Surely goes well. vol.01


「参ったなぁ……」
何度目になるか分からない溜息を零した仙道の額に、どんよりとした重そうな雲はとうとう雨粒までよこしてくる。ただでさえ重たいドラムバッグが雨で湿って重量を増してはかなわないと、仙道は雨を避けられる場所を探して走り出した。
「弱り目に祟り目……踏んだり蹴ったり。えーと、あとはなんかあったかな。あっ」
前方にシャッターが閉まった店を発見して庇の下へ飛びこんだ。
雨足は徐々に強さを増し、空はすっかり暗くなってしまった。3月の末。桜の蕾がちらほら咲き始めたとはいえ、雨が降ればまだまだ冷える。こんなことで体調を崩したら目も当てられない。何しろ自分は風邪薬を買う金すら惜しい身なのだ。
バッグからタオルを出して顔を拭ってから頭に被ってみる。かなり間抜けな格好ではあるが暖かい。知った顔に見られるわけでなし、と仙道はもう一枚タオルを出して今度はマフラーのように巻きつけた。

「っとに参ったなぁ……」
またも呟いたところで、反対車線の向こうから背の高い男が仙道のいる庇へ駆け込んできた。黒いジャージの上下姿から察するに、ランニング中に雨に降られてしまったというところだろうか。
少し離れた位置で呼吸を整えようと顔を上げた男の横顔を見て仙道は目を瞠った。
「あんたは……海南の、牧さん?」
「ん?」
振り向き動きを止めてじっと見返てくる顔に確信する。海南大のエースの牧紳一だと。一年前までは海南大附属高校の主将かつ、仙道のライバルともいわれていた男に間違いなかった。
間違いないはずなのに、牧の反応は鈍い。濡れた髪を後ろへまとめて手で流しながら黙っている。
「陵南の仙道っす。来月からは□□大学になるけど」
「仙道か!」
「そっすよ〜。まさかたった一年で忘れられちまったかと焦りましたよ」
「目と鼻しか見えてねーし、なんか雰囲気違うし気付けないって。俺だって焦ったよ」
取れよといわれてはじめて、仙道は頭に巻いたタオルが目元ギリギリまでずり落ちていたことや、口元まで巻いてしまっていたタオルの存在を思い出してはずした。
「あぁ、なんだ首や顔は太ってないんだな」
「違いますよ、これは太ってんじゃなくて着ぶくれ。着れるだけ着てるから」
「雨は冷たいがそんなに寒いか? 着こんでいたらタオル巻くほどでもないだろ」
「体は寒くないけど、一応用心して巻いてたんです。あ、こっち濡れてないから牧さんも拭いたらいっすよ」
首に巻いていたタオルを差し出した。
牧は「サンキュ」とタオルを借りて豪快に頭から拭きだした。

かなり濡れていた牧は拭き終わったタオルを絞った。
「これ、借りていいか。洗って返したいから、住所教えてくれ」
郵送すると続けて携帯をポケットから出す牧へ仙道は困った顔で黙っている。
「仙道?」
「や、別に濡れたままでいっすよ」
「いや、けっこう俺、汗かいてたんだよ。こんなん持ち歩かせんの、悪い」
「平気すよ」
「……陵南、じゃなくて大学のバスケ部宛てに郵送するか? □□大学だったよな」
頑なに手を出したまま答えなかったせいで誤解されたと焦った仙道は、ぶんぶんと頭を左右に振った。
「住所教えたくないわけじゃないんです。ただ……暫く帰らないというか帰れないというか」
「…? あ、引越して住所をまだ覚えてないとか?」
「や、違うんす。そうだ俺、住むところを探そうとしてるとこなんですよ」
「まだ引越してはいないんだろ?」
堂々巡りになりかけた会話中、仙道の脳内に今朝まで住んでいた家の惨状が浮かんできてしまった。
「今いる所は……もう住めないんです」
ジャージの上着を脱いで絞っていた牧が顔を上げた。そこには途方に暮れた顔の仙道が、雨空をぼんやりと見上げている姿があった。

