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仙道との暮らしは想像以上に穏やかで楽しいものであった。 高校時代に噂で聞いた仙道の評価は女にだらしがなく、性格は癖の強いルーズな男というものだった。
しかしバスケットを通してしか接触がなかった俺の評価は違ったため、噂ほどの悪いイメージはもっていなかった。それでも堅物の俺とは性格がけっこう違いそうで、最初は衝突も想定していた。けれど衝突など全くなく、違いはあってもそれがむしろ面白かったり助けられることの方が多かった。一緒に暮らしてみればルーズというよりマイペースなだけで、気遣いもさりげなく出来る頭のいい男だと、奴への評価はむしろ上がったといえる。 同居のルールを決めようと仙道にもちかけられ、俺が上げた『女を家に入れない』というのは今現在も守られている。
─── 『彼女? いませんねぇ。高校一年の一学期でこりましたから』 あの時の言葉通り、全く女の影はない。別に彼女がいても関係ないのだが、家という気楽な場所へ緊張を持ち込まれるのが嫌だった俺としては助かっている。 本当に、噂とはかくも当てにならないものかと改めて知る。何拍子も揃っているというのはやっかみをくらいやすいといういい例だろう。もしかしたら理不尽な嫉妬による被害を軽減させるために、わざとルーズさを相手によっては演出している……と考えるのは俺の早計か欲目だろうか。 バスケ部同士だから生活サイクルが近いのも良かったようだ。大学の運動部は平日17時過ぎから22時頃までが部活動時間帯として一般的だ。必然的に晩飯は五時前に軽くとり、帰宅して23時近くに改めてしっかりとる。あとは風呂入って寝るだけコース、という変則的なサイクルが同居人も一緒というのは大変助かっている。
仙道との暮らしに何も不満はなかった。だが、ただひとつだけ。考えもしなかった不思議な仙道の癖というのか習性というのかなんなのかはわからないが。とにかくおかしな部分にだけは、最初はとても戸惑わされた。
「……そういえば。昨日あいつ、『ぼんやりしてました』とか言ってたなぁ」 笑いを含んだ独り言が居間にひっそりと吸い込まれていく。 少し早く帰宅できた牧は家着に着替えながら戸惑わされた出来事をつらつらと一人思い返していた。 * *
同居してまだ間もない頃。サーフィンへいく前に仙道の部屋をノックし「一時間ほど出かけてくるから…」と、そっと扉を開いた。
布団から覗く頭はピクリともしない。返事はなかったが「……先、飯食っててもいいぞ」と付け加えてから家を出た。一応食卓テーブルの上にメモを残して。 一講目がなく天気や風がいい朝は波情報をチェックし、いけそうならボードを持って小一時間ほど海にいくことは同居を決めた日に仙道へ伝えてある。メモを見ればすぐ思い出すだろうと。 帰宅してシャワーを浴び終えた頃に仙道はのっそりと居間へ現れた。
「おはようございます……。あれ……牧さん濡れてる。雨?」 仙道は虚ろな目を擦りながらぼんやりしている。寝起きといえどこんなにぼんやりした様子を見たことがなくて俺は首を傾げた。 「お前……俺がサーフィン行ってきたことに気付いてないのか? 片付けとかでけっこう物音もしたのに?」 「声かけてくれれば良かったのに……知らないっすよぅ。あ〜だから濡れてるんだ」 おもむろに手を伸ばして俺の髪へ触れてきた。そのまま頬へ手を滑らせてくる。 「冷たいかと思ったけどあったかいすねぇ。やあ、ほっぺツルツル。髭ないねぇ牧さんは〜可愛いなぁ〜アゴもツルツル〜女の子みたい〜」 驚いて呆然と固まっていたが、へらりとした笑みを向けられて漸く慌てて一歩後ろへ下がった。 「何言ってんだお前。髭はもう剃ったんだよっ」 「あ〜そうでしたか。んじゃ、俺も剃るかな〜」 ♪ツ〜ルツ〜ルツル、ツルリん子〜 茶色い、目をした、男の子〜 仙道は聞いたことがあるアニメ映画の音楽の節をつけた変な歌を歌いながら、よろよろとした足取りでトイレへ向かっていった。 その背中を見送りながら、俺は後輩の神の一言を思い出した。高校時代に国体合宿で仙道と同室だった神が、『寝不足状態の仙道は宇宙人という噂は本当でした』と言ったのだ。密かに俺は理解不能の発言が多い神こそが宇宙人っぽいぞと思いながらも、その下された仙道の評価を『神の言うことだからなぁ…』と聞き流していた。 「……確かに、今のあいつは宇宙人っぽい」 人に頭から顎までつるりと何度も撫でられたことなど一度もない俺は、落ち着かなくて両手で顔をゴシゴシと摩った。 * *
