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翌朝は台風一過のような青空が広がっていた。 大学の部活はたいていどこも朝練がない。牧の大学も練習は夕方から始まる。そのため朝は気が向けば軽く波に乗っているが、客を一人家に置いていくのも気が引けて、平日通りの時間に目覚めてしまったが家にいることにした。 朝飯を作ろうにも材料がないため、客である仙道が起きてくるまで牧は極力音をたてないように一階の掃除をすることにした。 玄関を箒ではいていると二階から降りてきた仙道と目が合った。
「おはよう。よく眠れたか?」 「おはようございます。もー自分ちと間違えるくらい爆睡しました。…すんません、手伝いもしねーで。起こしてくれればよかったのに」 「いいんだ掃除なんて別に。暇だっただけだ」 露骨に安堵した表情で両方の口角をゆるく上げた仙道が幼く見えて、牧はつられるように笑みを浮かべた。 仙道が手早く洗面をすませたところで、二人は朝食の材料を買いにコンビニへ行くことにした。
「朝飯の参考までに」と、仙道は普段朝食で牧はなにを食べてるのかときいてきた。 「朝飯は納豆2パックに生卵一個を入れた丼ぶり飯。それと牛乳にプロテイン」 昼は学食、夜はコンビニか惣菜屋の弁当。土日の朝はたまにトーストを焼く時もある、と付け加える。スポーツをやる者として食事がいかに大事かは知っているだけに、話しているうちに恥ずかしくなり眉間に皺が寄ってしまう。 「……お粗末だけどな、それでも一応外食や弁当に野菜が入ってるのを選んではいるんだぞ」 「んなこと全然思いませんよ。俺なんて朝昼は菓子パンだけとかけっこーあるし」 ただ牧さんはもっと栄養価意識が高い人だと思っていた、と仙道は素直に口にした。 「一人暮らしをするようになって、いかに母親や寮食に助けられていたかを思い知った」 牧がそう苦笑を漏らすと仙道も「っすね」と似たような顔で頷いた。 コンビニで買える食材には限りがある。それでも袋二つになり、二人は帰路をのんびり辿っていた。 昨日の大雨で濁った色の海が見えだした頃、頭をバスタオルで拭きながら一人の男が横道からこちらへ向かって歩いてきた。茶髪髭面のその男はタオルを肩へかけると牧へ「よう、おは」と手を上げた。 「おはよう。今朝、どうだった?」 「腰胸でオンが強いわりにダメだったから早めに切り上げてきた。濁りキツいし。……デカいね?」 牧よりも15cmほど背は低い、多分30代の髭面男は、牧の一歩後ろに立つ仙道の高さが気になるようで視線を向けてきた。 「おはようございます。牧さんの後輩の仙道す」 宜しくと仙道が軽く会釈すると、牧より真っ黒に日焼けしている男はにっかりと笑った。 「宜しく、俺は西内。ローカルじゃないよね? ビジター?」 「サーフィンじゃなくて部活の後輩なんだ」 「そっか〜。通りで見ない顔だと。あ、そーいえばさーこないだハングファイブ練習したくていったらグーフィーブレイクで、」 西内が少し早口で仙道には全くわからない単語を交えて牧に話しをはじめた。牧もまた知らない単語満載の、仙道には理解できない返事をしている。これがサーファー同士の会話というやつだろうとはわかるものの、仙道にはほとんどが理解不能だった。最後の方でまたいつかバーべーキューをやろうという話になって終わったことだけはわかったけれど。 西内が去って再び歩き出してから仙道は牧に尋ねた。
「“オンが強い”てなんすか? “ローカル”って?」 「あー。海から岸に向かって吹く風をオンショアって言うんだ。オンショアはコンディションが乱れてぐちゃぐちゃの波になりがちだが、今朝は風がいい感じで吹いて波が大きくなってきたんだろうな。けど期待通りにはならないままだったんだろ。諦めて帰ってきたようだし。あ、オフショアってのは」 「や、いーす。すんません説明させちゃって。基礎も知らんのに聞いて」 「別にいいよ覚えなくて。俺は子供の頃から聞いていたから自然と覚えたが、そうじゃない奴は最初はサーファー用語で面食らうよな。ローカルってのは地元のサーファーのこと。