雨宿りをしながら仙道はポツポツと今日の寝床にも困っている理由を説明し始めた。
仙道は一人住まい用の年季が入ったアパートの一階に住んでおり、今までも何度か小規模な雨漏りがあった。最初の数回は大家へ電話も入れたが、齢82歳という大家の婆様からくる返事は『古いからねぇ。晴れたら直るから』という杜撰を通り越したものだった。二ヶ月ほど前に上の階の住人と玄関先で顔を合わせた時に、二階の雨漏りは雨が降る度だという話を聞いた。大家には言うだけ無駄とあきらめて、いつか安くて今よりは丈夫なところへ引っ越そうと考えているとぼやいていた。
「考えてはいたんですよ俺も。けど、なかなか探す暇がなくて。東京にいる親とも休みが合わないし…。いつかは台風か何かで潰れるかもと思ってたけど……まさかピンポイントで俺の部屋だけゲリラ豪雨で床上浸水くらうとは」
相槌も忘れて真剣に聞いている牧へ、仙道はうつろな顔で続けた。
「床上浸水って怖いもんなんすねぇ……。なんもかんも、水吸ってぶよぶよのドロドロ。布団から本から畳みから……全部。床置きの服を入れてたボックスの中も上二段以外は泥水まみれ。小さい冷蔵庫やストーブも全滅」
「全滅……」
全く想像もしなかった話しに牧は呆けた顔のまま呟いた。仙道は返事のかわりにただがっくりと項垂れた。

大家も流石に保険会社へ連絡してはくれたが、保険が下りるまでの手続きが老婆相手ではなかなか進まないらしい。保険会社の代理店員に仙道はとりあえず実費負担でどこかで暮らしていてもらいたいと言われた。領収書があれば適正な額分であれば後から支払われる等の説明はうけた。
「けどねぇ、その代理店員ってのも冷たい人でさぁ。親のところに戻ればいいとか友達のところへいればとか。とにかく金かけんな的なことだけ言い逃げ的に伝えて帰っちまったんすよ」
「それでお前は……着ぶくれて、重そうな荷物を両手に抱えて突っ立っていたってわけか」
「最悪東京戻るしかねーけど……とりあえずこの荷物もどうにかしねーと電車にも乗れないっつか」
頷きながら「部屋決まるまで東京から毎日こっちへ通うの考えただけでダルくて」と深い溜息を零した仙道へ、牧もまた似たような溜息をついた。

漸く勢いを弱めだした雨を見つめたまま、牧はぐっとタオルを強く握った。
「俺の家に来い。こっちで住むところが決まるまで泊めてやる」
「え」
「けっこうここから遠いけど。荷物は一つ俺が持ってやるから。ほら、行くぞ」
「え、え? あの、ちょ、俺はそんなつもりで話したわけじゃ」
「そんなことは分かってる。こっちでいいか?」
下に置いていたスポーツバッグを牧は重そうに持ちあげた。
「悪いすよ。数日くらいどうにでも」
「“どうにでも”出来そうな面じゃないぞ、自分じゃ分かってないだろうがな。お、晴れ間が見えだしたな。今のうちに行くぞ。途中でまた強く降られたら荷が濡れる」
荷物を両腕で抱えると、牧は返事も待たずにランニングの速度で先に行ってしまった。
仙道は離れていく牧の後姿を呆気にとられて見ていたが、我に返ると慌てて自分も残りの荷物を抱えて後を追った。


*  *  *  *  *


途中の信号で牧に追いついた仙道は苦しそうに息を吐いた。額からは牧の何倍も汗が伝っている。
「頑張れ、あと少しだ」
「けっこう……遠い、すね。キツ……」
「荷物持ってなきゃ、それほど……あ、お前もしかして下も重ね着してんのか?」
「ジャージの下に、短パン二枚。と、ジーンズ一枚…」
「よく着れたなそんなに! 太ったと勘違いされて当然だと自分で気付けよ。上は何枚だ?」
「ランニング二枚、Tシャツ、パーカー」
「その上にジャンバーか。それじゃ見動きすらキツイだろうに…よくついてきたな」
「……の上に、ジャージをマントみたく肩にかけてます。袖を前にたらして、こう」
ジェスチャーで示されて、牧は目を瞠った。
「すまん、そこまで動きにくい格好してたとは知らなかったんだ。詫びにこれも持ってやる」
肩がけしている仙道のドラムバッグを牧が引っ張った。
「いっすよ、あと少しなんでしょ。一個持ってもらってるだけでじゅーぶんす。これ以上迷惑はかけませんて」
ニッと微笑まれて牧は仙道がとりあえず今夜は泊まることを了承したと取り、安堵して手を離した。
信号が青に変わると牧はもう走らなかった。普通に歩きだす背に仙道は、「まだ走れますよ」と声をかけたが、牧は「いい。俺も疲れたから」と返してきた。

