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映画館の斜め前にある喫茶店で牧は勢いよく頭を下げた。 「すまん!! 本当にすまなかった……!!」 向かいに座っている仙道は「いーっていーって」と笑いながらコーヒーカップへ手を伸ばしたが、中身が空なことに気付いてソーサーへ戻した。冬でもないのに仙道がコーヒーを飲むのは食後に限られている。多分待っている間に空腹で何か一人で食べた後なのだろう。食後のコーヒーすらも飲み干すほどに待たせたことに気付き、牧は声もなくまた深々と頭を下げた。 「仕事だったんでしょ? しゃーないじゃん。牧さん飯まだなら、ここで食う? それとも別の店行こーか」 立ち上がりかけた仙道へ牧は弱く首をふった。 「俺のことなんていいんだよ……。五回目だろ、俺がドタキャンや時間が間に合わなくて流れたの。いくら仕事とはいえ、本当に悪かったよ。ごめん……」 座ったままの牧に気付いて仙道はまた腰かけた。 「映画なんてちょっと待てばすぐDVDになるからいーんすよ。チケ代だって牧さんが払ってくれてんだし問題ないじゃん。可哀相なのは損した牧さんなんだから、んな凹まなくても」 俺だって待ち合わせ時間に遅れるのは得意だもん寝坊でさ、と仙道はへらへらと笑った。 先月は仙道の誕生日だった。物欲がない男へ何を買っていいのか分からず、何枚あってもいいだろうと選んだTシャツ数枚と、『これなら観たいかな』と珍しく呟いていた映画の前売りチケットを渡した。その時に『一緒に映画なんて…なんか久々だから照れるね。楽しみっす。……もらったTシャツ着て行こうかな、なんて言ったら乙女っすかねぇ』などと、はにかんだ微笑を浮かべる横顔が牧にはとても特別なものに感じられていた。 最近の映画は上映期間が短い。二週間で終わるものもざらだ。社会人一年生の自分は自分の仕事だけでも手一杯なのだが、先輩の残業を手伝うこともまた勉強。定時終了二時間後に突発で入る仕事で予定が狂うことも今では日常茶飯事だ。 「……映画に誘うなんてまだ早かったんだ」 「へ? 成人映画でもあるまいし、何で? つか、20歳はとっくに過ぎてるよ?」 「そうじゃねぇよ……。三回だぞ、三回。まだ自分の仕事もスケジュールもきっちりできないような状況で誘うなって話だよ」 「んなおおげさな〜。どうしても今観たいのだったら一人でも観てるって。だからそんな気にしないでさ。また気軽に誘ってよ。俺だって誘うかもだし。それよかさ、飯なんだけど。俺も小腹減ってるし、俺ん家の近くのあそこ行こう。ね」 促されて立ち上がった牧は仙道の手から無理やり伝票を奪ってレジへ向かった。 深夜でもやっている、居酒屋というより蕎麦屋のようなその店は、金曜の夜だけれどそれほど混んではいなかった。時間も時間だからだろう。ほろ酔いのオッサン数人がまとめて勘定をすませて出ていくと、店はまた少し静けさを増した。 二杯目のビールを一口飲んで吐息をつくと、仙道がつくねの串を齧りながら目を細めた。 「やっと落ち着いた…って顔してる。お疲れさま」 図星をさされて牧は苦笑いを零した。なじみの店で靴を脱いで慣れた味に腹を満たされ。終わらない仕事に焦っていたのも、待たせているのが気になって苛々していたのも、やっと抜けていった気がしていた。もちろんこんなにくつろげているのは、怒りもしなければ気にもしていない様子の仙道がいてこそ、である。 牧は両手を後ろにつくと、ふーっと深く息を吐いて微笑んだ。 「お前はいい奴だよ。また助けられた」 「なんか知らんけど俺の株が上がってる?」 「上がってる上がってる。急上昇。仙道高俺安(センドウダカオレヤス)だ」 俺が円で牧さんがドル? 株価は些細なことで変わるもんだから信用ならないねぇ、と首を傾げる仙道が可愛い。 「“俺と仕事とどっちが大事?”って、お前は絶対言わないよな」 「そりゃぁ。