、今日のうちに事を半分ほど終えられ、仙道はホッと胸をなでおろした。
気分が少し浮上したため、今夜はこのまま外食をすることに決めた。最上階の飲食店街はまだやっているけれど、そういう店に入る気がしなくてデパートを出る。すぐ食べられる安価なファーストフード店系はないかと周囲に目をやれば一軒の書店が目に入った。 恋愛というものを知っているようで実は自分は何も知らなかったのでは、と昨夜考えていた仙道は空腹も忘れ本屋に吸い寄せられていった。
今まで存在していても気に留めたことがなかった恋占いや恋愛指南書のコーナーを歩いてみる。夥しい数の恋愛を扱った書物のタイトルや平台に置かれている表紙を見ているだけで眩暈がしてきた。バスケより釣りの書籍の方が数がある。恋愛ものに至ってはそれらとは全く比較にもならない膨大な数だ。女の子達はきっと、恋愛を扱うなにがしを意識的に摂取してきたのであろうことが、これらを見ていると理解できた。
それに反して、それらを一切手に取ることなく生きてきた俺。知識不足に加え熱意も不足していたそんな俺が、いわば恋愛知識において百戦錬磨的な彼女達と付き合っていたのだから。 「……そりゃあ、彼女達の期待になんてこたえられるはずもねーよ。捨てられて当然だ」 そんなお粗末な俺ではあるけれど。今度ばかりは終わらせたくない恋愛をしている真っ最中なのだ。 初めて本気で好きになった人が俺に愛想を尽かしそうな今。どうにかして彼のハートを俺にこう、ぎゅぎゅぎゅと引き寄せて固定しなければいけない。溺れる者が藁にもすがるのならば、今こそ俺は今まで見向きもしなかった恋愛指南書にもすがるべきだ。しかしどれを買えばいいかなど、表紙を見ただけでわかるわけもない。 仙道はピンク色一色に染まっている平台の前で立ち止まり、目を瞑った。膝をかがめて詰まれている一冊を腕に挟んで目を開けると、なるべく人目に触れないよう猫背になってこそこそとレジへ向かった。
今度こそ本当に帰りつくために電車に乗り込み、買ったばかりの本を表紙が他の客に見えないように気をつけながら軽く目を通す。
短い乗車時間では軽くとはいえ全てに目を通し終えることはできなかったが、それでも仙道は本を棚にわざと置きざりにして車両を降りた。 「あんなくだらない本に760円も……。極度の空腹と疲労で頭がおかしくなってたんだ」 仙道は760円もあったらもう一杯牛丼を食えたのにと、牛丼屋を見つけるまえに本屋へ目がいってしまった自分に今更ながら唸る。 半分雲が覆う夜空を見上げながら、本日四度目となる街頭もまばらな坂道をよろけた足取りでゆっくりと上った。 今頃彼はサーフィン仲間と楽しく過ごしていたりするのだろうか。そうだったらいい。そして照れて取り乱したことなどすっかり忘れて、明日にはいつもの落ち着いた笑顔で『おかえり』って俺に言ってくれるんだ。それから一緒に晩飯をつくって、食って。風呂のあとはまた俺の腕の中に納まってくれる……。
無理やり幸せな明日を思い描くことで、疲労した足をどうにかひきずって歩いていると声をかけられた。
「よー、仙道君久しぶり。随分くたびれてんねぇ。部活って毎晩こんな遅いの?」 牧のサーフィン仲間の一人である髭面の西内がのんびりした調子で近寄ってきた。 「こんばんは。普段はもっと早いすよ。今日は用事があって。西内さんは松井さんとこの今夜の飲みに参加してないんすね」 飲み会かどうかも知らなかったが仙道は牧に関する情報をなんでもいいから拾えないかと、かまをかけてみた。西内は「マツイ……?」と首を傾げて片眉をあげた。 「あの、まるっと会にも来てたアゴヒゲの人ですけど。西内さんは知らない?」 「やっぱその松井か。仙道君人違いしてね? あいつはこの時期毎年出稼ぎでいないよ。今頃は青森とかそっちじゃねーかな? なんで松井?」 「なんでって……。牧さんが…松井さんとこに泊まるって、言ってたんで……」 牧に嘘をつかれたということがあまりにショックで仙道の指先が軽く震える。 そんな自分の反応に、仙道は今まで牧に嘘をつかれたことがなかったことに気付いて呆然とした。 こらえていた疲労感に一気に飲み込まれ、もう一歩も上れないどころか言葉までも発することができなくてただ立ち尽くす。
西内は明らかに様子がおかしくなっている仙道に目を瞠った。 「あ、あー……うん。ま、元気だせよ仙道君。ほら、仙道君だって親と暮らしてた時は親に嘘ついてイケナイトコとか行ったりしてたろ? 牧も後輩には言いにくいトコにでも行ってんじゃね? 気にすんなよ」 元気付けようと西内は仙道の背中をバンバンと叩いた。その気持ちはありがたいが、西内の身長は低い。必然的に仙道は背中の胃にあたる部分を連打されてしまう。 何度か体をよじって仙道はよけようと試みたが、執拗に叩いてこられてしまい、食べたばかりの牛丼並大盛りがせり上がってきて喉をふさぐ。仙道は今にも出てきそうな口元を手で抑えて涙目になった。 「泣くなよ仙道君〜。困ったなー…。よし、今夜は俺が泊まってやるから! 飲もうぜ!」 西内は手に提げていたビニール袋を仙道へ開いて見せた。中には発泡酒三本と柿ピーの袋。 「……泣いてないし…平気すから」 苦しいながらも逆流しかけていた牛丼をなんとか胃に押し戻して言ったけれど。西内は親指をぐっと上に向け、「いいってことよ。もう何も言うな」と、タバコでくすんだ黄色い歯をのぞかせた。 |
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弱り目に祟り目・踏んだりけったりの仙道です(笑) 仙道が気にした歌は『KANSHAして』。 |