だんだんと家や店の数が減って、海へと近づいていく。風に乗って潮の香りが強くなってきた頃に、牧が腕をすっとあげた。
「あれだ」
指差す先には緑に隠れるように一軒家の屋根が見えていた。
「牧さん家は海が近いんすね。ここからじゃバス停も遠いし、高校通うの大変だったんじゃないすか?」
歩いてくる途中にバス停が一つあったが、本数が極端に少なかったことを思い出した仙道は首を傾げた。
「高校の頃は寮生活だったから通学なんて5分かからなかったよ。大学進学にあわせてあの物件を借りたんだ」
「一軒家で一人暮らし!?」
「おう。優雅だろ」
「いいな〜、優雅っすねそりゃあ」
うんうん頷く仙道を見て牧が笑った。
「その台詞、着いてからももう一回言ってくれ」

歩けども歩けども辿り着かない。どんどん道は細くなり、とうとう途中で舗装道路が切れて砂利道になった。肩に食い込むバッグの重みに肩がいよいよ悲鳴をあげそうになった頃。
「ここから曲がると近いんだ」
あと一息だ、頑張れ。牧は軽く笑みをみせると、けもの道のような細い脇道へ入った。うっそうとした木々のトンネルをくぐりぬけると、コンクリートの塀に囲まれた二階建ての家が立っていた。
「うあ〜、やっと着いたぁ〜」
額の汗をぬぐって息をついた仙道へ牧が手を差し伸べた。今度は仙道も「あざーす」と荷物を素直に渡した。
「休むのは家に入ってからだ。ほら、あと数歩頑張れ」
「はい」
砂利と雑草をよろけた足取りで踏みながら牧についていく。落ち付いてよく見ると、コンクリートの煉瓦はところどころ崩れ、大きな家の引き戸式玄関はいかにも年季が入っている。薄いグレーの塗装に見えていた壁も昔は白塗りだったことがビシリと上に向って入っている亀裂から覗く白い塗料でわかる。
「……築、何年なんすかね」
牧は軽く肩をすくめると鍵を開け、ガタガタいう扉を力を入れて開くと玄関へ足を踏み入れた。
「さっきの、言ってくれよ。“優雅ですね”って」
薄暗い玄関で振り向いた牧の白い歯だけがやけに眩しく感じた。


居間に通された仙道は出された麦茶を飲みながら室内をじっくりと見まわした。良く言えば昭和レトロ。正直にいえば今時珍しいボロ屋は、中は案外しっかりしているようで壁や天井に亀裂などは入っていなかった。掃除もされていてこざっぱりしている。内装は昔に流行ったような地味な壁紙に古そうな家具類。床に敷かれたインド綿らしき丈夫そうなラグだけが比較的新しいように感じた。
数年前だっただろうか、牧さんは金持ちという噂を耳にしたことがあった。高校の一つ下の後輩が『海南の牧さんが、後輩二人と湘北の桜木さんに新幹線代を奢って旅行へ行った』と言っていたようないなかったような。
一軒家を学生一人暮らしで借りているのは金持ちともいえる。しかし家のボロさや調度品の古さを見るともともとこの家にあったものを利用しているようにもみえるため、金持ちというイメージからは遠かった。

二階から着替えて下りてきた牧は仙道の斜め向かいに座るとTVをつけ天気予報に唸った。
「なかなか雨雲が去らないようだな。お前が住んでたところは何町だ?」
「▽▽町です。あ、今映ってるあんな感じに俺の部屋がなってます……」
雨が去った後の町は床上浸水で被害にあった建物を映し出していた。泥でできた床のようになった家屋の悲惨さと住人の疲労した顔に、俺もあんな顔になってて牧さんが助け舟を出さざるを得ない感じだったのかな……と仙道は疲れた頭で考えた。
「あの……なんつーか俺、ちょいパニくってたみたいですんません。親と連絡ついたら金もなんとかなるから、それまでおいて下さい」
「頭下げんな、俺が引っ張ってきただけなんだから。それよりお前、金ないのか。あ、金が泥だらけなら洗えば使えるし、確か破損が1/3以内なら銀行で交換出来るはずだぞ」
「携帯と財布は机の上だったんで無事なんすけど、中身が…仕送りの三日前で」
「……つくづくついてないな」
「ご利用は計画的に、って出来てなかった俺も悪いんす。今月特に後半一気に使うことあって、今こんだけが全財産なんです」
尻ポケットから財布を取りだそうとしたが牧は「見せんでいい」と一蹴した。