サーフィンはけっこう縄張り意識が強い部分もあってさ。マナーとかもそこそこで違ってることもある。なじむまでがちょっと面倒なんだよ。空気を読む必要があるし」 趣味のことでは牧はけっこう自発的に喋ると昨夜知ったせいか、仙道はサーフィンに以前よりも興味を抱きはじめていた。 しかし先ほどの西内と牧の会話や今の説明で一気にその気が引けてしまった。 「……俺、そーいうの無理かも」 つい口調が沈んでしまったせいだろう。肩を軽くすくめてあっけらかんとした口調で返された。 「安全に楽しくやるには何でもルールは必要だから仕方ないさ」 「あー…まぁ、そっすけど」 「もしやりたいならお前には俺がいる。大丈夫だ」 仙道は長い睫毛を数度瞬かせて牧の横顔を見つめた。何も気負わずに自然と彼の口から出たのがわかる、変わらない横顔。 サーフィンを本気でやりたいわけではない。けれど、くすぐったいような軽い高揚感が仙道の口元を知らずほころばせた。 雨で洗い流され生き生きとした緑に囲まれたボロ家は、朝の強い日差しのおかげで白々と眩しく輝いて少し立派に見えた。 昨日は豪雨で全てが薄暗くどんよりしていたのと、気持ちもどん底だったせいだろう。もっとおどろおどろしい家に見えたものだが、こうして見るとずっとマシだった。 「…牧さん、俺にもう一回何て言ってほしかったんだっけ」 「は?」 「けっこう立派っつーか。風呂場も広かったし。……なんか、いい家っすね」 今まさに玄関の引き戸を開けようとしていた牧は振り返った。 数歩後ろで逆光を浴びながら家を振り仰いでいる仙道を牧は数秒黙って見つめた。 「……そうか」 その口元がふわりと上がっていたのを、上を向いていた仙道が知ることはなかった。 朝食はホットサンドとゆで卵とベーコン、それとカップに入った出来合いのサラダにした。 フライパンで焼きなおしたコロッケを食パンに乗せ、スライスチーズとカット野菜のキャベツをのせてソースをたっぷり。上にまた食パンを乗せて挟み、バターをおとして熱したフライパンに乗せて上から大き目の皿をかぶせて手で押しつけ両面を焼く。 隣に立った牧はまじまじと調理する様子を見ている。何も言わないが感心しているらしいことはひしひしと伝わってくる。 トースターがチン!と軽やかな音をたてた。アルミホイルの上に乗せたベーコンはいい具合に焼けただろうか。 焼け具合を見ようとフライパンから離れようとしたが、さっと牧が動いてそちらへ向かった。 「おお……」 あまりに感心した声音に、とうとう仙道は堪えきれず噴き出した。 箸を取りに来た牧の顔が不思議そうなので、仙道は二つ目のホットサンドに取り掛かりながら言った。 「や、だって。別に手の込んだ料理してるわけでもねーのに、あんたやたら感心してるから可愛くて」 「なっ……かわ…!?」 「二個目はすぐ出来るから、もうベーコン皿に乗せて下さい」 「え。あ、ああ」 複雑な表情を見せた牧だったが箸と皿を手にすぐさま踵を返した。食事の用意をしている時の彼は特に一生懸命な感じがして微笑ましい。 「食おうか」
「あ、ちょっと待って」 ふと思いついた仙道はカップのサラダを皿に乗せてほぐすと、カリカリのベーコンの一枚を細く切ってサラダに乗せドレッシングをまわした。ホットサンドも三角に切って皿に乗せなおす。 「はい、いーすよ。いただきます」 「いただきます。……お前さ、いつもこうなのか?」 「こうって?」 「皿とか使うのかってことだよ。あと、盛り付けとか」 「一人ん時ゃやんねーす。せいぜいチラシの裏に乗せるくらい? あ、皿洗いは俺やるから気にしないで」 首を振ることで返事をした牧がまっすぐ仙道を見つめてきて、ゆるく微笑んだ。 「久々のまともな食卓だ。ありがたくいただくよ」 嬉しそうにホットサンドを頬張り、綺麗な箸使いでサラダを食べる姿を仙道は食べながら気付かれないよう見つめた。
