マタセテゴメンネ (後編)


「よしっ。もう一件行くぞ」
魚住がカウンターの奥へ「オアイソ!」と声をかけて立ち上がった。
「こいつをタクシーで運ぶから俺は付き合えないぞ」
「何言ってやがる。俺の実家はこっからすぐだ。こいつ担いだって楽勝で行ける。美味いの御馳走してやるから、ほら、立て立て」
軽々と仙道の腕を自分の肩へ回し担いだ2mの巨体が、「調理場は戦場でな。腕っぷしもなきゃ話にならんのだ」と190cmの大男をおんぶして急きたててくる。これはもう流されるしかないと、牧は苦笑いで席を立った。

着いたのは魚住の父親が経営している寿司屋だった。のれんは既に下ろされていた。裏口からまわって店内に案内される。カウンター席の他はテーブル席が三つ、奥に座敷が二つ。広過ぎず狭過ぎず、個人店ならではの細やかさが感じられる清潔で落ち着いた店内。初めて来たわけではないが、久しぶりだったのと他に客がいないのとで、少々よそよそしく見えた。
魚住が「やっぱ米袋よりは重たいわな」と呟きながら座敷へ仙道を乱暴にころがした。牧は隅に重ねてある座布団を二つ折りにして仙道の頭の下へそっと敷いた。立ち上がると口元をにやつかせている魚住と目が合う。
「……なんだよ」
別に、と肩をすくめてから魚住はカウンター席を顎でさした。そこで一杯やろうというのだろう。

てっきり珍しい冷酒がくるものだと思っていたのに、明日のランチ用に仕込んだというデザートを運ばれて驚いた。
「酒じゃないのかって顔だな。牧もけっこう飲んでたんだろ? 二人も潰れられたらかなわんからな」
「いいのか、これ食っちまって。明日困るんじゃないのか?」
「なーに、いいんだ。簡単だから、帰る前にまた仕込んでいくよ。材料もまだあるし気にするな」
「白いプリンに白いソースか」
魚住は小皿と大き目のスプーンを差し出した。
「プリンかどうだか食ってみろ」
「…ん! 美味いな。変わったプリンだ。ソースも美味い」
「だからプリンじゃねぇって。ブラン・マンジェだ。アーモンドが入ってる。ソースはアングレーズな」
「気に入ったよ、このアーモンドプリン」
「プリンは卵を使ってるから、これとは別物」
バット一面の真白なブラン・マンジェがふるふるとまだ震えている。その上に注がれたアングレーズソースがバットの上に零れていく。アーモンドミルクは面倒でも自分で作っている。まずは一晩アーモンドを水に浸し、それをフードプロセッサーにかけてアーモンドピューレにして……と長く続いたこだわりの作り方の説明は、牧の右耳から左耳へ綺麗に抜けているのが見ていて分かっていた。けれどとても美味しそうに目を細めて食べる様子で魚住は十分満足していた。
「なんか色々大変なんだな。まぁ、食べる側としてはこんな大きいのをすくって食いたいだけ皿に盛れるは、いい。たまに店でこーんな皿にこれっぽっちのデザートを出されると、一口餃子かよって言いたくなる。うん、いいよこれは。美味いし楽しい。あいつも起こして食わせてやろう」
「起こすのはもうちょっと後にしろ。残った分は手土産にしてやるから」
そうかとニコリと笑い頷いた牧を見て、魚住は一瞬でも可愛いと感じた自分にげんなりした。そのせいでつい、本来ランチでは牧が言うように小さくカットして皿に盛って出しているということを言いそびれてしまった。

