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「すっげー落ち着きます……。あ〜……最高っす」 「そうか」 「人間、腹減ったり寒かったりすると不幸感がぐあーっときますよね。その逆で、腹が満たされてて温かいと幸福感がぶわーっとくるっつーか。あ、腹が減りすぎるとイライラしません?」 「するかもな」 「そういや今日、食堂で隣の女の子達がアロマの話をしてましてね。いい香りを感じるといい気分になるのを応用して、香りで精神をコントロールするとか出来るらしいっすよ」 「へえ…」 「例えば、ダイエット中に腹が減った時は、食い物とは真逆の香り。食えない物の匂いを嗅ぐと食欲が減退するんだって。まあ、確かに腹減ってても公園の便所の中で飯を食うとかは難しいすけど?」 「そうだな」 「けどさぁ、心底腹減ってたら俺なら便所でも立ち食いできそうな気がする」 「俺も」 俺の腕にすっぽりおさまって背中を預けている彼の髪に頬ずりする。暑いらしく汗をかいているのに逃げようとしないのは、きっと同じように心地よく幸せだと感じてくれているからだ。
しっかりと触れ合ってしまえば言葉で確認するまでもなく俺達はラブラブなのだとこんなに簡単にわかって拍子抜けした。我慢とか下手な気遣いなんてせずにもっと早く行動すれば良かった。 ほうっ……と安堵と幸せの吐息がもれてしまい、それが耳裏にあたったようで牧さんはびくりと肩をすくませた。 「あ、ごめんね。あったかくて気持ち良くて、つい。気持ち悪かったっすか?」 「……平気だ」 また彼の背中の温度が上がった気がする。もしかして少し感じちゃった? それとも照れたのかな? 表情を覗き込みたいけれど、先ほどから額を膝に乗せて組んでいる腕の中にしっかり埋めてしまっているからできない。TVも観ず俺の内容のない話を聞いて相槌を打つだけ。そんな退屈になりそうな状況を終わらそうとしないのは、彼だってこの状況を望んでくれていたからに違いない。
極端にそっけない返事が照れからきているからだとわかるから、たまらず顔がにやけまくるけれど。それでもまだ少し緊張しているせいか、自分でも不自然に口数が多くなるのを止められない。けどそれも仕方がない。だって意識がしっかりある状態で彼をこれほど長く抱きしめているのは初めてなんだから。牧さんが今日のお前は格別にお喋りだと茶化してこないのもすごく助かっている。会話が途切れてしまったら逃げられてしまう気がしてる……なんて、臆病な自分を暴露しかねないから。
─── 本当に好きな人を抱きしめるというのは、こんなに余裕がなくなってしまうものなんだな……。 くすぐったい幸福感にどっぷり浸りつつも、目はしっかり眼前にある彼の逞しくも艶めかしいうなじを愛でる。……ん? …あれ、いつもと何か少し違うような。 「あれ? 牧さん日焼けしました? ……つーより軽い火傷っぽいような色? そんなに最近天気良かったかなぁ」 「さあ……」 パジャマの襟元からのぞく魅力的なうなじに指で触れてみる。しっとりとして、熱い。 「暑過ぎるせいかも? やっぱさっきみたいに俺によりかかった方がいいすよ」 体育座りで顔を伏せているような状態だからだろうと、また彼のみぞおち辺りへ手をまわしなおして上体を起こさせる。二回目だったせいか、もうそれほど驚かれなかった。 これでまた顔を覗き込める。腕の中の愛しい人を覗き込んだ仙道は衝撃をうけた。こ、これは……。 「……暑い」 ぐったりしてるような声を聞いてもなお、俺は腕をほどけなかった。彼の血色が良過ぎてのぼせきってしまっている様子がなんとも艶めかしい。薔薇色の頬や唇や目淵がまるで……情事を終えた後の彼はこういう顔をしているのではないかなど容易く妄想させるほどに……。彼の抱える熱がそのまま伝染したようでこちらの体温も更に上昇する。