自分だって言われたら嫌だし」 だよなーと頷く牧へ仙道が明日の天気を話すような軽い口調で語りだした。 「勤労の義務、納税の義務、教育の義務。思想の自由だなんだと権利を主張して生きてる以上は、義務をまず守らないと話しになんねー。最近は権利ばーっか主張して義務を怠ってる奴らが発言パワー持ち過ぎてウザイったらねーっすよ。俺はね〜男女関係なく、義務っつー重たいもんをケロリと背負えてるのが好きっすね。だから、そーいう人の邪魔はしない主義」 顔色も変わっておらず酔っている風には全く見えないけれど。それでも牧は首を傾げた。カウンターの下で仙道の長い脚が窮屈そうに動けば牧の膝頭にぶつかった。 「おい、脚……」 「他にご質問は? 俺ねぇ、こないだ魚住さんに褒められちゃった。宇宙人だけどマトモな地球人と付き合ってるせいか、大分マシになったって。んで、相談事までされっちゃったー」 「ほう…? お前に相談事とはねぇ。で、どんな話だったんだ?」 自分を宇宙人呼ばわりされていることに慣れている仙道と、仙道がそう評されているのに慣れている牧。お互いそこは何もひっかかることなく、素直に賞賛として受け止めていた。 四杯目は冷酒に変えた仙道はコップを軽くあげて、何故か偉そうに一つ頷いた。 「魚住さんが彼女に、もっと辛いことや苦しんでることもきちんと話して欲しいって叱られたんだって。そんで、格好悪いところなんて見せたくもなければ言ったってどうしようもないことをわざわざ話して迷惑かけたくないって。そう言い返したら、えっらい揉めたんですと」 「へぇ……」 「なんでも、二週間もツンケンされちゃって。喧嘩するよりはって距離を置いたら、どうして放っておくんだって後から電話で怒られて散々だとか言ってたよ。やだねー女は口が達者で強引で自己中で」 「おい、とんでもない決めつけ発言は危険だぞ」 牧の注意にも仙道はへーきへーきと、先ほど映画に遅れたのを軽くあしらったのと同じように流した。そうして脚だけをわざと牧の脚へと強く押しつけてくる。座っている席は丁度角にあたるカウンター席で二客分しかなく、牧の左半身は他から見えるが、右半身と仙道の下半身は死角になっている。だからといって、右太ももを仙道の熱い掌が撫でた時は牧のキモが冷えた。 「お前っ……!」 「牧さんはさぁ、なんで魚住さんの彼女が怒ったか分かる?」 叱ろうとしたところへ唐突な質問と真面目な目線をよこされて、牧の怒りの矛先が強引に逸らされる。 「……水臭いって言いたかったんだろ」 うん、と仙道は頷いた。そして真面目な顔のまま、とんでもないことを口にした。 「だけどさ、言うか言わないかの判断は本人の自由じゃん。相手を余計なことで気にかけさせたりしたくない、大事にしたいって思うのの何がいけねーの? 何でも話し合えば解決するなんて幻想だよ。かえってこじれることもある。話さないのを自分に話す価値がないって勘違いして怒るってのは。そーゆーのはさ、もう、なんっつーのかな……価値観の違いでしょ?」 コップを持つ手の人差し指をピッと牧へ突き付けてきた。 「まぁ、そうかな。うん、そうかもしれんな」 「でっしょー? 水臭い程度の内容なら喋るっつの。だから言ってやったの。自分の価値観ゴリゴリ押し付けるだけの女となんて別れちゃえって。男同士はいいよー、その点、価値観バッチシ! 魚住さんも女なんかやめて男つくんなよってさ」 あまりな極論の連続に呆気にとられ、牧は相槌も返事も忘れて呆然とした。 珍しく勢い込んで喋っていた仙道は、「名案でしょ?」と締めくくるとガクンと首が折れたように項垂れた。牧は驚いて、これ以上ないほど目を瞠った。 片手に冷酒のコップを持ったまま、それきり仙道はぴくりとも動かなくなった。 「おい……どうした?」 恐る恐る仙道の顔を覗き込めば、今度は違う驚きにまじまじと見てしまった。 「ガキかよ、電池が切れたように突然寝てやがる……」 伏せられた長い睫毛と健やかな寝息を見たのち、フッと吐息をついて小さく呟いた。 