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春休み期間でも大学の食堂は昼食時間だけ開いている。学生寮の食堂が休みの学生と部活動の学生のための配慮らしい。 仙道は学食のテーブルに頬杖をつきながらB定食の塩辛い唐揚を齧っていた。 突然今日の部活は午前中で打ち切られた。理由は乗り込んできた某教授が体育館の使用権がどーだかで他の部活とのあーたらで……。とにかく、部活が突然休みになること自体は滅多にないことなだけに仙道としては大変喜ばしいことだった。ただ問題は、春休み中から参加している一年は夕方に集まって部室とシャワー室の大掃除兼ペンキ塗りの予定が入っていることだ。その予定は残念ながら流れてはくれなかった。 一度家に帰ってまた夕方までに戻ってくる交通費や移動時間、家でゆっくり出来る時間などを考えると戻るのも面倒になる。夕方まで時間を潰すために金を使うのはもったいない気がする。かといってまだ大学構内に詳しくないためお気に入りの昼寝ポイントも探せておらず、中庭などあちこちに点在する外のベンチで昼寝ができるほど風は暖かくなかった。 家主の彼も通っている大学まで同じくらいかかるようだけれど車を持っているので、自分よりは気軽に日中も家に戻れていると言っていた。車通学は駐車場の関係で禁止だが、部活のためだけなら体育館近場の駐車場にとめることは可能だそうだ。『便利なのもあるが運転も楽しくてな。中古車だけど気に入ってるし』と、洗車しながら微笑む彼の横顔を思い出す。 車は持てないけれど免許があれば彼の車を借りて迎えに行くとかドライブに連れ出せるかもなど、思考は現実を逃避して膨らむ。 「俺も免許取るかなぁ……」 「なーににやにや目尻下げてんだよっ。エロいことでもたくらんでる顔して〜」 独り言に即座にツッコミが入って仙道は顔をあげた。 同期の新山がコロッケ定食をテーブルに置くと隣に座って顔を覗き込んできた。 「違ぇーよお前じゃねんだから。車。それか大型バイクの免許でも取ろーかなぁって考えてたんだ」 「へえ? お前んな暇あんのかよ。それどこじゃねーだろ。真剣に探してんの?」 「何を?」 「何って……アパートだよ。住むトコ。前、言ってたじゃん。一人暮らししてたアパートが急に解体することになって、大学から少し遠い親戚の家に居候することになったって。だから大学始まる前には大学に近いとこ探したいってさぁ」 確かにあの時はなるべく早く決めようと焦っていて、大学周辺に住んでる奴に事実を少々湾曲させた状況説明をしつつ空いてる物件がないかと聞いていたっけ。 「そう……なんだけど。けど大学周辺なんて途中退学する奴が出るまで全く空きなんて出なさそーで」 口に出した理由も嘘ではないが、通学が不便なことなど気にならないほどに今の仮住まい生活は心地が良くなってしまっており、すっかり探す気力は薄れているのだ。そこへもって二日前の合鍵譲渡と共同管理人話。これで必死にアパートを探せというのが無理な話─── というのが正直な現状だった。 そんなことなど露知らずの新山は「呑気だな〜。親戚ん家なんて落ち着かねーだろよ」と口先をとがらせた。 「あ、そーだ。お前遠いからっていっつもさっさと帰っちまうだろ。付き合い悪ーって山下先輩怒ってたぜ」 「最低限は顔出してるよ。大体、毎回付き合ってたら金欠になんね? カラオケもゲーセンも特別面白ぇわけでもねーのにバカんなんねーだろ、けっこうさ」 つい先日に金欠で恥をかいたため以前より少し金銭感覚が厳しくなっている。そのためつい本音が出てしまった。 「痛いとこ突くねお前。けどな、山下先輩が連れてってくれるあの店はバイトの女の子の制服可愛いしレベルも高ぇし。そういえばこないだ、受付の綾菜ちゃんって子がいるんだけど、」 「あ、メールきた」 仙道は食べ終えた箸を置いて携帯を開いた。ほんの数行のメールに一気に気分が高揚する。その勢いのままにメールを返信した。 