先ほどよりもずっと熱くなってしまったというのに、仙道は腕をほどくどころか腕の力を緩めることすらできず。
結局母親からの電話という邪魔が入るまで、牧をしっかりと抱きしめ続けてしまったのだった。 * * * * *
一夜が明け。昨夜のあの出来事は何だったのか。それ以前に、何故ああなったのか。そもそもあれは夢だったのではないか等々。朝起きてから家を出る直前まで、牧は同じ自問自答を繰り返していた。
台所でトーストを焼いている間、皿にソーセージを乗せてレンジに突っ込もうとしたところで仙道が顔を出した。いつもの爽やかな笑顔で『おはようございます〜。いい天気っすねぇ』と言って椅子に座るから。そうしていつも通り朝飯を一緒に食べるものだから。内心激しく落ち着かずにいるのは自分だけだから、ますますもって夢に思えてきていた。 しかし家の鍵をかけていると、『できれば今夜もちょっと時間もらいたいんで……出来れば、だけど』などと唐突にドキリとさせることを呟いた後で『……じゃっお先に!』とはにかんだ笑顔を浮かべた仙道が先に走って行ったから……やはり夢ではなかったのだと知る。 「……あんな凄い褒美を今夜もなんて。嘘だろ……いいのかよ」 一人玄関前に残された牧は一瞬にして全身に蘇った昨夜の熱が引けていくまで、長い間その場で立ち尽くしていた。 午前の講義中、牧はずっと昨夜のことを全て最初から順番に。思い出せる範囲でだが何度も何度も。まるで壊れた機械のようにただただ反芻していた。 * * *
昨夜、TVで今週末のスポーツ番組チェックをだらだらしていると、仙道が隣に腰掛けてきた。
『あのさ、牧さん昨日、ギブアンドテイクっつって俺の匂い嗅いでみてたでしょ』と、唐突に言われて俺は身構えた。 『…それが?』 あの短い接触で俺の邪な気持ちが悟られはしないはずだが……と警戒心が頭をもたげた。しかし表面上は努めて平静を装う。すると仙道はケロリとした調子で変なことを言い出したのだ。 『あん時の牧さんは寝る前で眠かったかもしれないけど、寝ぼけてはいないよね。俺がやらかすのはいつもの寝起きの三倍は朦朧としてる時なんすよ』 『……それで?』 『だからさ、俺も寝ぼけてない状態で牧さんの匂いを嗅がないとフェアじゃないんじゃないかなーと。昨日もさ、ちょうど今くらいの時間だったよね? だからちょっといいですか?』 何をと返す前に仙道の手が俺の右肩に乗せられた。その手に気を取られている間に、仙道が一気に距離を縮めてきていた。 近い。仙道の顎先が俺の頬に触れそうなほどに。 『なっ…!?』 『うーん、風呂上がりのせい? それとも同じシャンプーのせいかなぁ、全然わかんない。すんませんけど……よいしょっと』 『うわ、痛った……! 何すんだよ!』 急な展開についていけず驚愕している間にソファから落とされた。最初から浅く腰かけていたからストンと床に着地したようだったが、身構えていなかっただけに尻が痛んだ。 傷めてはいないかと手を腰へまわそうとした際、背中を仙道の両手でぐいっと押されて体ごと動かされた。前かがみになったタイミングで押されたからだろうが、人にこんな軽々と動かされたのは初めてで俺は酷く驚いてしまった。 『っ!? おっまえ、いい加減にしろよ! 何のつもりだ!?』 『うん。こうした方が安定するし、嗅ぎやすい。ごめんね、お尻大丈夫すか?』 背後に陣取った仙道は覆いかぶさるようにして俺を背後から抱きしめてきた。 背中に感じる人の重みとパジャマ越しに伝わってくる体温。己の胸元に回されている自分の物ではない男の手。腰の両側から挟み込むように配された長い足。これら全てが仙道のものだと認識するまでに、驚愕続きだった俺の脳みそは数秒を要した。
