Surely goes well. vol.16



穴がないから掘ってでも埋まりたい。しかしそれも叶わないからほとぼりが冷めるまで逃げるしかなかった。格好悪いわ情けないわで立つ瀬がないまま、書き置きをして早朝に家を逃げるように出てきてしまった。一週間分の下着と二枚の衣類、それと学業と部活に必要な物を車のトランクに突っ込んで。
本当は逃げたところでどうなるものでもなければ、逃げることによって事態が暗転するケースが多いのは知っている。けれど埋まってしまいたいほどの現実に向き合うためには冷静さが不可欠。故に己の頭がいくらか冷めるまで時間が欲しかった。
「日が昇るのが遅くなってきたなぁ……寒い」
漸く開け始めた空を見上げて呟いた己の声は暗く消え入りそうに力がない。
大学近くのコインパーキングへとりあえず駐車して、牧は今日必要な物をショルダーバックに乱暴に突っ込むと大学近くのコンビニへ重い足取りで歩き出した。

牧は何度も痛む胃のあたりに手を当てては眉間に深い皺を寄せていた。頭の中で昨夜の失態による後悔と今後予想されるであろう最悪の事態ばかりが渦巻いて胃液を何度も逆流させるからだ。
そんな牧を仲間は体調が悪いのかと気遣ってきたが、正直そんな厚意すら煩わしくて「昨夜変なもん食ったせいか腹具合が悪いだけ」と嘘をつき、「すまんが今日の俺はいないものと思ってくれ」と断りを入れた。これでもしうっかり八つ当たりなんぞしようものなら、いよいよもって土中どころかマグマまで穴を掘って溶けたくなってしまう。
そうして牧は講義のない空き時間や昼休みはなるべく一人になれるような場所へ足を向けすごした。

一人になればますますもって昨夜の全てをこと細かに思い出してしまい深く後悔の海に沈みこむ。
仙道にアロマタイムを要求された時に、二ヵ月ぶりだから褒美をもらっても許されるかもしれないと思った自分を『何にどう許されると思ったんだこのバカ野郎!』と怒鳴りつけたい。座椅子役はどっちだと訊いた自分を『せめて自分が座椅子役をすると先に言え、このスカポンタン!』と頭をしばきたい。案の定、二ヵ月ぶりに愛しい男の体温に包まれて、高く形の整った鼻梁が髪や耳や首筋に触れていることを強く意識してしまえば下半身に血流が集まってしまって。もうその時点で十分ヤバイのに亀みたいに縮こまるだけの自分に『その状態がバレる前にトイレでも何でもいいから理由をつけてそこから離れろ、この強欲野郎!』と膝蹴りをして息の根を止めてやりたかった。
自分からねだったわけではないから怪しまれないだろうという甘い希望を免罪符に、久しぶりに直接感じる仙道の香りや体温や重み、そしてあの時間だけ少し甘えが入る声などを全身で感じ取れる幸せを欲した。
そうしてまんまと強過ぎる幸せに脳がとけコントロールを失った体は昂ぶり、頭はあと少しもう少しだけと危険よりも欲を優先させた結果。仙道の突然のふざけに即座に対処できず、半端ながらも昂ぶった股間を晒すはめとなり。あまつさえ仙道の指先が不幸な偶然にも俺の乳首をぐりっと刺激し。尚且つ同時に半勃ちの股間に仙道の肘か何かがあたったことで、口からはおかしな声が飛び出す始末……。

俺がゲイだとあいつに完全にバレてしまった。もう駄目だ。あいつに触れられていた最中の出来事なだけに、どうにも繕いようがない。
─── 終わった。
こういうのを"詰んだ”というのだなと、目尻にたまった涙を指でぬぐい奥歯を噛みしめる。
一緒に暮らして半年以上たつ頃には、あいつは人の性的嗜好で差別をするようなくだらない固定概念に支配された奴ではないことは分かっていたけれど。それと己が恋愛対象にされてしまうのとは話が違うだろう。まして同じ屋根の下での生活など身の危険を感じないわけがない。あんなじゃれついただけのおふざけですらおっ勃てるような危ない奴となど……仮に俺が仙道だったら恐ろしくて荷物をまとめてとっくに逃げているはずだ。
俺がバスケと同じくらい大事にしてきたあいつとの同居生活の日々を、こんなくだらない自分勝手な欲望によって終わらせてしまうことになろうとは。あと二年と数ヶ月隠し通せば仲の良いバスケ仲間の一人として、住まいは離れようともその先もずっと変わらず楽しくやっていける関係でいられたのに。残りの同居生活どころか未来までも潰してしまった。