携帯の充電器を牧から借りようとしたが機種が違って使えなかった。親の携帯番号を覚えていないため、仕方なく実家の電話に牧の携帯からかけるも不在だったため留守電にメッセージを入れた。
「親、多分旅行に行ってると思うんですよ……。先月の仕送りあった日に電話で旅行行く話しをされて、俺が仕送りだけ忘れないでくれたらどこでも行ってこいって言ったら怒りながら、それまでに帰るって言ってたから」
「最悪二日半は連絡がつかないということか」
「はい……最悪二日半は金欠決定す」
「そう情けない顔をするな。電気屋行って充電器買えば連絡取れるだろ」
「あ、そっすね! 携帯ショップ行ったら充電無料で出来るから、そこ行きます」
頭まわってなかったと立ち上がりかけた仙道を牧が止めた。
「こっちに雨雲流れてきてるから、今出かけるのはよせ。お前、充電器買う金もヤバイのか?」
こくりと頷いた仙道に牧は居間にあるサイドボードの引き出しから財布をとり振り向いた。
「貸しておくから好きに使え。何かといるだろ。急いで返そうとしなくていい」
突然五万円を手渡されて仙道は慌てた。
「ありがたいけど多過ぎます! たった三日でこんなに使うことなんてないっす」
一万だけありがたくお借りしますと残りを突き返してきた仙道へ牧は首を捻った。
「やるとは言ってない、貸すだけだ。それくらい持ってないと不安だろ?」
「や、んなこた全然。いつもなら二千円入ってたら平気だし」
最低五万も普段から牧は財布に入れているのかと、仙道は内心驚きながらも手を引っ込めなかった。
「いいから入れておけ。邪魔になるもんでなし。残ったらそのまま返せばいいだけだろ」
返答に窮している仙道の腕を牧は軽く押し返した。
「……ありがとうございます。五万円、三日間だけお借りします」
深々と頭を下げた仙道へ牧は「いーって。あ、充電器は買っとけよ。充電の度に店屋行くほうが馬鹿らしいぞ」と軽く返して台所へ行ってしまった。
「…………もしかして、やっぱマジ金持ち?」
一人居間に残された仙道の呟きは強くなってきた雨の音に消された。

ほどなくして戻ってきた牧が両手にカップ麺を持って「どっち食う?」と聞いてきた。
「あ……じゃあ、左を」
「ん。作っておくから荷物を二階の好きな部屋に運んでおけ」
顎で二階へ通じる階段の方をさしてまた牧は台所へと消えた。人の話しは親身に聞くしとても親切ではあるが、牧が意外にも言葉数がとても少ないことに仙道は面食らっていた。的確な指示ではあるが細かな説明がない。高校時代に神奈川代表合宿の時や打合せの時などではもっと喋っている印象があったが、あれは外での彼の顔なのだろうか。それとも招かれざる客を呼んだことを後悔しているせいだろうか。
少々気にはなったが、今この大雨にこの大荷物で放り出されても困る。言われたことに従ってなるべく邪魔にならない存在でいようと、仙道はどの部屋でもいいと言っていたのだからと、とりあえず荷物を二階に運ぶべく立ち上がった。