きっと彼はきちんとした家庭に育ったのではないだろうか。寮母さんや母親の作る“食卓”を大事に感謝ができるよう育てられてきたように感じる。ずっと昔、婆ちゃんが『食べることは生きること。いただく、ということに感謝できない奴は、どんなに格好つけたって良い生き方はできないもんだよ』と言っていたことを随分久しぶりに思い出す。 仙道はこの家のようにゆっくりと好感が増え重なっていく男へ、次はもう少し手の込んだものを食べさせたくなった。 日曜の今日はお互い午前中が部活で午後は休みのスケジュールだった。 それぞれの利用体育館の中心にあたる駅で待ち合わせをして、二人は仙道のアパートへ向かった。 「酷いなこれは……」 玄関を開くなり泥が積もった床面に横倒しになった靴が半分埋まっているのを見て牧が呟いた。 「でしょ。ちょっと待ってて。風呂場から長靴取ってきますから」 「お前はどうやって入るんだよ」 「俺はこの靴に履き替えるから大丈夫」 仙道は泥水をかぶった形跡はあるものの比較的乾いている靴に履き替えジャージの裾を膝までまくると、「うへ〜冷てぇ」とぼやきつつ中へ入っていった。
牧は長靴に履き替えると泥一面だった玄関から続く部屋の床を、仙道は泥に浸かってはいるがまだ使えそうな物や被害をうけなかった物を選別し片付けた。
作業をはじめて二時間ほど過ぎた頃には、長靴ではなく普通の靴で歩行できる状態にはなった。 「どうせここ、もう人は住まないから。んな綺麗にしてくれんでいーすよ。もうやめましょう」 十分です、と仙道は牧の手から泥水で染まったタオルを取り上げた。 「まぁ……そうだな。必要な荷物はそれで全部か?」 「はい。あとはもう、一切合財廃棄処分の手続きを……どこに頼むか後で調べます」 「分別してなるべく通常のゴミとして捨てられれば安く上がるだろうが……無理だな。手間がかかり過ぎる」 「っす。保険で金入るかもだし、親もこの惨状を見れば大抵の出費は諦めてくれますよ」 返事をしつつ仙道は牧の金銭感覚がとても常識的なことに内心またも驚いていた。そして牧の真っ当な感覚や口先だけではない親身さに胸を打たれてもいた。 「……牧さんのおかげで随分マシになりましたよ。マジ世話んなってすんませんっした!」 頭を深く下げた仙道に、牧は首に巻いていたタオルで顔を拭きながら軽く苦笑を零した。 「自分から乗りかかった船だ。出来ることくらいやるのは当然だ、気にすんな」 「ありがとうございます…っ、牧さん!」 「!?」 以前からミシミシと歩くたびに鳴っていた玄関の床は泥水に長時間浸っていたせいで、変な具合にふかふかとして滑りやすくなっていた。その上で踵を返した牧の足元が滑りバランスを崩したのも無理からぬことであった。 背後から咄嗟に抱きしめられるような形で仙道に支えられ、牧は転倒を免れたものの。 「床、ぶち抜いたか俺…?」 踏ん張った牧の片足はふかふかの床を陥没させていた。仙道に上体を預けながら牧は足を上げるように恐る恐る抜いた。 「怪我はない? 大丈夫?」 足首を数回くるくる回してから、牧は大丈夫だと頷いた。 「ぶち抜いたっつーほどじゃ……10cmくらい陥没したって感じっす。くっきりばっちり、魚拓ならぬ見事な足拓?」 「熊の足跡とかこんな感じなのかもな……」 牧もだが仙道も同様に軽く動転していた。 ガラスが割れたままの窓から吹いてきた突風が、相手の体を腕に収めたまま長いこと静止していた二人を驚かせた。 「す、すまん。助かった。玄関の敲きを陥没させてすまない」 「全然。どうせこのアパート解体されるんだし、問題ないすよ」 慌てて離れた二人の間にはひゅるりとまた冷たい風。牧がぶるりとひとつ身震いをした。 「寒いし腹減ったし、飯でも食いにいきましょうや。ラーメンがいい? それとも定食屋?」 「定食屋がいい。この荷物どうする?」 「ゴミ袋しいて、ここに置いといていんじゃないすか。さ、もう行きましょう」 泥はあらかたかき出しはしたものの、泥水を含んだ絨毯や布団が放つ湿った異臭は消えない。 仙道は唐突に、牧をこんな所へ長居させたくないという強い思いに駆られた。その勢いのままに牧の冷えた手をとると、驚きに目を瞠る牧を気にもせずに手をひいて外へ出た。 暖かく清潔な店内で遅い昼食を食べていると、天気は良くとも冷たい風と泥に疲れていた体も心も緩んだ。 