呆然としている間に後頭部に少し柔らかいような重たいものが乗せられた。耳のすぐ後ろからは、のんびりした話し声が流れてくる。 『このくらい近付かないと風呂上りじゃわかんない。……うん、ほんのり、シャンプー以外もわかるかも。爽やかなんだけど、それだけじゃない、表現できないけど…すっげーいい匂い……』 『せ!? せん、どう? 〜〜〜〜〜〜っ!?』 背後から抱きしめてきているのが仙道だとはっきりと認識した俺はパニックに陥った。 (ない、ない、ないったらないだろ。これはない。こんなとんでもない褒美なんぞあっていいのか……!?) あまりの動揺で漫画のように口から心臓が飛び出す気がして、ぎっちりと歯を食いしばる。 寝ぼけていない仙道がわざわざ俺の匂いを嗅ぎたがるだとか、男の俺に密着して抱きしめてくるだとか。どう考えてもおかしいだろ?? 何がどうして何故こんな突然にとんでもない褒美が発生するんだ???? 『あれ? 牧さんあったかいっすね。俺も風呂上りだしな〜。いいね、こうしてると湯冷め知らずで。最近は夜は涼しいもんねぇ。あ、でもこの体勢だと牧さん前のめりで苦しいんじゃない? 座椅子仙道君によっかかってよ』
寄りかかるどころか早鐘を打つ心臓以外は全身に酷く力が入っており、硬直して動かない。しかし胸に回されている腕に力が入れられると、俺の上体は難なく起こされてしまった。 視界が急に明るくなって、仙道の胸が背中に更に密着する。自分の恐ろしく早い鼓動と仙道の早い鼓動がダブルで体中に鳴り響く。 『…ちょっと暑い? でもおかげで少し……うん。香りがほんのり濃くなったような。うーん、もっと汗かいてくれたらも少しはっきり嗅ぎ取れるかもだけど。……もっとくっついたらいいのかな?』 ぎゅっと背後から抱き直され、許容量を超える出来事に俺の意識はくらくらと遠のいていきそうになった。 『……さん、牧さん? どうしたの、聞こえてます?』
返事を要求されてやっと、話しかけられていたことに気付いた。実際に何秒か何分かは知らないが、意識だけ天国に飛んでいたようだった。カラッカラに乾いてしまっている口でどうにか言葉を発する。 『き……聞こえている。すまん、……ぼーっとして、いた』 『あはは。牧さんもぼんやりするほど気持ちいーんだ。ぽっかぽかだもんねぇ。じゃ、もうちょっとこうしてていーい?』 甘えた声音にひとつ頷いただけで上体がぐらりとしかける。支えるようにまわされている仙道の腕に再び力が込められた。 (いいもなにも、こちとら立ち上がるどこじゃねんだよ。頷くことすら上手くできねぇし、口だってまともにまわってくれないんだ!) 頭の中では悪態をつけるが、仙道には当然伝わらない。口に出して返事をしないと流石に怪しまれてしまう。 (仙道の話をしっかり聞いて、相槌くらい打て、情けねぇぞ俺!)と己を叱咤する。 『そういや今夜、俺が急に麻婆春雨食いたくなってひき肉使っちまったから、明日買ってきますね。けど明日ハンバーグにするのもなぁ……。鶏肉でも買ってきて別の何か作った方がいっすかねぇ』 意識して話を聞こうとすれば、低いのに爽やかな声が至近距離から直接耳に。そして肺いっぱいに溜まって胸が苦しくなる。肺が酸素以外の甘いもので満たされて酸欠気味になる。しかし返事はせねば。返事……ええと、ハンバーグと鶏肉どっちがいいかって話か? 『ハンバーグ』 『そう? ひき肉続きで飽きません?』 まだ頭が働いてないのか、仙道の言う“ひき肉続き”の意味がわからなくて焦る。 『……ハンバーグは嫌か?』 『や、全然。じゃー当初の予定通りハンバーグにしましょーか。俺ねぇ、作り方の裏ワザを先週知ったから試してみたくて。料理って理科の実験みたいだよね。そうだ、チーズ乗せようか。とろけるやつ』
耳の少し後ろという至近距離から好きな男の声が何度も吹き込まれ、軽く笑う度に吐息が耳にかかる。首がすくみそうになるのを奥歯を噛んで堪えなければ、心臓か魂が口から飛び出しかねない。