部活が午前で終わった土曜日。日が長くなってきたこともあり晩飯前に軽く波に乗った。
シャワーを浴びようと部屋で着替えを用意していると仙道が半分寝てるような顔で廊下に出てきた。そういえば高校の監督に依頼されたレポートの再提出の期限が今日の17時までだと、昨夜の晩飯時に『徹夜確実っすよもう。大学の部の監督にもレポート提出するまで部活禁止とか言われるし、最悪』とぼやいていた。 少し前に帰ってきて横になったばかりなのだろう、仙道の髪の毛はボサボサで目は虚ろ、目の下には立派なクマを飼っていた。髭も適当に剃ったようで頬の横に数ヵ所剃り残しもある。いい男もこうなると値が半減だ。 「おかえりなさい……サーフィン?」 「ただいま。行ってはきたが、胸のちょいヨレぎみでカレント強くて1アクションがやっとだったけどな」 「やだ」 「え。おい、お前も濡れるぞ」 突然背後から抱きしめられて驚いた。しかも濡れた髪にぐりぐりと頬を押し付けられる。 「やーだー」 「何が嫌なんだよ。ちょ、離せよ。お前まで塩っぽくなるぞ」 「俺のわからない言語で話すの反則。次やったらレッドカード〜」 「お前、レポートは無事提出できたのか?」 「出すだけ出しましたよぉーだ。貴重な俺の睡眠時間と引き換えにぃー作らされたぁー」 今度は頭ごとゴリゴリと押し付けてくる。体に巻きつけられている仙道の長い腕をぴしゃりと叩いてやる。 「痛ぁいぃー暴力反対〜」 「痛いのはこっちだ。離せ、寝ぼけ野郎。俺はシャワーが浴びたいんだ」 お前はさっさと寝ろ、と腕を引っ張り廊下へ出て、仙道の部屋へと連れ込んで背を押しやった。仙道はされるがままに布団へ横たわると、「頭が変に冴えて、眠いのに寝付けない〜腹立つ……」と呟いて布団を抱きしめ眉間をしかめたまま目を閉じた。 「……眠れないなら、次、お前もシャワー浴びたらいいぞ」 「…はぁい」 「……」 数秒見ているうちに寝息になった仙道に「寝れんじゃねぇか」と呆れつつ、俺は階段を下りた。 * *
また、こんなこともあった。
起床し洗っていると、突然背中に手をあてられた。驚いて思わず体がビクッとしてしまう。 「おはよーございます〜。驚かす気はなかったんですよぉ〜。やあ、牧さん寝起きでホカホカ」 今度は背中に頬を押し当てられた。一瞬体が硬直したが、すぐにまた洗顔を再開して手早く終えタオルで顔を拭いた。 体をおこしてもなお肩に頭を押し付けてくる仙道を好きにさせたまま歯を磨きはじめる。 「んんん〜? なんかいい匂いする……」 「邪魔だよお前。シャワーでも浴びてくるか、もう一回布団に戻って寝ろ」 「なんで〜? いい匂い……何かつけてんの?」 「何もつけてない。シャンプーかシェービングローションだろ、多分。狭いのにくっついてくるな」 「ぼさぼさ頭かわいい〜ふさふさ〜もさもさ〜いい匂い〜」 頭をわしわしと両手でかきまわされ、流石にうっとうしくなって仙道を肘で押しやった。 「かわいいって言ってるのに〜」 「そういうのは女子供に言いやがれ」 押しやられて意地になったのか仙道は更にぎゅっと体を寄せて、まわしていた腕に力を入れてきた。俺はぎょっとして今度は両手で強く押しのける。 「……トイレに行ってこい」 「なんで?」 「いいから」 俺の視線の先を仙道がたどる。己の体の中心が元気に朝を主張しているのに漸く気付き、「あらら……」と頭をかいた。 歩きにくくなるほど元気なそこを見下ろしながら仙道は、「階段を下りる時までなんともなかったのに」と呟きながらトイレへ入っていった。 * *
極端な寝ぼけというよりは酔っ払いのようなおかしな行動をしていたのはこの三回だけだ。