昔、まるっと会で女達が別れたいのに別れてくれない男のやっかいさを酒の肴に盛り上がっていたのを聞いていたことがある。一時期でも恋愛していた相手ですら、本気で一度嫌になられてしまえば修復は困難であるならば。一時期どころか全く恋愛対象にすらしていない者、しかも同性相手に良好な関係へ修復する術などあるものか。
俺には不純な想いを秘めたまま接してきたことを謝るしか出来ないし、謝ること以外は何もしてはいけないと重々理解している。けれど今あいつの顔を見てしまったら……もうお前への恋情は一切捨てて出会った頃の俺に戻るから友の縁は切らないでくれ、などと出来もしないことを言いかねない。出て行くあいつをそんな我侭で不必要に困らせてしまうのも怖いのだ。

わかっている。もうどうしようもない自業自得だということは。だけど冷静にあいつと向き合って説明するためにはまだあと一週間時間がほしい。いや、あと数日でいい。
「帰りたくない……どうしても家に帰りたくない」
現実から逃げ頭を抱えていると、突然肩に手を置かれて牧は顔をあげた。
「神……? なんでお前がここに?」
高校時代の部活の後輩である神が、以前と変わらない黒目がちで鹿のような目で牧を見降ろしていた。違う大学の神が何故他校の男子バスケ部部室にいる? 
牧は挨拶も忘れて神の顔をまじまじと見詰め返してしまった。
「こんにちは、ご無沙汰してます。なんでって……メール見てくれてないんですか?」
「メール?」
「昨日の晩だから……九時半頃送ったかな? あ、いいですよ今見なくても。俺、練習試合の調整に行く副主将の代理に急遽選ばれたんです。で、さっき牧さんとこの主将達とロビー横の……」
今度は神が言葉を途中で止めて牧をじっと見詰めてきた。牧は妙な居心地の悪さを覚え「何だ?」と問うた。
「いえ。随分なんというか……憔悴されてたようですけど。さっきも“帰りたくない”とか言ってましたし?」
「聞いてたのか……」
「はい。顔色も良くないように見えるのは日陰のせいではないような。機嫌も相当悪そうですしね」
「すまん。お前には何も関係ないのに。久々だってのに仏頂面で悪かった」
「いえいえ。久しぶりに会えて、しかもあまり見れないレア顔を見れてラッキーです」
にっこりと微笑んだ一つ下の後輩は相変わらずの食えなさを隠しもしない。自分が高校時代主将だった時にはこの食えなさに手を焼かされもし、また頼もしくも感じていたことを思い出す。
「お前は昔から俺の不機嫌な時も我関せず、どこ吹く風ってな調子だったな」
苦笑を漏らせば神は軽く肩をすくめて大きな目を細めた。
「そうでもしないと牧さんは不機嫌さを後輩には隠し通そうとしてたでしょ、優し過ぎるから…」
牧は軽く目を瞠った。
「そんなことはない、かいかぶりだ。俺は叱る時は容赦なく後輩に拳骨を落としてきたぞ」
「そういうんじゃないんですよ。……まぁいいや、それよりどうです? 部活終わったら、今夜は俺の家に泊まりませんか? 久しぶりだからゆっくり話でもしたいんで招待させて下さいよ」
「俺を? お前の家に今まで一度も泊まったことがないのに?」
「何にでも初めてはあるものじゃないですか。終ったら一緒に帰りましょう。あ、宿泊に必要なものとかあります? 途中でコンビニでも寄りますか?」
突然の強引な誘いに戸惑いはしたものの。先ほどの独り言を聞かれてしまっていては断るのも憚られた。
「必要最低限は車に積んである。……じゃあ、悪いが一泊宜しく頼む」
「何泊でもどうぞ。出来ればそのうちの一日くらいは数人呼んで飲みたいんですけど。清田とか俺の家に牧さん泊めたのを後から知れたら末代まで文句言いそうなんで」
それじゃまた部活終わった後で、と含みのない笑顔を残して神は去って行った。

思いがけず懐かしい者に会い、しかも面倒で考えていなかった今夜の宿も決まってしまった。そんなことで僅かながらも息を吸いやすくなっている自分の単純さに牧は己を笑った。
今朝から電源を切っていた携帯を開き、昨夜神が送ったというメールを探して読む。それから今朝届いていたもう一通も開く。
─── 『昨夜は驚かせてすみませんでした。今夜こそは絶対ハンバーグにしようと思ってたのに残念です。』
何も普段と変わらないような仙道からのメール。これを送信するまでに、あいつはきっと何度も書き直しただろう。俺への侮蔑や嫌悪が滲んでしまう文面を何度も消して、削って削って漸く無難ないつもの調子にしたはず。逃げた俺をなんとか傷つけまいとした優しさに頭が下がる。
「こんなにいい奴を何で俺は……」
帰らないのはあいつのせいではないのだから、心配はかけさせられない。
携帯を長い間握りしめ考えに考えて、やっとメールを打ち込んで三回読み返す。
─── 『松井のところに泊まることになった。急ですまない。』
まともに働いていない頭で考え抜いてもこれでいいのかわからなかった。弱っている自分が昔の後輩に泣きついたと思われたくなかったし、何故神なのかを説明するのも面倒だった。だからバスケとは無関係のサーフィン仲間にしておいた。松井は今時期は出稼ぎにいっているから海岸でばったり仙道と出くわす心配もないはず。
送信ボタンを押し、牧は重い腰をあげて自分のロッカーを開いた。