階下から「出来たぞ、降りてこい」と声がかかった。壁にそって荷物を並べていた手をとめて下りればカップ麺の香りが忘れていた食欲を一気に刺激してきた。
居間から続く奥の部屋が台所兼食卓だったようで、四人家族用の古い大きな食卓テーブルには二つのカップ麺と卵かけご飯と醤油が置いてあった。自分が指したラーメンが置いてある場所の椅子を引いて座ると、冷蔵庫から牛乳を出してきた牧が向かいに座った。
「こんな天気じゃ出前を取るのも悪い気がしてな。こんなもんですまん」
「いえ、十分す。ありがたく御馳走になります」
「飯と卵はおかわりあるから、好きに食え。いただきます」
「いただきます」
卵かけご飯は意外にも炊きたてのご飯で仙道は驚いた。
「美味いっす」
「ん」
一つ頷くとまた黙々と食べる牧にならい、仙道も最初の一杯とカップ麺半分を食べ終わるまでは黙々と食べた。
「飯、やろうか」
「いえ、自分で出来ます。牧さんも足しますか?」
「ん」
椀を渡されて仙道は見えている電子ジャーを開けた。やはり炊きたてで湯気がとても熱い。ご飯をよそって渡すと会釈をされた。きっと彼は部活でも後輩に何か手伝わせたりするとこうしてきちんと礼の意を表す人なのだろう。つい口角が上がってしまった。

腹が減っていたため最初は無言の食卓でも気にならなかったけれど、全く会話がないのも変な感じがして、仙道は食べ終えてから話しかけた。
「もしかして牧さん、ランニングのついでに本当はどこかで買物とか予定あったんじゃないすか?」
「別に?」
軽く首を左右にふってまた食事に戻られて、仙道は『これで会話終了ってアリかよ〜』と酷く驚いた。その顔を見た牧は慌てて箸を止めた。
「あ、すまん。予定はなかったから気にするな。いつものランニングコースだから」
「そうなんすか。けっこうここからあの場所まででも距離ありますよね。俺が止めなかったらもっと走ってるんすか?」
「日によるが、まぁそうかな。けど今日はもう引き返そうと思っていたところだった」
そうなんすかと頷いたけれど、まだ疑問を残した顔だったのが気になったのだろう、首を傾げられた。
「あ、いえ。ホントに買物の予定とかなかったんだと思って」
「そう言ったろさっき。……あ、飯か? おかず足りなかったんだろ。ベビーチーズがまだ残ってるから」
「いやいやいや、もうじゅーぶん足りました! ただ、牧さんがカップ麺で昼をすまそうと元から考えていたのが意外だったもんで。あんまこーいうの食わねんじゃねーかって勝手に思ってたから」
「あー。よく言われる。俺、飯作るの苦手なんだよ。高校時代は寮食だったし。お前は?」
「俺は親が共働きだったから、子供ん頃から勝手にあるもので作ってました。おかげで高校で一人暮らしになっても不自由はしてねーす」
「偉いな」
短いながらも心から言っているのが伝わってきて、少し照れくさくなる。
「必要に迫られてただけすよ。やってみたらけっこう実験みたいで面白くて。釣った魚もさばいてみたくなったりで」
牧が驚いた顔でこちらを凝視してきた。心なしか目が輝いているような感じがして、今度は仙道が首を傾げた。
「お前、魚さばけるのか! 凄いな!」
「牧さんが想像しているほど綺麗な出来じゃないすよ?」
「雨の勢いも夜までには落ち着くよな。今晩は煮つけ……いや、刺身が食えるな」
蛍光灯の光をキラリと反射した瞳は色素が薄くて褐色の肌や茶色い髪からも外人のように見える。見たことのない子供っぽい表情でもあり、仙道はまるで牧に良く似た別人と話している気分に襲われた。
「煮つけもできますよ、牧さんが食いたいなら」
「食いたい。沢山煮てくれよ。三種類くらい買おうか」
「や、三種類いっぺんに煮たら味が変になるんじゃないかな。牧さんそんなに煮魚好きなの?」
「煮ものなら冷蔵庫につっこんでおいたら三日は食えるだろ。三日間晩飯に困らんじゃないか」
どうやらこの人は煮魚が特別好きというより、三日間晩飯を作らなくてすむなのならば、けっこう好きなおかずの煮ものが続いても平気というタイプのようだ。想像以上に食には無頓着な感じがおかしくて、つい笑ってしまった。
「そっすね。けど俺、世話になってる間くらいは毎晩飯くらい作らせてもらいますよ」
「本当かそれ」
身を乗り出して訊ねる瞳はまともに蛍光灯の光をうけて、茶色の中にキラキラと淡いブルーやグレーの色が混ざっていてビー玉より何倍も綺麗だった。彫の深い顔立ちや日本人離れした体躯は海外の血が混ざっているせいだろうか、国籍も年齢も不詳の初めて会う青年のようだ。
何にせよ、こんなに期待丸出しの顔で訊かれてしまえば世話になっていようがいまいが返事は一つだ。
「まかせて下さい。なんなら、明日の朝食も用意しますけど?」
「っし! 決まりな!」
片腕でガッツポーズを決める彼はもう仙道の中では“厳しそうな大人っぽい海南大のエース”ではなくなっていた。