しかしここまで酷くはなくとも、眠くて意識が朦朧としている時の仙道の動きはとてもスローモーで、発言や行動がかなり甘えたものになることがわかった。 それを知らなかった最初は頻繁に驚かされたものだが、今ではすっかり慣れてしまった。 睡眠をとりなおしたり少し長めのシャワーを浴びて出てくるといつもの仙道に戻っているし、被害といってもやたらになついてこられるだけなので、慣れてくれば寝ぼけているこいつは仙道ではなく、甘えん坊の大型犬…ペットみたいなものだとまで思えるようになってしまった。 階下へおりると仙道がちょうど帰ってきた。
「おかえり」「ただいま〜。大分早かったの?」「いや、今さっきだ」「急いで飯作るから待ってて」「急がなくていいぞ」 最近では当たり前になりつつあるやりとり。こんな程度の会話でも、家に帰ってきた実感が湧くのだから不思議なものだ。 一度目の軽い晩飯はそれぞれが外食や買い食いですませている。今仙道が作っているのは二度目にあたるメインの晩飯だ。
昨夜下味をつけておいた肉を冷蔵庫から取り出している仙道へ皿や麦茶を出しながら聞いた。 「お前さぁ、ロングスリーパーなのか?」 突然の質問に戸惑うこともなく、いい音をさせて焼きはじめた手を休めずに仙道が答える。 「全然? なんで? ロングスリーパーってあれでしょ、睡眠が9時間以上なきゃダメって人だよね」 ショートスリーパーは逆に4時間睡眠でもいい人達だっけ、と言う横顔には嘘も含みもないように見える。 やはり特別変わった体質というわけでも病気でもないようだ。ただ眠過ぎると意識はあっても理性の働きが低下し、酔っているのと酷似した状態になるだけなのだろう。まあ、誰しも寝不足が続けば頭は朦朧とし判断力も落ちる。仙道はきっとそれが顕著なだけなのだと結論付けた。 「別に……。お前、今週は地味に睡眠不足が重なってただろ」 今朝も髭を剃っていたら起きぬけの仙道が頭に鼻面を突っ込んでくんかくんかと匂いを嗅ぎ、『……凄くいいねぇ』と満足げに首を振ってからトイレへ行っていた。肌をシェーバーで傷つけてしまうので動けなかったが、内心またかよと笑いそうになったのだ。 「え。そっすけど…何で知ってんの? 寝言とか酷いイビキしてたとか?」 「寝言もイビキも知らない。けど…なんとなく、見てたらわかる」 仙道の流れるような動作がピタリと止まった。 「…牧さんは俺のこと、よく見てるよね」 ほんのり照れた笑みを浮かべながら「ごはん、もうよそっていっすよ」と言われた。 茶碗にご飯を盛りながら、お前と暮らす奴は大体すぐわかると種明かしをした方がいいのだろうかと少し迷う。 普段の仙道は飄々としてそつがない。 言い換えればそれだけ緊張しているか、自分を律している。そんな普段甘えを表面に出さないこいつが、あんなふうに自然体で甘えてくるのは気分が良かった。種を明かしてしまえば、もう大型犬のようなこいつに会えなくなると思えば少々惜しくもあるのだ。 「……俺だってあんたのこと、けっこう見てるから知ったこといっぱいありますよ」 「な、なんだよそれ」 自分にもああいった変な癖(?)があるのかと内心かなり慌てたが、テーブルの上の皿を指差された。 「生姜焼きの生姜は少し辛いくらい多目、肉は厚目の方が好き。違う?」 生姜のしっかりした香りが漂う厚切りの豚肉へと目を落とす。仙道と暮らすまでは生姜焼きの肉は薄切りのものしか知らなかった。初めてトンカツに使うような厚切り肉でどーんと作った生姜焼きを出された時は非常に感動した。次に薄切り肉で出された時は少しがっかりしたのもバレていたようだ。 「……当たり」 「でしょー。さ、がっつり食いましょう。いっただっきまーす」 「いただきまーす…」 結局うやむやな感じに話は収束し、俺はまた誤解を放置したことすら忘れて食事に集中した。 歯を磨いていると時計が0:00に変わり、同居生活日数がまた一日増えたことに気付く。 牧は己の中での認識に軽く訂正を加えた。 仙道との暮らしは想像以上に穏やかで、美味しい。 ─── そして想像以上に複雑で面白おかしいものである、と。 |
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二時間の睡眠不足が連続すると、脳はアルコールを摂取した時の「弱度酩酊」と同じ状態になる |