「てめ、メール打ってんなよ。人の話聞けコラ」 「悪ぃ。また後で」 「おい、どこ行くんだよ。え、まさか帰んの? 大掃除は?」 「大掃除までには戻るよ」 新山の眼前で「じゃ、な」と立ち上がるなり片手にお盆を乗せた長身はすいすいと混雑しはじめた食堂内を移動して行ってしまった。 「……なーんかここ数日やけに楽しそうでムカつく。まさかあいつ、彼女できたとか?」 あのツラなら彼女作る気になったら即だよなきっと…まさかでもなんでもねーか、と新山は自分の愚問発言に溜息を零すともそもそと食事を再開した。 ─── 『お前の大学近くまで来ている。暇なら乗せて少し走れるが、どうする?』 アドレス交換してから初めて来た彼からのメール。それだけで嬉しいのに内容までが嬉し過ぎた。 仙道は脳内で何度も思い返しながらだだっ広い校内を早歩きで抜け出した。校舎を出てからは全力疾走で校門へ向かう。途中二人ほど仲間に声をかけられたが、全部『後で!』と手だけあげて立ち止まりもしなかった。 校門に見覚えのある車が近づく。仙道は大きく手を振りながら走り寄っていった。 助手席へ座るなり牧へむけて指を刺してしまった。
「サングラス! 牧さんって運転の時にサングラスするんだ」 「いや、滅多にしない。今はお前の学校の傍だから……変装?」 「顔見られちゃ何かマズイことでもあるんすか?」 「他校のバスケ部の先輩が車で個人的に迎えに来るのは変だろ」 「うーん…口煩い先輩に見つかったら面倒かな…? まぁ、ちょっとここら辺から離れたら大丈夫っすよ。けど、」 けど、と言った後から待っていても言葉が続けられないため、牧は何だと問う視線を投げた。 「似合ってるし、新鮮だから今日はそのままがいーな。男前度、かなり上がってますよ」 「変な世辞すんな、バカ」 「いやいやマジ。あ、そこ曲がった方がいいかも。直進すると工事中だから」
牧はこの近所に用事があって、その帰りにまっすぐ部活に行くには時間が中途半端に空くので仙道にメールを入れたと教えてくれた。仙道はいつか乗せてほしいと何度か言っておいたかいがあったと素直に喜んでみせた。
丁度午後の部活が休みになったことを告げると、「計ったようなタイミングだったな」と牧は笑いながら、行きたいところはないかときいてきた。 「特には浮かばないなぁ…。牧さんは?」 「俺も別に。今日の部活は五時半からだから、それに間に合うように戻れれば」 「そっかー。俺は大掃除は五時からなんすよ。うーん…………。あ、そういえば、ずっと連れてってもらいたいとこがあったんだ」 「ずっと? どこだ? あ、俺の大学近くのラーメン屋源五郎か?」 「んーん。あんたが朝、サーフィンしてる場所。朝は毎度睡魔に勝てなくてさ。天気もいいし、今からどっすか?」 「ただの海だぞ? お前がいいならいいけど、近場に駐車場ないから家に車とめて歩きになるが」 「OK、OK。いつもの朝行くみてーな感じでお願いしますよ」 「わかった。じゃあまずは家に戻るか」 「うん。…ん? あれ、今まで気付かなかったんだけど、あの細い砂利道に車なんて入れないよね?」 「家の裏手に繋がる、車一台が通れる舗装された私道があるんだ。だから車は家の裏手にとめていることが多いだろ」 「知らなかった。裏なんて気にもしたことなかったし」 「言う機会もなかったなそういえば。海へはいつもその道を途中まで下って、そこから……。ま、行ってから案内するよ」 「楽しみっす」 家から牧が朝に行くサーフィンスポットまでの道のりはかなり傾斜のきつい小道を降りていかなければならなかった。