「待たされ疲れかな……。悪いことしたよ、本当にさ」 仙道の手にあるコップを抜き取ると、倒れないように壁へそっと仙道の上体を預けさせた。人目がなければ自分の肩を貸したいのを堪えて。 ちびちびと冷酒と残った二人分の肴を一人味わっていると、噂の御仁が大きな体を屈めて店に入って来る姿を偶然目にした。 牧は軽く手をあげると、魚住は意外そうな顔で牧の隣にあたる角の椅子へ腰掛けた。 「よお。こんなとこで会うなんて。久々じゃないか。忙しくしてるんだって? おい、あれは寝てるのか?」 差し出されたお絞りで顔をぬぐいながら魚住は仙道を軽く顎でさした。 「寝てる。こいつ、日本酒弱いんだな。ビールは強いからもっといけるかと思ったら、話しているうちにいきなり寝られて驚いた」 「いきなり?」 「そう。喋りが止まって、いきなりガクンと頭落としたかと思ったら寝てんだ。凄い芸当だよな〜」 「芸かあ? 何笑ってんだ。こんなのの相手してないで、起こしてタクシーに押し込みゃいいものを。あ。まさか牧も宇宙人に感化されてて、俺の理解の範疇を超える思考になってないだろうな?」 「変わった気はない」 「そうかあ?」 「おう。…まぁ、別に感化されても問題はないが」 「そう考える時点で末期だよ。つか、それはノロケというんだ、覚えておけ」 覚えておこうと笑う牧に、魚住はこいつも相当天然だと口にはしないまでも溜息をついた。 魚住は実家に用があって、その帰りにここへ久々に寄ったこと。また、慣れない一人暮らしの話などを語った。 牧もまた、慣れない仕事と苦手な先輩の話を軽く近況報告程度に話した。二人は仙道を介してお互いの様子などを耳にしていたが、直接こうして二人きりで話をするのはなかったといっていい。その割に話は合い、喋り過ぎでもなく喋らなさ過ぎもないお互いを楽に感じ、まるで旧知の間柄のようだと魚住は口角を片方あげてみせた。牧も同感と伝えるように、軽く杯をあげた。 先に飲んでいたこともあり、軽く酔いも回ってきたことだしそろそろ切り上げるかと牧が考えだした頃。 「こいつがお前と付き合いたがっていたのを知った時は、流石に止めようかとも思ったもんだが……。お前らが付き合うことは正解だったんだなって思うよ」 ポツリと呟いた魚住の台詞に牧は浮かしかけた腰を戻した。 「……同性で正解はないだろ?」 あまり賑やかというほどではない店内なので声を落として牧は問うた。魚住も同じように小声で返してくる。 「こいつはな、高校時代とんでもないちゃらんぽらんだったんだ。性格が悪いとかいうんじゃなく、自分の中にある基準ってのが変わり過ぎててなぁ。本人も悪気はないし、この面だろ。笑えば大体なんでも周囲は許してしまう。それだけにかなり手を焼いたんだ。俺は引退した後も奴のサボりも気になって、何度足を運んだことか……」 「そうらしいな。神が、あ、俺の後に海南の主将になった奴だが、陵南の主将は楽そうでいいと漏らしていたことがあった。そりゃ気になるのは仕方ない」 神のことは覚えていると魚住は頷いた。 「恐ろしいほどのマイペースではあるが、やる時はやる男だから部員は皆こいつを信じてついていった。その期待を裏切ったこともない。だが、いかんせん……自分基準が周囲と違い過ぎていて、俺のような常人には理解できない部分が多かったんだ。そこが俺には……物寂しい気がした。こいつはどう感じてたかは実際のところは知らんが……きっと、人間同士は分かり合えない、かみ合わないことが普通だと、どこか達観してるようだった」 俺や部活の奴らだけがそう感じてただけかもしれんけどな。 そう付け加えた魚住の顔は、どこか苦いだけではないやれきれない淋しさが含まれていた。 少し落ちた雰囲気を払うように、魚住は急にニヤリと口元を歪めて牧を見て言った。 「俺なぁ、昔、高校二年の頃、こいつに告白されたことがあるんだぞ。知ってたか?」 「…知ってる。