『毎度思うのだが』、と最初に思った次にはまた、『毎度毎度ってもう100年近く何やってんだ俺は』と。
同じことを延々と繰り返し続けている自分に溜息が出る。
溜息をついてしまえば、もう改めて考えるのがバカバカしくなって考えるのをやめてしまう。これもまた60年、いや、62年か?
とにかく同じくこうして考えるのをやめてからは、追いかけまわされるのも飽きて自分から来てしまうようになってしまった。
だって仕方がないだろう? 何千回言ったって、こいつは同じ台詞を何千回と返してくるのだから。
─── 『だって俺はあんたの血か、2月29日生まれで29歳の処女の血以外は飲んだら吐いちまうんだから』
そんな希少な生誕日など。まして29で純潔を守っている女など今の時代そうそう簡単に見つかるはずもない。
餓死することはない体といったって、飲まなきゃ腹は減りフラッフラで飛ぶことも出来なくなるくせに。
紙のような顔色とカサカサの肌で手にささくれをつくっている吸血鬼なんて、俺は最初見た時かなり驚いたものだ。
いくら一回の吸血で半月は腹は減らないといっても、その一回の食事というのは三人は最低でもミイラにする量が必要だ。えり好みしていられるものじゃないはず。
それでも俺に出会う前は28歳も我慢して飲んでいたそうじゃないか。
好き嫌いも大概にしろと何度叱ったか。思い出すのも億劫なので、もう思い出して数えなぞしない。
─── 『2月28日生まれの28や29歳はねぇ、吐かないけど腹下すんだよ。
何でこんなに美味しいあんたがいてくれるのに、わざわざ腹下してまで不味い血を飲まなきゃなんないの?』
そんなに狼男の血が好きならと後輩をすすめてみたら、あろうことか牙をたてる前にあいつは狼臭いと泣き出しやがった。
後輩は俺と違い立派な純血の狼男なんだぞ。俺のような魔女と狼男の混血の方が血統が低いというのに。
─── 『飲みたいのは甘くて力強く芳しいあんたの血だけ。いいじゃないっすか、あんただって血が滾りすぎて体をもてあますこともなくなるわけだし』
確かに人間の小娘三人程度の血液量を吸われたからといって体には全く問題はない。
むしろ体も軽くなって性格も穏やかなままでいられて過ごしていやすいくらいではある。
流石に月に二度もやられちゃ俺も弱りそうだとは思うけれど。それだって不死の身だから問題はなく。
ならば何故、その一度を渋り逃げ回っていたかといえば……。
─── 『吸血の時に牙から出ちゃう、人間にとっては毒だけど、不死身の者にとっては催淫となる液は俺も止めれるもんじゃないんだ。
牙が伸びると自動的に出ちゃうんだよ。でも、あんただって気持ちいいのは好きだろ?
吸血もだけど、俺は凄く好きなんだ。あんたが耳と尻尾を出してトロットロにとろけていくのを見るのがさ』
続くうっとりとしたあいつの声やとんでもない言葉を俺はむりやり思い出すのを止めた。
人間の数倍は強靭な皮膚、言い換えれば痛覚も感覚も鈍い俺が。
あいつの牙が首に沈んだ瞬間に恐ろしいほど体全てが鋭敏に作り変えられてしまうのが悔しくてかなり嫌なのだ。
まして、耳と尻尾を隠す気力まで根こそぎ奪われて、浅ましい姿であいつを求めて体を捩る自分に変えられる屈辱はたまらない。
毒が切れた後に痴態を繰り広げた自分を思い返せば、必ずといっていいほど猛烈な羞恥に襲われ消失したくなるからだ。
それなのにまた俺は。こうしてノコノコと来てしまっているのだから始末に負えない。
暇つぶし。それ以外に答えが浮かばない。……いや、浮かばないようにしている。
「おい、そろそろ起きろ。今夜の月は随分とお前好みな色をしているぞ」
城の最上階、豪奢な作りの巨大な窓を豪快に開け、侵入し放題という不用心なこの部屋は無駄に広い。