仙道は牧の後ろをついていきながら、いつもはボードや道具一式を抱えて小走りで下りていくという牧の話に内心舌を巻いていた。この急勾配を軽くはない荷物を抱えて下っては上る。しかもサーフィンの後に朝飯食ってから大学に行くわけだから……。 「牧さんが体力ありまくる理由がまたひとつ明らかになりましたよ」 「朝は小一時間しか乗らないぞ?」 「や、それ以前の問題。ふぅ……やっと着いた」 「三人やってるだけか。この時間帯は狙い目……とはいえ平日の日中だしなぁ」 こんな時間にここへ来たのは初めてだ、と眩しげに目を細めて波に浮かぶ小さな人影を見ながら牧が呟いた。 「見てるとやりたくなる?」 「んー…あまりいい波もないし、別に。な、言った通り何も面白いもんなんてないだろ」 「うん。けど、いーんす。あー…砂に座んの久しぶりだ。高校ん時はしょっちゅう砂浜ランニングさせられてたなぁ」 たった数週間前のことなのに、色々とあったせいかもうすっかり過去のことのように思えて仙道は苦笑した。 「陵南は海が近かったもんな。俺は一度も海が傍の学校とは縁がなかったから、羨ましいよ少し」 「学校から海が見えていい波が来てたら、牧さんでも部活サボんのかな」 「どうかなぁ……主将だったら一回くらいやるかも?」 「主将の時期限定? 一番責任も仕事もある時に?」 「忙し過ぎてつい、とかなんとか言えば情状酌量ありそうだろ。それに先輩いたら倍叱られそうだし」 「ぶははは! 何が“どうかなぁ”すか。サボって行く気満々じゃん! 一回どころか何回もやらかしそうだよこの人!」 「主将だったら砂浜ランニングを毎度入れて、どさくさで海に突っ込んだり?」 「何でも悪いことは主将の時に! 俺、自分が主将の時にあんたと仲良くなってたかったな〜。そしたら上手い息抜き方法とか伝授してもらえたのに」 「バーカ。俺はお前と違って実行になんか移さねーよ。知ってんだぞ、お前は主将になっても遅刻常習犯だったって」 「やだなあ〜牧さんともあろうお方がそんな噂を信じるなんて」 「ソースは魚住本人だが?」 「……すんません、今のは寝言です」 俺の後輩じゃなくて助かったぜ、と楽しそうに笑う声が高い空へと吸い込まれていった。 隣に腰を下ろして潮風に吹かれている穏やかな横顔を視界のはしに留めつつ。久しぶりの海辺の風や匂いや日差しを全身で受け止める。
特別毎日緊張して過ごしているわけでもないのに、仙道は魂がぽわんと抜けていきそうなほど気が抜けていく感じが心地よくて、自然と口角が上がった。 ただただ広い海と空の下、波音をBGMにたわいのない会話がゆるゆると続く。 「……連れてきてもらって良かった。やっぱ海はいいね」 「そうか。俺も久々にゆっくりできて良かったよ」 「これからは俺、たまにここに来てもいい?」 「もちろん。たまにといわず、好きにしたらいい」 海は誰のものでもないんだから、とこちらを見た彼の細めた目元がとても優しくて。 それだけで俺はこの時間全てが完璧なものに感じてやけに幸せだった。 * * * * * 週末、相手校の体育館での練習試合が予定よりも長引き、終了後は現地解散となった。大学へ戻らないで済んだ分、仙道は早く家に着けた。 食卓テーブルには朝出掛けにはなかった、菓子パンが二つ入ったビニール袋が置かれていた。牧が家に一度帰ってきたことがわかる。窓から外を覗くと車があった。サーフィンに行ったのかもしれない。日は長くなりつつあるし風も強い。徒歩で買物の可能性もあるけれど、仙道は数日前に牧が案内してくれた海辺へ向かった。
浜辺には数人のサーファーがたむろしていた。皆ウェットスーツから出た肌はしっかり日焼けしている。髪は潮焼けだろうか、同じような茶髪が風に吹かれている。色味でいえば遠目からは皆似て見えるが、仙道は一発で牧を見つけた。五人くらいが座って談笑している中の一人がそうだ。
「……座っててもガタイいいとかデカイとかいくらか違いもあるけどさ、こんなに遠いのにな」 きっと人混みの中でベンチなどに座っていても俺は彼を一発で見つける気がする。 潮風に吹かれ夕日に目を細めながら、どのくらい砂浜に座って見ていたのだろう。