*  *  *

神のナビで辿り着いたのは大きくも小さくも特別古くもない、これといった特徴のない一軒家だった。タイミングよく神の父親が長期出張中で車庫があいていたため使わせてもらうことにした。
家にあがらせてもらうとこちらが恐縮してしまうほど、神の母親と妹二人に歓待され居間へ通された。高校時代には試合に何度も足を運んでおり、また息子(兄)からは牧が頼りになる主将だとよく聞かされていたと女性たちは皆口をそろえて賑やかに語った。
突然押しかけて泊まることになったことを詫びても、「何日だってどうぞ! なんだったらお父さんの部屋を暫くは牧君用にしちゃいましょ!」とまで言われてしまった。もちろんその厚意は丁重に断らせていただいたが。

神と二人で遅めの夕食を御馳走になったあとは風呂を勧められた。神がバスタオルなどを渡しながらトイレと風呂場を教えてくれる。
「すまんな、色々と世話になってしまって」
「こっちこそ、牧さん部活の後でシャワー浴びてきてるのに面倒かけてすみません。先月風呂場をリフォームしたもんだから、家の中で新しいとこを見て欲しがってんですよ。まったく、明日だっていいのに…」
「いや、別に。湯船は別物だからありがたいよ」
ドライヤーや来客用の歯ブラシを戸棚から出していた神が動きを止めて牧へ視線をよこしてきた。
「何だ?」
数秒黙って牧を見詰めていたが、結局神はフッと口元に笑みを浮かべ首を軽く左右に振っただけだった。
「これ使って下さい。あと髭剃りはこれが父の、こっちが俺のです。朝、好きな方使って下さい。じゃ、ごゆっくり」
「サンキュ」
返事のかわりに軽い会釈をして神は脱衣所から出て行った。

牧はざっと体を流して湯船に指先をつけた。少しぬるいけれど湯を足すと溢れそうなのでそのまま浸かる。
リフォームしたての風呂場は明るく全てがピカピカのツルッツルだ。女性が三人もいるせいだろう、風呂場のあちこちにカラフルな容器や使い方の見当がつかないピンクに花柄の小物が沢山タオルかけにかけてある。湯船の横にはハイビスカスに縁どられた鏡まである。男二人暮らしの殺風景な昔ながらの風呂に慣れてしまっているせいか、妙に落ち着かない。
風呂だけではない。神の家に入ってからは当然ながら全てに対し軽く気を張っている。そのせいだろうか、神を車に乗せてからは仙道のことを考えずにすんでいた。
「……いや、一度思い出してたな」
食事に出された生姜焼き──甘めの薄い味付けをの薄切り肉を口にした時だ。神の家の味付けは全体的にすべてが薄口だが上品で美味かった。俺の母親より料理の腕は上な気がする。それなのに俺は一口食べた瞬間に、あいつの作った濃い味の生姜焼きの方が美味いと感じた。
そこまで考えて今頃、仙道の飯を食うようになってからは外食ではいつも無意識で最初の一口を仙道の飯の味と比べていた自分に気付く。母親の味や寮食の味よりも仙道の味が自分にとっての家庭の味になっていることに今更ながら気付き驚いた。
─── もしも今夜あいつと向き合う勇気が持てていたなら。あいつのハンバーグを食えたのかな。
昨日の夜は俺が作った長崎ちゃんぽんと惣菜の唐揚げか。あんな冷凍レトルトの長崎ちゃんぽんに豚肉を足しただけの手抜きじゃなくて、もっと手をかけて作ればよかった。あんな飯が俺があいつに食わせられる最後の手料理だったなんて。一昨日の晩飯は何だったかな。そうだ、あいつが作った親子丼だ。美味くて二杯も食った。あれがあいつの飯を食える最後だと知っていれば、もっと味わって食ったのに……。
ポタンと顎から滴が湯船に落ちた。黄緑色の湯にうまれた小さな波紋は見る間に消えていった。