特に大きな声を出したわけでもないのに、声にエコーがかかってしまう。
コンコンと椅子代わりにしている棺をノックすれば、中で寝返りをうつ衣擦れの音がする。
「……やっと満月になったの? 来て、くれたんだ。嬉しいよ」
寝ぼけた声が聞こえてきて腰を上げると、棺の蓋を乱暴に押しのけて長身の吸血鬼が起き上がる。
「あぁ、晩餐に相応しいライトアップですねぇ」
のんびりと月を見上げて微笑んだ頬は随分と青白い。
まさか前の満月以来ずっと寝たままだったとか言わないよなと不安になり、思わず頬に触れてしまった。
「熱い……。あんたの身体はいつだって熱くて気持ちがいい。
この指の下に流れる血潮はもっと熱くて、しかも甘いんだから……贅沢でたまんない人だよ」
うっとりとした表情で手をとられ、そのまま引き寄せられた。俺よりも数センチ高い長身のせいであれほど大きかった月が俺には見えなくなる。
シャツのボタンなどちぎられる前にはずしておいたから、こいつの冷たい手はすぐに俺の首筋を捕らえる。
「起きしなに一回、ご馳走になっていいかな」
牙を伸ばしながら俺の首筋にそっと押し当てて耳に囁く。その声音はねっとりと優しく絡みついてくるようだ。
どうぞと素直に言うのもおかしい気がして、そっけなく了承を返す。
「一回で飲みきってくれた方が俺としちゃ面倒が減ってありがたいのだが」
驚いたように目を見張りまじまじと見返してくる顔は、こんなに間近でみても石膏像のように曇り一つなく白く美しい。
「まさか。お楽しみを一回で済ませるなんて有り得ない。
第一、もし俺が一回で済まそうとしたら一度に大量の毒が回るから、流石のあんただって一瞬で衝天しちまうよ」
人間の女をこいつが食しているところへ偶然出くわしたことがあった。それがあいつとの初めての出会。
牙が首に刺さると同時に女の全身は痙攣し、牙が沈みきった二秒後きっかりに絶命した。とてつもない快楽に全神経・脳・心臓が三秒しか持たないらしい。
涎と鼻水と涙でぐじゃぐじゃになった白目を剥いた美女が五分で博物館に飾れるようなミイラになっていくのは珍妙なショーのようだったが、思い出して楽しいものでもない。
「もし俺をミイラにするとしたら、何分かかるんだ?」
真面目に聞いたのだが、「馬鹿なこと訊かないでよ」と、腹立たしそうにきつく抱きしめられた。
「衝天ってのは、催淫効果が強すぎてすぐ耳と尻尾も出ちゃって天国イっちまうよって話。
大体ねぇ、俺だってあんたほどの極上の血を一気に大量飲みしたら妊娠するって」
「妊娠!? お前、雌雄同体なのか!?」
驚いて顔を覗き込めば、「んなわけないじゃん〜! 数え切れないほどベッドを共にしてるあんたが何騙されてんのさ!」と盛大に爆笑されてしまった。
「冗談ですよ、冗談。雄の吸血鬼が妊娠なんてどこの世界にあるんすか。雌だって異種と交わっても0.1%も妊娠出来ないってのに」
何を聞いてもはぐらかされ笑われて流石に腹が立った。
まわされていた腕を力で跳ね除ける。本気になったらこいつなど俺の力で引き裂いてやることなど造作もない。
しかし引き裂いたところですぐ元に戻られてしまうのだから意味もなかったりする。
どうしようもないと溜息も出るというものだが、自分も同じなのだから溜息すら出すのも無駄なこと。
「帰る。お前は役所でも行って2月29日が誕生日の29歳の女でも探しに行け」
「そんな〜!! 軽いジョークじゃないっすか、怒らないでよ。ね。ごめんったら。ヤダよ、待ってよシンイチさん」
慌てて追いかけてくる靴音が棺の蓋を蹴飛ばしたらしい物音と重なる。
その音の大きさに驚いて振り返れば、長い足をもつれさせて長いマントの裾を踏んづけ。今まさに転ぼうというところだった。
あまりに漫画のような場面を見てしまい、咄嗟で腕を伸ばしてしまっていた。