残りは手土産と聞いたせいか、最初に取った量の半分もおかわりしない牧に魚住は妙な甘酸っぱさを感じてむず痒くなった。茶化したくなるのをなんとか堪えて本題を切り出す。
「もう仙道から聞いているかもしれんが……。俺なぁ、こないだあいつに愚痴を……つか、相談にのってもらったんだわ。その、ちょっと彼女とケンカしちまって。こいつは昔から女にもててたし、付き合ったりもしてたの知ってたから。少しは女心とか知ってるかなと思って」
「……あぁ。今日、少し聞いた。だが全然役にたたなかったみたいだな。価値観が違うなら別れろって言ったんだろ、あいつは」
「へ? 言ってないぞ、んなこたぁ。別の奴との話じゃないのか?」
「お前が彼女に辛い状態でいることを隠しててケンカになったと聞いたが」
「そうだ。それだよ。……俺には一言も別れろなんて言わなかったぞ? それどころかさ、」
魚住は牧から視線を外してその時のことを話しだした。

*  *  *  *  *

美味くもないが安さが取り柄の居酒屋チェーン店で、魚住は水っぽい安酒を煽った。
「あんまり飲むと明日、また酒臭いって親父さんに叱られますよ」
すっかり冷めた皮付きフライドポテトを齧る仙道が首を傾げた。
「いいんだよっ。お前まであんなわからず屋と同じこと言うな。全く、女ってのは人の苦労をどうしてああ根掘り葉掘り聞きたがるのか理解できん。聞いたからって何が出来るわけでもないくせに。かえって聞いて落ち込まれてみろ、その気分を浮上させる手伝いも疲れてる俺がしなきゃならんくなるんだぞ?」
理不尽だらけだと続けだせば同じことの繰り返しなため、魚住はまた酒と一緒に飲み干す。頼んだ食事がポテトしか残らなくなるまでの間、魚住は偶然出会った仙道を引っ張って愚痴を零して続けているのだ。
苦笑いで相槌をうっている向かいに座る仙道は手を伸ばしてメニューを眺めながら呟いた。
「由美さんも、そりゃ何か実質的に経営のことで手伝えるわけないのは自分でも分かってると思いますよ。話せば軽くなるかもって言ってたんでしょ。そーいう気遣いは可愛いじゃないすか」
「ふん……。話すことでかえって思い出して疲れたくないから話したくないんだよ。そこを汲んで聞かずにニコニコしててくれりゃ、こっちはそれで頑張れるんだ。結果、由美だって嫌な思いをしないですむ。それのどこが悪いってんだ」
魚住としても恋人の由美が冷やかしで話せと言っているのではないことは理解していた。ただ、零したい愚痴の部分と、触れてはもらいたくない自分の力量不足が複雑に絡んだことなだけに、話したくなかった。辛いのは事実だから、会っている間だけでも癒されたかった。彼女の笑顔を見ればまた頑張れると思う甘えを……口にさせないでほしかったのだ。

片手で頭を抱えるようにして唸っていると、二つのジンジャーエールを店員が置いていった。
俺は頼んでいないと言っても、仙道は「まあまあ」と一つを無理やり押し付けてきた。一気に三分の一煽れば、冷たさと炭酸がジュースのくせに安酒より美味かった。
ふうっ……と一息出てしまってバツが悪くなり、あまり考えたことのないことをふと口にした。
「男同士ならこういうことはいちいち説明せんでいいからいいよな。価値観もそう違わんし、話が楽そうだよ」
「魚住さんは男はダメでしょう、色々な意味で」
「まぁ、そうだが。でもお前だって最初から男が良かったわけじゃあるまい」
言いながら、これでは自分もいつかは男を選びたいと思っているようだろうかと仙道をぬすみ見た。だが仙道はまぁねぇと曖昧に呟いて、変なツッコミを入れてくることもなく冷えたジンジャーエールを口にした。

あんな酒では酔えないだろうと高を括っていたが、少し頭がくらりとした。久々に熱く語ったせいだろうか。明日は嫌な二日酔いをしてしまいそうだ。
そんなことをぼんやり考えていると、仙道が壁のポスターへ視線をやりながらポツリと言った。
「価値観が似過ぎてるから、次の打つ手に困ることもありますよ」
「? ……あ、お前と牧がか?」
「そう。例えばこれが、魚住さん。こっちが由美さん」
仙道は袖のスナップの凸側を俺、凹側を由美と例えてみせた。
「価値観が違うというのは、譲れる部分と譲れない部分の価値観も違うってことっすよね。譲れる部分が違うから、あえて折れてやることができることもある。男には許せないことでも、女は許せたり。逆もあるでしょ。だから、」
パチン、とまたスナップを止めてみせた。俺には絶対に着れないような鮮やかな色のチェックのスナップボタンシャツ。地味な色味ながら品の良い洗練されたシャツを不自然さの欠片もなくさらりと着こなした色男が微笑む。
「男と女は違うから。だから、はまる。はまって一つの機能をはたす。俺は男女がやっぱ自然だなって思いますよ」