後片付けをしようとしたら「飯を作る係は片付けはしなくていい」と断られた。
手際良く片付けをしている広い背中を座って眺めていると、牧が振り向かずに話しかけてきた。
「悪かったな。俺、家にいるとあまり喋らないんだ。感じ悪かっただろ、すまん」
「あ、いえ。俺こそ、なんか色々喋って煩かったかも。すんません」
「全然煩くなんかない。飯も寮の頃を思い出して楽しかった」
あんなもんで楽しかったのかと内心驚いたが、声が楽しそうなので社交辞令ではないのだと納得する。
手を拭きながら振り向いた牧は恥ずかしそうに続けた。
「部活で一日の会話力を全部使い切っちまってるのかもしれん。もし俺がぶっきらぼうでムカついたら言ってくれ。気が抜けてるだけで、悪気はないんだ」
「そういうことなら尚更、全然気にしないっす。実は最初はちと厄介者なだけに肩身狭かったすけど」
軽い調子の中に本音を混ぜてしまったのは、俺こそが元々はお喋りではない性質なのに、一人で色々喋ってしまったのが恥ずかしかったからかもしれない。
「厄介者なわけないだろ。俺が無理に引っ張ってきたんだ。見ての通り部屋数だけはある。自分の家と思って楽に過ごしてくれ」
「ありがたいっすマジ。牧さんも俺に気ぃ遣わないで下さいね」
「おう」
腹が満たされたところでの和やかな会話が心地良かった。それは彼も同じだったようで、居間へ向かう足取りがゆったりとしたものに変わっていた。きっと一年会わなかったブランクもあり、僅かながらも緊張していたのだろう。それは自分も同じだったのだと落ち着いた今はわかる。

後ろへ続いて居間へ入って先ほど座った位置へ腰を下ろした。
先ほどは向かいに座っていた牧さんが、ちょっと俺の方へ近い位置に座りなおした。顎で先ほど自分が座っていた場所をさす。
「そこだとTVが見えにくいんだ」
「自分の家なんだから座りたいとこに座ったらいっすよ」
「だな」
俯いて口元で笑う照れた顔につられて仙道の口元にも笑みがうつる。
「晩飯までに雨、弱くなるといっすね」
「ちょっと強くてもサンダルでなら行ける」
「あの砂利坂をサンダルはキツそう……」
「慣れだ。俺一人で買って来たっていい」
「煮魚向きか刺身向きかって、牧さんわかるんすか」
「…………お前にもサンダル貸すから、ゆっくり歩いていこう」
「そこまで食いたい!?」
ついおかしくて吹き出すと、こちらをじっと見ている視線に気付いた。
「……お前、いつまでここにいるかわからんじゃないか」
「え」
「いる間に食っとかないと」
ふいと視線をはずしてリモコンをいじりだした横顔からは何も感じとれなかった。
だから先ほど、俺に去られることをもう淋しいと感じていると感じてしまったのは勘違いだろうと結論付ける。
「……俺、肉料理のが得意かも」
「肉も買う」
「うん」

天気情報と料理番組を交互に見ながら、俺達はポツポツとゆるい会話を続けた。
強い雨音と窓を震わす強風。家の周りに茂っていた木々が風で鳴く音がやけに物悲しい。
古そうな少ない家具と昔風の間取りで低い天井の家の中で、一つだけ浮いてる今風のラグ。
そのラグに寝そべる彼の横で胡坐をかいていると子供の頃のことを思い出した。この陣地からはみ出ると異世界と設定して、わざわざ狭い場所で遊んでいたことを。
──今の俺はこのラグの上が安全な陣地。彼だけが俺の相棒。

そんな子供じみた根拠のない想像をしてぼんやりしているうちに、俺はいつしか眠りに落ちていた。














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水害は本当に大変。私は二度ほど被害にあってるのでよーく知ってます。
だからって仙道をそんな目にあわせてすみません☆その分、幸せにするからね。牧が(笑)


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