先ほどとは逆で、今度は俺の胸に長身が収まった。ぎゅっとしがみついてくる力は異様に強い。
「何やってんだお前。夜目がきかんわけでもなかろうに」
「だって。だってシンイチさんに嫌われたまま、次の満月まで会えないなんて、そんな怖くて辛いの我慢すんのヤダよ」
二百年以上生きてる吸血鬼とは思えない、とんでもなく情けない素直過ぎる台詞がやけに胸にくる。
「いつも満月が終わって帰っていっちゃったあと、淋しくて悲しくて追いかけたくて、でも昼の日差しん中を追ってくことはできないから……。
だから俺、我慢限界の五日後から次の満月まで、ずっとふて寝して耐えてるんだよ」
嫌な予想が当たらずとも遠からずでげんなりした。それが顔に出ていたのか、みるみるうちに葡萄色の瞳が涙で満ちる。
「……そんな泣きそうな顔すんなよもう」
「この城にいる間は。いや、満月の夜だけでもいいから俺のものでいて。俺だけが好きなふりをして欲しいんだ。
城の外にあんたを待つ奴が他にいても……その存在を俺に教えないで。騙し続けてよ、俺がいつか朽ちる日まででいいから」
長い睫毛が涙が零れるのをギリギリでブロックしている。涼しげで端正な美貌は悲しげに曇っている。先ほどまで食事する気で伸ばしていた牙も引っ込んでしまっていた。
純血種の吸血鬼はいまや世界中探しまわっても片手で足りるほどしかいないそうだ。
その高貴なる純血種のこいつが、何故こうも亜種の狼男など求めるのだろう。
命ずればこぞって希少な処女を手土産に、己を少量だけ吸血してくれと申し出るバカな人間は沢山いるだろうに。
純血種が行う少量の吸血であれば不死の肉体だけを手に入れることも90%は可能だそうだから。……本当かどうかは俺は知らんが。
面倒のない不死の者を相手とする吸血はセックスとセットだ。血液提供者が死なない限りは本能がそうさせる。
……亜種の俺は味は良くともお前の身体には本当はあまり栄養にはならない。
手土産付きの面倒な人間の相手が嫌なら純血の不死者から吸血すればいいものを。
それでも俺と出会ってからは、俺以外からは飲まないと言い張り続けるこいつが哀しい。
そっと唇に唇を重ねてやると、弱々しく微笑まれた。
「飯も食わずに寝過ぎだお前は。ぐだぐだ言ってないでさっさと食え。今回こそはシャツをダメにされないようボタンも外してきた。
加えて、たっぷり飯も食ってきてやった。お膳立てしてきてやった俺にせいぜい感謝しろ」
葡萄色の瞳が歓喜で真紅へ。より美しく淫猥に変化していくのを間近で見る特権はなかなかに、いい。
「……飯、どのくらい食べてきたの?」
「鹿と牛、一頭ずつ。鹿が思ったより小ぶりだったんでな」
そりゃ安心だけど、ちょっと食い過ぎじゃねぇ?、と笑う男の歯列からはしっかりとした二本の太い牙がはみ出し始めていた。
首筋にぐっと先端が刺さってくる。それだけで膝が笑い出す。
根本までしっかりと到達した感覚だけで牙が埋まった部分からビリビリと電流のような刺激が全身を駆け、下半身が熱く疼きはじめる。
しっかりと吸血が始まって理性が遠のく前に。今夜こそ言わせてもらえるだろうかと微かな願いを込めて口を開く。
「アキラ。満月だけじゃお前の身体は弱る一方だから、半月の夜も」
早い吸血により突然大量に流れ込んできた毒にあっとう間に犯され、俺の口から強烈な快感による咆哮が迸る。
─── 言葉はまた、いつもと同じところで終わらされた。
長すぎる命の時間を持て余す俺達にとって退屈しのぎはとても大切で重要だ。
その退屈しのぎの相手であるお前がこんな食事のせいで徐々に弱りはて。
いつしか僅かばかりに零れた朝日に霧散したならば。
俺も銀の弾をくらって冥途へ付き合ってやってもいいという程度には。
アキラ。お前が好きだと伝えられる日を、霧散する前に俺へ与えてくれ。