意外な台詞に少々不安になって、思わず訊いてしまった。
「まさかお前……牧と別れたいとか」
一瞬きょとんとしてから、仙道はうははは!と爆笑した。
「ないない、あり得ない、全くないっす。つか、年々好きになり過ぎる自分を持て余しはしてっけど」
「驚かすなよ。さっきの話じゃ、同じ形状の男同士じゃはまらないから機能しないみたいじゃねぇか」
「あー…。言い方悪かったかな。ええと。価値観が近いからさ、さっき魚住さん言ってたけど、言われなくても分かるんですよ。これ以上は踏み込まれたくねんだなとか、甘えたいだけなんだなとか。それで満足してんだなってのも、お互いにさ。居心地良過ぎなぐらいで。だから魚住さんとこみたいなケンカはないす」
「結局ノロケか。それでお前らに何の問題があるんだよ」
問題というか……と、後頭部をかきながら仙道は眉を困ったように少し下げた。
「分かるから……居心地の良さを壊してまで、踏みこめないってのがあるかな。あと、逆にそこまでは甘え切れないっていうのも。変なプライドが邪魔してんのか、格好つけたいだけなのか、それとも両方で憶病なんかは分かんねーすけど」
「お前も牧も同じ過ぎて……遠慮しあってるというのか?」
「遠慮ではないけど」
ふっと口元で笑った顔がここにはいない牧の笑い顔と重なった。酸いも甘いも知ったような男の微苦笑に、男同士ならではの苦労もあることに魚住は遅まきながら気が付いた。
平坦なわけがない。世間から認められない関係を上手く隠して一緒に生きているのだ。俺よりもよっぽど頭が回る二人(天然と宇宙人という部分は差し引いても)ですら色々あるというのなら。俺などには想像もできないような複雑で難解な悩みだろうから……こいつらは誰に零すこともできないで一人で胸に抱えているのだろう。

今更ながらなことに気付いたけれど、何をどう言えばいいのか分からず俺は逃げた。
「親しき仲にも礼儀ありというし、そういうのもあっていいんじゃないのか? まあ、ケンカが少なくて居心地いいならいいじゃねーか」
「俺もだけど牧さんも相当頑固だから、譲れない部分でガチンコすると、けっこうキツイっすよ。容赦ねーから。それにあの人、けっこう口より先に手が出るんで。これがまた、痛くてねぇ」
「だろうよ。なんてったかな……そう、清田とかいう猿みたいな後輩が高校時代に試合会場で拳骨くらってたが、あんなんだろ? 客席まで音がしそうな」
「そうそう。ゴヅッって鈍い音すんの。マジ凹んだらどうしてくれんのってくらい痛い。女の子だったら陥没確実。殺人者だよ」
「女にゃ手はあげんだろあいつなら」
「うん。ないっすね。逆にガマンし過ぎて自分の頭殴って陥没させてそう」
ありえ過ぎると、二人でバカ笑いをした。