「さて……荷物とって帰るか」 当たり前のように牧は仙道を自宅へ連れて行く気でいるのが伝わってくる。 「明日には親と連絡つくと思うんで……申し訳ないすけど、もう一晩お世話になります」 頭を下げると、牧がテーブルをコツンと軽く叩いた。 「一々謝らないでいい。昨日から何回言わせる。俺が勝手に世話をやいてんだ。これ以上ぐだぐだ申し訳なさを前面に出したら」 「……出したら?」 何も考えていなかったのか、牧はぐっと息をのんで口を結んでしまった。 「すんません、もう言いません。甘えさせてもらいます」 苦笑した仙道に牧は口元をへの字にしたまま頷いた。 会計時、借りた金で自分の食事代を支払おうとした仙道を牧が、「どっちも俺の金だ、気にするな」と二人分支払ってしまった。全然意味合いは違うのだが、仙道は素直に甘えることにした。 けっこうな荷物だったので、どこへも寄ることなく牧の家へまっすぐ帰った。 初めて牧の家へ行った時は辿り着くまでがとても長く遠く感じたけれど、三度目ともなると距離感が掴めてきた。それでも細い砂利道に入る頃には荷物の重さが両手に辛く感じる。 「ここを曲がればあと少しだぞ。頑張れ」 「はい」 返事をした後、仙道はフッと笑った。 「初日もそういえば、こんな会話しましたね」 「だな。けど、前よりはバテてないじゃないか。ま、荷物も前よりは軽いしな」 仙道は周囲の緑と、その隙間から覗くまだ夕暮れになりきらない青味が勝る空を見上げた。 「慣れてきたからかな。朝も言ったけど、この道も……なんか、良さが分かってきた気がする」 一見野放図。人の手がいれられていない自然のように見えるここも、一人分の幅を確保するように砂利が敷かれてある。この細道が隠れ家に通じる秘密の緑のトンネルのように思える。もちろんそう感じられるようになったのは、もう少しだと言って先を行く人の背中があって、周囲の風景を余裕をもってみられるようになったからであるが。 一歩一歩、周囲を見ながら足を運んでいると、忘れた頃に牧から返事が来た。 「……だろ」 振り向かなかったけれど、仙道には牧が嬉しそうな顔をしている気がした。 小一時間ほど休んだ二人は食材を買うために再び家を出た。 もう風呂に入って晩飯は出前にしようという牧の提案は、『約束の煮魚、食わせたいっす。無事だった調味料とかも持ってきたし』との仙道の言に流れたのだった。 少し疲れた足取りでコンビニよりも遠いスーパーまでだらだらと歩いた。しかしスーパーにつくと日曜の夕方タイムバーゲンの活気にあてられた上に、二人でする買物は不思議に楽しくて予定外の物まで買いこんでしまった。互いの両手に下がるスーパーの袋はずっしりと重い。 「お前〜。責任もってこの食材、どうにかしてくれるんだろうな?」 「俺はちゃんと献立考えて買いましたよ。牧さんじゃん、ポイポイ豪快にカゴに突っ込んでったの」 そういわれてしまうと、なんとなく目についたものを入れていった牧は返す言葉がない。 バツが悪そうな牧の横顔を見て仙道は笑った。 「足が早そうなの先に使うようにしますよ」 「“足が早い”?」 「いたみやすい、長持ちしない食材のことです」 「調理専門用語か……」 感心したような顔に仙道はイヤイヤと手を振った。 「んな大層なもんじゃないから。あんたがサーフィン用語を子供の頃から聞いてたのと同じ。俺はガキん頃、一時期じーさんばーさんのところに預けられてたから。だからすよ」 「へぇ……。お前の祖父母はどこに住んでいるんだ?」 のんびりとした会話が日が落ちかけてひやりとする空気の中にとけていく。
仙道は田舎の祖父母宅での短い日々を思い出しながら、ぽつぽつと語った。 慣れない自分語りだったが、牧がその一つ一つを静かに口元に軽い笑みを浮かべて聞いてくれるから。自分でも忘れていたような、思い出したこともなかったことまでも、「そういえばね」とポロポロ零れ出た。 牧の家の屋根が見えはじめて、仙道はもう少し家までは遠かったはずなのにと物足りなく感じた自分がおかしかった。
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