浜辺に散っていた人影は減り、牧のいたグループも解散になったようだ。牧が立ち上がりこちら側へ向いた。すぐに俺と気付いたようで、軽く手を上げるとボードや荷物を抱えて走ってきた。 「来てたのか。声かけてくれれば良かったのに」 笑みを浮かべた彼を背後の夕日がくっきりと金色に縁どってみせた。まだ濡れている髪から膝上までのウェットスーツが際立たせる鍛えられ整ったボディラインへと。芸術としか思えない美しい生き物が目の前に立ち首を傾げている。 まだ水滴が残る髪に牧は乱暴にわしわしと手を入れた。その滴までもが金銀に煌めいて仙道は見惚れ続けた。 「…仙道?」 「……あ。うん」 おかしな間と返事だったようで、牧は苦笑いを零したが気を悪くした風もなく手を差し出してきた。 「帰ろう。これからもっと風は強くなって海も荒れる」 甘えて手を借りて立ち上がる。─── いつもより少し低い体温だ、と思ったところで疑問が浮かんだ。 いつもより低いと感じたるということは、普段の彼の体温を自分は覚えている、ということだと。何故、覚えるほどに触れていたことなどないはずなのに。 疑問はさておき握った手を離したくはない。けれどこれ以上は長過ぎる。変に思われる前に「あざっす」と言ってそっと離した。 「牧さん、体冷えてる?」 「そうかもな。あがってからだらだらし過ぎたようだ」 「ごめん、俺ぼんやりしてました。早く帰ってあんたシャワー浴びなきゃ風邪ひいちまう」 「いや、お前は謝ることはない」 「……さ、行きましょう。かして、俺がそっち持つから」 牧の手にある荷物を奪って踵を返すと、「……ぼんやり、ねぇ」と意味深な口調で背後で呟かれた。 見惚れていたことを気付かれたのではと恐る恐る首だけ振り返ると、空いた右手を別にというようにひらひらと振られた。飄々とした表情からは何も読み取れず、仙道はまた前を向くと力強く歩き出した。 急勾配を以前来た時より少し早く上る。空を見れば日は沈みゆき黒い雲が東の空を埋め尽くしている。潮の香りに雨の香りが重なりだした。
後ろから耳触りの良い優しい低音が流れてくる。 「家に着く前に降られそうだな」 「そっすね」 「今度は声かけろよ」 「邪魔するつもりはねーです」 「邪魔じゃないから、かけろ」 「……はい」 それだけの短い会話のうちに黒雲はさらに広がっていく。 目に映るのは不穏な空なのに、仙道の目の奥には夕日を背に金色に縁どられた牧のシルエットと金銀に散る水滴が眩しく残っている。 「『銀のしずく降る降る、まわりに……金のしずく降る降る、まわりに……』」 聞かれないように、そっと口の中で繰り返す。 この美しい言葉はどこから何で知ったのだろう。まぁ、それは別にいい。 ただ気になって仕方がないのは、自分が彼の体温を知っている理由。そしてこの甘酸っぱくて逃げ出したくなるような胸の高鳴りの理由。 体温の理由は謎だけれど、鼓動の理由は……これほど綺麗なものが実在することを初めて知ったからか。それとも……。 「俺は視力0.8なんだが、あんなに離れたところに座っていたお前にすぐ気付けたよ。お前の髪型はちょっとした目印になるな」
「……じゃあ俺、ジジイになるまでこのまんまで通そうかな」 「その頃まで髪の毛あんのかよ。整髪料毎日けっこう使ってるからキビシイと思うぞ」 「嫌なこと言うなーもう。あんたなんて日光浴び過ぎてジジイの頃にはシミだらけかもよ?」 「日焼け止め塗ってるけどこんなもん気休めだしな〜。シミとホクロの区別がつかない黒点だらけの顔になってんじゃねーかな」 「なに認めちゃってんすか。嘘だよ、大丈夫ですって。……あ、降ってきた」 「俺が持つ。走るぞ」 言うが早いか瞬時に隣に並んだ牧は追い抜きざまに仙道の腕の中の荷物を奪うと数歩先に駆け上がっていってしまった。遅れをとった仙道は急いでその背を追いかけた。 家の屋根が見えだした頃にはアスファルトはすっかり色を変え、閃光交じりの黒雲と周囲を震わす雷鳴が頭上に迫っていた。 |
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牧の視力…授業中は眼鏡で運転の時に眼鏡がいらないとなると、と考えて決めてみました。 |