俺は笑いながら目頭が熱くなった。こいつらもまた、相手が抱える悩みや苦しみを知りたいのに聞けずにいると知ってしまったから。自分が本当は甘えたいところでも、相手を思って踏ん張って立っている時があることも。
確かに俺と由美は幸せかもしれない。無理に踏ん張って自力で立たなくても、違うから聞ける。ワガママや甘えを言える。そしてどこかで性別が違うからと理解しあえない部分をそういうもんだと流してしまえるから。
不器用すぎる二人が誰にも相談することもできず。いや、相談しようすらも考えずに。解決策を模索しあいながら歩んでいるのだと思うと……
「あれ? 魚住さん、ティッシュありますよ。鼻たれてる。飲み過ぎて冷えたんじゃないすか?」
ここはけっこう空調キツイからと、仙道は備え付けのティッシュBOXをひきよせた。
「一枚ずつよこすな、まどろっこしい。箱ごとよこせ」
目から水が流れないよう我慢した分だけ鼻から出て、俺は大層大変だった。
やたらに鼻をかみながら、明日は俺から由美に電話をかけようと思った。

*  *  *  *  *

牧の拳骨話しなど余計な部分を省いて、魚住は仙道との先日のやりとりをかいつまんで牧へと語った。その間、牧はただ静かに相槌をうつだけだったが、魚住には返って話しやすく……不思議と救われたような気がした。何に救われたかまではまた頭で整理はつかないけれど。

「黙っていても察してくれと考えるのは虫が良過ぎたということなんだろう。大事にしようと思ってたのも確かにあるから、話せと詰め寄られてなんだか意地になったんだな。みっともない話だよ」
思いやりあっていながらケンカ二週間越えは更に笑えるよな、と魚住は溜息をついてみせた。
「せっかくできた大事な彼女だ。そりゃいいとこだけを見せてたいだろうよ」
「俺はお前らみたいにモテ男じゃないから、一匹逃がしたら大打撃なんだよ」
ケッと少々ふざけて顔をそむけた魚住に牧は密かな吐息を零した。
「……俺もだよ。一匹逃したら大打撃だってのに……あーあ。どうしてこう、俺は駄目なんだろうなぁ」
意外にも真面目な声音に魚住は驚いた。見れば、頬杖をついて心底げんなりとした顔をしている。
「お前のどこが駄目なんだ? 何も問題ないじゃないか。仙道なんて会うたびに、ノロケかお前の自慢話しかせんぞ?」
牧は雄弁な瞳を隠すようにテーブルについた左手で目元を隠すように覆うと、口もとだけで微かに笑った。

特別な一匹の魚。逃せばもう絶対に戻ってこない、捕まえられない。他に代わりになるものなど広い世界に一つとしてないものを。
目元を隠していてすらも、そう語りかけてくるような切なくも痛々しい横顔を魚住はただ見ているしかできなかった。

俺が由美をそこまで特別に思えていないのは、まだ付き合って半年もたっていないからか。もしそこまで大事に思えてしまったら、俺もいつかはこんな風に。性別関係なく人間同士が付き合っていく中で生まれる悩みを、他人に零すこともできないほどに苦しむ日がくるのだろうか。
そんな風になるほど一人の人間を愛せるのは幸せだろうか。それとも過ぎた愛情は負担に傾いていつか崩れゆくのだろうか。

いくつもの疑問が浮かんでは、答えが出ないままに時計の針が進んでいく。この疑問に答えをくれと訊いてみたくなるけれど、俺ばかりがこいつらに甘えるようでそれも嫌だ。
何か話してくれればいいのに。大事な大事な、失うことに怯えるほどの魚へ言えないことなど、俺に話せるわけもないだろうけれど。欠片だって零してくれれば。
─── あぁ。この感情が由美の言っていたものか。


牧が軽く項垂れた。先ほどまで微動だにしなかった男が。魚住は自然と背筋を正していた。
「……う」
「え? 聞こえない。なんだって?」
「……」
「おい、牧?」
肩に手をかけようとしたところ、ガクッと牧の背が沈んだ。そんな自分に驚いたように牧は勢いよく頭をあげて魚住へ顔を向けてきた。
「すまん、寝てたようだ。何の話してたんだった?」
申し訳なさそうな顔で「何分寝てたんだろ……」と呟きながら頭をガリガリかく御仁に、一気に気が抜けた。先ほど仙道が酔いつぶれた様子を笑っていた男が、自分も人と会話中に寝てんじゃねぇかと、呆れると同時に笑いがこみ上げて魚住は爆笑した。
「そんなに笑われるほど寝てたのか。寝言とか言ってねぇよな、俺。あ、ヨダレとか……?」
口元へ慌てて手をやる牧を見て魚住は更に腹を抱えた。