風呂から上がった牧は居間の前を足音を立てないように通り過ぎ階段を上った。二階には三つの扉があったが、二つは可愛いネームプレートのようなものがかかっているので、何もないのが神の部屋だとすぐに分かる。そっとノックをすると扉が開かれた。
「俺も入ってくるんで、牧さんは好きにしてて下さい。悪いけど俺は自分のベッドで寝かせてもらうんで、牧さんは床…少し狭いけどここで寝てみて下さい。もし狭すぎるようだったら俺と場所交換になりますけど、俺のベッド、一箇所壊れて穴あいてて」
足元に敷かれた布団とその上に置かれた牧のショルダーバッグを指差しながら気遣う神を牧は片手を軽く上げて止めた。
「十分だ、狭くない。すまんな、布団敷くの手伝いもしないで。あ、これもらっていいのか?」
机の上にある二つの大振りなグラスに注がれた麦茶を指差す。
「どうぞ。二つとも飲んでもいいですよ。先に寝ててもいいですから」
「神」
「はい?」
「突然だったのに色々と世話になって申し訳ない」
「んな頭下げないで下さい……。俺が強引に招待したんですから」
「いやしかし…」
「もっと堂々と客らしく踏ん反りかえってくれていいのに。夕美香なんて『話に聞いてたり試合で見てた帝王っぷりが全然ない〜優しくていい人過ぎる〜』って残念がってましたよ」
「残念がられてもなぁ」
神は軽く笑うと、「じゃ、入ってきます」と部屋を出て行った。

高校の頃の部活仲間はほとんどが牧同様に寮生活だった。その中には神もいた。学年が違うので寮部屋は階も違ったが、牧が主将の時は所用で何度か神の部屋にも行った。けれどどんな部屋だったかまでは覚えていない。
「こんな雰囲気だったか……? まあ寮は四人部屋だったから比べようもないが」
思わず独り言を口にしてしまうほど、初めて入った神の部屋は物が多くて驚いた。しかし一見雑然としているけれど、大まかに分別されて片付いてもいる。本棚には本と一緒に色とりどりの石が並べてある。鉱物に興味があることなど全く知らなかった。
理科の実験準備室のようで物珍しく見ていたけれど。あまりじろじろと人の部屋を見るのも失礼な気がして早々に布団にもぐりこんだ。
横たわれば一日分の疲れ─── 正確には慣れない深い後悔のし過ぎによる悩み過ぎ疲れがどっときた。昨夜はほとんど寝ていなかったことも手伝って、深いため息をひとつ吐けば間もなく牧の意識は途切れた。

「お待たせしました。……って、もう熟睡ですか」
部屋へ戻ってきた神は部屋の電気をつけたまま、微動だにせず眠る牧に苦笑を漏らした。
神は牧の足元をまたいでベッドへあがった。上から牧の寝顔をそっと覗きこむ。眉間に軽く皺を寄せ口を引き結んだ厳しさの滲む顔へ指を伸ばす。しかし用心してぎりぎり触れない位置で指先を止める。
「難しい顔して……。何をそんなに夢の中でまで苦しんでいるのやら」
昔から面倒事や悩みがあっても人に頼ったり甘えたりできない人だった。それは今も変わっていないようで、苦しむ彼はまた一人を選んでいた。そんなところが自分と似ていて……たったそれだけの類似点だけを宝物のように思っていた。
本当は誘ってはいけないタイミングだと気付いていながらも、久しぶり過ぎて離れ難過ぎる思いが勝って強引に連れてきてしまった。一人で考えたいことが山積みのところを邪魔されて、それなのに何度も『世話になった』と恐縮する人の良さも相変わらずだ。
強さも不器用さも人の良さも、この人の全部が好きだった。彼の意識を自分に少しでも多く振り分けてもらえないかと願った日々を今でもつい昨日のことのように思い出せもする。こうして近くにいれば今でも全てが好ましいままなことを知る。近くにいてさえ無理だったのに、疎遠になれば嫌いになれる要素など探しようもないのだから当たり前かもしれない。
けれどこの指は彼の瞼が開かれている時にその頬に触れることはないことを、もう辛いと感じなくなっている。やっとこの人への恋という自分を苦しめるだけの要素を消せていたことをこうして確認できて、素直に嬉しい。そうなるよう無意識に導いてくれたひとつ年下の、いつでも元気一杯な恋人に深い感謝をする。
「……おやすみなさい」
触れぬまま戻した指を軽く握りしめて神は柔らかに微笑んだ。

蛍光灯から伸びる紐を引っ張った音が静かな部屋に響いても、牧の静かな規則正しい寝息が途切れることはなかった。






神登場。最初は高砂にしようか迷ったのだけど。人のうちのご飯や外食は美味しくても、
自分の家のご飯が手抜きであってもやっぱり落ち着きますよね〜。



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