盆と正月のみならず誕生日にクリスマスも加わってご馳走だらけで身動きができないような、この豪華すぎる状況は何なのだろう。 仙道の長い両脚の間に挟まれるように体育座りをしている己の状況が信じられず、どうにか返事を返しながらも、(もしかして俺は死期が近いのかもしれん……そうでなければこんなとんでもない、自分だけに都合が良く幸せなことなど起こるわけがない)と回らない頭の中で繰り返していた。
幸せのキャパシティがオーバーしてしまったようで、最後の方に交わした会話は覚えていない。緊張がいくらか緩んだ頃には頭に血が上り過ぎてしまっていて、どのくらいの時間ああしていたのかもわからない。だからいつかはわからないが仙道の携帯が鳴って、それが鳴りやまないことに舌打ちをした仙道が『こんな時間に、なんだよクソババア!』と携帯に向かって怒鳴っていたような……。
すっかり腰が砕けた俺は、這うようにして台所へ行きゴブゴブと水を大量に飲んだあと、そこで顔を洗って。 それから……それからどうしたんだっけ…………。 * * * 出来得る限り詳細に反芻しているうちにまたも幸せに浸っていた。そんな最中に牧は肩をゆさぶられた。
「目ぇ開けたまま寝てんなよ。昼飯どーすんの? 俺は学食行くけど」 年はひとつ上だが同期の長沼が親指を講堂の出入り口に向ける。周囲を見渡せばもう人はまばらだった。 考えていたことを覗かれたわけでもないのに、嫌な具合に牧の鼓動は早まってしまった。そんな状態がばれたくなくて、牧は急いで言葉を探した。 「俺も学食行く。……なあ、俺ってかなり匂うか?」 「はあ? いきなり何いってんの? 全然だけど。なんだよ、昨日何かくっさい御馳走でも食ったん?」 「いや、別に……」 「老け顔だからって加齢臭にはまだ早いだろーよ。あと二年たったら心配すれば?」 「失礼だな。お前の方が年上だろうが。この留年野郎」 ムッとしはしたが、長沼の反応が普通な気がする。仙道が異質で俺は……好きな奴の匂いだから好きなだけのゲイなのだろう。まだ自分がそういう嗜好だと認識してから日が浅いせいで、自分でまた少し傷ついたが、もちろん顔には出さない。 「久保が先に席とって待ってたよ? お前ら何してんの?」 講堂に忘れ物でもしたのか、戻ってきた中家が首を傾げる。 「あー。今行く〜。だってさー、牧が急に色気づきやがったから」 「さっきの話でどうしてそうなる」 「香水つけてきた俺っていい匂い?的な話してたじゃん」 「つけてねーし、んなこと一言も言ってない」 「まあまあ。……香水の匂いなんてしないなー。別になにも匂わないよ?」 牧に少し近づいて鼻を寄せた後、中家は首を傾げた。 「汗かく前だから匂わんのかな……」 「汗かいたら誰だってくせーだろ、野郎なんて特に。部室の匂いで知ってんだろうが、何を今更。あーあー女の子の部室だったら甘酸っぱい苺の香りとかすんのかな〜」 「しないしない。消臭剤とか香水スプレーとかがまじりあって、違う意味で臭いらしいよ。苺とか、今どきドーテー君のドリームでもないわ〜。いつまでたっても長沼は珍獣レベルでいいねぇ」 「これだから彼女持ちは〜! あーあ。ナカっちはさー、いつんなっても女の子紹介してくんないんよなー!」 「野獣に斡旋できるような肉食系女子に知り合いいないもんで」 「くわー、何それどうこうことそれ誰が野獣で肉食系をご所望とかどの口が言ってんだ!」 先を行くくだらないいつもの二人のやりとりを聞くともなしに聞きながら。
(なんて平和なんだお前らは……。その健全さが羨ましいと思う日が俺にくるなんて…) 心ここにあらずの微妙な面持ちでそんなことを考えつつ、牧は数歩後ろをついていった。 |
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どうでもいい話ですが、台所で顔を洗った牧が顔を拭いたのは皿拭き用の布巾です。 |