他に客のいない店内では笑い声は声よりも響く。座敷に転がっていた仙道が起きたようだ。
「あれ……ここ? あ。魚住さんだ。…あー、そっか」
説明されないまでも状況を把握したようで、脱がされた靴を履いてカウンター席へやってきた。
「牛乳寒天っすか?」
「違う。白いプ……」
訂正をしかけて続きを留まったところをみると、プリンではないことは牧に認識されていたようだ。しかし魚住は助け船を出さずに素知らぬ顔をきめこんだ。仕方なさそうに牧が適当な説明をする。
「アーモンド……ブラン。アーモンドの香りのする柔らかいプリンみたいなものだ。美味いよ」
「へぇ〜、珍しいデザートなんすね。どれ、一口」
手にスプーンを持っていた牧の手へ仙道が自分の手を乗せた。どうされるのか流石に悟ったようで、牧が慌てて違う手で止める。
「変な食い方しようとするな」
スプーンを捕まれていない手で抜いて差し出すと、仙道は魚住に悪戯な目線をよこした。まるで常日頃、こうして牧をからかうのが楽しみなんですと言われている気分だ。大層ご馳走様なこった。
俺は先ほどから色々考えてみたり二人に感謝していたのが急に馬鹿らしくなって、バットを取り上げた。
「お前は食うな。食うなら家で食え。もう今日はお開きだ」
「ええ〜? 二人で店変えるまで美味いもん食っては盛り上がってたんでしょ?」 
「帰れ帰れ。あ、丁度いいサイズの容器がないから、寿司折の容器だけど文句いうなよ」
「そんなのは何でも。ほら、お前もいつまでもスプーン握ってんな。家で食えるんだからいいだろ」
まだふざけて文句をぶちぶち言う仙道を相手にせず、魚住と牧は今度は腰をすえて飲もうと約束をした。



軽く一雨降ったようだ。路面が濡れて街路灯の光をゆるく映している。雨で埃が流され、少しだけ空気が良くなった気がする。
タクシーを呼んでやるという魚住の親切を丁重に断り、二人は眠気覚ましに大通りまで歩いていた。

誰ともすれ違わない深夜。湿った空気に仙道が「蒸すなぁ……けっこうベタつく」と独り言を呟いて、ジャケットの下のTシャツの裾をパタパタとめくった。それでようやくそのTシャツが先日自分が贈ったものだと牧は気付いた。似合っていると本気で思ったけれど、今更格好がつかな過ぎて言えない。俺ってやつは毎度こうかもと軽く凹む。
褒めて喜ばせることもできないなら、せめてもう長いこと言えないでいたことの方を少しだけ伝えることにした。
「待たせて、ごめんな」
「? ……あ、映画? まだ気にしてたの? やだなぁ、しつこい男は嫌われますよ?」
「映画の話だけじゃないよ……」
まだ困った顔のままの牧に、仙道はガリ…と後頭部をかいた。また牧が「すまん」と小さく口にする。
居たたまれないのか、仙道はガリガリとまた頭をかくと溜息をついた。
「もう〜。そんならねぇ、言うけど。待たせてごめんなのは俺の方なの」
「最近はお前、そんな遅刻してこないだろ?」
「そっちじゃなくて。……なかなかチームを優勝に導けてないだろ。前、言ったじゃん。あんたが抜けたあとでも優勝してMVPに選ばれるからって。んで、インタビューん時に誰にこの喜びを伝えたいですかって聞かれたら、“俺を支え続けてくれた恋人の牧紳一さんに伝えたいです”って言うって。それがもう、今季も優勝逃して。あぁもう、格好悪ぃったら!」
「バカかお前。そんなインタビューがあるか。つか、冗談でも言ったら」
拳を見せた牧に、♪出た出たまた出た〜拳出た〜と仙道は自作の歌でおどけて笑いながらスキップをして逃げた。