なんだよ、いきなり自慢話か?」 牧にとって唯一ひっかかっている仙道の過去の話を、その当人に引っ張り出されて、知らず口調がつっけんどんになった。面白そうに、「妬いたか?」と魚住は揶揄したが、「馬鹿か」と牧は鼻であしらった。 「真面目な話するとな、俺は怖かった。性別もあるけどな、こんなに考えてることの読めない相手にさ。しかもそいつは俺の気持ちを知ろうともしない奴なんだぞ? 俺の勝手な考えでは、その、付き合うってのはそれじゃ成り立たないもんだと思うんだよ。それがだよ。“難しいこと考えないでいいっすよ。俺は会ってる時に楽しくやれれば問題ないから”って笑顔むけられても……正直、気味悪いだけだったよ」 あまりな告白の後の言葉に、流石に牧も眉間を曇らせた。 「そんな奴がだよ。お前を好きになってさ、どうやって告白したら冗談ではないことや、誠意が伝わるかなんて相談を俺に持ちかけてきたんだから……。何がこいつにおこったんだ? ってな。そりゃ驚いたよ。話を聞いていくうちに、こいつはやっと他人と本気で意思の疎通を計りたいと考えるようになったんだって分かって……嬉しかった」 「……それ、まだ残ってるんなら、俺が飲む」 牧は相槌も打たず、魚住の手元にまだ残っていた酒を指差した。魚住がそれを牧のコップへ注いだ。 「付き合いだした頃はどうなることかと思ったよ。お前がこんな得体の知れない…それは言い過ぎか。考え方のおかしい…いや、おかしいというより宇宙人というか。ん? これじゃフォローにならんのか?」 「別にいいよ。仙道の考え方が独特なのは知ってるから」 「おお、そう。“独特”な。流石恋人だ、いい表現選ぶなぁ」 肘でこづくような仕草をされ、牧は内心、いつか魚住に同じことをやり返してやると悔しがった。もちろん表情には出さなかったけれど。 「茶化すな。……それで?」 「お前が早々に奴を見限るんじゃないかと思ってたんだよ。そうなったら…更にひねくれてしまうと思ってな。こんなんでも俺のバスケット人生の中では、認めたくないが最高のエースだったから。……俺があの頃、こいつに告られて怖かったのは、理解し合えないままで一番近くにいてしまうことで俺がこいつを益々孤高の存在にしたらと、怖かったんだろう」 昔を思い返しているのか、寝こける仙道の横顔をみつめる魚住の瞳は優しい。いい先輩じゃないかと茶化し返してやろうという気持ちもおきないほどに。 今日の酒は美味いものになったな……と、牧は黙って空になっている魚住のコップに残りを全て注ぎ入れた。 くいっと一気に半分飲み干した魚住は、また独り言のように話しだした。 「それが、蓋を開けてみればどうだよ。こいつはお前を理解しようとしていくことで、驚くほど周りを見ることを覚えた。もともと頭がいい奴だから、その気になれば早いんだろうな。周りの気持ちを理解して動くのはどれほど楽で……楽しいかも知ったんだろうな。大学の試合を何度か見たことがあるが、高校の比じゃなかったよ。自由で……楽しそうだった。頼られ過ぎる部分がなくなったこともあったんだろうな。嬉しかった……けど、実は結構腹も立った。お前がもっと高校時代から、チームメイトの表面だけじゃなく内面も理解しようとしてくれていたら、ってさ」 両肩を軽くすくめた魚住に牧はふっと笑った。 「それが若さだろ。その当時からなんでも出来て完成している奴なんていないさ」 「お前は本当にこいつに甘い」 「そんなことはない」 「自覚を持て、自覚を。そんなんじゃますます付け込まれるぞ」 何に付け込まれるんだよと笑う牧へ、魚住はまたもや溜息をつくしかなかった。 |
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数年ぶりにシリーズ続編。別に設定を一から考えるのが面倒だからじゃないんだからね!
…なんてツンデレ風に言って誤魔化してみる。ダメ?(笑) 魚住に彼女が出来てます。ヒューヒュー♪ |