「いつか、話すから」
二歩ほど先を歩いていた仙道が振り向いた。月が雲に隠れた暗い夜道で真剣な顔の恋人の意味深な言葉。何をなどと問う必要などなかった。仙道が一番知りたくて訊けないことなど、牧が大学四年になる直前に突然部活を辞めた理由しかない。
家庭の事情とだけ仙道は聞いていた。それ以上は他の部員同様に何も知らない。実業団数社が卒業まで一年ある彼をスカウトにきた噂も耳にしている。それらを全て蹴ってまでバスケの道を断念した理由は監督など退部手続き上関係する一部だけが知っている。キツイ緘口令があったようだけど、噂は立つ。しかしその噂のどれもが噂に過ぎない。本人が語る言葉しか仙道は信じようとしなかった。牧が語ってくれない限り仙道の思い描いた夢が崩れ、負った胸の傷をどうにかすることなどできはしないのだから。
「……いいよ、ムリしないで。何年先でも…俺は、待てるから」
「うん。ムリでなくなったら話す。それまでまだ……その。甘えさせておいてくれ」
秘密ではないけれど、やはりまだ経緯を詳しく話せないでいること。それが彼にとっては甘えているということになるなんて。切ないほど繊細で優しい、この不器用な彼を知っているのは自分だけ。恋人になれた自分だけの特権。ならば、何年先になろうと待つのが恋人として彼へ出来る精一杯の栄誉あるやせ我慢だろう。

甘えるのがとても下手な恋人が伏せ目がちに視線を落とす。それだけで仙道の胸は切なさに胸が疼く。
近づいて影を落とす頬へ手を伸ばすと、すり……と自ら手へ頬を寄せてきた。ささやかだけれど、これも外でできる彼の精一杯の甘え。夜道だからと。雲もないくらい暗い夜だからと己を無理に納得させて。
滑らかな頬から柔らかな唇へ指を滑らせば、控え目に唇を開いてそっと指先を舐めてくる。
「……まさかここで? 俺はいいけど」
あんたには無理じゃない?と、音のない声で囁きキスをしようと一歩踏み出せば、やはりそれ以上は無理なようで。赤くなった頬を隠すようにするりとかわした牧は仙道を置いて歩き出した。
「……さっさと帰るぞ。せっかくの土産がぬるくなる」
呟く背へ追いつき隣へ立てば、耳まで赤くした牧が仙道の手を握ってきた。熱い指先。
「今夜は泊っていけるんだろ。……たっぷり食わせてやる」
甘い誘いが夜気にのって香り仙道を包んだ。その証拠に、鼻から脳天に隠微な信号が突き抜ける。
仙道は泣き崩れたいような、それでいて今すぐに抱きしめて全てを奪いたいような複雑な思いを両方堪えた。
だがしかし、はやる気持ちだけは止められず。
「おい! 走らなくたっていいだろ。酔いが回ったらどうする。だから引っ張るなって」
「さっき寝たからへーきっす! あ、こっち曲がったらタクシー捕まえられそう」
人通りが多そうな道へ導かれそうだと察した牧が慌てて手を振りほどいた。それでも走り続ける仙道を追いかけてくる。


待たせてごめんなんて思わなくていい。
もう大丈夫そうだと思えたら、走っていける。待ってることしかできない子供ではない俺達は。
距離があろうがなかろうが。詰めるときゃ詰められる。
聞きださないのも言いだせないのも。そいつがまだベストタイミングじゃないってだけさ。


タクシーのライトが遠くに光った。手を大きく振れば、こちらへ向かって光はどんどん近づいてくる。

謝ることなどなにもない。
今の俺達が急がなきゃならないことなんて一つしかない。
そう。甘いデザートと恋人の情熱的な唇と。どちらが美味いか確かめ合うことだけなんだから。








* end *




魚住は普段力仕事的も任されているから力持ちなの。バスケから離れた牧ならお姫様抱っこされ
…ないで!それは仙道だけの特権で♪ 牧がバスケを断念した話はいつか書けるといいにゃー。

[ BACK ]